考えたこと2

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初日の驚き その2
学校法人に転職した初日、入学式のことは昨日書いた。
今日はその後のこと。

ぼくの仕事はコンピューターの関係の仕事だった。
そういうことに詳しい人が必要だ、というので呼ばれた。
ぼくは専門家ではなかったが、前の職場でシステム関係のことはやっていたので、その仕事になったといういきさつ。
学生の情報教育をどうしていくかとか、コンピューター教室を運営するとか、そういう役目だ。
ぼくのために部署を一つ作ってくれた。
ただし、職員はいない。図書館にいて、その建物の4階にコンピューター教室があり、そこに専門の派遣スタッフがいて、その人たちがぼくと一緒に仕事をした。
後から思えば、ずっと大学にいる人と一緒に働くよりも、よかったと思う。

その役目を決めてくれた事務局長が、初日から広報委員会に出てほしいという。
右も左もわからない状態で、いいんですか?と聞いたら、ちょうどその年にできた委員会だからかまわない、ということだった。
主に大学のホームページが「しょぼくて、受験生にあまり見られない」ということが議題らしい。
ということで、入学式の後に広報委員会なるものに出た。

出席者は副学長、学部長、学科長あたりだったか。
よく覚えてないが、10人足らずの会議だった。
とにかく、初めての顔ばかりなのであまり邪魔をしないように聞いていた。

しかし、集まったメンバーはあまりホームページの内容に詳しくなく、どうしたいのかよくわからないという。
あまりにも要領を得ない会議だった。
おまけに、委員長が「それでは、こんど来られた方がそのあたりはお詳しいということなので、お任せして…」と言うのでビックリした。

それまで黙って聞いていたが、こうなると言わないと仕方がない。
話したことは以下の内容。

大学のホームページを受験生に見てもらって、受験生を確保したいという目標は理解する。
見せ方はどうにでもなるが、どういう内容を見せたいのか、コンテンツが魅力的でなければダメ。
コンテンツのことは、ぼくは素人で全くわからない。だから、それを決めてほしい。

そういうと、議長が「あなた、とてもいいことをおっしゃる」と言った。

アタリマエのことを話しただけだったが、今までどういう考えでやってきたのか、と思った。

これが二つ目の驚いたこと。

ここからぼくの2つ目のキャリアが始まった。

| | 考えたこと | 21:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
初日の驚き その1
学校法人に勤務したのは2004年の4月から。
その前日まで元の会社で働き、翌日学校に行った。
4月1日は入学式になっていて、職場に行って挨拶し、入学式に出た。

ぼくは自分の大学の入学式の記憶がほとんどない。
出たと思うのだが…。
しかし、29年ぶりの入学式はびっくりするものだった。

勤めた学校法人は宗教法人が作ったというものではなかったが、学園の始祖が僧だったということで、何かというと宗派の法要がある。
入学式もご多分に漏れずいきなり法要が始まる。
大学のホームページ等には全く宗教色はないので、何から何までびっくりした。

まず、出てきたのが神父のような姿の人。
これが仏教なのかキリスト教なのかわからない。
なんやこれ、と思っていると音楽が流れ、それに合わせて聖歌隊みたいな格好の女性が出てきてお供えをする。
灯明、お香、お花の順にお供えして、たしか天井から蓮の花びらが落ちてきた。

ちょうど同年に入職した大学院の卒業生が隣りにいたので、「これはどういうことなんですか」と聞いたら、「この学園は仏教系なんですが、それをあまり仏教系らしくなくやるとこうなるんです」という解説だった。
彼女も「初めて見たらビックリしますよね」と言っていた。

後々聞いたら、僧服は洋装のものがあり、それは神父のカラーを取ったもののような服だとのこと。
音楽はちゃんと宗派のCDがあり、オルガン主体のちょうど教会で鳴らすようなものが存在する。
普通に生きていたら、一生聞くことはないと思うが、サビ?が「ドレミファミレド」の音階にしたがって、「なむあみだぶつ」という歌詞の曲もある。

新入生にしたら、え、こんな学校だったのか?とちょっとカルチャーショックを受けるような感じだ。
それを和らげようとして洋風にやるのだが、それが余計に無国籍な感じになる。
保護者も含めて、ビックリするだろう。
でも、中高短大はずっとこれでやってきているので、変えられない。
別に宗派からお金をもらっているわけではないのだが、建学の精神も仏教に基づくものであり、だから法要をやるということだ。

ぼくが入植した時の大学学長はキリスト教の洗礼を受けている人で、これもまたビックリ。
当時、規定を改正して学長を迎えたということらしい。
それなら法要もやめたらよかったと思うのだが、それは学校法人の意向にそぐわない。

この仏教的なるものについては、在職中にいろいろと考えさせられた。
とにかく、説明なくいきなり始まる、というのがそれらの特徴だと思う。
少しでも事前に説明して、これからこういう意図でこういうことを行います、ということがわかっていれば、こちらも心の準備ができるのだが、そういうことは一切しない。
法要の段取りを書いた式次第も配られるのだが、そこにも一切説明はない。
やることの名称と、唱えるお経などが羅列されているだけだ。
そこに座って、じっと聞いていたらわかる、というような考えなのだろう。
でも、10年たってもわからない。
せめて意味の説明でもすればいいのに、と思う。

でも、やっている側は、そうしてしまうと権威がなくなる、という風に思っているように見える。
葬式でもそうだ。
こないだキリスト教の葬儀に出たが、ちゃんと神父が参列者に説明する時間がある。
多くの場合、実際に故人を知っている神父が話すから親近感がある。
聖歌も歌うが、日本語で意味はわかる。

仏教の葬式ではお経の意味も伝えないし、何をやっているのかわからない。
勉強不足といえばそれまでなのだが…。
宗派によっては説教もあるにはあるが、故人とのつながりも感じられず、一般論になる。

日本の仏教はそういう説明を嫌うから、民衆から離れてしまったのではないかというのがぼくの結論。

いくら民衆が離れても、葬儀の時にはお寺のお世話になってお布施がもらえるだから、普段の生活では離れていても構わないという姿勢になってしまった。
葬儀で金を儲けるというのが、失敗だったのだろう。
でも、それがあったから生き延びてきたとも言える。

これが学校法人初日のビックリしたことの一つ目。

二つ目は別に書く。
| | 考えたこと | 00:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
サラリーマンになること
大学で勤めているとき、ある教授から「営業学」を教えたい、という話があった。
正式な話ではなく、世間話の話題だったが、よく覚えている。
この先生はすごくエライ先生で、言うこともスジが通っており、会議で誰かがあまりにも下らないことを言うとたしなめてくれる、いい先生だったとぼくは思っている。

その先生はキャリア教育にも一家言持っており、大学でのアカデミックなスキルがビジネスでも使える、という意見だった。
世の中が安易な「キャリア教育」というものに流れていく風潮をあまり快く思っていなかった。
それはぼくも同じだった。

先生曰く、卒業後ほとんどの学生がサラリーマンになり、営業という仕事についていくのに、学校ではそれが社会の中でどういう役割を持っており、どういう目的で行われ、どういう考え方を身につけなければいけないのか、というようなことを教えたいということだった。
各論ではなく、総論で「営業の意義」みたいなものを伝えたいという思いだったと思う。

そういうことをやるなら、実際に企業で働いていた人や現役で働いている人を呼んで話を聞き、構想を立てないといけないでしょうねぇ、というような事を言ったような気がする。
一度だけした世間話だった。
もう先生は任期が迫っていたので、現実にはならなかったが…。

ちょっと前に、NHKが女子高生の貧困問題を取り上げ、それが炎上騒動を起こしたということがあったらしい。
記事には、彼女は貧困環境であるにもかかわらず、夢である「アニメーションの仕事に就きたい」という望みが叶わない事に不満を言っていたことなどに、批判があったらしい。

記事にもあるが、素人ができるアニメーションの仕事というのは、とても単価の安い仕事であり、それをどうしてもやりたいのなら貧しくても我慢するという類の仕事。
それを自ら選択したのなら、それは仕方がないということだろう。
そこに不満を言ってはいけない。
それは彼女が悪いのではなく、回りの大人が悪いのだと思う。

大学生でもそういう学生はいる。芸術系は多いだろう。
「ミュージシャンになりたい」というような学生はあまり相談に来ないが、アルバイトで生活し、ギターと歌をストリートで演って、認められデビューしたい、というタイプだ。
そういう学生が来たら、覚悟を聞き、どうしても本気でやりたいのであれば年限を切って活動し、ダラダラ続けることだけはやめよう、と言うようにしている。
時間を区切って、本気で頑張ったのならダメでも諦められるはず、ということだ。
そして、ちゃんとした仕事について、趣味で続ければいい。

結局、夢を実現するためには頑張るしかないということだろう。もちろん運もある。
だから、ほとんどの人は夢をあきらめて他の仕事に就く。
小さい頃の夢を実現したというような人は、ほんの一握りしかいない。
芸能界に入りたいとか、プロのスポーツマンになりたいとか、イラストレーターになりたいとか、バンドを組んでメジャーデビューしたいとか…。
たいがいは、20歳になったころには自分でわかるはずだ。

今の先生方は夢を煽っているような気がする。
夢を持つのはいいことだ、とぼくも思うが、それも限度がある。
どこかで現実を知らないといけない。

前にも書いたが、今の中下位の大学のパンフレットはとにかく資格志向だ。
この学部に入ったらこんな資格が取れるというののオンパレード。
でも、実際に資格を取って就職できる人はほとんどいない。
教員免許ですら取得しても採用試験にうからなかったりする。
もっと現実を見せないといけない。

