考えたこと2

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本を読むこと
つい先日、相談に来た学生に読書を勧めたら、本を読んで会社というものの見方が変わったと言っていた。
就活に関する「手紙屋」という本だったが、評判がよく、単なるノウハウ本ではない物語。
ぼくも電子書籍で読んだが、まあまあよかった。
やっぱりまとまった文章で読む本はいい。

現代人はネット中毒だ。
電車に乗っても、ほとんどの人がスマホで何かをしている。
始終ネットにつながって、何かを見ている。
でも、ツイッターなどに代表されるSNSは、自分の好みの情報しか入ってこないし、そのレベルも自分が選んで、わかるレベルになる。

今みたいにスマホが一般的になる前は、電車の中で本を読んでいる人もいた。
読み物がスマホになって、活字を読んでいる人の数は減ったとは思わないが、質は変わったと思う。

ネットの読み物には即効性を求めてしまう。
スキマ時間に読み始めて、ちょっと長いなと思ったり、最初の部分で興味を失うようなことが書かれていると、もう読む気がなくなる。
そうすると、飛ばして次を探す。
今やニュースも読み物になって、書く方もそういう書き方をする。
どうしても、センセーショナルな方向に行く。
フェイクニュースが生まれるのも、こういう土壌があるからだろう。

それに対して、本は題名を見て、目次を見て、どういうことが書いてあるのかということが大まかにわかっている。
もともと、読みたいという動機もある。
同じ著者の本を読んでいれば、なおさらだ。
スキマ時間で何かを得ないといけない、というものではない。

こういうところが、ネットの読み物と本の違いだろう。
ネットの読み物には、どうしても「暇つぶし」という側面がある。

歳をとると、本を読むほうがいいと思う。
わざわざつぶさなくても、いくらでも暇はあるからだ。

そういうぼくも、ついつい暇つぶしにネットの記事を読む。

よくないと思いつつ…。


| | 考えたこと | 22:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
制度疲労
またまた、もと小学校教員の中沢氏の記事

きっと東須磨小学校の事件でなにか書くと思っていたが、そのとおりだった。
ぼくと同じように、ハインリッヒの法則を出してきて、どこの学校でもハラスメントは起きているとのこと。
ネットで検索すれば、いろいろ出てくるらしい。
これからも、どんどん出てくると予想している。

彼は教育委員会、学校組織の劣化は著しい、という。

「企業でも、役所でも、どんな組織でも長く続けば、劣化し腐敗していくものだが、役所であるのでリストラクチャリングがまったく生じない。公立学校や教育委員会の耐用年数はもうとっくに過ぎているのではないだろうか。かりに同じものだとしても、解散してもう一度作り直さなくてはならない時期に来ているのではないか。」

全くその通り。
ぼくもそう思う。

以前の彼の提案通り、教員になるためには、社会人経験を10年ほど積ませる(そういう人しか受験できないように制度設計する)というような仕組みで、作り直すべきだと思う。
さらに、ぼくは小学校、中学校の事務を増やすべきだと思う。
こちらも、社会人経験者を雇うことにするのだ。
学校事務ということで、新卒で公務員を雇うというようなことはもう止める。

また、住民の権限をもっと大きくして、教育長も直接選挙で選べばいい。
今の教育者で固められ、社会を知らない教育委員会を開かれた委員会にしないといけない。

神戸市長は文句を言うだけでなく、自分も任命責任があるのだから、もっと主体的に関わっていくべき。
橋下さんを見習ってもらわないと。

戦後70年。教育界は制度疲労を起こしている。

これらを力づくで変えていく政治家が出てきてほしい。



| | 考えたこと | 22:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
日本の産業構造
ちょっと前にデービッド・アトキンソンが書いている本について書いた
実際に買って読んだが、コンサル出身だけあって説得力のある本だった。

彼は日本に長く住んで、日本人のことを知った上で、日本の一人あたりのGDPが低すぎることを憂いて、それに対する処方箋を書いている。
今回また『日本人の勝算 人口減少×高齢化×資本主義』という新書を出したのだが、その中で非効率な中小企業が多すぎることについて、言及している。
その元凶が、「中小企業基本法」だという。

アトキンソンは、働き方程度で、20年も日本経済が停滞するなどありえないという。
真の要因は「非効率な産業構造」を温存したことだ、とのこと。

「日本人はすばらしい能力をもっているのに、働き方が悪いのでその実力が引き出されていない。だから働き方を変えれば景気もよくなっていく、というのが彼らの主張です。
しかし、経済分析の世界では、これは「願望」というか、まったくの見当外れな分析だと言わざるをえません。これだけ大きな国の経済が「働き方」程度の問題によって、20年も停滞することなどありえないからです。
では、何が日本の生産性を低くさせているのでしょうか。これまで30年にわたって、日本経済を分析してきた私がたどり着いた結論は、「非効率な産業構造」です。高度経済成長期から引きずっている時代錯誤な産業政策、非効率なシステム、科学的ではない考え方などが日本の生産性を著しく低下させているのです。」

彼は女性の働き方を例にとって、要因分析の重要性を述べる。

「海外の要因分析では、女性が活躍できていない国は、労働人口の中で、規模が小さくて経済合理性の低い企業で働く労働者の比率が高いという傾向があることがわかっています。
これは冷静に考えれば当たり前の話です。小さな企業は産休や育休、時短などの環境整備が難しいので、どうしても女性が働き続けることのハードルが高くなるのです。これが一次的な問題です。女性を蔑視する価値観や保育所の数などは、あくまで二次的な問題にすぎません。
当然ながら、まずは女性が活躍できる産業構造に変革した後で、具体的な環境作りに取り組むべきです。しかし、一次的な問題を解決せずに、二次的な問題を解決するだけでは、根本的な解決にはなりません。つまり、女性活躍というのは、女性蔑視うんぬんや保育所の数という二次的な問題より、その国の産業構造によって決まるというのが世界の常識なのです。
このような要因分析をロクにしないまま「女性活躍」を叫んで、働くように女性の背中を押しても、生産性向上につながるわけがありません。」

これはその通りだと思う。
だから、日本の女性はパートばかり増えるのだ。

知らなかったが、アメリカの労働者の50%が大企業で働いているのに対して、日本では13%しかいない。
言われるように、「産業構造」が違っているということがよくわかる。
ここから、日本には「小さな企業が多すぎる」という問題につきあたる。

「低賃金、少子化、財政破綻、年金不足、最先端技術の普及の低さ、輸出小国、格差問題、貧困問題……さまざまな問題の諸悪の根源を容赦なくたどっていくと、「非効率な産業構造」という結論にいたるのです。」

そしてこの「小さな企業」はなぜ今でも多いのか、というと1964年の「中小企業基本法」になるという。
この法律では、規模が小さな企業を優遇したのだ。

「中小企業を応援して日本経済を元気にしようという精神からつくられた法律が、優遇に甘えられる「中小企業の壁」を築き、「他の先進国と比べて小さな企業で働く労働者の比率が多い」という非効率な産業構造を生み出してしまったという、なんとも皮肉な話なのです。」

1980年代まではそれでも人口が増えて経済は成長したが、90年代に入って人口増加が止まると、経済成長は止まった。
非効率な産業構造の悪い面が出てきたのだ。
それでも製造業が生産性が高いのは、ものを作るためには規模が大きいほうが有利であり、大企業が多いから、ということになる。

この「中小企業を守る」という精神が、「資本の自由化」による「外資脅威論」に拍車をかけて、資本の理屈による企業淘汰を防いでしまった。
大きい会社が小さい会社を買収してもっと大きな規模の会社になる、ということは「悪」だ、という意識すらある。
それが日本の産業構造を「守り」に特化させたということだ。

「このようにとにかく「会社を守る」ことが何をおいても優先されるようになると、経営者に必要なのは調整能力だけになっていきます。数字やサイエンスに基づく合理的な判断をしないので、他人の意見に耳を貸さず、とにかく「直感」で会社を経営するようになっていくのです。その暴走がバブルにつながります。
そんな「暴走経営」がこの20年、日本経済に与えたダメージは計り知れません。」

ぼくが勤めていた会社は、1985年に海外の親会社を買って、欧州とアメリカに子会社ができた、という珍しい会社だった。
おかげで、90年代に自動車関連の産業が海外進出したときに、最初から海外に工場があり、商売がスムースにできた。
もちろん、当時はまだまだ日本がコントロールセンターで、部品の承認作業は日本だったから、海外の工場や技術部をコントロールするのはぼくらの役割だった。
そのため、一時は海外の技術部と毎晩やり取りして、毎日英語でfaxを書いていた。
冗談抜きで、英語を書く量の方が、日本語よりも多かった時期もあった。
海外の子会社から、研修にどんどん日本に来る人も増え、出張の機会も増えた。

企業の規模が大きくなって、海外とのやり取りを通じて、当時の会社はグローバル化した。
やっぱり大きくなることで、労働者が得るメリットは大きい。
組織が大きくなって、女性のスタッフも増えた。
アトキンソンの言うとおりだ。

でも、なぜ日本の労働者はそんな状態でも職を変わらないのか、という疑問は残る。

やっぱり、雇用の流動化が先のような気がするのだが…。



| | 考えたこと | 23:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
入試制度の悪影響
文科省はセンター入試を改革しようとしている。
まあ、それはそれでやってもらったらいいのだが、その試験を受けない人が増えているのにはどう対処するのだろう。
当初、この試験は高校卒業程度の資格を与える試験という意味合いも持たせよう、という議論はあったはず。
それはどこかに行ってしまった。

こないだの日経を見ていたら、高校2年制の3割は宿題をのぞく1日の勉強時間がゼロ、という記事があった。
就職希望者の6割近くは、休日に授業の予習や復習を全くしなかった、ということだ。
調べてみると、高校を卒業して就職をしたものが18万人。
卒業生全体は108万人だから、17%が就職希望と考えると、その6割は全体の1割程度。
まるで就職をした人が勉強をしないような記事だが、全体の3割の全く勉強をしない人たちのうち、2/3は就職希望ではないのだ。

