考えたこと2

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マリリン・マックー&ビリー・デイヴィス・ジュニア
マリリン・マックー&ビリー・デイヴィス・ジュニアというのは、フィフス・ディメンションというコーラスグループにいたメンバー。

メインの2人が抜けて、フィフス・ディメンションはメンバーが入れ替わりながらも、現在も続いている。

マリリンとビリーは結婚して、今もおしどり夫婦。
時々コンサートもやっている。
今ではマリリンが70歳、ビリーが76歳。
こないだWebでインタビューをやっている姿が映っていたが、どちらもスマートだった。
まだ現役だ。

ホームページもあって、すごく懐かしかったので、今回二人のアルバムを買った。
ぼくは中学2年の時に、フィフス・ディメンションの2枚組のレコードを買って、それこそすり切れるほど聴いた。
フィフス・ディメンションは当時の黒人コーラスグループとしてはポップな路線だったと思う。
輝く星座〜アクエリアス〜、ビートでジャンプなどヒット曲を放ったが、ぼくはローラ・ニーロというライターの曲が好きだ。
ゴスペル風の曲もあるし、メッセージソングもある。

なにより、ビリー・デイヴィス・ジュニアの声がいい。
もう76だから、さすがに全盛期の声ではないと思うが…。

ゴスペルの雰囲気と、R&Bのテイストと、ポップな感じがミックスしたいい音楽だと思う。

70年代に、作曲家の小林亜星がラスベガスにフィフス・ディメンションを聞きに行く、という話を読んだことがある。
ああ、この人もファンなんだと思って、うれしくなった。
彼ももう82歳だから、この2人のアメリカのコンサートには行けないだろうなあ。

ビートルズのポールやリンゴもそうだが、60年代から70年代に活躍してきたミュージシャンがぼちぼち年をとって、もう70代。
いつまでも元気で活躍してほしいと思う。

そういうぼくも、もう57歳。
あと3年で夢の60代。

もうあまり新しい音楽を聞きたいと思わなくなった。
子どもがいなければ、ほとんど聞いていないだろう。
かろうじて、子どもの世代を通じて、新しい音楽とつながっている。

でも、それももう長くはないだろう。

マリリン・マックーとビリー・デイヴィス・ジュニアのような人たちの音楽と付き合っていきたい。

| | 考えたこと | 23:44 | comments(2) | trackbacks(0) |
知らない代表校
今年も夏の高校野球のシーズンが来た。
いい加減な高校野球連盟が新聞社・放送局と惰性でやっている感じがあるが、それは長くやっていると仕方ない。
最近は特に聞いたことのない名前が増えた。

少子化に伴って、学校法人は設置校を増やす方向でやるしかない。
小学校だけやっていた学校法人は幼稚園や中学、高校に広げていくという戦略だ。
予備校も同じ。
あの、難関校向けの数学だけやっていたZ会が今や幼稚園もやっている時代。

今年の夏の兵庫県の代表は、神戸国際大付属高校になったらしい。
東洋大姫路まではついていったが、神戸国際大付属になるともうわからない。
神戸国際大学というのはどこにあって、どんな大学なのか調べてみた。

付属高校は垂水にある。
法人は八代学院。キリスト教系だ。
八代学院高校は聞いたことがあると思う。1963年に開学した。
それが大学を作った。
高校ができてから5年後。高校が順調に伸びたから、大学も作ったということだろう。

現在の大学の場所は六甲アイランド。
経済とリハビリテーションの学部がある。リハビリテーションは理学療法士の育成をやっている。
経済学部は経済経営学科と都市環境・観光学科の2学科で、定員割れしている。
学部の定員が1200人だが、1111人しかいない。

沿革によると、1968年に八代学院大学として開学。
都市環境・観光学科は元になる都市文化経済学科が95年にできたのだが、おそらく人が集まらず、それで2008年に名称変更している。
2002年に六甲アイランドに移って、キャンパスも一新したのに、定員割れか…。
苦しいなあ。

理学療法士も、元は専門学校でやっていたが、大学がやりだしてそれが増えた。
高齢化に伴って、理学療法士も増えていくから、2002年に神戸国際大も学部を作った。
こちらは集まっているところを見ると、なかなか先見の明があったのだろう。
でも、定員は320名だから、規模は小さい。
厚労省の基準などがあって、設備や実習先を考えると、大きなものは作れなかったんだろう。

昔の八代学院高校というと、まだ馴染みがある。
今でも男子校だ。でも、男子校で頑張っているのはエライと思う。
苦しくなると女子校も男子校も共学になる。

2001年に甲子園初出場だから、その数年前から募集が苦しくなり、広報のために野球に力を入れはじめたのだろう。
高校野球に出場する、という目標ができると、金と人脈さえあれば野球は強くすることができる。
高校にアスリートコースというのがあって、入学定員40名確保されている。
そこにスポーツが得意な生徒を集めているのだろう。
リトルリーグに精通したコーチや監督を集め、練習場を確保し、ちょっといい選手を集めて、練習三昧すればよい。
あとは運だろう。
高野連が一度は地元の選手を、と言ったが、結局は元よりもひどくなっている。
どこかの県では、地元出身者がいなかったりする。
関西弁を話す選手ばかりになっているところもあると聞く。

どうして、みんな野球やサッカーで広報しようとするのだろうか。
勉強を強くするのが、難しいからだ。
でも、勉強も目標を決めて、教員が頑張れば何とかなると思うのだが…。

だいたい、高校野球でこんな名前聞いたことない、という高校はこんな経緯でやっているところが多いと思う。
野球に力を入れること自体が悪いことではないが、学校自体が力を入れだすと、「高校野球」そのものが、なんか本末転倒みたいなことになってくる。

その道のプロになるのは、受験以上に難しい。
プロスポーツにつながるだけに、ややこしい利権も絡む。
だから、Jリーグのようにクラブチームで育成するほうがいいのだろう。

ぼちぼち高校野球も曲がり角に来ているのかもしれない。

| | 考えたこと | 22:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
偏差値の何がいけないか
偏差値教育の見直しという話が日経に出ていた。

実際、大学に関わった仕事をしていて、偏差値の何が悪いかを考えさせられた。
これは簡単だ。
偏差値では集団の中での位置付けはわかるが、その集団の実力はわからない、ということだ。

偏差値というのは、平均を常に50にする。
そしてその平均から、どれだけ離れているかということを、数学的に表す。
対象となる集団を母集団と呼び、通常はこれがその試験を受けた受験生全体だ。
だから、母集団のなかで高いところにいれば、偏差値は60や70になるし、低いところにいれば、40や30になる。
でも、その母集団の実力はわからない。

例えば、英語の実力が毎年少しずつ上がっていたり、落ちていたりしても、それは偏差値には現れない。
平均値はすべて50だからだ。
だから、偏差値で世の中が測るかぎり、教育の問題は教育界しかわからない。
学んでいる生徒自身すら、自分たちの実力を知ることができないのだ。

例えば、内田樹のページによると、「大学サイドから見ると、新入生の英語力は年々劣化を続けていることは手に取るようにわかる。」と書かれている。
でも、教育界の外にいる者たちにとっては、まったくわからない。

算数も同じだ。
前に書いたが中部経団連の調査によると、80年代に9割ほどできた問題の正答率が、なんと4割になっている。

生徒も、同学年の中での位置付けしかわからない。
教えている先生方すら、だんだんと下がっている、という危機感が持ちにくい。
すべて入試は偏差値の世界だからだ。
平均値が毎年1点ずつ下がれば、10年で10点、20年で20点下がる。
それでも偏差値は変わらない。

それが偏差値の一番イケナイ点だと思う。

これを一番喜んでいるのは、文科省ではないか。
生徒たちの義務教育のレベルが下がっているという証拠がなくなるからだ。

いい加減に偏差値至上主義は卒業し、実際にできることを増やしていかないと、人材は育たない。
それを阻害しているのが「偏差値」というシステムなのだと思う。

| | 考えたこと | 00:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
もみない むつこい
昔から気になっていた言葉を聞いた。
どちらも味を表す言葉だ。

一つは「もみない」。
これは「(味が)うまくない」という意味。
「うまみない」が「うもみない」になって、「もみない」になったのかもしれない。

そもそも、「まずい」というのは、関東の言葉。
近畿地方では「もみない」と言っていた(らしい)。
ぼくは小さい頃に聞いたような気がするが、実際ほとんど覚えていないし、使ったこともない。

でも、「まずい」と「もみない」の音の響きからは、「もみない」の方が関西弁らしい。

もう一つ、「むつこい」は「(味が)脂っこい」という意味。
これは、四国・中国地方の方言。
こちらは現役で使われている言葉。

どちらも、漫才師の中田ボタンが使っていた。
漫才の相の手に「もみないねー」とか「むつこいねー」という。
おそらく味に関係した言葉だとわかったが、そこから先はWebで調べた。

中田ボタンは香川の出身だったから、「むつこい」を使っているのだろう。

どうして、味を表す方言が標準語に駆逐されてしまったのだろうか。
今さら、「まずい」の代わりに関西弁では「もみない」という言葉を使おう、という運動は起こせないだろう。

「むつこい」という言葉も、中四国では現役で使われているらしいが、味のある言葉だと思う。
響きがいい。

こういう言葉を使いたい。


| | 考えたこと | 23:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
血液型と性格
日本では長らく血液型と性格は関係あると思われてきた。

正式な調査結果は見た覚えはないが、本屋に行けば血液型の本はたくさん出ていて、もっともらしいことが書いてある。
まあ、一つの都市伝説みたいなものだ。
でも、ぼくはO型なので、何となくO型の性格を信じてきた。

楽観的であるとか、頼まれると断れないとか、ロマンチストであるとか、あまり深く考えすに行動するとか、自分勝手な行動をとるとか、細かいところに気がつかないとか…。

しかし、読売新聞によると「血液型と性格の関連性に科学的根拠はないとする統計学的な解析結果を、九州大の縄田健悟講師(社会心理学)が発表した。」とのこと。

以前から、会社に来たアメリカやヨーロッパの人に血液型の話をすると、「何それ?」というリアクションだった。
血液型は性格と関係があるというと、たいがい、そんなアホなことないやろ、という顔をした。
欧米では血液型と性格が関係あるという発想自体がないらしい。

記事によると、「特定の血液型の人格が否定的にとらえられる例があり、問題視されている。厚生労働省によると、採用面接などで血液型を尋ねられるケースは後を絶たず、同省は「血液型は職務能力や適性とは全く関係ない」として、血液型を質問しないよう企業に求めている。」とのこと。

そこまで信じている会社もあるのか、とビックリする。
あくまで、茶飲み話の情報だと思っていたが…。

実験の仕事をしている時に、血液型の話になり、メンバーをみるとB型が異様に多かった。
ほー、とビックリして、B型は実験に向いているのか、と思って調べたらマイペースで好奇心旺盛というところが実験に向いているのかもしれない、ということになった。
だからといって、配属のために血液型を聞いたり、指定したりすることはなかった。
当たり前だ。

そんなことを聞くとは、よほど人事担当が自信がないのだろうと思う。

ぼちぼち、長らく続いた血液型性格診断の歴史に、ピリオドを打つ時が来たのかもしれない。

血液型で性格を判断するなんて、本気で考えている人もいるのか。
ぼくは、絶対関係ないとは言わない。
体液だから、それがヒトを作っている部分があるからだ。
でも、それ以外にもっとたくさんの要因があって、性格が決まっているのだろう。
それは容易に想像できる。