この記事にもこう書かれている。

「正に「生きる力」の養成がキャリア教育であり、そのためには情報のリテラシーからメンタルタフネスまで、自分自身が社会に揉まれながらも生存する、技術なり思考なりを身に付けさせることが欠かせないといえます。しかし一方学校教育現場では、「夢をかなえる」式の説話がいまでも蔓延していると感じます。例えば小学校や中学校などで社会人の話を聞く催しがありますが、私が知る限りの狭い範囲ですと医者や弁護士、公務員の方が来ることはあっても、工場労働者、サービス業で店頭に立つ人、営業職で一日中走り回る人はなかなか登場しないようです。」

「キャリア教育で実際に働く大人の話を聞くことは非常に有意義です。しかしそこで聞くべき話はまず第一にリアルな社会を代表するべきです。それは会社員です。世の中の会社員の半分以上が何らかの形で営業職・営業関連職に就いているにも関わらず、営業の仕事が何かをきちんと知っているのは大学生でもまず見たことがありません。」

やっぱり、あの先生はエラかったと思う。

| | 考えたこと | 19:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハロウィン
ぼくの近辺ではそんなにハロウィンというイベントをやっていないが、ニュースで渋谷あたりでは大変なことになっているというのを見た。
「へー」と驚いてしまう。
いつからそんな大きなイベントになったんだろう。

若い人たちは仮装をして繰り出す。
ハロウィンとは、その時期によみがえった悪霊を追い払う祭りと、豊作祈念の祭りの両方の意味があるという。
キリスト教には「万霊節」というのがあり、11月1日は死者が現世によみがえってくる日。
日本のお盆のようなものだ。
それとヨーロッパのケルト族がやっていた、翌年の豊作を祈願するお祭りがひっついて、ハロウィンというイベントになったらしい。
正確にはキリスト教の行事ではない。

ソンビや悪霊の仮装が多いのは、死者がよみがえるということから来ているのだろう。
ぼくはこのブログに、2010年の10月31日に梅田のロフトに行って、ハロウィンの格好をしている人を見たと書いていた。
この時はゾンビではなく、オレンジと黒の普通のハロウィンのスタイルだったはず。
でも、その頃から仮装をした人がいたのか。

今やハロウィンは経済規模で1200億円ということらしい。
チョコレートのバレンタインよりも大きいとのこと。
いつの間にか、そんな規模になっていたのか。

ぼくらの学生時代はハロウィンなど存在すら知らなかった。
時期は違うが、まだ地蔵盆の方がメジャーだったと言える。
それがニュースになったのは、アメリカで留学生が撃たれた時だ。
その時に、ハロウィンという祭りがあって、向こうではキャンディをもらうために家を回るらしい、と聞いた。
それが1992年。
その時に初めてハロウィンという言葉を聞いた人も多かったと思う。
それが今や一大イベントになりつつある。

2010年あたりから、店がイベントを企画したりして、祭りになってきた。
それが今年は今日から渋谷で警察が警戒態勢に入るほどのイベントになった。

この調子で行くと、20年後くらいには感謝祭も日本に入ってくるかもしれない。

11月の終わりになったら、「ハッピーサンクスギビング!」などと言っているかな。

| | 考えたこと | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
ツイッター買収
ツイッターを使っている人は多いと思う。
実際につぶやいている人もいれば、ぼくのようにアカウントを取ってもほとんどつぶやかず、信頼できるサイトや人をフォローして情報を入手するのに使っている人もいるだろう。

ツイッターはとっつきにくいとぼくは思う。
いきなりアカウントを取ってつぶやいても、それを誰も見ていない。
そういう仕組なのだ。

だから、フォローしてくれる人がいないとつぶやいても仕方がない。
フォロアーが多い人につぶやきを送って、それがその人のリツイート(人のつぶやきを引用する)でもされて、それが面白いとフォロアーになってくれたりする。

自分が参加したい話題があれば、それをハッシュタグ(#で始まるワード。#ワールドカップ という具合に使う)で検索してそれを入れてつぶやけば、仲間を見つけることができてフォロアーも増えるだろうが、誰がフォローしてくれるかは結果論だ。
自分でつぶやく人は、一緒に仲間を誘ってアカウントを取って、お互いにフォローしあうというような使い方になっているのかもしれない。
フォローされるのがイヤな場合は、ブロックすることができるようになっているが、そもそもフォロアーを増やせるのはよほど自分のつぶやきが影響力がある場合になると思う。

ぼくはこの人は面白いと思う人や情報元の会社などを複数フォローしていて、もっぱら情報の入手に使っている。
ユーミンもフォローしてはいるが…。

そのツイッターだが、経営不振で身売りの話があるという。
先日まで何社か名乗りをあげていたようだが、結局不調に終わり誰もいなくなったらしい。
世界的にはユーザーがあまり増えておらず、広告も入れにくかったりするんだろう。
もともと140文字という制約があるから、難しい。
でも、写真や動画なども入れれるし、やり方によってはうまくターゲッティングできると思うのだが、ツイッターだけで広告というのはあまり考えられないのかもしれない。

ディズニーも名乗りをあげていたようだが、ツイッターというと「ネットいじめ」「人種差別」などの温床になっているということもあり、企業イメージとそぐわないということで降りたらしい。
たしかに、140文字で何かを言おうとすると、核心のみになってしまうから、一番言いたいことをズバッと言いがちだ。
だから、過激になるという点ではツイッターはそういう側面を抱えているのは事実。
日本でも「炎上する」というとツイッターが早いし、多いと思う。

しかし、社会に与える影響力が大きいのも事実。
アラブの革命などはツイッターがおおきな影響を与えたのではないか。
140文字という制約があるから、とにかく早く拡散する。

でも、日本ではユーザーは増加率が高い。
2016年の2月のユーザー数は3500万人もいる。
2015年のユーザー増加率は世界一らしい。
この推定理由が面白い。
日本語は140文字で表せる情報が多い、ということだ。

なるほど、アルファベットを使う言語は表音文字だから同じことを伝えるのにも文字数が多くなる。
日本は漢字を使うので、盛り込める情報が多い。
「問題」なら2文字だが、"problem"なら7文字になるからだ。
だから、ツイッターの使いでがあるということだろう。
中国語も情報量は多くなると思うが、中国には中国版ツイッター(ウェイボー)があるらしい。

こういうところで言葉の成り立ちが出てくるのが興味深い。
実際には漢字系にはアルファベットの2倍の情報量がいるのだが、それはコンピューターの文字の扱いが進んで無視できるようになったのだと思う。
昔なら問題になったが、今は全ての文字がコードを割り当てられており、一元的に扱えるからだ。

噂ではソフトバンクが買収するかも、という話。
身売り交渉は10月27日に決まるということだが、本当に決まるのかな…。

| | 考えたこと | 19:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
Fランク化する大学
Fランク化する大学 音真司 小学館新書

著者は15年以上商社に勤務していたサラリーマン。
30代の半ばに仕事の傍ら大学院に行って、博士課程の論文を書くために退職した、という経歴の持ち主。
大学院の6年間で800冊の専門書を読破したとのこと。

その後、5年間の非常勤講師を3つの大学でやったという。
今は大学を辞めて、自身の会社を経営している。
大学教員は輝かしい職業だと思っていた、という。
その経験でこの本を書いた。
ぼくも大学に転職した時には「大学の先生はエライもの」と思っていたから、よくわかる。

Fランクというのは、予備校が大学のランク付けをするために作った言葉だ。
この本にも説明されているが、「Fランク」とは、受ければ誰でも合格する大学、という意味。
Fランク大学というと、ともすればそこにいる学生を侮蔑的にいう風潮があるが、著者はそれを否定する。

「大学を取り巻く「Fランク化」という現象は、学生のみならず、教員にも、大学運営側にも生じていることであり、さらにいえば、社会に通用する人材を育成することが仕事である大学やその教員が、その役目を半ば放棄していることが、諸問題の出発点にあるように思えてならない。」

この先生は正しいと思う。
長くなるが、教師が怒らなくなっている、というところを引用する。

「こんなことがあった。女子比率の高い、首都圏のB大学のことである。初回の講義だった。履修人数は少なく30人程度だった。私はいつものように気合を入れて、この科目の概要を説明していた。全15回の授業で何を話し、どういうことをみんなに理解してほしいのかを話した。その話の次には、前章にも記載したように、私の講義のルールである出席を取らない代わりにメモを出してくださいとか、私語は犯罪であるから厳しく取り締まるよといった解説をしようとしていた。
 ところがその矢先に、何かのきっかけで、ある女子学生が立ち上がって教室を歩き回り、わざわざ友人とハイタッチをした。イエーイ、イエーイといった感じで、無邪気そうではある。私は本気で怒鳴った。
「おい。こら、ふざけるんじゃない!お前だよ、お前!なに、顔を伏せているんだよ!聴きたくないなら出ていけよ!お前なんかに俺の講義を聴いてもらわなくても、こっちは全然構わないんだよ!」
 最初に教室を歩きまわった女子学生を、徹底的に怒鳴りつけた。あとで問題となっても、B大学をクビになっても構わないと思った。たぶん、私は怒りで震えていたと思う。教室は静まり返った。その女子学生と周辺の友人たちは、真っ赤な顔をして、うつむいている。中には驚いて、少し涙ぐんでいる者もいる。年齢の離れた大人が本気で怒ったので、恐さを感じたのかもしれない。
 彼女たちに、みな悪気はないのだ。大学の講義中に、歩きまわって友人とハイタッチをすることが悪いことである認識がない。これは学生本人にも問題はあるが、それと同時に、今までこの学生に携わってきた教員にも問題があるということだ。
 この講義の最後に回収したメモを読んでいて、気づいたことがあった。「先生が怒ってくれて、見ていてスッキリした。あの子たち、いつもうるさくて、でも全然ほかの先生は注意しなくて、いつもモヤモヤして頭に来ていた。」このようなメモが何枚もあった。
 私が怒鳴りつけた学生は、たまたま今回の私の講義だけでうるさかったのではない。この学生はいつもうるさいのだ。そして、これらの学生が毎回騒いでいるときに、教員が注意していない。講義中にハイタッチして歩きまわる学生を、講義の責任者である教員が注意をしない。これは学生もおかしいが、教員もあきらかにおかしい。メモを読んでいて、「Fランク化」しているのは決して学生だけではないと思った。つまり教員も本気で学生を指導しておらず、大学も手をこまねいているということである。」

