考えたこと2

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バンド人口減少
若者でバンドをやりたい人が減っているらしい。
楽器店でも、若者向けよりも中高年向けの楽器の方が売れる。
へー、そうなのか。
若い人の絶対数が減っているのもあるとは思うのだが…。
そういえばネットで中高年向けのギター教室を宣伝しているなあ。

業界では中高年に買ってもらっても複雑な心境らしい。
中高年で楽器を買う人は、基本的に若いときにやっていた人で、新たな需要は開拓できず、このままいくと先細りになるという。
そういえば、ギターケースを背負って(昔のように、手でケースを持つのではなく、今はリュックのように背負うのが主流だ)歩いている高校生や大学生は減った。

バンドをやろうとすると、お金がいるのも原因かもしれない。
今の流行りは、フォークギターだけのバンドではない。
バンドというと、エレキギター、エレキベース、キーボード、ドラムスという構成がメイン。
そうなると、電気楽器を揃えないといけない。
アコースティックギターよりも、高くつく。アンプなども必要だからだ。
電気を使うから、レンタルスタジオでないと練習できない。
楽器は安くなったが、同時に日本は貧しくもなっている。
ギブソンが破産したように、ギターの人気がなくなっているのもあるだろう。
大学生ならともかく、中高生では小遣いが足りない。

メンバーを集めるのも大変だ。
好みが多様化したから、同じ方向性のメンバーを集めるのが難しい。
ロック、J-Pop、ヒップホップなど、いろいろある。
一人でコンピューターでボーカロイドで作るというのもありだ。
世の中、複雑になった。

歌番組が減ったのも影響しているという。
ヘッドフォンなどで、音楽には常に接しているのだが、音楽が消費財になってしまって、憧れの対象でなくなったというのもあるだろう。

いろんな要因が重なって、バンド人口が減っている。

これも少子化の影響が大きいんだろうなあ。


| | 考えたこと | 11:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
アクティブ・ラーニング その4
アクティブ・ラーニングについては何度か書いているが、いつも見ている中沢氏(元小学校で教師をやっておられた)のブログに記事があった。

中沢氏は、今コンピューターの世界で、AIとか、IoTとか、ビッグデーターとか言っているのと同じようなものが、教育業界での「アクティブ・ラーニング」だという。
この、アクティブ・ラーニングという言葉は、かなり広い意味で使われており、それ自体は文句のつけようがない、という。
だから、必然的に現場の教員も何をやっていいのか、今ひとつ判然としないらしい。

記事を引用すると、「「アクティブ・ラーニング」は、本名は「主体的対話的で深い学び」と言います。これはが「アクティブ・ラーニング」がすでに商標登録されていたから、急遽、「主体的対話的で深い学び」というまどろっこしい言いかえが行われたようです。この時点で、迷走感が満載ですね。」

アクティブ・ラーニングが商標登録されていたとは知らなかった。
これは、アメリカでは80年代くらいに高等教育改革の中で普及していった教育法の総称で、すでに「これは失敗だった」と総括されているようだとのこと。
それを今から日本でやろう、ということだ。

前にも書いたように、アクティブ・ラーニングと言って思い出すのは、ハーバードのサンデル教授がやった「白熱教室」だ。
あれは、マイケル・サンデルという的確な質問や問題提起ができる見事なガイド役と、それに応える優れた学生がいて、初めて成り立つものだと思う。
あのファシリテーションのスキルは大したものだと思う。
テーマについて、深い知識とたくさんの事例を知っていて、結論を出さないまでも、論点を明確にするための質問を出す能力のある学生がいるからこそのものだ。
どんな学校でも、どんな生徒でもできるというものではない。

中沢氏はそれを今の教員がやろうとすると、

「登場人物の(道徳的に正しい)心情を話し合おう」「公式を「発見」しよう」「かけ算の順番を考えよう」「みんなでやってはいけないことを決めよう」「順番に当番をまもるにはどうしたらいいだろう」「気持ちのよいあいさつをするにはどうしよう」「話を聞く時は、発表する人の目を見るのがよいのではないか」など、児童生徒に禁止事項や徳育の項目を作る話合いばかりになってしまい、せっかくの「アクティブ・ラーニング」も、なんだか「トホホ」なかんじになってしまいます。
けっきょく、指導するのが公立学校の教員なので、規律第一の話し合い「ごっこ」になってしまいますね。
方向性が間違っているうえに、やっている教員もなにを目指していいのかわかっていないのです。

という。

実際、大学で働いていた頃、文科省からの競争的資金を得たGP(グッド・プラクティス)のプログラムの発表会(学生が実施するもの)を見に行ったら、「トホホ」なものが多かった。

何でも「学生(生徒)主体がいいこと」というのは間違いだ。
大学ですら、そうなのだ。

ましてや、小学校でそんなことをやってはいけない。
それは教育を放棄しているに等しいと思う。
中沢氏はこうまとめている。

一方、知識を教えることは「教え込み授業」と学校現場で蔑まれています。精密機械やIT、バイオの世界のように、ビジネスモデルはますます知財・知識重視の時代なのに、学校(文科省)は勇ましく世界の趨勢に逆張りし、今日も挑戦を続けているのです。

本当にその通りだと思う。

大学で就職の筆記試験の指導をしていると、本当にそう思うのだ。

だから、文科省は解体すべきだと思う。


| | 考えたこと | 00:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
DNR
DNRとは蘇生拒否のこと。
アメリカのドラマでやっていた。
蘇生を拒否する患者は、DNRと書かれた赤いタグを手首に巻く。
病室の扉のところにも、DNRというステッカーを貼る。
そうすれば、心肺停止状態になっても、蘇生措置をしない、というルールになっている。

恋人の女性が若くしてガンで死ぬ。
病室にいる相手の男性は、助けてくれと懇願するが、死亡宣言される。
いくら周りが言ってもダメだ。
徹底している。

何とも気の毒だった。
泣き崩れる男性に、亡くなった恋人のお父さんが「これでいいんだ」という。

DNRとは"Do Not Resuscitate"の略で、文字通り「蘇生するな」という意味。
心肺蘇生をやらない、ということで、「治療拒否」ではない。
延命治療は行うが、いざ心肺停止したら、もう蘇生しない、という約束だ。
末期ガンなどで、蘇生してもいずれ死ぬというような場合に患者が選択するのだろう。

アメリカは多民族国家であり、民族のコンセンサスがない分、なんでも法律でやる国だ。
死についても、法律で決めていく。
基本は本人と医師との話し合いで決めるようだ。

翻って、日本ではどうか。
延命治療を拒否したり、DNRを選んだりするのは、あまり一般的ではないと思う。
できるだけ長生きすることが善、というコンセンサスもある。

以前尊厳死のことをネットで見たが、年金が家族の主たる収入になってる場合、本人の意志と関係なく「できるだけ、生かしてほしい」と家族から懇願されることもあるという。
それが、社会から働き手を減らし、社会保障費を増やし、若者の貧困化を招くのだが、残される家族にとっては生活がかかっているということだ。

完全に悪魔のサイクルに入っている。

そのうち、厚労省も手を打つだろう。
背に腹は変えられない。
そのうち、年金が底をつくのだから。

安倍首相は「生涯現役」を3年で実現すると言っているが、この対策だろう。

しかし、日本でもちゃんと「死」について議論しないといけない。

あの、手首に巻いた"DNR"の赤いタグは印象的だった。



| | 考えたこと | 23:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
1万人の第九 6回目練習
二度目の第九も練習が半分を迎えた。
コダマ先生も、今年は進度が早いと言っている。
そのとおり。
去年はやっぱり初めての人が多かったのだと思う。

毎度書くが、最初に比べるとソプラノの人数が減った。
最初はソプラノのパートは満員だったのに、空席が目立つ。
今年は女性が多くて、男性は後ろ3列だけだったが、今なら4列にしても良さそうな感じ。
ということは、脱落者が一列分くらいはいるということだろうか…。
たしかに、あの高い声を出して、ドイツ語の歌詞を覚えるというのは大変だと思うけど。

ベースパートは、低い声は出ないが、ベースパートの高い音はテナーから変わったら楽チン。
第九のベースは、どちらかというと高い音が多いから、テナー転向組にはやりやすいと思う。

今回は撮影があった。
12月の本番に向けて、毎年各練習場で集合写真を撮る。
それをアルバムにして3000円?で売るという商法。
MBSもうまいことを考えた。
ホテルの斡旋もしているし、当日の弁当の販売もあるし、アルバムもあるし、おまけに番組の制作費はみんなが出しているという格好。
そこにサントリーも協賛している。
サントリーは一切宣伝していないから、エライ。本当の文化活動だろう。

佐渡裕の練習日が決まった。
11月の25日。今年は西宮芸術文化センターではなく、新神戸の方でやる。
4つほどの練習場が一緒に集まって実施。
遠方からも来たはずだ。
去年は90歳を超えた男性が来ていたのを思い出す。
元気だと感心した。
ぼくはもう死んでいるだろう。

