考えたこと2

2024.9.24から、今までhttp:で始まっていたリンクが、https:に変わります。申し訳ありませんが、リンクが見られないときは、httpsに変えてみてください。
CALENDAR
<< August 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
+SELECTED ENTRIES
+RECENT COMMENTS
+CATEGORIES
+ARCHIVES
+PROFILE
+OTHERS
さんさんタウン
今日で家の近所のさんさんタウンというモールが一部閉店する。
1号館、2号館、3号館と3つあって、そのうちの3号館を潰して建て替える計画らしい。

このモールは39年前にできた。
駅前で、立地としては良かったと思う。
当時はダイエーがまだまだ元気で、羽振りがよかったので、電気や衣料、日用品など全てダイエーだった。
このモールができる時に、付近で営業していた店舗の人たちは、3号館に入り専門店街になった。
2005年を過ぎた頃から、だんだんと歯が抜けるように閉店が相次いだ。
行きつけの文房具屋があったが、この店も2005年に店じまいしていた。

ここ数年は専門店街は高齢化や跡継ぎ問題などで、閉店が相次いだ。
跡地には、ちゃんとした店構えを持った店がなく、いつでも廃業できるようなリサイクルショップとか、喫茶スペースが多くなって、実質的には半分も機能していなかった。
だから、10月に店舗はみんな立ち退いて、潰してしまって、建て替えをするという。
新しい建物は、1,2階が店で上の階はマンションになるらしい。
小規模の小売店舗がもう成り立たなくなり、ダイエーもイオンに買収された。

結局はこの40年ほどのダイエーの栄枯盛衰が、このモールの行末を決めた形になる。
ダイエーというより、小売・流通業といったほうがいい。
この40年、コンビニができ、ネットで決済できるようになって、通販が進化した。
衣料などは製販一体のユニクロなどができて、業界地図が変わってしまった。
すべての商品を扱う、総合スーパーは分が悪い。

今日は3号館から移転するダイエーの食品や日用品売り場が入る予定の、1号館の2階、3階が店じまい。
衣料品や靴、カバンなどの売り場だった。

モールができた当時は、今回潰される3号館の屋上には遊園地があり、子どもを連れて土曜日によく行った。
あの頃はまだまだ日本が若かった。
今になると、無性に懐かしい。
おもちゃ売り場も、当時はフロアの半分くらいはあったと思う。
子どもが成長するにつれて、屋上遊園地がなくなり、おもちゃ売り場も縮小した。
5階には食堂街があり、ここにもよく行ったなあ。

ちょうど高度成長の時代だった。
小学校1年の時に初めて家の近所にダイエーができて、そこで遠足のおやつを買った。
ダイエーはどんどん大きくなり、一時はホテルなども手に入れた。
しかし、バブルで地価が下がると同時に調子が悪くなった。
そして、ついに会社としては買収された。
まだダイエーの名は残ってはいるが…。

数年後に建て替えられた建物に、どんな店が入るんだろうか。
その頃には、もうダイエーの名前はなくなっているかもしれない。

これも方丈記の世界だなあ。

| | 考えたこと | 19:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
教員のミスマッチ
また教育困難大学の記事
下位の大学は、受験生を確保するために、あの手この手を使っている。
なかでも、夏の季節はオープンキャンパスで受験生を呼ぶ。
大学に転職当時、これは一体何かと驚いたが、Wikipediaによると2000年代から始まったらしい。
ぼくが転職した当時は、ちょうどオープンキャンパスが始まってしばらくした頃だった。

Wikipediaには、高校生に大学の説明をして、ミスマッチを防ぐということが書かれているが、下位の大学では明らかに受験生を獲得することが目的。
そうでなければ、経営が苦しいからだ。
そういう大学では、専任教員が高校に出前授業をしたりする。
受験生に、自分の学科の面白さを宣伝して、来てもらわないといけないからだ。

ぼくがいた大学では、そういう営業ができる先生とできない先生がいた。
どちらかというと、できない先生の方が多かったんだと思う。
なぜできないかというと、高校生に面白おかしく授業ができないからだ。
そういう訓練を受けて、教員になったわけではないから、仕方ない。

まともに考えれば、その分野で研究をしているのだから、誰でも面白さを伝えることができそうなものだが、悲しいかなそうではない。
行ってもらったところ、高校側から「あの先生はダメ」という声が出る。
そうなると、逆効果なので、二度と行かないことになる。

だいたい、そういう先生は研究実績も芳しくない。
元々、下位の大学では学会誌に論文が出せるような先生は一握りだが、5年以上何も書いていないという先生がザラにいる。
だから、教育実績とか、地域貢献とかで頑張らざるを得ない。
でも、趣味でやっているような授業だから、教育実績も上がらないし、ゼミ生の面倒見も、よくない事が多い。
そういう先生に限って、事務に対しては「私の研究は…」などというから困る。

結局、マジメに研究している先生が、受験生への営業もできる。
だから、毎年行く先生は決まってくる。

教育困難大学の問題の大きな部分は、そういう教員の存在だろう。
下位の大学の大学教員というのは、一般的に学校に対する帰属意識が薄く、上位の大学に変わりたいとは思っている。
でも、結局は変われない。
たいがいの大学教員の求人は、学術論文の実績や教育成果などが重視されるから、なかなか他には行けない。
だから、不満ながら、そこで一生を終えるのだ。

そういう先生たちに教えられる学生が気の毒なのは、当然の結果。
結局は大学の価値は先生で決まる。

そこを書いてほしかった。



| | 考えたこと | 23:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
仏教もここまできたか…
「エンディング展示会」という、葬儀や埋葬、供養に関わる設備やサービスの展示会があるらしい。
そこで、ソフトバンクの人間型ロボットがお経を上げるというサービスを展示している。
ネットでBBCニュースが報じていた。

イギリスの記者も、奇異な感じがしたのだろう。
袈裟を着たペッパーが横向きに持った棒で木魚を叩く。
クリスチャンから見れば、宗教と科学はある種対立するものであり、もちろんロボットが読経をするというのはヘンだ。
日本人のぼくから見ても、びっくりするのは事実。

目的は葬儀での読経。
人間の僧侶が不足している等の環境要因もあるが、人間に頼むと値段が高いのもある。
記事では、人間が数十万かかることもあるが、ロボットなら5万円程度とのこと。
もちろん、日本人の業者がやっている。

日本の仏教は平安時代に入ってきた。
それはある程度難解な経典を詠んで、修行をした僧が、世俗から離れてやっていた。
どちらかというと、貴族の宗教だったのではないか。

それが、鎌倉時代に法然や親鸞が出てきて、世俗宗教になった。
大衆化したということで、それ自体はいいことだと思う。
「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば往生できるという、わかりやすさもあった。

江戸時代に入って、幕府が檀家制度を定め、寺に人々が従属するような仕組みができた。
これが布教するという努力をなくさせ、仏教を堕落させたと思う。
この時代に、僧侶による葬儀が一般化したらしい。
Wikipediaによると、「此の事に依り、各寺院は布教の必要を無くし、自らの檀家の葬儀や法事を営み定期的に収入を得るばかりの、変化のない生活に安住する様になっていった」と書いてある。

それ以来、日本人の葬儀には、一般的にお寺が絡むようになった。
僧侶は素晴らしい人もいるんだろうが、世俗的な人もたくさんいる。
ウチの実家の四十九日に来た僧侶は、読経が終わったあと自分の跡継ぎの話をして、「自分が死んだあとは心配だ」と言った。
お参りに来て、いう言葉ではないだろう。

京都では、拝観料への徴税ということに対して、いろんな宗派が一致団結して反対し、結局廃止されたという経緯もある。
布教するという努力が、宗教を活性化させるのだが、それをほとんどせず観光客からぼったくるという姿勢で一致団結したのだ。
西本願寺にある本願寺会館など、流れ作業で法事の読経を順番にやっていて、宗教行事という気がしない。
どこまでが宗教事業で、どこからが営利事業か、線引きは難しい。

そんな状態だから、アマゾンでお坊さんを葬儀に呼ぶという会社ができたり、今回ロボット坊主が出てきたりする。
誰がどう見ても営利事業だから、お寺も文句をいいにくいんだろう。
アマゾンの時のように、そのうち仏教協会がなにか言いそうな気もするが、言っても需要があるのなら仕方がない。
みんな、僧侶がありがたいと思っていないからだ。

仏教もここまできたか…、という感じ。
BBCのニュースビデオでは最後に僧侶姿のペッパー君を後ろから写して、「かわいそうに」というテロップがでた。
その前に「まだペッパー君が葬儀を執り行ったことはない」とあったが、それに対して言っているのかと思う。
でも、イギリス人のクリスチャンから見て、日本人が「かわいそう」というふうにも見えた。

ぼくの葬式の時は、ロボットに頼もうかな。



| | 考えたこと | 21:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
本屋がなくなる
ぼくらの世代にとっては、本屋というのはわりと身近な場所だった。
駅のそばにはたいがい本屋があったし、学生時代、暇なときには学校の帰りなどに本屋に寄って本を見ていた。
モールなどに行くと、たいがいは本屋に寄って新刊書や話題の本を見るのも習慣だった。
このブログを書きはじめたころは、行きつけの本屋があった。
作家の名前や作品名など、読んだこともないのに知っているのは、本屋で見たおかげだ。

でも、いつの間にか雑誌類がコンビニに置かれるようになり、雑誌客はコンビニに取られたと思う。
ぼくも、いつの頃からか、通販で本を買うようになり、本屋に行く回数が減った。
そうこうするうちに、本屋が潰れ、他の店になった。
知らぬ間に、だんだんと世の中は変わっていった。

先日の新聞によると、「書店ゼロ自治体」が増えているとのこと。
全国で1896ある自治体、行政区のうち、420に書店がない、ということだ。
若いころに本屋に通っていた身からすると、何とも寂しい。
たしかに、大型店舗以外の町の本屋はどんどん減っていった。
でも、いつの間にか2割強の自治体に本屋がないとは…。

小さいころ、市場にあった貸本屋がなくなり、60歳になって、町の本屋が減っている。
老眼がひどくなると、電子書籍が便利なのも事実。
これでまた紙の本が減る。
こういう風にして、アナログの文化がなくなっていくのか。

そういえば、電車の中でスマホを見ている人たちの何人かはマンガだったりする。
今やマンガはスマホで見たり、タブレットで見たりするものになったのかもしれない。

残念ながらこの動きは止まらないだろう。
生まれたときから本屋に行くという習慣がない人が増えてくる。
その人たちにとっては、本はネットで注文したり、スマホで見たりするものになっているだろう。

