考えたこと2

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鼻メガネ
昨日の続き…。

西洋には、鼻メガネというものがあるらしい。

これは耳にかけるものではなく、文字通り鼻にかけるもの。
鼻の上の方にパッドではさむようにしてかけるらしい。
19世紀に流行した…となっている。

wikipediaでひくと、セオドア・ルーズベルトの写真が出ている。

鼻が高いので、目と目の間の鼻の部分にはさみこんで、普通のメガネと同じように使うようだ。

日本でいうと、明治維新のころに流行ったことになる。

このメガネが日本ではやらなかった理由はハッキリしている。

書くまでもないか…。





| | 考えたこと | 01:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
老眼鏡のかけ方
外国の映画を見たり、実際に西洋人に会ったりすると、彼らは老眼鏡を下げて、ちょうどメガネがずり落ちたような状態で使うことが多いことがわかる。

手もとを見るために、平べったいメガネを下の方に載せて、近くだけはそれを通して見て、遠くは顔を上げてメガネなしで見るのだ。

そうすると、いちいち遠くを見るのにメガネを外す必要がない。

日本では、東国原知事が老眼鏡をかけるのに、このスタイルで賞をもらった。

ぼくも、何かを読むためには老眼鏡なしではどうにもならなくなってきたので、いつも使っているが、やっぱりこの「ずり落ちスタイル」が便利だと思う。
手元をみたいのは、視線が下になる時だから、その時だけメガネを通してみればいいからだ。

しかし、そういうスタイルは少ないなあ…と思っていた。

それには、理由があるのだ。

ずっとそのスタイルで書類を見ていると、どうもメガネが必要以上にずり落ちるのだ。

何度も手でずり上げないといけなくなる。

そうか…。
西洋人は、鼻が高いからか…。

気づくのに数年かかったが、西洋人が「ずり落ちスタイル」が似合う理由がやっとわかった。

彼らはずり落ちないし、格好がいい。

日本人がやると、どうしても下がっていくし、ずり落ちそうに見える。

こんなところで、差が付いていたのか…。

日本で流行らないはずだ…。




| | 考えたこと | 00:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
2月の初めにも降ったが、今日も雪が降った。

止まっている車や屋根が少し白くなっている。

最近は冬が暖かくなったが、このところ、昔の冬らしい天気が続いている。
やっぱり冬は寒くないといけない。

雪国では、雪が降ると雪下ろしをやらないといけなかったり、雪害があったりして、やっかいなものだろう。

もちろん、このあたりでも、大雪が降ると雪国以上に交通機関が止まったりして迷惑する。
でも、今では年に数日のことになった。

小学校の頃は、六甲山が白くなって、運動場に雪が少しでも積もると、うれしくなったものだ。
雪だるまが作れるほど雪が降るのは、数年に1回。小学校で雪合戦をしたのは二度くらいだったかな…。

白い色が何ともいえない。
何もかもをきれいにしていく。
溶けてグチャグチャになることなど、その時は考えない。
景色の中の雪に見とれてしまう。

雪というと、いろんな歌がある。

まず思い出すのが童謡「雪やこんこ あられやこんこ…」という歌。

フォークソングでは、「雪」や「なごり雪」。
クリスマスソングの中には雪が出てくる曲が多い。達郎の「クリスマス・イブ」、竹内まりやの「すてきなホリディ」。

ユーミンもたくさん書いている。

「SUGAR TOWN はさよならの町」「A Happy New Year」「BLIZZARD」「吹雪の中を」「恋人がサンタクロース」「サーフ天国、スキー天国」…。

いちばん好きなのは、「雪だより」。

イントロのエレクトリックピアノ暖かい音色で、部屋の中で雪を見ているという感じがわかる。

明日は積もるかな…。



| | 考えたこと | 02:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
ファイルを閉じる
ファイルを綴じるではない。ファイルを閉じる。

一つのファイルには、「それ」に関連した書類が記録されている。
記録されている「それ」は、永遠に続くものではない。

「それ」が何のことであれ、「これでおしまい」という時がくる。

いい形で終われるファイルもあれば、残念ながら悪い形で終わらなければファイルもある。
時間切れで、終わりたくないが、終わらなければならないファイルもある。
いつか、時がくれば、もう一度開きたいと思うファイルもある。