それが想像できない人が増えた。
だから、もうやめようということだ。

シャレが通じない世の中になった。
とかくこの世は住みにくい…。



| | 考えたこと | 01:11 | comments(2) | trackbacks(0) |
電気代
今日のニュースで大阪の工場が出ていた。
レーザーでステンレスの板を切り抜くという工場で、電気をたくさん使う。
社長が電気代を見せていたが、去年30万ちょっとだったのに、今年は40万を超える請求書が出ていた。
電気代のプラス10万は痛いだろう。
30パーセント増しだ。
いずれ、日本を諦めて、海外に出て行く決断をしないといけないのかもしれない。

一般のおじさんもインタビューで出ていたが、電気が足りたらそれでいい、ということだった。
おじさんは電気代が上がっても、かまわないのだろうか。

事は電気代だけでは済まない。

野菜や果物でハウス栽培しているものは、電気代がかかっている。
工業製品はすべからく電気を使って作っている。
だから、ほとんどの工業製品は値上がりを余儀なくされるか、値上げをガマンして給料が下がるか、非正規社員が増えるか、倒産するか…、いずれにせよ生活は苦しくなる。
あのおじさんがそこまで考えて、電気が足りたらいい、と言ったかどうかはわからない。

どう考えても、年金生活者風だったおじさんだが、物価が上がったら困るんではないかと思う。

エネルギー戦略は大事だ。
今や人間のほとんどの活動にはエネルギーがいる。
だから世界のどの国も、石油を確保しようとしているし、だからこそ石油の値段が上がっている。
その石油も採掘はピークを過ぎたらしい。
真剣に脱石油を考えないとイケナイ。

代替エネルギーも盛んだ。
南米ではとうもろこしから作られたバイオエタノール燃料でクルマが走っている。
だから、牛の飼料に回す分のとうもろこしが足りなくなって、飼料が値上がりする。
それで酪農が苦しくなって、バターが足りないということもあるだろう。
エネルギー不足は思わぬところで思わぬことを起こすということだ。

もちろん、太陽光発電や風力発電、地熱発電などは大事だが、日々の生活を支えるベースの発電としてはまだまだ苦しい。
どこの国も、どうやってエネルギーを確保するかで、血眼になっている。

一方で、石油や天然ガスを輸入して燃やしているのが、今の日本の状況。
昭和の時代、中近東の石油はいくらでも出て、いくらでも使えた。
おまけに値段も安かった。
それを使って、日本は重化学工業やモータリゼーションを起こし、世界2位の所得の国になった。
本当にラッキーだったと思う。

でも、それに甘えてバカになってしまったのではないか。
エネルギーはあって当たり前ではない。
なかったら、即座に困るものだ。
人の命を助けようと思うと、エネルギーが必要になる。
熱中症の予防には冷房がいるし、病院の電気が止まったら、たくさんの人が危なくなるだろう。
そんなギリギリで、「足りたらいい」というようなものではないのだ。

エネルギーは、ライフラインだという認識が、日本にはない。

みんなあって当たり前の生活を長らく送ってきて、そのありがたみをわかっていないと思う。

あのおじさんもいつかは分かる日が来るだろうが、その時はもう遅いかもしれないぞ。


| | 考えたこと | 00:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
子どもの貧困率
先週、厚労省が国民生活基礎調査の結果を発表した(らしい)。

前にも書いたが、河合薫という人の記事に出ていた。
この人の記事はときどき見るが、鋭いところをついていることが多い。

今回の記事のなかで、河合さんは

・100万ドル(約1億円)以上の資産を保有する、日本の富裕世帯数は124万世帯となり、米国、中国に次いで世界3位。
・「子どもの貧困率」が16.3%と過去最悪を更新し、これは先進国でもトップレベル。
・グローバル化とは、デキる人“だけ”しか生き残れない社会に拍車をかけるモノ。一部の人と企業にしか利益をもたらさない。 そして、その戦いに敗れた人たちの子どもが、貧困になる。
・親が働いているにもかかわらず、子どもが貧困であるという現象は、世界的に極めて珍しい現象で、2008年のOECDのデータでは、働いている1人世帯の子どもの貧困率は、OECD加盟国中で最も高かった。つまり、働けど働けど生活は楽にならない、「努力するだけ無駄」な社会が、今の日本の姿。
・4月に文部科学省が全国学力テストの結果と保護者の所得や学歴を分析したところ、所得などが高いほど、子どもの正答率も高くなる傾向。

というようにまとめた上で、こう言っている。

「 完全なる負の連鎖――。「日本の貧困は生きていけないほど貧しくない」などと平気で口にする人たちは、この実態をどう受け止めるのだろうか。
 ブランド服に身をまとい、夏休みを海外で過ごす子どもたちがいる一方で、貧困の負のスパイラルに引きずりこまれる子どもたちがいる。書いているだけで、暗澹たる気持ちになってしまうのだが、子どもたちの6人に1人がこういった状況に置かれている。6人に1人。そう、6人に1人だ。
 政府は「子供の貧困対策」の大綱案をまとめ、月内にも閣議決定するが、その内容は「6人に1人」という危機感を、どこまで感じているのか少々疑問を抱くものとなっている。
 困窮家庭で育つ子どもの大学進学率、学校に配置するソーシャルワーカーの数などを指標とし、政策効果を検証することを提言し、無利子奨学金など学費支援の拡充や、児童扶養手当の支給年齢延長や増額などを盛り込んでいるが、具体的な期限や数値目標は記されていない。その財源の裏付けも曖昧である。」

アベノミクスで景気はよくなったというが、これは株を持っていたり、輸出企業に関係した人がメインだろう。
一方で、電気代やガス代、ガソリン代は上がる一方。
エネルギーコストはすべての生産活動や消費活動に効くので、もろに厳しくなる。
石油が上がるのは仕方ないとは思うが…。

先進国すべての傾向らしいが、二極化が進んでいる。
子どもの貧困率は1985年に10.9%だった。
それが2012年には16.1%になっている。
もちろん、子どもだけでなく、貧困世帯も増えているのだが、6人に1人の子どもが、年収122万という「貧困ライン」の下にいるということだ。

ぼくは昭和40年代に小学校の高学年だった。
小学校6年の時、先生は、「日本は資源も何もないから、人を育てないといけない。アメリカ人はお釣りの計算を足し算でやる。引き算ができないからだ。日本人は引き算でやれる。」「アメリカ人はソニーをアメリカの会社だと思っているらしい」と誇らしげに言っていた。

ぼくはそれを聞いて、子ども心に、何となくうれしくなったのを覚えている。

時を隔てて、昭和が終わり、平成も20数年を経た。
子どもの貧困率は上がり、「どうやって努力したらいいかわからない」という若い人が増えているという。

小学校の先生は忙しく、消耗する職業らしい。
燃え尽き症候群も多いと聞く。
学校の中は、非常勤の講師など、採用試験に通っていない教師も多いというのも聞いた。
教育委員会は無責任体制で、現場との慣れ合いが続いているとも言われている。

もういい加減に公教育を何とかしないといけないのではないか。
少子化で、少ない子供たちをどうやって育てるか、という議論が必要なのに、実態は全く逆だ。
問題は山積みだが、どこにも答えはない。

社会保障の問題にしても、子どもたちを育てないと、解決しない。
少ない人数で、多くの人を支えるためには、生産性を上げないといけない。
ホワイトカラーの生産性は日本が低いとも聞いた。

塾に行かなければ、勉強ができないとか、学校ではそこまで教えられないとか、そういう「言い訳」をやめて、真剣に公教育のレベルを上げないと、本当にエライことになるぞ。

そのためには、まず教員養成課程を何とかしないと…。
教える方を教えないと、教えられる方は変わらない。
教育システムをいくらいじっても、教える人を変えないと、何も変わらないと思う。
6.3.3を4.4.4にしても、一緒だ。
中高一貫や小中一貫などやっても、教師が変わらないと何も変わらない。
いろいろやることはあるが、まずは義務教育の教員養成課程を変えないと…、とぼくは思う。

何かと出てくる池田晶子だが、今回も最後に抜粋する。

「41歳からの哲学」より 請われて田舎の中学校の純朴な学生に対して、話をしに行った時に書いたもの。

「言うには、我が校の生徒はこんなふうだから、町の学校へ行くと、感化されて、たちまちに悪くなる。そうでなければ、外の風に耐えきれずに引きこもる。高校側は、免疫をつけてきてくれと言う。馬鹿を言うな。悪く教育しろと言うのか。
 悩みは深い。この世の中である。あの子供たちに未来はない。それで、「哲学を」ということだったらしい。私は納得した。つまり、外的状況に動じない、強い精神に鍛えたいと。
 その通りです、それこそが哲学の身上です。私は同意した。昨今の教育現場の風潮、何を勘違いしているのか、「よのなか科」?商売の仕方や金のもうけ方を、早いうちから教えることが子のためだなど、驚くべき勘違いである。世の中のことは、世の中に出てから覚えればよろしい。世に出る前には、世に出る前にしかできないことがある。それが、考えることである。徹底的に考えて、自分の精神を鍛えておくことである。その過程を経ることなく、世に出てしまった大人たちを見よ。世の状況に左右され、フラフラと動じてやまないではないか。それが見事な証左ではないか。・・」


| | 考えたこと | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
マイク・ロイコ 男のコラム2 河出書房
マイク・ロイコのコラム集の2冊め。
この人のコラムは本当にキレが良くて、面白い。
13歳からバーテンダーとして働いて、16歳で高校中退、以後教育らしい教育は受けていないとのこと。
文章を空軍にいるときに書き始め、基地の新聞に書くことで技術を学んだ、とカバーの裏に書いてある。

この人の皮肉とユーモアは本当に面白い。
コラムで料理されている本人以外はつい笑ってしまうだろう。
いや、本人も、ものによっては気づかずに笑ってしまうと思う。

こういう人は本当に足が地についているんだろう。
ある意味、偏見の塊と言っていいと思う。
本の中では、ヤッピーとかニューヨーカー、携帯電話などがやり玉に上がっている。
ロイコの好みに合わないと、容赦ない。
でも彼の書き方は、適度な皮肉を含んで、本人をも笑わせるのかもしれない。

理屈っぽいニューヨーカーを皮肉った「ニューヨーカー気質」では、ウッディ・アレンのコメディ映画がとても面白かったのだが、その面白い映画を「いい映画ではない」と言っている映画評論家のことを書いている。