そのことで、出版文化がなくなることはない。
もしかしたら、そういうデジタル化でよりすそ野が広がるということもある。

それでも、やっぱり一抹の寂しさが残る。

本屋という場所の機能を見直して、生き残りを図ろうとしているところもあると聞くが、大きな流れは止まらない。

ウチの近所の大型書店も、文房具の扱いが大きくなった。
本だけでは食えなくなっている。

いつか、ノスタルジックに「本屋」というのがあってなあ、という時が来るだろう。

まこと、行く川の流れは絶えずして…の世界だ。



| | 考えたこと | 23:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
金融業界の未来
証券会社が扱うファンドは、人間のファンドマネージャーがいて、顧客から資金を集めて増やそうとする、という仕組みだ。
しかし、人工知能(AI)の能力が上がり、過去の膨大なデーターを分析して運用できるようになってきて、それを売り物にするファンドも出てきた。

日経新聞によると、この半年で2.9倍の資金量(4千億円超)が入っているとのこと。
それでもまだ全体(100兆円規模)の1%にも満たない。
しかし、着実に人間のファンドマネージャーよりも狙いを達成するAIが出てきている。

膨大なデーターを分析するような仕事は、今や人間よりもAIが得意だ。
大儲けはできなくても、損はしない。安定した運用ができるという。

ちょっと前までは、ファンドマネージャーなど人間にしかできないと思われていた。
でも、今やその仕事はAIに置き換え可能になってきた。

AIに置き換えられるのは、過去の事例が数字などの客観的な値になっていて、学習可能だからだろう。
その事例が多ければ多いほどよい。
金融業界はそれに向いている。

エライことになってきた。
コンピューターが発達し、簡単な事務の仕事がなくなり、今度は考える仕事までなくなっていく。
労働人口が減るのは、いいことかもしれない。

これから仕事を探す人は、そういうことも考えないといけない。
もちろん、金融業界だけではないが…。

だから、一つの仕事や一つの企業でずっと勤めるという考えはやめたほうがいいと思う。
どんなスキルをつけて、どんな仕事をするのか、どう変わっていくのか、そういうことも考えないといけない。

これからの職選びは、ぼくらの頃よりも難しい。



| | 考えたこと | 21:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
一万人の第九 練習2回目
また今週の水曜日は、第九の練習だった。
もう一度、発声法の確認を最初にやる。
骨盤底筋を使って呼吸すること、息を吐く時にみぞおちが出るように歌うこと、口の中のドームを気にすること、喉で発音するのではなく、唇の形や舌で調整することなどを復習。

今回も難しかったのは母音唱。
歌詞の母音部分だけを取り出して歌う。
要は音を伸ばすところは母音なので、そこの部分だけを歌うということだ。
この練習は大事だということだが、歌詞がドイツ語の上に、母音の表記がいろいろあって、単にアイウエオで歌うのではないのでややこしい。
この練習をもっとやろう、ということを講師陣で話し合って決めたとのこと。
今回はこれが難しかった。

一応、歌詞に発音記号が付いているページをコピーして切り貼りして、すぐに発音記号が確認できるようにして行ったのだが、練習ではそんなものを見ているヒマがない。
譜面の歌詞の部分に直接発音を書かないと、追いつかない。
次回は書いていかないといけない。

285小節からの8小節、313小節からの18小節のメロディーを歌って確認。
歌詞も読んだ。
だんだんと覚えることが増えてくる。

歌詞無しで歌う時は、発声を意識しながら歌えるのだが、歌詞がつくととたんに喉で歌うようになる。
子音が入ると、口の中の形が維持できなくなる。
だから、母音唱をやって子音が入っても口の形を変えないようにするのだろう。

今回の先生の名言は「音楽は音符と音符の間にある」。
たしかにそうだ。
音符は音の始まりを表すだけだから、間は音が伸びている部分のこと。

コンピューターで音楽を入力すると、音符の情報は一つではない。
音の始まりの数字、その音の長さ、高さ、強さのの数字だ。
これら4つの情報のうち、音の始まりと高さは譜面に書いてある。
しかし、音の強さや長さ(実際に鳴っている時間)は具体的には示されない。
そこが音符と音符の間にあたるところだ。

だから、音符と音符の間にある、と言えるんだろう。

来週も練習。
ギターのレッスンはあるし、第九のコーラスはあるし…。

がんばろう。


| | 考えたこと | 18:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
都内の大学定員抑制
こないだ、文科省が首都圏の大学の定員の抑制をやるということで、パブリックコメントを求めていた。
学生の都心への集中を防ぎ、地方創生を実現するためだという。
この手の人為的な抑制はやらない方がいい。
反対のコメントを書いて出した。

首都圏にはたくさんの大学がある。
偏差値で分けたら上から下まである。
話を私学に限れば、今の偏差値というのは入学者の半分くらいの人数が対象。
一般入試を受ける人だけが対象だからだ。
下にいくほど、一般入試を受けて入る人は少なく、AOや推薦で入るようになっている。
そういうカラクリを放置して、文科省は首都圏だけの定員規制をやろうとしている。

地方創生というと、聞こえがいい。
しかし、教育に努力し、頑張っている大学と、そうでない大学を見分けることもせず、一律に減らすのはよくないと思う。
減らすのなら、教育に熱心でなく、前に書いた「いったい大学では何を学んでいるのか?」と聞かれるような大学を対象にするべきだ。
場所で一律に抑制すれば、いい大学も経営が苦しくなる。
そんなバカなことはやるべきではない。

話は簡単だ。
推薦やAOを減らせばいいのだ。
推薦、AOで入る人数が多ければ多いほど、定員を減らす、ということだ。
それを全国一律にやればいい。

今の私学の問題は、大学入学者をちゃんと選別していないということだ。
選別しないで入れるから、入ってから大学の先生が教えることができない。
それをちゃんとやっている大学なら、定員はそのまま認める。
それだけでいいと思う。(もちろん、小中高の教育は見直さないといけない)

今は一般入試もインターネットで安くなったし、一人で何学部も同一価格で受けれるようになってきたから、一般入試を増やせばいいのだ。
それで、学生が集まらなくなった大学には退出をしていただく。

その代わり、マジメに教育するちゃんとした大学を作ればいい。
地方の大学が努力しないでも人が増える、というようなことをやるのはオカシイ。
地方の大学こそ、良い教育をして頑張るべきだと思う。

いい考えだと思うのだが…。


| | 考えたこと | 00:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
新型エンジン
マツダが、新型のエンジンの開発を含む長期ビジョンを発表した。

広島が本社で、ぼくの田舎(といっても親父の出身地で住んだことはないが)なので、何となくなじみがある。
世の中電気自動車の時代になるかと思っていたら、いろいろと制約があって、まだまだコスト面でエンジンの時代が続くという予測をこないだ聞いた。
全てが充電して走るということになると、電気が足りなくなるし、新設の発電所の出すCO2(火力発電の場合)もバカにならない。
さらに、これから石油が高騰すればEVの可能性もあるが、当面シェールオイルなどの影響でガソリンは高くならない。
今はEVに出ている補助金も、だんだんと無くさないといけない。
だから、経済的に見て、エンジンは無くせないということだ。

マツダは会社の規模からして、ガソリンエンジンの低燃費化に加えて、EVや燃料電池車の開発を並行でやるにはシンドイのだ。
だから、当面はガソリンエンジンを低燃費化するということに経営資源を集中するらしい。
そこで、新型エンジンの発表をしたという経緯。

2019年に投入するらしい。
新型エンジンは、ディーゼルのように圧縮することでガソリンに点火し爆発させる。
世界中のどこのメーカーも実用化していない技術だ。
これで燃費が2割〜3割よくなるとのこと。

マツダというと、世界で1つの技術を以前も持っていた。
ロータリーエンジンだ。
おむすび型のローターを回すというエンジン。
マツダだけが量産化できた。
残念ながら、燃費が悪く、今は生産していないが、小型化のメリットを生かして、発電専用のエンジンを検討しているとのこと。

広島の会社が、エンジンで2つの世界唯一を達成する。
そのメリットを認めて、トヨタが提携した。

両社でEVを開発するという計画とのこと。
電気自動車については、トヨタに任せて、マツダはエンジンに注力するということだろう。
そのエンジン技術をトヨタももらう。
WIN-WINの関係だ。

それでも、一定数のEVは環境規制等の影響で世の中に出ていくことになる。
その先行者利益を誰がとるか、ということだ。
今はアメリカのテスラというEV専業メーカーが鼻息が荒い。
そこは敢えてマツダは取らないということだ。
それは大丈夫なのか、と不安になる。

だから、トヨタと組んで保険をかけたということだ。

この戦略がマツダの生き残りに吉と出てほしい。

| | 考えたこと | 23:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
残業ゼロ法案
労働組合が「高度プロフェッショナル制度」に反対した。
高度プロフェッショナル制度というのは、年収1075万円以上の専門職に対して、労働時間の規制や残業代の支払い対象から外す制度。
専門職の対象は為替ディーラーとか、研究開発職、コンサルタントというように限られている。

そういうことなら、構わないのではないかと思う。
普通の労働者は対象から外れる。
対象の職業は、時間で縛られる仕事ではないだろう。
年収1000万以上を稼ぐ人は、自律的に働ける人だと思う。
会社に来ないといけないときは来るだろうし、残業が必要なときはするだろう。
もともと、残業という概念がない仕事かもしれない。

こういう法律が出てきた背景には、一般的な事務や工場ラインでの労働がこれからは減っていく、という前提があるのだと思う。
パソコンが普及し、単に転記するとか、集めて計算するというような仕事は減った。
2004年に会社を辞めるとき、もう手書きの伝票などなかった。
集計から分析まで、コンピューターでできるようになり、経理の事務の人はいなくなった。
キャッシュレスも進み、昔なら現金を受け渡すという業務があったが、それもなくなりつつあった。

工場でもモノを運んだり、加工をしたりする仕事はロボットになった。
人間が必要なのは、複雑な判断が必要な検査とか、確認、組立などに限られる。
実際、目視検査については、センサーの性能が上がり、画像で判断するAIができてきたので、そういう仕事も徐々にAIに変わっていく。