終わることを、「ファイルを閉じる」という。

閉じたファイルは、目にふれることのないような資料室などに行ってしまう。
もちろん、すぐに捨てられるものもあるだろう。

一つひとつのファイルには、何らかの思い入れがある。
でも、閉じるときは来るのだ。

ファイルを閉じるということは、前に進むということになる。

人生は、たくさんのファイルを開き、そして閉じていくということの繰り返しだ。

いくつかのファイルは閉じることができない。
不本意なままのファイルもあるだろう。

ファイルを閉じるという術を知ることが、オトナになっていくということかもしれない。


| | 考えたこと | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
妥協
どこかの本で工学における設計とは、いかに高いところで妥協するかということである、ということを読んだ。

設計を長いことやった人にとっては、当たり前のことなのかもしれない。

妥協のない設計はないと思う。

いろいろな制約の中で設計をする。
目標となる性能は一つではない。
寸法、重量という基本的なものに始まり、そのモノが果たすべき性能の中で、優先順位がある。
これがくせ者で、あちらを立てれば、こちらが立たずというような項目が多い。
もちろん、当たり前性能というのもある。耐久性とか、使いやすさ…。
そのモノを作るための制約というのもある。作りやすさや工程能力というやつだ。
さらに、使うことができる材料という制約もある。
これらをひっくるめて、コストという制約もある。

エンジニアは、いくらお金をかけてもいいし、どんなに作りにくい設計でもいいからやってみなさい、と言われたらここまではできる、という解を持っている。
その解が、「理想」と呼べるものからはほど遠いものであるにしても…である。

通常は、いろいろな制約の中で、どれとどれを満足させるのか…これが妥協である。

工学とはあくまでも実用のモノを作るための学問であり、実用のモノとは、普通には売れるもののことである。

いくら良いものができても、通常千円で買えるモノに対して五千円を払う人はまずいない。

よくあるのは、五千円でできるものが、先ほどのエンジニアの持っている解だとしても、その解で向上する性能が差額に見合わないというもの。

これは、エンジニアがそのモノを熟知しているからこそ、「少しでも」良いものを…という思いでできる。

一般の人にとっては、その「少しでも」は本当に「少し」でしかない。

この場合は、対象の設計が、すでに非常に高いレベルで妥協されている、ということになる。

こんなふうに、エンジニアは妥協をすることが仕事だとわかっている人種である。

でも、本当のエンジニアは、死ぬまでに一度は、すべてに妥協せず、コストも含めて良いモノを作りたいという夢を持っている。
今まで千円していたものを五百円にして、さらに性能も向上する…というような設計。

ほとんどのエンジニアはそれを実現することなくリタイアしていく。

しかし、たとえ実現しなくても、そんな夢を持ち続けられるエンジニアこそが、高いレベルの妥協点を見いだせる人だと思う。





| | 考えたこと | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
笑って生きよ
何度も恐縮だが、朝のドラマから。

主人公のおじいさんは、若狭塗り箸の職人。
一日、家の作業場で塗り箸を作っている。
あとを継いでくれると思っていた長男は家を出て、次男は居候状態が長く続き、ただ塗り箸作りだけに人生をかけてきた…という人。ドラマでは米倉斉加年が演じる。

長男がやっと帰ってきたが、それがうれしかったということを臨終の時まで言えず、ただ塗り箸作りに専念する。

そのおじいさんが、小学生の孫(主人公)に「おまえはいっぱい笑え。笑うて生きよ」という。

毎日、にこりともせず、作業場で塗り箸を作っているおじいさんからは想像できない言葉。

おじいさんはずっと好きな落語をカセットテープで聞きながら仕事をしていた。
そのテープがおじいさんと主人公を結び、その後の人生も決めていく。

仕事でにこりともしないおじいさんが、その孫と落語のテープを聞いているときは笑っている。

ぼくも、いっぱい笑って生きたいと思う。

主人公はいっぱい笑うという状態からはほど遠い、後悔ばかりの学生生活を送る。
いつも、精一杯やろうとするのだが、誰かに気づかったり、みずから腰が引けたりして、後悔ばかりになるのだ。
でも、そのたくさんの苦労や後悔が、磨かれた塗り箸の模様のように、その後の人生で生きてくる。