今回もフーガの練習をやったが、途中のメロディがあやふやだった。
自信を持って声を出せないから、どうしても周りの音を聞いてついていく。
これでは歌にならない。
去年もそう思って練習したのだ。
それが生きていないのが情けないところ。

しかし、周りのメンバーで、明らかに譜面と違うことを歌っているのは何とかしてほしい。
こっちがあやふやだから、歌えなくなる。
このへんが1万人でやることの難しさだろう。
それでも、本番は圧倒的な迫力があるからなあ。

早く自信を持って歌えるようにしよう。


| | 考えたこと | 22:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロシアより愛を込めて
また007の映画を見てしまった。
WOWOWで今月は007特集をやっている。
何度見ても、いいものはいい。

2006年と2015年に007の映画のことを書いていた。
初代のジェームズ・ボンド、ショーン・コネリーが1960年代のイギリスMI6のスパイを演じている。
今見ると、ゆっくりしたいい時代だったと思う。

デジタル機器が一切ない。
アタッシュケースに隠されたナイフなど、懐かしい。
ケースの内部に硬貨が隠されているのも、今となっては微笑ましい。
今ならカード一枚でOKだ。

東西冷戦の時代。
実際にスパイ活動が功を奏したときもある。
今となっては闇の中の出来事もたくさんあるのだろう。
しかし、西側と東側(これも若い人には死語かもしれない)が対立し、お互いに敵がはっきりしていた。
アメリカの敵はソ連、ソ連の敵はアメリカ。
2つの勢力だけだったから、ある意味単純だったと思う。
それだからか、007も活動しやすかったのだろう。

今はスパイ活動もしているかもしれないが、インターネットで微妙なフェイクニュースを量産して、相手を攻撃する。
サイバー部隊というのもできている。

民族紛争も増えて、いろんなところで紛争が起こっている。
何が正しくて、何が間違っているか、いろんな立場で正義がある。
これでは、スパイもなかなかドラマにならない。

今でも007は作られているが、だいぶ様変わりした。
こないだ、最新作「007スペクター」も見たが、派手なアクションが多くて、面白かったがちょっと疲れた。

ショーン・コネリーがやっていた頃の、ちょっと笑わせるようなシーンがなくなったのが残念。

今の若い人に007と言っても、あまり関心がない。

このシリーズ、いつまで作られるんだろうか…。



| | 考えたこと | 00:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
若山牧水
宮崎県に短歌甲子園という高校生の短歌コンクールがある。
NHKのFMシアターでドラマをやっていた。
宮崎は若山牧水の生まれ故郷で、若山牧水記念館が日向にあるという。
若い頃に、仕事で宮崎にフェリーで行っていたが、残念ながら一度も聞いたことがなかった。

若山牧水という名は聞いたことがある。
昭和初期の歌人。
たしか赤い椿、白い椿という句があったと思ったが、別の人の俳句だった。
その程度の知識。

ドラマの中で、若山牧水の歌が出てくる。

白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよう

ぼくは学生時代、散文は得意だったが、韻文はダメだった。
詩というものが、わからなかったのだ。
だから、生涯詩に感動することなどないと思っていたが、この歌を聞いたとたん「いいなあ」と思った。

空の青と海の青(歌ではここは「あを」と書いてある)の水平線をバックに、白い鳥が一羽飛んでいる景色が思い浮かんだ。
哀しからずや、というのは、哀しいほどに孤高な感じがする。
自然と生き物の対比なのか、それとも、一羽で生きている姿なのか‥。
とにかく、景色が初めて頭の中に浮かんで、「ああこれが詩か」とわかった次第。

だから、学校教育で詩も習うんだろう。
日本人の教養として習うという意味はわかっていたが、年をとってわかる時が来るということだ。
その日が来るから、知っておけということなのだ。

なんでこんなしょうもないことを習うんだろう、と思っていた自分が情けない。

きっとこれをテレビでやっていても、わからなかったと思う。
音だけだから、いいのだ。

ドラマはNHKの「らじる☆らじる」の聴き逃しで、今週いっぱい聞けるので、興味のある方はどうぞ。
  ↓
らじる☆らじる


| | 考えたこと | 21:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
アマチュアスポーツ界は日本の縮図
日大に始まったアマチュアスポーツ界の不祥事が、今度はウェイトリフティングに飛び火した。
ボクシング、レスリング、柔道、体操、剣道、バスケットボールなどが今までにニュースになった。
内容は、反則指示、不正な金銭授受、セクハラ、パワハラ、選手の不祥事など、いろいろある。
ドーピングなども入れると、もっと増える。

なんでそういうことが起こるか、というと「指導者が古い」というのが目につく。
昔のオリンピックのメダリストを始め、活躍した名前が出てきたりしている。
非営利法人で、だいたい70歳以上。
普通の組織ならとっくに定年だ。

老害とか老醜とかいう言葉を知らないのだろうか…。
公益法人だかなんだか知らないが、定年制をちゃんと設けないといけない。
今の若い人たちが夢を持てない一端は、高齢になっても権力を手放さない人たちを見て、嫌になっていることもあるのだと思う。

学校法人にいたときも、古い人達が居座っていた。
たしかに、いい人材がいないということもあるのだろうが、はっきり言って誰がやっても同じ、という感じの仕事ばかりだから、居座ってしまう。
本当はそのやり方では生き残っていけないのだが‥。

ひどいのは、自分でルールを作って定年延長してしまうとか、そんなこともやっていた。
あれでまともなガバナンスができているとは思えない。
税金を投入している非営利の法人には、もっと厳しいルールを適用すべきだと思う。
話が逸れた。

特にスポーツで過去の栄光があると、指導者としての適性がなくても、周りが意見を言えないということもあるだろう。
回りも大先輩ということだから、言うことを聞く体育会基質。
白でも黒と言ったら黒、という伝統。

そういう人は、自分の経験だけを信じがちだからそれを通そうとするし、スポーツで生きてきて、社会を知らない人が多いだろうから、事の善悪を自分の判断基準で通してしまいがちになると思う。
特に、最近のハラスメントの事案などは新しい価値観だ。
企業などでは研修があるが、そんなこともしていないのではないか。

それらを束ねているのが文科省というのもダメなんだろう。
文科省は教育しか知らず、社会から切り離された世界になっている。
それが今の日本の教育がダメになった理由だと思うのだが…。
また話が逸れた。

アマチュアスポーツ界で起こっていることは、日本中で起こっていることなのかもしれない。
ブラック部活などもその類だろう。
広い目で見たら、二世問題なども同じことだと思う。
親の七光りで、政治家になるとか…。

今安倍総理が言っている、生涯現役でということには賛成だが、いくらなんでも70歳まで同じところで働き続け、ポストにとどまることには反対だ。
どこかでポストを手放し、若い人たちに道を譲るということが、社会に求められていると思う。

吉田拓郎も、「古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう」と歌った。

その歌に共感していた世代が、未だに権力にしがみついているのは醜いと思う。


| | 考えたこと | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
一万人の第九 練習5回目
今週も発声練習から始まる。
とにかく、鼻の息を意識して声を出す、ということを強調していた。
喉で出すと、汚い喉声になるので、鼻を意識して、明るい声を出そうということだ。

今週はだいぶソプラノがしごかれた。
去年はテノールだったが、今年は女性が多く、ソプラノの声が出ないところが目立つのかもしれない。
やっぱり楽に声を出せるというのは大事だと痛感。

だんだんとややこしい部分に入ってきた。
メロディがテノールとはだいぶ違うので、音がわからない。
歌い出しがわかれば、譜面を見てなんとかなるのだが、はじめがわからないので自信を持って歌えない。
テノールのメロディはまだ覚えているので、余計にややこしい。
練習に行くまでに、だいぶベースパートの歌を聞いていくのだが…。

今回から、フーガのところも入った。
掛け合いで、4つのパートが、2つのテーマを歌う。
去年も思ったが、一番の難所だ。

シャープやフラットもたくさんあり、メロディも難しい。
スケールから外れた音や経過音をちゃんと歌わないといけない。
今回から、ちょっと時間をとって、メロディを覚えようと思っているが、それでもなかなかだ。

まだ9月だから、去年に比べるとだいぶ余裕はある。
それでも、余裕で構えていたらお尻に火がつくというパターンが多いので、心してかからないと。

今回は、打ち上げの案内があった。
本番のあとの水曜日。
前回は申込みがうまくいかなかったが、今回はメールで申し込み、グーグルフォームで受付OK。
会費も払い込んで、出席が決定した。

さあ、ぼちぼち頑張ろう。


| | 考えたこと | 21:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
スーパー派遣
昨日は、長いこと会社で勤めていた優秀な派遣の方の送別会だった。
少人数だがなごやかで本当にいい会だった。