そういう時代背景もあって、高度プロフェッショナル制度が提案されたのだと思う。
そのうち、そういう仕事しかなくなる、ということだ。
時間単位の労働から、何をしたか?という成果を問う仕事が主流になっていく。
本来の意味で、成果を問う仕事になるのだ。

労働組合はいったん賛成したのに、やっぱり「残業ゼロ」という言葉に組合員が反応して、反対に回った。
しかし、年功序列で終身雇用という賃金体系を変えていかないと、これからは生き残れないと思う。
優秀な人材に対しては、若くても高い給料を払うという外資に対して、日本人の若い人たちすらつなぎとめられなくなってきている。

日本は、高度成長という成功体験から離れられず、ドカ貧になりつつある。
高度成長を生んできた、年功序列という賃金体系では、働く人が減り、低成長でグローバル化して、どんどん新技術が入ってくる世界では、もう対応できないのだ。

高度プロフェッショナル制度はその第一歩なんだろう。

反対している場合ではないと思う。



| | 考えたこと | 00:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
理科離れと潔癖症
前に、アレルギーが増えているという事について書いた。
世の中が清潔になり過ぎている、ということだ。

それに関連してForbesの記事があった。
記事の中では、台所のスポンジの菌のことを話題にしている。
メディアが、キッチンのスポンジは「細菌の温床」であり、頻繁に交換するべきだという報道をした。
それは正しいのか?という問題提起だ。

ぼくらは、細菌の中で生活している。
中には人間が必要とする細菌もあるし、無害な細菌もあるということだ。
細菌に対して神経質になりすぎて、消毒して全て殺してしまうというようなことは、あまりよくないと思う。

科学的に考えれば、人間は自然の一部であり、その中で長い間暮らしていたわけだから、無菌状態を作り出すのはあまりよくない。
それが科学的な常識だ。
共存しているからこそ、菌にも慣れ、余分な反応がなくなる。
特に小さい頃にそういう菌に触れないと、アレルギーなどを起こしやすいのではないか。

記事の調査によると、携帯電話にはなんと便座の10倍以上の細菌が付着しているとのこと。
いちいち気にして消毒していたら、暮らしていけない。

一部の過度に潔癖を求める人たちは、非科学的だと思う。
常にウェットテッシュを持ち歩き、自分の触るものを拭きまくる人や、常にマスクをしている人(これは意味が違うかもしれないが)など。
子どもに砂遊びをさせないとか、行き過ぎた健康志向の人とか…。

ぼくは見たことがないが、みんなでつつく鍋を食べない人や、自分のものを他人が触ったら怒るという人もいるらしい。
ここまでいくと病気だろうが…。

本当かどうかしらないが、O157という細菌は発展途上国ではほとんど見られないとのこと。
清潔になりすぎて、却って増える菌もあるのだろう。

日本の科学教育はどうなったんだろうか。

もっと科学的になるべきだと思う。


| | 考えたこと | 21:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
「十年先を読む」発想法
「十年先を読む」発想法 西澤潤一 講談社文庫

ブックオフで見つけて中古で買った。
もう絶版で普通の本屋では手に入らないだろう。
180ページほどの本。

著者の西澤純一郎氏は光ファイバー関連の発明で有名な東北大の博士。
90歳でまだ存命だ。
「独創は"常識"との闘いである」「ごくわずかの差が巨大なのだ」「いまどきの若いものはだめだ」「技術開発に終わりはない」「"光"に向かって進め」という4章立て。
内容は工学部での発明の苦労や考え方、教育論などが書いてある。

面白いのは、お決まりの「いまどきの若いものはだめだ」という章。
自分は年をとったからそういうのだが、ギリシャの昔からそういう意見はあるということを前置きしている。
この本は1985年に出された。
その当時ぼくは28歳。
この人の言う、「若いもの」に入っているだろう。

まず、最近の若いものはいうことをきかないという。
それを指摘すると、「人からいわれてやるのは研究じゃない」というが、よその研究所に行ったら部下ができて、その部下に指示を出している、という。
自分が命令するのは研究であっても、人からいわれるのは研究じゃないという理屈があるか、ということだ。
ごもっとも。

また、研究面で、海外でやっている事は信じるが、日本でやっても信じない、ということも書かれている。
そういう感じはあったんだろう。
古き良き時代だと、今なら思える。

若い人たちを見て、こう書かれている。

「どうも、世の中全体が、若い人を甘やかし過ぎたのではないか。戦後の数々の失敗の中で、筆頭にあげられるべきは、教育の失敗ではないかと、この頃しみじみ思う。
 社会の一員として生きていく場合、義務も束縛もあるという感覚が、欠如している。豊かになりすぎて、責任を痛感する時期が、成長過程の中でなくなったのではないか。
 私たちの時代は、上級学校に進む場合、親に頼んで進学させてもらったものである。いまの子どもたちは、親に頼まれて学校に行ってやっている、という感覚である。会社に入るときも、一部上場の会社に就職してくれと、親に頼まれるありさま。子どものためではなく、親の見栄を押し付けているにすぎない。
 たしかに、戦前は、絶対的に貧乏だったから、大学に進みたいということになれば、家族が総力をあげて、その子どもにできるだけのことをしてやろうとした。その分、子どもも、責任を痛感したのである。
 いまその立場が逆転してしまっている。親が、子どもを甘やかしすぎるのである。私たちに対しても、”教育とは教えてもらうもの”だから、勉強しなくてもわかる講義をしろ、というヤツもいる。
 生きていくという厳しさがない。頼まれて生きてやっているんだ、ぐらいに思っているようである。ぼくたちを生かしておかないなら、おまえたちがわるいんだ、といういいかたになるのである。」

自分が若い頃も、エライ先生からはそういう風に見られていたということだ。

ギリシアの象形文字の壁画にも、「今どきの若いものは…」と書いてあったという。
若い人は年をとってしっかりするんだろう。

時代は繰り返す、ということがよくわかった。


| | | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
高校生の宇宙語
ファイナンシャルプランナーが、自らの高校生の子供の例を引いて、教育費は意外にかかるのだ、という記事を書いていた。
その記事自体はなんということもないのだが、中に出てきたプランナーの娘の言葉が面白かった。

中3で内申点が伸びて、学力がより高い私立高校に行けた高校1年生。
入るなりつまずいたとのこと。
ところが7月に、このままでは2年生に進級できません、と三者面談で言われた。
寝耳に水だったらしい。
子供に聞くと、「わからないところが、わからない。先生が言っている話が宇宙の話(違う言語で違う惑星の意)にしか聞こえない」という返事。
面倒見がよい、といわれる私学でもそんな状態だったとのこと。

幸いこの子の親は塾や予備校を探して通わせ、何とかなった様子だった。
もともと教育費の話なので、子供の話はそれ以上出てこない。
でも、この話を読んで考えたことがある。

女子高生のことをJKというように略すようになったころから、彼女らの言葉はぼくらにとって宇宙語だった。
チョベリバやキモいとかから始まって、ヤバイの意味が変わった。
今やフロリダというのもある。
フロリダとは、チャットをやっていて、風呂に入るから一時離脱するということだ。

思うに、JKと呼ばれた頃から、オトナの言葉と彼女ら高校生の言葉が分かれてしまったのだろう。
核家族化がどんどん進み、母親も仕事を持ち、子どもが減ったことによる個室化も進み、テレビよりもネットで話題も個人化したことなどが影響しているんだと思う。
親との会話も減ったから、余計に拍車がかかった。
結局豊かになったから、一台のテレビを家族で見る時代から、一人一台の時代になり、インフラが整って、一人一台のスマホ(ケータイ)が実現したというバックグラウンドだ。

昭和の時代は親子の共通の話題はあった。
テレビのドラマだったり、タレントだったり、ファッションだったりしたが、それらはお茶の間のテレビから来ていたからだ。
テレビが一人一台になっても、ある程度共通の話題はあった。
しかし、それにとどめを刺したのがインターネット。
ここで、完全に高校生の話題と、オトナの話題は分かれたんだろう。

その彼女らが、ついに学校の先生が話す言葉が宇宙の言葉に聞こえるようになったという。
そうなれば、わからないところすらわからない、ということになるだろう。

言葉が通じないということは、若者の文化と大人の文化の乖離が大きくなってきたということでもある。

しかし、先生が授業で話していることが宇宙語に聞こえるというのは、ヤバイぞ。
あ、ヤバイは昔の意味です。



(付録)最近の女子高生達がよくSNSで使う流行りの若者言葉ランキング46選【2017年版】http://jikitourai.net/schoolgirl-use-expressionより
第46位:フロリダ 風呂に入るから離脱する
第45位:おしゃかわ おしゃれでかわいい
第44位:チキる こわくなる
第43位:MJK マジか
第42位:あざお ありがとうございます
第41位:ありよりのあり 有り寄りの有り
第40位:あげぽよ テンションが上っている
第39位:メンブレ メンタルがブレイクしている
第38位:絶起 絶望の起床(寝坊したとき)
第37位:アラシック 病的な嵐のファン
第36位:バイブス バイブレーション(雰囲気)
第35位:リアルガチ 本当に真剣に
第34位:ゆめかわ 夢のようにかわいい
第33位:スタ爆 スタンプを大量に送ること
第32位:そま?/これマ? それってマジ?/これってマジ?
第31位:うれぴよ 嬉しい気持ち
第30位:テンアゲ テンションアゲアゲ
第29位:ぎゃんかわ とてもかわいい
第28位:アモーレ 愛する人
第27位:ボイメ ボイスメッセージ
第26位:めっかわ めっちゃかわいい
第25位:ぐうかわ ぐうの音も出ないほどかわいい
第24位:ニコイチ 親友、仲がいい事
第23位:微レ存 そうである可能性が微粒子レベルで存在している
第22位:ズッ友 ずっと友達でいようね
第21位:ジャス民 ジャニーズWESTのファン
第20位:○○たん ヤバたん、カワたんなどのように、可愛く表現する接尾辞
第19位:希ガス ○○な気がする
第18位:てへぺろ テヘッと笑ってペロッと舌を出す
第17位:リムる リムーブする(フォローを外すこと)
第16位:おけまる オッケーしたこと
第15位:エンカ エンカウントする(誰かに出会う)
第14位:エモい 切ない感情を表す(エモーショナルな)
第13位:キンブレ 電池式のペンライトの商標
第12位:かまちょ かまってちょうだい
第11位:うp・うぷ アップロード
第10位:あーね あーなるほどね
第9位:とりま とりあえずまあ
第8位:ほぼほぼ およそ、だいたい
第7位:リアタイ リアルタイム
第6位:パリピ パーティピープル(ノリがよく盛り上がる人)
第5位:すこ 好き
第4位:りょ 了解
第3位:ワンチャン ワンチャンス(可能性はある)
第2位:卍(まんじ) 調子に乗っている
第1位:それな そうだね、たしかにね

| | 考えたこと | 17:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
中国の奥地
パナソニックの社長が中国の内陸部を視察したとのこと。
中国の内陸部というと、以前なら外国人が行くことは出来なかったし、沿岸部と比べると近代化が遅れているという状況だったはず。
もちろん、貧しいところだ。