「このポーリン・ケールの評を読んでみろよ」彼は、同誌の映画評論家ー多くの人間がその分野ではもっとも深い洞察力を備えていると考えている映画評論家ーの名前を口にして、どことなく気取った口ぶりで言った。たしかに彼女は深い洞察力を備えている、と私も思う。私はこれまでに何度か彼女の書いたものを読んでみたが、ほとんど一度として理解できたことがなかった。
 だが今回は、曲がりなりにではあるが、私にも彼女のいうことが理解できたような気がした。どうやら彼女は、アレンの新作が気に入らないらしく、その作品を「鼻につく」映画だといって酷評していた。
 そして、驚くべきことに彼女は、その理由を、ウッディ・アレンが観客を笑わせようとしているから、と述べていたのである。ケール自身の言葉を引用しよう。
「一九七〇年代、ポスト・フロイト派のコメディアンとして映画会にデビューしたウッディ・アレンは、みずからの不安を彼一流の道化に昇華して表現してみせた。彼は、みずからの性格不安の意識をユーモアのベースとして使った最初の表現者であり、彼が人間の心のドラマをコメディに仕立て上げてみせたとき、アレンは、すべての人間に向かって語りかけているように、もしくはジョークを発しているように思われた。映画ファンは、自分たちのもっている自己防衛本能や劣等感や始末に負えない野心をありのままに映し出している神経症的な傾向のあるウッディ・アレンの映画の主人公に同病者として親近感を覚えることができた。だが、文化状況が変化したいま、ウッディ・アレンはもはや、私たちが自分たちについて考えていることを私たちに教えてはくれない。彼と私たちのあいだにはいまや壁ができてしまっている。とくにこの『ブロードウェイのダニー・ローズ』では…彼は他のコメディのスペシャリストたちと同じように、壁の向こう側にいて、その壁をドンドンたたいて私たちを笑わせようとしている」
 ニューヨーカーの気むずかしさという言葉で私がいおうとしたことがこれでおわかりいただけたろうか?ここに、観客を笑わそうとして映画を作っている一人のコメディアンがいる。そして、人を笑わせることはコメディアンの使命である。もしコメディアンが人を笑わせられなくなったら、彼はすぐにコーンビーフをスライスする仕事に就いて生活の糧を稼がなければならなくなるだろう。
 だが、そうした考え方はニューヨーカーには通用しない。ニューヨーカーの観点からいうと、ウッディ・アレンは、もはや私たちが自分自身について考えていることを教えてくれなくなったから、堕落したということになる。
 ということは取りも直さず、彼らは長いあいだ、自分自身について考えていることを神経症的なコメディアンに教えてもらおうとしていたということになるが、もしそれが本当だとすれば、なるほどニューヨーカーという人種は並はずれて風変わりな人間の集団である。
 考えてもみるがいい。お互いに会ったこともないというのに、私が自分について考えていることをうウッディ・アレンが教えてくれるなどということがどうしてあり得るだろう?
 これまで私は長年にわたって彼の映画を見つづけてきたが、自分が無意識のうちに自分自身について考えていることを彼から学ぼうと考えたことは一度もなかった。もし私が、自分について考えていることを誰かから学びたいと思えば、私は自分自身に問いかけを発するだろうし、夜遅い時間であれば、もしかしたらバーテンダーにたずねるかもしれない。」

ロイコの痛烈な皮肉の見せ場だと思う。
面白いものは面白い、という正直さが彼の「足が地についている」ところなのだろう。
ヘンな理屈をこねくり回す批評家のことを笑い飛ばす。
自分に正直、というところが彼の強さであり、面白さだ。

もう一つ、「独身男性のための食品購入法」というコラムでは、友人が家に遊びに来て、冷蔵庫が空であることに驚いてなぜか、とロイコに聞くところから始まる。

「おそらく、理解できないのは彼の責任ではないだろう。そこで私は彼に、「マイク・ロイコ流独身男性のための食品購入法」を説いて聞かせることにした。
 このシステムは誰にでもわかる原則にもとづいている。つまり、私はときどき食料品を買い込むがーそれも大量に買い込むがー一度買ったら、買ったものが全部なくなるまで絶対に買い物はしないのである。
 つまり、運の悪い友人は、折り悪しくたまたま私が、キッチンに残っていた最後の食べ物ーツナの缶詰と冷凍のワッフルーを食べてしまった翌日に訪ねてきたということになる。
「君のそのシステムの利点はどういうところにあるんだい?」と友人がたずねた。
 ひと口にはいえないが、この原則に従えば、まず第一に、年がら年中、買い物の煩わしさに悩まされることがない。多くても、私は月に一度しか買い物をしない。ときには、二か月近く買い物をしないこともある。
 第二に、多くの家のキッチンにはいつの間にかいろんなものがたまっていくものだが、わが家にはそういうことがまったくない。トマト・シチューやスープの缶詰の買い置きがキャビネットのなかでほこりをかぶっていることもなければ、朝鮮産のスモーク・オイスターが残っていることもない。冷凍チキンのバッケージがフリーザーの奥に入ったまま忘れ去られることもなければ、半分しか食べていないウェルチのグレープ・ジェリーの瓶が冷蔵庫に並んでいることもない。
 私のやり方に従えば、買ったものをすべて食べてしまわないかぎり、ふたたび買い物をすることはできないのだから、トマト・シチューの缶詰がたまることはあり得ないのである。
「きっとさぞ風変わりな食事をとっているんだろうな」と友人がいった。
 彼のいう通り、たしかにこれまで何度か、普通ではあまりお目にかかれない食事をとったことはある。もういつのことだったか忘れてしまったが、ある晩、キッチンへ行ってみると、残っている食材が、卵三つとマーガリン半分とたまねぎと小麦粉しかなかったことがあった。
 もちろん、それで、ごく単純にエッグ・フライを三つ作ることもできたのだが、私は、せっかくの機会なので、もう少し創造力を働かせてみることにしたのである。
 具体的にいえば、私は、小麦粉に卵とマーガリンと水と刻んだたまねぎを入れて混ぜ合わせれば、なにかできるのではないだろうかと考えて、それを実行に移し、出来上がった柔らかい塊を鉄板の上で伸ばして、なんらかのパンができることを期待しつつ、オーヴンのなかに入れたのである。
 しばらくすると、私の創造した食べ物は、オニオン・パンケーキに似た形をして、その姿を現した。そこで私は、残った二つの卵を焼き、それを、干からびた、厚い板のような、パンケーキに似た食べ物の上に載せた。
「なんだかグロテスクな食べ物だな」友人が気味悪そうにいった。
 そりゃあまあ、料理研究家のジュリア・チャイルドがディナー・パーティのメニューとして勧めることはないかもしれないが、それでひと晩空腹を感ぜすに過ごすことができたことだけはまちがいない。
 これで私のシステムの特長がおわかりいただけたのではないだろうか。このシステムは経済的であると同時にー食べずに終わるものはいっさい買わないのだから、このことに疑問の余地はないー革新的であることをも要求するのである。オニオン・パンケーキに似た食べ物のほかにも、私は、ある晩キッチンに、冷凍のほうれん草のクリーム煮ふた袋とプチ・トマトが三つと冷凍の鶏のもも肉しか残っていなかったときに、それでシチューを作ったことがある。それがどんなものになったかは残念ながらもう覚えていないが、ある種のヴィタミン価の高い食べ物になったことだけはいまでも自信をもっていえる。
「だけど、子供たちはどうするんだよ?子供にはそれじゃあ、あんまりなんじゃないか」
 友人はそういったが、じつをいうと、私がこの食品購入システムを採用することになった原因のひとつは息子たちにあるのである。
 こんなふうにいうとなんだか大袈裟に聞こえるかもしれないが、早い話が、私はある日、人間が物を食べるときの法則を発見したのである。(私はこれをロイコの法則と呼んでいる)。その法則とは、要するに、若い連中は、手間をかけずに食べられるものしか食べないということである。そしてその手のものをみんな食べてしまうと、また誰かが手間をかけずに食べられるものを買ってくるのを待って、それを食べつづけるということである。
 具体的にいうと、たとえば私が毎週買い物に行って、鶏肉五ポンドとスパゲッティ五袋とミート・ソース五缶と冷凍ピザ十個を買ってくるとする。そうすると、彼らは冷凍ピザ十個だけを食べて、あとのものはみんな残しておくのである。もちろん彼らは翌週も同じことを繰り返す。その結果、私は大量の鶏肉と大量のスパゲッティと大量のミート・ソースを食べることになり、彼らはいつまでたっても冷凍ピザばかりを食べつづけることになるのである。
 しかし、私のシステムを採用すれば、冷凍ピザを食べてしまったら、ほかの残っているものを食べるか、何も食べないかのどちらかの道を選択するしかない。
「それじゃあ、まるでサディストみたいに子供たちを痛めつけているようなもんじゃないか?」
 そう、まさしく友人のいうとおりだが、ほかに子供たちがなにかの役に立つだろうか。私はいまでも、ある晩、いちばん下の息子が帰ってきて、膝に皿を置いてテレビの前に座っている私を見つけた時のことを思い出して、思わずほくそ笑むことがある。

なんというのか、この本が「男のコラム2」という題名をつけられている(これは日本の企画だろうと思うが)面目躍如の文章だと思う。
自分でルールを作り、それを崩さない。
一度買い物をしたら、それがなくなるまで買い物をしない、というただひとつの原則。
ロイコのシステムは経済的(効率的)で、革新的である、という効果。
これが大事なのだ。
そして、それは息子たちの行動から導き出されたということだ。
原則どおりに実行し、それを崩さない。
そうすると、子供たちにもいいことがある、ということだ。

もちろん、ビールは別だ。切れたら買いに行く。

こういうコラムが38本入った古本だった。

日本ではほとんど翻訳本がない。
アメリカの一番面白い部分だが、何でないのだろうか。
もったいない。
こういうのを面白いと思う人が日本人に少ないのか。

頭がまだ使えるうちに、原書で読もうかと思う。




| | 考えたこと | 00:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
アメリカのトークショー
こないだ書いたが、The Late Late ShowというLAでウィークディにやっている深夜のトークショーを、3週間ほど遅れて週に1回選り抜きで、ケーブルテレビでやっている。

そのオープニングに、司会者のクレイグ・ファーガソンが話をするのだが、これがきわどい。

ワールドカップのジョークは「サッカーファンのふりをする」というもので、これはLAの人たちに大受けだった。
いくらジョークとはいえ、「そんなことを言うのは不謹慎だ」という人がいてもおかしくないレベル。
まあ、ほんとによほどサッカーファンが少ないのだろう。
おそらく、日本なら客が受けないし、苦情が来るかもしれない。

もっとビックリしたのは、国民性のジョーク。
日本でもオンエアするくらいだから、結構人気がある番組なんだと思う。
毎回、客席から何人か選んで前に出てきて話をするのだが、こないだはドイツから来た人が出ていた。
クレイグ本人は、ドイツ訛りの米語で話すという自分のネタがあるらしいが、ドイツ人のことを「マジメで堅物」という感じのジョークを言う。
これも、日本では「不謹慎だ」というクレームが来てしまうレベルだと思う。
それでも、この番組は成り立っている。

アメリカは「人種のるつぼ」と言われるほどの多民族国家。
深夜放送とはいえ、こんなのいいのかな、と思ったのが正直な感想。

でも、The Late Late Showは人気番組で、長いことやっているのも事実。

アメリカに住んでいるドイツ人も、きっと一緒になって笑っているのだろう。
それは、逆にこのショーが長いこと続いているからこそ、理解されているのだと思う。
結局は司会のクレイグ自身と、視聴者の信頼関係に負うのだと思う。

おそらく、「不謹慎なことを言うな」という声が出ても、「それなら番組を見るな」とか「あれはジョークだ」という声が、この番組を守るのだろう。

下ネタはあるが、それはこの時間の番組なら、まあいいだろうと思う。
でも、セクハラの本家アメリカでも、テレビで下ネタを言えるのかとビックリした。
これも、言った本人に対する信頼関係だろう。
聞いたほうが言った人を信頼していて、不快でなければいいのだ。