世の中の人はあまり知らないかもしれないが、昭和の感覚で入試を考えてはいけない。
あくまで昭和の入試というのは、今の「一般入試」に当たる。
国公立は推薦、AOという一般入試以外の入学者は1割以下から2割程度だが、私学ではそんなことはない。

一般入試を受けているのは、早慶、MARCHでも6割以下。関関同立や産近甲龍で4割から5割台がほとんど。
関西の私大でいうと、一般入試を受けて入る学生はが半分以上のところはほとんどない。
780校ある大学で、半分の390校は45%以下になる。
ぼくのいた大学は現在35%程度。

当然、それらの一般入試で入ってきた学生と、推薦、AOで入ってきた学生は学力の差があることが多い。
もちろん、一般入試といっても、センター入試を利用しているわけではない。
下位の大学ではほとんどセンターなど利用する志願者はいないのが実情。
ぼくが学校法人に行った2004年でも、これが原因の学力の2極化問題はあった。
だから、入ってすぐに英語などはプレースメントテストをやらないといけないのだ。
入試を受ける人が半分以下だから、受けてない人は英語の実力などわからない。

間違って、下のクラスに入ったら、間違いなくやる気がなくなる。
それが早期退学の引き金になるから、学校も対応をする。

この記事の見出しには「高2の3割、1日の勉強時間ゼロ 宿題除く 希望進路で差」と書いてあるが、これはウソだと思う。

今の入試制度が、この状況を作り出しているのだ。
その比率を決めているのは文科省。
4年制大学では、推薦入試は半分以下、という規制がある。
どういうわけかAO入試は一般入試ということになっており、結局半分以上は一般入試、という枠はないも同然になってしまった。
そのことは文科省はわかっているはず。
センター入試の改革もやってもらったらいいと思うが、この大学入試の状況はもっと深刻だ。
多様性を求める、などという言葉に騙されて、教育システムが成り立たないようなレンジの学生が入ってくる。

そっちの改革もやってほしい。



| | 考えたこと | 00:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
お坊さん便撤退
アマゾンの「お坊さん便」については一度書いた。

この「葬儀の時に、定額でお坊さんを派遣してくれる」というサービスがアマゾンでは中止になったという記事があった。
「お坊さん便」を扱っている「よりそう」という会社が撤退を発表したらしい。

仏教界と「宗教者や宗教行事をECサイト上で商品として扱うこと」でもめていたが、その決着がついたということか。
ただ、アマゾンに出品するのをやめただけで、同種の「僧侶派遣業」は10社以上できている。
大手ではDMM.comグループなどだ。

記事によると、僧侶に対する説明会も盛況らしい。
自社が取るマージンが他社より低いから、うちと登録してくれ、というような内容。
実際に複数社に登録する僧侶もいるという。

現状では登録時の審査がいいかげんで、トラブルも多いようだが、それだけ会社ができているということはニーズがあるということだ。
特にネットで僧侶派遣をしてくれるところは便利だ。
そのサイトで決済もするから、葬儀のときだけ頼めばいい。
そもそも、最近は無宗教の葬儀も増えていると思う。

核家族化が進んで「家」の概念がどんどん薄れていく。
そうなると、仏壇はジャマだから置かないとか、家の宗教がわからないとかいう家庭が出てくる。
ぼくが死ぬ頃には、家には仏壇などなくなり、法事も廃れているだろう。
墓は残るかもしれないが、今の墓地だって金を払わなければ無縁仏になっていくのだし、死にゆく人の自己満足みたいなものだろう。

ろくにお経も読めない僧侶も登録されているらしいが、そういう僧侶ができてくること自体が仏教の衰退を表している。
まともな宗教活動をしていないから、当然といえば当然。
地域の活動も低調だし、昔からの檀家を守ることしかしない。

それもこれも、読経や戒名でお金を取るという「葬式仏教」に成り下がってしまったからだろう。
普段からの寄進がなく、葬式の時に儲けるというシステムが間違っている。
お寺が自ら仏教を崩壊させたのだと思う。

外国人に「宗教は何か」と聞かれたら「仏教」と答えるが、実際お経も詠んだことがなければ、お寺に行くこともない。
ぼくは日本人は無宗教だとは思わないが、仏教徒だとも思わない。

どちらかというと、日本土着の神道の方が馴染みがある。
「神さま、仏さま」というように、やっぱり「神さま」が上だ。
「お天道様は見ている」という価値観。
「悪いことをしたら、地獄に落ちる」という価値観。

ブッダが説いた教義はスゴイものなのだろう。
しかし、ぼくはそんな小難しい教義などどうでもいい。
伝統的な葬儀をする時に、僧侶がお経を詠んでくれさえすればいい、ということだ。

ネット派遣は何より、料金がはっきりしているのが好まれている。
今や僧侶派遣はビジネスであり、それが明確になっただけのことだ。
そう思っている人たちがどんどん増えている、ということだろう。

それに対して、仏教界は「宗教を商品にしている」と文句を言う。
「諸外国を見ても、そんなことを商品にしている国はない」というが、それが商品として成り立つのは、すでに仏教が「宗教」と思われていない証拠だ。

お坊さん便をやっていた会社も、アマゾンでの取り扱いは撤退するが、自社サイトでコールセンターを使ってより丁寧な対応をする、ということだ。
仏教界がアマゾンからの撤退を喜んでいるというが、それは大きなことではない。

自分たちが仏教を宗教だと思っていないからだろう。
ぼくは学校法人に勤めていた時、多くの仏教関係者が働いていたが、彼らを見ていてそう思う。

自業自得なのだ。



| | 考えたこと | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
フェイクニュース対策
インターネットは情報の宝庫だが、その分ウソもあふれている。
アメリカの大統領選ではないが、大は国単位で、小は個人単位で、フェイクニュースが量産されていると思う。
フェイスブックやツイッターでフォローしているニュースでも、配信元が違えば正反対のことが書かれていたり、意見なのか事実なのか紛らわしかったりして、何を信じたらいいのかわからない、ということもある。

フェイクニュースに引っかからないためには、信頼の置けるニュースソース(人や会社)を見つけておく、というのが必要だ。

まずは会社だが、新聞社やマスコミは内容によっては難しい。
意見の立ち位置が違うからだ。
普段から、この会社はこういう傾向、というのを知っておかないといけない。

例えば、原子力や放射能に関して、マスコミはセンセーショナルな報道を意図的にして、福島の避難者が増えた。
今となっては、これが事実だと思う。
震災当時の新聞の書き方なら、福島にもう人は住んでいないはずだが、ちゃんと生活しているのだから。
結果的に新聞が風評被害を撒き散らしていたのだ。

今は新聞、テレビが主たる情報源という人は、高齢者がほとんど。
だから、どうしても新聞やテレビは高齢者におもねった意見になる。
朝昼のワイドショーなどは、完全にそういう構成になっている。
「年金が減ったら困る」という意見は多いが、今の勤労世代の社会保障は、自分たちの時代の何倍も取られているという報道は聞いたことがない。
そんな記事は、ネット上がほとんど。

若い人はやはりネットが多い。
中でもツイッターやフェイスブックという人が多いだろう。
あれらのSNSも要注意だ。
どんどん自分の意見に近い人ばかりになって、世の中が狭くなる。
そこは意識しておかないと、知らぬ間にだいぶ偏ってしまう。

Yahooニュースなどのサイトも気をつけないといけない。
いろんな会社からニュースを買っているのだろうが、聞いたことがない会社も多い。
要は、誰が書いたかわからない記事は注意して読むということだ。
なんとか編集部、などという署名は要注意。
もちろん、署名のないものは論外だ。

とはいえ、ぼく自身もだいぶ偏っているとは思う。
インターネットの時代、情報の取捨選択は難しい。

人間は自分の信じたいものを信じる。

それが偏らないようにする役目は、ネットの時代に誰が担うんだろうか。

| | 考えたこと | 21:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
孤独こそ最高の老後
1000人以上の孤独老人を見てきた作家、松原惇子さんが「孤独こそ最高の老後」という本を出した。
その取材を通じて、彼女が得た内容を書いた記事があった。

見出しは「老人ホームで「殺してくれ」と叫ぶ高齢者の実情」とい書いてある。
これを見て、「孤独こそ最高の老後」とは思えない。
この本はアマゾンによると、

「老後は孤独だと不安になりますか?健康や病気、お金、人付き合い、人間関係、生きがい、終活などで。確かに、配偶者や子どもが近くにいれば、安心できるかもしれない。でも、周囲に人がいるからこその不自由さや拘束もある。実は孤独こそが、至福の老後を約束する。著者は70歳を超えた今までずっと独身であると同時に、これまで1000人以上の孤独老人を見てきた上で、そう確信するに至った。そこで本書では、孤独をうまく味方に付け、老後を幸福にする方法を、誰でも実践できるかたちで提言する。」

という内容らしい。

しかし、そうなるためには、本人の意思も必要になるということだろう。

流されて老人ホームに入ると、見知らぬ老人と一緒に生活をして、早く死にたいと思うようになる。
孤独を楽しもうと思って老人ホームに行くのと、孤独を避けようとして老人ホームに行くのは、大きな違いがある。
後者の場合は悲惨だ。

「住み慣れた家で生活できなくなった母親の気持ちを察し、娘は毎週、母親を訪ねている。しかし彼女のように、面会に来る家族はとても少ないということだ。

寂しそうな入所者に気遣い、みんなのいる食堂で母親と話すことを避け、部屋で話すように彼女はしている。「いいね。あんたのところは娘さんが来てくれて。うちなんか、誰も来ないよ。息子がバカだから、ここに入れられちまったんだよ」。元気な入所者は、彼女に怒りをぶつけるという。

でも、そんな恵まれた彼女の母親でさえ、「早く死んじまいたい」ともらすと娘は語る。決してホームの対応が悪いわけではない。スタッフは親切で、いい人ばかりだ。カラオケが得意な母親は、スタッフにいつも褒められている。それなのに、なぜ、死んでしまいたいのか。