いっぱい笑って生きるためには、何かを精一杯やらないといけない。

落語に出てくるオモロイやつは、それなりに精一杯生きている。
だからこそ、愛されるのだろう。

そんなふうに生きていければ、いっぱい笑えるのだろう。

成功や失敗とは関係ないのだと思う。



| | 考えたこと | 00:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
人生の扉2
春は「人生の扉」を開ける季節。

たくさんの人たちが扉を開けて、新しい環境に入っていく。

扉にぶつかってやむなく別の扉に行かないといけない人もいるだろう。

神さまはイジワルだから、人によっていろいろな扉を用意している。

自動ドアに当たる人もいれば、押して通る扉、引かないといけない扉、引き戸に当たる人もいるし、ややこしい鍵を開けないといけない人もいる。
どの扉が当たるかは、そこにいかないとわからない。

自分のやってきたこともあるし、運も縁もあるだろう。

神さまはそれを見ながら、適当に扉を用意する。

一つめの扉を開くことができずに、違う扉に行かないといけなくなる人もいる。
二つでは足らず、三つ目の扉に向かう人も出てくるし、とりあえず、扉を開けるのをあきらめて、踊り場に残る人も出てくるのだろう。

でも、いつかはみんな自分で扉を開けて出ていく。

その扉を開けたら、元には戻れない。

いくつかの人生の扉を通って、最後にはみんな神さまのもとへ続く扉を開けて、この世から去ってゆく。

そんな扉の数が多い方が幸せか、少ない方が幸せか…これもまた神さまのもとへ行く頃にならないとわからない。

いま、扉に向かっている人たちが、無事扉を開いて、桜の季節を迎えることを祈ります。



| | 考えたこと | 19:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
判断基準
それ、おもしろそうやな…。

人間はいろいろとリクツをつけるが、結局こんな言葉で動いているのではないか。

だから、おもしろいと思えることは大事だ。

落研時代のぼくらはまさにそうだった。

先輩の誰かが置いていった碁盤の両端に碁石を並べ、それを生協の食堂のわりばしではじいて、石の落としあいをやるゲームを考案し(というほどのものでもないが…)、「はしご」と名付けてトーナメントの選手権をやったことがある。
だれがやり始めたかは覚えていないが、みんなで必死にやった。
わりばしの使い方が難しい。両手を使ってはじくヤツ、箸の端を持つヤツ、真ん中を持つヤツ…、いろいろ工夫した。

部員一人ひとりのテーマソングを作ったり、すごろくを作ったり…。すごろくには「バス停で、かしまし娘のテーマソングを歌う」というような場所があって、大笑いしながら作ったが、やりはじめると必死になった。
もちろん、落語の練習もやったのだが…。

「オモロイ、やろやろ…」が始まりだった。

会社に入っても、残業している仲間で「こんなんどうやろ?」「それ、おもしろそうやな」という会話から新しいアイデアが出てきたこともある。

ソニーもホンダもマイクロソフトもグーグルも、会社の初めは、そんなことからできたのだろう。

井深さんは、ソニーの前身の会社を作るときに「自由闊達にして愉快なる理想工場」と書いた。

「愉快なる」という言葉が素晴らしい。

愉快でないと、新しいアイデアが生まれたり、挑戦ができたりはしないのだ。

いろんな製品やサービスを生み出すとき、「こうしたら、売れるやろ…」は大事だと思うが、最初は「これは、おもしろい…」であったはず。

サントリーの精神は「やってみなはれ」。これは「おもしろいと思ったら、やってみなはれ」だと思う。

そうやって、おもしろいと思えることが、社会を豊かにしていく。
おもしろいは大事だ。

逆に言うと、人間は、おもしろいと思えるようにやらないと、創造的になれないと思う。

だから、おもしろいと思えることがたくさんある方がよい。

そのために、本を読んだり、友だちと遊んだり、いろいろ勉強したりする。

これ、おもしろそうやろ…。
そう言いあえる仲間がいることも大事かな。



| | 考えたこと | 23:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
シャンソン2
前にもシャンソンについて書いたが、時々聞きたくなる夜がある。