もちろん、深夜という時間帯だから、というのもある。

こういうのを見ていると、その国の懐の深さを感じる。
何か一つのことに一生懸命になっていても、その反対側で茶化す人がいるのは、社会として健康的だ。
そういう皮肉とかジョークとかユーモアとかいう感覚は、日本人にはわかりにくい。
ヤジもそういう感じで言えば、問題にならない(と思う)。

一方でセクハラ訴訟が起こり、一方でセクハラまがいの下ネタをテレビで言っている国。

アメリカは懐が深い。

きっと日本人もジョークのネタになっているんだと思うが、その回は飛ばしているのだと思う。

見てみたい気もするが…。

| | 考えたこと | 01:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
インターネットの弊害
インターネットで調べたいことを検索窓に入れて、検索を実行するといくつかの有力なサイト名が出てくる。
これをいかに正確にするか、というところに技術がある。
よくはわからないが、Googleのすごさは、それこそ玉石混交のインターネット上の情報に対して、どこの情報が確からしいか、ということを早く、正確に見つけるという技術だと思う。
そこから派生して、他にもいろいろなビジネスを展開しているが、基礎になっているのは検索技術だろう。

世界中のWebページの情報を収集して回り、各ページの内容のインデックスを作り、ページランクを決め、それで検索語とそれに類似するワードでの検索を実行する。
ページランクは信頼できるページからのリンクの数等で決まるらしい。
こういう仕組みがグーグルの検索を支えている。

だから、簡単に確からしいページにアクセスすることができる。
一昨日も書いたが、世界中で情報発信をしても、得るところは小さい。
それらの情報を確からしいものとそうでないものに分け、人々が信頼できそうだという情報を選び、それが検索結果に反映されないと単なるたくさんのゴミになってしまう。
それを実現しているのがGoogleという会社だろう。

しかし、検索エンジンの発達に伴って、宿題をインターネットの検索でやってしまうという事例が出てきた。
小保方さんの博士論文のように、コピー&ペーストでやってしまうということだ。
2010年に中学生に調査した結果によると、2割程度の生徒が、レポートや作文、読書感想文など、自分の考えを自分の言葉でまとめるべき課題で、ネットの情報の丸写しをしているとのこと。

インターネットの普及に伴って、こういう弊害も出てくる。

ぼくは10年ほど前にこういう状況を見た。
大学の図書館で、授業の課題をやっている学生が、検索しても結果が出てこない、という。
課題はたしか「昭和初期の肺炎の罹患率」とかいうものだったと思う。
結果が出てこないのではなくて、自分のほしい結果がすぐに出てこない、という意味だ。
その学生は、答えを求めていた。

ぼくは「白書をみてみたらどうか」と言うと、「白書って何ですか」という返事。
各省庁が毎年出している本、という説明をしたが、実際にそれをあたったかどうかは知らない。

その学生は、課題となっている言葉、そのものズバリを検索窓を入れたら、答えが一発で出るもの、というふうに考えていたのかもしれない。
Webが進みすぎたのだ。
多くの場合、当たらずとも遠からずのページが検索結果として出てくるのだろう。

そもそもそういう文書がWeb上に出ていなくて、他の人もあまり検索していないような情報は、Webの検索では解決しない。
当たり前のことだ。

インターネットのない昔なら、百科事典とか、いろいろな資料を当たって、探していたものが、検索一発で出てくるようになった。
それは技術の進歩だろう。

あれから10年。
もうそれが中学生にまで下りてきている。
親も、インターネットで調べたらどうか、と言っているのだろう。
それは当然だ。
知らないことはインターネットで調べれば知ることができる。

でも、自分の考えを書くべきところをコピペしてしまうのはよくない。
便利さを享受することは大事だが、先生の指導が難しくなった。

先生の技量が試されるのだと思う。


| | 考えたこと | 00:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
ピアノの将来
スタインウェイというと、アメリカのピアノメーカー。
日本でもピアノのコンサートがあると、スタインウェイのピアノか、ヤマハのピアノが置いてある。
ここが身売りをする、とのこと。
要は売れなくて、苦しいということだろう。
スタインウェイのグランドピアノは、日本ではだいたい1000万円するらしい。

日本でもヤマハや河合楽器はピアノ製造部門は苦しいらしい。

記事によると、「ピアノ販売は長期低落傾向が続いている。同協会が現在の基準で統計を取り始めた1992年、国内ピアノ販売台数は11万3500台。95年以降は減り続け、2010年には1万6356台にまで落ち込んだ。92年の7分の1の水準だ。
 少子化の影響や、高品質・低価格化が進んでいる電子ピアノを購入する人が増えたことが販売減少の主な理由だ。ピアノの市場規模は縮小の一途をたどり、販売台数が1万台を割るのは時間の問題とみられている。」とのこと。

そうだろうなあ。
電子ピアノが飛躍的に良くなったのが大きいと思う。
この記事によると、最近はプロのピアニストも電子ピアノを使うことがあるという。

鍵盤を押す強さや速さに応じて、音の大きさや音色が変わる。
音の波形を記録しておくメモリーの値段が下がり、それを処理するプロセッサの値段が下がり、技術的にはよくなって、要はグランドピアノの音を再現できるようになってきたのだと思う。
おまけに、ヘッドフォンで聞くこともできるし、音の大きさを調節することもできる。
発音は電子ピアノだが、鍵盤とハンマーは普通のピアノそのまま、という機種もあるらしい。
また、音が出るメカニズムにさかのぼって、波形を作る技術までできたものもある。
日本の家庭事情を考えると、電子ピアノが増えるのもわかる。

それに、一台あったら、買い換えない。
親子2代にわたって、同じピアノという家もあるだろう。
その証拠に、大震災のあとは売上が増えた。
潰れたからだろう。
買い換える時に、もう電子ピアノでいい、という選択もある。

もう一つは少子化だ。
子供の数が少なくなって、ピアノを習う人の数が減ったのだろう。
子供の数が減ると同時に、習い事の種類は増えた。
昔は、ピアノやオルガン、そろばんや習字くらいしかなかったのに、最近はダンスや水泳、野球、サッカーなど選択肢が増えた。

これから狙うのは中国やインドなどの新興国だろうが…。

Made in Japanのピアノが世界で勝負ができるようになったのは、ヤマハなど国内メーカーが頑張ったからだろう。
その技術は残してほしいと思う。
でも、市場が小さくなったら、値段は高くなる。
そうなると、いつかは生きていけなくなる。

ピアノのような、アナログなアコースティック楽器でも、電子回路に置き換わろうとしているのか…。

難しいなあ。

| | 考えたこと | 01:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
バター不足
バターが足りないらしい。
パン屋さんやケーキ屋さんが、バターが入ってこないという。

国内の酪農が厳しくなっているのが、その原因の一つらしい。
いろんなページを見ると、いろんなことが書いてある。

・輸入穀物飼料の高騰などで経営が成り立たず、離農する酪農家が続出
・バターやその原料のクリームは、おとなりの中国が急速に需要を伸ばしていて輸入も厳しい
・要するに、食べる人は増え続けているのに、現場でつくる人は減り続けているという状況
・遠因として、酪農離れはTPPによる影響の先読みということもある

それに加えて、エネルギーコストが上がっていることがある。
原油の値段は高くなっていて、ガソリンは170円間近だ。
LNGも以前に比べると高くなった。

エネルギーコストというのは、すべての産業に効く。
ほとんどの産業は電気を使う。
それが上がると、最終的には製品価格に転嫁される。

そして物流コストがある。
電気を使った輸送もあるにはあるが、今はクルマが主流。
ガソリンや軽油が上がると、物流費が上がり、価格転嫁される。
電気を作るのに、化石燃料を使っていたら、コストは上がる。
今はその状況だ。

そして、国際的には中国をはじめとする新興国がエネルギーを求めている。
工業生産にエネルギーがいるからだ。
GDPが上がるということは、それに比例してエネルギーを使っているということにもなる。
だから、石油やLNGの価格がどんどん上がる。

GDPが上がると、食生活も変わる。
昔の日本を考えれば、今の彼らの変化もわかるだろう。
昔はコメを食べていたのが、パン食も増え、おやつも増え、牛肉も増え、だんだんと贅沢になる。
今、中国やインドがそういう状況になろうとしている。
穀物や牛肉が高騰するのも当たり前だ。

ぼくが生まれた頃は30億程度だった世界人口は、今や70億になる。
たった50年で倍になった。
それだけ地球が豊かになったとも言えるが、エネルギーをたくさん使うようになったとも言える。
だから地球が温暖化する。
そして、よりよい食べ物を求めるようになる。

そういうことでバターが足りない。

今の地球で、70億の人たちの生活レベルを考えると、どんな生活をしないと食えないのか、考えないといけない。
まして、それが増え続けるとすると、どうしたらいいのか。

冷房なんか使っていられなくなるだろうなあ。


| | 考えたこと | 01:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
山水の破産
山水電気といえば、中高年のオーディオファンなら知っている名前。

ぼくの家にもあった。
チューナーが丸いメーターになっているのが特徴だった。
70年代はSansuiのアンプ、レシーバーといえばなかなかのものだった。
でも、80年代の半ばに調子が悪くなった。
英国資本に買収され、香港資本に変わり、2001年からは自社の生産拠点がなくなり、アフターサービスがメインの会社になったらしい。
そして、2014年7月に破産申請ということだ。

日経の記事によると、「音響・映像機器の老舗メーカーだった山水電気が7月9日に東京地裁から破産手続きの開始決定を受けていたことが16日分かった。負債総額は約3億5000万円。1947年設立の山水はかつてパイオニア、トリオ(現・JVCケンウッド)とともに「オーディオ御三家」と呼ばれていた。」とある。

そういえば、そうだった。
家電メーカーもそれぞれオーディオブランドを持っていた時期。
ナショナルはテクニクス、日立はローディ、サンヨーはオットー、三菱はダイヤトーンなどだ。
まだまだ日本のオーディオにカリスマがあった時期。
東南アジアで生産する日が来るとは夢にも思っていなかった。
黄金の70年代と言ってもいいと思う。

ぼくは中高生のころ、新製品が発表されたら三宮に行ってカタログを集めていた。
タダできれいなカタログをもらって、隅から隅まで読んで、勉強させてもらった。
S/N比やダイナミックレンジというような言葉は、カタログで覚えた。

かつての御三家のトリオはアマチュア無線の無線機で有名だった。
だから、チューナーが強かった。
これも2008年に日本ビクターの傘下に入り、今はケンウッドになっている。

パイオニアはスピーカーの会社だった。
ここはずっと頑張っていた。一時はオーディオだけでなく、電話やパソコンも作った。
でも、今ではどんどん事業売却し、DJ機器に強みがあるらしい。
ぼくもパイオニアのベルトドライブのレコードプレーヤーを長いこと使っていた。
留守番電話も使っていたことがあるなあ。

これらの3社は日本のオーディオの栄枯盛衰を表している会社だと思う。

みんな栄華を極め、山水のように破産してしまった会社もあるし、状況に応じて変化して生き残っているところもある。
でも、かつての栄華を考えると、ちょっと寂しい。

家電製品の中でもオーディオというのは、70年代から80年代にかけて、カリスマ性を持っていた。
アナログの粋を集めて作られた製品だったと思う。

デジタルのCDが出たのが1982年。
これはまだ一部の回路がデジタルになっただけで、基本はアナログだった。

でも、90年代にパソコンでCDの再生ができるようになった頃から怪しくなった。
再生できるということは、コピーできるということになる。
それがMDになり、今やビットデーターになった。
それとともに、パソコンとの垣根が低くなり、今や無線でのデーター通信などの仕組みがアンプに組み込まれている。
元がデジタルデーターだから、必然的な動きだろう。
パソコンの生産は、激烈な競争によって、台湾や中国に移転しているから、日本では苦しいということになる。