それは、老人ホームに入れられた老人は、どんなに立派なところを用意されても、家族に捨てられたという思いがあるからだろう。老人は、自分が家族の邪魔になっていることを敏感に察知する。

家族から「お母さん、いつまで生きるつもりなの?」と面と向かって言われなくても、早く死んでほしいと思われていることくらいはわかる。

娘に遠慮がちにつぶやく「死にたい」の言葉の裏には「知らない人の中で、死ぬまで暮らす精神的苦痛から抜け出したい。早くラクになりたい」という思いがあるからではないだろうか。」

というような未来が待っている。

年をとって、孤独を楽しむためには何が必要だろうか。
もちろん自分の心構えは必要なのだが、それでも楽しむためのネタが必要だ。
やっぱり趣味になるのだろうか。

音楽はいいと思う。
聞くだけでも、楽器を弾くのもいい。
ぼくはギターを弾くが、これもいつまで弾けるのかわからないが…。

演芸を聞くのも趣味の一つ。
これは長く楽しめるだろう。
十分に今まで録音して貯めてきた。

読書もいいだろう。
もうその年になると、新しい本は読めないと思う。
だから、今まで読んだ本を読み返すのだ。
そのための本を選んでおくのもいい。

備えあれば憂いなしということだろうなあ。




| | 考えたこと | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
BIツール
ソニーが顧客の購買予測のためのAIツールを無償で公開した。
「Prediction One」というツール。

説明をここで見ることができる。
予測の事例は、過去の顧客の属性と商品を買ったかどうかというデーターから、新たな属性を持った顧客が買うかどうかを予測する、というものだ。
もちろん、それだけではなくいろんな分野で利用できる。
応用分野は以下のように説明されている。

製造業 機器の故障を予測し、効率的な点検で故障リスクを低減
小売・飲食業 来客数を予測し、仕入れを適正化してコストをカット
コールセンター業 入電数を予測し、オペレーターのシフト作成を適正化
不動産業 不動産の成約価格を予測し、業務効率を飛躍的に向上
金融業 貸し倒れなどのリスクを予測し、査定等の精度を改善

営業・マーケティング 顧客データから成約を予測し、成約しやすい顧客にアプローチ
カスタマーサポート 膨大な顧客の声を自動で分類し、全体傾向の把握が容易に
人事 業員の行動を予測し、ひとり一人に合った人事施策を実現
生産管理 出荷数を高精度に予測し、生産計画の精度を向上

事例では、Prediction Oneが予測モデルを作り、結果を出し、理由まで説明してくれている。
デスクトップでファイルをドラッグ&ドロップするだけだ。
やってみて、精度が高ければ、まだどうなるかわからない客のデーターを入れれば、どの客が買いそうかがわかる。

便利になったものだ。
こういうのを、BIツール(ビジネス・インテリジェンスツール)というのだろう。
ぼくが扱ったことがあるのは、数万件のデーターまでだったが、巷でビッグデータ−と呼ばれているのはもっと大きなデーター。

全国規模の顧客で、属性が多かったら、数億件のデーターなどもあるはず。
製造ラインで集めた、製品のデーターなども大きくなる。
そういうものを扱うとなると、簡単にはいかない。

エクセルの限界もある。
100万行、1万6千列だ。
普通ではそんなに使うことはないが、機械的に集めたデーターとなると、膨大なものがある。

ソニーが無償で提供しているのは、デスクトップで使えるものだから、おそらく100万件までのデーターを想定しているのだろう。
これでも、十分使えるところはあると思う。
ぼくが会社にいたら、やってみたいことも思いつくくらいだ。

こういう風にAIを使って業務を効率化していくのが大事なのだ。
ソニーの取り組みは、よく読むとツールは無償だが、サポートは有料というところがミソ。

こういうのをすぐにサポート無しで使えるというのが、これからのAI教育の狙いかもしれない。

でも、それはかなり難しいと思う。





| | 考えたこと | 08:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
人工光合成
人工光合成はCO2削減の決め手だという。
たしかに、CO2を取り込んで、デンプンと酸素を排出するのだから、積極的CO2削減になる。
多くの手は、もともとCO2を出す量を今より減らす、というだけだから、これを「決め手」という気持ちもわかる。

身の回りの多くのものはプラスチックで、これは石油から作られる。
今まで掘り出した石油は1兆リットルもあるらしい。
いったいどれくらい埋蔵されているのだろうか。
いつかはなくなるはずだが、シェールオイルなど新たな掘削方法も出てきて、しばらくは持ちそうだが…。

石油がなければ、ぼくらの暮らしは全く違っていただろう。
20世紀の人類の繁栄は、石油のおかげだったと言ってもいい。
エンジンもできなかっただろうし、ポータブルなエネルギー源がないから、クルマも飛行機も船も難しかったと思う。
世界はもっとローカルなものになっていたのではないか。
それが今より不幸せかどうかはわからないが…。

その20世紀の繁栄の反動が温暖化ということなのだ。
21世紀に入って、2030年までに石油に由来するエネルギー需要は、今より4割以上増えるという予想もあるとのこと。
再生可能エネルギーは、エネルギー密度が低すぎて実用にならないし、口では対策と言っていても、なかなか実行に移すのは難しい。

人工光合成ができれば、火星に酸素を作り出すことも可能だ。
「夢のようなエネルギー源」とも書いてあった。

この分野では、日本は結構頑張っている。
ここにも何度か書いたことがある。
国家プロジェクトもあるし、企業の研究所も頑張っている。

効率の低いものならできている。
しかし、実用に堪えるものはまだまだ。
植物のやっていることを真似するのは難しい。
生物はまだまだ人知を超えたものなのだ。

植物の緑の葉がやっていることを解明して、効率の高い人工光合成を可能にする。
これは間違いなくノーベル賞。

夢がある研究だぞ。



| | 考えたこと | 22:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
科学を信じない人たち
ツイッターを見ていたら、「福島の原子力発電所の処理水が、科学的に安全だったら大阪湾に流すというのは無責任」と言った国会議員がいるらしい。
あげくの果てには「福島のトリチウムは他のトリチウムと違う」という。
こんな非科学的な人が国会議員をやっていていいのだろうか。

それでは、何を基準に「流すか、流さないか」を決めるのだろうか。
そもそも科学以外に基準があるのだろうか。

何千人の労力を使って、水をためている。
タンクに落ちて亡くなった作業員もいる。
今なら、その作業員を台風19号の後始末に使ったらいいのだ。
ぼくには、全く理解できない。

子宮頸がんワクチンについても、「科学的に正しいことを書くことが必ずしも新聞として正しいとは限らない」と毎日新聞が書いたこともあるらしい。
それでは、新聞は何の役目をするのだろうか。
毎日新聞は科学的に間違ったことを書いてもいい、ということだろうか。
さすがにつぶれかけているだけのことはあるが…。

一体、日本はどうなってしまったのだろうか。
理科離れとかいう問題ではないと思う。
これはもう宗教のレベルだ。

長い宗教戦争の時代を経て、科学が新しい「宗教」になって、世界には動かしがたい「真実」がある、ということが人々に受け入れられて、世界はちょっと平和になった。
科学が「宗教」かどうかは難しいところだが、科学的真実というものは少なくとも普通の人の間では、普遍的なものだ。

ところが、日本では原発事故の後からおかしくなった。
旧民主党の政権がそれを煽った。
それに一部の非科学的な物理学者?やジャーナリストが悪乗りして煽った。
さらに、マスコミもセンセーショナルな報道ができるから、それに悪乗りした。

それらが、結果的に避難者を増やし、災害を大きくしてしまった。
未だにそれらを訂正する人はいない。
これもおかしなことだ。
明らかに自分たちが言っていたことと、実際は違うことになっていても、間違いは認めない。

結果的に、今の国会議員や新聞はこのありさま。

いい加減にしてほしいと思う。



| | 考えたこと | 23:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
あるくない?
こないだ、学校の前で学生同士が話しているのを何気なく聞いていたら、一人の学生が「あるくない?」と言った。
どうも前後の会話からして、「あるのではないか」という意味のようだった。
普通なら「あるんちゃう?」というところだと思う。

会話の流れを推定すると、こんなのだ。

「あそこのバイト、時給1280円らしいで」
「ほんまか」
「ホールのバイトやろ。そんなんないやろ」
「いや、この頃人手不足やから、困ってるらしいで」
「あるくない?最近ほんまに高いで」

最後のところで、それはあるのではないか、という言葉が「あるくない?」になる。
ぼくは初めて聞いたが、ネットの上では2015年くらいにもう出てきているとのこと。

思い返してみれば、学生間では「〜くない」というのは、わりとよく聞く表現。
若者言葉だろう。
「言わんくない?」とか「きれいくない?」とかいうのが紹介されていた。

そういえば、否定形でよく聞くような気がする。
「飛ばんくない?」(飛ばないのではないか)、「取らんくない」(取らないのではないか)、「知らんくない」(知らないのではないか)というような言葉。

まとめると「〜くない」というのは、疑問形で使われる。
どの用例も「?」で「ではないか?」という意味。
使うときは動詞や形容詞の原型(ある、きれい)に続くケース、動詞の否定のケース(言わん、飛ばん)がある。
どちらかというと、動詞の否定のケースが多いような気がする。

明らかに関西弁だと思っていたが、そうでもないのだろうか。

一度使っている人に聞いてみよう。


| | 考えたこと | 23:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
世界は多様
日本とマレーシアのインターナショナルスクールでは、差別についての考えが逆になっているという。

日本では、「差別はいけません。みんな同じ人間なのです。」
マレーシアのインターナショナルスクールでは、「差別はいけません。みんな違う人間なのです。」

ということだ。

どっちが正しい、ということではないが、日本の学校の平等志向はよくわかる。
運動会のかけっこはタイムを測って似たようなタイムの子どもで走らせるとか、そもそも順位をつけずにみんな1着にするとか、男子がやる騎馬戦を女子もやるとか、教師と生徒の上下関係をなくすために教壇をなくすとか、学力差を全く考慮せずにクラス編成をやるとか、いろんな事例がある。
いつ頃からこうなったのかはわからないが、平成に入ってこういう話が出てきたと思う。