ぼくは2000年から2004年まで、一緒に仕事をした縁で呼んでもらって宴会に参加した。
28年の間、勤めたとのこと。ぼくより3年長い。

働き始めた当初は派遣社員だったが、途中で会社を創立して業務請負になった。
でも、以前テレビでやっていたスーパー派遣という言葉がぴったり来る人だった。

パソコンが得意で、ワード、エクセル、パワーポイントは言うに及ばず、フォトショップ、イラストレーターも使い、いろんな便利なフリーソフト、昔のムービーメーカーのような動画作成ソフトなど、なんでも来いという強者。
それも、どこかで習うのではなく、全て自分で必要に応じて勉強してマスターしたのがスゴイ。
エクセルのマクロや関数を駆使して仕事を便利にしてくれた。
ソフトの使い方については、やる気になれば何でもネット上で勉強できるということを地で示した。

普通、ヘルプデスクというのは、ソフトやハードの使い方を伝えるのだが、その人はこういうものを作りたい、というとそういうものを作ってくれた。
まさに、プロという感じの人だった。

昨日も「自分が渡した資料とは思えなかった」というような声も出ていた。
それくらい、いい加減な元資料でも、完成度の高いアウトプットをしてくれた。

グーグルの検索ページを教えてくれたのも、その人だった。
あれ以来、ぼくの検索エンジンはグーグルになった。

ぼくの会社での最後の仕事となった図面のプロジェクトも、データーの加工を手伝ってもらった。

ご主人が楽器店をやっていて、ギターのことでもお世話になった。
ぼくのマーチンのアコギ、テレキャス、オベーションのエレアコ、そして次男のストラトはそこで買った。
長いこと使っているSG1000も、そこでオーバーホールしてもらった。

会社としては、ぼくが辞めた後も、いろいろな技術や研究のイベントで黒子となって資料を作ってもらった。
取引先から、おたくのプレゼンは素晴らしいと言われたこともあったと聞く。

効率をとことん考えた仕事ぶりだったと思う。
どうやってデーターを使い回すか、ということをいつも考えて仕事をしていた。
自分でも「楽にするにはどうしたらいいか」を常に考えていると言っておられた。

この9月末でいったん区切りをつけられることになった。

まだまだ仕事ができるはず。
もったいない。


| | 考えたこと | 00:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
加齢現象
「肝心なことはすぐに忘れ、忘れてしまいたいことはいつまでも忘られぬ。」
「剣客商売」の主人公、秋山小兵衛の言葉。
作者の池波正太郎も、そういう思いがあったのだろう。
彼がこれを書いたのが60代。何となくぼくにもわかる。

人によってばらつきはあるのだろうが、50代後半くらいから、そういうのは始まる。
何かをしようとして、立ち上がり、歩いている最中に何かを話しかけられ、それが終わると「自分は何をしようとしていたのだろう」と考える。
しばらく考えて、忘れたと思い席に戻ると思い出したりする。

還暦というのはよくできたもので、昔に比べて今は相対的に若くなったとはいえ、やっぱりいろんなところでガタが出てくる時期なのだ。
身体能力だけではなく、脳の能力もそうなる。
だから、いまやろうと思っていた肝心なことを忘れてしまう。

それでも、過ぎ去った昔のことは覚えている。
ああ、あの時、あんなことがあったとか、どうしてこちらを選んだのだろうとか、あの時あんな失敗をしてしまったとか、そういうことは忘れられない。
もう過ぎ去った今となっては、忘れてしまいたいのだが‥。

認知症になっても、昔のエピソード記憶は残っている場合があると聞いた。
一度脳の奥にしまわれた記憶はなかなか消えないのだ。
だから、年をとったら子供に戻ると言われるのだろう。

記憶は人間そのものだ。
身体の細胞は入れ替わって、ほとんど別人になっても、記憶は消えない。
それが人間を形作っている。

認知症になると、新しい記憶は覚えられないし、消えていくということだ。
残念なのは、最近の何十年かの記憶がどんどん消えていくということ。
知り合いの顔も忘れ、どんな関係だったかも忘れる。
自分が経験したことも忘れる。
要するに自分を失っていくのだ。

それは辛いだろうと思う。
でも、長寿化にしたがって、どんどん認知症は増えている。
社会とのつながりがなくなると、そうなりやすいのかもしれない。
人間は「人の間」と書くように、関係の中で生きているからだ。
他人との関係がない「ヒト」になって、人間社会で生きるのは大変だ。

発症がゆっくりだから、なかなか薬もできない。
人によって、ばらつきもあるのだろう。

加齢によって、いろんな不具合が起こる。
昔はそれを体験できるヒトはほとんどいなかった。
寿命が短かったからだ。
でも、今は寿命が長くなって、そういう人がどんどん増えている。

これは喜ぶべきことなのか‥。

| | 考えたこと | 22:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
ドラマの価値観
アメリカのアクション系のドラマには、特定のパターンがある。
こういうシチュエーションになったら、こうする、というものだ。

時限爆弾の解除をするとかいうパターン。
一人がそれをやっているが、仲間が見守っている。
そういう時、最後の線を切ったりするときに、自分から離れてくれというが、仲間は離れない。
Not a chance、とかいう。
合理的に考えて、仲間が爆弾から離れるというパターンもあるが、離れないパターンの方が多いように思う。

海兵隊が出てくるドラマなどもそうだ。
現実の世界なら、どう考えても撤退するピンチの場面。
司令部の指示は撤退。それでも、仲間を残しては逃げない。
たいがいは仲間を救いに行って、ギリギリのところで脱出。
そういうパターンだ。

今、ケーブルテレビで、昔やっていたSWATのリメイクをやっているが、そこであったパターン。
FBIの捜査官の息子が人質になり、押収した麻薬を返さなければ殺すという。
規則で、押収した麻薬を持っていくのはダメで、偽物を作る。
しかし、捜査官は息子を救うため、規則を破って押収した麻薬を一人で持っていく。
SWATの隊長は、捜査官が規則を破ったことを報告せず、部下たちに「俺は一人で助ける。お前らはクビになるから、知らなかったことにしろ」という。
それでも、部下たちは隊長についていく。
そして、取引の現場にみんなで行って解決。
こっそり、本物を戻しておく。
こういうのも、よくある。

これらの場面で共通しているのは、「仲間は家族であり、決して見捨てない」というメッセージ。
場合によっては、規則を破ってもそれを貫く、ということだ。
裏を返せば、現実の世界でも、危険な仕事が多いということだろう。

現在のアメリカは、18歳から26歳の男子がいざという時の徴兵に登録している。
それとは別に、志願兵制度も機能しており、主に貧困層の若者が志願しているらしい。
不法移民がそれらの受け皿になっている、というサイトもあった。

志願兵を集めるという目的でも、これらのドラマは機能しているのだろう。
兵隊になって、軍の一員になれば、強いメンバーシップがあり、誇りと栄誉が待っているし、どんなに危ないときでも見捨てられない、ということだ。

ドラマでは、たいがいピンチになっても助かる。
現実ではそういうわけにはいかないだろう。

そう思うと、美しく描かれているドラマの裏側が透けて見える。

それでも、そういう価値観を刷り込まれた人たちは、実際にそういう行動をするかもしれない。
それはそれで、すごいことだと思う。

その価値観自体は、悪いことではないと思う。

それをプロバガンダと見るか、それともアメリカの普遍的な価値観と見るか、難しいところだと思う。


| | 考えたこと | 00:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
数論幾何学
数論幾何学という分野があるらしい。
今日のニュースで初めて知った。

慶應義塾大学の大学院生2人が、「『辺の長さが全て整数となる直角三角形と二等辺三角形の組の中には、周の長さも面積も共に等しい組が(相似を除いて)たった1組しかない』という、これまで知られていなかった定理の証明に成功した」というのがその記事。

その三角形というのは、辺の長さの比が377:352:135の直角三角形と、同じく366:366:132の二等辺三角形。
周の長さはどちらも864、面積が23760で同じになる。
その組み合わせが「たった一つしかない」、というのを証明したというのがすごいことなんだろう。

それを証明するために、p進Abel積分論に基づいた「Chabauty-Coleman法」、「2-降下法」という方法が用いられたが、これらは1980年代以降に開発された手法とのこと。
なんと、この問題は古代ギリシア時代に考案されていたとのこと。
2千年以上前に考えられていた問題が、長い時間を経てようやく解決を見たということだ。

これぞ数学のロマン。

フェルマーの定理も、問題自体は簡単だった。
中学生ならわかる問題。
でも、それを解くには約300年もかかった。

時間を超えて同じ問題を共有する。
普通の学問なら、そんなことはできない。

何百年、何千年も前の問題が陳腐化せず、ずっと問題であり続ける。

幾人がその問題に取り組んだことだろう。

そういうことを考えると、数学はロマンだと思う。


| | 考えたこと | 21:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
空き家
日経に東京・大阪・名古屋の都市圏に330万戸の空き家予備軍があるという記事があった。
空き家予備軍というのは、65歳以上の高齢者だけが住む戸建てとマンションの合計。
圏内全体の2割強になるとのこと。
我が家もあと4年ほどしたら、それに入る。

