考えたこと2

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I.Q.
1994年に「星に想いを」という邦題がついた映画。
WOWOWでやっていた。ちょっとネタバレだ。

メグ・ライアンが主演女優。
アインシュタインがアメリカに亡命してからの設定。
1950年くらいかな。

アインシュタインをはじめ、4人の有名な物理学者が出てくる。
彼らの世間離れした会話も面白い。

そのアインシュタインの姪で、数学者という役どころがメグ・ライアン。
すでに実験心理学者と婚約しているのだが、彼はサルやネズミ、大学生を相手に実験をしており、物理学者から見て鼻持ちならない権威主義者として描かれる。
アインシュタインは姪の婚約者が気に入らない。

老人4人でドライブしているときに、車が壊れ、近所の整備工場に入る。
そこにいたのが、ティム・ロビンスが演じる整備工。
彼と話して気に入ったアインシュタインが、姪とひっつけようとして、偉い学者3人といろいろと画策する、というストーリー。

他愛もないロマンスのストーリーだが、そこに50年代の核開発競争が絡んだり、変な老人4人組が絡んで興味深い。
原題の「I.Q.」というのが、アインシュタインのことを表している。

1994年というと、89年にベルリンの壁が崩壊して、西側が東側に勝ったという時代。
日本はバブルが崩壊して、これから不良債権の処理をしよう、という時だった。
冷戦が終わって、何となくまだいい時代だと思っていた。
そういう時代背景があらわれている。

バカでかいエンジンを積んだ、キャデラックなどの流線型の古いアメ車が出てくる。
ぼくが生まれる前の時代。

アインシュタインをはじめ、茶目っ気の多い4人の物理学者がこの映画のキモ。

世間のステレオタイプとは反するかもしれないが、物理学者をいい学者、実験心理学者をヨクナイ学者として対比している。
人間の心をわかっているのは、当時流行った実験心理学者ではないという皮肉も込められているのかもしれない。

なかなか楽しめる映画だった。


| | 映画・舞台 | 22:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
AIスピーカー
AIスピーカーとか、スマートスピーカーとか言われているが、あれは声をかけて調べ物をしてくれたり、スケジュールを教えてくれる製品のことだ。
スマホでも機能はあるが、これはスピーカーとマイクロホンだけでできており、文字の入力はできない。
音声アシスタントとか言われている。

発売しているのは、グーグルやアマゾン。
日本ではLINEも出している。
中にはディスプレイが付いているものもあり、そうなると据え置き型のスマホのようなものだ。

このAIスピーカーがどれくらい使われているかを調べた結果、日本ではたった3%だったらしい。
だいぶ前から売っているし、もう少し利用されているのかと思ったが、やけに低い。
ヨドバシに行くと、パソコン売り場の一角にちゃんとコーナーがあって、たくさん置いてある。

利用の用途は、音楽再生、天気の確認、アラーム、暇つぶし…となっている。
ぼくが常々思っている、「話し相手」にはまだまだならない、ということだ。
挨拶などはできるので、暇つぶしにはなるが、本格的な会話は無理なんだろう。

もちろん、AIスピーカーだけ買っても、家にインターネットの無線がなければ、役に立たない。
インターネットにつながって、初めて機能するようになっている。
そういう意味ではペットロボットのaiboだって、常にインターネットに繋がっているのだから同じことだ。
あれは携帯と同じ、simカードが入っているはず。

インターネットは、こういった便利なものをつかうためのインフラになった。
そのことも、AIスピーカーが普及しないハードルになっているのかもしれない。
AIスピーカーを買ったら、スマートフォンでBlurtoothなどを使って設定を自分でする。
だから、そういう初期設定ができないと、使えない。

それにしても、10%以下というのは少ないなあ。

AIというのなら、もう少し賢くならないといけない。
Vtuberのキズナアイ(これは人間が話している)くらいになったら、いいのだが…。
それは到底ムリだろう。

あと5年くらいでどこまでいけるか。

期待しよう。


| | 考えたこと | 21:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
Maasの戦略
トヨタのMaaS(Mobility as a Service)ビジネスモデルの紹介があった。
MaaSというのは、自動車などの移動手段を1つのサービスとして捉え、新たなビジネスモデルとして作り出す、というような意味だろう。
以前からトヨタが「e-Palette」という次世代電気自動車でコンセプトを出していたものだ。

e-Paletteは、もちろん自動運転車。
去年の10月に発表された、ソフトバンクとの合弁会社であるモネ・テクノロジーズでは、小型バスの形をしたe-paletteで移動中に料理を作り、できたてを販売する、というサービスを発表しているとのこと。
他にカフェのサービスなども考えられている。

今の通販では、注文を受けたら大きな物流センターから、最寄りの物流拠点に品物を運び、そこから小型トラック等で家まで運んでいるが、その小型トラックの代わりにe-paletteを使う、というモデルもある。
これはラストワンマイルと呼ばれていて、一番合理化がしにくいところ、と言われている。
家に近づくほど小口の輸送になるから、難しい。
これを自動運転車で代替えするという考えだ。
もちろん、自動車はピンポンを押して到着を知らせることはできないから、ネット経由でスマホやタブレットに連絡することになる。
全てはインターネットのインフラが前提になる。

これは出歩くことができない高齢者の利用が多い、スーパーの宅配などにも利用できる。
実際アメリカではそういう形態のスーパーも出始めている。

e-palette自体を店にしてしまう、という案もある。
動くコンビニだ。
これがほしい、ということをスマホで連絡すれば、勝手にこちらに持ってきてくれたりする。
人がいらないから、24時間でもOKだ。
移動しながら販売すれば、店舗が不要で、コストも下がる。
この形態で石焼き芋を売るとか、採りたての野菜を売るとかいうビジネスモデルもある。

パーソナライズされたバスみたいな使い方もある。
オンデマンド通勤シャトルバスというようなもの。
駅から勤め先までの移動だ。

こんなふうに、車での移動をサービスと考えると、いろんなビジネスモデルができる。
実際、どれくらいがいつ頃実現するかはわからない。

ただ、こうなると、トヨタばかりでなく、クルマ自体が売れなくなるだろう。
今のように自動車が走り回っている社会は、どうなっていくんだろうか。

トヨタのMaaSがうまくいった暁には、いろんなe-paletteが走り回っている社会なのだろうか。

便利になるとは思うが…。



| | 考えたこと | 23:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
声のトーン
最新の脳科学の研究結果では、「声の中の「感情的な要素」は、聞き手の脳のリラックスと健康にとって重要である」という。
要するに、声のトーンはとても重要だ、ということだ。

脳は声を聞いただけで、明るさや元気さを判別できる。
その人の声を初めて聞いたとしても、ある程度そういう判断がつくのだ。
絶対的な声の高さではない。
その人の声の範囲で、高めで大きめの声かどうかだ。
脳はそのあたりの判断を一瞬でできる。

亡くなった落語家の桂枝雀も「声のトーン」は大事だと言っていた。
なかでも「スレ声」とか「かすれ声」というのが特徴的。
それらを意識して使い分けることで、笑いを取っていた。

面接の時に部屋に入るときの第一声は、声のトーンを上げよう、と注意する。
店でアルバイトをしている学生には「いらっしゃいませ」の声だ、と説明。
バイトをやっている学生にはそれでわかる。

だいぶ長いこと面接の練習もやっているが、声のトーンに気をつけている学生は少ない。
普通の声でいいと思っているか、意識していないか、どちらか。
これは大事というと、ふーん、という顔をする。

ただ、難しいのはあまりにもわざとらしい声になると、嫌がる場合もあるということだ。
脳はそんなところまで判定できる。
どこのシナプスがつながったら、そういう判断ができるのはわからないが、初対面でそういう判断ができるのは、大したものだ。

人間の声は物理的には空気の振動。
それを鼓膜の振動に変えて、脳に伝える。
その途中でどういう分析をしているのか。
きっと表情や姿勢も総合的に判断しているのだろう。
それらによって、その人の標準的な声というのが、推定されているとしか思えない。

人間が当たり前にできることが、コンピューターには難しいというのはこういうことだろう。
声の周波数分析をしても、なかなかわからない。
表情とか、体格とか、いろいろと他の情報も手助けしているように思う。

それがAIにできるようになったら、ある程度判定も信頼できそうだ。

でも、まだまだ遠いだろうなあ。



| | 考えたこと | 21:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
ドラムかギターか 2
数日前に書いたドラムか、ギターかというアンケートが終了した。
投票数は386票まで増えたが、結果は変わらずドラム64%、ギター36%という結果。
やっぱりギターは人気がない。

ギターという楽器は、手軽で持ち運びができ、どこでも演奏できて、譜面が読めなくてもコードを覚えれば弾くこともできて、値段は安いし、いい楽器だと思う。

管楽器は単音だが、ギターはそうではない。
弦が6本あるから、一度に6つの音が出せる、というのは素晴らしい。
構造が簡単だから、いろんなサイズがある。
ネックの長さやボディの大きさ、子どもでも弾けるミニギターもある。