これとほぼ同じ内容のことを、ぼくも勤めていた大学の企業出身の先生から聞いた。
いい先生だった。
マジメに教育のことを考えている先生は、そういう疑問にいきつくのがFランクの大学だ。

たしかに、学生にも問題はあるが、それを放置する先生がほとんど。
入れた学生を教育する、という視点ならちゃんとやらないといけない。
でも、それを諦めている教員も多い。
非常勤講師なら、給料が安いというのもあるだろう。
でも、せめて高い給料をもらっている専任教員なら、それはやる義務がある。
形式だけであるとしても、彼らが教授会で入学者を決定しているのだから。

こういうことを続けていると、まともな学生は学校不信に陥り、まともでない学生は学校をバカにする。
彼らも心の底ではいいことをしていると思っていないと思う。
でも、そういうことを許すのは、その学校の教師である。
言い方は悪いかもしれないが、教員がどれだけ本気かを「値踏み」している部分もあるんだと思う。
いくら学校の事務局が「私語撲滅キャンペーン」などやっても、教員が本気にならないと効果はない。

しかし、大人数の授業でも私語がない先生もなかにはいる。
その年のベストティーチャーに選ばれた非常勤の先生だった。
倫理学の授業だったが、学生に卑近なテーマから問題を抽出し、毎回質問をなげかけ、学生に考えさせる。
残念ながら次年度他校の専任になってしまったが…。

昔の大学なら、私語をする学生はいなかったし、講義は聴くものだったが、今のFランク大学ではそんなことは無理だ。
そして、専任教員は大教室の授業を避け、非常勤講師が受け持つという悪循環もある。

話はそれたが、この本はそんな中で、熱意を持った非常勤講師が書いた本だ。

最初の授業の前に、前任の教員からの「引き継ぎ会議」というものがあったらしい。
そこでまず洗礼を受ける。
女子学生がキャバクラで働いているとか、そのために講義中は寝るとか、盗難もあるのでトイレに行くときもカバンを持って行ったほうがいいとか…。
「ヨーロッパ」が国の名前だと思っている学生がいるというのもあった。
世界地図がわからないのだ。

これはぼくも在職中に、顔見知りの英語の非常勤教師から言われたことがある。
「ぼくらはアメリカ人だから、世界地理など知らなくても大丈夫だが、君らは日本人だろう。貿易で食っていかないといけないのに、学生は世界の地理がわかってないぞ。今日は国の名前で授業をしたのだが、中近東がアフリカにあることになっていた…」
ほんまかいなと思ったが、複数の専任教員に確認したら、中にはそういう学生もいる、ということだった。
そういう学生を入試で選別して入学させているのが、Fランク大学だ。
でも、中学、高校は何をやってるのか、と思う。

非常勤講師の控室での話で、Fランク化が広く日本の大学で起きているということが語られる。
ぼくの認識も同じだ。
偏差値だけでは語れない劣化があると思う。

さらに、非常勤講師は薄給である事に驚く。
1科目について、2万数千円から3万円というのが相場。
どこに行っても似たようなもの。
文科省の大学院重点化から、大学は博士の量産をしてしまい、いくらでも非常勤講師のなり手がいる、というのが給料が低止まりしている原因。
著者も言っているが、マジメに授業をやろうと思うと準備等を含めて週に7コマ程度が限度。
でも、非常勤講師でずっと年を取ってしまうと、食えないからコマ数を増やす。
そうすると必然的に授業は手抜きになる。
Fランク化にはそういう問題も含まれる。

そして著者はいかに静かに授業を聞かせるか、ということの工夫を書いている。
まず最初の講義に力を入れたという。
毎回最初の講義の時は足が震えたとのこと。

ぼくも先生にどうやっているのか、聞いた。
いろんな方法があるらしいが、ぼくの尊敬する先生は「簡単や。うるさかったらこっちが話すのを止めたらいいんや。そうしたら、スーッと静かになる。」と言っていた。
マジメな先生はみんな独自の方法を持っている。

最悪なのはマイクの音量を大きくし、「そこうるさい」などと言うこと。
大きな声は私語をも大きくする。
そうなると、学級崩壊状態になるようだ。

さらに、教員がマジメにやると学生も熱心に聞くようになる。
前回の授業の最後に集めた学生のメモをもとに、授業の最初にフィードバックをしたりすると、積極的に授業に参加する学生が出てくる。
Fランク化しているというのは、学生だけが原因ではない。
学生は教師が変えることができる。
これは真実。

ぼくが就職支援の仕事をしている時に、ほとんどの科目が「優」という学生が来た。
「君すごいなあ」というと、「私、おかしいと思います。そんなに頑張ってないんです。回りに聞いたらみんな「優」や言うてます。」という。
成績分布をこっそり調べてみたら、「優」が多い授業がたくさんあった。
本来は上位20%程度という成績のはずだが、下手をすると50%が「優」という授業も多い。
だから、優の上の「秀」を作った、という笑えない話もある。
下の方を通そうとすると、上はみんな「優」になる、ということもあるらしい。
単位を出すことありき、で授業をやっているのだ。
あんまり落とすと、教務課に怒られる、ということもあるとのことだった。
前年度大量に落ちると、次年度の教室が足りなくなったりするからだろう。

専任教員の手抜き講義についても書いている。
非常勤講師は評判が悪いと更新してもらえないから、ある意味しっかりやるのだが、専任教員はそんなことはないので、極端に手を抜くものもいるとのこと。
これも真実。
ぼくもたくさん見た。
よくあるのが、ディスカッション型の授業で、ここでも紹介されている。

「学生から聞いた2つの例を紹介する。1つは「講義をしない講義」として有名なものらしい。50人程度の履修者の授業だが、まず教員がはじめに簡単に今日のテーマを話し、その解説を行う。次に50人の学生をいくつかのグループに分け、そのテーマについてディスカッションをさせる。次に各グループから出た意見を発表させる。教員が最後に意見を述べて、講義は終了となる。
 グループによるディスカッションがムダであるとは思わないし、学生に意見を発表させることも大切かもしれない。しかし、それは、ある程度の基本的な講義を行い、学生に基礎的な知識や情報を提供したうえでの話だろう。たとえば3回程度の講義を経たうえで、4回目にディスカッションをするということであれば理解もできる。
 大学で講義を行ったことのある経験者として言わせてもらえば、知識がないままで学生が議論をしても、ほとんど何も出てこない。学生がもとから持っている少ない知識や感覚だけで議論をし、抽象的な空論に終始することになってしまう。
 ちなみに、この講義を受けていた学生に感想を聞いてみたところ「役に立っているとは思わない。だけど、友だちと話してそれで終わりだから、ラクに単位が取れていい」そうである。」

最近よく聞くアクティブラーニングの危険性がこれだろう。
基礎知識も何も無しで議論しても仕方がない。
それは手抜き授業になってしまう。
そこはわかっているんだろうか。

もう1つの例は、専任教員が授業を頻繁に休講して、補講期間にまとめて授業をする、というもの。
実際、朝の9時から夜の7時くらいまでの授業になり、結局3時間くらい講義をしてあとは省略となる。
体のいい授業放棄だろう。
この事例も見たことがある。

専任教員のレベルの低さはなぜ起こるかについても書いている。
結局採用の方法がずさんであり、古い専任教員の縁故が多いからということだ。
手抜き講義を行う専任教員は教育者として最低だが、研究者としてはどうか、ということについても、著者は「素晴らしい研究者は素晴らしい教育者であることが多い」と書いている。
ぼくもそう思う。
まともな人は何をやってもまともなのだ。
「講義に手を抜く教員は研究者としても評価できない」ということだ。

辛口だが、真実をついている。
長くなった。

後半は大学の問題点は何かとか、良い大学の見分け方、大学生活はゼミで決まる、というような内容。

共感するところが多い。
できれば、今の初等、中等教育の問題点についても、突っ込んでほしかった。

そこが解決しないと、大学の問題は解決しないと思う。

ちょっと悲しくなるが、これが現状だという本。

| | | 23:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
AIoT
こないだ発表されたトヨタのコミュニケーションロボットの「キロボミニ」はインターネットとつながったモノだ。
スマホのアプリを経由してインターネットとつなげないと、使えない。
ブルートゥースという近距離の通信と、WiFi、スマートフォンなどのインフラがそろって、はじめてキロボミニが使える。
これこそIoT(モノのインターネット)だろう。