東京が一番多いらしい。
持ち家の21%もある。5軒に1軒は多い。
みんながみんな空き家になるとは限らないが、空き家リスクは高いということだ。
東京でもそんな状況。

実際、地方に車で旅行に行くと、都市と都市の間の国道沿いの家は半分以上が空き家みたいな外観。
ひどいのはちょっと朽ち果てかけているものもある。
そういえば、ウチの近所にも1件あるが…。

ああいうのが都心にも増えるということだ。
治安の問題もあるし、災害の時に危険だったりする。
そういえば、ウチの実家も空き家になった。
おそらく置いておいても誰も帰らない。

場所によったら、持ち主が自治体に寄付すると言っても、それが拒否される。
固定資産税がほしいからだ。
さら地にしても、引き取ってくれなかったりする。

いったい何のための地方自治体なんだろうか。
金さえ入ってくればいい、という考え方。
公務員を養うための地方自治体ではない。

その土地に住んでいる人のための自治体という考えはないのだろうか。
寄付するといわれたら、それを有効利用する知恵はないのだろうか。
さら地のまま置いておいて、他府県に住む子供が固定資産税を払ってくれるのを待つ、という自治体の態度は正しいのだろうか。

そのうち、そういう法律ができるだろう。
不動産を相続した人がそれを放棄するための法律だ。
今すでに空き家になっているところでも、持ち主がわからないところもあるだろう。

ぼちぼち国が法制化に向けて動き出したらしい。

でも、そんなニュースを聞くと、早めに売ったほうがいいのかとも思う。
自分の一存で決められるものでもないが…。



| | 考えたこと | 22:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
就活ルール廃止 2
経団連会長の中西氏は日立の社長で、海外経験が長いらしい。
対談などを読むと、かなりアメリカナイズされた考えを持っておられるように思う。
したがって、日本型雇用慣行のデメリットも知っており、それを打ち破らなくては日本の企業の復活はない、と思っている様子。

年功序列、終身雇用という日本型の雇用システムを前提とした、新卒一括採用では、このグローバル化を乗り切れないということだろう。
優秀な若い人たちが、外資に行って高い給料をもらう。
それは外資からしたら当然ということだ。
どんどん雇用もグローバル化してきたら、優秀な若者は出ていってしまう。
そういう姿を見てきたから、「就活ルール廃止」という言葉が出たのだと思う。
超大手の経団連企業といえど、2倍、3倍の初任給を出す外資系には勝てない。
どうしても、能力のある人達は能力給に行くのだ。
ここ数年が、その時期なのかもしれない。

日立ではそういう改革をやっているという。
海外企業と戦っていくには、日本型の年功序列を排した給与体系、雇用体系が必要だということ。
だからこそ、経団連の加盟企業に訴えたという格好。
これは結構根が深い問題だ。
日本の雇用慣行を変える第一歩になるかもしれない。

一方で、ニューズウィーク日本版に冷泉彰彦氏が書いているのは、経団連の会長の「ルール廃止」の主眼は時期の問題ではないだろう、ということ。
ぼくもずっと思っていたのだが、日本の文系の採用は専門知識が問われない。
文学部も経済学部も法学部もどこでもいい、という採用がほとんど。
実際には面接で大学の専攻が効いてくるとは思うが、それでも入り口では関係ない。
「学部学科不問」という採用形態。

なぜかというと、入社してからの研修やオン・ザ・ジョブ・トレーニングでやれる、ということらしい。
逆に生半可な知識を持たれても困る、というようなこともある。
しかし、それでは間に合わなくなってきた。
教育しているヒマがないのだ。
だから、もっと大学で即戦力となる知識を教えてほしい、ということだろう。

ぼくはそれ以外に、下位校では実質3年間のプログラムになっている、ということが問題だと思うのだが、とりあえずそれは置いておこう。

冷泉氏の記事にはこう書かれている。

「現代は仕事に関わる専門性はどんどん高度なものが求められる時代です。本当に、大学というのは入試で「地頭(じあたま)」の良さを証明してくれればよく、教育内容には期待しないという「日本流」が通用するのでしょうか。また、各企業は高度な職業教育のコストをいつまでもかけられるのでしょうか。こうした点で、そろそろ限界が見えてきているように思います。

一方で大学側にも疑問があります。専門性が求められる時代に、明らかに社会人のキャリアには繋がっていかない教育内容なのに、それにこだわって「就活で授業を妨害するな」と主張するのは、どこか不思議な感じがします。

それ以前の問題として、そこまで相互に不信感があるのであれば、企業側は「学士号は不要」つまり優秀な基礎能力を証明できる学生には、大学を卒業してもらわなくても構わないという姿勢を見せてもいいのかもしれません。一方で大学は、そんなに教育が大事なら、就活による欠席は「サボり」と扱って、面接とか説明会とかいった理由で欠席した学生には単位を認めないという措置も可能なはずです。

しかし、企業側も大学側も「そこまでの度胸はない」ようです。」

今の状態なら、文系の大学は4年間を有効に使っていないということだ。
それは、ぼくもその通りだと思う。
象牙の塔に昔からいるようなセンセイが、カビの生えたような知識を教えていても、だれも問題にしないのは事実だと思う。
それを経済界から問題提起されたということになる。

実際、ユニクロは1回生から内定を出すという。
大学での学びは関係ない、と言い切っているのだ。
その大学の入試に通るということが、能力を保証している、ということになる。

そんな状態がいいとは思えない。
だからこそ、冷泉氏は大学でつける知識をキャリアに直結させるべきだという。
その通りだと思う。

しかし、今の大学の教員の何割が、それを教えられるのだろうか。
教員の能力に問題があると思うが…。

いずれにせよ、これからいろんな議論が始まることを期待する。

ずっと見てきて、今がいいはずがないからだ。


| | 考えたこと | 21:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
通信料を下げる
うちはずっと電話はKDDIだったが、この11月に契約更新月になるのを機に値段を下げるべく、キャリアを変更しようと思う。
こないだ半日かけて、ネットで調べてみたが、ほんとにいろんなことが書いてある。

一般の人が書いているサイトでも、どこまでが宣伝で、どこからが本音なのか、わからない。
そういう、中途半端なサイトが増えているのは事実。
中途半端というと語弊があるが、公平性や網羅性を考えると、個人でやっているサイトは難しい。
親切でやっているんだろうが…。

でもまあ、そういうサイトを参考にして、いろいろ見てみたら、Yモバイルが良さそうだということになった。
ちょうど近所に店舗もあるし、やっぱりリアル店舗があるというのは有利だ。

Yモバイルは1年目は安い。
2年目に少し上がるが、それでも長く続けていると割引がある。
このあたりがKDDIと違うところ。

KDDIの戦略は、なんでもKDDIでやらせよう、ということだろう。
電気もガスもKDDIにしなさい、ということだ。
長期契約者には、auウォレットでポイントをくれたりするやり方。
でも、そんなものを使いたくない人にとっては、料金を引いてもらったほうがありがたい。
ウチはケーブルテレビとセットで割引してもらっているが、それを払ってもまだお釣りが来る。

セット割引を印象的に使って、実質は高い契約でお金を取っている。
また、契約内容が複雑で、わかりにくい。
何年縛りというのもあるし、わけがわからない。

しかし、Yモバイルは安いと思う。
高齢者割引もある。
料金体系はKDDIに比べると、大幅にシンプル。
実店舗もあるし、端末もまあ魅力的だ。
端末が気に入らないなら、SIMだけを契約すればいい。

日本の携帯キャリアは儲けすぎだと思う。
菅官房長官が4割位安くできる、と言った。
なぜそんなことが言えるかというと、電波行政があるから。
総務省が電波を割り当てていて、携帯キャリアはその電波を使っている。

どうも官房長官は安くする見返りに、今の体制を続けるということを言っているような気がする。
許認可権を手放したくないが、オークションで自由化すべきという意見も大きくなってきたからだろう。
そんなことはやめるべきだ。

早く電波社会主義はやめよう。

我が家は、先に安価にするぞ。

| | 考えたこと | 21:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
就活ルール廃止
経団連が「就活ルール」の見直しをするという。
「就活ルール」というのは、「倫理憲章」のこと。
毎年経団連が出しており、学生の青田買いを防止するために学生への接触時期や選考開始時期を決めている。
あくまで経団連の加盟企業だけが拘束力を受けるが、インターネットのナビなどはそれに従って、就活のスケジュールを決めている。
でも、事前のインターンシップが増えて、有名無実化しているのも事実。
そういうわけで、今年の第一声は「ルール廃止」というものだった。