それと90年代にバブルが崩壊して不況になったのは痛かった。
家電業界の海外生産移転もこの時期に進んだのだと思う。

今や家電はデジタル化され、ポータブルプレーヤーやスマートフォンがその中心に座ろうとしている。
それらで日本製で頑張っているのはソニーくらいだ。

全体に小さくて安くなったが、音は良くなったと思う。
あくまでも、値段の割には、ということだが…。

山水の破産は、ぼくの中ではけっこう大ニュースだった。
残念だ。

これがウチにあったレシーバーだと思う。
懐かしい。


| | 考えたこと | 21:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
早稲田は大丈夫か
小保方さんの博士論文の審査が終わり、不正はあったものの博士号は取り消さずということらしい。
報告書の記事を見ていると、責任は大学にある、という感じだった。

学位の取り消しをしない理由は、「学位取り消しの要件を「不正の方法により学位の授与を受けた事実が判明したとき」としており、調査委は小保方氏の行為は規定に該当しない」としたと記事には書いてあった。
不正の方法、というのは賄賂を贈ったとか、過度に親しくなったとか、そういうことを想定しているのだろう。
そういうことは、なかった、という結論。
だから、学位は取り消さない、ということだ。

ただ、論文はちゃんとチェックすべきだし、大量にアメリカの有名なサイトからコピペで文章を取ってきているのだから、論文の指導教員の責任は重い、とのこと。
それはそうだろう。

しかし、この報告はちょっとひどい。
論文自体の不正は認めていて、出し直しも認めていることになる。
論文の信ぴょう性、ということについては「多数の問題箇所があり、内容の信憑性、妥当性は著しく低い。論文の審査体制に重大な欠陥がなければ、博士論文として合格し、小保方氏に博士の学位が授与されることは到底考えられなかった。」と記事にある。

当該学部の同じ研究室のメンバーにも、海外の論文のコピペが見つかっているようで、そこに波及するのも恐れたのかもしれない。

でも、事は世界に及んでいる。
日本の博士の質がこれだけひどいことを宣伝してしまったのだ。
他の真面目な博士たちは、これをみてどう思うのだろうか。
こんなことを許していて、恥ずかしいとは思わないのだろうか。

科学者の良心はどこに行ったのか。

これだけ公然とコピペをしている、ということを問題にしなかったら、恥だろう。

日本の科学技術のレベルはそんなものだったのだろうか。

先輩たちに対して、申し訳がないと思う。

これから、総長が最終判断するらしいから、それを見守ることにしよう。

大丈夫か、早稲田大学…

| | 考えたこと | 01:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
敵の敵は友
ぼくらが中学の頃、ベトナム戦争があった。

もうだいぶ昔だ。
それでも、まだまだ覚えている人は多い。
今の50代後半なら、覚えているはずだから、かなりの人が「ベトナム戦争」という時代を生きていたはずだ。

この当時、昭和40年代。
1965年から1975年の十年間がアメリカが北ベトナムを爆撃していた時期。
ぼくが小学校3年からから高校3年か。
とにかく、中学、高校の頃は新聞に「ベトナム」「北爆」「ハノイ」「ベトコン」などという言葉が踊っていた。
もう40年以上前の事になる。

そのベトナムがアメリカに接近を始めたという。
それも、アメリカの軍事的支援を求めてのことだ。
つい40年前までは敵同士だったのに、現在の共通の敵、中国をけん制するためだろう。

ベトナムにとっては、中国が目下の敵であり、中国の敵であるアメリカはベトナムの友だ、ということになる。
つまり、敵の敵は友、という昔からある格言通りだ。

それだけ中国が南シナ海で脅威になっている。
背に腹は変えられない。

しかし、はっきりしているなあ。

でも、ベトナムをスゴイ国だと言うにはあたらない。

日本は太平洋戦争をアメリカと戦い、負け、占領されても、アメリカと同盟国を保っている。
あの、小野田少尉が広島の原爆の記念碑に「過ちは二度と繰り返しません」と書いたのが日本人だと知って、驚いたという。
彼はアメリカが書いたのかと思ったらしい。

それでも、ぼくはアメリカが好きだ。
アメリカがない世界より、ある世界の方を選びたい。

今の日本の政治家を見ていると、アメリカの51番目の州になるというのも手だなあとすら思う。

| | 考えたこと | 10:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
アメリカのサッカー熱
昨日、アメリカの深夜にやっている、トークショーを見た。
The late late showという番組で、午前0時すぎにやっているらしい。
クレイグ・ファーガソンという人がホスト。
彼と馬とガイコツのロボットがレギュラーで、毎回ゲストスターが一人か二人。
毎晩やっているのだが、日本でCATVで放送されるのは週に一本だけ。
よりぬきのものを放送している。

翻訳で見ていても、トークは面白い。
ファーガソンはスコットランド出身。
昔は音楽をやっていて、俳優、映画監督など多才な人だ。

Wikipediaによると、「自身のトークショーはざっくばらんなスタイルで、番組中にトラブルや言い間違いがあってもそのまま視聴者に見せ、ネタとして使ってしまうことが多い。2007年の番組内では自分がもとアルコール中毒患者であったことを認め、一時は自殺を考えていたと明かした。このときの経験は自著にも詳しく書かれている (ファーガソンはリハビリ後の1991年から禁酒している)。また、自分の母ジャネットや妹のリンを番組のゲストとして招いた。その母が2008年末に他界した時はジョークをやらず、約1時間の番組をまるまる使って母の思い出を語った。」と書いてある。

マジメな側面も持ったマルチタレントであり、さすがアメリカだと思わせる。

その彼が、先週の放送でワールドカップのアメリカチームの予選のことを言っていた。
予選の成績に触れ、90分も走り回って1-1や2-2の引き分けについて触れ、あと何週間かはサッカーファンのふりをしないとイケナイ、と言って笑いをとっていた。

アメリカではサッカー人気がない、というのが本当によくわかった。
あのジョークで大受けするというのは、本音でサッカーが面白くないと思っているのだろう。
必死で90分見ても、点は入らないし、引き分けになったりするし、なんで欧州や南米では人気があるのかわからない、という感じの笑いだった。

まあ、ワールドカップと言っているから、つきあいでアメリカも出ているが、国民は興味がないぞ、という感じだった。
でも、他国は一生懸命やっているから、フリだけはしよう、ということだ。
さすが、オトナの国だ。

スポーツ好きなアメリカでも、こういうところがあるとは、面白い。

お国柄だ。


| | 考えたこと | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
クルマ文化
ケーブルテレビで、ナショナル・ジオグラフィックとか、ディスカバリー・チャンネルとかの海外の番組を見ることができる。

そこでいくつかクルマの番組をやっているのだが、欧米の番組はとにかく古いクルマが好きだ。
もちろん新車の番組もある。
でも、古いクルマを発掘して、リストアし、蘇らせるという番組も多い。
クルマへの愛着と歴史を感じる。
ぼくは知らなかったが、たくさんの車両メーカーが過去にあったらしい。
そんなクルマも時々出てくる。

日本にもクルマの番組はあるが、たいがいが新車の紹介だ。
古い車を扱うものは見たことがない。

常に新しいものを追いかけるという日本人の好みはわかるが、一方でクルマの文化の違いも感じる。
文化というのは、時間の連続性だろう。
今があるのは、過去があるからだ。
過去から今までの積み重ねが文化になる。
だから、クルマ文化というものがあるとすれば、時に古い車のことにも思いをはせるのが自然だろう。

まさに、そういう番組が欧米には多い。

1890年にダイムラー社が作られて以降、モータリゼーションが始まった。
1900年代に入って、T型フォードが大量生産され、本格的な自動車の時代が始まって、1世紀以上が経った。
日本では戦後になって本格的なモータリゼーションが始まったのだから、歴史の長さが倍ほど違う。
それが、文化の違いになっているのかもしれない。

ぼくは小学校の頃からプラモデルを作るのが好きだったし、メカというものに対するあこがれもあった。
スバル360やパブリカもよく覚えている。
自動車に対する夢や希望があったと思う。
新しい技術が出ると、ワクワクした。
まして、その日本の技術が世界を相手に勝つところまでいったから、本当にうれしかった。
商業的に成功したという事の裏には、技術的な成功があったからだ。
でも、その裏には、常に新しいものをという気持ちもあったのかもしれない。
急いで走っていた感じがする。

これから、そういうクルマ文化が日本でも育っていくんだろうか。

残念ながらそうは思わない。
クルマというのを単なるモノだと思っているからだ。

もちろん、クルマはモノなのだが、モノ以上になることもある。

そんな思いが足りないような気がする。

日本人は方丈記の時代から、「形のあるものは滅んでいく存在」だと思っているからなあ。

| | 考えたこと | 01:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
もし死ぬ前に何か一つするなら
こないだテレビを見ていたら、「もし、死ぬ前に何か一つするなら、BMW M5を運転すること」と言っていた。
それほど、このクルマはいいという比喩だろう。

しかし、もし死ぬ前に「何か一つ」するなら、という言葉には結構迷う。
ちょっと考えてしまった。

まず、死ぬ時がわかっているかという問題がある。
事故死などなら突然だから、今の時点で、死ぬまでに何か一つやりのこしていること、という感じになる。
そういうことなら、早くやったほうがよい。
BMW M5を運転したいという気もするが、それを是非ともやっておきたいかというと、そこまではクルマに思い入れはない。

神様が一つ願いを叶えてくれるというような条件もないとすると、一般的にやっておきたいことということになるなあ。
要は日常ではできないけど、できたらやっておきたいこと、というイメージ。
結局は、いつかはできると思うけど、まだ今はいいだろうと思っている事の中から選ぶことになるかな。
でも、何か「一つ」だからなあ。

そういえば、一つ思いつくのは、普段はやりたい思ってもやめておこうと思うことだ。
腹いっぱいおにぎりを食いたい。
一体あのコンビニおにぎりをいくつ食べることができるんだろうか。
これを1回もやらずに死ぬのはもったいない気がする。
この頃合いが難しい。
いつ実行するか。

しかし、死期がわかっていて、何か一つということになると話は変わる。
たとえば、ガンで余命半年と言われたらどうするだろうか。

エリザベス・キューブラー・ロスの「受容のプロセス」よると、人は5つの過程を経て死を受け入れる、ということになっている。

第1段階 否認と隔離 ショックのあまり、事態を受け入れる事が困難な時期
第2段階 怒り 「どうして自分がそんな目にあうのか?」と、心に強い怒りが込み上げる時期
第3段階 取り引き 事態を打開しようと必死になる時期
第4段階 抑うつ 事態が改善しない事を悟り、気持ちがひどく落ち込む時期
第5段階 受容 事態をついに受け入れる時期

やっぱり、第5段階の受容までいかないと、「何か一つ」やりたいことは決められないだろうなあ。

「最高の人生の見つけ方」という映画は、主人公の2人の男が金に任せて「やりたいことリスト」の片っ端からやっていくのだが、結局はそれにも飽きる日が来るというストーリーだった。