弦はスチールか、ガットか選べる。
今はフォークギターのサイズのガットギターもある。
弦の太さもいろいろなバラエティがあり、押さえる力が弱くてもいい細い弦ができている。

エレキギターか、アコースティックギターかも選べる。
大きな音が出したければ、エレキギターとアンプを使えばいい。
これも昔ならお金がかかったところだが、かなり安くなった。
入門セットなら、2万円もかからない。

さらに、エレキギターの場合は、いろんなエフェクトがかけられる。
メタルのような歪んだ音も出せるし、ジャズギターのようにクリーンな音も自由自在だ。
80年代には、まだまだ値段が高かったが、今はそれらの機材も桁違いに安くなった。

と、つらつらギターの良さをあげたが、カリスマ性がなくなったものは仕方がない。
フェンダーの社長も書いていたが、今はギターヒーローがいなくなった。

音楽のジャンルも変わってきたのだろう。
ヒップホップなどはリズムが命だ。
だから、ドラムの方が倍の人気になるのか…。

たしかにエレクトリックドラムなら、安価なものは3万円もしない。
設置場所さえあれば、ヘッドフォンで練習できて、練習ソフトなどもある。
音もしないし、夜でも練習できる。
昔は家でドラムがたたけるというと、広い家で音を出してもOKな、金持ちの持ち物という感じだった。

しかし、今はアコースティックなドラムセットでも4万円以下で買える時代。
少子化で子どもが使えるスペースも広くなったのかもしれない。
ドラム普及の条件が整っているのだろう。

あのフェイスブックのアンケートは若い層が答えているのだろう。
今はヤマハは管楽器に力を入れているから、ブラス女子が多いのかもしれない。
ブラスバンドにはギターはないからなあ。

意外と太鼓の達人などのゲームが影響していたりするかもしれない。
リズムを刻むのは、人間の本能に訴えるものだ。
その楽しさをゲームで知った世代が、ドラムを始めたいと思っているのかもしれない。

ギターはどうなっていくのだろう。



| | 考えたこと | 22:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
自動車保険
今年の自動車保険は納得がいかない。
車の安全装備の基準がサポカーという形でできているのに、それに相当する普通車は3年間だけ割引という扱い。
なんで3年間なのか。
その機能は車にずっとついているにも関わらずだ。
軽はずっと割引されるのに、どうして普通車は割引されないのか、ちゃんとした説明をしてほしい。
業界横並びで、やられているから、保険会社を変えてもどうにもならない。

調べてみると、損保業界の売上の半分は自動車関連。
任意保険の売上に頼っているのだ。
だから、その収入が減ると困るから、普通車の割引を3年に限っているのだろう。

ウチの車は3年以上経っているから、サポカー扱いでも対象外。
ほんとに腹が立つ。

こないだ、SONPOホールディングスがカーシェアリングに参入するという記事があった。
いずれ、損保の収入の半分近くが激減する、という予想が立つからだろう。

カーシェアリングは、必要な時だけ、車を使うという仕組み。
1台の車をみんなで分けて使うということだ。
必然的に、保険は走る分だけになる。
それ以外は車を使わないのだから、当たり前だ。
パーキングに止まっている時は保険も要らない。

CASEという言葉は、自動車業界ではよく言われるが、「ネットにつながる、自動運転、シェアリング、電動化」という意味。
電動化は保険には関係ないが、自動運転とシェアリングは影響が大きい。
自動運転になると、事故は激減するはず。
そうなると、保険料も激減する。

また、書いたようにシェアリングも大きい。
今は台数当たりで取っているが、それはだいぶ減るのだろう。
おまけに自動運転で保険料そのものが安くなる。

損保会社は自動車で儲けるというビジネスモデルを変えないといけない。
実際にサポカーの事故が減ったという統計が出てくると、当然そうなる。

若い人たちは車を持たず、シェアリングで済ます。
免許すら持たない人もいる。

SONPOホールディングスはシェアリング事業に参入した目的は、どんな形で保険を使えるか、明確にするためだという。

今、金融業界では比較的人気のある損保業界だが、こう考えると見通しは暗い。

しかし、ちゃんと事故率が減る分は保険料を引き下げてほしい。


| | 考えたこと | 23:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
AKB48
今年はAKB48の総選挙はやらないらしい。
いろんな事情があるのだろうが、人気が落ちてきたことも一因という記事もあった。
表向きの事情は、NGT48メンバーの暴行被害事件ということだが…。

総選挙は2013年にテレビの視聴率が20%を超えたが、去年は11%まで落ちている。
長期的に落ちてきているのが事実。
AKB48がスタートしたのが2005年。もう14年も過ぎた。

その間、ネットはどんどん伸長した。
最初は秋葉原のオタクが握手会などで会える、というのが売り。
そういうマイナーなファンだからこそ、たくさんいても、名前を覚えて応援する。

しかし、テレビの世界に入ると、そういうのは難しくなる。
何人かが有名になると、そのタレントにどうしても注目するようになり、全体のアイドル性が薄れる。
まさにそういうことが起こっているのだろう。

握手券や投票券ほしさに、同じCDを何枚も買うというバカげたことが流行った。
総選挙の威力があったから、CDも売れた。
それも、チャート業界にビルボードが参入して、ダウンロードなどの再生数も入ったチャートが主流になり、AKBはランクダウンした。
実数の人気になった、ということだ。

そうなってしまうと、オタク路線では苦しい。
ほんとうに売れないと、上位には入れない。

オタク文化の聖地、秋葉原で生まれたAKB48は、テレビでメジャーになってしまって、結局オタクからも見放されてしまったのだろう。
あの大人数で、似たような顔ばかりでは、飽きられても仕方ない。
儲けるためには、メジャーにならないといけなかったし、それをCDの付録の総選挙の投票券に頼った結果、今度は見せかけの人気におぼれてしまった。

あんなにたくさんのメンバーのグループは、これからは出てこないだろうと思う。
それこそ、小さな劇場でステージをやるのには意味があるが、テレビではだんだん難しくなる。
どうやって生き残るのか。

ここ数年が勝負だと思う。



| | 考えたこと | 00:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
田舎あるある
ぼくは神戸生まれでずっと阪神間で暮らしている。
世に言う、都会のレベルだ。
だから田舎のリアルな話は、友人やテレビなどでしか知らない。

しかし、そういう話は相対的なもので、東京の都会から見れば、ぼくらの住んでいるところは田舎に近くなるだろう。
絶対的な田舎とはどういうものか、難しい。

たとえば、過疎で自治体自体が消滅しかかっているようなところは、田舎というより過疎地になると思う。
産業がなく、老人しか住んでいないというところもそうだ。
田舎というのは、ある程度人数がいて、産業があり、生活が成り立つところ、という感じ。

2桁国道を走っていると、そういうところを通ることがある。
目立つのは、イオンモールだ。
町外れの国道沿いにあったりする。
ちょっと場違いな感じもあって、思わず目につくのだ。

そう思っていたら、「田舎」についての記事が目に止まった。
「青春はチャリでジャスコデート」というのが見出し。
ジャスコはイオンの前の名前。ジャスコデートというのは、ジャスコのモールでデートをする、ということ。
田舎の街外れのイオン(昔のジャスコ)モールの大きなビルディングは、そんな感じがする。

その記事は田舎出身の記者が書いているのだが、ジャスコにはマクドナルドもあるし、ゲームセンターもあるし、プリクラもあったという。
移動手段は自転車で、ジャスコに行き、マクドを食べておしゃべりし、ゲーセンに行き、プリクラを撮り、フードコートでメロンソーダというのが当時のデートコースだったという。
こうなると、田舎におけるモールの役割は大きかったんだと思う。

ジャスコはそんなふうにして、田舎に大きなモールを作って、人を集めた。
それが今のイオンの成功の元になっているのかもしれない。

人は生まれる場所や時代を選べない。
生まれた時代、生まれた場所で、生きていく。

記者の「青春はチャリでジャスコデート」は充実していたのだろうと思う。

どこで過ごそうが、青春を謳歌した人にとっては、青春はいいものなのだ。

「青春」という言葉自体が、もう死語になってしまったが…。



| | 考えたこと | 21:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
街角のペシミスト
ぼくはずっと楽観的な方だと思ってきた。
楽観主義者はオプティミスト。
「オプティミスト」という響きが好きだ。
何とかなる、というのが基本。

しかし、年をとってくるとだんだんそうもいかなくなってきた。
理由の一つは、先の時間は有限だと意識せざるを得なくなってきたからだ。
何とかなるためには、時間も必要だから、それが若い頃のように無限にあると思えないと苦しい。
もう一つは、世の中のことについていろいろ知ってしまったからだろう。
何ともならないことがある、ということも知った。
だから、時には悲観的になることもある。