2011年に一度書いた

日本は、日本語がどこでも通じるし、島国だし、今まで外国に支配されたこともないし、あまり殺し合いもしてないし、世界でも珍しい国だ。
だから、世界の常識とは違う。
世界では、一つの国に多民族が併存しているとか、言葉が違うとかいう国の方が普通なのだ。

だからこそ、グローバルに展開しないといけない企業は、ダイバシティということを言っている。
ダイバシティとは多様性のこと。
いろんな人がいる方が健全なのだ、という考え方。

東須磨小学校の教員いじめの問題などを見ると、小学校は本当に「同質」の人間を求めていることがわかる。
相容れなければ人間扱いしない、ということだ。
だからこそ、大人であってもああいうことができる。
多かれ少なかれ、どの学校でもそういうことは言えるはず。
だからこそ、氷山の一角が出てきたのだ。

比較的閉じた日本の社会の中でも、一番閉じている世界の一つが教育界だと思う。

何度も書いているが、社会人経験を積んだ事務を入れるとか、社会人からの採用枠を何割か作るとか、そういう具体的な施策が必要だ。

もう猶予はないぞ。



| | 考えたこと | 20:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
おかしな保護者会
東須磨小学校の教員いじめのことが続く。
とにかく、腹が立つやら呆れるやら…。

ツイッターに「給食のカレーをやめる」ということが載っていた。
保護者会で説明したらしい。
小学生の方が、いじめた教員よりもオトナだと思うから、カレーをやめなくてもいいと思うが、無理やりカレーを食べさされる動画をみた児童がショックを受けているとのこと。
ホントかなと思う。

カレーが悪いわけではないことくらい、小学生でもわかっているはず。
そんな変な理屈をつけて、「対策している」ということをアピールしているのだろう。
ほんとにバカだと思う。
小学生はもっとかしこい。

保護者会では、加害者4人の謝罪コメントが読み上げられたとのこと。
保護者からは「直接謝罪すべき」という声があったらしい。
なぜ直接謝罪しないのかという明確な説明はなかったとのこと。
身内に甘い体質が出ている。
こんな事をしているから、いじめる教師がはびこるのだ。

男性教師が激辛カレーを食べさせられた家庭科室は、動画を見た児童らがショックを受けているという理由で使用せず、来月末までに改修するとのこと。
なにかオカシイ。
これも、家庭科室が悪いわけではない。
無理やり食べさせた教師が悪いのだ。
そんなことで改修費を使うのは、いったい誰が負担するのだろう。
どう考えても、目に見える対策をしたい、という学校側の意図しか感じられない。

文部副大臣が神戸市教育委員会から説明を受けたらしいが、今回の出来事を期に、教育委員会の制度や教員養成の制度のあり方を議論してほしいと思う。

最初に書いたように、こんな事件が明るみに出たということは、背後に同種の隠された案件がたくさんあるはず。
実際、いろんなネット上の掲示板に出ているとのことだ。

こんな状況を放置しているのは、許せない。

一生懸命やっている先生もいるとは思うが、本当にシステムを変えないといけないと思う。



| | 考えたこと | 17:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
台風19号
先週末は台風19号が上陸して、多くの地域で主に雨の被害が多かった。
温暖化が進み、これからこのクラスの台風がしょっちゅうやってくることを考えると、「治水」についても考え方を変えないといけない。
東京在住の友人は今回の台風を経験して、「温暖化対策真面目に取り組まな、未来は危ういで」と言っていた。

新聞によると、台風19号は南海上で急速に大きくなったらしい。
海面温度は30度以上あった。日本近海も27度以上。
当然、海面温度が上がると、上昇気流が大きくなり、気圧が下がる。
また、気温が上がると、飽和水蒸気量が大きくなり、水蒸気の量が多くなる。
だから、大量の雨を含んで大きな勢力を維持して上陸した。
これらが温暖化の影響だ。セクシーでもなんでもない。

理科で習ったが、水は比熱が大きい。
温まりにくく、冷めにくいということだ。
海の表面温度が上がったということは、海水温そのものが上がったということだ。
あれだけの体積の水の温度が上がると、なかなか下がらない。
そのために、北極の氷が溶けて船が通れるようになっている。
ホッキョクグマは生きにくくなった。

氷が溶けることで、海水面が上がって、小さな島国は水没の危機を迎えている。
欧州やアメリカでも、今まで経験したことがないような異常気象が起こっている。

温暖化が1800年代からの石炭、石油を燃やした人間の活動に由来するものと断言はできないが、少なくともそれらを減らすと、いい方向であるのは事実。
でも、減らしても水の比熱が大きいから、すぐには温度は下がらない。
約200年かけてじわじわ上がってきたとすると、温暖化ガスを減らしても何百年もかかるだろう。

温暖化の問題が難しいのは、それが地球規模で起こっていることと、時間のスケールが大きいことだ。
シベリアや、今までツンドラで覆われていたところは温暖化で住めるようになる。
極論すれば、水位が上がって住めなくなった人はそこに移住すればいいのだが、民族や国境の問題がある。
それと、温暖化対策をしても、すぐには効果は現れない。
変化の時間のスケールが大きく、人間のやる気をそぐのだろう。

おまけに経済活動の問題もある。
CO2が出ない生活は、お金がかかる。
電化といっても、それを作るのに、石炭や石油、LPガスなどを燃やしていたら、同じことだ。
原子力でやれば、圧倒的に減らせるが、安全の問題や恐怖心の問題もある。
開発で森林は減るし、サンゴ礁も減っている。
CO2を酸素に変える植物が減っている。

それもこれも、人類が増えすぎたのが原因。
だからといって、人類を人為的に減らすのはもっと難しい。

皮肉な言い方だが、今から人口が減る日本は、それだけで温暖化対策に貢献できる。
ぼくは動かせる原発は動かしたほうがいいと思っているが、なかなかそういうことにはならない。

また、あんな台風が来る。

せめて、それに備えて治水行政に力を入れないといけない。




| | 考えたこと | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
ラミレス監督
プロ野球はぼくが小さい頃から助っ人外国人はいたが、監督はいなかった。
記憶にある外国人の監督というと、広島のルーツ監督。
すぐにもめて日本を去ったが、その後をついだ古葉監督が1位になって、ルーツの名前も記憶に残った。

調べると阪神のブレイザー監督、ロッテのバレンタイン監督などいるにはいる。
しかし、助っ人選手はいても、助っ人監督はだいぶ少ない。

地上波でナイターを中継がなくなってから、野球を見る機会は減った。
以前はシーズン中テレビをつけたらナイター、という時代もあったが、今や見る影もない。
今シーズン、セ・リーグの2位になったDeNAのラミレス監督は有能、という記事を見た。

残念ながら、阪神に負けてクライマックスシリーズへの出場はなくなったが、今年のペナントレースの2位は立派だろう。
来年主力の筒香がメジャーに行くという噂もあり、大変だとは思うが…。

ラミレス監督は、日本の野球を変えようと思っているのではないか。
DeNAという球団もIT系であり、メジャーでは当たり前のコンピューターを使った分析は得意なところ。
今までの常識を変えるような作戦もありだ。
そういう球団が出てくるというのは、日本のプロ野球にとってもいいことだと思う。

彼は投手の打順を8番にしたり、4番バッターを2番に変えたり、中継ぎ投手を先発させたり、今までの野球界の常識を変えるようなことをやっている。
中には効果が上がっていることもある。

記事によると、9月23日時点のDeNAのチーム成績は下記。

得点:4位
失点:2位タイ
安打数:6位
本塁打:3位
盗塁:6位
打率:5位タイ
出塁率:6位
併殺打:2位
防御率:5位
与四球:2位

記事にもあるが、これで順位が2位、というのはすごい成績。
どう考えてもBクラスとしか思えない。
負ける試合は割り切って負け、勝てる試合を勝ちにいった、ということか。

阪神もこういう監督が、メジャーでやっているような手法で、もっと科学的にやることはできないのか。
古いプロ野球人は「根性」に代表される精神論ばかり。
もう「名球会」の時代ではない。

モダンな野球をやっていかないと…。




| | 考えたこと | 19:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
第九練習 6,7回目
3年目の参加になると、どうしても練習に身が入らず、練習の記録も薄くなってしまう。
今回も2回分まとめてだ。

前回から、メインテーマのあとの「ザイト オム シュルンゲン…」から、フーガの終わりまでやった。
フーガはソプラノとテノールが苦しいところ。
高い音を出さないといけない。
バスとアルトはそんなに苦しくないが、休符のあとの歌い出しのタイミングが難しい。
ずっとできなかったところは、今回潰していきたい。

加藤先生は11月の自分のコンサートの前はレッスンを休んで、準備をするとのこと。
そのときには、代行の先生が来る。
講師同士のつながりもあるようで、自分が気に入っている人に来てもらうようにする、と言っていた。

コダマ先生は加藤先生の先輩にあたり、同じような年齢。
だから、喉の調子が悪かったときにはコダマ先生に代行を頼んだのだろう。
今度の先生も、自分が指導方法を認められる人、ということで来るらしい。
同じ声を出すのでも、いろんな指導方法がある。

加藤先生の指導は、とても感覚的だ。
具体的に、どういう風に歌ったらいいかがわからない。

声を前に出そうとしたら喉がしんどいから、耳から後ろに出すように、というような感じ。
コダマ先生も同じようなことを言っていたが、コダマ先生の場合は軟口蓋や口の形をどうしなさい、という指示があった。
加藤先生は感覚に訴えてくる。
時には、足の親指を浮かす感じで立って、声を出してみよう、などという指示もあるのだが…。

何度も書いたが、梅田のソプラノの声は若い。
実際、平均年齢でどれくらい違うんだろう。
10歳ではきかない感じ。
特にフーガの高い音のロングトーンなど、西宮とはだいぶ違う。
きれいな声とは言わないが、聞いていて張りがある。
元気な声だ。