日常の中に「最高の人生」はある、ということが言いたかったのかもしれない。
たしかに、「誰かにありがとうという」とか「誰かと一緒に過ごす」とか「ずっと離れていて心残りだった人と会う」とか、そういうことが「何か一つ」になるのかもしれない。
そういえば、そういうドラマや映画は多いような気がする。
人間は関係の中で生きているから、やっぱり「最後の何か一つ」は関係の中に見つけるしかないんだろう。

映画ではそういう結末だった。

結局、その時が来ないとわからないのだ。

それまで保留にしておこう。

| | 考えたこと | 00:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
小田日和
小田和正の新譜だ。

さすがの小田和正もちょっとシンドくなったのかなと思わせる。
今までメロディの3度上のコーラスは、だいたい自分でやっていた。
それが、今回はほとんど女性コーラスになった。
その違いは大きいと思う。

間奏の時に歌う、オブリガードのメロディも女性コーラスが多い。

何となく、いままでの小田和正ではないという感じ。

曲調も静かな曲が多い。
テンポの早いキャッチーな曲は今回はなかった。

前のレコーディングは63歳。
3年経って、今が66歳。
心境の変化があったのかな。

今回はピアノに回帰したという感じがする。
今までギターとピアノが半々くらいだったが…。
今回はピアノが多い。

アルバムの制作風景がホームページに載っていて、そこで本人が言っている。
バート・バカラックを見に行ったら、元気に歌っていたとのこと。
バカラックの年齢は85歳。俺も、85歳まで歌うぞ、とは思っていない…。

でも、何となく今回のアルバムは寂しい。

ずっと聴いてきたが、今回はなあ…。

| | 考えたこと | 23:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
ひつれい
大阪弁では「失礼」のことを「ひつれい」という。

東京弁では「ひ」が「し」に変わるのは有名。
たとえば、「火鉢に火がねえ」というのを「しばちにしがねえ」という。

でも大阪では逆になっているのは面白い。
「し」が「ひ」に変わるのだ。

「失礼」は「ひつれい」と言う。
同じように、「質屋」を「ひちや」、「しつこい」を「ひつこい」、「(布団を)しく」を「ひく」というような例がある。

大阪弁では、と書いたが、実際にそういう発音をしている人は減ったと思う。
標準語の影響だろう。

しかし、自分では「ひつれい」は使わないが、「ひちや」や「ひつこい」、「ひく」などは関西人なら使っているような気がする。
質屋を「しちや」とは言っていないなあ。
気がつけば「ひちや」と言っているような気がする。
「しつこい」は気を抜くと「ひつこい」になると思う。
布団はひくもので、敷くものではないという気もする。

かなり強いなまりかな。

東京の場合は、「ひ」が発音できないから「し」になる、というか、「ひ」という音を聞けないのだろうと思う。
きっと「ひ」が「し」に聞こえるのだろう。

なるほど。
東京が東にあるのは、そういうシャレかもしれない。


| | 考えたこと | 23:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
生かされるべきか、死ぬべきか
インターネットで調べてみると、イギリスをはじめとする西欧の国々では、寝たきり老人というのは存在しないらしい。
そうなる前に、亡くなるからだという。
Webの記事を見ていると、そんな情報ばかりだった。

寝たきりになるような老人には延命措置をしない。
例えばイギリスでは、自力で食事できなくなった老人は治療しない。
スウェーデンやデンマークでも同じだという。
それが国民のコンセンサスに基づくものか、それとも社会保障費が足りないからか、それ以前の死生観によるものか、それはよくわからない。
Webページでは、どちらかというと国民のコンセンサスという論調が多い。

日本では高齢で口から食べられなくなった老人は、直接胃に穴を開けて直接栄養を流し込む例が多い。
これを胃ろうという。
2010年の予測では胃ろうの人が40万人いるとのこと。
療養型の施設とはいえ、ベッドが40万床埋まっているということになる。
参考までに、読売新聞の医療サイトのページを示しておく。

日本の国民皆保険の仕組みは、すでに経済的に苦しい。
もう社会保障費をそんなに贅沢に使っていられないと思う。
これは一つ大きな問題だろう。
若い人のカネを奪って、社会保障をしているという側面もある。

そして、介護の問題がある。
老々介護はまだしも、介護によって若い人の未来を奪うこともある。
それこそ、社会保障でやるべきだと思うが、そこまではお金が回らない。

最後に、一番大きな問題だ。
自分の最期をどうするのか、ということだ。
日本では国民皆保険の制度があり、判例もあって、殺人罪になるから、医師は患者を死なせられない。
だから、基本的に生かす処置をする。
穿った見方をすれば、手がかからずに金儲けができるから、胃ろうをするというケースもあると思う。
「胃ろうビジネス」と書いてあるページもあった。
一方で、「(欧米では)本人の意志に反して(あるいは確認できないのに)胃ろうを造ることは「人間の尊厳」を傷つけることになると認識されているそうです。」と書かれているページもある。
 
それは、一旦管を入れたら、抜けないだろう。
医師が入れた管を抜くのは殺人行為になる。
だから、そもそも胃ろうが「人間の尊厳」に反するのかという議論が必要だ。

日本ではとにかく「生かす」というのが最善の措置だというのが、今のコンセンサスかもしれない。
でも、そこで国民皆保険という制度を悪用し、金儲けの手段にしている輩もいるらしい。

患者本人の意志が明確で、もう自力で食べられないから胃ろうをしてくれ、というケースもあるにはあるだろう。
それはそれで選択だ。

75歳を過ぎたら、積極的に治療をしないという国もあると書いているページもある。

新聞の特集記事もあるし、問題意識を持った医者もいるし、記者もいる。
個人的に胃ろうはしないという確認をしている人もいるだろう。
でも、それがもっと表に出ないといけないのではないか。

今までは豊かだったから、医療の発達に伴って、誰でも生かすことができた。
でも、世界的にみれば、日本はおかしな国になっている。
日本の平均寿命が長いというのも、そのおかしなことの一つかもしれない。
世界一の長寿を誇り、国民皆保険制度を堅持し、CTスキャナの設置台数は世界全体の数の半分だそうだ。
それでいて、日本は医療に対する国民の満足度が低いという。

インドネシアの工業団地で、工場災害で身体に損傷を受けた人が、長いこと救急車が来ず、現地の人に聞いたら「あれはもう仕方ない」と言われた。
ぼくは、あの姿が忘れられない。
ぼくらは日本の豊かさに感謝しないといけないと思う。

若い人が結婚しなかったり、子供を作らなかったりするのは、未来に希望が持てないということもあると思う。
その原因の大きなものが、低成長の時代であり、世代間格差の問題だ。

もっと尊厳死について、考えるべきだと思う。

胃ろうのことについて書いてあるページを見つけた。
参考までに。

そして、池田晶子の言葉を「ロゴスに訊け」から書いておく。

 「ただ生きることではなく、善く生きることだ。」ソクラテスが喝破したのは、二千五百年前のことである。民主政治の堕落した当時のアテナイにおいて、快楽や金銭を人生の価値と思いなし、それらのために生きている大衆に対し、説くには、もしもそれらが価値であるなら、君が生きていることに価値はないはずではないか。なぜなら、それらがなければ君には生きている価値はないのだから。そして、もしも君が、生きていることはそれ自体価値であると思うなら、それらのことは価値ではないのでなければおかしいではないか。なぜなら、君が生きていることそれ自体が善いことなのだから。
 留意してほしい。彼は、すべての人はただ生きているだけで善いことだと言っているのでは断じてない。善く生きている人にとってだけ、生きていることは善いことだと言っているのである。言うのもおかしなくらい、これは当たり前なことではないか。どうして、善く生きていない人にとって生きていることが善いことである道理があるだろうか!」

ぼくは、一人ひとりが、自分のこととして向き合わないといけない問題だと思う。

| | 考えたこと | 00:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
保育所問題
読売新聞の記事。

「民間事業者が大阪市阿倍野区で11月に開設予定の認可保育所の受け入れ定員を巡り、市の担当部局が地元市議の事務所で関係者らと協議し、120人の予定だった定員を80人に減らしていたことがわかった。
 橋下市長は「行政の公平性を疑われ、不適切」と担当部局に厳重注意し、定員を120人に戻すよう指示した。
 市こども青少年局などによると、昨年10月、同区で受け入れ定員を80人以上とする条件で認可保育所の運営者を公募。同12月、広島市内の保育所経営会社が選ばれ、定員は120人に決まった。
 ところが、地元の複数の保育所が「園児を奪われる可能性がある」と反発。このため、同区選出の木下吉信市議(自民)の仲介で、会社と地元保育所、同局の担当者が今年5月と6月、木下市議の事務所で協議。定員を11月の開設時は80人、来年4月から120人とすることで合意したという。」

記事の最初に出てくる認可保育所とは、児童福祉法に基づく児童福祉施設で、国が定めた設置基準(施設の広さ、保育士等の職員数、給食設備、防災管理、衛生管理等)をクリアして都道府県知事に認可された施設のこと。
この認可保育所に株式会社が参入できるようになる。
実際には今でも参入はできるのだが、自治体の裁量でできていないのが実態。それを規制緩和しなさい、という厚労省の指示が出たというのが去年の話。
2015年の4月からを前倒しで運用しなさい、ということになる。

少子化問題への対応を考えても、待機児童を減らすことが大事になっているのは周知の事実。(だからこの指示が出された)
そのさなか、地元の保育所が、園児を取られる可能性があるから、ということで40人受入人数を減らして立ち上げさせようということを談合したということだ。

この指示が出た当時は「保育分野への規制緩和は、共産党などから「儲けが優先された結果、質が低下する」などの批判が聞かれます。 」ということがメディアで言われている。

こういう意見は規制緩和の時に必ず出てくる。

たしかに民間企業は営利を求める。
だから、儲けを優先するのは当然だ。
しかし、質が低下すると決めつけるのはどうかと思う。
儲けるためには、利用者の要望をできるだけ叶え、なおかつ効率化を図って経費を安く抑えることが必要だ。
常に待機児童がいる今は、どんな保育所でも生きていける。
預けないと仕方ないからだ。
その状態を今の児童福祉施設はずっと享受したいらしい。
だから、談合したのだろう。

ぼくは、フェアに競争することでしか、ほとんどの社会の仕組みは結局はうまくいかないと思っている。
フェアな競争を嫌う人たちは、アンフェアな既得権を持っている。
それを守ろうとして、いろんなことを言うが、そこには補助金があったり、役人との慣れ合いがあったり、天下りがあったりして、行政と一体になっているのだろう。

高度成長期には多少のムダは許された。
でも、これからはそんなムダは許されない。
少子化対策を本気でやるなら、待機児童の問題は早急に解決すべき問題だ。

保育園の許認可をやめて市場に任せろとは言わないが、今の厚労省と文科省に任せていては、到底解決しないと思う。
役人は許認可を通じて権限の及ぶ範囲を守りたいし、児童福祉法人や幼稚園などの学校法人は少子化の中で競争をしたくないからだ。

少子化を止めて、子どもたちを増やすのが目的か、それとも自分たちの権益を守ることが目的か、よく考えてほしい。



| | 考えたこと | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
忘れられる権利 Right to be forgotten
情報技術(IT)が発達して、昔はなかった権利を意識せざるを得なくなった。
「忘れられる権利」というものだ。