楽観主義者の反対は悲観主義者、ペシミストだ。
そういえば、ユーミンにも「ペシミスト」を歌った曲があった。
「街角のペシミスト」という。

マイナーで始まるが、途中メジャーになって、マイナーに戻る、何ともいえない雰囲気の曲。
夢があるが叶わず、享楽的に生きている女性。
しかし、いつかはそれを卒業していく…という歌だ。

ユーミンも昔そういう経験をしたのだろう。
平凡だけはイヤ、といいつつ、平凡になっていく。

「どこへ行くのあなた 胸にくすぶる 夢の炎 人は消せない
不安な明日を 笑い飛ばしても みんな街角のペシミスト」

若い頃にそういう屈折した経験を持っているから、あんなにたくさんの楽曲ができる。

ぼくは若い頃、ラッキーだったのかもしれない。
ずっとオプティミストでいられた。

しかし、歳を重ねると、ずっとオプティミストではいられない。
世の中は、そんな脳天気なことばかりではいかない。
それが真実だと思う。

今は「街角のペシミスト」なのだ。





| | 考えたこと | 18:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
イチローの引退
東京ドームでの大リーグの試合のあと、イチローの会見があった。
夜の11時半になってもドームから帰らないファンに、グラウンドで手をふって応えた。

ずっと安打が打てず、しんどかったのだろう。
結果を残してなんぼの世界で、それを残し続けてきたイチロー。
日本でも、アメリカでも記録を打ち立ててきた。

そのイチローも、ついに引退。
まだまだやれそうだが、彼が決めたことだ。
去年、試合に出られなかったのが、影響したなどというと、イチローに怒られそうだ。
試合に出なくとも、常に身体を用意することは怠らなかったという。

いろんな記録を作ったし、大リーグの若い選手たちで彼に憧れていた人も多い。
同じ日本人として、誇らしい。

毎日同じようにカレーを食べるとか、専用の機械で毎日身体を作るとか、いろんな伝説があった。
年をとって、白いものが目立ち、短髪になった彼を見ると、「野球道」というような言葉が浮かぶ。
どことなく、お茶目ではあるが、「僧」というようなイメージもある。

日米通算で4367本のヒットを打った。
最後の打席はショートゴロ。
試合の後、マリナーズの選手みんなとハグしていた。

「今日のゲームを最後に、現役生活に終止符を打ち、引退する」と自分で言った。
キャンプ終盤に引退を決めたという。
やはり大リーグは厳しい。
開幕戦までは出場が決まっていたが、そこから後のことはオープンだったとのこと。
それがこんな結果(無安打)になって、やはり引退しよう、と考えた。

それまでは自分が喜べればいいと思っていたが、ヤンキースに行ってから、ファンが喜んでくれることが一番の喜びになった。
貫いてきたことは、ストイックな野球に対する愛。3年目までは野球は楽しかったが、そこからは苦しかった。
自分の実力以上の期待を背負ったりしたのだろう。

何度も「おかしなこと、言ってます?ぼく?」と聞き直していた。

最後にヒットを打って、結果を残したかったとのこと。
それは正直な気持ちだったと思う。
それでも、普通なら去年で終わっていたところを、マリナーズが自分に今年、こういう機会を与えてくれたことは大きなギフトだった、という。
そこで結果を出せなかったから、引退ということだろう。
潔い言葉だと思う。

引退会見でも涙はなく、さすがイチロー。

「後悔などあろうはずがない」と言い切った。
常に練習を怠らず、精一杯のことをやってきたからこそ言える言葉。
厳しい大リーグのビジネスも見え隠れするが…。
それにすら、感謝して、バットを置く。

お疲れさま。




| | 考えたこと | 23:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
スマホは必需品
最近の新製品はスマホを持っていることが前提になってきた。
必要最小限のコントロールだけ本体でやって、残りはスマホでコントロールするというもの。
機能を付け足すことは簡単だが、その機能のスイッチやボリュームなどをつけるとコストが上がる。
だから、それをスマホでやると、安くて機能が豊富になる、という仕組み。
これはこれでいいことだと思う。

こないだ、忘れ物を防止するタグという新製品があった。
これはアプリを入れて登録しておけば、スマホとタグが離れたら光と音で知らせる、というもの。
読んだ時に、スマホを忘れたらどうするんだろう、と思ったが、そもそも持って出る時にスマホを忘れていたら音と光で知らせてくれるから、大丈夫だとわかった。
なかなかいいかもしれない。

最近のヘッドフォンも機能が豊富になり、スマホでコントロールできるものが増えた。
ノイズキャンセリングの細かい設定などだ。特に打ち消したい周波数を設定できたりする。
ヘッドフォンなど、スイッチの付けようがないから、これもなるほどと思った。

最新のギターアンプもスマホで調整する。
というか、スマホ(タブレット)を持っているのが前提で、それがなければ機能のほとんどが使えない。
スマホやタブレットが使えない人は、買えないということだ。
そういう製品はクラウド上にいろんな音色を持っていて、そこからダウンロードして使うことができる。
そこが魅力になる。

老眼がきつい年寄りには、スマホはきつい。
あの細かい字を見ているのは大変だ。
だからどうしてもタブレットになる。
これは必然だろう。

さらに、それをキャリアの電波を使ってやろうとすると、お金もかかるし大変だ。
Wifiがあることが、どうしても前提になる。
あのペットロボットのaiboだって、Wifiがなければ飼えない。

IoTなどという、全てのものがインターネットにつながる、というのは、Wifiがあることが前提だと思う。
携帯が新規格5Gになっても、屋内ではWifiを必要とすると思う。
共存を前提にしているのだ。

今のWifi(家庭内LAN)の普及率は、推定で7割程度だという。
そんなに高いのかというのが実感。
でも、それくらいはいっているかもしれない。

だからこそ、日本はIoTの先進国にならないといけないんだろう。

技術者は足りるんだろうか…。

| | 考えたこと | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
ドラムか、ギターか
フェイスブックでヤマハがアンケートをやっていた。
「この春始めたい楽器は?ドラムか、ギターか?」というものだ。
ドラムとエレキギターの写真がでていて、そこでどちらかに投票するというもの。
ヤマハをフォローしている人に表示されるんだと思う。

どれくらいの年代がヤマハをフォローしているのか、わからないがあと6日で投票は終わる。
今の所148票だが、ドラムが64%、ギターが36%という結果。
以前、これから始めるならどの楽器?でも書いたが、最近のアンケートではギターの人気が低い。

どう考えてもドラムの方がお金がかかるし、練習場所もとるし、大変だと思う。
ほんとにギターの人気が下がっているんだろうなあ。
エレクトリックドラムが出てきて、安くなったのもあるだろう。
練習場所も、エレドラならヘッドフォンで静かにできるし。

何度か書いたが、ぼくの学生時代のギター人気から考えると、隔世の感がある。
ぼくらが中学校のころ、近所の大学生の多くがギターケースを持って歩いていた。
中には空のケースを持って歩いている人もいるのではないか、と思うくらいだった。
フォークソングの全盛で、「五つの赤い風船」や「ロック・キャンディーズ」が活躍していた頃。

ティーンエージャーの時代はそういう時代だったから、何となく今もそれが続いているという錯覚がある。
もう時代は変わっている。
あのころ、持って歩いていた人たちの多くが一時のブームで止めてしまったのだろう。
確かに、持って歩くタイプのハードケースは滅多に見なくなった。
楽器店でもギターの面積は減った。

それでも、時々見るのはリュックのように背負うタイプのソフトケース。
アコースティックではなく、エレキギターのタイプだ。
今は女子が持っていることが多い。

フェンダーの調査にもあったように、時代はギタ女。
中学の時に、女子にどうやってFのコードを押さえるのか?と聞かれた。
親指はネックの後ろだから、指は4本しか残っていないのに、6本の弦を全部押さえる事になっているからだ。

「人差し指で1フレットを全部押さえて…」と言うと、「それはムリ」と言われた。
どうも、ネックの幅が広いガットギターで、指自体が届かないということだったのだろう。
中学生くらいなら、そういうところも難しい。

たしかにエレキギターなら、女子がつまづきやすいFのコードも押さえやすい。
昔のように、エレキギターは不良、という偏見もなくなった。

それにしても、これから始めるとしたら、ドラムの方がギターより人気があるという事実。

年をとったギターファンは、もっとギターの良さを広めよう!




| | 考えたこと | 21:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
卒園式というイベント
評議員をやっている関係で、幼稚園の卒園式に行ってきた。
去年、運動会にも行って、予想はしていたのだが、やっぱりなあという感じ。

以前「呼びかけ」でも書いたが、卒業式という「式」がどんどんイベント化している。
子どものためというよりは、大人のためのイベントだ。

ぼくは幼稚園の卒園式の記憶はない。
卒業式で記憶にあるのは小中高だ。大学の卒業式は終わった後で証書を取りに行った。
ぼくらの時代の卒業式は、君が代、蛍の光、仰げば尊し、校歌を歌ったこと、答辞、送辞、一人ずつ卒業証書をもらう練習をしたことくらいを覚えている。
答辞や送辞は学年の代表がやることで、自分には関係ないことだったから、要は歌を歌って、証書をもらう、という式だった。
ある種、厳粛な雰囲気もあった。
回りの先生がそういう雰囲気だったと思う。