今夜は、ジルベール・ベコーの「詩人が死んだとき」という曲が頭の中に流れている。
一度だけ彼のコンサートに行ったが、マイクを客席に向けて、聴衆に歌わすのが定番になっている曲。
最後にハミングでリフレインするのだ。

1988年のオランピア劇場のライブのCDを持っているが、それを探してきた。

 詩人が死んだとき 友だちはみんな泣いた
 詩人が死んだとき 世界中の人たちが泣いた
 彼の星をみんなで埋めた 広々とした畑に
 だから僕たちはみつけるのさ
 この広々とした畑に 矢車菊を ラララ…

というような意味。
単純な歌詞が繰り返される。
矢車菊は星のようなカタチをしているのだろう…。

半分はベコーが歌い、半分は観客が歌う。
悲しい歌詞だが、明るい曲調で明るく歌う。

一時、寝るときに毎晩ベコーを聞いていた。

言葉はわからないが、歌の力で聞かせる。

久しぶりに今夜はベコーを聞いて寝よう。





| | 音楽 | 00:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
首のストレッチ
首のストレッチャーを通販で買ってしまった。

首に巻いて、空気を入れて膨張させ、その力で首を伸ばす…というもの。

前から気になっていたのだが、こないだついに注文したのだ。

バルブを閉めて、腕に巻く血圧計の要領で空気を入れると、だんだんあごが押し上げられて、首に上向きの力がかかる。
あんまり伸ばしすぎないように…と説明書に書いてある。
やりすぎると破裂したり、逆に首を痛めてしまうらしい。当たり前だろう。

これで毎日15分間のストレッチをすればよいとのこと。

どんな感じかな?と思っていたが、そんなに首が伸びた感じはしない。

でも、今日は首が重かったので、15分やると何となくスッキリした。

何でも考える人がいるものだ。

ドーナツ状のものが重なっているのだが、一部が切れていて、その部分を首に通して、後ろでマジックテープで止めるようになっている。
首にかかる力を均一にするために、切れている場所をある程度分散している。5つのドーナツ状の風船を、切れている場所を少しずつ変えて重ねているのだ。
もちろん、空気は一度に入れるので、根本の部分はひっついている。
言葉で書くと、ややこしい…。

首の筋肉を均一に伸ばすためにはどうするか?と考えたら思いつくカタチではある。

でも、マジメに作った人はエライと思う。

これで首がこるのがマシになれば、安いもの。(2700円ほどだった)

毎日やってみます。





| | 考えたこと | 00:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
最後の春休み
卒業ネタが続いて申し訳ないが、もう一つ。

卒業をテーマにした歌はたくさんある。

卒業写真、贈る言葉、さくら…。
インターネットの投票サイトを見ると、たくさん出てくるが、ほとんど知らない歌ばかり。

「卒業」という感じではないが、ぼくのベストはおとなしい選択。

ユーミンの「最後の春休み」。
Hi-Fi Setも歌っていて、ぼくはこちらの方が好きだ。

アルファベットの名前順さえ、あなたはひどく離れてた…というところだけは、そんな学校あるのかな?と思ってしまうが、6/8拍子のリズムとせつない歌詞、明るい曲調が「春休み」という気持ちをすごくよく表している。

たしかに、卒業式で歌う歌ではないだろう。

でも、本当に卒業を実感して、せつなくなるのは、最後の春休みだと思う。

もうその学校とはお別れだが、まだ次の道には踏み出していない。
その時に、「同じ時間に ずっと ずっと うずくまっていたい」という感じは、すごくよくわかる。

これが、ベストワンだろう。

 最後の春休み by Yuming

 春休みのロッカー室に 忘れた物を取りに行った
 ひっそりとした長い廊下を 歩いていたら 泣きたくなった
 目立たなかった私となんて 交わした言葉 数えるほど
 アルファベットの名前順さえ あなたはひどく 離れてた

 もしもできることなら この場所に 同じ時間に
 ずっとずっと うずくまっていたい
 
 もうすぐ別の道を歩き 思い出してもくれないの
 たまに電車で 目と目が合っても もう制服じゃない

 窓の近くの あなたの机 ひとり頬杖ついてみる
 ふたをあけると 紺のボタンが すみのほこりに まみれてた
  
 もしもできることなら この場所に 同じ時間に
 ずっとずっと うずくまっていたい
  
 もうすぐ別の道を歩き 思い出してもくれないの
 そよ風運ぶ 過ぎたざわめき 今は春休み 今は春休み
 最後の 春休み

いいでしょう…。

| | 考えたこと | 00:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
遠くからみちびいて 2
子どもの卒業アルバムを見せてもらって、この歌がまた聴きたくなった。

学校というのは特殊な環境。
いちばん多感なときに、毎日顔を合わせる仲間がいる。
一年ごとにクラス替えがあって、強制的に顔ぶれは変わっていく。

でも、卒業と同時にみんな一斉にバラバラになって、もう二度と戻ることはない。
巣立っていくのだ。

何十年かが経って、残されるのは卒業アルバム。
本棚のすみに立てかけてあったり、何度かの引っ越しで段ボールに入ったまま押し入れにあったりする。
今はもう見ることもない…。

中には一生つき合うような友だちを作る人もいるが、それでも中年になると仕事や家庭が忙しくて、何年かに一度会うかどうか…というのがおおかたの人だろう。

でも、「自分」というものを形づくる上では、十代は大切な時代。
オトナになるための回り道をしているのだろう。

その回り道の中で、それからの人生を生きていく「自分」というものを作っていく。
今も自分を遠くからみちびいてくれているのが、あの頃の時間なのだろう。

遠くからみちびいて

 さびしくて 死にたいとき
 星の光さえ うすれるとき
 わけもなく つらく悲しいときに
 遠くからみちびいてくれるのは あなただけ

 毎日が苦しいとき
 暗い人影に おびえるとき
 生きていく希望 うしなうときに
 遠くからみちびいてくれるのは あなただけ

 じっと 見つめてくれるだけでいい
 手を肩におくだけで
 もう私は やさしくなる

 誰の生きかたをみても
 心などは もう 見えないけど
 あなたを見ていると 幸せになる
 遠くからみちびいてくれるのは あなただけ


| | 考えたこと | 00:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
ドラマツルギー
映画のことを何かで読んだときに、初めて聞いた言葉が「ドラマツルギー」。

この言葉は、日本語版のwikipediaには載っていないようで、はてなダイアリーによると…、

 ドラマの製作手法。ドラマトゥルギーとも。
 起承転結の、メリハリの付け方から、細かな人物設定にいたるまで。
 その方策。テキスト・レベルでの、既なる演出。

ということらしい。

要は、俳優の演技力以前の部分のドラマ作りの手法ということ。
脚本は大きな部分だろうし、場面作りや役作り以前の人物設定なども、ドラマツルギーになる。

今週の朝のドラマでは、一門の師匠が倒れ、入院してしまった。
死を隠して、思い残しがないように走り回る師匠だったが、もうどうしようもない。

昨日は、一日だけの外泊で、最後の高座を弟子たちに見せる場面。

もちろん、舞台に上がることはできない。
自宅の稽古場で、真剣な面持ちで正座した5人の弟子たちに、最後の高座を見せる。
演る方も、聞く方も、これで最後だとわかっているが、何も言わない。
稽古には稽古の型がある。

近所の人たちも、縁側に座り、漏れ聞こえてくる最後の高座を聞く。

「師匠と弟子」素晴らしい関係。

死が間近の師匠に、そんなことができるとは、常識的には思えない。
ドラマだからできるのだ。

現実よりも、ドラマの中にこそ真実がある…そう思えるのは、ドラマツルギーが良いからだと思う。

学生生活や仕事生活にはこんな師弟関係はほとんどない。

それでも、それらしい関係はいくつかあった。

尊敬できる先生、尊敬できる上司、あんな人になりたいと思える先輩…。

昨日は長男の卒業式だった。
卒業式も一つのドラマだ。
伝統と形式にのっとってはいるが、出演者である先生、生徒たちの思いがドラマツルギーを作る。

自分が演者であった時の卒業式はそんなことは思わなかったが、親になると彼らの式が思いのつまったドラマであってほしいと思う。

| | 考えたこと | 18:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
制服
中学3年間、高校3年間は制服だった。

黒い詰めえりの金ボタン。

仕事をし始めてからも、25年間制服だった。

ウィークデーは毎日着るものだから、着慣れるとその姿が普通になる。
もちろん、最初はイヤだった。
みんな同じ服装というのに反発する気持ちがあった。

人間は勝手なもので、制服を着なければならないときは、自由な服装に憧れたりする。
会社時代は、ロッカーで朝着替えて、帰りにまた着替えるのがめんどうくさいと思ったりもした。

それでも、制服と別れる日が来る。

別れる日は、制服がいとおしく思える。
ああ、もうこれでこの服を着ることはないのだ…という何とも言えない気持ちになる。

人生の中で、そんな思いをする日が何日かある。

明日は長男の卒業式。

彼もそんな思いをするに違いない。

そんな気持ちとつき合いながら、人生は過ぎてゆく。

セ・ラ・ヴィ。それが人生だ。

今夜はシャンソンを聴きたい気分。



| | 考えたこと | 01:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
捨てられないもの
何度か捨てられないものについて書いたが、捨てないといけないなあとも思う。

身辺整理という事ではないが、自分がいなくなったときの事を思うと、どうでもいいものがたくさんある。

今は記録するメディアがたくさんある。
写真、ビデオ、カセット、MD…。
捨てられないそんなものがある。

きっと死ぬまで一度も見ないものもあるだろう。

それなら、捨ててもいいのだと思う。

「起きて半畳、寝て一畳」という言葉もある。

自分だけにとって大切なものほど、自分にしか意味のないものだ。
結局、捨てられないものなどないのだ。
自分が思いきるだけのハナシだろう。

せいぜい、子どものたからもの箱一つくらいにしておかなければいけない。

それなら、じゃまにならないし、捨てるのも簡単だ。

そうやって選ぶなら、何を選ぶのか…。

一体何が残るのだろう?

そんなことを考えてみるのも面白い。




| | 考えたこと | 00:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
人間は…
こどもに社会主義はなぜなくなったのか?と聞かれた。

それは…、人間が社会主義についていけるほど、えらくなかったからかもしれない、と答えた。

人間は、ギリシア時代の昔から、あまり変わっていない。
正しいことは、正しいし、ヨクナイことはヨクナイ。
わかっていても、ヨクナイ事をしてしまうのが人間という生き物なのだろう。
だからこそ、紀元前400年くらいにプラトンが「真善美」という理想を掲げた。
どこかの洞窟に書いてある象形文字に書いてあることは、「近頃の若い者は…」という意味だったという話もある。

もしも、人間が十分にえらかったら、社会主義の国は消えなかったかもしれない。

でも、それはムリな話だ。
"One for all, all for one."という言葉が崇高な意味を持つ程度に、人間はおろかなものだ。

そう言うと、そんなあきらめをせずに、「人間がえらくなるべきだ」という。

若さはうらやましい。
そんな理想が持てるのだ。

ぼくもそう思いたい。
それでも、人間はおろかなものだから、仕方がないと思う。

すべてのものに価格をつけて、市場という「神の手」にゆだねる方が、おろかな人間が世界をコントロールするよりもマシなのだ。

でも、この先に明るい未来が広がっているようにも思えなくなってきた。

今や二酸化炭素の排出にさえ、値段をつけて、市場という仕組みに期待しないといけない時代。
それ自体は、今の世界の仕組みの中では、素晴らしいアイデアだと思うが…。

いつか「価格と市場」という仕組み以上のものを作り出せればいいと思う。

それでも、人間は今と変わらず、おろかだとは思うが…。




| | 考えたこと | 00:47 | comments(2) | trackbacks(0) |
数字を扱う
久しぶりにたくさんの数字を扱った。

2年分の検査のデーターをまとめて傾向を見つけるために、紙のデーターをイメージで取り込んで、コードリーダーで読みとったら、たくさんの数字がパソコンの画面の上に出てきた。

画面に並んでいる一つひとつの数字は、たんにこの値がこれでした…というものでしかない。

でも、それをかたまりにして、統計処理をしたり、特異な数字を追いかけたりしていると、見えてくるものがある。

さいわい、今はパソコンの上でグラフを描いたり、特定のデーターを抜き出したりすることは簡単だ。

問題は、その数字で何を語るのかという意図だろう。

仮説のないところで、いくら数字をいじくってそれらしい結果が出ても、あまり面白くない。

何を知るために、数字を扱うのかということが一番大事だと思う。

ときにはいろいろやってみて、偶然何かの関係がわかる…というときもある。
それが、説明できれば、それでもいいのだが…。

見つけたい「何か」を見つけるためには、元のデーターについてよくわかっていなければならない。
当たり前のことではあるが、これは大事だ。

いかにデーターが得られた現場を知っているか?これに尽きると思う。

真実は細部に宿る、ということだ。

「そうやったんか!」という瞬間、並んでいた数字が意味あるものに見えてくる。

まだ「何か」は見つかっていないが、老眼鏡のお世話になりながら、頑張ってみよう。





| | 考えたこと | 01:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
ブルース
今日はレッスン。
祝日の都合で3週連続になった。

今回は、ついにブルースをやる。
ブルースというのは、形式が決まっている。
12小節が1セット。基本は単純な3つのコード。

まずバッキングから…ということで、伴奏のパートをやるが、ほとんどがベース音。
アクセントに、コードが入るという感じ。

前にも書いたが、6本の弦のうち、3本しか使わないパターン。
それでも、ちゃんと聞こえる。

簡単なコードの組み合わせで、ブルースのバリエーションを作っていく。
まずはバッキングを完全に覚えないといけない。
目をつむっていても、弾ける…というところまでいかないと。

その上で、ソロのフレーズを書いてくれたが、時間がなくて譜面だけになった。

次回は2月の終わり。
3週間後にどこまでいけるか…。

ぼくなりの弾き方から、どんどん離れていっている。
今は以前の弾き方ができない。

いったん離れて、また戻ってこられれば、その時はスゴイのではないかという予感がする。

それがいつになることやら…。


| | 考えたこと | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
駅弁
駅弁が好きだ。
走る電車の中で食べる弁当は何となく楽しい。

神戸の名物、肉めしはよく食べた。

新神戸を午前中に出て一人で出張するときは、肉めしを買った。
カレー味をつけてある黄色いご飯の上に、薄くスライスした牛肉が載っているもの。
これが駅弁のベストワンである。

静岡の鰻弁当もいいが、神戸の肉めしには勝てない。

なぜ、走る電車の中で食べる駅弁が、楽しいのだろう?

飛行機で一斉に出される食事は、自分で買って持ち込む駅弁を食べるのとは全く違う。
これは、食事、という感じだ。
ということは、駅弁を買って食べるのは、食事という感じではないのかな…。

自分で選んで、自分の好きなときに食べられる(もちろん、目的地に着いてしまえばダメだが)という自由さがいいのかもしれない。

普通の食事は、時間が決まっているし、食べる場所も決まっている。

それが、自由になる、という楽しさなのかもしれない。

駅弁の楽しさは奥が深いぞ…。



| | 考えたこと | 23:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
師匠と弟子
また朝のドラマの話。

今週はドラマの中で師匠が4人いる弟子のことをずっと回想し、それぞれのことを語っていた。

落語家の師匠と弟子だから、内弟子時代に生活を共にしているし、普通の上司と部下や先生と生徒のような関係よりも「濃い」関係だとは思う。
でも、ドラマでは理想的な上下関係が描かれていると思う。

弟子たちは師匠を尊敬し、師匠の落語を受け継いでいきたいと思っている。
師匠は一人ひとりの弟子の強みや弱みを見つめ、これからの彼らの行く末に期待し、心配する。
もう師匠の命は長くないのだ。

一人ひとりの弟子に対して、落語の稽古を変えたりはしない。
同じようにやっていながら、何気ないひと言で弟子の良いところを伸ばす。
ふだんはいい加減なことばかり言っているが、ここというところでは厳しく叱咤する。

そうやって弟子を育てているのだろう。

しかし、師匠が落語をあきらめかけたときに、それを救ったのは弟子たちなのだ。

師匠は弟子を育て、弟子を育てることで師匠は育っていく。

そんな関係が理想的な上下関係だと思う。


| | 考えたこと | 22:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
予算
予算というものがある。

以前はあまり仕事で予算というものに関わることはなかったが、ここ数年毎年この時期になると「予算を作る」という作業がある。

仕事とは、「人、モノ、カネ、情報」を動かすこと…といわれているが、そのおおもとは「カネ」に依存するところが大きい。

やりたいこと、やらなければならないこと、やった方がよいこと、やめたいこと、やめた方がいいこと…仕事の内容を振り分けて、そこにカネをつけていく。

「やりたいこと」や「やらなければならないこと」の部分は仕事が進む。
もちろん、カネの上限はあるし、折衝によって減らさないといけない場合もあるが、この部分はやりやすい。

でも、「やめたいこと」「やめた方がいいこと」の部分は難しい。
今までやってきたのはなぜ?という疑問が出てくるからだ。

これを決めるためには「仕事の目的」が明確になっている事が第一だが、さらに、その仕事に関する「外的環境」がわかっていないと進まない。
ずっと同じことをやっていて、それでいいのか?ということだ。

「仕事の目的」は閉じたものではないだろう。
外界に対して開かれているハズだ。
人間と同じく、仕事も関係の中で生きていく。

だから、外が変われば、やり方も変わる。

これが予算の一番難しいところだと思う。

国の道路の予算も同じ事だと思うのだが…。

とにかく、今年も大枠は決まった。
あとはどれだけ説明できて、認められるか、ここがその次に難しい。

どうなるかな…。




| | 考えたこと | 22:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
ドはどこにある
音符を読むときに、二通りの方法がある。

固定ドと移動ド。
ギター弾きは一般的に移動ドを使う(と思う)。

移動ドというのは、その譜面の上でドとなる音(♯一つのト長調なら、ソの音)をドにするという読み方。
固定ドというのは、あくまでト長調ならソの音はソと読む…音の絶対値でみる読み方。

なぜギター弾きは移動ドで考えるかというと、楽器の構造がそうなっているからだ(と思う)。

ギターの場合、基準となるフレットをずらせば、調を変えることができる。
押さえる位置を2フレット平行移動すれば、ハ長調の曲をニ長調にできる。
譜面の上では、シャープが二つト音記号の横に並ぶが、ギターではメロディもコードも2フレット移動させるだけだ。
ピアノのように白鍵や黒鍵など意識する必要はない。
全く平行に動かせばよい。
中学の頃、父がギターというのは便利な楽器だという事を言いながら、それを教えてくれた。

だから、ぼくはニ長調の「ド」は「レ」だという。
最初の「ド」はどこが音階の最初の音かを表す「ド」で、「レ」というのは、絶対的な音の高さである。
レがドになるということは、半音二つ上に上がるということで、それはフレットを2つ右に動かすということ。

何が便利かというと、あるポジションで覚えた指づかいを、そのままずらせば移調できるということだ。

もちろん、メロディによって、どのポジションで弾くのかは違ってくる。(同じ高さの音は、フレットの上にたくさんあるから、そのどれを選ぶかはメロディや次の展開によって違う)

でも、基本はいつでもドレミファソラシドである。

一度、ギターの先生に聞いた。
先生はどんなキーの楽譜も簡単に書けるので、固定ドで考えているのかと思ったからだ。

でも、先生はやっぱりギター弾きらしく、「頭の中では移動ドでやってます」と言われた。

長男はピアノを弾くが、ぼくがニ長調のドはレだ、と言っていると、レは何の調でもレだ…という。

頭の中ではきっと鍵盤が見えているのだろう。
黒鍵と白鍵が入れ違いに並ぶ鍵盤では、平行移動といっても難しいのかもしれない。

ぼくの頭の中にはギターの指盤がある。
ドはレというとき、頭の中では指を2フレット動かすだけなのだ。
全てのコードは右に二つ動かして、さっきまでレだったところをドにして考える。

もちろん、絶対音感があって、固定ドで考えるギター弾きもいるんだろうが…。

管楽器を吹く人なんかは、どうなっているんだろう?


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