経団連に入っている企業は1300社ほど。
日本の代表的な企業で、大手ばかりだ。
そういう会社は、ルールで縛られても買い手市場だから人が採れていたが、だんだんと苦しくなってきたということだろう。
経団連に入っていないユニクロや楽天など、新しい勢力がいろんな採用手法を使って新卒採用をやり始めた。
外資系も同じだ。ルールに縛られない会社がどんどん早めに囲い込みをするようになった。
経団連加盟企業も、早期にインターンシップをやって、そこでこっそり内内定を出すということも横行している。
だから、「ルール廃止」というのも当然と言えば当然。

これに対して、いろんな声が上がっている。
大勢は「ルールはあったほうがいい」というもの。
なかでも大学は、経団連加盟企業がルールを廃止すると、就活が早期化、長期化して学業に影響が出る、という意見が多いと思う。

でも、中には大学で職業に役立つ知識をつけるために、ちゃんと4年間の教育をやって、卒業してから就活するのもありだ、という人もいると思う。

実質、今の文系の大学教育は3年間のプログラムだ。
就活があるから、という表向きの理由でそうなっているのだと思う。
卒業要件の124単位は、卒論とゼミを残して普通は3年間で取れる。
実質4年生は卒論とゼミだけという学生が非常に多い。

前に書いたが、大学でキャリアの仕事をしているとき、4年時に必修の授業を設けてくれ、と言ったことがある。
学生が学校に来ないからだ。
その時に調べたのだが、文系で、4年時に卒論以外の必修授業を設けている学校はなかった。
結局、就活をしている4年生をつかまえようと思ったら、ゼミでつかまえるしかない。
しかし、ゼミの時間に教室に行っても、やっていなかったりする。
卒論は個別指導ということで、メールでやっている教師もいる。
そういうことをするから、4年生がつかまらず、キャリア支援の部署は苦労することになる。

大学が3年で終わると、学部を新設しても、それほど教室も増やさなくても済むし、大学経営は楽になる。
教師も、何かと楽なんだろう。

そのことを棚に上げて、学業に差し障るというのはいただけない。

大学教育をちゃんとするために、4年間のカリキュラムを立てて、ちゃんとやるために、卒業後に就活する学生がいてもいいと思う。
その分、大学はちゃんとやらないといけない。
それをサボっているのだ。

学業に差し障っているのは、今の制度なのだと思う。



| | 考えたこと | 22:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
一万人の第九 練習4回目
一週間おいて、練習の4回目。
またちょっと全体の人数は減ったような気がする。

ソプラノからアルトへの移動はだいぶ多かった。
テノールからバスはそんなにいない。
これから増えるのだろうか…。

今週も発声練習からスタート。
先生が「1週間あいたから、ちょっと声が出てない」と言っていたが、その通りだ。
ぼくも声が出ないし、練習を聞いていてもみんな声が出ていない。

大阪で6時までの仕事を5時半で帰らせてもらって、西宮で7時からの練習に参加。
今回は余裕があったが、練習するビルのエレベーターが混んでいたので、階段で上がったら息が切れる。
発声練習をすると、最初はちょっとしんどかった。
肺に息をためて、骨盤底筋に力を入れて息を吐く、というのは全身運動になる。
最近夕食が早いので、夕食抜きで7時から9時はちょっとつらい。
来週から、少し食べていこうと反省。
若い頃は何も食べずに夜中まで働いていたのに、寄る年波には勝てない。

今回はフーガの手前までいった。
馴染みのあるテーマのところと、テナーとソプラノがきつい「クッセ ガブズィー…」、そのあとの男声合唱をやって、その次の拍子取りが難しいところまで。

テナーは「クッセ ガブズィー…」のところでだいぶパート練習の時間を取った。
あそこはメロディーも難しいし、音も高いし、最初の壁だ。
前回はマシだったのに、今回は苦しそうだった。
外れた音もたくさん聞こえてくる。
やっぱりバスに変わってよかったと思う。

この部分は8分音符で2つずつスラーで繋いでいるのだが、先生がピアノに頼んで、その2つの音の後の方だけを和音で弾いてもらうと、テーマのメロディーになる。
隠されたメロディーになっているのか、とビックリ。
ベートーベンはすごい。

今回の最後のところは、3/2拍子という珍しい拍子。
「ザイト ウム シュルンゲン…」という出だしで、こちらはバスが苦しい。
テノールとユニゾンなので、中には出にくい人も多そう。

拍子取りが難しく、どこで切ったらいいのか、と悩むところ。
なんとなく御詠歌みたいなメロディーだ。
そう思ったら、ここは教会の感じだと先生は言っていた。
仏教とキリスト教で、通じるものがあるのかもしれない。

練習していても、ちゃんと楽譜を見ていないと間違える。
ぼくは去年のテナーの譜割りが頭のなかに残っているので、たくさん間違えた。
ちゃんとバスの練習をしないといけない。
来週はいよいよフーガ。

今年は進度が早い。
去年より経験者が多いのだろう。

フーガのところは、パートが別だと全く違うので、ちゃんと音取りして行かないといけないぞ。


| | 考えたこと | 20:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
知識偏重
慶応の今井むつみという先生が、いいことを言っている。
さすが慶応、という記事

もちろん、今ホットになっている「アクティブラーニング」が取り上げられている。
今の教育界では、大勢の意見は、従来型の教育が「知識偏重」、これからの教育が「アクティブラーニング」ということになっている。
何かと言うと、「知識偏重」は良くない、「詰め込み教育」はだめだと言われる。
インターネットが発達して、知識は検索してすぐに得られるものになって、それをどう使うかということが課題、というような言い方だ。

それに対して、先生は言う。

「「主体的な学び」を標榜する人たちが、従来の学びを「知識偏重」と批判するのをよく耳にする。「知識はもういらない」という過激な言葉を聞いたときには驚愕した。認知科学の観点からすると、「学習」は「知識」と切り離して考えられないからである。」

ここで先生は言語を学ぶということを例にあげて、単語を覚えるということが、言葉の語彙体系や既存の言葉の修正をして、「学び方を学ぶ」ことができるのだ、と言う。

「言い換えれば、子どもは機械的に語彙中の単語の数を増やそうとだけしているのではない。個々のことばを超えた語彙というシステムの構造を発見すべく探究し、同時に、すでに持っている知識を修正、再編成している。

この過程があるから、母語の知識は「生きた知識」なのであり、すでに持っている知識が新たな知識を創り出すという「創造のループ」が生まれるのである。

このような、生きた知識を創造する過程こそが「アクティブラーニング」の本質である。「アクティブラーニング」を標榜するなら、知識を事実の断片の集まりととらえ、「知識偏重」と言って知識を非難する前に、まず知識とは何かを考え、知識の本当の姿を理解してほしい。」

まさにそのとおりだと思う。

そして、何かを「暗記」することも必要だと言う。
ただ、暗記するだけなら、それは死んだ知識になってしまうが、それを生かすためにどう学んだらいいかを工夫するのだ。
それこそが主体的な学びだ。

「学び、覚えたことが「生きた知識」になるか「死んだ知識」に終わってしまうかは、協同学習や対話学習などの学びの形式で決まるわけではない。

認知科学の重要な研究分野の1つに「熟達研究」がある。研究者たちは、学習者があることを熟達していく過程における心と脳の変化の過程を詳細に明らかにするとともに、さまざまな分野の超一流の達人がどのようなマインドを持ち、学びの工夫をしているのかを探究している。

数多くの研究からわかったこと。それは、達人たちは、必ず、自分で独自の「学び方の学び」を工夫していて、そのために常に試行錯誤をしているということである。

学びが、生きた知識を生むアクティブラーニングになっているかどうかは、学びへ向かう気持ちで決まるのである。」

学ぶ人、一人ひとりの学びに対する姿勢が重要であって、協同して何かすることが重要ではないのだ。

どうしてこういう人たちの意見を教育界は聞かないのだろうか。

| | 考えたこと | 22:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
ゲーム障害
最近、電車内のスマホ率はかなり高くなった。
ぼくが乗るのは10時台、18時台の電車だが、おそらく7割以上の人がスマホを見ている。
文庫本や新聞はレアになった。

ぼくは老眼がひどくなって、メガネをかけないと本もスマホもダメなので、普通はウォークマンを聞いている。
聞くのはラジオをパソコンで録音したものなど。
音楽はあまり聞かない。

年齢層も、かなり広くなった。
高校生や大学生はもちろんのこと、中年のサラリーマンなどもスマホだ。
今は夏休みで、親子連れも多いが、親子でスマホというのも珍しくない。

見ていると、ラインなどを読んでいたり、ツイッターやブログなど文字を読んでいる人が多い。
混んでいると、書けないから、読むほうがメインのようだ。
空いているときは、指を動かしている人もいる。

最近増えたのが、ゲームだ。
画面を指で忙しく動かしている人は、たいがいゲーム。
昔テレビゲームであった、ぷよぷよみたいなものが多い。

と思っていたら、世界保健機構(WHO)が「ゲーム障害」を疾病に加えると発表したらしい。
まだ、ゲーム障害の研究は統一された方法が確立されておらず、どうやって判断するかは定説がない。
だから、専門家は「時期尚早」と言っている。