時代はだいぶ変わったと思う。
一人ずつ卒園証書をもらうのは同じだが、もらった後、その卒園証書を見せるように持ち、親の席の方に歩いていって、段の上に登り、一人ずつ「○○ができるようになってうれしかった」とか一言話して、席に戻る。

その儀式が終わった後、今度は一年間の行事を一つずつ先生が言って、おなじみの割りぜりふ。
卒園児を4組に分けて、みんなで言う。
よくたくさんのセリフを覚えられたものだと感心する。

その後、年少組が入ってきて、また歌を歌う。
今度はお母さんも入って、掛け合い。
練習の時にすでに泣いているお母さんがいたとのこと。
最後に誰が作ったのか「さよならぼくたちのようちえん」という歌。
泣かせる歌詞が並ぶ。

これでようやく終わりかと思ったが、最後に一人ずつ卒園児が退場する。
一旦前に10人ずつ並んで、そこから一人ずつ順番に、卒園証書の時と同じく段の上に立って写真を撮ってもらってから降りる。
保護者席はスマホやビデオの人が多いから、ぼくはずっと拍手だった。
全体に無音の部分は少なく、感動を盛り上げるBGMが流れていた。

人数が少ないからこそできる、という面はあるが、1時間半ほどかけてやらされる園児はちょっと気の毒だ。

小学校の運動会の行き過ぎた組み体操も根っこは同じ。

どうしても自分の経験と比べてしまうが、式というのはイベントではない。
卒業式は厳粛なもの、という伝統があったと思うのだが、それはどこに行ったのだろう。
ぼくは、何となく厳粛な気持ちで、別れを迎えるという感じだった。
仰げば尊しの歌詞がなかなかいい、と思ったのもあの時だ。

今の卒業式は「式」というよりショーだと思う。
卒業生たちはショーを演じさせられているようなものだ。
どうせ忘れてしまうから、構わないというようなものだが、あれだけのセリフを覚え、歌を練習したのだから、それは覚えているかもしれない。

ショーが悪いとは言わない。
それを望んでいる人もいるのだろう。

でも、やっぱり式は式らしくした方がいいとぼくは思う。




| | 考えたこと | 23:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
円周率31兆4000億桁
グーグルが円周率の計算を31兆4000億桁までやったらしい。
最新のクラウド技術を使って、計算力を証明した。

円周率は円の周囲が直径の何倍かということを計算したもの。
コンパスとメジャーがあれば、誰でも測ることができる。
でも、ことはそう簡単ではない。
だいたい3倍ちょっとということはわかるが、そこから先は難しい。

円周率が3なら、円と内接する六角形と同じ外周になるから、明らかに足りない。
円の外側に外接する多角形との比較で、3,1ちょっと、というところになった。
そのへんから円周率と人類の戦いが始まる。

円周率は数学のいろんな所に出てくる。
数学会では有名な「オイラーの公式」にも出てくるのだ。

計算を実行した技術者は日本出身。
筑波大学で学んだ時の恩師が、もとの円周率計算のタイトルホルダーだった。

これまでも、円周率円と正方形で書いた。

本当に不思議なのは、31兆4000億個も数字が並んで割り切れない。
終わりが無いことは証明されている。
有理数でも無理数でもない、超越数というものだ。

数にもいろいろあるが、どんな方程式の解にもならない、独立した数。
定義は至極簡単。
ギリシア時代から問は始まった。

3.14にちなんで、31兆4000億で計算を止めたのだろう。

終わらないことがわかっているからこそ、記録に挑戦できる。

また次の記録を聞くことができるだろうか。




| | 考えたこと | 22:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
スーパーのロボット
フランスのニュースで、スーパーに設置されたロボットのニュースがあった。
1m70cmくらいの高さで、足の部分は掃除機ロボットを大きくしたようなもの。
イメージとしては、ルンバの上に薄い柱を立てたようなものだ。

スーパーの棚に沿って移動し、どこの棚が品切れしているかを倉庫に連絡する。
複数のセンサーが縦についていて、それで画像で品切れを判断するらしい。
人やものを避けて、店を巡回する。

向こうのスーパーは広い。
巡回ロボットから連絡を受けて、人間が倉庫から品物を持ってくる。
持ってきた従業員は、倉庫は遠いからチェックして持ってくるのは大変だったが、ロボットが手伝ってくれるので楽になった、と言っていた。
インタビューしていた局の人は、人間の仕事を取っているのでは?と言っていたが、経営者も従業員もそういう見方はしていなかった。
あくまでも協働するロボットということだ。

品物の数やロボットの大きさを考えると、品物を持って補充するロボットは合理的ではないのだろう。
品切れのチェックはロボットに任せ、人間が補充するというシステム。
まだまだ、品物を持っていって補充するロボットはコストが高くなるのだろう。
千種類以上もあるような品物の倉庫で、品切れのものを探し、持っていって補充するというロボットは、だいぶコストが高そうだ。
倉庫も設計し直さないといけないだろう。
今のところは、チェックをロボットに任せ、人間と協働するのがベストという判断。

デジカメの発達がどんどん進み、今や機械の目はすごく正確になった。
棚から商品が減っていたら、それを判断するくらいのことはできるのだろう。
焦点距離で判断しているのか、見え方で判断しているのか、やり方はわからないが…。

こういう1人前以下のロボットはどんどん増えてくるのだと思う。
働く人を楽にして、結果的には高齢者が働けたりする。
この手のロボットは、高齢化社会では普及すると思う。

0.3人分とか、0.5人分働くいうロボットだ。
人とペアで仕事をする。
「相棒」という名前で売り出し、年老いた水谷豊とペアで仕事をしている、というのもアリだ。

自動車産業が縮小すると言われているが、この分野は明るい。

フランスに先を越されている場合ではないぞ。



| | 考えたこと | 12:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
自動車産業の将来
ツイッターを見ていたら、国立開発研究法人新エネルギー・産業技術総合開発機構というところが2017年6月に出した資料が目に入った。
日本とアメリカ、欧州、中国の産業構造を比較したものだ。
それによると、日本は自動車産業しか売上の大きな商品がないという状況。
ただし、素材産業は強い。
まあ、誰がどう見ても自動車産業が日本を支えている、という状況だろう。
昭和の時代は、これに電気産業もあったのだが…。

もとマッキンゼーの大前研一は「シェアリングと自動運転化が進めば、売り上げの規模が10分の1になる」と言っているらしい。
当分10分の1にはならないような気がするが、確実にその方向に向かっているのは事実。
おまけに次世代の自動車を支えるIT技術では、アメリカが強い。
早々と電気自動車に舵を切っている中国も怖い存在だ。
結局、自動車産業を支えている会社群が、引き継ぐべき次の産業を考えていかないといけないのだろう。

もちろん個別の会社では、そういう計画を立案しているのだと思う。
電気自動車化でエンジンが減少すれば、エンジンを形作る部品を作っている会社や、排気系の部品を作っている会社は、それらの技術を使って新しい領域に出ていかないといけない。
その過程で潰れるところも出てくるとは思うが…。

大前氏の言葉を信じれば、その他の部品のメーカーも先は危ない。
自動車産業は裾野が広いので、それだけ影響も大きい。

ぼくが以前勤めていたタイヤの関係もどうなるのか…。

ジャンルを広げるのは一つの方法だろう。
産業用や大型のタイヤは価格も高く、そう簡単には作れない。
大きいので、IoTにも向いている。

ゴムという特異なものの用途を広げることもアリだろう。
ゴムを使う産業では、タイヤが一番大きいと思う。
その資金力を使って、ゴムが使われていない領域を開拓するのはどうだろう。
ロボットの関節みたいなものには、向いていないのだろうか。

そんなふうにして、いろんな会社が自動車が減っていくことを前提に、次の事業領域を考えているのが「今」だと思う。

会社の舵取りをする人は大変だ。

自動運転とシェアリングが車の未来を決める、という感じだ。
都市部では、若い人たちは現実に車離れをしていると思う。

未来は今から始まるのだ…。


| | 考えたこと | 22:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
大学スポーツ協
スポーツ庁が3月1日に大学スポーツの統括組織「大学スポーツ協会(UNIVAS)」を発足させた。
去年の日大アメフト部の事件などもあり、大学スポーツをもっと「まとも」なものにしよう、ということで作られたと思う。

しかし、複数の有力大学が参加を見送ったとのこと。
その中の1校、筑波大学の永田学長が、なぜ参加しなかったか、ということを言っている記事があった。
それによると、「学生競技連盟(学連)、さらに中央競技団体(NF)までが大学と同じ正会員として加わった組織になってしまった。それが納得できない最大の問題」だという。
大学と、運営組織である「学連」や「NF」は違う、ということだ。