それにしても、男性が少なく、4声で歌うとやっぱり頼りない。
1万人の第九はオーディションがないから、少人数で歌うと、メッキが剥げる。
なかにはずっと外している人もいるから、大変だ。

それでも、1万人揃ったら、形になるからえらいもの。
音圧で圧倒するのだろう。
2回本番で歌ったが、長いこと待たされて歌うものだから、かなりテンポが早くなる。
「走る」というやつだ。

結局、かなりひどい合唱になるのだが、それでも、圧倒的な迫力で聞かせる。
といっても、純粋な観客は少ししかいないが…。

これが1万人の力。



| | 考えたこと | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
教育劣化
これはびっくりした。
「教育劣化どこまで 社会に出て「引き算」を習う大人たち」という日経ビジネスの記事

ぼくがキャリアの仕事を始めた2007年に、新入生の「基礎学力テスト」の生データーをベネッセからわざわざお金を払って見せてもらって、驚いた時を思い出す。
そのことで、偏差値の何がいけないかという記事も書いた。
以前、9-3÷(1/3)+1=?という問題を、新入社員ができない、ということを書いたときにも、文句を書いた覚えがある。

2007年の時点で、ぼくの勤めていた学校の新入生は「割合」や「分数」の概念が身についていない人たちが非常に多かった。
着任したときには、フレッシュマンオリエンテーションで「ハンカチ落し」をやるとか、「着ぐるみ」を着た先生が出てくるとか、「新入生のリテンション」や、「初年次教育」という大学になじませるための授業、夏休みの志願者集めのための「オープンキャンパス」などで驚いたが、それどころではなかった。

それまでは、情報教育課というところで、ノートPCを持たせることとか、パソコンの使い方を教える授業とか、PC教室の運営とかをやっており、新入生の学力に直接関するようなことはやっていなかった。
この当時、評判の金沢工業大学に見学に行ったりもした。
そこからキャリア支援に変わって、この基礎学力テストの生データ−で呆れ返ってしまったのだ。

呆れ返った理由は2つある。
一つは教育に関わっているベネッセという会社が、「偏差値」だけを大学に出して、生データーを出さないという不誠実さだ。
実際に何がわかっていないかがわからないと、教育現場でどう対応していいかわからない。
もう一つは多くの下位の大学(そういう学校しかこの手のテストはやらない)が、生データーをもらわなくても、誰も文句を言わないということだった。
結局、基礎学力テストをやっても、それを実際に生かそうと思っている学校はないのか、と思った。
位置づけだけ、わかればいいのだ。

その後、他大学との寄り合いの席で、隣に座った似たような偏差値レベルの学校のキャリア関係の人に「オタクの学校では、%や分数が分からない人はたくさんいますか?」と聞いてみて、「いや、恥ずかしい話、たくさんおります」という返事を何度かもらって、安心すると同時に、これはエライことだと思った。
いったい、日本の教育はどうなっているのか、ということだ。

学内の会議でそのことを訴えたりしたが、そんなことに問題意識を持っていて、なんとかしようと真剣に思っている教員はほとんどいなかった。
いたとしても、本気でその対策をすれば、学生の人気がなくなり、自分たちが困る、と思っているのだろう。
どこに理念があるのか、全く理解に苦しむ。

事務局長をやっていたときに、念願の「学習支援室」を作った。
ちゃんとした部屋ではなく、エレベーターホールをパーティションで仕切ったものだったが、今はどうなっているのだろうか。(メールで聞いたら、存続して繁盛?しているとのこと)

しかし、さすがに「引き算」を習う大人がいるとは思わなかった。
それも、大手の会社の人たちだという。
引き算といっても、「8-0.23=」というような整数と小数のもの。
8は8.00だということがわかっていないだけだと思うが…。

世の中が整数だけで割り切れるのだったら、それでいいのだが、実際には割合の概念を使わないといけないことばかりだ。
そういう概念操作ができない人が、たくさんいるという事実。

何度も書くが、小学校のころ日本には資源がないので、人が大事だということを先生が言っていた。
本当にそう思って、文科省をはじめ、教育関係者は取り組んでいるのだろうか。

神戸市の教員いじめの問題を見るにつけ、今なんとかしないといけないと思う。


| | 考えたこと | 22:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヒップホップとラップ
最近、日本語のラップミュージックを聞き始めた。
といっても、軽いもの。
前に書いたkiki vivi lily(80デニール)がきっかけだ。

そこで、気になっていたヒップホップとラップの違いを調べた。
何気なく使っているが、この2つの言葉は同じようでもあるし、違うようでもあるし、難しい。
「ヒップホップとラップの違い」と入れてググってみた。

最初に表示されるサイトでは、

「ヒップホップ」は、リズム感を重視した音楽であり、低音が一定のリズムで刻まれることによって身体を使ってリズムを取りやすいです。そのため「ヒップホップ」の音楽が、ダンスでも使われます。

という説明。
それに対して、ラップは、

「ラップ」とは、歌唱方法のことです。ラップが他のロックやポップスでの歌唱と異なる点は、その歌詞にあります。
「ラップ」は韻を踏むことを重視しています。

と書いてあった。
要するに、ヒップホップは音楽のジャンルであり、ラップは歌唱方法という感じだ。
ぼくはラップは歌というよりも、リズムと伴奏を意識しながら「話す」という気がしていたのだが、ああいう歌なのかもしれない。

また違うサイトでは、「ヒップホップは「信条」で、ラップは「行動」だそうです。」と書いてあるものもある。こうなると、わけがわからない。

また、別の人によると「HIPHOPというのは音楽ジャンルのみを指す言葉ではなく、ブレイクダンス、グラフィティアート、DJ、MCという要素の総称です。MCという要素の中にラップという表現方法があるという事です。」とあった。

よくわからないが、大体のコメントを合わせると、ヒップホップは文化のジャンルという感じで、音楽としては低音のグルーブが特徴。ラップはヒップホップの表現方法の一つ、ということになる。

一方、アメリカではヒップホップは黒人の音楽。
俗語を多用し、政治的なメッセージが含まれている。
ネットには、こう書かれているサイトもあった。

「ヒップホップにはその起源から、そもそも政治的要素が備わっていた。社会に響かせるべきメッセージを届けるための、ひとつのパワフルな手段だったのだ。話し言葉を通して、語り手であるMCはしばしば、ロック界やフォーク界の父祖たちよりももっと直接的な言葉で、ヒップホップを通して政治問題を訴えてきた。」

ここでいうMCがラップのことだ。
つまり、ヒップホップの語り手が、その手段としてラップを使うということになる。

Youtubeで【フルPVで聴く日本語ラップMIX】Best of 2017というのを聞いたが、日本語のラップはアメリカとはだいぶ違う。
話すことがメインのものもあるが、メロディに乗せて歌うものもある。
政治的なメッセージはなくて、そんなに韻を踏んでいるわけでもない。

ただ、言えることは低音のリズムがすごいということだ。
音楽を作る方法が多様化して、ある曲の一部を切り取って使うというサンプリングの手法も確立したし、そのためのソフトやハードも充実した。
ヒップホップの曲は、そういうもので作られていることが多いと思う。
楽器というより、音の素材としてベースやバスドラのキックの音を使っている。
あれは演奏することが不可能(弾けるけど、そういう音が出せない)だから、DJという形でバッキングをしているのだ。
これが音楽が進化したと言えば言えるのだが…。

最近グルーブボックスという、DJ向きの機材が出ているが、これは従来のリズムマシンとシンセベース、キーボード(シンセ)を一体にして、1台でバッキングができるもの。
もちろん、ライブでパッド(スイッチ)を叩いて演奏?もできる。
こういうのがどんどん進んでいるから、ヒップホップも新しくなる。

今のヒップホップを聞いて、その後に80年代のシティ・ポップスをかけても、音圧感が違ってピンとこなくなる。
若い人たちが、80年代の音楽を聞いて「昭和やなあ」というのは、低音の音圧やリズムのせいなのだろう。

そういえば、最近のスピーカーはやけに低音がよく出るようになった。
きっとニーズがあるのだ。

音楽の作り方が変わったのが、ヒップホップとラップだった。



| | 考えたこと | 23:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
バズる 2
バズるという言葉、ネット民には通用するようだ。

前にも書いたが、「バズる」というのは「流行る」とか「注目される」とかいう意味。
何となく悪い意味のような感じがするが、そうではない。
プラスイメージの言葉だ。

「文芸オタクの私が教える バズる文章教室」https://toyokeizai.net/articles/298940という本が出たらしい。
弱冠25歳、京大の修士修了の三宅香帆さんが書いている。
この人は大学院で万葉集を研究したらしい。
今は文筆家、書評家という肩書。いろんなところで文章教室をやったりしている。

ネットで文章を書く人は、「バズる」文章を書きたいと思っている。
この本の場合は「いいね!」がたくさんつく文章、という感じだ。

三宅さんは、バズる文章を書くためには、仕事調になってはいけないという。
仕事調、というのはビジネスの書き方で、読む方の効率を重視する書き方。
まず結論を述べて、納得できるエビデンス等を入れ、相手を短い時間で納得させなければならない。
就職面接での話し方も、これと同じ。
効率的に伝える、というふうに教えている。

ネット上に投稿するようなプライベートの文章は、全く逆らしい。
「最後まで読んでもらうために、相手を楽しませる、興味関心を刺激し続ける、ということを大切にする必要がある」ということ。
たしかに、そうだろう。
結論を冒頭に書いてしまったら、読む気が失せる。

バズる文章を書くためには、3つのルールがあるという。

ルール1:「どや顔」の文章を書かない
ルール2:人を批判する文章は避ける
ルール3:大多数に「ウケよう」としない

ルール1は自慢話は嫌われる、ということだろう。
よほどいいことを書けば別だが、普通の人が経験したり、わかったことなど、自慢しても仕方がない。
あえて自分の弱みや失敗をさらけ出すエピソードの方が好まれる傾向があるという。