そのせいか、アップルやグーグルは子どもがスマホのスクリーンを見る時間を制約するツールを公開したという。
たしかに、スマホに「はまっている」子どもは多い。
ラインやツイッター、インスタグラム、フェイスブック、ゲームなど、やることは多い。
どの程度ゲームに時間を使っているかはわからないが…。
従来のゲーム機がなかなか売れず、スマホに取られている、という話も聞くから、やっぱり利用者は多いのだろう。

記事の中では、アメリカの心理学者が「ゲーム依存症を正式な障害としてリストに加えるには、エヴィデンスが少なすぎる」と言っているのを紹介している。
多くの研究者は、そういう障害があるとは思うが、どこからが障害かを見つける根拠がない、ということらしい。

一方で、「eスポーツ」という言葉もできて、テレビゲームで選手権を開くというイベントも出てきた。
依存症になるくらいやらないと、強くはなれないだろう。
ある意味、依存症を煽っているようなものだ。

任天堂のスイッチという新しいゲーム機は、加速度センサーを使って、釣りやテニスなどの身体を動かすゲームをテレビで宣伝している。
これなどは、健康的、というイメージ作りをやっているように見える。

日本はそれでなくてもギャンブル依存症の国だ。
国会ではカジノのことばかり言っているが、パチンコなど、依存症の極みだと思う。
だいぶ減ったとはいえ、パチンコ依存症の人はまだまだいると思う。

ゲーム障害、これからどうなっていくのか…。



| | 考えたこと | 01:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
安物買いの‥
去年、講習をやる時に、自前のレーザーポインタを買った。
例によって、アマゾンで調べるといろいろ出ている。
パワーポイントのスライドを送るリモコンがついているものが一般的。
学校に勤めているときは、経費で買ってみんなで使っていたのだが、講習をやるところにはなかったので、自前で買うことにしたのだ。

ポインタの色が赤色、緑色とある。
緑色の方が見た感じがいいのだが、値段が高い。
日本の文具メーカーのものや、名の通ったブランドのものは、安くても1万円近い値段。

アマゾンで見ていると、それらと一線を画して値段の安いグループがある。
中国製の知らないブランドやメーカーのもの。
これが安い。

赤色レーザーのもので、USB充電式のものなら、5千円程度。
同じ性能なら、もちろんこっちを買う。
レビューを見ると、どう考えても怪しいものもある。
日本語がおかしかったりする。
悩んだ末、中国製の安いもので、マシなものを買うことにした。

最初はよかった。
調子よく使っていたのだが、1年経って、今年も使おうと思ったら、レーザーポインタの色が薄い。
ほとんど見えなくなって、単なるパワーポイントのリモコンになった。

やっぱり明らかに安い中国製はあかんなあ、というのが結論。

昔の日本製もそうだったのだろう。
安かろう悪かろう、ということだ。

バック・トゥ・ザ・フューチャーで、1955年のドクが「日本製は壊れて当然」と言うが、それに対して1985年からやってきたマイケル・J・フォックスが「日本製は最高だ」と言う。
時代の変化をとらえたセリフだった。

”All the best stuff is made in Japan."

中国製でも、有名ブランドは品質面でも優秀なようだが、今回のことでちょっと懲りた。

中国が世界の工場と呼ばれるようになって久しいが、まだまだ品質の悪いものを安価で売らないと生きていけない部分もある。
アマゾンのレビューに書こうと思って、検索したらもうなくなっていた。
売り切りだったということだ。

そういう商品には気をつけよう。


| | 考えたこと | 00:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
英語を勉強する意味 
最近どんどんGoogle翻訳がよくなっている。
ディープニューラルネットワークを翻訳に使うことで、本当に読みやすく、日本語らしい文に翻訳できるし、精度が抜群に上がった。
これこそ、技術の進歩だと思う。

そう思って、Google翻訳の使用例を検索してみたら、国際論文を提出するために使っていたり、偉人の言葉を翻訳させて精度を確かめたり、仕事で外国人の研修に使っているというようなものがあった。
それらをざっと見ると、もう普通の日本人なら、Google翻訳の方が圧倒的に正しいということだ。

ぼくもこないだ、英語のサイトを翻訳してみたが、普通の日本語になっているし、本当に知りたいところだけ、念のため原文で確認する(Webなら英語と日本語の切り替えができる)ことでOKだと思う。

実際それらを評価して、Webに載せている人たちも、英語の教育について考えてしまった、と言う。

つまり、英語を勉強することの意味を考え直さないといけない時期に来ているのだ。
Google翻訳のおかげで、英語を勉強しなくてよくなる、という側の意見としては、

「自分はもう英語は勉強しなくてよいと思う」
「子供の教育は、難しいところ」
「この調子で精度が上がれば、外国人との会話も自動翻訳機でする日も近い」
「自動翻訳と上手く付き合わなければならないという翻訳業界の流れは、止めることができない」

逆に、Google翻訳ができることによって、全ての言語が英語に翻訳され、英語の勉強が今まで以上に必要になる、という意見もあった。

また、英語の翻訳家の人たちの生産性を上げることができる、という意見もある。
最終的には人間が手を加えなければならないが、8割の仕事は自動でできてしまう、ということだ。

ぼくは、英語の専門家や楽しみで英語を勉強する人たちにとっては、Google翻訳はいい助けになると思う。
また、それらの一定数の人たちにとっては、絶対に必要だろう。
英語の映画を見て、原文でわかりたい、という人はいなくならないし、海外に住んで活躍したいという人たちにとっては、やっぱり英語は勉強しないといけない。

しかし、今の文科省の方針のように、全ての人が小学校から英語を勉強しないといけないか、というとそれは違うと思う。
これだけテクノロジーが進歩すると、日本で住んでいて、外国人に道を教えるとか、ちょっとした質問に答えるとか、海外に旅行してちょっとしたコミュニケーションを取るとかいう目的では、もう英語を勉強しなくてもいいと思う。

全ての日本人が、最低限の英語のコミュニケーションができるように、というのが今の教育の目標だろう。
小学校から英語をやるのも、その一環だ。

しかし、論理的に日本語で考えるとか、日本語の文学的なところを味わうことを犠牲にしてまで、英語の勉強に時間を割くのはナンセンスだ。
残念なのは、ネットで調べると、英語を実用的に使っている人たちのページは出てくるのだが、「英語教育とGoogle翻訳」というような検索をしても、?育界の人たちのページが出てこないことだ。
英語教育学会などでは、入試英語や大学生の英語教育といったテーマは出てくるが、「Google翻訳で英語教育をどう変えていくべきか」というような話題は出てこない。

ぼくはもともと、小学校で英会話をやることに懐疑的だが、Google翻訳を見て一層小学生に英会話を教える意味がわからなくなった。
すでに、小型の英語翻訳機が市販されている今、どうして小学生から英語を話す必要があるのか、考えないといけないと思う。

いい加減に、既存方針に囚われず、柔軟に考えるべきだと強く思う。

| | 考えたこと | 20:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
ネットでの銀行記事
安定した仕事の代表格であった「銀行」が不調だ。
ずっとFintech企業に取って代わられるとか、人員整理を発表したとか言われてきたが、それが本格化してきた。
去年銀行に入って、1年ちょっとで辞めるという新入社員も多いと聞く。

ネット上ではいろんなところで、銀行のことが書かれている。
だいたいは、あまり良くないことだ。
あるサイトでは、「僕らが「銀行」を使う理由は、まだ残されているのか?」という特集をやっている。

そこではメガバンクの「人員削減計画」を取り上げ、銀行神話が崩れ去ったと断じる。
「マイナス金利」の金融政策を日銀が取らざるを得なかったのは、銀行が本来の融資をしなくなったからであり、「日銀に預けてのんびり運用していないで、貸出先をちゃんと見つけて新しい産業を育て、融資にお金を回せというメッセージだ」と書いてある。
まことに、その通り。

アメリカではモバイルバンキングサービスが急拡大し、銀行の支店を訪れる顧客は急減しているという。
日本は高齢化の影響で、減少率は少ないのだろうが、これから確実に減っていく。
大手銀行は、この現実を受け止めリアル店舗を減らすというリストラを完了しているとのこと。
その上、決済手数料を劇的に引き下げているらしい。
そうまでして、新興企業が出てくるのを防いでいる。

三井住友銀行が、インターネットを使えば、同行あての振込手数料を無料にしたのも、そういう一環なのだろう。

すでに、インターネット上のソニー銀行などはATMの引き出し手数料を無料にしたり、振込も回数を限定して無料にしている。
そういうところと競争しないといけないのだ。

中国では、送金手数料が数円になっており、彼らが進出してくるとひとたまりもない。

現実にアマゾンが銀行業への参入を計画しているという噂もある。
さらに、「中国のアリペイという超巨大な決済サービスを率いるアリババの金融業は、時価総額にして16兆円と、すでに邦銀最大手・三菱UFJフィナンシャルグループの約2倍の規模に達している」とのこと。