「大学は学生アスリートの人間としての総合的な成長を一番に考えなければいけません。それに対して、学連は大会や試合の主催者として競技の日程を優先させる必要があるし、NF傘下の組織として日本チーム、選手を強くすること、競技力向上が大きな目標になります。」

根底には、競技を強くしよう、強い選手を選ぼう、という考えと、大学生として守らなければならないルールがあり、それを決めていくべき、という考えの対立があるということだ。
長くなるが、永田学長の言葉を引用する。

「例えば、UNIVASでは一定以上の学業成績を残さなければ試合や練習に参加できないルールの導入を検討します。とても良い取り組みだと思いますが、大学側がB以上などの基準を決めた結果、有力選手の多くが試合も練習もできない事態になれば、学連側からもっと基準を下げてください、と求められるでしょう。しかし、UNIVASの趣旨からして、これはそもそも大学と学連が相談して決める問題でしょうか。公平な競技環境の実現や学生らしい生活を送るための練習時間や練習日数の制限などでも、同じ問題が起きるでしょう。
NFが学生から日本代表を選ぶ際、大学には何の相談もないのが現状です。学生の成績や授業の履修状況などまったく考慮しないで、選抜して代表合宿に参加させ、海外遠征にも連れて行く。本人も普通は喜んでそれを受け入れ、周りのチームメートはうらやましいと思い、一般の学生たちは「彼はなんのために大学にいるのか」と感じる。これでは学生アスリートを自分たちの仲間として応援する気など起きないでしょう。

米国の事情はまるで違います。各競技で一発勝負で争われる五輪代表選考会は、UNIVASがモデルとした全米大学体育協会(NCAA)が承認しなければ、開催することさえできません。各大学の学長が自校の学生の出場を認めないからです。学生を縛りたいわけではありません。大学には学生の将来をともに考える責任があるという考え方が根本にあるのだと思います。」

まことに、そのとおりだと思う。
ぼくのアメリカに対する知識は、ほとんどドラマから得ているのだが、よく「この科目でいい成績を取らないと試合に出られない」とかいう話がある。
ドラマの中では、かなり厳格に言われているのだ。
それがもとでドラマ中では殺人事件が起こるほど。

今回モデルになったアメリカのNCAA(全米体育協会)は、建前として、全人格教育(Total Person Program)の考えに則って、学生アスリートのサポートプログラムの自己評価と報告を義務付けている。
こういうのが、実情は別としても、アメリカのエライところ。

一方、文科省が今回作ったページでは、NCAAはこういう説明。

「全米大学約2300校中約1200校が加盟。ルーズベルト大統領からの大学スポーツの改革の要請を元に発足(IAAUS)。競技規則の管理だけでなく、大学スポーツクラブ間の連絡調整、管理など、さまざまな運営支援などを行う。
NCAAとしての収入は約1000億円/年(2014)
規定に則り、各カンファレンス経由で各大学に配分される。カンファレンスでのビジネスもあり、産業として成立している。
大学スポーツ全体の収入は約8000億円/年(2010)程度と推定。」

要するに、今回のスポーツ庁の考えは、大学スポーツを元にもっと金儲けをしよう、というものなのだろう。

UNIVASの設立趣旨は、それをボカしている。
「大学スポーツの振興により、「卓越性を有する人材」を育成し、大学ブランドの強化及び競技力の向上を図る。
もって、我が国の地域・経済・社会の更なる発展に貢献する。
「卓越性を有する人材」…知・徳・体(生きる力)を備えた、身体面・精神面と学業面で優れた人材」

文科省の管轄であるにもかかわらず、大学の役割は明確でない。
スポーツ振興、ぶっちゃけて言えば、金儲けが目的なのだ。
結局は天下りを増やすことを考えているのだろう。

参加を見合わせた大学はエライと思う。




| | 考えたこと | 20:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
「忘れない」だけ?
3月11日は東北大震災の日。
朝からニュースは「震災を忘れない」の一点張りだった。
新聞もそういうスタンス。
原爆の日のことも書いた覚えがあるが、マスコミの「…を忘れない」というキャンペーンはちょっと胡散臭いと思う。
もちろん阪神大震災も同じ。
今になっても「忘れない」と言っている。

宮城県女川町に「蒲鉾本舗高政」という会社があるらしい。
そこの社長は、「震災の時に冷凍庫にあった2万個のかまぼこを無料配布し、人々の命を救ったことが話題になった」とのこと。
エライ人だと思う。

その社長がツイッターで、3.11でつぶやいたことが話題になっている。
ツイート内容はこんなもの。

「3.11に向けて毎年2-3月はたくさん取材依頼が来るが、今年は8割以上お断りした。
まだまだ道半ば系、震災を忘れないで系、困ってます系、こんなはずでは系。
「女川で私はそう思って無いです。取材受けてもいいけど、勝手な構成にしないでね。ナレーションでどうにかするのも無」
大体いなくなる(・ε・」

「それと、局の報道部じゃなく外注に多いかなあ。
「親が死んでいてこういうことやっている女子高生(女子中学生)いませんか?」
「3.11関連なんですが、何かネタ無いですか?」
てのも無くならない。
知っててもあなたに教えるわけないじゃない( ͡° ͜ʖ ͡°)」

「忘れていいですよ。
教訓を残して、システムやインフラを整備すれば。
意識していない時に災害が起きてパニックになるのは当たり前。
その時にキチンと機能するものが無ければ、「忘れていない!」人も結局亡くなります。」

「僕らが何をしたかではなく、彼らが何を伝えたいか。
それが本質なのだと思います。
前者と後者が完全に一致するとは限らない。
これはメディア批判ではなく、本質論。」

ぼくが最近災害の後の報道で、違和感があるのはまさにそういうことだ。
災害でなくなった人や、財産を失った人は本当に気の毒だと思う。
その人たちのことをどうこう言っているのではない。

マスコミが災害を「ネタ」にして、単純なお涙頂戴とか、何でも批判とか、そんな方向にいっていることに違和感を感じるのだ。
だからこそ、この社長も「まだまだ道半ば系、震災を忘れないで系、困ってます系、こんなはずでは系」などを断っているんだと思う。
実際に被災地でそんな事を思っているのは、非常に少数派であったとしても、マスコミはそこに群がって取材する。
そうではない、という主張をしても、勝手に構成を変えてナレーションを入れてしまう。
そんなことが違和感の元だと思う。

実際、阪神大震災のとき、1月に震災が起こったがその後オウムの地下鉄サリン事件が起こり、震災の報道は大幅に減った。
当然サリン事件のインパクトは大きく、ニュースソースとしても上だった。
連日連夜、オウムのサティアンが映り、上祐が登場した。

結局マスコミにとっては、災害は単なるニュースソースの一つなのだと思う。

ある意味、今は平和な時代なのだろう。
民放の収益が悪化し、予算が削られ、TV番組が外注化され、安易な番組作りに走っているのもある。
震災は大変だった、今でもこんな人がいる、というような報道なら、どこからも文句が来ない。
最初からストーリーありきなのだろう。

この社長は、勇気を持って発言したのだと思う。

実際、単に「忘れない」ということに、感傷以上の重みはない。
実体験もしていない人を「語り部」にして何の価値があるのだろうか。

それよりも、この社長が言うように、「教訓を残して、システムやインフラを整備」することのほうが、どれだけ大事か、ということだ。
それらを検証するのが、マスコミの役割の大事なところだろう。

「忘れるために、災害が起こっても大丈夫なように教訓やシステムやインフラを整備する」ということだ。

異論はあるかもしれないが、そっちが正論だと思う。
人は忘れるものだし、忘れることでしか癒せないこともある。

リスクはゼロにはできない。
阪神大震災の時にも思ったが、人間の力ではどうしようもない事もある。
肝心なのは、少しでもそれらの被害を小さくすることだ。

南海トラフ地震は、いつかは起こる。
しかし、それが起こる前からハザードマップを見て、引っ越しする人はほとんどいない。
人間はそういう生き物なのだ。
災害の時間軸と、人間の生活の時間軸は違いすぎる。

それが阪神大震災のときの、ぼくの教訓。




| | 考えたこと | 20:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
デジタルトランスフォーメーション
今国会で騒いでいる統計の問題は、もとはと言えばCOBOLのプログラムミスだと聞いた。
COBOLというのは、技術系のプログラム言語がFORTRUNだったころの言語。
つまり、古い言語で書かれていて、今どきの人たちはそのミスに気づかなかったということらしい。
まだまだパソコンの時代ではなく、大型コンピューターの時代だった。

通常使う言葉と違って、プログラミング言語は移り変わりが激しい。
このホームページを作っているのはHTMLという言語だし、それ以外にC++とかJAVAとかいろいろある。
なぜいろいろあるのかと言うと、分野ごとに得手不得手があるからだ。
コンピューターのできることが増えたこともある。というか、いろんな言語ができたから、できることが増えたとも言える。
そういう歴史をたどってきたプログラミング言語の中で、まだまだ古い言語が残っている。
それが冒頭に書いた、COBOLというようなもの。