これから出てくるであろう製品は、多かれ少なかれそういう機能を持つものが増える。
そこにAI(人工知能)がひっついて、AIoTという言葉ができた。
作ったのはシャープ。
最近はちょっと調子が悪かったが、ロボット型携帯電話「RoBoHoN」がそのAIoTの一つだという。
たしかに、RoBoHoNは常時インターネットにつながっており、人間とコミュニケーションが可能だ。
キロボミニにスマホを内蔵したようなものになる、というか、RoBoHoNから通信機能を外したものが来ロボミニというべきか。
もちろん、RoBoHoNは自分で動くし、プロジェクタも内蔵しているから、だいぶ高機能。
値段はRoBoHoNが20万ほどで、キロボミニが4万弱だから、それなりになる。

RoBoHoNは人と会話ができるAIと、それがインターネットにつながっているというIoTが結びついている製品、ということだ。
そういう意味ではAmazonがアメリカで販売している据え置き型の「Amazon echo」という製品もそのジャンルになる。
これは、マイクとスピーカーが付いていて、対話しながらインターネットのサービスを使える。
ムリに人間型にしないところが面白い。
アメリカではそちらが行き方が自然なんだろう。
でも、日本ではどうしても「対話する相手」は「人」でなければならない。
モノと会話するなど、味気ないと思ってしまう。
日本では一般的にロボットというと人間型を想像するが、アメリカでは違うんだと思う。

ドイツは元祖IoTの国だが、ボッシュという家電もやっているメーカーが、いろんな家電にWiFiを内蔵した新製品を出したりしている。
冷蔵庫なら、内蔵カメラで中の様子を確認し、野菜がインターネット経由で注文できたりするらしい。
セットしておけば、自動で注文できるようになると、これもAIoTになる。
どこまでいくねん?という感じだ。

2020年代には、本当にいろんなものが人工知能とインターネットを前提で作られるようになるだろう。
いちいち製品に内蔵しなくても、インターネットにつながったらAIが使える。

そうなると、無線LANやセキュリティをよほどしっかりしないといけないだろう。

でも、冷蔵庫が「今日はジャガイモとニンジンとタマネギがありますから、カレーをしてはどうですか?」と喋って、電子レンジが連動して「ではまずジャガイモの皮をむいて…」などと指示する時代が来るんだろうか。
日本は少子化で、働く人を増やさないといけないし、高齢者が増えるから、家事は考えなくてもできるようになることはいいことかもしれない。

まさに2020年代はAIoTの時代になるだろう。

何となく、割り切れないものは残るが…。

| | 考えたこと | 21:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
Leet
最近英語の前置詞である"to"を2で置き換える英語の略語が増えた。

就職関係でよく使われるのがB2B、B2Cというような言葉。
B2Bは企業対企業の仕事で、B2Cは企業対個人の仕事という意味で、BはBusiness、CはConsumerを表している。
ぼくはずっとBtoB、BtoCと書いていたが、ネット上では"to"を2で書く。
こういう略し方は英語で"leet"と呼ばれるらしい。
Wikipediaに載っていた。

それによると、「leet(リート、1337、l33t)は、主に英語圏のパソコン通信や、インターネットの電子掲示板などで使われるラテン文字の表記法である。leet speak(リート・スピーク)とも呼ばれる。
「leet」は、「elite」(エリート)が「eleet」に変化し、さらに語頭の「e」がとれてできた俗語である。日本では「ハッカー語」と呼ばれることがある。」と書いてある。

ラテン文字を使う英語などで、単語の一部を似た発音の文字や形が似ている文字で置き換えたり、そこから一部を取ったりしてできたものらしい。
"leet"が1337になるのは、数字の1や3や7がアルファベットのLやEやTに似ているからだろう。
"to"が数字の2になるのは発音が似ているからだ。
"for"を4で表すというのもある。
"you"を"u"で表すのもありだ。
まあ、覚えてしまうと簡単なのだが、3とEは左右が逆だったりするからわからない。

なぜそんなことをするのかというと、「leet は遊び心で行われる他に、警察や著作関連機関あるいは初心者(ニュービー)などの検索を回避する目的で使われることもある」とある。
主に遊び心なんだろう。
日本でもネットスラングはたくさんあって、その世界にいないとわからない。

leetはハッカー英語とも言うらしい。
ハッカーという言葉も当初は悪い意味だったが、今頃はいい意味でも使われる。
もともと、コンピューターの世界に詳しく、高い技術を持った人という尊称ということだ。

コンピューター犯罪を犯すものを追いかけ、捕まえるためには相手を上回る技術を持っていて、デイスプレイを前にキーボードを叩いて相手の先回りをして、リアルワールドで捕まえるという正義の味方が「ハッカー」という感じ。
英語で言うとかっこいいという意味の"Cool"になるんだろう。

最近のアメリカのドラマにはよく出てくる。
たいがい、ネクタイをしたスーツ姿ではなく、カリフォルニアなら半パンにラフな半袖シャツという感じだし、東海岸でも個性的な格好で描かれる。

ぼくは、そういう少し体制から外れたかっこよさが好きだ。
以前読んだ「ハッカーと画家」を思い出した。

日本でもどんどんそういう意味でのハッカーが生まれてほしい。

| | 英語 | 00:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
懐かしい顔
ぼくは20年ほど前にカブスカウトのお手伝いをした。
5年くらい続けたかな。
子供らがお世話になっていたので、ちゃんと制服を支給されてリーダーをやったのだ。

カブスカウトというと、ボーイスカウトの前段階で、小学校2年から4年まで。
カブ隊は4組あって、一組に2人ずつリーダーがいた。
リーダーは母親が多かったが、何人か父親もいた。
夏はキャンプで泊りの合宿もあって、けっこう大変だった。

今日はその頃小学生だったメンバー2人と会った。
男子と女子1名ずつ。TくんとKさんだ。
ちょっとアンケートを依頼したのだが、本当に懐かしかった。
2人とももう就職して一人前のオトナになっている。

待ち合わせ場所に行くと、まだ誰も来ていなかったが、しばらくしてTくんらしき顔が見えた。
こちらから声をかけて、「Tくん、今日は協力してくれてありがとう」と声をかける。
ちゃんとオトナの話し方で挨拶する。
しばらくしてKさんが自転車で到着。
Kさんには何度か道で会ってはいたが、ちゃんと話をするのはどちらも小学校以来。
彼女はぼくが組の担当でリーダーをしていた、と覚えてくれていた。

小学生の顔が頭の中でだんだんと今の顔になる。
立派になったものだ。

2人を紹介してくれたスカウトの団長のUさんも合流し、喫茶店に行ってアンケートの説明をする。
彼らを見ていて思う。

君らはまだ自分たちは社会人になったところだと思っている。
ここからは時間が経つのが速い。
まだまだ人生はこれからだと思っているうちに30代になる。
結婚して、子どもができる時期。
そして気づいたら中年だ。

そのうちに、ぼくらはいなくなり、君たちの時代が来る。
どこまで見ていられるだろうか。

少年老いやすく学なりがたし 一寸の光陰軽んずべからず。

ぼくはそうしなかったが、君らは毎日を大事に生きていってほしい。

後悔先に立たず…


| | 考えたこと | 21:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
情報は武器
プーチン大統領が、大統領候補のヒラリーと民主党に対してハッカー攻撃をしているらしい。
ロシアには国家支援のハッカーグループがあって、それを使ってサイバー戦をやっているとウォール・ストリート・ジャーナルに書いてあった。

プーチンはトランプが大統領になる方がいいんだろう。
共和党は大のプーチン嫌いばかりなのだが、トランプは違う。
ニュースによると、いろんな国の悪口を言っているトランプが、ロシアに限っては批判したことがなく、「私ならプーチン大統領とうまくやっていける」と言っているらしい。

オランダのハーグ戦略研究センターのサイバー専門家によると、NATOを弱体化させるためにもそうした情報戦をやっているようであり、「彼らにとってハッキングは情報を支配することだ」と言っている。

今のアメリカの大統領選やイギリスのEU離脱の国民投票を見ていると、混乱の時代だと思う。
特に西側の大国であるイギリス、アメリカという国々が二分されているように見えるのは、実際に世代や人種間の格差があるのが原因だとは思うが、ロシアの情報戦が成功しているということもあるのではないかと思ってしまう。

もともとはアメリカCIAの得意とする情報戦だが、サイバー空間に戦場が移ってロシアが優勢になっているように見える。
もちろん、アメリカにはサイバー部隊が軍隊として組織されているようだし、その人たちのスキルは高いんだろうが…。

アメリカで軍事目的で開発されたインターネットだが、民間に開放され、自由に使えるようになった。
それがインフラになり、どんどん世の中を変えているのは事実。
政府のネット化が一番進んでいるのはアメリカだろう。
だからこそ生産性が高く、景気もよくなっているのだが、依存度が上がってくるとそれだけ標的になりやすい。
多くの人が使えば、セキュリティのレベルも危なくなる。
だから脆弱なところを突かれ、ハッキングされる。
そして、情報を取られたり、逆に隠している情報をオープンにされたりする。

アラブの春といわれる革命には、ツイッターやフェイスブックというようなSNSが大きな役割を果たしたと言われている。
それだけ情報は力があるということだ。
だれが、いつ、どこで、どんなことをしようとしている、ということを流すだけで、それを実行したり、阻止したりすることができたりする。