ルール2は「批判」は難しいから、やめたほうがいい、ということだ。
ぼくは教育業界のことなど、よく悪口を書いているから反省しないといけない。
「失敗すればただの悪口になってしまうから、やめたほうがいい」
そのとおりだと思う。

ルール3は「みんなに受けようなどと野望を抱くな」ということ。
もともと、ウケる文章を書くだけでも難しいのに、全員に受けようとするのは間違いだ。
そういう文章を書こうとすると、失敗する。

逆に「1人の読者に届けよう」と考えるほうがいいという。
友人に近況報告をするつもりで書いている、という有名なブロガーもいるとのこと。
そのほうがきっと書きやすいし、共感も呼びやすいのだろう。
ぼくもそう思う。

三宅さんは文芸オタクらしいが、頼もしい若者だ。
こういう人たちが、日本語を豊かにするのだと思う。


| | 考えたこと | 19:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
蛍草 葉室麟 双葉社
「蛍草 菜々の剣」の原作を読んだ。
内容はそちらに書いた。

ほぼ原作の通りのドラマだったし、主人公の菜々を、清原果耶がイメージ通りに演じていたので、違和感なく読めた。

この小説は小説らしい小説というか、よくできたフィクションだ。
いくら武家の娘と言っても、ちょっと習ったくらいで、そんなに剣術がうまくなるわけがない。
偶然奉公した先が、父親の仇が出入りする家だったというのもすごい偶然。
という具合に、いろんな苦難がふりかかるのだが、どういうわけか助けてくれる人が出てくる。

でも、読んでいても、不自然ではなく、すっと入ってくる。
ややこしいことを感じさせないのは、作者の腕もあるが、時代劇という舞台もあるんだと思う。
これが時代劇ではなく現代劇だったら、たぶん成立しない。
そんなうまいこといかん…、と突っ込むだろう。

一つ、印象に残った言葉。
菜々が奉公先の子どもたちが行っている寺子屋の先生に言う。

「はい、生きていると楽しいことばかりではありません。辛いことがいっぱいあるのを知っているひとは、悲しんでいるひとの心がわかり、言葉でなく行いで慰めてくれます。昔の偉い方は、そんなことができるひとの見分け方を学問として教えてくれたような気がするのです」

これぞ文系の学問の意味だと思う。

いい話だった。
| | 考えたこと | 21:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
現場の力
今週末、大きな台風が来るが、予報ではまた関東が危ない。
千葉では、1ヶ月前の台風による被害がまだまだ残っている。
テレビを見たが、鉄塔が倒れ、送電線が切れ、電信柱が倒れていた。
瓦が飛んだ家や、屋根そのものが飛んだ家もあった。
今も航空写真で見るとブルーシートがたくさん残っていた。
こないだ知り合いの業者に聞いたら、関西の業者まで千葉の住宅の修復の依頼が来ているという。
現場で働く人が足りないのだ。

停電に関しては、当初の東京電力の普及予想も甘かった。
去年の台風でうちも2日ほど停電したが、電気がないと本当に困る。
めったに停電などしないから、ほんとに困った。
あの時は関西電力が停電した場所を特定するシステムがダウンしたらしく、電力会社もどこが停電しているかわからなかったと聞く。
きっと東電も被害の実態がわかっていなかったのだろう。

しかし、今回は大規模な災害だったから、復旧は広範囲にわたって大変だと思う。
記事によると、実際に現場の人が足りないことがよくわかる。

実際の現場の作業にあたっている「東電作業員」の多くは「東電社員」ではないらしい。
1965年頃までは東電社員が電柱を立て、工事をしていた。
電柱の建て替えは主に東北地方からの出稼ぎ労働者で、熟練の職人が多かったという。
ところがバブルの時に「3K」という言葉が流行り、技能労働を軽んじる風潮が生まれた。
ちょうど大学進学率がどんどん上がったことの裏側だ。
記事は言う。

「新卒一括採用・終身雇用・年功序列という日本型雇用慣行がこの時期に完成して、「いい大学を出て、いい会社に入ってホワイトな机上仕事に就くことが唯一の人生の勝ちパターン」という物語を1億人が共有したわけです。
しかし、まともに考えれば、一階に技能を必要とする現場作業があって、二階に技術を必要とするホワイト職場があったときに、全員が二階に登ってしまったら社会は回らなくなるのは自明です。
もはや誰も熟練した技能を尊重したり敬ったりしなくなり、それどころか蔑み、忌避した結果、みんなが管理する側に回って誰も作業する側に回らなくなる。現場の熟練のノウハウが減衰し、工事の品質が落ち、作業が遅れていくという状況がそこかしこに起きていて、この千葉大停電をめぐる異例な状況を招いている構造的な要因になっていると私は思うのです。」

現在は、現場の仕事をする人が減り続け、それを外国人労働者でパッチを当てているのが実情だという。
さらに、この歪を直す方法を提言している。

「これからは経済のデジタル化やIoT時代を迎えて、例えば自動運転車のMAASだとかテクノロジーがインフラ事業に適用されて行くことになりますが、その一階のインフラ基盤を支える技能がスカスカだと、二階にどんなに素晴らしい技術を走らせても何の意味もありません。
この歪な構造を直すのには一つしか道はありません。それは、プロジェクトを渡り歩く熟練技能インディペンデント・コントラクター(独立業務請負人)の方が、相対的に非正規会社従業員よりも割に合うようにすることです。」

「職人」は貴重なものだ。
世の中デジタル化が進んでも、物理的にものを動かしたり、その設備を施工したりするためにはアナログな仕事が必要になる。
そういう人たちがもっと儲けなければならない。

記事を書いた人も、最後にこう締めくくっている。

「熟練技能セルフ・コントラクターは、いつの時代も絶対になくなりません。これからは技術より技能の方がご飯が食べられるトレンドとなっていくように思います。」

職業人を養成する大学を作ろうとしているが、手を上げる学校法人はほとんどない。
大学とは違う、職能を広げる短期の学校を作るべきではないか。
文科省は何でも「大学化」しているが、ぼくは大学を卒業して専門学校に入り直す学生も見てきた。

「大学さえ出ておけば…」という時代は終わっていると思う。



| | 考えたこと | 20:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
OKでない「OKサイン」
「OK」のサインといえば、親指と人差し指で輪を作るのが一般的。
しかし、ネットで調べるとフランスでは輪っかが「ゼロ」を意味して、「お前は無能だ」というような意味にもなるとのこと。
注意が必要だ、と書いてある。

しかし、アメリカでは大丈夫かと思っていたが、そうでもないらしい。
輪を作った親指と人差し指以外の3本の指が問題。
これがちょうど「W」を意味して、「White」、輪っかのところが「P」の上部になって、「WP」つまり「White Power」の意味になるという。

反差別のユダヤ系団体、名誉毀損防止連盟(ADL)をヘイトのシンボルとして、データーベースに追加したとのこと。
WPは白人至上主義という意味だ。
こうなると、簡単には使えなくなる。
アメリカの政治家は使えないだろう。

何でもトランプ大統領が演説中によくこのOKサインを使うので、彼を支持する右翼の一派が「秘密のサイン」として悪ノリして掲示板に載せたらしい。
それが大々的に広まって、白人至上主義への支持表明のサインとして使われ始め、ヘイトシンボルのデーターベースとして登録されたということ。
わけがわからないが、いったんこうなると、OKのサインとしては使えなくなる。

世界各国が自国第一主義で、ポピュリズムに走り始めると、それに対抗して反対の動きも大きくなる。
トランプのアメリカもそうだし、イギリスのジョンソンもそうだろう。
もちろん、中国の習近平やロシアのプーチンだって同じだ。

第二次大戦が終わって70年。
主要国は冷戦を経験し、ベルリンの壁の崩壊で勝負がついたように見えた。
でも、それはほんの一瞬で、そこからだんだんと移民の問題が出てきたり、石油利権で地域戦が起きたりして、今や世界はアメリカ、欧州、中国、ロシアが自分のテリトリーを広げようと競い合っている。

第二次大戦では5000万〜8000万人が犠牲になったが、喉元すぎれば…というやつだ。
今ではいろんなところに火薬庫がある。
特に東アジアはややこしい。
もちろん、中近東やウクライナも危ないところだ。

人類は過去の失敗に学ばないのだろうか。



| | 考えたこと | 21:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
神戸市教育委員会
神戸市の教育委員会については、去年の8月にいじめの隠蔽について報道された。
以前、教育委員会廃止論という本を読んで、なるほどと思った。
そこで、今回の教員4名による、教員いじめだ。

バカバカしいので書かなかったが、神戸市長が組体操の中止について、教育委員会に言ったところ、無視されてツイッターで訴えていた。
教育委員会の委員長の任命権を持っているのは市長だ。
人事権を持っていて、それを行使しないのは情けない。
どうして自分の言うことを聞く人を任命できないのか。
神戸市の行政が出来損ないの組織であることを告白しているようなものだ。

しかし、今回のいじめの案件の処理を見ていて、ちょっとは市長の気持ちもわかる。
ホントに教育委員会や学校組織は変えないといけない。
バカみたいに動画の証拠も残しているのだから、刑事罰もあり得るだろう。
教育委委員会もお手盛りの処分では済まない。
こんなの、民間企業なら「有給休暇」で休んでなどいられない。
以前のいじめ隠蔽から、教育委員会は変わっていない。

おまけに、それを生徒にも見せていたようだ。
マトモな感覚ではない。
教員どころか、オトナとして恥ずかしくないのか。
市長もうだうだ言っていないで、教育長の首をすげ替え、メンバーを変えるべきだ。

ぼくは神戸市の公立小学校、中学校を卒業した。
当時の先生方は、ちゃんとやってたと思う。
生徒を殴る先生もいたが、そんなことは当時は当たり前だった。
少なくとも、生徒より「オトナ」だったのは間違いない。