IT投資をちゃんと行っていれば、コンピューターの入れ替えも頻繁になり、必然的に古いプラットフォームで動かない言語で作られたものは消えていく。
投資の中に古いものの書き換えが含まれており、それが処理速度等を上げていく。

厚労省の統計をやっている部署が、COBOLを放置していたというのは、何となくわかる。
役所のIT化はだいぶ遅れている。
IT化を進めれば、人を減らさないといけないからだろう。
民間では当たり前に行われていたことが、一部の人たちの仕事を守るために、遅れてしまう。
これは学校法人も同じだった。
その象徴が年金事務所のようなところだった。

話がそれたが、その古いプログラミング言語で書かれたものが残っている、という問題がある。
経産省によると、

「老朽化した既存システムが残存した場合の経済損失は2025年以降、毎年最大12兆円に達する」

ということらしい。

デジタル化を進めていくことを「デジタルトランスフォーメーション」という。
略して「DX」。
経産省はDX推進ガイドラインというのを発表した。

ITに明るくない経営者が多いのは、ついこないだ経団連の会長室に初めてパソコンが入った、という事実が示している。
これは日本が世界に遅れた原因の一つだと思うのだが、それが現実だ。
それを取り返すべくやっているのが経産省のDXだと思う。

まず、一番遅れている役所(公務員)の意識改革からやるべきだと思うのだが…。



| | 考えたこと | 21:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
宇多田ヒカル
昨日、ケーブルテレビで宇多田ヒカルの去年のライブの録画を見た。
2018年でデビュー20周年。
彼女はデビューが早かったので、まだ36歳。
イギリスに住んでいるとのこと。

ライブのミュージシャンはみんな外国人。
イギリスで練習して来たのだろう。
打ち合わせの様子なども映していたが、英語は上手だ。
さすがに海外暮らしが長いだけのことはある。

20年前、彼女がデビューした時には、ぼくもCDを買った。
あの時は、藤圭子の娘ということが先にたった。
ぼくらの年代はファンであろうとなかろうと、藤圭子の名前は知っている。
「圭子の夢は夜ひらく」は、歌い手の名前が入っている珍しい曲だろう。

宇多田ヒカルというのは、「光る歌だ」というのを意識してつけた芸名かと思っていたが、本名だった。

昨日のコンサートで彼女を見ていると、デビューのときにはあまり思わなかったが、母親の藤圭子に似ている。
目元のあたりはそっくりだ。

2010年から2016年まで活動休止していた。
この間に結婚、出産をしたらしい。

幼い頃から日本とアメリカを行き来して、音楽の英才教育を受けたとのこと。
昨日のライブでも、15歳でデビューできたのは親の考えもあったから、と言っていた。
会場には40代、50代と思しき人もチラホラいた。
やっぱり、あの人達は藤圭子の面影を見てるのだろうか。

曲としては、デビューアルバムしか知らない。
昨日は新しいアルバムの曲もやっていた。
いい曲もたくさんあるんだろう。

でも、ぼくにとってはAutomaticとか、First loveとか、最初のアルバムの曲がよかった。

バックのミュージシャンはみんな40代以上に見えた。
同年代や若い人は頼りなく感じるのかもしれない。

宇多田ヒカルは藤圭子の娘。
本人はこういうフィルターで見られるのは、最初は嫌だったんだと思う。
藤圭子を知っている世代は、そういう見方をしてしまう。

それでも、昨日のライブの最後の挨拶で、両親にありがとう、と言っている姿を見ると、ようやく乗り越えたと思う。
それほど、藤圭子のイメージは重かったのだろう。

一皮むけた宇多田ヒカル。
まだまだ若い。
| | 考えたこと | 22:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
セラピー犬
病院で子どもたちを癒やす、セラピー犬のドキュメンタリーを見た。
セラピー犬になるためには、1年間の訓練が必要らしい。
噛んだり、舐めたりするのは厳禁だし、かならず看護師の言うことを聞かないといけない。

毎日、病院を訪問して病室を回る。
重症で動けない子どもや、痛みがある子どもたちでも、セラピー犬が来たら顔がほころぶ。
これから手術に向かう子どもを見送る。
手術室に入る子どもをずっと見守る姿は、まるでそのことをわかっているようだ。

研究によると、オキシトシンという物質(愛情ホルモンと言われている)は親しい人間と接することで分泌されるが、イヌが飼い主と接する時にも分泌されるとのこと。
アメリカのサイエンスに、日本の研究者が投稿していた。

長い長い年月を経て、イヌと人間の間に絆ができたということだ、
手術を終えて、痛みが残り、歩くのが嫌な女の子でもセラピー犬と一緒なら歩ける。
家族のようなものだ。

老人のリハビリにセラピー犬が付き添うところもある。
脳梗塞の後遺症で歩くのが困難な病人も、イヌと一緒なら歩けるようになる。
意識レベルが低い老人の患者でも、セラピー犬を見ると「かわいい」などと話す。

そういうわけで、セラピー犬を導入する病院も徐々に増えているらしい。

テレビに出ていたセラピー犬はラブラドールのような大型犬。
亡くなった哲学者の池田晶子も、大型犬は人間に近いと言っていた。
中型犬や小型犬は、愛玩動物の要素が強くなるのだろう。

11歳のラブラドールは、人間で言うと80歳。
だんだんと足が弱くなっている。
それでも、待っている患者のために水中ウォーキングや、ボールを使って筋トレしている。

えらいものだ。
人間のために働くことを、自らの喜びとしている。

ネコではムリなんだろうか…。




| | 考えたこと | 17:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
還暦祝の会
一昨日はぼくの2年後輩のN君が定年退職ということで、宴会があった。
2年前にぼくもしてもらったが、早いもので、彼が入社して38年。
無事定年を迎えられて、めでたいことだ。

集まったのは、彼よりも年上の人ばかり。
ぼくは下から2番めだ。
一番上はぼくが入社したときの課長でもう80歳。
まだまだ元気だったので、安心した。

70歳で畑仕事をやりながら、ハーフマラソンをやっている人もいる。
毎週プールに通っている人、毎日ジムに行っている人、ゴルフに行っている人…。
会社の人たちだから、たいがいは65歳で2度めの定年をして、もう何もしていない。
だからこそ、健康には気を使っている。

隣に座った人は、少し前まで観光でバンコクに行っていた人。
バンコクは、ちょうど日本の40年前という感じだと言っておられた。
日本車が9割で、街が活気に溢れ、若い人がたくさんいる。
親日的で、日本語で声をかけられることも多かったと言っていた。

みんな近況報告をしていたが、継続して働いている人はぼくを除いて1人だけ。
その人は東南アジアの会社に再就職して頑張っている。

向かいに座っていた人に、何時頃寝るのか聞いたら、8時頃だという。
4時頃起きて、本を読んだり、Youtubeを見たりしているとのこと。
健康的というか、なんというか…。

年をとったら朝が早いというが、8時に寝たら早く起きるのは当たり前。
その先輩たちは、現役の頃は夜更かししていたのだから、だいぶ生活習慣が変わっている。
さすがにその年になると、子供は独立しているから、もう夫婦だけになる。
その影響もあるんだろう。

毎週のように出張ばかりして、一緒の釜の飯を食った仲間。
その人達がみんな年をとった。

もう二度とあんなことはできないが、懐かしい宴会だった。



| | 考えたこと | 16:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
新・鬼平犯科帳
グーグルは大したものだ。
ぼくが池波正太郎の映画や番組に興味があることを知っていて、ニュースを届けてくれた。

フジテレビの関連会社が「鬼平犯科帳」の新シリーズを制作するとのこと。
この会社は、時代劇チャンネルを運営している。
新たにキャストも入れ替えて作るということだ。

鬼平犯科帳は池波正太郎の作品。
日本のハードボイルドの最高峰だと思う。
悪には厳しく、善には優しい長谷川平蔵が主人公。
俗に、鬼の平蔵、鬼平と呼ばれている。

特徴的なのは、改心した泥棒を密偵として使うというところ。
この密偵と鬼平のやり取りが見どころ。

しかし、長谷川平蔵というとぼくらにとっては1989年スタートの中村吉右衛門版だが、新しいキャストはどうなるのだろう。
若手の時代劇俳優でいうと、東山紀之あたりだが、ちょっと線が細い。
日本人が椅子で生活するようになって、時代劇の体型でなくなってきたのかもしれない。

今でも鬼平犯科帳は毎日のようにCSで再放送されている。
人気があるのだろう。
時代劇は、昔見た高齢者にとっては安心して見られる。
頭を使わなくていい。

それにしても、中村吉右衛門の存在感は大きい。
あれほどのはまり役はない、という感じ。
誰に白羽の矢が立つのだろうか。

2023年に完成するらしいが、変に現代的に改変されても興ざめだ。
若いイケメン俳優など、使ってほしくない。
やっぱり、着物が似合う、どっしりした感じの、日本人的な顔の役者でないとなあ。