どこかで中国版のツイッターの書き込みの何割かは、政府の工作員だというのもあった。
ツイッターみたいなものは爆発的に広がるし、過激な意見が出がちだから、コントロールしているんだろう。
実際一部のSNSは政府が禁止しているということだ。
情報の恐さを知っているんだろう。

ちゃんとアカウントを取れば、外国からでも扇動的なことも書けるし、批判もできる。
そういう意味では恐いメディアだ。

ベルリンの壁が崩れるとともに冷戦は終わったと思っていたが、もう次が始まっているのかもしれない。

知らぬ間にぼくらも巻き込まれているのかも…。


| | 考えたこと | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
妻はくノ一
妻はくノ一 風野真知雄 角川文庫

再放送でテレビでやっていて、面白そうだったので1〜10巻をまとめ買いして4日間で一気読みした。
まとめ買いといっても、ブックオフで中古で買ったので1冊108円。
1080円でこれだけ楽しめたら安い。

物語は平戸の藩士が1ヶ月の間結婚した相手が幕府のお庭番のくノ一(女忍者)だった、という話。
主人公は天文学を修めた船乗りで、謎解きが好きな男。
妻が忘れられず、若いのだが平戸の家を隠居して江戸に探しに出てきた。
寺子屋の先生をしながら、平戸藩主の屋敷に通っていろいろと事件の謎解きをする、というのが横糸。
それに、幕府の密偵であるくノ一の妻の動向が縦糸となって描かれる。

時代劇としては、江戸時代に平戸から出てきて、標準語で普通に話していたり、こんな言葉は江戸時代に使っていなかったのではないかというようなことがあるが、そんなことは物語の面白さでどうでもいい。
忍者の術など荒唐無稽なものも出て来るが、これもご愛嬌。
要はエンターティメントなのだ。
そう思って読むほうがいい。

読みだしたらやめられない。
毎回のエピソードも面白いが、物語が進むにつれて主人公とくノ一がだんだんと窮地に陥り、どうやってそれを抜け出すのか先が気になる。
だから、どんどん先に行く。
そうなると10巻はあっという間に終わる。

睡眠不足注意。


| | | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
ボーイ・ソプラノ
WOWOWでやっていた。2014年の映画。
ダスティン・ホフマンが国立少年合唱団の指揮者役で主演している。
この人も年をとって、何となく暗い過去があるが、いい指揮者の役が板についてできるようになった。

言われてみれば当たり前のことだが、男子には声変わりがあってボーイ・ソプラノという声は人生でほんの短い間しか出ない声だ。
だからこそ、素晴らしいのかもしれない。
映画の中では、「ボーイ・ソプラノという声はほんのつかの間、神様から借りる声だ」と言われる。
ある日突然声変わりで、その声が出なくなった場面でのこと。
それまでの短い間の声をきつい練習で鍛える。

声変わりしてアルトに転向するものもいるが、うまくいくとは限らない。
そういうものなのだろう。

ストーリーは、飲んだくれのシングルマザーに育てられていた不良少年が、親の突然の死で本当の父親に出会い、通っていた学校の先生から国立少年合唱団に推薦され、成功するまでを描く。
お金は出すが、隠し子として家族には隠しておこうとしていた父親も、最後は認めて迎え入れる。
不良少年のサクセスストーリーとしてはありきたりのもの。

でも、声が素晴らしい。
ふつうのハイトーンで出すDの音(レ)の1オクターブ上の音を出す。
選ばれたソリストしか出せない音だ。

見事に演奏会でソリストになったが、声変わりをして、合唱団を去っていく。

少年合唱団のはかなさがよくわかった。

だから、少女ではなく、少年なんだろう。


| | 映画・舞台 | 21:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
減る一般入試
大学ジャーナルオンラインによると、2016年の入試において、私立大学では半分以上の入学者が一般入試以外のAOや推薦入試を経て大学に入学した、ということだ。

詳細データーは、一般入試での入学率が国公立では81.1%、私立大学では49.1%ということだ。
私立大学でも理系では5割を超えているとのことだから、理系以外の学部では49.1%よりももっと低くなる。

偏差値という序列があるが、それはあくまで一般入試だけのことであり、推薦やAOは入っていない。
偏差値を上げるためには、一般入試で合格する受験生を減らせばいいから、うがった(当然の?)見方をすれば、推薦・AOでなるべく多く入学させればいいということになる。

よく大学を選ぶ時に偏差値を気にするが、どれだけの人が一般入試で入っているかということも気にしないといけない。
今やっている推薦やAOという入試で多くの受験生を取っている大学は、いくら偏差値が高くても、実際に入学者全体の偏差値をとると低くなる。
それが極端だと、せっかく一般入試で入っても、レベルの低い授業を受けないといけなくなったりする。

本来の学校としては、入試でレベルの揃った入学者をそろえるのが理想的。
そうすると、教育の効率が上がる。
一般入試の比率が下がると、学力のバラツキが大きくなる。

そういう大学では入学後、英語のプレースメントテストというのをやって、英語の授業のクラス分けをしている。
本来なら入試の英語の点数でみればいいのだが、なぜ入学後全員揃ってやるかということだ。
AOや推薦で入った学生のレベルがわからないからだ。

教育の効率というと、あまりいい言葉に聞こえないが、要はできる学生のやる気をそがず、できない学生を諦めさせないということだ。
英語については、あまりにクラスの中のばらつきが大きいと、上に合わすと下の学生が全く着いてこられずやる気をなくすし、下に合わすと上の学生がやる気をなくすし、真ん中に合わすとどっちつかずになる、ということになる。
実際、2ちゃんねるなどの掲示板に学校ごとのスレッドが出ているが、英語の授業などについては苦情が多い。
だからこそ、入学後にプレースメントテストをやる。
同じようなレベルの人を集めて、それなりの授業をしないと、落ちこぼれが出たり、簡単すぎてやってられない、という学生が出てくる。
そのことを見ても、プレースメントテストをやっている大学の入試の意味がないことがよくわかるだろう。

今の入試改革の方向は、AOなど主観的な評価を増やそうというもの。
本当にそれでいいのだろうか。
AO入試は本当にマジメに大学が高校を訪問して「こういう学生がほしい」ということを伝え、高校もそこをちゃんと押さえて評価し、本当に学力とやる気がある学生を出せればいいと思う。
でも、今の中下位の大学や高校のやっていることを見ていると、あまり期待は持てない。
こないだも書いたが、主観的な評価はバラツキが大きく、信用できないと思う。

文科省の役人は0.1点に泣く受験生を問題視しているが、あくまで客観的な点数で評価されて、そこで0.1点低いということは厳然たる事実。
それが面接点で試験官の主観的な評価で落とされたら、それこそ納得できないだろう。
いくらすり合わせをしても、面接官の印象でどうにでもなる面接試験などあてにならない。

ぼくは去年、資格試験で面接のロールプレイの試験を受けたが、あれは試験管の考えでどうにでもなると思う。
たった20分程度の試験で、そんなに正確にわかるわけがない。

ぼくは客観テストを主体にするべきだと思う。
そうでないと、大学までイエスマンを育てる教育になってしまうような気がする。




| | 考えたこと | 21:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
誰もがカメラマンの時代
こないだテレビでサムソンの電池のクレームのニュースを見ていたら、いろんな動画や写真が投稿されている。
一番びっくりしたのは、アメリカで店で買物をしようとしていた男性が、いきなりポケットから火が出て、あわててスマホを投げ出しても火が消えずズボンを叩いていたもの。
クルマの中に置いていて、車ごと燃えたというのもあった。
それ以外にも焼けただれた本体などのリアルな写真が山ほどあるらしい。

ポケットから火が出る動画は、燃え始めてから撮ったのだろう。
いつもスマホで写真や動画を撮っている人はそれだけ素早く撮影できるということだ。

実際の発生率はどうだったのかわからないが、あの動画を見たら誰でも怖くなる。
なんせポケットから突然火が出て燃えるのだから、シャレにならない。

メーカーにとってはつくづく恐い時代になった。
どこにでもカメラマンがいて、動画が撮れる時代。
昔なら、言葉でしか伝わらないことも、動画で伝わってしまう。
あれこそ、百聞は一見に如かず、ということだ。
クレームなどは、本当に発生した場面がそのまま伝わってしまう。

でも、実際の発生率以上に恐怖感を煽ってしまう。
ああいう動画が出回って、サムソンは早々に生産中止を決めた。
あの発生場面を見たら、少々対策をしても誰も買う気にならない。

ものを作っている人たちにとっては、本当にこわい時代になった。

もともとあってはならないことだが、ミスができなくなったなあ。


| | 考えたこと | 22:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
死後のSNS
最近、老いも若きもフェイスブックでたくさん友だちを作り、日々の食事を紹介したり、イベントを伝えている人は多い。
そういうものだから、それでいいとも思う。

しかし、この年になると、島倉千代子の歌ではないが人生にはいろいろあることがわかる。
公開、いや後悔先に立たずという言葉もある。
あとで「何でこんなことしたんだろう」ということもまれにはある。
特にヘビーユーザーになると、フェイスブックの投稿が人生の軌跡みたいなものになるだろうから、悩ましいだろうと想像する。

そういう時にどうなるのか、ということをついつい考えてしまう。
自分が死んだら自分の情報は全部消えるんだろうか?
こういう時に無料で始められるものは困る。
有料のサービスはお金を払わないと消える仕組みになっているが、無料だと死んだことすらわからない。ほとんどの人はフェイスブックのポリシーや利用上の注意など熟読していないだろう。

と思っていると、フェイスブックの死後の扱いについて書いた記事があった。
それによると、

「まず、アカウント所有者は事前に”追悼アカウント管理人”といういわばアカウントの相続人を指定できる。相続人となった人物は、ユーザー本人の遺言の投稿、友達リクエストの対応、プロフィール・カバー画像の変更などを行える。追悼アカウント管理人がアカウントに対してできる事項は、フェイスブックに死亡証明書を送付することで通知を受けることができる。

アカウントを追悼アカウントにすることもできる。家族や友人がフェイスブックに所有者本人の死亡を伝えると、アカウントは追悼アカウントに移行し、本人のプロフィール閲覧とコメント投稿が許可されている友達以外はアカウントにログインできなくなる。

あるいは完全に削除することも可能だ。フェイスブック自体は削除された全プロフィールの情報をそれ以降も保管するが、削除前に公開情報のアーカイブ化を許可された追悼アカウント管理人を除き、それが他人に公開されることはない。」

ということらしい。

要は、自分が生きている間に追悼アカウントの管理人を決めておけばいいということになる。
それを誰にするのか、ということは問題だが…。
その人が、死亡を証明する書類をサーバーに置いて、リンクを送ることになる。
ということは、アカウント管理人はやっぱり親族になるだろうなあ。

葬儀に来れなかった人が追悼アカウントにコメントしたりするようになるんだろう。
そのうち、何らかの死後のビジネスとひっつきそうな気がするが…。

それがダメなら、もうぼちぼち死にそうです、という投稿をして、自分でアカウントを削除するというのが良さそうな気がする。
というか、アカウントのパスワードを誰かに教えて、その人に削除してもらえばいいのだ。

しかし、注意しないといけないのは、死後もアカウント情報はフェイスブックという企業には残るということだ。
これは利用開始時に同意しているらしい。
まあ、そんな文書があったかどうかなど、気にしていないだろうが…。

何となく、自分の情報を死後も保持されて、それが気持ち悪い、という人は死ぬ前にアカウント情報を書き換えてから削除すればいいとネットに書いてあった。
なるほど、自分の名前を「ドラえもん」か何かに書き換えておけば、死後自分とはわからない。

フェイスブックが、登録時の名前を保持していなければ、という話だが…。

グーグルも死んだ後も情報を持つということらしい。
こちらは、追悼アカウントなどはなく、死後本人以外が管理するのは難しくなるので、生きている間に「アカウント無効化管理ツール」というのを使って死後のアカウントの処理について設定するらしい。
こちらは近親者以外でも、死後の連絡先を通知することができる。
でも、不慮の事故などで死ぬと、ややこしいだろう。

まだまだメジャーな問題にならないが、身辺をキレイにして亡くなりたいという人は、そんなことも考えておかないといけないぞ。

| | 考えたこと | 22:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
波平批判
ノリスケに続いて、サザエさんの父親の波平が作品中で批判されたらしい。
ヤフーニュースに載っていた。

内容は、波平が長男のカツオに厳しく、カツオの友だちや末っ子のワカメには優しいという不公平を扱ったもの。
カツオが一計を案じ、ワカメに汚れた足で廊下を歩かせ、案の定波平がカツオを怒ると、カツオが確かめもせずに自分を怒ると文句を言う。それでも波平が「ワシを責める前に、怒られるようなことをせんようにするのが先だ」とカツオの主張を一蹴するという話。

ぼくらサザエさんの40年越しのベテランは、そんなものだと思って見てしまう。
普段からカツオはいろいろあるし、当然といえば当然だと思うのだ。

まだ学生の時、落研の先輩がサザエさんを見ていて「ペーソスあるなあ」と言った。
笑いの中に、なんとも言えない哀れさがある、ということだ。
世の中は不条理なものだ。
それはみんながわかっていることだった。

その不条理がアタリマエのことだという感覚が、時代が進むに連れて、どんどんなくなっていったと思う。
社会の不条理に対する許容度が下がったのだ。
特にインターネットで匿名で意見を表明できるようになってからは、それが助長された。
最近はサザエさんが非難の対象になることも多い。
少しでも不条理なら、非難する。
それだけたくさんの人に共有されているということだろうが…。
実生活では口に出して言えないことでも、言えてしまう。
それが余計に非難の気持ちを増幅させる。

社会があまりにも公平、平等を目指し、個性は尊重されるべきという姿勢が、不条理を許さないのかもしれない。
ぼくらの世代は、そんなことは建て前ではわかっていても、世の中は不条理なものだということを身体で覚えたような気がする。
体罰はあったし、親や先生はいくら間違ったことを言っても聞いた。
たしかに陰で文句は言ったが、インターネットなどなかったから、それで終わりだった。

時代は進んだが、世の中が不条理なのは変わらない。
コンプライアンスなどは厳しくなったが、どうしたって不条理なのだと思う。
そんな中で、サザエさんを非難するようなメンタリティでは生きにくいだろう。
うらみ・つらみばかりになってしまうのではないか。

何となく、そう思う。

そういう意見がネットに出ると、ついつい「頑張れ波平」と声をかけたくなる。

若い人たちはそれで生きやすくなっているんだろうか。

| | 考えたこと | 20:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
ネット広告
日本ではインターネットの広告というのはまだまだ発展途上らしい。
こないだ、電通などが広告の不正があったらしく、謝罪をしていた。

どういう不正なのかと調べると、最近増えている「オークション形式」の広告というのがあり、それはネット広告の配信状況を見ながら常に入札価格を変えていき、予算に応じて頻度や期間を総合的に考えながら広告を打つ、という方式のものが対象らしい。
電通が広告主から予算をもらって、その広告を配信するのだが、オークション形式なので価格が変動し、担当者がうまく配信ができずに終わってしまったということらしい。
効果のあるサイトに広告を出そうとしたら、オークションで価格がどんどん高くなり、予定数の広告ができなくなったということだろうと思う。
おそらく、海外では広告主が自分でコントロールするのだろうが、日本ではそこを電通のような広告代理店が代行している、ということだ。
オークション形式の広告など、おそらく代理店ではちゃんとはできないだろう。

海の向こうのグーグルなどは、それをコンピューターでやっている。
そこをどうも日本では人海戦術でやっているらしい。
不幸にもそこの担当がクリスマスに投身自殺した女性だった。

何でも、今回不正が発覚したのが広告主であるトヨタからの指摘だったということだ。
さすがトヨタではこういう広告を出したら、これだけのレスポンスがある、という予測をしていたと思われる。
それが達成できず、オカシイということになって指摘したらしい。

実際、全てのネット配信を見ることは不可能だ。
ターゲッティングといって、「ユーザーが男性で中年」というようなプロファイルに基いて広告するのだから、それを全て確認するのは難しい。
逆に言うと、それがネット広告のメリットだから、総広告費は安くなる。
でも、グーグルのネット広告ならそれらを統計的に調べるソフトが出ていて、広告主がそれを確認しながらオークションに参加出来るというようなソフトも提供されている。

そもそも、代理店に予算をつけて依頼するような仕事ではないとグーグルは思っているのだろう。
代理店がマージンを取ってコストが上がるのはもったいない。
オークションというのはオープンな競争であり、閉じた世界での談合は効かないからだ。

結局、こういうゲームは仕組みを作ったほうが勝ちというようなもので、そこにあとから参加するというのは苦しいんだろう。
電通の得意なメディアは新聞や雑誌、テレビ、ラジオなどの宣伝であって、ネットの広告は不得意にならざるを得ない。
というか、グーグルに言わせれば、何でその仕事を代理店にやらせるのか?という感じだろう。

グーグルの宣伝案内のサイトをいくつか見てみたが、とにかくカタカナが多い。
こんな感じだ。

「検索キャンペーンのオークション分析レポートでは、6 種類のデータ(インプレッション シェア、平均掲載順位、重複率、上位掲載率、ページ上部表示率、優位表示シェア)が表示されます。キーワードや広告グループ、キャンペーンのレポートを作成できる(選択した期間における掲載データの量が最低基準を満たしている場合)ほか、期間やデバイスでデータを分割することもできます。」

こういう説明が山ほどある。
これらの仕組みを理解するには、統計や数学の知識は不可欠だろう。

今回、労働局も入って電通の内部調査が行われるとのことだが、ごく一部の若い人にこういう業務が投げられていたんだと想像する。

こういう不祥事が続けば、ネット広告は自社でするという会社が増えてくるだろう。
ここでも、インターネットの「中抜き」が行われ、「広告代理店」という中間マージンがなくなっていく。

これからの社会、代理店、というのは苦しくなってくるだろうなあ。



| | 考えたこと | 19:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
譜面を書く
ジャズギタリストのハーブ・エリスが演奏する、"Blue Moon"という曲のソロの譜面にした。
譜面などほとんど書いたことがないが、やはり好きなフレーズを弾こうと思うとどうしても譜面にしないとムリだということで書いた。
昔は五線紙に書いたのだが、今回は無料のソフトを使う。
マウスで音符を貼り付けていくというもの。
無料のソフトだからちょっと使い勝手は悪いが、それでもありがたい。