でも、貴陽市というところにはアップルが中国初の巨大データーセンターを作って、中国全土のiPhoneのデーターを集め、いろんなサービスをしようとしているらしい。
それにつられたのか、その他の世界的企業が進出する予定とのこと。
行政サービスはまるごとクラウド化しようとしている。
スゴイ話だ。
沿岸部がいろんなコストが上がり、内陸部に目をつけたということか。
安い労働力やインフラを求めて、ハイエナのように進んでいくのがアメリカ流資本主義。
今あるものを変えて作り直すより、なにもないところにイチから作ったほうが早いし、安いということだろう。

重慶ではスマホのアプリで移動できる配車サービスは当たり前で、既に電気自動車のシェアサービスが始まっているとのこと。
変化のスピードはアメリカよりも早い。
持たざる者の強みだ。

中国は産業を国家社会主義的に進めていく。
高度成長期の日本のようだ。
人々は若いし、人口も多い。
これからは中国の時代になるかもしれない。

西側が自由というものに普遍的価値を見出し、民主主義という政治システムで世界を制覇したと思ったのが1980年代。
象徴的だったはベルリンの壁の崩壊だ。
それから30数年経って、民主主義にもほころびが見え始めている。

国という単位をどうするのか?ということだ。
欧州では国という単位をなくすことで、戦争を繰り返さないようにしようとした。
今は一応国はあるが、人と物の行き来は自由だ。
その中で、EUに付かず離れずだったイギリスが離脱を表明した。
アメリカのトランプ大統領は、移民の制限を提案している。
やっぱり国という単位が大事だと思う人たちが出てきたからだ。

EUとアメリカという二つの勢力が、ほころびつつある。
それに対して、中国はどんどん強くなっている。
しかし、中国では、自由という価値は低い。
一党独裁という体制は堅持されている。

このままいって、価値観の衝突は起こらないんだろうか。

それが心配だ。



| | 考えたこと | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
クイズ番組今昔
朝のドラマを見ていたら、昭和40年代のクイズが取り上げられていた。
あの頃のクイズの問題は、難しかった。
ドストエフスキーの小説の問題や、正解を聞いても「へー」という問題ばかりだ。

思い返してみると、昔の視聴者参加型のクイズは、今とはくらべものにならないほど難しかった。
今はもうパネルアタックくらいしか思い出さないが、昔はクイズ番組というとたいがい視聴者参加型のものだった。
タレントはクイズ番組になど出なかった。
イメージダウンを恐れたのもあったろう。
番組を作る方も、タレントがサクサク答えられるようなクイズ番組など、面白くも何ともないと思ったと思う。

クイズ番組は本気でやると大変だ。
問題の難易度、回答者のレベルを考えてやらないと、誰も答えない問題が増えたり、一方的に誰かが勝ったりして面白くない。
だから、予選もやるし、問題も難しい。
でも、それをやるには、実施側にも知識とノウハウが要求される。

今のマスコミのレベルダウンは、とりもなおさずマスコミに勤めている人たちのレベルダウンもあるんだろう。
おそらく、視聴者参加型の番組は予算は安いはずだ。
しかし、それを面白く見せるためには、手間と計算と知恵が必要になる。
そこが面倒だから、タレントを集めてクイズをやっている。
相手がタレントなら、カンペもOKだし、バカな答えで笑いも取れる。
クイズというより、お笑い番組だ。

中には番組の宣伝も兼ねて、何十人というタレントを集めてやる番組もある。
一時、おバカキャラのタレントが流行ったが、今はそれが普通になった感がある。
結局、見ている方のレベルも下がったのだろう。
だから司会もアナウンサーではなく、お笑い芸人がやる。

かしこい若者はネットに行ってしまった。
確かに、ネット上にはいろんな情報があるし、今や動画も音楽もある。
ツイッターのような情報の入手源もある。
そちらの方が面白い。

そういう風にして、テレビを見ている人のレベルが下がっていく。
大宅壮一がテレビ放送が始まった時に言った「一億総白痴化」は、やっぱり正しかったのかもしれない。

しかし、一方でテレビ離れも起こっているから、ややこしいなぁ。

視聴者は確実に高齢化しているのだから、人間というのは年を取るごとに賢くなるというのは怪しいのではないか…。


| | 考えたこと | 21:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
一万人の第九 練習1回目
昨日は「1万人の第九」の練習1回目だった。
西宮A教室は全部で300人。
いろいろと目からウロコの体験をした。
声楽の発声法だ。
それに約1時間弱をかけて行った。

肺にいっぱい空気をためた状態で発声する。
鎖骨のあたりから、みぞおちの横の横隔膜のあたりまで、空気をいっぱい吸う。
背中までグルっと回って肺を意識することが必要らしい。
胸を張って、骨盤の上に頭を載せる感じで立つ。
足の指で床をつかむ感じだと言っていた。
息を吐いた時に、骨盤の下の筋肉(骨盤底筋)と尾てい骨の回りの筋肉を使うらしい。
この感覚はわからないが…。

声をだす時に、みぞおちを出す(出る)という発声法。
いっぱいになった空気を押し出すという感じ。
昨日はできたような気がしたが、今日はできない。
音の高さは頭で考えればいいということだ。

口の中にたこ焼きを入れた感じで、その口の中のドームをキープする。
下と唇の動きで言葉を出す。
そして、声を前に出すのではなく、首の後(盆の窪)から出す、ということだ。

常に肺にいっぱい空気を貯め、あくびをした(リラックスした)状態で声を出し、大きな声を出すより響く声を出すとのこと。
鼻腔まで響かせるために、鼻をつまんで練習をしたりした。

コーラスの最初のパート(257小節)からの8小節のドイツ語の発音を確認して、パートの練習。
実際、そんなに歌うところはないので、ラクチンだと思う。
講師いわく、音楽よりも言葉が大事とのこと。
だから、ドイツ語の発音はちゃんと覚えよう。カタカナではダメということだ。
仕方ないから、発音記号を見た。
ドイツ語のWは英語のVの発音になるというのが慣れない。
"wo"は[vo:]と発音する。

最初のコーラスの歌詞は、

Daine Zauber binden wieder, was die Mode streng geteilt, alle Menschen werden Bruder, wo dein sanfter Flugel weilt.

これをカタカナ風に書くと

ダイネ ツァウベル ビンデン ヴィーデル ヴァス ディー モーデ シュトレング ゲタイルト アーレ メンシェン ヴェールデン ブリューデル ヴォー ダイン ザンフテル フリューゲル ヴァイルト

これを講師の先生が読むと、ドイツ語もなかなかカッコイイと思う。
この歌詞が第九の全てを表しているとのこと。
要は「全ての人は兄弟になる」ということだ。

テナーはオクターブの上がり下がりが激しくて、ちゃんと練習していかないと苦しい。

しかし、ああいうやり方で声を出せば、喉は楽というか使わない。
講師の先生一人で、300人の声よりも大きな声だった。
あきれた音量だ。

昨日が1回目。
あと11回。どうなることか…。

| | 考えたこと | 10:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
死後の世界
果たして死後の世界はあるのか。
だれも一度死んで生き返った人はいないから、聞いてみることもできない。
したがって、これは答えのない問いになる。

死後の世界を信じているという人は、よく夢枕の話をする。
亡くなった人が、夢に出てきてお願いをしたとかいう話だ。
ぼくの知り合いは、おじいさんがなくなってしばらく後、夢の中に出てきて、杖を持っていくのを忘れたから、持ってきてくれと言ったとのこと。
そういえば、木の枝を削って上手に作った杖が2本ほどあって、それを思い出して持っていってお墓の後ろに挿しておいた。
そしたら、もう出てこなくなったということだ。

それ自体は本当だろう。
でも、それを思うのは自分だから、死後の世界がある客観的な証拠にはならない。
だからといって、それを嘘だと決めつけることもできない。
決めるのは本人だからだ。

小林秀雄が言っていたが、科学では解明できないことを信じないというのは、よくない態度だ。
謙虚にそれを認めることが大事だという。
それが真の科学的態度かもしれない。

70年代は、そういうものを信じることが非科学的だとされた時代だった。
その後、だんだんとそれが薄れ、今はそんなことはない。
ポストモダンというのかもしれない。
一つの価値に縛られなくなった。

若い頃、そんなことは別にどうでもいい、自分には関係ないと思っていた。
でも、だんだんと自分にも関係があるという年齢になってきた。
最近はどうなんだろうかと思う。
人間とは、本当に自分勝手なものだ。

これを書いている時に、アマゾンのプレイリストから、ちょうど「アローン・アゲイン」が流れた。
よく聞いていると、後半の歌詞は父が死に、母も死んだという歌だ。
そして、「ぼくも、ビルの上から身を投げよう」という歌だったのか。
ずっと何となくいいメロディだと思って聞いていたが…。

こういう偶然が何となく身にしみる。

まあ、今のところは、死後の世界はあるかどうかわからない、としておこう。


| | 考えたこと | 01:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
EV普及の壁
電気自動車(EV)がこれからは主流だと思っていたが、普及には大きな壁があるようだ。
内燃機関からの切り替えということだけではない。
それは業界内の問題だ。
それを乗り越えたとしても、コストとエネルギーの問題があるというウォール・ストリート・ジャーナルの記事があった。

コストの問題とは、今のEVにはいろんな公的資金がつぎ込まれているということ。
補助金がなくなれば、EVの値段は上がり、内燃機関とは勝負できないのが実情らしい。
エネルギー問題というのは、EVそれ自体はCO2を出さないが、電気を充電するためにCO2を発電所が出しており、火力発電所で作られた電気なら、結局CO2はハイブリッド車の方がマシという研究結果もあるらしい。
マツダも似たようなことを言っていた。
本当だとしたら、困ったものだ。