あと4年。今から誰になるのか、楽しみだ。


| | 考えたこと | 20:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
卒業旅行
いつの頃から始まったのかわからないが、高校や大学の卒業前になると、仲の良い友人たちと「卒業旅行」に行くという慣習ができた。
ぼくはもともと出不精だったので、そんな旅行に行ったことはない。
大学を卒業したのは1979年だが、その当時は「卒業旅行」という名前もなかったと思う。

調べてみると、2016年のカルチャー・コンビニエンス・クラブの調査で「卒業旅行へ行った割合が最も高かったのは18歳以上29歳以下の55.3%であり、30歳以上49歳以下が44.3%で続き、最も割合が低かったのは50〜69歳の28.7%だった。」と書いてあった。
やはりぼくらの年代では圧倒的に行ってない人が多い。

昨日から次男が帰ってきて、友達4人とうちに泊まり、卒業旅行に行くという。
次男はすでに就職しているが、諸事情で1年遅れた友達に付き合って行くということだ。
昨晩は夜遅くまで飲んで、今朝は昼前までみんな寝ていた。

就職1年足らずで休暇をとって旅行に行く、ということに驚く。
時代は変わったものだ。

大学の卒業旅行というのは、もう学生を終えて社会人になる、ということだからいろいろと思うところがあるんだろうと思う。
でも、それは後から思うことで、その時は単に楽しいだけかもしれない。
きっとそうだろう。
ぼくは行っていないが、そんな気がする。

今はメールやSNSもあるし、いつでもつながることができるから、別れの感慨は薄いのだろう。
ぼくらの頃は、電話か郵便しか連絡手段もなく、文字通り「卒業」だったから、感慨はあって当たり前。それでも、そんな思いはその時はなかった。
あとで、そういう思いを勝手に付け加えているのだ。

若いというのはそういうものだ。
時間も可能性も無限にあると思っている。
今別れても、いつかまた会えるに決っているとか、会いたくなったら会えるはずとか思っている。
実際にはそれが最後になるのがほとんど。
そういうものだ。

今生の別れでも書いた。

きっと彼らも今日から旅行に行って、「楽しかった」で終わるのだろう。
それでいいのだ。

でも、きっと後からそのことを思い出して、それを人生の1ページにする日が来ると思う。

Bon Voyage.


| | 考えたこと | 21:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
ブラックバイト
2015年にブラックバイトについて書いた。
なんでそんなアルバイトをするのか、ということだ。
嫌なら辞めればいいだけだ。

でも、最近はだいぶ悪質になっているらしい。
ブラックバイトユニオンでは、そういう学生からの相談にのっている。
その相談員によると「ほんまかいな」というものがある。

契約通りに賃金が支払われない、というのはまだ軽い方らしい。
今のブラックバイトは、学生に正社員並みの仕事や労働時間を要求したり、ノルマを課したり、果てには簡単には辞められないように追いつめるといった特徴があるとのこと。

曰く、某学習塾ではアルバイトの雇用契約書に「代わりの人間を見つけないで年度途中に辞めた場合は、損害賠償を請求する」という一文が入っており、「テストへの出席で休むのは認めるが、テスト勉強や実家への帰省で休むのは認めない」とか、「遅刻をすれば、その授業分の給料はゼロ」とかいう、驚くべき文言が入っている。
さらに、こんな規則をさも正当であるかのように、承諾させているらしい。
正社員もビックリだ。

コンビニでは、季節商品の販売ノルマやそれを達成しかなったときには自前で買うなどの苦情がある。
おでんの販売ノルマを達成できず、毎日おでんを食べた学生もいるらしい。
おでんなら安いが、おせち料理などは値段が高く、大変だ。

学生の話を聞いていると、まるで正社員のように働いている。
商品の仕入れを担当したり、売り方を考えたり、時給も上がらないのに新入バイトの教育を任せられたり、百均のアルバイトではほとんど店長の仕事をしていたりする。
もともと、店にはアルバイトしかいないところもある。
店長は?と聞くと、時々見回りに来る程度という。
人件費を安くあげないと、成り立たないのだ。

それでも、時給は上がらない。
結局は人件費のダンピングなのだ。
それだけ重要な仕事をしていたら、辞められて困るのは当たり前。
どう考えても、正当な給料を払っているとは思えない。
これでは購買力も増えないし、労働者の給料が上がるはずがない。

大きく言えば、大学生のアルバイトが正社員の仕事を食っている、ということになる。

実際、経済的な理由でアルバイトをせざるを得ない学生もたくさんいる。
高校を出て働きたかったという生徒も、高校の進路指導の先生が、就職先に頭を下げて歩くのが嫌という理由で進学させられるという例もある。
そういう学生たちが、やすい時給で重い責任を負わされ、アルバイトを変われないというようなこともある。

今起こっているバイトテロは許されるものではないが、ぼくらが安いサービスを受けられる背後には、そういう問題があるということだと思う。
大企業の給料を上げるのもいいが、もっと大学生のアルバイトの時給を考えてやるべきだ。

4年前にフェイスブックのブラックバイトの記事に書いたコメントは下記。
結局4年前から変わってない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今の都市部の外食やコンビニ、100均ショップなどは学生アルバイトやフリーターがいなければ、成り立たないのではないかと思います。
これがオペレーションの低コストを実現している一番の部分ではないかと。
ひいては、デフレの原因の1つにもなっているかもしれませんね。
そもそも、学生のアルバイトなんですから、試験やゼミが優先されるのは当たり前だと思います。それが、必要不可欠な労働力になってしまっていることが、問題でしょう。
オペレーションに必要不可欠なら、正社員にすべきです。それをバイトのシフト勤務でやろうとするのが間違いです。
ひどい店は、アルバイトだけで運営されていますし、店長も何日かに1回見回りに来るだけというところもあるようです。
アルバイトする方にも問題があります。全入化で大学に来てみたけれど、大学というものが何かイメージ出来ていないし、大学側もそんな学生にコミットできていない実情があります。もちろん、経済的にバイトしないと学費が払えない家庭もあるでしょう。でも、そこはまともな学生なら、ちゃんと切り分けてアルバイトしています。
大学も、学生バイトについて、もっと講習をしないといけないのかもしれません。でも、ブラックバイトにつかまる層はそんなことをやっても、なかなか聞けない層ですから、難しいですね。
結局若い人たちの勉学のチャンスを奪ってしまっている、ということですね。
オトナがもっと気を遣ってやらないといけないんだと思います。
でも、いつでもいろんなものが手に入れられる背景には、こんな問題があるんだと思います。
若い人の未来を食い物にして、みんなが便利に過ごせるということでしょうか。
毎年55万人ほどの大学生が卒業しますが、おそらくバイト率は下位大学では8割くらいになっていると思われます。
出来る学生は、時給のいい家庭教師や塾講師をやりますが、そういうのができない学生は外食、コンビニ等にいくしかないのが実情だと思います。
国が大学生のアルバイトを禁止すれば、たくさんのニートの人たちが働けるようになると思います。それがブラックバイトかもしれませんが…。
でも、ブラックバイトというのは、学生が主体性を持ってちゃんと断わるべきだと思うんですが、難しいんでしょうね。



| | 考えたこと | 22:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
好きかなって思う
ちょっと前にラジオドラマで、高校生の女子が「好きかなって思う」という表現を、友人にとがめられるというシーンがあった。
友人が、「自分の短歌についてどう思うか?」と聞いた場面。
そこで主人公が「好きかなって思う」と返事をした。

どうして自分の意見をはっきり言わないのか?と友人がとがめる。
主人公は「自分はそういうの、得意ではないから…」と答える。

こういう婉曲の表現は、物事の白黒をハッキリするのをはばかる、という場合には有効だ。
でも、この主人公の場合は、思っていてもそれが言葉にならず、言えないというケースだった。
自分で言葉にするのを抑制している、という感じ。
俗に言う「ヤマアラシのジレンマ」だ。

人と人には快い距離感がある。
それは人によって違う。
ヤマアラシは近づきすぎるとお互いに傷つけるから、近づきすぎないようにする。
その気持ちが強すぎると、主人公のようになる。
人に近づくことができない。
つまり、人に対して批判したり、意見を言えなくなる。

人間関係で過去にトラウマがあったりすると、そういう状態になりやすい。
この主人公の場合は、過去に兄妹でピアノをやっていて、結局は自分は才能がなく母親に「無理して音楽科を受けなくていい」と言われて、自信を喪失したという過去があった。
それで自信をなくし、人に対してはっきりものが言えない。

例によって、ドラマでは主人公がそれを乗り越え、はっきりとものが言えるようになる。
しかし、現実の世界ではなかなかそうはいかない。

自分も思い当たることが多々ある。
得意な人と不得意な人がいる。
どうしても近づけない人というのは、誰にでもいるんだと思う。

でも、この主人公のように、みんな不得意ということになると、生きづらい。
特に大人になっていく上では苦労する。
いつかは自立して、ちゃんと自分の意見を持って言えるようにならないといけないのだ。

