東洋経済オンラインに
「教育困難大学」のあまりにもひどい授業風景、という記事が出た。
今までは「教育困難校」とあって、主に高校のことが書いてあったと思うが、だんだんと上に上がってきたらしい。
今回は?育困難「大学」になった。
この著者の書いていることは正しい。
正しいどころか、まだ指摘が足りないと思う。
教育困難校はFランク大学とも言われ、「望めば入れる」という入試をやっている。
結局、経営のためには「建学の理念」は捨てるということだ。
なぜ入試をやるかというと、その大学の教育システムで教育できる学生を選抜するためだ。
その入試がそもそも機能していない、という大学。
偏差値が上の方の大学はそんなことにはなっていないが、下の方は本当にそういう状態。
志願者を集めるために、推薦、AOで先に受験生を集めて、足りない分を一般入試でとる。
それでも、一般入試はほとんど落ちなかったりする。
文科省もそれは分かっていて、AO入試を一般入試の枠にしている。
4年制大学は推薦入試では半分までしか取れないからだ。
AO入試は「やる気のある学生」を取ることになっているから、高校課程が終わらなくても実施できる。
それが青田刈りの温床になっていることは、多数の文科省の天下りの人たちはわかっているが、一向に改善しようとしない。
高校の進路指導もそれに甘えて、指導が難しい学生(当然、推薦枠には入らない)はAO入試を勧める。
AO入試は一般入試と同じ時期にすれば、少なくとも半分の学生は高校課程を終わりまで勉強するのだが、それをすると高校も、大学もいろいろと大変になるからやらないのだろう。
この記事の中にも書かれているように、下位の大学では、もはや低い学力は当たり前になっており、多くの教員も諦めている。
今の文科省が進めている「アクティブラーニング」も、ここでは学生が寝るのを防ぐためのものだ。
それ以外の何者でもない。
ほとんどの教員は自分が受けてきた教育をしようとして失敗する。
それ以外はできないから、諦めて学生のレベルに合わせた授業をする。
記事の中で2000年当時から学力が下がったという認識だが、退学率は上がっていない。
どうして学生のレベルが下がったのに、授業についていけるのだろうか。
それは簡単で、授業のレベルが下がっているからだ。
結局教えることを諦め、学生のレベルに合わせて遠足をしたり、映画を見せて感想を書かせたり、まともな授業をしなくなる。
当然、得るものはほとんどない。
教員もそれはわかっているのだが、求めるレベルの授業をすると、学生はほとんど単位が取れない。
入れたからには出すという責任という美名のもとに、授業のレベルを下げる。
前にも書いたかもしれないが、英語の非常勤の教員に「このままで日本は大丈夫か?」と言われたのが2010年くらいだったか。
英語の授業でアラビアのトピックをやったら、学生のほとんどはアラビアがどこにあるのか知らないぞ、という話だった。
「日本は大丈夫だとは思わない」と答えたが、あれから状況はまだまだ悪化している。
ぼくは学習支援室を作ったり、入ってきた学生のレベルを確認するテストをやって教員に伝えたりしたが、効果はほとんどなかった。
しまいに、教員から「やる気が無くなるから、そういうことは言わないでほしい」という意見すら出た。
そういう学生が、就職で苦労するのは必然だろう。
入れたからには出すという責任を言うのなら、もっと汗をかいて教えないとイケナイはずだ。
たまにまともに教えようとする先生は、疲弊してしまう。
そういう先生に、シンドイ必修の大人数の授業が割り当てられる。
もう大人数では教えることができない、という状態なのに、熱心でない諦めた先生方は必修の授業をちゃんと考えることもしないのだ。
そういう先生は自分の趣味のような授業でお茶を濁す。
カリキュラムの体系などあったものではない。
学生もかわいそうだ。
そんなこんなで、マジメな先生が疲弊する体制が延々と続き、結局学生たちは何も学ばないまま出ていく。
記事の中に、「中小企業経営者から真顔で「就職試験をやると、高卒生と大卒生の得点がほとんど変わらない、場合によっては高卒生の方が高得点のこともある、大学生は4年間をかけて何を勉強しているのですか?」と聞かれた」と書いてある。
そういう学校で単位を取り、4年間をアルバイトに明け暮れたら、そうなるだろう。
正社員なら社員教育も受けるが、アルバイトにはそんなシステムはない。
結局若い人たちに4年間の時間を浪費させているのだ。
記事の中にも、「4年間、学生がほとんど何も学ばないまま、形骸化した「学士」を量産して世に送り出しているのが現実だ」と書いてある。
小学校の算数の問題ができない大学生に「学士」を出してもいいんですか?、と大学の中枢の会議で言ったことがある。
「大学は専門教育さえやっていればいい」という理屈で却下されたが、世間の目はそうは見ない。
それが中小企業経営者の意見になっている。
大学がいかに社会の常識から離れているか、ということだ。
大学教員も、おそらく本音ではそんな学生には、学士を出したくないのだろう。
それでも、自分たちの生活のためにはやむを得ないと思っている。
若い人たちの犠牲の上に、大学教員の生活が成り立っているということだ。
併設の短大の先生が退職時に「教育とは志を高く掲げること」という記事を書かれた。
その先生は教育熱心で、授業も工夫をされ、学生からの評判も就職先からの評判もよかった。
下位の大学の価値とは、そういう先生がどれだけいるかで決まる。
願わくは、そういうマジメな先生が疲弊しないことを祈る。