そして、石油の採掘技術が進歩し、シェールオイルみたいな新しい石油も出てきた。
石油価格が高騰するという前提なら、EVは有望だが石油はそんなに値段が上がらないという。
ややこしい問題だ。
いずれにせよ、石油は限りある資源ではあるのだが、当面は価格は上がらないという予測のようだ。

EVで空気をクリーンにするためには、原子力や風力などCO2を出さない方式で発電する必要があり、石油が高騰しないとEVの値段が高すぎるということだ。

結局、EVが普及するためには、補助金はなくさないといけないし、電気エネルギーの作り方を変えないといけない。
経済的には石油の値段が上がらないといけない。
そういう意味では、マツダの「当面はエンジンの効率改善に全力を挙げる」という戦略もわからなくもない。
目先のエコを考えると、EVがいいのは事実。
でも、電気を作るために石炭やLPガスを使っていては、あまり意味がない。

よく考えたら、電池というのはどこかで作ったエネルギーを貯めておくものであって、エネルギーの作り方を規定するものではない。
温暖化対策には、エネルギーの作り方を変えないといけないのだ。
中国はEVシフトを早くして、その分野で先行者利益を得ようと考えているんだろう。
だから、原発をどんどん作ろうとしているということかな。

しかし、日本で電気自動車の普及の記事を見ると、たいていは充電スポットのインフラやバッテリー性能(航続距離)などが上がっていて、トータルでCO2がどれだけ削減するかというような視点ではない。
さすがアメリカ。
マクロな視点で見ると、WSJの言っているような問題もあるということだ。

まだまだエンジンの未来は明るいのかもしれない。


| | 考えたこと | 21:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
ベトナム事情
年末にも会ったが、こないだ元の会社を辞めてベトナムに行っている後輩と飲みに行った。
前も言っていたが、ベトナムは平均年齢が28歳で、子どもや若い人が多くて明るい。
伸び盛りの国だ。

彼はハノイにいるのだが、あそこは四季があって、冬はわりと寒いらしい。
5度位まで冷えるので、コートが必要とのこと。
緯度からいくと、もっと暑いと思っていたから、ビックリした。
シベリアから寒気が来るらしい。

ハノイというと、元の北ベトナムにあたる。
ぼくらが中学の頃、爆撃されていたところだ。
今でも南とはちょっと仲が悪そうとのこと。
民族的なものや、言葉のなまり等あるのだろう。

彼はもともとタイに長くいたので、南ベトナムのホーチミン(昔のサイゴン)の方が冬も暖かく、南の方がいい、ということだった。
奥さんがこないだ来たが、「こんなとこイヤや」ということで、一緒に住むのはダメだったとのこと。
もう子供たちは独立しているので、奥さんは日本で一人暮らし。
だから、来ようと思えば来られるのだが…。

仕事は順調で、赤字から黒字に転換して、調子がいいらしい。
順調過ぎてやることがなく、次の仕事を考えようかなと言っていた。

何をしたいのかと聞くと、陶芸だという。
もちろん、それは趣味だから、飯は食えない。
まだ若いのに、もうちょっと働いたほうがいいと言う。

そうすると、ベトナムには日本に働きに行きたいという若い人がたくさんいるので、人材ブローカーができるのではないかと言っていた。
なるほど。そういう商売はあるかもしれない。
日本は少子高齢化で、若い人が必要だから、ニーズはあるだろう。

そういえば、現地採用の日本人が辞めたとのこと。
その人は、海外青年協力隊で来ていて、そのまま居着いてしまったという経歴。
おそらく、もう帰れないだろう。

あの文科省のプログラムは本当にずさんだ。本人の事を考えていない。
だいたい、就活に失敗したり、就職したけど合わずに早く辞めて行く人が多い。
1回行って、それで日本で就職をすればまだいいのだが、2回、3回と行くと日本では働けない。
なぜかというと、誰でもできることしかやっていないからだ。
たしかに、現地の人たちのためにはなるが、自分のキャリアはダメになる。
事業仕分けでなくなったと思っていたが、なくならない。

話がそれた。
やっぱり、ベトナムは元気だということが結論。
活気がある。

日本の50年代、60年代の雰囲気だろう。

高齢化が進む日本はどうやってこれからやっていくのか、ため息が漏れた。

| | 考えたこと | 22:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
奇跡の教室
WOWOWでやっていた。
2014年のフランス映画。
問題児クラスの高校生たちが、第二次大戦時の虐殺について調べるコンクールを通じて、クラスをまとめるという物語。
出てくる俳優は全く知らない人ばかり。

29の民族がいるクラス。
ぱっとみても、アラブ系、アフリカ系の生徒が白人の中に混じっている。
日本では考えられない。
こういうことが日常的に起こっている国は、やっぱり強い。
平和ボケにはならないだろう。
フランスの個人主義と相まって、人と人は仲良くできない、という状態が当たり前。
宗教も違えば、風習も違う。
そういう人たちがどうやってわかり合うか、ということだ。
日本のように、わかり合うのが当たり前、という文化ではない。
逆に、分かり合えないのが当たり前の世界。
民族や宗教のぶつかり合いだ。
今の西欧諸国はそんな状態になっている。

そういう中で、教師はクラスをまとめようとして苦悶する。
強制収容所の歴史を知ったら、うるさかったクラスも静かになる。
コンクールの発表に向けて、自主的にグループを作り、構成を考え、まとまっていく。
宗教や民族の違いを超えて、生の尊厳について考え始める。

そういう姿を見ると、「死」が大事なことがわかる。
人は「死」を考えることで、謙虚になる。
高齢化社会で、死は遠い遠いものになった。
学校で死について考えることなどない。
だから、生をも真剣に考えられなくなる。
そういう意味で、戦争の悲惨さは伝えられるべきなんだろう。
平和が大事だということよりも、生の尊厳を伝えるべきだ。

現代のヨーロッパの民族の問題と、彼らがそれを乗り越える努力をしていること、そして何より「生」や「死」を教えることの大事さがわかった。

いい映画だった。



| | 映画・舞台 | 23:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
専門家は誰だ
この頃ニュースを見ていると、専門家と称する人たちが出てくる。
たいがいはどこかの大学の「◯◯に詳しい✗✗教授」というような肩書で話している。
まるで、その人の意見が専門家全体の意見のように取り扱っている。
ここにもニュースの劣化があると思う。

だいたい出てくるのは、あまり聞いたことがない大学。
学部の名前も長いものが多い。
伝統的な法学や経済学、工学というようなものではなく、災害のことなら防災ナントカ学部とか、外交のことなら、国際コミュニケーション学部とか…。
文字数の少ない学部名では専門がわからず、学部名で選ぶからそうなるんだろう。

しかし、学部の名称が伝統的でないところは、だいたいは苦しい大学であり、募集が苦しいから学部名を変えて受験生にわかりやすくしている。
そういうところの先生は、ニュースで問い合わせがあったりすると、親切に答えてくれるんだと思う。
大学もそういうことを推奨しているんだろう。
宣伝にもなるから。

結局はニュースを流している局の意見に合うものを、専門家の意見として流している。
1人の専門家(もどき?)の意見を、「専門家はこう言っています」と報道する。
専門家の選択の基準や業績などは全く明らかにされない。
時々、ほんまかいな、というようなことを言う「専門家」もいる。
だいたい、そういうときに出てくる「専門家」は、60歳をはるかに超えているように見える。
とても、海外の最新動向などをおさえているとは思えない。

だから、単に「◯◯に詳しい専門家」と紹介した場合は、話し半分で聞いたほうがいい。
だいたいは当たり障りのないことしか言わないが…。

◯◯という著書を書かれた✗✗とか、本当に視聴者が知っているような専門家なら別だ。
でも、そういう人はなかなかつかまらない。

単に「専門家」と紹介されたら、その意見は局の意見だと思ったほうがいい。

あたかも、それが正しいと言いたいのだ。

そういうことに騙されないように。


| | 考えたこと | 22:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
礼は結構
英会話では、”Thank you”と言われたら、”You're welcome”と返す、と覚える。
“You're welcome”は「どういたしまして」という意味だと習う。

しかし、会話はシチュエーションで決まる。
海外ドラマでこんなシーンがあった。

議員の関係者が殺され、捜査が入る。
でも、議員は捜査などしてほしくないという。
捜査官は、これは自分たちの仕事だと言って議員を見る。
議員は捜査官を睨む。
そこで、間を置いて、捜査官の口から"You’re welcome”が出た。

字幕には、「礼は結構」というセリフ。
なるほど。
そういう意味だろう。

議員は"Thank you"を言わないが、当然言うべきだと考えて、先回りして"You're Welcome"を言った。
だから、意味としては「礼は結構」という意味になる。
これを定石通り「どういたしまして」と訳すと、わかりにくい字幕になる。

まだこういう簡単なのなら、わかりやすい。
でも、皮肉って言うようなシチュエーションはわかりにくいだろう。
そのままの意味ではないからだ。

それは日本語でも同じ。
間違えたことを言った人に、オマエはホントに賢いなあと言うと、明らかな皮肉。
そういうのは、場面を理解していないとわからない。
まあ、時々それがわからない人もいるにはいるが…。

こういうのは母国語でないと、わかりにくい。

今さらながら、バイリンガルにはなれないなあ。

| | 英語 | 22:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
記憶のメカニズム
脳波や実験結果などから、記憶のメカニズムがわかってきた。
アメフラシという軟体動物に電気刺激を与える実験で、メッセンジャーRNAが新しい記憶を作るということが解明された。
DNAレベルでいうと、人間とそんなに違わない。

その結果から、逆に記憶の固定化を阻害する薬ができた。
ある手順を踏んで、薬を飲むと効果がある。
今までクモが怖いと思っていた人たち20人が、毒グモのタランチュラを平気で触れるようになるのだ。
BSのドキュメンタリーを見て、ホントにビックリした。
薬を飲んで、たった一日であれほどクモをこわがっていたのに、手の中にタランチュラを持っている。
科学の進歩は恐ろしい。

逆に、全くウソの記憶を人に植え付けることもできる。
冤罪の構造だ。
やっていないことでも、何度も記憶に植え付けることで固定化するのも、実験で証明していた。

アメリカのすごい記憶力を持つ11歳の少年も紹介されていた。
彼は11歳だが、物心ついてから、何年の何月何日に何をしたか、ということをすべて覚えている。
彼の記憶を呼び覚ますメカニズムを検査していた。
これで、またいろんなことがわかるだろう。