ニュースによると、「欧州連合(EU)の欧州司法裁判所(ECJ)が下した「忘れられる権利(right to be forgotten)」を支持する裁決に従い、米Googleは複数の大手ニュースメディアの記事を検索結果から除外した。英Guardianと英BBCが現地時間2014年7月2日、Googleから削除通知を受け取ったことを報告している。」とある。

現在、ネットのニュースに載った記事は永久に残るような仕組みになっているようだ。
だから、自分が人々に忘れてもらいたい記事を、検索にひっかからないようにしてもらおう、という権利を主張して、欧州で認められた。
もちろん、細かい条件等はあるんだろうが、とりあえず欧州ではそれを「忘れられる権利」として認めたということだ。

この判決以来欧州のグーグルは6月末の時点で7万件もの削除要求を受けたとのこと。
それらが公共の利益にかなうかどうかは、グーグルが判断するらしい。

一部のジャーナリストたちは、これが知る権利を脅かすと言っている。
要は、「知る権利」と「忘れられる権利」のせめぎ合いになっているのだ。

ぼくは条件が整えば、忘れられる権利を行使してもいいのではないかと思う。
ずーっと昔に一度記事になって、それが何度も検索で出てくるのは嫌だろう。
程度によるが、いつかは忘れられてもいいと思う。

これは根が深い問題だ。
インターネットの発達によって、誰でもが、どんな情報でも、全て入手可能になろうとしている。
ただ、それだけではどうにもならない。
それらを検索して、出てくることが大事なのだ。
だから、検索エンジンを制するものは、情報の世界を制すると言われている。
今のところ、グーグルの天下だ。
日本では一時Gooが頑張っていたが、もう手も足も出ない、と思う。

欧州の裁判所が「忘れられる権利」を認めたのは一つの見識だと思う。
アメリカが自由を重視するのに対して、欧州は少し保守的だ。
グーグルの検索技術に対する警告もあるのかもしれない。
そういえば、欧州連合はグーグルに対して批判的なスタンスでいるような気がする。

ちょっと話は違うかもしれないが、人には「忘れられる権利」があるのではないかと思う。
いつまでも、情報の世界で生きながらえるのは嫌だ。
もちろん、死んだ後も生きながらえてしまう。
自分が死んだ後のことなど、どうでもいいと思う気持ちもあるが、いつまでも自分のことを覚えられるのは精神衛生上よくない。

この判決は、新聞などのニュースに載ったことが対象みたいだが、偉大な業績を打ち立てた人は別として、人は忘れることができる、という時間の癒しを享受することは、一つの権利だと思う。

まだインターネットが普及して1世紀もたたないから、そういう意味での「忘れられる権利」というのは取り沙汰されないが、これが続くときっと出てくると思う。

人の噂も七十五日と言うではないか。



| | 考えたこと | 23:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
国語は大事
臨床心理学者の記事があった。
それによると、日本人はディベートのように自分の意見を通すのは苦手としているが、それは必ずしも悪いことではない、ということだ。
みんなで合意を形成していく、というスキルも大事だということだろう。

その記事の中で言っていることが印象的だった。

「人間は考えるということを言葉で行う。つまり言語能力を獲得していなければ、考えることができない。今は大学生ですら、十分な言語能力が獲得できていない人が非常に多い。母国語の言語能力が確立していないのに外国語を学ばせるのは間違っている、ということだ。

学生に対する心理テストでも、質問の意味がわからない、という学生もいる。「早とちり」という言葉の意味がわからなかったりするそうだ。

そして、言語能力が低いほど、うつ的な気分になりやすいという。悩んだ時に、それを言語化して言葉で解決できないからだ。」

ぼくも全く同感。
まずは内容だ。
話すべき内容を持っていないと、いくら外国語が話せても仕事では役に立たない。
話すべき内容を持つためには、言語能力をつけておかないといけない。
そのためには母国語で本を読むとか、考えるとか、そういう訓練をしていかないといけない。

実際、語彙がないと考えることすらできない。
悩んでいる時というのは、たいがいいくつかのことで葛藤している。
でも、葛藤という言葉を知らないと、それを説明できない。
それ以外にも、矛盾、概念、抽象というような言葉を使わないと説明できないことがある。

できれば、そういう言葉と場面をセットで覚えると、よくわかる。
だから、小説を読むことが大事なのだろう。

小学校で英語をやることに反対はしない。

でも、国語の時間を増やしたほうがいいと思う。


| | 考えたこと | 00:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
中1ギャップ
小中9年間一貫教育の案が出されているらしい。

メインの理由は、中学校に馴染めず、不登校が増えるということに対応するとのこと。
ふーん、と思う。

ぼくは近所の小学校から隣の中学校に行った。
どちらも神戸市立だった。
中学校の校区は第一、第二、第三の小学校をカバーするものだったので、3つの小学校から上がったのだ。
だから、まあいえば1/3は知った顔だった。
だいたい、小学校と中学校の関係はそういうふうになっているのではないか。
小学校が学年4クラスだったので、中学校は3つの小学校を合わせて11クラスだった。

だいたい、公立の小学校で公立中学に行く生徒は場所が近くにあるし、友だちも一緒に行くのではないのかなあ。
調べてみると凸凹はあるが、だいたい中学校の数は小学校の半分くらいだ。
だから、小学校2校に1校という感じなのだろう。
ぼくが中学校に上がった昭和44年はちょっと倍率が大きかったので、3:1になったのかもしれない。

ぼくの中では中学校はなぞの期間だ。
あまり覚えていない。
発達上、ややこしい時期だったんだろうと思う。
さすがに担任の先生は覚えているが、クラスにどんな人がいたかなど細かいことは忘れた。
別に忘れようとしたわけでもないのだが、忘れた。

でも、小学校の先生と中学校の先生はだいぶ違うと思う。
これを兼用するのはシンドイような気がする。

たしか、小学校までが児童で、中学校からは生徒と呼ぶのではなかったか。
13歳から15歳の時期。
別に6・3・3がベストだとは言わない。
でも、12歳から13歳の時期はなんか違うかったような気がする。
人によって違うんだろうが…。

中学校に入って、どうだったか、それも忘れた。
大人とも子供ともつかない、中途半端な時期が13歳〜15歳のような気がする。
記憶に霞がかかって、はっきりしない時期だ。

さすがに高校に入ると、ちょっと大人という感じだった。

だから、6・3・3を見なおして、9・3にする、というのは何となく違和感がある。
小学校の延長にしてしまっていいのだろうか。
たしかに中学に馴染めないという状況は緩和されるだろうが…。

それより、義務教育の教員養成の方式を変えるほうがよっぽど大事だと思う。

今でも、小学校や中学校の採用試験に通らず、臨時教員になって1年目で担任を持ったり、実際に教壇に立ってメインで教えたりしている。
地域によるんだろうが、そんないい加減なことをやっていていいんだろうか。

実際、採用試験など意味がない状態になっている。

教育委員会の改革もどうなったのか、中途半端だし…。

でも、本当に大事なのはシステムの問題ではなく、「教育をする人」の問題だと思う。

何を変えるか、というより、誰を変えるか、という問題だ。

そこに踏み込まないと、何も変わらないと思う。




| | 考えたこと | 22:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
読書感想文
早いものでもう今年も半分が終わった。

毎度毎度書いているが、時間が経つのがどんどん早くなっている。
今月末はもう夏休みだ。

小学校の頃は、だいたい7月20日が夏休みの始まりで楽しみだった。
休みの始まりは、何となく寂しい気分にもなる。
明日から来なくていい代わりに、友だちにも会えない。
みんな通知簿(正式には通知表というらしい)をもらって、一喜一憂する。
夏休みのドリルとか絵日記とか宿題の説明を聞き、先生に挨拶をして帰る。
これが夏休みのはじまりだったような気がする。

やっかいだったのはお天気。
日記帳に毎日つけないといけないのだが、ついつい忘れる。
今ならWebでいつの天気がどうなっているか、いくらでも調べられるが、当時は毎日つけておくしかなかったと思う。

もっとやっかいだったのは、読書感想文。
あの読書感想文というのは、書きにくい。
本のあらすじを書いて、そして、感想を書くという手順でやっていた。
だいたい、100ページ以上もある本を原稿用紙2枚くらいであらすじを紹介して、なおかつ感想も伝えるというのは難しい。

よく考えたら、読書感想文の書き方を習った覚えがない。
感想を書けばいい、ということだが、感想だけ書いたらすぐに終わってしまう。
面白かったとか、難しかったとか、楽しかったとか…、そういうのが普通の感想だ。
でも、この場合はどこが面白かったのか、どこが難しかったのか、どこが楽しかったのかというように、一段深いところが求められる。
そういうふうに読むためには、そういうことを考えながら読まないといけない。
要は、自分と本の主人公を重ねあわせたり、出来事を比べたりしないと書けない。
これがけっこう難しい。
それよりも、実際に経験したことを書くほうが簡単だ。
どこかに行ったり、何かをしたりしたことだ。
これなら本を読むという段階を飛ばせる。

読書感想文というのは、本を批判的に読むということと、自分の考えを書くという2つのハードルを超えないといけない。
だから、みんな作文が不得意になるのではないか。

小学校の時から、ずっと読書感想文は宿題だった。

それをやめて、もっと簡単なものにしたらどうかと思う。

本を読むのは大事だが、それに感想文をつけると、却って本を読むのが億劫になるのではないか。

| | 考えたこと | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
カリフォルニアの車
カリフォルニアというと、ロス・アンジェルスがあるところ。
アメリカの西海岸だ。
そこに、たいがいの日本の自動車メーカーの拠点がある。
もちろん、東海岸のデトロイトなどにもあるのだが、西海岸が優勢だ。
なぜかというと、カリフォルニアを制した自動車は、世界を制することができる(可能性がある)、というほど環境規制が厳しいからだ。

アメリカ自体がそうだが、特にロス・アンジェルスでの移動手段は自動車がメインであり、環境汚染には敏感になっている。
一昨年、トヨタとBMWが環境技術の提携をしたが、そのニュースにも「BMW社がトヨタ自動車と提携した背景には、世界各地で進行する自動車に対する環境規制の強化があります。特に米国カリフォルニア州のZEV(zero-emission vehicle)規制が強化され、BMW社も規制対象になることが提携の大きな要因にあるのではないでしょうか」と書いてあった。

日経ビジネスにシリコンバレーの近辺の通勤の風景を観察した結果がレポートされていた。
カリフォルニアにはフリーウェイ(日本の高速道路。アメリカではタダなのでフリーウェイという)での「カープールレーン」というシステムがあるらしい。

「カープールレーン」とは、もともと1台の車に二人以上が同乗して、渋滞を緩和するためのものだ。
しかし、「カリフォルニア州は環境対策の一環として、一定の基準を満たしたエコカーならば、1人乗りでも走行できるようにした。」とある。
要はエコカーなら一人でカープールレーンを通行してもいいよ、ということが法制化されているのだ。

実際に他のレーンが渋滞している時でも、カープールレーンだけはスムーズに車が走る。
エコカーはまだまだ普及していないし、値段が高いからそんなに走っていない。
だから、混まないのだろう。