校長も事なかれ主義で、ちゃんと報告していない。
いったいどうなっているのか。

人事権を持つ市長の言うことさえ無視する教育委員会。
結果、今年は51人が組体操で怪我をしたらしい。
彼らはまともな組織人ではない。
いつからこんなふうになったのだろう。

教育委員会を独立させたのは、政治の介入を防ぐためだった。
しかし、独立したのはいいが、完全に閉鎖的な組織になって、社会から遊離した。
小学生以下の子どもが子どもを教えている。
それをわかっていて放置する組織が、今の教育界だ。
これなら、住民が選んだ首長がもっと介入すべきだと思う。

教育に外部の手を入れないと、いくらでも悪くなる。
当時の雪村教育長は県のいじめ対策委員会の委員もやっている。
いったい何を議論したのだろうか。

それにしても、もう少しまともな仕事はできないのか…。
これでは名誉職で、給料泥棒と言われても仕方がない。

そんな奴らに無駄な金を使うのなら、もっと大事な仕事があるだろう。


| | 考えたこと | 20:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
公的統計データー
ちょっと前に厚労省の勤労統計がおかしい、というニュースがあった。
国の統計はいろんなところで使われるし、それで政策が決まったりするから、正しく運用されないといけない。
民間のデータ-サイエンティストが、公的な統計について書いている記事があった。

それによると、今の統計制度をちゃんとしようとすると、10年はかかるらしい。
それは取りも直さず、今の統計はちゃんとしていない、ということになる。

チェック機能が崩壊して、過去には国土交通省の建設工事統計で100万円単位の書き間違いがあり、最終的に兆円単位で誤差が生じていたり、厚労省の薬事工業生産動態統計でコンドームの生産数量が、誤って15倍多く計上されたりしたらしい。

そういう事故が起こるのは、統計調査の外部委託が多くなったからだという。
役人でやろうとすると、総務省に届けを出さないといけなくなり、審査に時間がかかるから、民間に委託している。
これはルール上は許されるが、抜け道みたいなものだろう。
そもそも論ではアウトだと思う。
それで外部委託ばかりになって、担当部署の調査設計能力が落ちていて、作業ミスなどがスルーされる。

小さい政府を目指すために、民間でできることは民間でやればいいのだが、線引きが難しい。
ずっと外部委託に頼っていると、内部の能力が落ちてくるのは会社も同じ。
ちゃんとした経営判断なく、そういうことを続けていると、エライことになるという見本みたいなものだ。

早く処理しないといけないのなら、そういうルールを作らないといけない。
それを外部委託でヤミでやるようなことをすると、おかしくなる。
それらの基準を決めているのが「統計法」という法律。
現代的に考え、見直さないといけない。

さらに、国の統計の担当者の人材不足もあるという。
もともと、統計部署は閑職で、人が減らされ、おまけに外部委託が続き、現場が弱くなってしまった。
人材の育成には経験が必要で、「これまでの知見」「積み重ねた個人の経験」「場数」「慣れ」を積むのに5年くらいかかるらしい。

加えて、統計の制度疲労の問題もある。
そう簡単に入れないマンションなどが増え、若い人も年寄りも単身世帯が増え、協力世帯が減った。
若い人や高齢者はめんどくさい数字を書いてくれない。
家計調査などは単身なら3ヶ月、そうでなければ6ヶ月毎日すべての収入と支出を書かないといけない。
そんなことは無理だ。
デジタルへの移行も含めて、早急に制度自体を変えないといけない。

日本の政治家や役人は本当にITに弱い。
ITを勉強する気がないとしか思えない。

間違った統計の数字に基づいて政策を決めていてはいけない。
こういうのこそ、縁の下の力持ちであり、「合っていて当たり前の仕事」なのだ。
そういう仕事を大事にしない国は滅びるぞ。


| | 考えたこと | 00:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
アシストスーツ
ロボットが進化して人間の代わりになるというのは、コストの問題や人の問題でまだまだ先になると思う。
それよりも、人間とロボットのハイブリッドが早い。
具体的にはアシストスーツというやつだ。
身体につけて、力を補助したりする。

重いものを運んだりする仕事にはピッタリ。
今までのものは重厚長大で、身につけたら動きが鈍くなったりしたようだが、最近のものは良くなったらしい。
運搬や介護などの分野で使われているとのこと。

期待されるのは、労働力人口を増やすことだ。
年をとって何が変わるかといって、一番大きいのは体力が落ちること。
目も悪くなるし、もの覚えも悪くなるのだが、そのへんは何とかなる。
しかし、歩けなくなるとか、力がなくなるとかいうのは、どうしようもない。
労働できる高齢者が増えると、長くなった人生で働く時間も増やすことができる。

アシストスーツは2つに分かれる。
電池とモーターを装備して、自ら力を出すアクティブタイプが新しいもの。
それらの動力を使わないものはパッシブタイプと言われる。
電池や軽量素材(アルミやマグネシウム)、モーターの進化で実用化されてきた。

市場規模でいうと、「調査会社の米ABIリサーチによると、アシストスーツの世界市場は、18年時点で約215億円だが28年には約6500億円になる見通し」とのこと。
日本で作っているのは、アトウンやサイバーダインという会社。

ここでも自動車産業の裾野が活躍している。
自動車の低燃費化のために、軽量化が進んでこういう素材が開発されたり、電動化でモーターの技術も進歩したのだろう。
自動車関連の会社で、これからアシストスーツやロボットなどに鞍替えするところも増えてくるに違いない。

年をとって歩けなくなった人も、アシストスーツが安価になれば出歩くことができる。
認知症の対策にも役立つ。

日経の記事によると、両手でギターを弾きながら、譜面をめくったりすることもできるようになるだろうとのこと。
これは人間の機能拡張型と言われるらしい。
3本目の手が使えるということだ。

ロボットもさることながら、アシストスーツの未来は明るいように思える。
今のうちに株を買っておくのも、いい考えだ。

自動車に並ぶ産業になってほしい。
それが日本のものづくりを支えることができるかもしれない。


| | 考えたこと | 22:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
英語の民間試験
このごろ、よく記事を見るのが来年の入試の改革で、英語の民間試験を導入することへの反対だ。
民間試験を使うのは、アイデアとしてはいいと思っていたが、なぜそんなに反対されるのか、記事を見てみた。

反対しているのは、高校と大学教員など。
しかし、もう時間が迫っているし、文科省はこのままいく構えだ。

まず、導入の理由は民間の試験は「聞く」「話す」が評価されていることだろう。
センター試験でも、機器の導入でリスニングのテストは実施されるようになったが、あれはトラブルも多いし、やる方も大変。
だから、それを民間に置き換えようという考えはわかる。
そうすることで、民間試験の利用率も上がるし、英語の能力の底上げもできるだろう。

一方、導入に反対の理由は一つは経済的な理由。
民間の試験を受ける検定料の支払いは自前で、ということだ。
田舎では受験に交通費が必要だったりする。
その負担も問題になっている。

さらに、民間といっても、いろんな団体の試験がOKになったということから、比較可能かとか、公平ではないとかいう声がある。
もともと、狙いが違う試験でもあり、そのへんはどう判断するか、という問題もある。

また、大学側の民間試験の扱いが一定ではないということもある。
ある大学では受験を義務付けていたり、最低レベルを示していたりする。
そこも不透明だということだ。

でも、本当に時間がない。
ずっと前からこの件はアナウンスされていたし、なんで今さらの感じが強い。

経済的な問題だって、学校がちゃんとすれば塾など行かなくてもいいわけで、そっちの負担のほうがよほど大きい。
そういうことには触れず、今回の件だけいうのはちょっと…と思う。

日本外国語教育改善協議会というところが、「入試を変えることで教育内容を変えようというのは本末転倒であり、学校の授業の中でライティングやスピーキングの活動を採り入れる方が先である」と言っているが、実態を全くわかっていない。

今や私立文系の入試で数学を課すところはほとんどない。
このことが、日本の生徒の数学離れをどれだけひどくしたか、わかっていないと思う。
大学生で分数や%、割合がわからない人がいるのはなぜなのか。
今の高校は入試が最重要事項であり、だから数学は高校1年までで終わる。
私立文系で数学が要らない、ということがこういう事態を招く。
結局は入試が教育を決めているのだ。

そうあってはいけないのは理想だが、これが現実なのだ。

結局反対しているのは、高校や大学の教員が、現実に対応できていない部分もあるのだろう。

とりあえず一部の大学は見送ったようだが、これからどうなるのだろうか。



| | 考えたこと | 23:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハインリッヒの法則2
神戸市の小学校のいじめのニュースを見たが、これはひどい。
いじめと言っても、先生同士のいじめ。
パワハラと言ってもいいと思うが、職場では起こり得ないほど幼稚なもので、いじめと報道しているのもわかる。

ハインリッヒの法則ということで、2回学校の不祥事のことを書いた。
俗に言う氷山の一角というやつだ。

今の義務教育はどうも方向を間違えたみたいだ。
教員養成課程をほとんど変えず、教育課程ばかりいじって、教育する人をちゃんと養成しなかった。
人数を確保することばかりを考え、質の担保ができなかったのだ。

自治体の採用試験も、試験さえ通れば縁故採用も多いと聞く。
文科省は教育の重要性を考えて、手を打たなければいけなかったのだが、放置した。

そして、核家族化も進み、学校は社会からどんどん孤立した。
教育に関係する人たちは、社会を知らずに教育界の中だけで固まっている。
教育委員会など先生のOBばかりで、文科省を頂点とした教育ギルドのようだ。

そんな状態で、肝心の勉強は塾に任せ、先生は学校を運営する役割になった。
上の言うことを聞き、団体行動できる子供だけがいい子。

上の言うことが絶対になったら、こんな教員同士のいじめも起こるんだろう。

もちろん、そんな先生ばかりではないし、一生懸命やっている先生もいる。
それでも、こんな子供じみたいじめが起こったことと、その後の学校の対応や教育委員会の対応を見ていると、本当に学校は社会から離れた存在だと思う。