研究者は「人間の脳には彼のように、すべてを覚えておく力もある」ということを言っていた。
でも、普通の人には「忘れる力」があるのかもしれない。
その力が後からできたものか、それとも違うのか、どうなっているのだろう。

これらの研究が進めば、いろんな恐怖症が克服できるようになる。
記憶力を上げることもできるようになるかもしれない。

人間といえども、物理反応や化学反応で動いている。
その仕組がわかれば、何でもできるようになるのは必然だ。

しかし、ここまで進んでくると、倫理の問題も出てくる。
遺伝子の編集やこの記憶の研究なども、どこまでやるのかと思う。

宗教や神の問題だ。

21世紀はそういうものが今までよりも大事になる、というか、大事にしないといけなくなる時代。

紛争のもとにもなってはいるが…。

| | 考えたこと | 00:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
手紙文化
朝のドラマ「ひよっこ」は昭和の時代。
ヒロインは茨城県から高校を出て集団就職。
ラジオ工場で働いていたが、そこが潰れ、食堂で働いている。

当時、電話はもう普及していたが、ややこしい話になるとやはり手紙だ。
あんまり長いこと市外局番で話したりできない。
実家との連絡や、行方不明の父を探してくれた警官との連絡など、少し込み入ったことになると手紙を書く。

もちろん、右から左の縦書きだ。
出てくる人はみんなきれいな字を書く。
この頃の人は、みんな字がきれいだったのかと思うくらいだ。
便箋に何枚かの内容を書く。

たしかに、この頃はメールもないし、FAXもないから、手紙が大きな通信手段だった。
当時の文学者の全集には、書簡集などもあった。
太宰治の書簡集は読んだ覚えがある。
金を貸してくれとか、賞を取りたいとか、わりとそういう下世話な手紙が多かった。
ゴッホも書簡がまとまって残っており、小林秀雄がそれについて書いていたりした。

これからはもう書簡集など出ないだろう。
手紙というと、最近はダイレクトメールしか見たことがない。

手紙からメールに変わったことで、一番大きいのは、伝わる時間と手間が大きく減ったということ。
こないだ、現代の代書屋のドラマがあったが、手紙を代書するときの作法が描かれていた。
まず、封筒と便箋を選び、ペンの種類、インクの色を決めて、その上で正座して書く。
あれはちょっと誇張されているが、それでも感じはよく現れている。

手紙を書くというと、少し改まった気分。
拝啓で始めるのか、前略で始めるのか。
季節のあいさつはどうするのか。
本題はどう切り出すか。
文机に正座するわけではないが、そういう手順を踏んでいると、自然と背筋が伸びてくる。

今はぼくらはメールだし、若い人たちはラインなどのチャットだ。
まだメールなら長文もあるが、チャットなら本当に短文。
すぐ読まれることが前提の文章になる。
待つことの良さがなくなってしまった。

そういえば、授業でもプリントを配らないと、板書をスマホで撮ったりする学生がいると聞く。
板書を写真に撮るというような発想は、スマホ世代だ。
でも、自分でノートに書くという行為を通じて、覚えたりまとめたりするのだが…。

手紙世代の人たちは、ぼくらのメールの文化を同じように見ているのかもしれない。
いつの世も、消え去るものには郷愁がある。

またその中から、新しい文化が生まれてくるんだろう。

| | 考えたこと | 01:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
文化部の衰退2
夏の高校野球が始まり、ある種お祭り騒ぎの状態になるが、その裏で野球部員が減っているという記事を見た。
それ自体は子供の数が減っているのだから仕方がないと思う。
サッカーという強力なライバルが現れたのだから、よけいのことだ。
高野連は、1校では9人揃わないので、いくつかの学校が集まって試合に出るというのも全面的に認めているらしい。
女子部員もベンチ入りできるようになったし。

そんなわけで、特に子どもの少ない地方では、全国から野球をやりたい生徒を集めてくる私学しか勝てなくなってきている。
そもそも野球部員がいない高校が増えてくると、県外からの留学を認めたツケがそういう形で出てくる。
そうなると、地方の野球有力校の方が圧倒的に甲子園に出られる確率が上がるので、どうしても甲子園に出たいと思う生徒で、親にお金があれば行くことになる。
中学の野球リーグとそういう高校が結びついて、すでにルートもできていると聞く。
それ自体は、ルールの中でやっているのだから、悪いことでも何でもない。
裏ではお金が動いているような気もするが…。
そのおかげで、最近は優勝旗が行く県が増えた。
ただ、募集の問題で、高校野球で有名になりたいという私学を助けている面はあるだろうが…。

ぼくは少子化の影響で、野球部が衰退しても仕方ないと思う。
それよりも、文化部の衰退が記事ならないことを憂う。
何度も書くが、「コクリコ坂から」というという映画の中に、昭和の高校生の豊かな文化部が描かれていた。
この映画は、古き良き文科系のクラブへのオマージュだ。
授業はサボるものではなく、「エスケープ」するものだった。
そんな文化があった。
ぼくらの世代より少し前だ。
そういう言葉だけは知っている。
ぼくらの世代でも、潰れかけていたとはいえ、たくさんの文化部があった。

今の高校生を見ていると、そういう多様なクラブ活動などあるのかと思う。
運動部が主体で、文化系のクラブというとブラスバンド、コーラスなどの団体競技など。
大学生に高校時代のクラブ活動を聞いても、それら以外のクラブ名で出てくるのは女子の美術部や茶道部くらいだ。
新聞部や弁論部、文芸部、物象部、化学部、鉄道部などの名前は聞いたことがない。
少子化に伴なって生徒が減る前に、そういうクラブは減っていたのではないか。

それはとりもなおさず、高校の先生が一様化したということの現われだろうと思う。
指導する先生がいなくなった。
今、クラブ活動で残業が取り沙汰されているが、文化系のクラブなどどちらかというとほったらかしだった。
文化祭の時などに相談に乗ってもらう程度だったのではないか。
程度の差こそあれ、何かに興味を持つ生徒が放課後集まる場所になっていたのだと思う。
それがなくなった。
当時の高校生の文化的レベルがそんなに高かったとは思わないが、文化的に背伸びをしている生徒たちは今よりも多かったと思う。
高校生はもっと大人だった。

もちろん、貧困化の影響はある。
文化部が衰退した分は、高校生アルバイトが増えて吸収しているのかもしれない。

企業では多様性のある学生が欲しいと言っているが、確実に高校のクラブ活動を見ていると、一様化した。
その原因は先生が一様化したからだと思う。
悪くいえば、脳ミソが筋肉の先生が増えたのだろう。

この問題は根が深い。


| | 考えたこと | 00:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
第四の権力
南米かどこかからヒアリというのが来て、ちょっとしたニュースになった。
昆虫もグローバル化の影響を受けて、いろんなところに出没するようになった。
船積のコンテナに入って、長い船旅をして来るのだから、生命力は強いんだろう。

毒性があるらしく、噛まれたら痛いとのこと。
刺された人の記事によると、クラゲに刺されたような痛みだったとのこと。
噛まれたら、最悪の場合はショック状態になる場合もあるが、それは環境省によると1〜2%。
適切な処置をすれば死亡は防げる。
ネットによると、蜂に刺されたことがある人は要注意(アナフィラキシーショックを起こすから)という記事もあった。

南米が原産だが、フロリダやテキサス、中国、オーストラリア、東南アジアあたりにもたくさんいるとのこと。
温暖化も伴って、どんどん勢力を拡大している。
スズメバチ科のアリで、毒もそれに近いらしい。

もちろん、防疫の観点から担当の役所には頑張ってもらいたい。

しかし、最近のマスコミを見ていると、報道に冷静さを欠くような気がする。
事実を伝えるのはもちろんだが、どう伝えるべきかという「編集」の観点はないのだろうか。
恐がることを煽るよりも、正しく恐がるべきだ。

今の日本、マスコミも含めて平和ボケしているから、セアカコケグモの時もわりとセンセーショナルなニュースになった。
もっと冷静に、噛まれたらどうしたらいいのか、日本のアリを間違えて殺さないようにとか、科学的に説明するメディアはないのだろうか。
死亡の原因はアナフィラキシーショックであり、どういう点に注意しないといけないとか、そういう報道はなく、あの拡大されたアリのスライドが映される。
大きくても6ミリらしいから、あの画面に拡大されたものにはスケールを入れるべきだ。

それよりももっと恐がらないといけないことがあるのではないか。
財政の問題など、もっと報道しないといけないのではないか。
そういうまともな視点のマスコミがなくなったような気がする。

大衆の娯楽だったテレビは、若い人たちをYoutubeに取られて、年寄りの娯楽になった。
必然的にニュースも年寄り向けになる。
本来はワイドショーなどは、ネットで情報が取れない人たちに、世の中の情報を与える役割だと思うが、井戸端会議の域を出ない。
情報弱者=高齢者であり、その人たちにもっと数値に基づいた、科学的な知識を与えないといけない。
ヒアリの場合なら、死亡率は1〜2%という数字だ。

今の財政の問題を語ろうとすると、どうしても高齢者には耳に痛い話になる。
でも、それを敢えてしないから、今の状態になった。
8月から保険が変わるというニュースの裏側に、どれだけの債務があって、それは将来世代の負担になっているとか、若い人は社会保障の負担がどんどん大きくなっていっているとか、そういうことは伝わらない。

これでは「ペンは第四の権力」ということにはならないぞ。


| | 考えたこと | 19:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
人類の最大の皮肉
原爆記念日の広島市長の宣言を読んだ。

へそ曲がりのぼくは、なんとも気持ちの座らない違和感を感じた。
言っていることは正しいし、核兵器を廃絶すべきだというのはもっともだ。
でも、この宣言を読んでいると、何となく優しさがない。
トゲトゲしているのだ。

ぼくは70年にわたって、超大国同士が直接力を行使するような戦争が起きなかったのは、世界を滅ぼす核兵器という武器を手に入れたからだ、という側面があると思っている。
ぼくらが小学校のとき、少年漫画ですら核戦争の記事が出て、日本は水爆5発で滅びるというようなことを読んだおぼえがある。
怖いと思ったし、なんでそんな兵器を開発しているのかとも思った。
しかし、日本が70年間の長きにわたって平和を享受できたことの一つの要因は、アメリカの核の傘の下にあったということもまた真実だと思ってしまう。
その事実をどう取るかということは、難しい問題だ。