最近の若い人たちは、人を批判することを恐れることが多い。
非難と批判は違うと言っても、なかなかわからない。
なにか言うと相手を傷つけるのではないかと思っている。

ぼくらの若い頃よりも、そういう傾向が目立つようだ。
社会人になるためには、批判する練習をしないといけない。

それも就活の一つなんだろう。


| | 考えたこと | 23:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
左脳とギター
ぼくは方向オンチだ。
人の顔と名前を覚えるのも苦手だし、地図を見るのも苦手だ。
パターン認識する右脳の機能が弱いらしい。

ギターを弾いていて、最近それが気になる。
先生は、フレーズを覚えて、組み合わせて弾きましょうというのだが、そのフレーズの覚え方が難しい。
パターン認識が苦手というのは、地図を覚えられないように、指板の上の指のパターンを覚えられないということになる。
どうやって覚えるかというと、階名(ドレミ)で覚えている。
単純なメロディなら、階名で覚えられるのだが、複雑なフレーズになるとシャープやフラットがたくさん出てきて、頭の中で字余りになってしまう。

さらに、1曲を通して同じキーなら、階名で覚えるのが楽なのだが、同じコードでもキーが変わると役割が変わる。
だから、コードの押さえ方と階名を結びつけて考えることもできない。
CのコードはキーがCならドミソだが、キーがGならファラドになるからだ。

つくづく、右脳が弱いと思う。
指板の位置で覚えられたら、楽なのだがそれができない。
考えてみたら、ぼくの記憶のパターンはずっと字に書いて覚えることだった。
言葉にしないと覚えられない。

頭に絵を思い浮かべて、覚えられたら楽なのだが…。
地図も、どこの交差点を右に回って…というように、文章で覚えた。

ギターを弾くときも、頭の中で階名が鳴る。
逆に言うと、階名が鳴らないフレーズは、楽譜を見ながら弾けても、覚えることができない。

どんなギタリストも暗譜の時には何かを手がかりにしていると思う。

先生に聞くと、やはり移動ドで考えて、その階名で覚えるのがいい、と言われた。
まあ、そうやろなあ、と思う。

何事も、簡単な道はない。



| | 考えたこと | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
小学校の不思議
以前小学校の算数で書いた。
小学校の算数にはいろんな不思議があるが、3.9+5.1=9.0は不正解だという不思議もある。

合ってるやん、という人がほとんどだと思うが、今の小学校では不正解。
実際に「9.0」の「0」に赤ペンで斜線を入れられて、1点減点されている写真がネット上に上がっている。
小数点以下の「0」は書かないというルールがあるらしい。

よく話題になる、「かける数」と「かけられる数」の順番も話題になっている。
「みかん3個の山が6つある」ときには「3×6」が正解で、「6×3」は間違いというようなもの。
掛け算は順序を変えても成立するという「交換法則」を将来教えるのはわかっていても、小学校ではそういうことになっているらしい。

これは算数ではない。
いかに先生の言うことを聞いているか、というテストなのだろう。

おそらく、学級崩壊を恐れて、先生の言うことを聞くことを重視しているのだ、と邪推する。
それほど、先生の言うことを聞く、ということが大事なのだ。
学級経営に直結するからだ。

結局、今の小学校では諸般の事情もあって、いかに学級を経営するかで先生の評価が決まる。
だからこそ、算数は算数でなくなる。
本当の勉強は塾で教えてもらえ、ということになる。

これが公教育の実態なら、高等教育なんかよりこちらをもっと問題にすべきだと思う。
塾に行ける生徒はいいが、行けない生徒は本当の勉強を教えてもらえない。
こないだも書いたが、「三つ子の魂百まで」なのだ。
初等教育がちゃんとしていないで、高等教育にいくらお金をかけても、金をドブに捨てるようなもの。
教育学者が集まって、そんなこともわからないのだろうか。

いつも引用する、元小学校教員の中沢良平氏はこんなことも言っている。

「おそらく、10年、20年前と比べてこの「プロセス」重視はさらに進み、小中学校は茂木健一郎さんのような天才・奇人が生きづらい社会になってしまいました。発達障害に認定される子どもが増えたのも、これが理由のひとつだと疑っています。私が常々申し上げている、日本の教育問題は学力問題ではないということに同意してくれる人は、いないものでしょうか。」

要は小学校で学級経営に問題を起こさないことを優先して、本当の勉強を教えていないということだと思う。
それが発達障害を増やす原因にもなっているということだ。

文科省の推定では、小学校時点で6%の発達障害の生徒がいることになってる。
35人学級で2人ずついる計算。

それを生み出している原因の一つが学校だと思わないのだろうか…。


| | 考えたこと | 22:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
自動ブレーキの部品?
こないだの新聞に、衝突軽減ブレーキの導入が義務化されるという記事があった。
国連欧州経済委員会が日本や欧州連合など40カ国が合意して、2020年はじめにも適用を始めるらしい。
日本ではもう7割の新車に装着されているとのこと。

これによって、EUでは年間1000人超の命が救われる、ということだ。

アメリカや中国、インドは加わっていないとのこと。でも、合意した国への輸出を考えると、自動ブレーキの生産は増えざるを得ないと思う。

需要が増えるのは、カメラやレーダー。
株式投資を考えると、今どんな部品が使われていて、どこの会社が強いのかなど考える必要がある。
技術開発も進むだろう。

今の常識では、高級車はレーダーやカメラを複数つける。
クルマの前方だけではなく、横や後ろも見て安全にしようと思うと、増えるのはやむを得ない。
当然、前方だけが義務付けられると思うが、高い車は差別化が必要だ。

イスラエルの会社が、カメラとソフトウェアで先んじているらしい。
カメラはレーダーよりも安価だが、夜になると見えないとか、雨が降るとダメとか欠点も多い。
でも、今の動向では、前方はレーダーよりもカメラでやるという感じ。
そちらの方が、技術開発のニュースが多いような気がする。

当然、日本のカメラメーカーやセンサーのメーカーも、研究開発を進めているのだろう。
さらに、カメラから得られたデーターを即座に判断して、それが人なのか、ものなのかなど、判断しないといけない。
そのソフトウェアの開発もある。
ハードとソフトの両方が勝負になる。

これから、義務化で需要増が見込めるということで、どんな会社が儲かるのか。
いったいどんな部品がキーパーツになるのか。
異分野からの参入はないのか。
いろんな会社がこのビジネスチャンスに入ってきそうな気はする。

それらを探してみたけど、なかなか見つからないのだが…。



| | 考えたこと | 17:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
やる気の問題
働き方改革をやらないといけない、というデーターが日経に出ていた。
こんな事が書かれている。

「終身雇用が社員の安心感を生み、組織に貢献しようと勤勉に働く――。日本に関するそんな定説は過去の話だ。米ギャラップが企業の従業員のエンゲージメント(仕事への熱意度)を調査したところ「熱意あふれる社員」の割合は、米国が32%なのに対し、日本はわずか6%にすぎなかった。」

何となく分かる。
終身雇用だから、却ってやる気をそがれている人が増えてきたということだろう。
労働市場がグローバル化してきて、優秀な人は日本では安い賃金だが、海外の企業に行くと高い賃金で雇われる。
そういう例が身近になってきて、終身雇用のマイナス面が出てきた。

高度成長が終わったことも大きい。
今や会社は大きくならず、ポストの数は増えず、誰もが課長になれない時代。
当たり前といえば当たり前なのだが、賃金を含む雇用制度がそういう状況に追いついていない。

企業はそうだが、公的なサービス部門はもっとひどいと思う。
なぜ民営化が必要かというと、まさにやる気の問題だ。
働かなくても、給料がもらえるという状況は、民間企業よりもひどい。
学校法人も同じこと。
コンピューターを導入して、それを使える人を増やすというようなことをやっていたら、ダメに決まっている。
研修や自己啓発を通じて、コンピューターを使えるようにするのが普通の会社だ。

今や日本中が古い雇用制度に縛られて、特に若い人たちのやる気が無くなっていて、効率が悪いのだ。

記事によると、

「調査した139カ国中132位と最下位級だ。しかも日本は「周囲に不満をまき散らしている無気力な社員」の割合が24%、「やる気のない社員」が70%に達した。バブル崩壊以降の経済低迷で、長く働いても賃金が上昇するとは限らなくなり、士気は上がりづらい。組織の生産性を高めるには、社員のモチベーションを高めることが急務だ。」

とのこと。

周囲に不満を撒き散らしている社員や、無気力な社員は、普通の国なら社員でなくなる。
クビになる場合もあるし、不満だったら辞めてもっといい所に行けばいい。
しかし、日本では終身雇用という壁に守られて(阻まれて)いるから、そういう人たちが普通に存在する。
それが諸悪の根源だと思う。

古い船を今動かせるのは、古い水夫ではないのだ。




| | 考えたこと | 23:08 | comments(0) | trackbacks(0) |