銀行が生まれた起源は、もともと「支払いサービス」にあるという。
現金を持ち歩く必要がなくなる、というところだ。

「裏を返せば、金融取引とは、ただの「情報」に過ぎない。情報テクノロジーが高度化した今、金融サービスを提供するのに、何万人もの人員や、一等地の高級ビルも必要ない。
考えてみてほしい。そもそも人々はこの先も、銀行のサービスを享受するために、これまでと同じようにお金を預け続けるだろうか?」

と記事は書く。

もう「Too big to fail」の時代は終わった。
バブル崩壊の時に、モラルハザードがありながらも、税金を投入して生き延びてきた銀行も、インターネットの進化の波にのまれようとしている。

記事は「銀行はもう要らない」と締めくくっている。

就職のランキングも変わるだろうなあ。


| | 考えたこと | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギターもどき
ぼくがカシオのDG-20というデジタルギターを買ったのは、1980年代。
当時カシオはカシオトーンをはじめとして、楽器にも相当力を入れていた。
そのカシオの意欲作が、デジタルギター。

結論からいうと、残念ながらこれは成功はおさめられなかった。
一部のギターフリークと珍しいもの好き(ぼくがその一人)が買った程度。
何年間売っていたんだろうか…。

調べてみると、DG-1、DG-10、DG-20というバリエーションがある。
基本的な発音メカニズムは同じ。

弦はみんな同じ太さのナイロン弦で、張力はゆるい。
ボディが総プラスチック製だから、そんなに強い張力には耐えられない。

フレットがゴム製で、押さえたところにスイッチがある。
それで、音の高さを認識する仕組み。
音が出るのは、弦を弾いて、振動したとき。
音源は6つあって、6本の弦一つ一つに割り当てられている。

当時のカシオは企業理念の「創造憲章」の最初にあるように、「独創性を大切」にしていた。

ギターという楽器を電子化するとき、誰もが考えるやり方だったと思う。
しかし、本物の楽器メーカーでは、没にしただろう。
これはギターではないからだ。
そもそも、試作品も作られなかったかもしれない。

しかし、楽器に関しては新興メーカーだったカシオは、愚直にそれを作った。
おそらく、ポータブルキーボードの音源とスピーカーを使って、ギターに仕立てるという企画だったのだと思う。
それなら、新たなものを作るのは最小限で済む。

できた楽器は、ギターの形はしているものの、ギターもどき、という感じ。

たしか、5万円くらいで売ったと思う。
当時はまだギターブームがちょっと下火になった程度だったから、ギター人口は多かった。
どれくらいのセールスがあったかはわからない。

リズムマシンもついて、ポスターのキャッチコピーが「6本の弦でキーボードする 楽器のNEXT WAVE」と書いてあった。
なぜか、ヘリコプターをバックに、デジタルギターを弾いている姿のポスターだ。
何となく、未来的な感じをかもし出したのだろう。

単1電池6本という重装備。
今では懐中電灯でもそんなに使わない。
まだ、部屋に置いてある。
MIDI出力もあるし、DTMの打ち込みには使えるかもしれない。

久しぶりに、電池を入れてみようかと思う。

音が出るかな…。


| | 考えたこと | 20:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
アマゾンの弊害
アマゾンをいつから利用し始めたのか、もう記憶が薄れている。
10年以上にはなるだろう。
当初は便利だと思った。
本だけだったが、送料はいらないし、定価販売だし、品質はわかっているから、そういう商品は通販に向いていると思った。
その後、どんどん拡大したのだが‥。

本をアマゾンで買うようになって、増えたのが積読(つんどく)。
本屋で買っていた頃は、読みたいと思って買うので、帰ってから開いてみるのが当たり前だった。
しかし、これが1日、2日の間ができると事情が違う。
読みたいと思って買うのだが、来てすぐに開かなかったりする。
ああ、来たかと思って箱を開け、本を出して、置いておく。
ついた時間が、本を読める時間でなかったりするし、買いたいという衝動が収まっているからだ。
実際に本を買いに行って、帰ってきたときなどは時間があるときだから、実際にページを開くことができる。
でも、勤めから帰ってきて、アマゾンの箱があっても、しんどかったりするとそのまま置いておいたりする。
そういうケースが増えたのだと思う。
それらが、いわゆる「積読」になる。
個人差はあるだろうが、きっと通販で本を買う人は「積読」が増えていると思う。

ぼくの場合は、奥行きのある本棚2段分が積読の置き場になっている。
最初は棚に一列だったが、そのうちに2列になった。
その上、ほんの上にスペースがあるので、そこに平置きしたりする。
奥の方にある本など、見ることもできない。
これをなんとかしたいと思う。

一時はこれを読んで減らさないと、本を買わないという思いもあったのだが、ついつい買ってしまう。
ちょっとは抑制しているのだが‥。

還暦を超えて、アマゾンの「中古」に手を出し始めたのもある。
安くなったから余計に買ってしまいやすい。
こちらは送料がいるのだが、実質1円で送料の250円程を出したら買えるようになった。
時にはブックオフオンラインも使ってしまう。
そうなると、抑制が弱まって積読が増える。

シリーズ物の小説の一気買いなら、たいが読むのだが、ちょっと興味がある程度の新書などは後回しになる。
実際、読んでどうするねん、というものもある。

今さら、昔の積読を読む意味があるのかとも思う。

ぼちぼち、積読を選別しないといけないなあ。




| | 考えたこと | 23:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
災害続き
関西で台風の被害が出たと思ったら、今朝は朝からテレビで北海道の地震のことをやっている。
岡山、広島、愛媛などの豪雨の災害もあったし、大変だ。

北海道の山が映っているが、山が茶色になって斜面が滑り落ちている。
厚真町というところだ。
かなり大きな被害だろう。
土砂が滑り落ちたところに、家があったかどうかもわからない。

北海道全体の295万戸が停電。
Twitterによると、道内のハブになる送電設備がやられているのではないかとのこと。
電気が作れても、送れない状態だ。

水道管も破裂しているから、水が止まるところも多いんだろう。

一昨日、1日停電しただけでめちゃ不便だったから、少しでも早く復旧することを祈るしかない。

北海道にいる後輩に、Messengerでダイレクトにメッセージを送ってみたら、返事が来てよかった。

つくづく、電気・水道などのインフラは大事だと思う。
阪神大震災から20年以上経って、そんなことも忘れていた。
ツイッター上では、停電したのが初めて、という若者も多数いて、そういえば長いこと停電してないなあ、と思い至った。

電気が来るのは当たり前、と思ってはいけないのだろう。

今でも関電の人たちは復旧に追われているはず。

仕事とはいえ、感謝。



| | 考えたこと | 10:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
電子ドラム
今日の昼過ぎに停電は復旧した。
助かった。
電気の便利さに感謝。

1980年台に電子ドラム、というかシンセドラム(通称シンドラ)というのが流行った。
覚えているのが、CCB。
メガネのボーカルがシンドラを叩きながら、歌っていた。

確認のためにネットで検索すると、シンドラというのは、もう死語になったらしい。
シンドラというドラマとか、ゲームが出てきたりする。
今はシンセドラムというのは流行らないらしい。

まあ、ぼくも題名に電子ドラムと書いたのは、本物のドラムセットを模したものとして、最近楽器メーカーが出しているもののことだった。
ドラムを模したパッドを叩いて、ピコピコとかビューンとかいうシンセドラムよりも、今は手軽なドラムセット(本物のようなドラム)としての需要が多いのだろう。

フェイスブックでヤマハをフォローしているのだが、電子ドラムの宣伝が出て来る。
バス・ドラム、ハイハット、シンバル2つ、スネア、タム2つというような基本構成。
ハイハットなど、ペダルだけだ。
これなら、5万円ちょっと。

何がいいと言って、簡単にたためて、広げられ、場所を取らない。
チューニングも要らない。
それでいて、音源はメモリーが安くなって、良くなったから、本物の音が出る。
さらに、ヘッドフォンで練習ができるというのがいい。

最近のは、ちゃんと練習モードがあって、ドラムの練習ができる。
これがいい。
昔なら、本物のドラムで場所は取るし、大きな音が出るし、家での練習はムリだったが今は電子ドラムでできるようになった。

年をとっても、手軽にドラムを始めることができるということだ。

こないだ、管楽器は身体を使って吹くので、面白そうと思ったが、ドラムは両手両足を使ってやれる。
ネットで調べてみると、こんなことが書いてあった。

「電子ドラムって、どんなにショボいプレイヤーが叩いても、ズドーン!と「それなりの音」が勝手に出ます。そこが凄いんだけど、ドラムの上達を考えると逆にデメリットになる。

音の強弱とかダイナミクスとか、そういった生の感性の部分が育たないんです。どう叩いても「それなりにいい音がでる」って事は、「そこは気にしなくて良い」って感覚になっちゃいます。」