核が戦争を抑止するというのは、世界中で言われていることだ。
逆に言うと、そういうものを持たないと、人類は戦争を思いとどまれないということでもある。
人類の歴史は戦争の歴史だし、それが文明を発展させてきたという側面もまた事実だという人もいる。
それを抑止できるのは、「全人類が滅びる可能性、つまり自分たちも滅びること」だということだ。
情けないが、人類はそんなに賢くないのだろう。
その証拠に、日本だって馬鹿げた戦争を始めたのだ。
その反省もない。

その人類の最大の皮肉に少しでも言及してほしかった。
そうすることで、もっと宣言が多くの人の心に訴えるものになったのではないか。

政治的に難しいことはいろいろあるんだろうけど。

| | 考えたこと | 16:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
アメリカはすごい
何度か、和田秀樹のことを書いた。
この人は精神科医だが、精神分析もやっており、この分野が進んでいるアメリカに定期的に行っているらしい。
アメリカでは、精神分析は「飯を食える」仕事になっており、認知行動療法の人気に対抗すべく、精神分析の理論や実践がフレキシブルに変わっているとのこと。
実際、いろんな民族がいて、日本のように黙っていても分かり合えるというような国ではないから、人と人との軋轢のストレスが多くて、ニーズがあるんだろう。
やっぱり移民の国だ。

彼の記事によると、アメリカに行くと、日本が得意だと思っている分野でも、どんどん新しい技術が出てきているとのこと。
今回の訪問ではトイレとカーナビが上がっている。

まず、公衆トイレが「ウォーターフリーテクノロジー」というものになっているとのこと。
水を流さないのに、臭くならないし、汚れもつかない。
水が貴重な国では売れる技術だろう。

カーナビについては記事を引用すると、

「 数年前は、アメリカのカーナビには渋滞情報がなかった(今でもレンタカーのカーナビは渋滞情報がついていない)ので、都市部では不便だった。高速道路はタダとは言え混むことが多いのだが、カーナビでは早く着ける一般道も教えてくれない。アメリカはダメだなと思っていたら、ITの時代になるとGPSによる位置情報の精度の良さを活かし、SNSと連携してリアルタイムの投稿を渋滞情報に反映する機能を持つアプリが登場した。そのため、交通取り締まりや何らかの突発的な渋滞まですぐに表示され、予想到着時間に反映される。このシステムが提供されたことで、最も早く到着するルートの割り出しや到着予想時刻の計算も恐ろしく正確になっている。日本の官製の渋滞情報は主要道路しか使えないので、裏道も混んでいるときには役に立たないが、アメリカ企業はその問題もクリアした。」

アメリカは、人々の力を利用する仕組みを作るのは得意だ。
AirB&BやUberはもちろん、このカーナビも同じこと。
SNSと連携して、リアルタイムの投稿から渋滞情報に反映するとは驚く。
スマホを利用したカーナビアプリがそんなに進んでいるとは思わなかった。
みんなで助け合うという、シェアリングエコノミーというのが、アメリカの風土に合っている。

おまけに、コンピューターの技術の世界は、アメリカは強い。
どんどん新しい会社が出てくる。
いろんな規制がないことも、そういう行動を後押ししているんだろう。

クルマに据え付けるナビはもう要らないということか。
一つの市場が消えた。

ついでに、日本の英語教育についても言っている。

「 日本人の英語力についての批判は「読み書きはできるが、聴く話すはできない」だったが、そんなことを言っている時代からTOEFLの日本人の平均点は読み書きでもアジアで最低レベルだった。実際、英字新聞を読む大学生は、東大生でもほとんどいなかった。話せないというが、自分の言いたいことを書ける日本人がどれだけいたというのだろうか。

 それなのに、読み書きの授業時間を削って、オーラルコミュニケーションなるものの時間を増やした。日本人の英語力崩壊は進み、短期を除く日本からの留学生は減っているのが実情だ。まさに国際化と逆行する結果となったのだ。

 日本人は「従来型の学力」は高いが、表現力や創造性に欠けるという理由から、2020年からはすべての国立大学をAO入試化する改革が予定されている。しかし、すでに従来型の学力でも韓国や中国や台湾に抜かれているというデータはいくらでもある。」

この人はずっと今の英語教育の方針は間違っている、と言っているが、その通りだと思う。

ぼくはもう英語を使わなくなって、14年ほど経ち、昔に比べると全く英語力は落ちたと思うが、それでも、ネィティブの如く話すことよりも、英語を読み書きすることの方が大事だと思う。
読み書きできれば、話すことはできるだろう。
たとえ、発音に問題があったり、聞き取れなくて流暢に話せなかったりしても、日本のサラリーマンは海外に出ていって輸出を増やしたではないか。

間違ってほしくないが、流暢に話せたほうがいいに決まっている。
しかし、読み書きができなければ、話す内容など知れている。
流暢に話せるが世間話程度の人と、たどたどしいが専門的内容の人と、どちらがいいかということだ。

後者の方がいいに決まっている。

だから、和田秀樹は正しい。


| | 考えたこと | 23:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
福島はフクシマか
テレビ朝日が8月6日に放送すると予告していた番組のタイトルが、変更になった。
元のタイトルは「ビキニ事件63年目の真実〜フクシマの未来予想図」。
ビキニ事件とは、若い人は知らないかもしれないが、ぼくらの世代はかろうじて知っている。
冷戦時にアメリカが行った水爆実験で影響があったとされている地域だ。
題名を見た時、こんな番組を放送していいのかと思ったら、やっぱり批判が相次いで、「フクシマの未来予想図」は削除したとのこと。

本当に最近のマスコミは、科学的な視点がない。
フクシマがビキニと同じという論旨で作っていたのなら、それは全く違う。
そんなものを関連付けるのは、どう考えても科学的でない。
福島の放射能を、水爆実験で被爆したところと同じという事を言いたかったのか。
だとしたら、頭がおかしいとしか言えない。

こないだの横浜のいじめにつながる言動といい、原発や放射能に関してのマスコミのミスリードがひどい。
ミスリードされる方もされる方だと思うが、テレビで言っているということになると、騙される人が出ても仕方がないと思う。
もう少しちゃんと科学的に今の状況を見るべきだろう。

と思ってネットを検索してみると、まだまだいろんな記事がある。
放射能の影響、原発の是非については、いろんな意見があるのかと思った。

福島産の桃は絶対買わないという人から、風評被害だという人まで、いろいろいる。

専門家と言われる人たちが、意見を異にしている事が原因だろう。
一度専門家で集まって、現地を視察し、計測して統一見解を出せないのだろうか。
それとも、もうこれは科学の問題ではなく、イデオロギーなんだろうか。

真実はだいたいは一つだし、解釈の違いは科学者なら話し合えるはず。

テレビ局がワケの分からない番組を作るのを、もう止めないといけない。

神学論争はもうやめよう。
ぼくらは科学の時代に生きているのだ。

何とかならないのか…。


| | 考えたこと | 23:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
教育困難大学
東洋経済オンラインに「教育困難大学」のあまりにもひどい授業風景、という記事が出た。

今までは「教育困難校」とあって、主に高校のことが書いてあったと思うが、だんだんと上に上がってきたらしい。
今回は?育困難「大学」になった。
この著者の書いていることは正しい。
正しいどころか、まだ指摘が足りないと思う。

教育困難校はFランク大学とも言われ、「望めば入れる」という入試をやっている。
結局、経営のためには「建学の理念」は捨てるということだ。
なぜ入試をやるかというと、その大学の教育システムで教育できる学生を選抜するためだ。
その入試がそもそも機能していない、という大学。
偏差値が上の方の大学はそんなことにはなっていないが、下の方は本当にそういう状態。
志願者を集めるために、推薦、AOで先に受験生を集めて、足りない分を一般入試でとる。
それでも、一般入試はほとんど落ちなかったりする。

文科省もそれは分かっていて、AO入試を一般入試の枠にしている。
4年制大学は推薦入試では半分までしか取れないからだ。
AO入試は「やる気のある学生」を取ることになっているから、高校課程が終わらなくても実施できる。
それが青田刈りの温床になっていることは、多数の文科省の天下りの人たちはわかっているが、一向に改善しようとしない。
高校の進路指導もそれに甘えて、指導が難しい学生(当然、推薦枠には入らない)はAO入試を勧める。
AO入試は一般入試と同じ時期にすれば、少なくとも半分の学生は高校課程を終わりまで勉強するのだが、それをすると高校も、大学もいろいろと大変になるからやらないのだろう。

この記事の中にも書かれているように、下位の大学では、もはや低い学力は当たり前になっており、多くの教員も諦めている。
今の文科省が進めている「アクティブラーニング」も、ここでは学生が寝るのを防ぐためのものだ。
それ以外の何者でもない。

ほとんどの教員は自分が受けてきた教育をしようとして失敗する。
それ以外はできないから、諦めて学生のレベルに合わせた授業をする。

記事の中で2000年当時から学力が下がったという認識だが、退学率は上がっていない。
どうして学生のレベルが下がったのに、授業についていけるのだろうか。
それは簡単で、授業のレベルが下がっているからだ。

結局教えることを諦め、学生のレベルに合わせて遠足をしたり、映画を見せて感想を書かせたり、まともな授業をしなくなる。
当然、得るものはほとんどない。
教員もそれはわかっているのだが、求めるレベルの授業をすると、学生はほとんど単位が取れない。
入れたからには出すという責任という美名のもとに、授業のレベルを下げる。

前にも書いたかもしれないが、英語の非常勤の教員に「このままで日本は大丈夫か?」と言われたのが2010年くらいだったか。
英語の授業でアラビアのトピックをやったら、学生のほとんどはアラビアがどこにあるのか知らないぞ、という話だった。
「日本は大丈夫だとは思わない」と答えたが、あれから状況はまだまだ悪化している。

ぼくは学習支援室を作ったり、入ってきた学生のレベルを確認するテストをやって教員に伝えたりしたが、効果はほとんどなかった。
しまいに、教員から「やる気が無くなるから、そういうことは言わないでほしい」という意見すら出た。
そういう学生が、就職で苦労するのは必然だろう。
入れたからには出すという責任を言うのなら、もっと汗をかいて教えないとイケナイはずだ。