やってみると譜面というのは本当に不完全なものだと思う。
ギターのように、弦を指で押して1/4音ほど音程を変えたりするというのは、そもそも書く仕組みがない。
音の高さと鳴らすタイミングは音符で示されるが、同じ音符でも実際どれだけ音が出ているかは正確ではない。
ちょうど1/4拍音が出ると4分音符ということになるが、ギターの場合な弦をはじいて音をだすので、どこまで鳴っているかは演奏する方もわからない。
演奏を聞いて、適当な休符を入れることになる。
音の強さもフォルテとかいう記号で書けるが、それが実際どれくらいの強さなのかはわからない。
スライドして音の高さを変えたりすると、その2つの音が16分音符2個なのか、付点16分音符と32分音符なのかははっきりしない。

結局は譜面を元にして演奏を聞き、それで感じをつかむということだ。
特にジャズの場合は、リズムが跳ねているので、最初にそんな風に宣言する。
だから、譜面だけを見ても、なかなか元の演奏は再現できない。
その時の演奏は、その場限りのものだ。
それはどんな音楽も同じだろうが…。

現実を紙に書いて表す、というのはそういう作業だろう。
きれいな夕焼けを見て、それを文章や詩で表そうとしたり、絵に描こうとしたりするのと同じようなものだ。
いつも、現実は紙に書いている間に逃げてしまう。
それでも、何らかの手がかりを残したいために紙に残す。
それが譜面であったり、文章であったり、絵であったりするのだろう。

文明が進んで今なら録音もできるし、写真や動画も撮れる。

それでも、紙の便利さには勝てない。
音や写真などの持っている情報量と、紙の情報量は比べものにならない。
圧倒的に紙に書いたもののほうが少ない。

時に天才が現れ、がいたものの方が現実よりも感動を与えることがある。
それらのものが残っているから、なかなかやめられない。

絵や文章ならそれもあるだろうが、でも譜面だけはやっぱり現実には勝てない。

譜面を書きながらそんなことを考えた。

| | 考えたこと | 22:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
アパレルの将来
ウソか本当かわからないが、IoT(モノのインターネット)の技術が浸透してくると業界のあり方も変わってくるかもしれない。
ユニクロの柳井会長兼社長は、2020年にスマホのアプリをインターフェイスにして、「お客様が柄、素材、サイズなどの選択肢の中から魅力的な組み合わせの服を選べる「セミオーダーメイド感覚」の販売方式を始める」と記事で言っている。

IoTの目的は、メーカーが作ったものを売るのではなく、ユーザーが自分の好きなように選んでその体験も含めて買うという形にできる、ということだろう。
スマホで選択肢を選んで、それをインターネットで工程に伝え、それを集めてくる仕組みを備えた工場が作れるということだ。

アパレル業界は縮小している。
業界の現状と課題によると、

「一言でいうと、残念ながら”日本は成長市場ではなくなってしまった“と言えるでしょう。過去10年くらいの推移を見てみると、市場規模は11兆円から8兆7千億円へと7%も縮小しています。その間、服の生産数は7億万枚増え、現在は40億万枚が市場に出回っています。みなさんもお分かりの通り、ファストファッションの参入が原因です。市場の40%のシェアをファストファッションが占めており、単価の減少を販売枚数で補っている市場構造になっています」

少子高齢化と人口減少が起こるからどうしようもない。
将来不安からみんな高いものは敬遠し、安くてそこそこのファストファッションがシェアを伸ばしている。
高いものはなかなか売れないのだ。
たくさんのブランドを持つオンワードが、中流の上を狙って失敗し、店舗の整理をしたのが象徴的。

IMFの推定でも、日本の成長率はダントツに低く、ゼロ成長に近い。
それを受け入れて、国内市場でやっていかなくてはならないのだ。
だから、アパレルも差別化が必要だし、日用品でもあるが嗜好品でもあるというところを生かして、自分の服を作るという体験も含めた「買い物体験」が必要なんだろう。

ユニクロの戦略はよくわかる。
服を作るところも一緒にやっているから、カスタマイズ生産をやりやすい。
問題は本当にそれができるのか、できるとしてもリーズナブルな価格でできるのか、というところだろう。
今までのように、中国で生産できるんだろうか。

スマホとインターネットというインフラができて、注文する方は簡単になった。
しかし安いコストで素材や柄やサイズを作る仕組みは、どこまで安く作れるんだろう。
素材や柄に注文したユーザーのタグを付けて、ラインを流し、加工する時にそのユーザーのサイズに合わせて加工するという仕組みは、きっと作ることができるだろう。
あとはどれだけ安く、人の手を介さずに作れるかということだ。

そういう製造ラインを作るコストも安くなってくる。
IoTが進むということはそういうことだろう。

これからはものを売るだけでなく、体験を売る時代になってくる。
それがユニクロの戦略だ。

勝ち組のアパレルメーカーはそういう仕組みづくりに進むのかもしれない。
そしてそれを輸出するのだ。

| | 考えたこと | 22:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
SMAPもサラリーマン
時々ネットのニュースでジャニーズ事務所の記事を見るのだが、ここはご存知のように同族経営の中小企業という感じだ。
記事のなかには、SMAPの仲間割れに端を発して、事務所のタレントの誰が初代社長寄りとか、誰が副社長に気に入られているとか、そういうものもある。
SMAPの解散を国民的スターの解散騒動という目で見るとよくわからないことが多いが、同族経営の社長一族対生え抜きの社員という構図で見るとわかりやすい。
もともと彼らが解散という状態になったのは、同族会社の継承問題があったからだ。

要は社長一派と優秀な社員(SMAPのマネージャー)の争いが元ということだ。
ただ単にそれだけなら独立してオシマイだったのだが、同族経営がうまくいっており、関連の業界で強力な寡占状態になっていることが独立を妨げた。
今やテレビ局はジャニーズ事務所の気に入らない事をすると、歌番組どころかドラマなども制作に困るという。
だから、独立したら仕事がないという状態になるぞ、という脅しが効く。
そうなると、いくら国民的スターといえども躊躇することになる。
それが今年の1月の状態だった。

SMAPのメンバーにもいろいろと思いがある。
育ててくれたマネージャーを慕って5人揃ってついていけば、どうなっただろうか。
サラリーマンには常に辞める自由はあるからだ。
自分たちの人気が高ければ高いほど、ファンが後押ししてくれて、独立の成功率は高まる。

しかし、家庭を持っているキムタクが社長一派の要望で残留を決め、他のメンバーを説得した。
一説によると妻の意見に従ったということらしい。
そこで決定的にメンバー間に溝ができた。
それが今回解散、という結論になった(ということになっているが、真相は不明)。
でも、解散に反対するファンは多く、ツイッター上にはたくさんのファンの声が出ている。

強い事務所の中に、社長一族に気に入られている社員(タレント)と、どちらかというとその体制に反旗を翻したい社員に分かれてきているらしい。
もちろん後者は少数派だろう。
これが普通の会社なら、出ていった人たちに対してあからさまな妨害はできないが、商品がタレントで、そのタレントを番組に出すか出さないかということだから、難しい。

今年の暮には解散ということだ。
キムタクの人気は下降気味で、来年予定されている主演ドラマの相手役の女優がなかなか決まらないとのこと。
まあ、この記事もどういった経緯で書かれているのかはわからないが。

そういう図式で見ると、世の多くのサラリーマンはSMAPは独立してベンチャーを立ち上げ、そこで頑張ってほしいと思ってしまう。
寄らば大樹の陰、というのはアイドルにふさわしくない(と勝手に思う)。
そういうファンがキムタクをよく思わない。
悪いのは事務所なのだが…。

ぼくはよくはわからないが、女性のアイドル団体であるAKB48にはそんな感じはない。
卒業とかいって、独立していく。
AKB48の主体には、事務所を作って独占的にタレントを管理するという考えはないらしい。
メンバーはオファーがあった事務所に所属していき、独立も容易らしい。

これを見ると、ジャニーズは日本的なサラリーマンの体制であり、同族経営の中で長期的な雇用を狙っていて、AKBは自主独立の個人商店という感じがする。
いったんジャニーズに入って売れてしまったら、なかなか抜けられないだろう。

何となく、今の男子と女子の生き方の違いがそこに現れているような気がする。

世の中としては、強すぎるジャニーズの弊害を取り除く方向で進むような気がするのだが、それにどれだけの時間がかかるのか、わからない。

SMAPがその起爆剤になりそうなのだが…。

この問題も、働き方改革の一環になっているのかもしれない。


| | 考えたこと | 20:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
恐いバッテリー
サムソンの新しいスマホが電池のトラブルでリコールされている。
ぼくの使っていたパソコンも電池のリコールがあった。
いずれも最悪の場合、放置していると発火するという内容だった。

こないだ元の会社の先輩と、リチウムイオン電池の進歩が早くて、燃料電池の時代が来るんだろうかという話をしていた。
その時に先輩の一人が、「最近のバッテリーはよく持つようになって、すごく便利になったけどあれもよく考えたら恐い話や」という。
その先輩は物理学科卒だが、「リチウムイオン電池はそれだけ高いエネルギー密度を持っているわけだから、よく考えたら爆弾を持って歩いているのと同じだ」という。
なるほど、よく考えたらそうなのだ。
長持ちするということは、小さな中にたくさんのエネルギーを蓄えているということだから、扱い方を誤ると危ないという物理的真実がある。