レポートによると、

「渋滞するほかの車線とは対照的にスムーズにクルマが流れていく。米テスラ・モーターズのEV「モデルS」と日産自動車のEV「リーフ」、トヨタ自動車の「プリウス」はデザインが特徴的で遠くからでも一目で分かる。ガソリン車とEVのデザインを共有しているクルマは見分けがつかなかった。
 結果はEVの圧勝。頻繁にEVが通過し、途中バイクに乗った警察官に尋問された際には会話の途中にEVを見落とさないか焦ったほどだ。日産のリーフが64台、テスラのモデルSが28台、「プリウス」は37台。プリウスの場合、2010年モデルまではHV(ハイブリッド車)でも通行証を得られたため、カープールレーンを走るプリウスの過半がHVと見られる。最先端のエコカーが走る場所で、トヨタのPHVやHVは脇役になっていた。」

と書いてあった。

要はアメリカの環境最先端の(金持ち)ユーザーは、ハイブリッドカーではなく日産のリーフやテスラのEV(電気自動車)を選び始めたということだ。

アメリカの1ガロン(約3.8リットル)あたりのガソリンの価格推移を見てみると、90年代には1ドルちょっとだったのに、2005年には2ドル台に、2011年からは安定して3ドル台になっている。
20年間で3倍になったということだ。
だから、日本車の得意な低燃費の小型車が売れるんだろう。
3倍は大きい。
ガソリンを垂れ流して走るような、大きなアメ車の時代は終わってしまった。
まさに、古きよきアメリカになってしまった。

日本でもガソリンは100円ちょっとだった時代もあったが、長いこと120円くらいだったのに、今は169円というのが近所のスタンドの値段。
円高に助けられていたのが、少し円安になったのと、元々の原油価格が高騰しており、これからも上がるのは仕方ないだろう。
高校の時に習った「需要と供給の法則」に従うと、単純には車の数が増えると石油の値段は上がるということだ。

今、世界の各地でモータリゼーションが起ころうとしている。
でも、ガソリン価格が上がると、それはムリだ。
だから、自動車メーカーは先を見て、エコカーを開発している。
もちろん、環境汚染のこともあるが、メーカーの大きなインセンティブは「もうガソリンを食う車は売れない」ということだ。

その証拠に、シリコンバレーのグーグル本社の駐車場は電気自動車だらけ、とのこと。

こないだトヨタがFCV(燃料電池車)をアメリカで来年売り始めると発表していたが、それもこの記事をみると、なるほどと思う。
700万円でも、カリフォルニアでは売れるかもしれない。
ただ、燃料電池は水素を使うので、水素ステーションが必要になる。
でも、グーグルなら駐車場に作るかもしれないなあ。

最近、ハリウッドスターのインタビューなどを聞いていると、「プリウスに乗っている」という人がちらほらいる。
これには、そういう規制も理由になっているのかもしれない。

エンジンからハイブリッド、そして電気自動車、次は燃料電池を搭載した電気自動車になると言われている。
クルマの超最先端では、もうエンジンの時代は終わったのかもしれない。
たくさんの部品をメカニカルに組み合わせて、機械工学、熱力学などの知恵を総動員して作ったエンジンの時代に、もはや終りが予想されるとは、ポルシェ博士も思っていなかっただろう。

でも、ぼくが生きている間は、まだまだガソリンエンジンの時代だと思う。

息子たちの時代は、どうなるのか。
その次の世代は、どうなるのか。

もちろん、石油がなくなったり値段がもっと高騰すれば、全ての産業が変わる。

これからの時代は「脱石油」がキーワードになるなあ。


| | 考えたこと | 23:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
兵庫県議会議員
昨日のニュースでやっていたが、政務費不正疑惑の議員が記者会見で泣いて話題になっている。

300万円ほどの政務費の使途が不明確で、追求されたらしい。
本人は開き直って、議会の手続き通りに進めていて問題ないと言っているが…。

しかし、これはどう見ても演技だろう。
「泣けば許してもらえた」というパターンが身についている。
泣きながら言っていることは意味不明であり、見ていると笑ってしまうが、笑った後に虚しくなる。

ニュースによると「2日に1回以上に当たる1年間195回もの日帰り出張をし、往復の切符代などとして約300万円を支出していた。その内訳は、兵庫県の城崎温泉駅が106回、佐用駅が62回、県外では、博多駅が16回、東京都内が11回だった。」とのこと。

政治家のレベルは国民のレベルだという。

したがって、県議会議員のレベルは県民のレベルだから、ぼくら兵庫県民としては受け入れざるを得ないが、いくら何でも情けない。
そういえば、ぼくは県議は投票した覚えがないなあ。
これは反省。

この議員、川西市役所で15年勤めた後、今回兵庫県議会で最下位で当選する前に4回立候補して落選しているらしい。

YouTubeのコメントに、 「こんなお馬鹿映像が、世界に配信されるのかぁ・・・・・ こっちが、嘆きたいわ・・・」というのがあったが、ほんとにその通りだと思う。

昔もたいがいひどいのがいたとは思うが、ここまでのはいなかったと思う。

これは年末に残るニュース映像ではないか。
今年の10大ニュースに残りそうな気がする。

タイムズ電子版も「フルスロットルの謝罪」というふうに茶化しているらしい。
ほんとに情けないことだ。

今までこうやって生きてきたんだろうなあ。
こんなのでも、川西市役所では15年つとまったのか。
まあ、県議会が県議会だから、市役所も市役所だろうが…。

この国の政治家のレベルはここまで落ちている。
わけがわからない。

えらいこっちゃ。


| | 考えたこと | 00:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
You are benched.
ドラマのセリフ。「お前は待機していろ」という字幕が出た。
"bench"を英辞郎で引くと、「〔選手を〕試合から下がらせる」という意味があった。

場面は、捜査官が犯人を撃ったのだが、その正当性を内部調査されていて、それが終わるまで捜査に関わるな、という場面。
そこでボスが捜査官に言った。
こういうのは、ある程度類推ができる。
「ベンチに下がっていろ」という意味だろうと思って、間違いではない。
野球を知らないと、わからないかもしれないが…。

別の言葉で“soul mate”というもの。
心の友ということで、「伴侶」という字幕。
なるほどなあ。ソウルメイトというのは、竹内まりやの歌詞にも出てくるが、あれは同性の親友という感じで使っていた。
場合によるんだろう。
ドラマの中では異性だったから、伴侶という字幕が出たのかもしれない。

もう一つ、私立探偵を表す言葉。
”private detective”というのが、たいがい辞書に出ている言葉。
これをちょっと変えて”private eye”という。
ホール&オーツの曲にあった。
プライベートは個人的なという意味だから、プライベートな目というのが私立探偵ということになる。
これは何となく分かる。
アメリカでは日本よりも私立探偵という職業が確立しているようだ。

海外のドラマを字幕で見ていると、時々こういうのに出会う。
こういう表現は一つ一つ覚えていくしかない。

ドラマを字幕で見ていると、そういう言葉に出会うことがある。

これは貴重な瞬間だ。




| | 英語 | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
タイピングのしすぎ
数年前から指が痛かった。
以前は人差し指と中指の第二関節あたりが痛かったのだが、ここ1年ほどはそれが第一関節にうつって、時々激痛が走る。

ギターが原因かと思っていたが、そうではないようだ。
タイピングが原因だと気がついた。

なるほど、第一関節にうつった原因は、パソコンの買い換えだったと思う。
VAIOを買ったのだが、無線LANのキーボードとマウスが付いていて、自分の気に入ったキーボードに変えようとしたが、それが仕様が違っていて、つかなかったのだ。
仕方なくオリジナルのキーボードを使い出したのと、第一関節に痛みがうつった事の時期がだいたい合う。
気がついたら、右手の人差指が第一関節から中指の方向に反っている。
気をつけて、時々手を休め、手をにぎる方向に力を入れてやると、ちょっとマシなような気がする。

左手よりも右手が痛いのは、マウスに持ち替えるからだと思う。
右手をマウスに持ち替えて、ぼくはスクロールホイールと左ボタンを両方人差し指で操作していた。
これがきっと負担になったのだろう。
それで、マウスも変えた。
以前使っていた大きめのものだ。
ぼくは手が小さいから、小さめのマウスが好きなのだが、小さいと指が3本使えないので、大きくした。これは効果があるような気がする。

そして、パームレストの高さを変えた。
高いものにして、常に指が下を向くようにしている。
それがいいことか、悪いことかはわからない。

一番痛いのが、気がつかないうちにずっと指が伸びた状態になっていて、それを曲げた時だ。
ピッという音が体内で聞こえる。
そして激痛が走る。
ここ数日でひどくなった。

どこかいい医者を探さないといけない。
タイピングが原因だったり、マウスの操作が原因だったりして手首や指が痛くなる人はだいぶ増えているようだ。
たしかに職業的にパソコンを操作していると、そういう病気もあるだろう。
だから、整形外科によっては、「手の外科」を標榜しているところもある。

そういえば、エルゴノミクスキーボードというのがある。
真ん中が盛り上がったものがあったり、両手の分が離れているものなど、いろいろ出ていた。
でも、何となくそれを使うほどでもないような気がする。
どうも格好が悪いのだ。

とにかく、いい医者に行くのが先。
どうなることか。




| | 考えたこと | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
コンピューターと人間
音楽業界の記事があり、読んでいるとアルバムの制作費の話が出てきた。

20数年前はアルバムの制作費は2000万円程度だったらしい。
しかし、今は中堅のアーティストで250〜300万、トップクラスでも800〜1000万円程度だという。

CDの売上が落ちたから仕方ないということもある。
しかし、実際に音楽を作るのに手間がかからなくなったのも事実。
コンピューターが音楽を作るのに関わるようになった。

音の高さ、強さ、長さをコンピューターに入れることで、作曲することができる。
その上、たいがいの楽器は、音の波形があるので、どんな音色でも使うことができる。
もちろんシンセサイザーで合成することもできる。
ナマの音が欲しければ、個別に呼んで来て、弾いてもらえばいい。
一人ずつでも、一度にバンドでやってもそれは構わない。
昔はテープだったが、今はコンピューターに録音する。
後からいくらでも加工できる。
ホールにいるような残響をつけたり、音程を変えたりすることもできる。

だから、制作費は安くなった。
極論すれば、楽器を弾ける人が一人もいなくても、ある程度のクオリティの音楽は作れる。
ぼくのギターの先生も、仕事が減る一方だと言っていた。
カラオケの普及も大きいと言っていたなあ。

だから、最近はスタジオミュージシャンというのは食えない。
よほどうまくないと、コンピューターに負けてしまう。

一方、コンピューターの方は、どんどん人間らしさをつけていく。
わざとピッチをずらしたり、タイミングを遅らせたり、早めたりして人間らしさを出す。
そんな状態もあって、制作費が安くなったのだろう。

コンピューターの進歩が制作費を安く上げることに寄与した、ということになる。

これと同じことが産業界でも起こっている。

コンピューターの導入で、人件費を安く上げることに寄与するのだ。

簡単な計算、複雑な処理でも、繰り返してやるものなどにはめっぽう強い。
人ではとても太刀打ち出来ない。
経理部などは本当に人が減った。
工場でも、センサーという眼や耳の代わりになるものを導入して、検査などの仕事はコンピューターがやったりする。
そんなふうにして、人間のやることが取って代わられる。

最後までコンピューターにならないのは、作詞・作曲・編曲かな。
企業でいえば、企画・立案のところだろう。

そういうところでしか、人間は能力が発揮できなくなっている。

難しい世の中になってきたものだ。


| | 考えたこと | 00:12 | comments(0) | trackbacks(0) |