たまにまともに教えようとする先生は、疲弊してしまう。
そういう先生に、シンドイ必修の大人数の授業が割り当てられる。
もう大人数では教えることができない、という状態なのに、熱心でない諦めた先生方は必修の授業をちゃんと考えることもしないのだ。
そういう先生は自分の趣味のような授業でお茶を濁す。
カリキュラムの体系などあったものではない。
学生もかわいそうだ。
そんなこんなで、マジメな先生が疲弊する体制が延々と続き、結局学生たちは何も学ばないまま出ていく。

記事の中に、「中小企業経営者から真顔で「就職試験をやると、高卒生と大卒生の得点がほとんど変わらない、場合によっては高卒生の方が高得点のこともある、大学生は4年間をかけて何を勉強しているのですか?」と聞かれた」と書いてある。
そういう学校で単位を取り、4年間をアルバイトに明け暮れたら、そうなるだろう。

正社員なら社員教育も受けるが、アルバイトにはそんなシステムはない。
結局若い人たちに4年間の時間を浪費させているのだ。
記事の中にも、「4年間、学生がほとんど何も学ばないまま、形骸化した「学士」を量産して世に送り出しているのが現実だ」と書いてある。

小学校の算数の問題ができない大学生に「学士」を出してもいいんですか?、と大学の中枢の会議で言ったことがある。
「大学は専門教育さえやっていればいい」という理屈で却下されたが、世間の目はそうは見ない。
それが中小企業経営者の意見になっている。
大学がいかに社会の常識から離れているか、ということだ。

大学教員も、おそらく本音ではそんな学生には、学士を出したくないのだろう。
それでも、自分たちの生活のためにはやむを得ないと思っている。
若い人たちの犠牲の上に、大学教員の生活が成り立っているということだ。

併設の短大の先生が退職時に「教育とは志を高く掲げること」という記事を書かれた。
その先生は教育熱心で、授業も工夫をされ、学生からの評判も就職先からの評判もよかった。
下位の大学の価値とは、そういう先生がどれだけいるかで決まる。

願わくは、そういうマジメな先生が疲弊しないことを祈る。

| | 考えたこと | 20:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
ホワイトハッカー
昨今のランサムウェアの問題で、ネットのセキュリティが大事だということは事実。
でも、日本は今まで言葉の壁もあって、ある程度守られていたが、それも怪しくなってきた。
これだけメールが使われるようになると、そこからハッカーが仕掛けてくるのは必然だろう。

ランサムウェアのように気づいたらまだいい。
気づかぬ間に情報が漏えいしていても、わからない。
日本の役所のリテラシーは、年金事務所の例などを見ても分かるように、極めて低いからホントに怖いと思う。
今は007のように命を懸けて潜入して、情報を取らなくても、メール1本でバックドアを開けて情報を取れるような時代なのだ。

こないだぼくもアップルIDでひっかかりかけた。
時々Gメールの迷惑フォルダに入っているメールをチェックするのだが、そこにアップルIDの確認のメールが来ていた。
そこで、なぜそれが迷惑フォルダに入っているのかということを考えたらよかったのだが、ぼやっとしていたのか、それを受信フォルダに動かして、IDとパスワードを入れようとして気が付いた。
アドレスがオカシイ!
そこで事なきを得たのだが、Gメールはちゃんと「迷惑」と判断したのはスゴイと思う。
アップルIDは登録と同時にクレジットカードの情報も入れないといけないから、ほんとに危なかった。

そういう技術を持った人を、もっと輩出しないといけない。
看護も大事だが、情報セキュリティはもっと大事だ。
情報セキュリティというのは、現場での知見が大事であり、実務家教員もたくさん必要になるだろう。
調べてみると、「情報セキュリティ」を学べる大学などほとんどない。
情報工学科やコンピューター専門学校などで教えてはいるんだろうが、もっと高度なことを教えるところはないんだろうか。

またドラマの話になって恐縮だが、アメリカでは捕まえたハッカーを、刑務所に入れる代わりにホワイトハッカーとして雇っている、というのが出てくる。
きっとほんとにやっているんだろう。
ハッキングというのを教えるのは、難しいのかもしれない。
学問体系の中で、「ハッキング」をどう位置付けるかということだ。

と思っていたら、高等専門学校で「正義のハッカー」を育成、という記事を見つけた。
取材されていたのは石川高専。
サイバーテロにどう立ち向かうかを学んでいる。
その教材はロシアの情報セキュリティー会社のものだが、それを使って自治体の情報を守るにはどうしたらいいか、というゲームを実戦さながらにやったとのこと。

大学はそうでもないが、国立高等専門学校機構は情報セキュリティー人材の育成に積極的とのこと。
そういえば、ロボコン(ロボットコンテスト)への参加も熱心だった。

記事によると「機構は昨年、高知、一関、木更津、石川、佐世保の5つの高専を指定し、15歳からサイバーテロに立ち向かう「早期情報セキュリティー人材の育成」を目的としたカリキュラム(教育課程)開発に乗り出した。「正義のハッカー」育成の舞台は高専。名付けて「ペンタゴン高専」だ。」とのこと。

頑張って人材を育成してほしい。

経済産業省の調査によると、あらゆるものがネットにつながるIoT時代を迎えて、情報セキュリティー人材は2019年には19万人も不足するとのこと。
人材が不足すると、せっかく日本でモノを作っても、簡単にハッキングされるようなものでは信用されなくなるから、売れないだろう。
この分野を強化することは急務だと思う。

「情報系技術者を目指す高専生にはより高度なセキュリティー教育を行う。飛び抜けたセキュリティー技術を持つ1%以下の高専生にはさらに専門的で実践的な教育プログラムを設け、トップレベルの技術者の継続的な輩出を狙う。この世代の人口は各年齢で約100万人。高専に進むのが1万人だからその1%以下の100人以下の超エリートを生み出そうとする意欲的なプログラムだ。
 高専には数学が三度の飯よりも好きという学生が必ずいる。大学レベルの数学を独学で学び、物理学の世界へ足を踏み入れ、それを深めようと高専の門を叩(たた)く猛者もいる。彼らこそが1%を担う金の卵なのだ。」

頑張って進めてほしい。

それにしても、大学はもっとその分野をやるべきだと思う。

これだけ需要があるのに、何でやらないのだろうか。
先生が不足しているのだろうか。
それこそ、国策で金を出してもやるべきだ。


| | 考えたこと | 22:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
消費者金融
「サラ金」という言葉ができたのは70年代。
一時は悪の権化のような言い方をされていた。

武富士、プロミス、アコム、アイフル、レイクといったような社名が、コマーシャルを通じて知られるようになった。
それとともに、「計画的に借りられない」人がどんどん借りるようになり、事故も増えた。

1982年には「全国サラ金被害者連絡協議」が作られ、83年には貸金業規制法(貸金業の規制等に関する法律)、改正出資法が成立・施行されて、上限金利が引き下げられた。
ここから、いわゆるサラ金の会社が傾き始めた。

しかし、90年代に上場企業になり、2000年代に息を吹き返したが、2006年に「グレーゾーン金利」が違法にあたるという最高裁の判断もあって、倒産したり、銀行の傘下に入り今に至っている。
メガバンクでは三菱東京UFJがアコム、三井住友がプロミスという図式。
ちょうど収益性が落ちた銀行と、会社として個人向け融資の支援をしてほしいサラ金企業が、Win-Winの関係になった。
もうサラ金という言葉はなくなり、消費者金融という新語ができた。

そして去年、日銀がマイナス金利の政策を打ち出し、収益性の落ちた銀行が消費者金融に目をつけて、今や銀行グループの目玉になっている。
カードローンという商品。
2016年末から残高が50%増えて、6兆円になっているとのこと。

増えているのは若者だけでなく中高年。
医療費が増えているのだろうという記事もある。
要は個人を相手にしないと、借り手がない状況だということだ。

企業に借りてもらおうとしても、大きな企業はお金が余っている。
小さな企業には銀行は担保がなければ、なかなか貸さない。
本当に事業を目利きして、貸すという本来の銀行の仕事ができていない。

しかし、いくら「ご利用は計画的に」と言っても、簡単な審査で金を貸すのだ。
そんなに計画的には済まないだろう。

不景気な日本でこんなことをやっていていいんだろうか…。


| | 考えたこと | 23:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
年を取ると…
こないだの土日に、泊りがけで有馬に宴会に行った。
以前勤めていた会社の保養所で、OBが集まってゴルフと宴会をする、という計画。
ぼくはメンバーに欠員が出て、宴会だけ来ないかというお誘いが来て、参加することになった。

現役が1名、ぼくがその次で、他のみなさんは1度は定年を迎えている。
60歳でいったん定年して、再雇用で65歳まで働くというパターン。
一番年上は72歳で、完全に辞めてから7年経っているというメンバー。

その72歳の方は、シルバー人材センターで剪定の仕事をしている。
昔でいえば植木屋さんだ。
趣味が高じて始めたが、今はかなりランクが上になったらしい。
3年やって、初めて松を扱えるというハナシを聞いた。
剪定の仕事はニーズが多く、年間で平均しても月に10日は働いているらしい。
そういえば、日焼けして真っ黒だった。

その方を筆頭に、8名が集まった。
完全リタイヤは1名のみ。
他の方は再雇用の立場だった。
でも、もうすぐ65歳を迎える人もいて、どうしようかな、という感じだった。
65歳まで働いてしまうと、その次を見つけるのは難しいと思う。
元気がある間に、セカンドライフを設計しないといけないなあ。

ホテルカリフォルニアを演奏するために、12弦ギターを買ったのだが、君買わないかという問い合わせもあった。
押さえるのがしんどくて、なかなか弾けないとのこと。
丁重にお断りした。

驚いたのはみんな寝るのが早く、朝起きるのが早いこと。
何十年か前なら、8時ごろから麻雀組と宴会組に分かれて夜中まで騒いでいたのだが、だいたい9時前に一人、10時過ぎに3人ほどダウン、結局12時くらいまで話していたのはぼくと最年長の方の2人だけ。
みんな早々に寝て、朝5時ごろに起きて散歩をしたと朝言っていた。

そういうハナシは聞くが、現実に目の当たりにして、驚いた。
昔は遅くまで騒いでいたメンバーが、そうなるのだ。
時代は変わった…。

ぼくはまだ夜9時に寝て、朝5時に起きるという生活にはなっていないが、前例をみるとそうなる日もそのうち来るんだろう。
実際に昔そうしていなかった人たちが、そうなる。

変われば変わるものだと感心した。

ぼくはまだ若いぞ。



| | 考えたこと | 00:16 | comments(0) | trackbacks(0) |