こんなところに、子供を任せたいと思う親はいないだろう。

ハインリッヒの法則のとおり、これは氷山の一角だ。
本気で教育の世界を変えないといけない。

それは今の大人たちの義務だと思う。


| | 考えたこと | 16:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
一万人の第九 4,5回目練習
2週休んで、先週と今週の火曜日に第九の練習があった。
3年目になると、もうだいたい覚えているし、書くこともなくなってくる。
それで記録を1回休んでしまった。

梅田教室は女性が多くて、4声のコーラスの練習の時間は、ハモっている感じが少ない。
数えてみたら、男性は西宮と違ってテナーの方が多い。
ざっとバス30人、テナー40人というところ。
それに対して女性はアルト、ソプラノどちらも100人くらいいると思う。
おまけに女性は仕事帰りの若い人が多い。
西宮とは声が違う。
ソプラノが元気だ。
声を聞いて、こうも違うものか、と思う。

ホールの音響の悪さは相変わらず。
マイクを立ててだいぶマシになったが、ピアノは聞こえにくい。
もともと講義用のホールなので仕方ないが、それにしてもひどい。
これほど西宮と違うものかとこちらも驚いた。

加藤先生は歌詞の読みと、メロディを押さえながら進んでいく。
西宮のコダマ先生のように、骨盤底筋は出てこない。

加藤先生の指示は感覚的でぼくには分かりにくい。
でも、逆も真なりで、分かる人には分かるのだろう。

1回目に受けた指導が影響するのだろうか。

「いい先生」は人によって違う。
選ぶのは難しい。




| | 考えたこと | 22:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
小中学校で教えていること
もと小学校教員の中沢氏のブログから。

この人は民間企業勤務後、教員になって早期定年退職したという経歴の持ち主。
民間企業で働いて、小学校の教員になる、というのは珍しいキャリアだ。
その視点で、辛口のブログを書いている。
今回も最初からきつい。

「教員は終身雇用年功序列という枠組みで生きています。勤労者の区分けでは「勝ち組」になるわけです。実社会に出たことのない「勝ち組」が、「これが素晴らしい教育だ」といって適当に教授法を考えて、学校内で「今日も素晴らしい実践でしたねえ」と褒め合うエコシステムができあがっているのです。」

さすがに経験者は鋭い。
今や終身雇用年功序列の正規社員となると「勝ち組」ということになる。

今回のテーマは「学校スタンダード」。
知らなかったが、小学校の校則みたいなもので、これをみんなで守ろうというようなもの。
それを「スタンダード」というらしい。

「これは、授業を受ける姿勢や廊下の歩き方、挨拶の仕方、細かい持ち物の規定、服装などを規定し、学校全体で統一しようというものです。先生たちは、授業の心構え、健やかな成長とかいろいろ言いますが、こうすれば管理しやすくなるという、いまだにつづく管理教育の変種です。
このルールを徹底して守らせ、はみ出させず、どんな仕事にも黙々と取り組ませ、自己肯定感を低める教育が、日本の低賃金な労働者の質の高さを担保していた面があります。」

結局、先生は生徒の成長よりも「管理のしやすさ」を重視しているということだ。
これが生徒の自己肯定感を低める、ということらしい。
前にも書いたが、小中学校は今や勉強するところではない。
「勉強は塾で教えてもらえ」ということだ。

では何をやるかというと、授業態度を身につけさせたり、生活指導を徹底することがメイン。
この成果として、ルールを徹底して守らせ、はみ出させず、どんな仕事にも黙々と取り組ませ、結果的に自己肯定感を低める。
この教育が、日本の低賃金な労働者の質の高さを担保しているという。

少々理不尽なことがあっても受け入れ、やりぬき、みんなに迷惑をかけない、というようなことを小中学校の9年間をかけて、叩き込んでいるのが実情。

ぼくは日本の学校は本当に閉鎖的だと思う。
どこの国でも、学校はある程度は社会から隔離されたものだが、日本の場合はそれがひどいと思う。
それは、中沢氏も前に書いていたが、教員も教育委員会も、学校以外の社会経験をしていない人たちがやっているからだ。

そして、中沢氏は学校関係者が主観で生きているといい、こういう言葉でしめくくっている。

「自分たちはほんとうに子供たちのために心血を注いでいる。わたしたちはこれからの新し社会を生き抜いていく力を身につけさせてあげているんだ。
先生たちはこのことを主観的にはまったく疑っていません。

学校関係者は実社会のことにあまり関心がありません。自分たちがやった教育が素晴らしいとしか思っていません。このような無反省は、ふたたび教育現場での失敗は繰り返されるのではないでしょうか。
それはおまけみたいなものですが、勤勉で忠実な低賃金労働者を排出するという役割を終えた学校は、どこへ向かうのでしょうか。それでも、今日も変わらずにハイスペックな低賃金労働者を育てています。」

実際に内部にいた人の話には納得させられる。

本当に教育する人を教育しないといけない。



| | 考えたこと | 00:36 | comments(1) | trackbacks(0) |
字が書けない子ども
フランスという国は「フランス語」に誇りを持っている。
それは35年ほど前に2ヶ月滞在して、痛感した。
彼らは本気でフランスが世界一素晴らしい国で、フランス語が世界で一番美しい言葉だと思っている。

そのフランスで、新学期が始まって、パソコンやスマホばかり使って「子供が字がかけない」という記事があった。

「始業から2週間たった9月16日の朝、キオスクで「大変だ!」という大きなタイトルを目にした。大衆紙「パリジャン」の一面だ。

買ってみると、ペンを片手に何かを書く女子生徒の横顔をバックに、「CP(=日本の小学校1年)とCE1(=小学2年)の学力評価が今日始まるが、毎年、教員は筆記力の低下を再確認させられているとある。文字を書くことはだんだん教えられなくなってきているが、「注意、キーボードはすべてに取って代われるわけではない」とリードは書いている。」

アンケートによると、フランスの中学生は鉛筆を持ったら「痛い」などという不満を持っているらしい。
鉛筆やペンをちゃんと持てない子供が教室の大半を占める、という状態。
ちゃんとノートをとる生徒でも、自分の字が汚くて見る気がしない、という。

文字を書かなくなると、文章も書けなくなるらしい。

「手書きとキーボード入力では、動員する脳の領域と知識の動性が違います。鉛筆で書くときは、字に関する視覚的知識を構築すると同時に、形をなぞる運動の知識を動員するのです。」

先生が読み上げた文章を書く、「ディクテ」という課題では、小学校5年で単語数67の試験で1987年には綴りのミスが5個以下の生徒は31%だったが、2015年には8%になったという。
書かないから、覚えない、ということだ。

就職指導の仕事をしていると、学生たちも漢字が書けないことに気づく。
大学生になって、ワープロが増え、書く習慣がなくなっている。
スマホが辞書代わりだ。
授業中にスマホをいじっているのは、漢字を確かめるためというのもあるのだと思う。

ぼくも2000年くらいからほとんど文字を書かなくなったから、同じようなものだ。
読めるけど書けない漢字が圧倒的に増えた。

でも、まだ文字はきれいに書く。
日本では手書き文化は残っているのだ。

それでも、いずれフランスのようになるかもしれない。
手書きをしないと、書けなくなる。
文章もチャットばかりしていると、短い文章ばかりになって、まとまった文章は書けなくなる。

コンピューターは人間を変えていく。






| | 考えたこと | 21:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
高齢民主主義
日経ビジネスに「投票所で立ち尽くす高齢者、選管職員が見た実態」というのがあった。
要は、投票には来たけれど、何をしたらいいかわからない高齢者がいる、ということだ。

選挙管理委員会の人が言うには、家族に連れられて期日前の投票に来た高齢者が、全く動かない事態になったという。
これから認知症が増えてくるが、認知能力が下がっても投票できる環境を整えなければならない、という意見。
これにはびっくりした。

認知能力が下がったら、選挙権は行使しないほうがいい。
それが民主主義の前提だと思う。
選挙に行く人は、自分の意思で正しく考え、誰がいいかを決めるのだ。
それができなくなったら、選挙権は返上すべきだと思う。

特別養護老人ホームの不在者投票で立会人をしたことがある人が、「記載台に向かって候補者の氏名を見ても選挙の投票だと分かっていない人がいた」と言っている。
ぼくは自分がそうなったら、選挙権は返上したいと思う。
今の日本で「選挙権の返上」は認められないが…。

2013年に公職選挙法が改正されて、成年被後見人は選挙権を取り戻したらしい。
成年被後見人とは「精神上の障害により事理を弁識する能力を欠く常況にある者で、家庭裁判所より後見開始の審判を受けたものをいいます(民法7条、8条)。」という定義。
しかし、世の中に認知症の人が増えてきているのは事実で、その人たちは事実上選挙権は行使できないと思う。
いくら後見人制度が整ったからと行って、後見人は本人ではないのだ。
後見人が誰かに投票をさせることだって、可能だと思う。
このへんはもっとちゃんと法整備をしないと、これからの「認知症社会」に対応などできないと思う。

実際に、「高齢者施設での不在者投票では、職員が入居者の投票用紙に勝手に候補者名を記入する公選法違反事件が頻発している。」とのこと。

記事の最後に

「中央大学の新井誠教授は「認知症患者にも意見はある。周囲の人が『意思決定』を支援する仕組みづくりが急務だ」と話す。身体機能が衰え、認知能力が落ちる高齢者が増えれば、そもそも投票率は下がる。「(将来の認知症患者数の推定値である)700万人以上の高齢者が選挙に行かないような事態になれば、民主主義の根幹が脅かされる」と新井氏は指摘する。」

と書いてあった。

しかし、これからの日本を支えていく若い人たちの意見を聞くべきではないのだろうか。
彼らに、もっと決定権を与えるべきだと思う。
だいいち、定義から「事理を弁識する能力を欠く常況にある者」は正しい判断ができないわけで、そういう人たちが投票するのは無理がある。

そのためにも、民主主義の仕組みを考え直さないといけないのではないか。

ぼくはそう思う。




| | 考えたこと | 23:47 | comments(0) | trackbacks(0) |