これは、本格的にドラムをやる人にとってはマイナスだろうが、年をとってとりあえずやってみたいという人にとっては、いいことだ。
ドラムのどこを叩くかで音が変わるというのはそうだろう。
そこのスポットを叩く、というのが本来のドラマー。
でも、なんちゃってドラマーなら、とりあえず叩いて音が出ればいいのだ。
そういうプレイヤーにとっては、どこを叩いても「いい音」がするということになる。

ちょっと色気が出てきた。

年をとってもできるかな。




| | 考えたこと | 23:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
停電
今日の台風はすごい風だった。
あんな風は生まれて初めてというレベル。
足が速いから、わりと短時間だったけど、すごかった。

風はやんだけど、電気が来ない。
何度かついたり消えたりしたんだけど、夕方からピタッと止まったままだ。
今日はもうあきらめるしかない。

出入り口が電動シャッターだから、車で出ることもできない。
ルーターが止まるから、Wifiも使えない。
この記事は携帯でテザリングして、ノートPCで書いている。

水は出るが、湯を沸かすのには電気がいるから、ガスは来ていても湯は出ない。
便利になった分だけ、電気に依存しているのだ。

もちろん、エアコンも動かないし、扇風機もダメ。冷蔵庫も止まる。
おかげで、今日はアイスを3つ食べた。
溶ける前に食べないと…。

ネットが発達して、IoTとか言ってすべてのものがネットに繋がるようになる時代。
ということは、電気がなければ、何もできない時代なのだ。

今はまだパソコンが動いているからいいけど、明日になったらもうヤバい。

両隣は電気がついているが、ウチはダメ。
道路側にある電力計のところの蓋を開けて、ブレーカーを入り切りしたが、復活せず。
どこかがやられてるんだろう。

関電のホームページを見たら、尼崎は停電地域になっていない。
ツイッター上では尼崎市民が文句を言っていた。
こういうときはツイッターが頼りになる。

仕方ないので、今日は水風呂に入って寝ることにする。

しかしなあ、水風呂に入るほど暑くないのがなあ…。



| | 考えたこと | 20:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
聲の形
2016年のアニメ映画。
京都アニメーションで山田尚子という女性の監督。
Eテレ(教育テレビ)で夜中にやっていたのを録画して見た。
見終わって、女性の監督と知り、なんとなく納得。

イジメと聴覚障害、不登校などを題材にした映画。
京都という閉鎖的な場所だからこそ、こういう映画が作れるのかもしれない。

主人公グループの、小学校から高校までの時間が舞台。
女性はみんな外面的にはきれいに描かれている。

イジメる方、イジメられる方の両方の立場に立つ男子が主人公。
今の学校は多様性がどんどんなくなっているので、イジメがおきやすい。
そこに聴覚障害がありながら、一般のクラスにはいった女子が登場する。
この子が主人公にイジメられる。
小学生のイジメは容赦ない。
そして、障害を持った女の子は転校してしまう。

ほんとにこんなことが、今の小学生にできるのだろうか、と思う。
そこは誇張されているのだろう。

そして、イジメたことをきっかけに、中学に入って自分がイジメられる方になってしまう主人公。
ここから先はネタバレするので書かないが、そういう体験を通じて、人とのつながりを少しずつ取り戻していくという話。

今はチャットによるイジメやもっと陰湿なイジメがあると聞くが、そこまでは扱わない。
あくまで映画で、障害者が出てくるのは、もっとも極端な形でいじめの本質を表そうとしたということだろう。

スポーツ選手の為末大氏が、いじめについて語っている言葉を思い出した。

「いじめが起きる構造は、仲良くするということを第一義においた集団が、仲良くするということはひたすらに摩擦を避けることだと認識し、摩擦を起こす存在を排除することだと私は思っている。」

そのとおりだと思う。
イジメをなくすためには、摩擦を起こす存在を「理解し認める」ことだと思う。
それこそが多様性というものだ。
そんなコミュニケーションの基本が、今の学校では難しくなっている。

それがこの映画のテーマだと思う。

最後のaikoの主題歌はよかった。


| | 映画・舞台 | 22:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
カリフォルニアの青い空
アルバート・ハモンドのヒット曲。
日本では一発屋という感じ。
この曲がBSのSong to soulという番組で取り上げられた。

アルバート・ハモンドは60年代にスペインやイギリスでヒット曲を飛ばし、70年代にアメリカに250ポンドを持ってやってきたが、2年間鳴かず飛ばずだったらしい。
そこで、オーディションを受けて、最後に歌った曲がこれだ。
プロデューサーに気に入られ、超一流のセッション・ミュージシャンをバックにレコーディング。
ラリー・カールトンもギタリストとして参加した。
当時は、スタジオミュージシャンで、呼ばれて参加したとのこと。

ぼくらが高校時代の曲。
まだまだアメリカのポップスが日本でも存在感があった頃。

歌詞はサビのところだけ、よく覚えている。
Seems it never rains in California‥のところは印象的だ。
この曲で、Californiaをキャラフォーニアと発音することを覚えた。
明るいトーンで、そういう歌詞かと思ったが、夢を求めてカリフォルニアにやってきた男のことを歌った歌。
夢はまだ実現しないのだ。
ほろ苦い感じの歌詞。

この曲は一世を風靡して、ぼくは「カリフォルニアには雨は降らない」ということを知った。

会社に入って、カリフォルニアにはレイングルーブという道路に刻まれた溝があることを知った。
その上を走ると、車がふらつくという現象出るという。
カリフォルニアでは雨がめったにふらないから、たまに降ると路面にたまった油が浮いて滑るので、この溝が作られたということだ。

だから、当時レイングルーブという言葉を聞くたびに、ぼくの頭の中で「カリフォルニアの青い空」が鳴った。
そういう意味で、印象的な曲。

その後、落葉のコンチェルト(For the peace of all Mankind)というのが、ちょっと流行った。
この曲は日本だけでシングルカットされたらしい。
なんで「人類の平和のために」の邦題が「落葉のコンチェルト」なのかは不明。
当時は万事そんな感じだった。
リスナーは歌詞の意味などわからない。
邦題はフィーリングで付けていたのだろう。

番組で久しぶりに、「カリフォルニアの青い空」を聞いた。
ラリー・カールトンが、「この曲でギターを弾いたことを孫にも自慢できる」と言っていたが、それくらい今でも歌われているのだろう。

この曲をリアルタイムで知っている世代に生まれてよかったと思う。


| | 考えたこと | 20:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
高校野球のマーケット
高校球児の父、という人のツイートをツイッターで見た。

「高校球児の父となった今、実は甲子園大会を見ても心に響かなくなった。
多くの私学強豪校、子供達はスポーツ推薦、寮で朝5時から22時まで野球漬けの日々。一般生とは距離が埋まらず、外の世界を見られず、その多くが高3で野球を辞め、最終学歴となる。
TV等で主張する美しさなどどこにもない。」

子供が私学の野球強豪校に行ったら、そう思うのだろう。
たいがい、そういうところの学校法人は、宣伝のために全国で名を挙げることが目的で野球をやっている。
設備も揃え、監督も呼んできて、大阪などの野球ブローカーに頼んで選手を回してもらう。
そんな学校に行くと、甲子園に出るため、出て勝つために野球をやる。
選手のことよりも、ゲームに勝って有名になることが学校法人の意思だ。

そのために寮を準備し、朝から夜まで野球ばかり。
勉強は最低限だ。
一般の学生とは別扱いせざるを得ない。
学校法人もバカではないから、ちゃんと成績を上げるための成績重視のコースも作り、そこも別枠になる。
こういう分業をはじめると、学校は完全に商売だ。
そんな学校がどんどん増えている。
だから、最近の代表校は聞いたことのない高校名が増えた。

その分、地域による差が縮まり、接戦が増えて見る分には面白くなった。
昔はもっとワンサイドゲームが多かった。
だから、甲子園の客は「判官びいき」と言われたのだと思う。
弱い方を応援してしまったのだ。
でも、今や野球の弱い県などなくなった。
野球留学はやり放題だからだ。

必然的にそんな学校で、野球英才教育を受けると、野球はできるが、その他の経験はできない。
16歳〜18歳の人生は野球一色になる。
それを高校教育と呼んでいいのだろうか。

まだ甲子園に出て、活躍できた生徒はマシだ。
スポーツ推薦で大学に行けるかもしれない。
運が良ければ、ドラフトでプロになれる。
そんな生徒はほんの一握り。
そういう夢を見させて、生徒を釣っているのだ。

でも、大多数はそうならず、高校を出て、勉強しなくても行ける大学に行くか、就職する。
生徒がかわいそうだと思う。
高校が高校の役目を果たさない。

ここまで高校野球を商業化していいのだろうか。

もうぼちぼち、学校と切り離し、学校は教育に力を入れるべきではないか。

高校野球を美しいと喜んでいる場合ではないと思う。


| | 考えたこと | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |