考えたこと2

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教育委員会
教育委員会の改革が議論されているが、先週は進展があった。

大阪の橋下市長が主張している、教育委員会から首長に教育行政の執行機関を切り替えるという案が中教審で出ている。
もう一つの案も、教育委員会は残すが、その任命、罷免の権利は首長に持たせる、というものらしい。

時々テレビで教育委員会の方々が出ているのを見るが、この人たちに責任感があるのかな、と思うような言動や場面が目立つ。
学校でのイジメの問題を、学校出身者ばかりで構成されている教育委員会などで議論しているが、今のところいい案も出ないし、責任逃ればかりが目立つし、怒られてから仕方なく何かする、というようなことばかり。

中教審の委員からは「首長が不当な指揮をしないかチェックできるようにすべきだ」との意見が出たらしいが、それなら今の教育のていたらくは誰が責任を取るのかと聞きたい。

世間で原子力ムラなどと言っているが、教育ムラの方がよほどひどいと思う。
採用試験など、親が教師なら面接は通ってしまうのは当たり前だと思っている人もいるのではないか。

教育という産業は性格上補助金漬けになっている。
そこに利権が生まれ、ムラ意識が生まれる。
楽な方に流れるのだ。

一般人を校長に、という制度ができてだいぶ経つが、行った人が持たない事例も多い。
それだけ、一般社会の常識から外れたことが行われているのだ。
校長といっても、みんなが言うことを聞かないのは当たり前らしい。
社長の言うことを聞かなかったら、クビにできるが、学校ではそれは常識ではない。

運動会の競争で、順位付けをしないとか、子供と友達のように話す教師が良い教師だとか、毎日毎日部活ばかりでまともに教えることもできない教師がいたり、スポーツにだけ力を入れている学校があるとか…。
小学校の子供を持つ親なら、最近の小学校の参観や行事参加などで、これオカシイと思うことが必ずあると思う。
ぼくも何度かあきれたことがあった。

教育というのは、自分の経験しか判断基準がないものだ。
だから、私の頃はこうではなかった、という風になりがちだ。
しかし、そういう考えをできるだけ排除しても、やっぱりオカシイものはオカシイ。
一般社会と一緒がいいとは思わないが、あまりにもかけ離れたものではダメだ。

社会に出たら、相対的に評価されるのが当たり前。
いくら頑張っても、負けは負けなのだ。
潰れるときは潰れる。

個性が大事などというのはマチガイだ。
学校は型にはめるためのものだ。
第一、型にはめないと、個性など出てくるわけがない。
いくら型にはめても、はまりきらないものを個性という。
それを最初から型にはめずに自由にやらせるなら、学校など要らない。
人間は本能が壊れているから、本能のままに生きたら問題を起こす。
だから、学校というシステムができたんだろう。

今回の教育委員会の制度改定はぜひ実行してほしい。

そうしないといつまで経っても義務教育は崩壊したままだ。

| | 考えたこと | 23:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
超弦理論
先々週、先週の日曜日に2回シリーズで放送されたNHKスペシャル「神の数式」を見た。

物理学者は今までこの宇宙を表すシンプルで美しい数式を求めてきた。
その理論の変遷を紹介する番組。
そこで今の最新の理論が紹介されている。
それが超弦理論。
超弦理論とは、素粒子の構造が単なる粒子ではなく、輪ゴムのような弦になっている、ということに基づく理論。
この世を記述する数式を作るときに、結果的に最も矛盾が少ない理論と言うことらしい。
なぜかというと、そう考えることで、粒子同士がひっついたときにも、距離がゼロにならず、「分母がゼロにならない」ということだ。
「分母がゼロになる」というのは数学の世界では無限大を表し、これが生じるとそこから先には進めない。

この理論を使うと、時間と空間を統一する一般相対性理論と素粒子の世界を表す標準理論の数式が含まれるとのこと。
長らく物理学者が望んでいた、普通の世界と量子の世界をつなぐものになる。
これが物理学の最先端らしい。

その代わり、この弦の世界は10次元だという。
なんだかちんぷんかんぷんだが、面白い。
ニュートンの世界と、全く別の世界だと思っていた量子の世界を統合できる。

その式で計算すると、496という数字が現れるという。
496を割り切れる数は自身を除くと、1 , 2 , 4 , 8 , 16 , 31 , 62 , 124 , 248となって、この合計が496になる。
そういう性質を持つ数を完全数という。
完全数は神の数だとも言われている。
6,28に続いて3番目の完全数。
この数が現れたことが、神の数式へのつながりを感じさせる。

超弦理論の提唱者でもある研究者は、もうだいぶ年だ。
生きている間に、世界が解明されるかどうかはわからない、という。
それでも、研究を続けていく。

それは、なぜ我々は存在するのか、この宇宙に生きる意味は何なのか、そんな問いに答えを出したいからだ、という。

科学の最も科学らしい部分は、数学と物理学にあると思う。
一方、人間の存在について考える哲学はその対極だ。

その二つがここでつながるような気がする。

| | 考えたこと | 23:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
塾のアルバイト
先週の日曜日に、学習塾の会社のイベントに行ってきた。
最近は学習塾も日陰から日なたの産業に変わってきて、ぼくらの学生時代とは全く違う。

昭和40年代後半の塾は、どちらかというと零細の事業で、株式会社など考えられなかった。
特に小学校、中学校あたりの生徒を対象にした塾は、受験からはちょっと外れていたし、学校側からもあまりいい感じでは見られていなかったと思う。

普通なら、今の少子化の時代、塾の産業はシンドイはずだ。
それでも大小いろんなところがやっていて、ぼくらの学生時代よりも盛んになっている。
これはひとえに、正規の学校がコケてくれたということに負うところが大きいと思う。
今の学校は学力軽視、というより学ぶことを軽視している学校が多いと思う。

この塾では大学生のアルバイトを使って、大学生も、塾生の生徒も、両方ともやる気にさせるような仕組みを作った。
重視するのはコーチング理論。
そんなに難しいものではない。
いくつかのコツを満たせば、大学生でもできる。
コーチングというくらいだから、スポーツからでてきた。
この塾の社長が、息子が小学校の頃入ったサッカーチームで、指導方針があまりにもスパルタなのに驚いたとのこと。
入ったばかりの小学生に、ミスをぼろくそに言い、あれではサッカーが嫌いになると思ったらしい。
その後、大リーグに行った日本選手の経験を聞き、日米の指導方法の違いを実感して、コーチングに目覚めたらしい。

ホームページを見ると以下のように書いてある。

「教育コーチング」とは、「傾聴」「質問」「承認」等のコミュニケーション技法を用いて、青少年自身の意欲・能力を引き出し、「自立」を支援する教育メソッドです。「教育」の本来の意味は「educe=潜在しているものを引き出す」です。 教育コーチはこの原点に立ち、「人は育とうとする生き物だ」という信念を持って相手に関わります。 人が本来持っている驚異的な意欲と能力が顕在化します。「coach」とは「馬車」のこと。 馬車は旅人にとって不可欠なリソースです。大切な人(青少年)が目指すゴール(目標達成・夢の実現・自立)に行きつくための、素敵な馬車になろうではありませんか。

要は、主体的な気づきを重要視する、というようなものだろう。
褒めるときはIメッセージといって、必ず「私」を主語にする、というようなコツがある。

親に対しても、パパママコーチング、という無料のサービスがある。

子供に何が悪かったのかを問いかける
勉強を頑張っていたということは認めてあげる
悪いことを責めず、次につながるように言葉をかけてあげる

こんなことを励行しましょう、ということだ。

そこの予備校部門で大学院生がコーチをやっているのだが、そのコーチの発表した言葉にこんなのがあった。

私たちが生徒さんたちに与えたいのは、「知」と「志」。
そして、それらのバランスを取って、なりたい自分を見つけていって欲しい。

なかなか立派な言葉。
「知」だけでなく、「志」の部分が大事、ということだ。

こういうアルバイトならまだマシと思う。

| | 考えたこと | 02:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
人の気持ち
人間は、人の気持ちがわかるなどという驕った考えを持ってはいけない。
人間は自分の気持ちしかわからない。
何を考えても、自分が基準になっている。
他の人の立場になど、簡単には立てない。

自分が「こう」だから、きっと他の人も「こう」だというのは、思い上がりである。
自分の考えに、縛られてはいけない。
世の中には人間に関することで、「当たり前」というようなことはない。

自分にとっての当たり前はあるが、全ての人に通じるものなどない。
自分にとって「良い」と思ったことは、「自分にとって」良いということだ。
一生「それ」がわからないままのことだってきっとある。
人は自己満足でしか生きられない。
例外と思えるようなことがあれば、それは運がいい。

そういうものなのだ。
| | 考えたこと | 03:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
チリツモ
以前、ちりも積もれば…、ということで書いたような気がするが、もう1回書く。

チリツモというのは、小さな要因がたくさん重なって、現象が起こっている、というふうな意味でぼくら実験屋は使っていた。
こういう現象はよくある。
これらの現象を何とかしよう、と思ったら、マジメに一つずつ要因をつぶしていくしかない。

しかし、こういうことをわからない人がたくさんいる。

特効薬があると思いたいのだ。
それを早く見つけて、何とかしさえすれば、問題は解決だということになる。

多くの場合、そんなことはないと思う。
マジメに要因をひらって、つぶしていくしか改善できない。
こういう時にその担当になったら、悲惨なことが起こる。

現場はどうもマジメに一つずつやっていこう、と思っているのに、回りがうるさい。

早く特効薬を見つけろとか、こうしたらいいとか、思いつきのような案を出して攻めてくる。
それでも、マジメに一つずつ要因をつぶしていくしかない、と言って実行していると、「なぜ、もっと良くなる方法を考えないのか」と言ってきたりする。

それが難しい問題であればあるほど、回りの声がうるさくなる。

えてして、難しい問題であればあるほど、マジメに一つずつやらないといけない、ということになるのだ。

横で見ている人は、歯がゆいのだろう。
きっと特効薬があるはずだ、と思っている。

こういう事はよくある。

実際、こういう状態になっている。
困ったものだ。


| | 考えたこと | 00:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
テリアみたいにしつこい
テリアというと、イギリス生まれの猟犬。
元々の意味は「犬」という意味らしい。
スコッチテリアとか、ヨークシャーテリアとか、いろいろな種類がある。

こないだテレビを見ていたら、「テリアみたいにしつこい」というセリフがあった。
テリアは猟犬で、小動物を追いかけて仕留める犬なので、しつこく追いかけるからだろう。
西洋ではイヌは人間の仲間という文化があるので、こういう言い方があると思う。

ヨークシャーテリアなどは小型犬で、愛玩犬かと思っていたがあれも猟犬だと聞いて驚いた。
工場のネズミを捕るイヌらしい。

日本にはペットという概念があまりなかったので、動物を人間にたとえるという表現はあまりないと思う。

イヌでは、イヌも歩けば棒に当たるとか、犬猿の仲とかそんなのが多い。

まだネコはましな感じ。
ネコの手も借りたい、というのはちょっと人間に近づいている。
昔から日本人は、ネコをペットに近い動物としていたのだろう。

日本で最古かつ最高の小説と言われている、源氏物語にも動物は出てくる。
しかし、あまりイヌは出てこないと思う。

どちらかというと、昆虫や魚が多いのかもしれない。

そういう意味では、日本人は西洋人に比べて動物になじみがない。

今の日本とはだいぶ違うなあ。

| | 考えたこと | 00:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
ボッシュの技術
ボッシュはドイツの自動車部品メーカーだ。
燃費向上や安全についての技術を、フランクフルト・モーターショーで発表している。

それによると、燃費を良くするために今まで以上にエンジンを切って、惰力で走行する技術などをを発表している。

車は走行中にエンジンを切って、まっすぐ走る分にはまあ安全だが、カーブする道などでは駆動力がないと危険だ。
そのために、ナビの情報を用いて、走行中にエンジンを切るかどうかを判断するということらしい。

また、ステレオビデオカメラによって、ドライバーが飛び出してくる子供などを見落としたときにも、回避動作をするということも考えられている。
ボッシュがそのために2014年からカメラを量産するという。

渋滞のアシスタント技術も考えられている。
低速時にはハンドル操作に介入するシステムを完成させるらしい。

そういえば、新しいゴルフにはレーンアシストの機能も採用されている。
あれはボッシュの部品を使っているのかもしれない。

彼らの発表を見ていると、まだまだ自動車も進歩していけるのだと思う。
もちろん日本の技術もスゴイところがあるのだろう。

しかし、日本にはボッシュほどの総合部品メーカーはない。
デンソーあたりは近いかと思うのだが、まだまだではないか。

まだまだ内燃機関も捨てたものではない。
そして、ハイブリッドから電気自動車へと変わっていく。
さらに車と車が通信して、事故を防ぐというようなシステムも考えられる。
インターネットが車の中にも入ってくる。

クルマに関する産業の未来はまだまだ明るい。

問題はそれをあらゆる国がキャッチアップしているということだ。

日米欧の3極だけではない。
電気自動車になると、今のクルマのメーカー以外も参入するようになるだろう。

そこがシンドイところだ。

でも、日本のメーカーはまだまだ最先端で頑張っている。

日本ならではの高付加価値なクルマを作り続けてほしい。


| | 考えたこと | 00:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
セミアコといえば
最近Jill-Decoy AssociationというグループのCDを聞いた。
通称はジルデコというらしい。
メンバーは3名で、ボーカルの女性と、ドラム、ギターという3人組。

このジルデコのギタリストが、Gibsonのギターを弾いていて、なかなかかっこいい。
ステージで弾いているギターの型番はわからないが、GibsonのES-335のというセミ・アコースティックのギターを愛用している由。
ES-335はセミ・アコースティックとは言われているが、普通のアコギのように全体が空洞ではなく、中央部にはセンター・ブロックがあり、ソリッドボディ(空洞がなく、木の塊)のギターに近い構造になっている。
ES-335はこの分野のベストセラーで、使っているミュージシャンも多い。

ジルデコというバンドは、ジャズとファンクとポップスが合わさったような感じ。
ジャズっぽいアルバムもあり、ポップなアルバムもある。
アコースティックな音作りも多く、アコギやガットギターを使っている曲も多い。
しかし、エレキギターの音は魅力的だ。
今までエレキギターのセミアコにはあまり興味がなかったが、このジルデコのギタリストはかっこいいと思う。

調べてみると、ソリッドギターよりも構造が複雑なのでいろんなタイプがある。
センターブロックの有無や、大きさ、胴の深さ、ブリッジの種類、そして使われている木材のバリエーションも多そうだ。

ビートルズのメンバーが使っていたのが、エピフォンのカジノというギター(他にもいろいろ使っていたが…)。
そういえば、ジョン・レノン、ジョージ・ハリソンがセミアコのギターを持っていた。

インターネットで調べてみると、Gibsonが一番有名みたいだ。
因みに、エピフォンはGibsonの子会社のような存在。
Fenderはこの分野はほとんど手を出していない。
その他、グレッチとか、日本ではアイバニーズとか、いろいろある。

ぼくはネットで見ていて、ES-137というのに一目惚れした。
このギターは美しい。
これぞ、セミアコ中のセミアコ。

これはいい。


| | 考えたこと | 00:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
5時からの男
昔8時半の男、という言葉があった。
リリーフピッチャーの宮田という男の代名詞だった。

それに倣って、5時からの男というのもあった。
夕方の5時から、働き始める(別にそれまで遊んでいるわけではない)。
スロースターターで、5時まで色々と考える。
そして5時に実験室があくと、おもむろに取りかかる。

残業代が欲しいわけではない。
設備が5時からあくから、そこから仕事をするだけだ。
そんな人がぼくのいた会社にはごろごろいた。

実験という部署だった。
当時ぼくは考えるより、とにかくやる方だった。
仕事がたまるのがイヤなのだ。
たまった仕事が形となって実験室に積み上げられる。
テストをしないと終わらない。
だから、とにかくテストをやって、片付けていた。

でも、5時からの男は、夕方おもむろに実験室におりてきて、ああでもない、こうでもない、と仕事をスタートする。
当時、ものが片付かず、イライラしたこともあった。
今となっては、知らなかったとはいえ不心得を恥じるばかり。
いろんな問題を5時からの男は解決した。

ぼくにはマネができなかった。
そんな粘り強さや賢さがなかった。
横目で見ながら、とにかくためないように片付けた。

そんな若い頃だった。
でも、今でも仕事がたまるのは嫌いだ。
昔よりはマシになったが…。

| | 考えたこと | 21:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
メンバーチェンジ
昨日で4年ちょっと勤められたパートさんが辞められた。

4年目となると、仕事もそれなりにできるし、ツーカーで頼めたりしたので、すごく残念だ。
でも、ライフスタイルを変えて、ステップアップされるのだから、仕方がない。
次の人は10月1日からなので、しばらくは大変だが、面接では前向きな人だったので、きっと仕事も早く覚えて頑張ってくれるだろう。
でも、メンバーチェンジを乗り切るのは大変だ。

パートさんはあくまでパートさんだが、でもぼくはあまり仕事の範囲にこだわるのは嫌いだ。
もちろん、現在正規、非正規という働き方の違いが問題になっているし、正規社員はなぜ正規社員なのか、ということから、非正規社員よりも仕事の範囲が広くなるのは当たり前だし、だから給料格差ができるのだ、という説明はその通りだと思う。

しかし、パートさんだから、ここまでの仕事しかさせてはいけないとかいう話になると、どうだかなあ、と思っている。
もちろんこんなことは職場では言えない。
仕事の範囲というか、どの仕事は誰がやるか、というところが給料と絡んでいるからだ。

でも、仕事の大事な部分は給料だが、ぼくはそれだけではないと思っている。
パートさんでも、本人がやる気があって、その仕事をやってみたいとか、この仕事を勉強したいとか思っているなら、仕事の範囲を超えてやるのはかまわないと思っている。

下手をすれば、正社員よりもパートさんの方が仕事ができたりする。
それは当たり前のことだとも思う。
仕事ができるか否かは正規・非正規で決まるのではなく、やる気で決まる部分が多いからだ。
正規社員というのは、定年までの仕事が保証されているので、その地位にあぐらをかいてしまうからだろう。
きっと多くの会社で、正規社員よりも派遣社員の方が優秀だとか、パートさんと正規社員とが変わってくれたらいいのに、と思っている人がたくさんいるはずだ。

行政が新しい仕事を民間に丸投げするのも同じことだ。
公務員に、新しいことをやる気がないからだろう。
そういう面からも、雇用の体系を変えることは重要だと思う。
今の正社員は守られすぎているからだ。
高度成長期ならそれでもよかったが、低成長に入ったら、それは経済的にはマイナスに働く場合の方が多いと思う。

だから、ぼくはパートさんには、本人にやる気があれば積極的に仕事に関わってほしいし、そのために仕事を教えることは厭わない。

今回辞めたパートさんは、仕事をノートに取り、熱心に覚えようとしていた。
そういう人には仕事の範囲など少々超えても問題ないと思う。
ルールでこれはやってはいけない、というような仕事はやれないのだが、そこにはグレーゾーンがある。
そういうのは積極的に超えてもかまわないと思っている。
他のメンバーからブーイングは出るのだが…。

その甲斐あってか、今回辞めたパートさんは近所の優良企業で正社員に採用された。

そういう風に、やる気のある人には仕事をやってもらわないと、能力開発されないし、優秀な人材が増えていかない。
正社員にあぐらをかいている人ばかりになったら…。

そう思って、メンバーチェンジを受け入れないといけないと思う。


| | 考えたこと | 01:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
フィンランドの先生
昨日「フィンランドの教育水準が世界トップレベルである理由」という記事を見つけた。

それによると、フィンランドの先生は簡単にはなれない、とのこと。
その記事はアメリカ人のキムさんがフィンランドに行ってまとめたものらしい。

それによると、「ほとんどのアメリカの大学では、教育学部はもっとも簡単に卒業できる学部の1つとして知られており、子どもが好きであれば誰でも受け入れられます。しかし、フィンランドでは教育学部を専攻することは、アメリカで医学部を専攻するのと同じレベルが要求され、教育大学のレベルもジョージタウン大学やカリフォルニア大学バークレー校と同程度の水準を持っており、その後大学院で修士号を取得する必要があります。」

そして、「キムさんを受け持ったステラさんの場合、教師になるためにユヴァスキュラ大学で6年間勉強しました。最初の4年間はフィンランド文学を勉強して過ごし、教員養成プログラムは4年生から開始。その後修士号を取得するために修士課程に入り、最初の一年間は国内最高レベルの国立大学で実践的な教育実習を行うことでようやく教師の資格を得ることができたとのこと。」とのことだ。

昨日書いたことが確認された。

それは必要条件なのか、十分条件なのかはわからない。
教育をよくするために、フィンランドでは教員になるためには高いハードルを設けている。
まさに、今それが必要な事だろうと思う。

戦後の民主主義教育は失敗したのだろう。
だから、今の教育がダメになった。
ぼくらは戦前の教育を受けたり、まだ日本に民主主義教育が根付く前に教育を受けた先生に習った。
まだマシだったのだ。
でも今の先生は完全に戦後の民主主義教育で育った。
教える方も戦後の民主主義教育を受けた人がほとんどだ。

断っておくが、民主主義教育を否定しているのではない。
日本の戦後の民主主義教育が失敗だと言っているのだ。

その結果が今の教育に現れているのだと思う。

| | 考えたこと | 21:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
教育をよくするには
教育がよくないという問題がある。
中央教育審議会などで話し合われているが、なかなかよくならない。

文部科学省も何とかしたいと思っているのだろう。
土曜日も授業をやらないといけない、というような話もなかなか実行されない。
でも、問題は土曜日に授業をやったら解決する、というような単純なことではないと思う。

教育で一番大事なのは何か。
それは先生だろう。
良い教育をするためには、良い先生が必要だ。
その良い先生をちゃんと育成してこなかったツケが今の時代に来ているのだと思う。

もちろん親や生徒や地域といった問題もある。
しかし、学校というシステムの中で一番大事なのは先生だ。

もともと、学校というシステムはなかった。
金持ちの子弟を教えるために、優秀な人を雇い、1対1あるいは1対2程度で教え始めた。
でも、それでは一般のレベルが上がらない。
だから、まずヨーロッパで出来たのが師範学校。先生を教えるための学校だ。
つまり、先生を育てなければ、学校というシステムは成り立たない。
それほど先生は大事なのだ。

だから、教育が問題である、というときには多かれ少なかれ、必ず先生に問題があると思う。

教員養成課程の問題は大きいと思う。
特に小学校の教員だ。
そして、教員採用試験の問題も大きいと思う。
何十年一日のごとく、同じような試験をやっている。
そして、教育委員会の存在意義の問題も大きいと思う。
結局、一から教員をどうやって育てるのか、考えなければいけないのだろう。
それを考える人が教員の集団ではダメだ。
今まで作ってきた人たちに、今の問題は直せない。
自分たちを否定することになるからだ。

もちろん、大学の教員は養成課程そのものがないから、そこも問題だ。
少なくとも教員になった人には、これこれの義務がある、という事を決めなければならない。
大学に良心などない。
大学はいい人が集まっているなどと思ってはいけない。
まさに、悪貨が良貨を駆逐しているのが多くの大学だろう。
自分よりも優秀な人は採りたくないと思っている人の方が圧倒的に多いだろう。

そんな気がするのだが…。

| | 考えたこと | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
定年退職おめでとうございます
だんだんと自分が60に近づくにつれて、定年退職の送別会の主賓が入社時にお世話になった近しい人になってくる。

今夜は、ぼくが入社した時に2年上の先輩が退職する宴会だった。
会社に入ったときは、当然ながら20代。
あの頃の若者らしく、レイバンの緑色のサングラスをかけて、クルマに乗っていた。
そんな若者ももう60歳。
今20代の人から見たら、完全におっさんだ。

何を考えているのか、わからないと思われている。
まあ、こちらも思っているのだが…。

当たり前だが、ぼくらの知っていることを知らない。
それが年寄りから見た若者というものだ。

ぼくらは、戦争は知らないが、高度成長も知っているし、公害問題も知っているし、ベトナム戦争も知っているし、石油危機も知っているし、安保反対も知っている。
証券会社がバカみたいに儲かった事も知っているし、その後、山一証券が潰れたことも知っている。
日本中の銀行に税金がばらまかれ、彼らが助けられたことも知っている。
朝日新聞が中国は素晴らしい国だと言っていたのも、その後、毛沢東が死んでからいかに彼がムチャクチャをしたのかも知っている。

話がそれた。

75歳になった以前の常務が、今日も言っていた。
「仕事は楽しくやるもんだ。アホなヤツもいるし、イヤなこともある。でもそれをするから、楽しいこともできる。」

いつも定年する人は、こんな仕事をしてきた、と最後に挨拶する。
いい仲間に恵まれたとも。
その姿を見て、ホントに良かったと思える。

また来月もお世話になった人が定年になる。

またぼくも呼んでもらって出席する。

一足先に会社を辞めたのだが、声がかかる限りは出席するつもり。
ありがたいことだ。

| | 考えたこと | 00:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
中村吉右衛門
鬼平犯科帳といえば、中村吉右衛門だと思う。

日本のハードボイルドの代表作。
鬼平というキャラクターを演じさせたら、この人だ。

最初は萬屋錦之介がやっていたが、錦之助の鬼平には優しさが足りない。
吉右衛門にはそれがある。

ハードボイルドの探偵については、レイモンド・チャンドラーという作家に格言がある。
「タフでなければ生きてはいけない。優しくなければ生きていく値打ちがない。」
それはハードボイルドの主人公の鉄則だと思う。

鬼平はたくさんの盗人上がりの密偵を抱えている。
あくまで、彼らは鬼平の直轄であり、鬼平に忠誠を誓っている。
みんな鬼平に捕まった盗人だ。
もともと、人殺しなどしていない、まっとうな盗人だった。
あくどい金持ちを狙う。

そんな盗人たちが、心を入れ替えて密偵になる。
人生を捨てて、お上の犬になる。
ばれたら、命を狙われる。

そんなシチュエーションで、密偵たちを束ね、事件を解決する。

今のように科学も発達していないし、いつもやるのは足を使ってあとをつけることだ。
ひたすら我慢をして張り込みをする。
待って、待って、向こうが動くのを待つ。

これらの密偵たちは蟹江敬三、長門裕之、梶芽衣子などが演じている。

日本のハードボイルドの名作。
この番組を海外に輸出したらどうか。

きっと流行ると思う。



| | 考えたこと | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
4人に一人が高齢者
総務省の推計によると、日本の65歳以上の人口が過去最多を更新し、25%に達したらしい。

つまり、4人に一人が高齢者になったということだ。
それも、いつの間にか65歳以上になっていて、昔は60歳以上だったような気がする。
60歳以上なら、31%以上という推計もあり、ほとんど3人に一人と言っていい状況だ。

これが高齢化の現実。
人生で働かない(働けない)時期に入っている人が、4人に一人はいる、ということになる。
日本人の平均寿命は男性80歳、女性86歳だから、65歳で仕事を辞めても普通は15年〜20年の人生が残っているという事態になる。

こういう事態は世界でも日本がトップだと思う。
人生の最期をどう過ごすか、ということを考えないといけない。
今、80歳以上の人たちは、まだまだ年金が出るが、今65歳になったばかりの人たちは15年後まで今の年金制度が持つとは思えないだろう。
ましてや、これから60歳や65歳を迎えようとしている(ぼくのような)人たちは、もっと厳しい状況だ。

ところが、厚生労働省はいい加減な社会保険庁も含めて、全くそのことをはっきりしようとはしない。
年金100年安心プランというようなことを言っている。
何のために自民党に与党の地位を与えたのか。
耳に快くないことを言うのも政治家の仕事だ。

いい加減に社会保障の問題を何とかしないといけない。

どうせ時間はかかる。
世代の利害が対立している。
若い人は払いたくないし、年寄りはもらいたい。

そこを何とかしないといけない。

早く何とかしてくれ。



| | 考えたこと | 20:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
ユーモアで乗り越える
フランスの新聞に、福島の放射能の風刺マンガが載った。

一つは、原発の前の土俵で3本の腕や足がある力士が向かい合っているもの。
もう一つは、プールの前で防護服を着用し、放射線測定器を手にした二人が、ウォータースポーツ会場は福島に建設済みだと話しているというもの。

これに対して日本政府は正式な抗議文書を送るという。

フランスの新聞の編集長は、「ユーモアを表現しているからといって、被災者の皆さんを侮辱していることにはならない。ここ(フランス)では、悲劇に対してはユーモアを持って立ち向かうものだが、どうやら日本ではそうではないようだ」と話したとのこと。

日本の抗議の是非についてはコメントしないが、このフランスの編集長が言った言葉はよくわかる。
「悲劇に対してはユーモアを持って立ち向かうもの」というのは、真実だ。

アウシュビッツの収容所で、命がいつ亡くなるかわからないという時に、一番強いのはユーモアを持った人だった、という。

自分の不幸を笑い飛ばしたり、悲惨な状態を笑いにする。
それこそが精神の強さだ。

フランス人のユーモアはちょっと難しいが…。

日本では原子力そのものがタブーになり、まともな議論ができていない。
ここでこそ、ユーモアの感覚を大事にしたい。
ユーモアの感覚は、精神の余裕を表すものだろう。

特に反対派には余裕がない。
ユーモアの感覚が皆無で、反対以外は認めない、という感じだ。

ちょっとはフランス人の言うことも気にとめるべきだと思う。


| | 考えたこと | 00:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
We were romantically involved.
ドラマを見ていて、「私たちはそういう関係だった」ということを婉曲に言った時のセリフ。
We were romantically involved.

きっとこういうことに関しては、いろいろな表現があるのだろう。
過去形で言っているのは、恋人が殺されたからだ。

involveはまきこむというような意味だったと思う。
私たちはロマンチックに巻き込まれていた、という意味。
もちろん、話される場面によって意味は変わる。

洋の東西を問わず、こういう婉曲表現は難しい。
だいたい想像はつくのだが…。

こういうのを見ると、言葉が全てではないということがよくわかる。

その言葉が発された場面、表情、声などが重要だ。

言葉がコミュニケーションに寄与する割合は10%以下だという。

これはどうも本当らしい。




| | 考えたこと | 02:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
複素数
複素数は主にガウスが発明した。
虚数という、2乗してマイナスになる数を作ったのだ。

それまで、2乗してマイナスになる数はなかった。
しかし、2乗してマイナスになる数があってもかまわない。
そういう風に定義をすればいい。
それが虚数だ。

虚数は簡単で、「i」を実数につければそれでOK。
2の2乗は4だが、2iの2乗は-4になる。
ガウスはそんな数を発明した。

なんでそんな数が必要なのか?
この数を導入することで、どんな2次方程式にも答えが出るようになる。
2乗してマイナスになる数を導入するだけで、実際には3次、4次、…の方程式に答えが出るようになる。

複素数とは実数と虚数で表される数。
これがあれば、世の中が丸く収まる。

「丸く収まる」というのは、世界のつじつまが合うということだ。

実際の世界は混沌としているが、やっぱり世界はつじつまが合っていた方がいい。
数の世界はそうあるべきだと思う。

だから、ガウスが複素数を発明した。

そんな風にして、人間は数の世界を広げてきた。

より世界がつじつまが合うように。


| | 考えたこと | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
クルマが好き
ぼくは25年間会社勤めをしたが、そこはクルマの関係だった。
会社に入る前は、人並みにはクルマ好きだったが、それ以上でも以下でもなかった。

会社に入って最初に実験を担当した。
振動や騒音の測定だった。
次に実際にクルマに乗って官能や計測のテストをした。

それから、設計に行って、企画に行って、それで25年。
早い退職をした。
25年間クルマに関わって、給料をもらった。

この25年間は仕事柄、たくさんの新車に乗った。
今の若い人にはわからないだろう。
いろいろと新しいメカが採用される。
新しいエンジンや新しいサスペンション、新しいデザイン、新しい材料、新しい電子制御…。
そのたびに、感心した。

燃費を良くする技術など、面白い。
昔はホンダのCVCC。そして、触媒技術。
走りながら気筒をを休めるというのもあった。今も現役の技術だ。
そしてディーゼルの復権。今はヨーロッパでは乗用車の主流。
今の日本車はハイブリッドだ。モーターという新しい部品が加わった。
まだまだ燃費との戦いは続くだろう。

今は自分の車に乗るだけだが、やっぱり興味がある。

ネットでニュースを見て、クルマの情報があれば読む。

たぶん、これは一生続くだろう。

今は関係ないのだが…。



| | 考えたこと | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
新しいiPhone
アップルのiPhoneの記事が出ていた。
今度はiPhone5sと5cという二つのバージョンがあるらしい。

5sは高価なタイプ。
2年契約を前提に、199ドル。
5cは安価なタイプ。
2年契約を前提に99ドルという。

高価なタイプは差別化として、指紋認証やCPUの処理速度が速いというスペックの強化が行われている。
安価なタイプは要は今のiPhone5の実質的な値下げのバージョンだろう。
やはり、出来ることを考えると、どんどん付加価値が落ちていっているのだ。
結局型落ちで充分とか、安価なモデルで充分というユーザーが増えることになり、そういう人も取り込んでいかないといけない、という戦略だろう。
実際、高い方のモデルがどれだけ売れるか、疑問だ。

5cの方は、鮮やかな色の展開になる。
そこで差別化するという戦略に出た。
逆に言うと、今の機能を強化してもユーザーはついてこないということだろう。
5色のバリエーションと専用の6色カバーが差別化のために用意されるのは、それを表しているのだろう。

アップルの戦略は明確だ。
もう色くらいしか差別化が残っていない。
機能的には充分で、これ以上お金は出せないというのが一般ユーザーだろう。
アンドロイドもだいぶ進化して、アップルと差がどんどんなくなってきたのも一因だ。

そればかりか、地図のソフトでは圧倒的にグーグルが強い。
この位置情報や地図というのは、今までの電話になかった新しい付加価値と言える。
カメラなど、ちょっと便利になったという程度だが、地図やGPS情報を組み合わせたサービスはまだまだ出てくると思う。

これからどうなるか…。

| | 考えたこと | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
スマートフォン
ドコモがアップルのiPhoneを売るとのこと。

ドコモはずっとアップルの条件を拒否してきたが、アップルも苦しくなって妥協したのだろう。
苦しいものどうし、一緒になったということだ。

しかし、スマートフォンというものも、もう頭打ちになったような気がする。
こないだ次男が機種変更するのについていって、店で見たが、デザイン、大きさ、機能など、どれをとっても同じようなものだった。
ちょっと電池が長持ちするとか、カメラがきれいに撮れるとかいう差はあるが、もうそんなに大きな差ではない。

ということは、スマートフォンもだんだんと嗜好品から消費財になってきた、ということだ。

消費財になってしまうと、価格が安いものが売れる。
中国のスマートフォンが待っているのだ。
それでアップルも焦っているのだろう。

どうやって、消費財になってしまうのを防ぐか。
付加価値をつけ続けるしかない。
そこがハードで売っている弱さなんだろう。

でも、どんな付加価値があるだろうか。
電話にカメラがついて、インターネットもできるようになって、もちろんメールもできるし、ゲームもできるし、スケジュールも入れられるし、音楽プレーヤーにもなるし、地図も見られるし、手書きで絵も描ける。
人は他に何を望むだろう。

腕時計とセットにしようとサムソンは考えている。
グーグルもアップルも考えているらしい。
まあ、物好きが買うくらいだろう。

ソニーはかざすと音楽が鳴るスピーカーを売ろうとしている。
これも決め手にはならないだろう。

スマートフォンの次はなんだろうか。

ぼちぼち、それを考えないといけない。


| | 考えたこと | 01:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
子ども
いつからか、公式文書に出てくる「子供」が「子ども」になった。

なぜかというと、子供と書くと「供」の字が「お供」を想像させ、子どもが添え物のように思える、ということらしい。
しかし、子供という漢字はずっと使ってきたものだ。
ぼくらが小学校で習ったときは「子供」だったし、こどもを子どもと書いたら×だった。

いつの間に、「子ども」という表記ができたのだろうか。
どうもこの頃こういう言葉が多い。

漢字の表記を別々に考えると、「子供」は「子ども」になる。
しかし、別々に考えるのはオカシイ。
元々は「こども」という言葉があって、それに漢字を当てて「子供」になったのだろう。
中国の言葉として子供というものがあったわけではない。
日本語で使われる漢字は、意味がつながってできているわけではないと思う。
先に言葉があって、それに漢字を当てたのだろう。
だから、もともと「子供」の「供」には「お供」の意味はない。
あるとしたら、「こども」という言葉の「ども」にあるので、漢字にあるのではない。
「こども」の「ども」は「野郎ども」の「ども」と同じで、複数を表しているような気がする。

いずれにしても、「子供」を「子ども」と書くのはナンセンス、と思っていたら、文科省が表記を改め、「子供」に統一するという。

これはいいことだろう。

他にもいろいろと「子ども」系の言葉がある。

ぼちぼちみんな見直した方がいいと思う。

| | 考えたこと | 00:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
東京オリンピック
東京でオリンピックをやることが決まった。

この前が1964年。
開会式に合わせて新幹線も作ったし、名神高速も開通した。
1945年に終戦で、19年かけてオリンピックを招致した。
このときは日本中が歓喜したと思う。

三波春夫が東京五輪音頭を歌い、「オリンピックの顔と顔…」という歌詞は今でも覚えている。
マラソンの円谷、重量挙げの三宅、体操の山下など、覚えている選手もいる。
バレーボールは女子も男子も強かった。女子は東洋の魔女と言われ、金メダルだった。
海外の選手では、マラソンを裸足で走ったアベベ、ヒートリー、女子体操のチャスラフスカ、柔道のヘーシンクなどの名前が浮かぶ。

開会式の日は学校が休みになって、家でテレビを見た。
神戸にいても、興奮が伝わってきた。
赤いブレザーでたくさんの日本選手団が入場した時は、ひときわの拍手だったなあ。

昭和になって39年。
奇しくも次の年の昭和40年代から高度成長が始まり、日本は豊かになった。
この東京オリンピックが転換点だったかもしれない。
日本という国が自信を持って、国際社会の仲間入りを果たしたのだ。

ちょうどこのときに、ぼくは小学校の2年生。
まだまだ貧しかった。
そこここの道は舗装されておらず、写真は白黒、母に手編みのセーターを作ってもらって、大きくなったらほどいて作り直していた。
スーパーにぞうきんなど並んでおらず、学期はじめには母がぞうきんを縫って作った。
給食代を払わない親などおらず、小学校は45人クラスでちゃんと授業が出来ていた。
もちろん、授業中に立って走り回るような子どもなどいない。
今から思えば、あの頃の日本には夢があった。
明日は今日より豊かになる、という確信があった。

公害、交通事故、安全保障、汚職…。
いろんな不具合はあった。
それでも、全体としては豊かになっていく、という気分だった。

小学校6年の時、先生が「アメリカ人はソニーというのはアメリカの会社だと思っているらしいぞ」と言った言葉がわけもなく誇らしかった。

あれはそういう時代だったのだろう。

1964年。
これからベトナム戦争が始まり、冷戦がひどくなっていく時代。

いい時代だった。

あと7年生きたら、もう一度見ることができる。
そんなラッキーな世代に生まれた事に感謝。

| | 考えたこと | 01:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
ペットの宗教
こないだ昔の知り合いと飲み屋で話していたら、ペットの葬儀の話になった。

そこの家は、子どもが大変可愛がっていたネコが亡くなり、どうしようかと思っていたら、動物霊園に持っていくことになったらしい。
電話をかけて、亡骸を持っていったら、コースを提示され、2万円のコースにしたとのこと。

待っていると、亡骸を火葬したので骨揚げをするという話。
ネコの骨の解説を聞き、骨壺に骨揚げをする。

それを持って仏壇のようなものの所に行き、そこで一言。

「宗旨はなんですか?」

聞かれた方はネコの宗旨を聞いているのかと思ったらしい。
しかし、よく考えたら生前ネコに宗旨は聞いていなかったので、自分の家の宗旨を答えたらしい。
「浄土真宗です。」
そうすると、色々あるカセットから一つを選んでデッキに入れ、プレイボタンを押した。
聞き覚えのあるお経が流れ、骨壺の前で焼香をどうそ、という。

焼香の間、おかしくて仕方がなく、肩をふるわせて笑いをこらえていたらしい。

結局ネコはそのまま永代供養となったとのこと。

しかし、ペットの宗旨は?と聞かれて自分の家の宗教を答える、というのがどう考えても面白い。
あらたまって、そういうことを聞かれると、とっさに「わかりません」とか「ありません」とかは言えないものらしい。

さすがに、お寺も坊主もペットの葬儀には出てこない。

でも、ペットの数は今や子どもの数より多い。
今後の少子化、高齢化でまだまだ増えるだろう。
イヌやネコのお寺を作ってはどうだろうか。
イヌやネコの宗教を作り、葬儀の手配をする。
そうすると、動物霊園の方から依頼が来て、葬儀の手伝いができる。
今のペットブームなら、けっこう儲かるかもしれない。
狛犬の代わりに駒ネコを置いたり、阿弥陀様の顔をイヌにしたり、いろいろと不敬なこともしないといけないが、これぞ末世の所業かもしれない。

いつか本当になるかな。

| | 考えたこと | 22:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
何か得意なこと
人は何か一つ得意なことがある、と思う。

それを見つけることができればラッキーだ。
それを見つけることができないまま、人生を終える人もいる。
人は何か一つ得意なことがあるが、残念ながらそれが何かはわかっていないものなのだ。

それを見つけることができるかどうかは、偶然だろうと思う。

運のいい人は、その偶然が早く来る。
世に言う天才だ。

でも大多数、いやほとんどの人はそんな幸運に恵まれない。
一生のうちにそれを見つけられる人がどれくらいいるだろうか。

では、その幸運に恵まれるためにはどうしたらいいか。
いくら年をとっても、何か新しいことをやってみることだろう。

それしか道はない。

そういう風に考えれば、いくつになっても新しいことにチャレンジできる。

でも、もうこの年になったら、見つかったとしても難しいか…。
| | 考えたこと | 00:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
クルマ文化
1980年代に20代を迎えたぼくらにとって、今の若者のクルマに対する思いは難しい。

ぼくらの20代のころ、クルマという道具は単なる道具ではなく、若者文化だった。
どのクルマを持つのかは、その人のファッションや考え方を表していた。
時々によって、女性にモテるクルマが変わった。
代表的なのは、ホンダのプレリュード。
改造をする若者も多かった。
momoのハンドルやシート、フジツボのマフラー、カヤバのサスなど、パーツ屋の商売も成り立っていた。

今は新車がそれらのパーツを取り込んで販売されたり、法律で改造自体が難しくなったりしている。
ハンドルなど変えようとしたら、いろんなスイッチが付いていて、改造自体が難しい。
改造するとしたら外観だが、新車の時からエアロパーツが付いていたり、アルミホイールも幅広タイヤも付いていたりして、アフターマーケットの市場を新車が取り込んでしまった。
コンピューター制御も増え、物理的な部品の交換では難しいという技術的な側面も増えた。
そして何より、改造しようという若者のインセンティブがなくなった。

クルマにお金をかけるのはもったいないと思っている。
別に中古車でも、動けばいい。
エコロジーのために、自転車に乗るという方がオシャレだと思っている。
そもそも都市部ではクルマなど必要ない。
必要に迫られて買うなら、中古の1ボックスか、軽自動車。
女性ドライバーが増えたが、彼女らがほしいのも軽自動車。

今は軽自動車が新車販売の40%の時代。

彼らの考えは合理的だと思う。
なるほど、クルマは値段の高い耐久消費財であり、日本車の品質を考えると中古車で充分だし、買い物なら軽自動車で充分だ。

何度か書いているが、クルマはぼくらが若いころは文化だった。

それが単なるモノに変わってしまった。

今やスマホが文化になった。

時代は変わる…。



| | 考えたこと | 00:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
悪者は誰だ
現代の人々は昔より合理的になった。
自然科学が発達して、結果があるのなら、原因があると考える。
だから、何か都合が悪いことが起こると、その原因を突き止めようとする。

バブルが崩壊して、不景気になった。
その原因は何か、悪者を見つけないといけない。
悪者はできれば一人がうれしい。
一人なら、そいつをやっつければ済むからだ。

アベノミクスとかいう首相の政策で景気がよくなるという。
今の不景気の原因は、デフレだ、と悪者を決めつけた。
だから、デフレさえ脱却すれば、景気は良くなる、というワケだ。

日銀の大幅金融緩和でデフレは脱却したはずだった。
一時は株高と円安で輸出企業の株を持っている人はとても潤った。
しかし、輸入品の値段は上がり、原発を止めているせいで燃料代は電気代に転嫁され、どんどん上がっている。
国債の金利が乱高下して、政府は混乱した。

そんなわけで、今はまだどうなるかわからない。

でも、悪者はデフレではないと思う。
もしもそうなら、もう景気はよくなっているはずだ。

悪者は、日本の成長が止まったことだろう。
どう考えても、今までの成長は見込めない。
相対的に、日本以外の国が豊かになっている。
中国はGDPで日本を抜いた。
スマートフォンでは日本より韓国や台湾が調子がいい。
白物家電は中国製が幅をきかしている。
日本のメーカーの製品でも、東南アジア製というものがとても増えた。

日本は海外と競争している。
ある部分は負けないと仕方がない。
そういう風にして、日本は勝ってきた。
負ける順番が回ってきたのだ。

歴史は繰り返す。

だから、今の状況をよくすることは簡単ではない。
簡単ではないからこそ、みんなで知恵を出して考えなければならない。

問題はもっと深刻なのだと思う。



| | 考えたこと | 21:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
遺伝子と歴史
テレビで言っていたが、チンパンジーの遺伝子は99.5%は人間と同じらしい。
ハエでさえ8割が人間と同じという。

この事実から、ダーウィンの進化論は正しいと思う。
別々にできたなら、これだけ同じというのはオカシイ。

いくら考えても、不思議だ。
一度書いたと思うが、遺伝子のメカニズムを考えると、誰かがそう設計したとしか思えない。
たった4つの塩基の組み合わせを並べただけで、身体の中の全ての酵素やタンパク質が決まる。
要は生物の設計図が遺伝子ということだ。

そのうえ、同じものが複製されない。
異なる2つの遺伝子を持つ親から、半分ずつもらう。
だから、一人一人違う。
数学的には組み合わせは30億通りというが、事実上は無限大とWeb上には書いてあった。

今の人類になって、この遺伝子のシステムは変わっていない。
十数万年前に生まれた時から、同じだろう。
所詮、チンパンジーと0.5%しか変わらないのだ。
ということは、知識は増えても、きっとやることはあまり変わらないということだ。

だから人間が何をしてきたかということを学ぶ。
それによって、過ちを起こるのを防ぐこともできる。
遺伝子上は人間は進化してできた生物だが、人間になってからは変わらない。
知識がなければ、すぐに原始時代に戻る。

だから文化ができた。
そして教育のシステムを作った。
知識は伝えていかないと、伝わらない。
その量がだんだん増えてきた。
何を伝えないといけないのか、何を伝えるべきなのか、よく考えないといけない。

そういう時代になってきたと思う。

変えるべきは変え、守るべきは守る。
そういう決定が必要だ。


| | 考えたこと | 22:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
昆虫図鑑
最近の海外ドラマでは、鑑識の手がかりが昆虫になっていることがある。

例えば、腐乱死体にたかっているウジ虫の種類を特定し、羽化させることでどれだけその死体が放置されたかを知る。
また、被害者に付いていた虫の死骸や卵から、殺された場所を特定したりもする。

昆虫は種類が多く、その分だけ地域特殊なものがある。
また、あらゆるところにいるから、付きやすい。
ハエなど、どこにいるのかわからないが、腐乱死体があれば卵を産み付ける。
虫のことをよく知っていれば、手がかりが増えるのだ。

そういうときに昆虫図鑑が役に立つ。
これを作る人たちは本当にエライと思う。
どこにその虫がいて、何を食べていて、卵から幼虫になるのが何日、そこから成虫になるのが何日という風に調べないといけない。
その虫の特徴、どこが違うのかというところも大事だ。
いつ繁殖するのか、季節的なものがあるのなら、それも大事だ。

難しいのは特に小さな昆虫だ。
虫眼鏡で見ないとわからないような虫ほど手がかりになることが多い。
それを調べて、種類を特定し、犯罪の解決に使う。

昆虫学者も、こんな風に昆虫図鑑が使われるとは思っていなかっただろう。

日本の鑑識も勉強しないといけない。


| | 考えたこと | 21:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
シトロエン
今は世界のクルマのサスペンジョンは、ほとんど金属製のバネとダンパーになった。

しかし、例外がある。
シトロエンの油圧サスペンジョンだ。
ハイドラクティブサスペンジョンという。
昔のシトロエンGSというクルマは日本でもよく見た。
流線型でとても未来的なスタイルだった。

このシトロエンという会社は、先進的な技術を使うのが特徴のメーカー。
ハンドルを切ったら向きが変わるヘッドライトも早くに採用している。
今の小型車で主流となったFF車も、シトロエンが最初に大量生産した。
ロータリーエンジン搭載のクルマも少量ながら作ったことがある。

シトロエンGSの頃は、なんといってもハイドラクティブサスだ。
4つのサスペンジョンの油圧は、1つのポンプにつながっていて、エンジンを切ったら車高が下がる。

でも、この新しい技術に投資するというシトロエンの方針はコスト高を招いたのだろう。
経営危機を乗り切れず、プジョーグループに買われた。
そのため、一時より新技術を使うことはなくなった。
プジョーと部品を共用するためだ。
それでも、シトロエンのこだわりがあり、まだハイドラクティブサスのクルマは作られている。

世の中にメカ好きが減ると、シトロエンのようなメーカーはダメになるんだろう。

残念だが、これは仕方ないことか。

| | 考えたこと | 03:04 | comments(0) | trackbacks(0) |