実際、リチウムイオン電池に関する記事によると、「もし、世の中のリチウムイオンバッテリーが陽極・陰極・電解液・絶縁体を軽く包装した程度で作られていたら、それは充電池ではなく時限爆弾でしょう。」と書いてあった。

過充電すると、かなりの確率で燃えたり爆発したりするらしい。
また、満充電状態でショートさせても、危ない。
それだけ電気エネルギーを貯めているのだ。

そのために、電池には充電制御機構が入っている。
容量が大きいほど、制御機構をちゃんとしないといけないから、値段が高くなる。
でも、コスト競争があって、そこを間違うとサムソンみたいな事故が起こる。

おまけに、リチウムイオン電池は電池が減ったということがわかりにくい。
使っているうちにだんだんと電圧や電流が下がれば、充電しないといけないという時期はわかるが、そんな変化がほとんどない。
それがメリットでもあるのだが、逆にそのために電池の充電状態がわからないから恐ろしい。

いろんな機器でリチウムイオン電池が使われており、それにしたがって事故やリコールも増えている。

技術者泣かせの電池らしい。

それでも、当分はこの電池が増え続け、今まで電池では使えなかった機器もだんだんとリチウムイオン電池になっていく。

そういえば、ぼくのワイヤレスのヘッドフォンも充電式だ。
ネットで安いのを買ったのだが、あれもリチウムイオン電池だろう。
あれが耳もとで発火したらエライことだなあ。

注意しないといけないぞ。

| | 考えたこと | 21:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
CDのミヤコ
家の近所のモールにあるCDショップがこの夏に閉店した。
ミヤコという名前。
調べてみると、楽天で通販ショップを出しているが、実店舗は京阪神に7店ほど。
本社は大阪にある。

音楽というと、昔はレコード屋さんだった。
小遣いをもらうと、それを持ってレコード屋に行ったことを思い出す。
シングル盤一枚買うのにも、だいぶ時間がかかった。
どれがいいか、と思いつつ選ぶ。
当時のレコードはなかなか捨てられない。

それがCDに変わったり、レンタルショップに変わったりした。
今やそういう店舗は苦しい経営になっている。
どこで買っても同じものは、通販で買う人が増えたからだ。
そういうぼくも、ここ数年CDはアマゾンで注文している。

近所のモールは主に3つのビルでできているが、生鮮食料品や日用品の売り場以外は苦しいと思う。
近々、専門店街はマンションに改装されて、店舗はなくなるという噂も聞いた。
そういえば、店舗が空いているところも増え、その代わりにできてるのは、いつでもやめられるようなリサイクルショップだ。

昔子どもを連れてよく行った屋上はなくなったし、食堂も減った。
その代わりに1階にコンビニができている。
よく行っていた喫茶店も閉店した。
今は踏切を渡って、ドトールまで行かないといけない。

これじゃあデフレになるわけだと思う。
みんなお金を使わない。

Wikipediaによると「日本レコード商業組合加盟店舗数は1992年(平成4年)の約3200店をピークに、2010年には約700店まで減少した」とのこと。
実にピーク時の3/4が閉店している。
同じようにCDレンタルの店舗も減っているのが実情。

これからはモノだけを売っていたらダメだろうと思う。
モノ+アルファの何かが必要だ。
そこに行けば何かがあるとか、仲間がいるとか、実際に自分も何かの体験ができるとか…。
そうでなければ、アマゾンに負けてしまう。

自分が加担しているとはいえ、実店舗が減るとなんか寂しくなる。

21世紀の小売業はどうなっていくんだろうか。

| | 考えたこと | 21:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロング・トレイル
ロバート・レッドフォード主演の映画。
ニック・ノルティが助演でいい味を出している。

1936年生まれのロバート・レッドフォードはもう80歳になる。
若い頃の面影はもうない。
「明日に向かって撃て」でサンダンス・キッドの役をしたのが1969年。
ぼくがそれを見たのは、3本立ての映画館で、封切りから1,2年後だった。

その後何本か主演作を見たが、今回は本当に年をとったと思った。
そういうオジンの映画だから、それでいいのだが…。

役柄は年老いた旅行作家。
もう引退と思っていたが、アパラチア山脈の縦断であるアパラチアン・トレイルを思い立つ。
全体の距離は3500キロ。
妻は一人で行くのはダメだという。
電話をかけまくったが、友人は誰も行かない。
みんなに断られた時に、電話をかけていない友人から電話があり、オレと一緒に行こうという。
若い頃一緒に旅したことはあったが、かなり年をとっており、無理かと思っていたが二人で行くことになる。
そして、山道を歩き始める…、というストーリー。
さすがに、3500キロのトレイルだから、途中町にも泊まる。
アメリカは広い。
毎年2000人ほどが挑戦し、成功するのは10%程度らしい。
この2人もいろいろなトラブルに見舞われ、それを乗り越えていくのだが…。

こういうロードムービー(旅の物語)はいい。
友人役のニック・ノルティはまだ75歳だが、ちょっと太っていて、顔のしわは少ないが、レッドフォードよりは歩くのがしんどそうだ。
本当に山道を歩いているのだが、見ていて心配になる。

人生という旅は、いくつになっても続くという希望が持てる。

最後に主人公がワープロを前に、"A Walk in the Woods"と打つ。
ずっとこの旅の本は書かないと言っていたが、きっと思うところがあったんだろう。

そういう映画。

あの二枚目のレッドフォードも年をとる。
年を取ってもスタイルを維持しているし、元気だ。
でも、80歳。

老いということについて考えさせられる映画だった。


| | 映画・舞台 | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
セキュリティもIoT
最近のアメリカのアクション系の映画やドラマを見ると、いとも簡単に街頭やハイウェイに設置されているカメラなどをハッキングして犯人(警察の場合もある)の行動をたどるというような場面に出くわす。
実際はそんなに簡単にできるものではなく、シナリオの構成上、そうしているのだろうと思っていたが、そうでもないらしい。

もちろん、街頭の監視カメラなどはインターネットとつながることでコストを下げ、便利になった。
それは必然だろう。
でも、それらがインターネットにつながることで、悪意のあるハッカーたちが攻撃する対象が増える。
カメラを設置する側は、いちいちカメラにややこしいパスワードなどを設定しないことが多い。
それを悪用して、攻撃するということが起こっているらしい。

自分のコンピューターには細心の注意をしてハッキングから守ろうとするが、単なるウェブカメラならついつい手を抜いてしまう。
つなげて、それでOKということになるのだろう。

アメリカのセキュリティ情報サイトによると、あるサイトを攻撃するために、そこへのアクセスを集中させ、ダウンさせてしまうというDDoS攻撃で防犯カメラなどが使われたということらしい。
いろんなものがインターネットにつながる時代。それがIoT(Interenet of Things)だ。

防犯カメラなどは本当に便利になった。
LAN上に設置すれば、パソコンがあれば画像が見られる。
それが防犯カメラが増えた要因でもある。
ただ、それを設置するときのパスワード設定を怠ると、そこを利用される。
犯人は防犯カメラなどの初期設定でのパスワードを知っていて、それで入れるところを探すらしい。

そういえば、ちょっと前にインターネットにつながるテレビがそういう攻撃に使われたこともあった。
使う方も、そんな意識をせずに使っている。
ウチも一台無線LANでつないでいる。
電気屋さんが来て、勝手に設定したりすると、意識もせずにインターネットにつながってるという設定になるなあ。

パソコンだけでなく、どんどんインターネットにつながるモノが増えている。
それが、生活を便利にしているのは事実。
しかし、その裏をかいて悪意を持ってそれらを悪用するハッカーもいる。

しかし、これだけインターネット依存が大きくなると、戦争初期にサイバー攻撃というのも実効性を持つだろう。
政府や軍の通信などは確保される(と思いたい)としても、民間の生活がストップするから、大混乱になる。
パソコンを立ち上げても、インターネットに繋がらず、メールも見られないとなると、ややこしい。
企業が持っているいろんなデーターベースもつながらないと仕事にならない。
交通信号もおかしくなるし、鉄道の改札なども通れなくなったりする。
ATMも使えなくなるかもしれない。
要するに、日常生活が回らなくなる。
テレビ局や新聞もネット依存しているから、報道ができなくなるかもしれない。
情報も遮断されるということだ。
この一撃は大きいだろう。

とりあえず、ネットにつながるものを設置したら、何でもいいからパスワードを変えることだ。
それしか対策はない。

何かもっと安全なものは作られないんだろうか。

| | 考えたこと | 22:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
時代劇のメリット
最近、また細々だが、スポットで時代劇が作られるようになってきた。
山本周五郎、藤沢周平、池波正太郎など、いくらでも原作はあるからネタには困らない。
中高年がバカバカしいバラエティから回帰してきたのかもしれない。

地上波でなくBSの放送ではたくさん時代劇の再放送もある。
「必殺シリーズ」や「江戸を斬る」「剣客商売」など、古い人にはおなじみのものだ。
さらに、ケーブルテレビなら時代劇専門チャンネルというのあって、これは朝からずっと時代劇をやっている。
最近オンデマンドもやりだして、鬼平犯科帳を全話見放題というコースもある。
さすがに、もうだいたいのものは見たが、いつ見ても鬼平と密偵のハードボイルドさに感激する。

今になって再放送というのは、時代劇ならではのメリットがあるからだろう。
時代が変わっても、古くならないのだ。
ぼくが中学のころにやっていた「遠山の金さん捕物帳」を見ても、古いとは思わない。
中村梅之助が若いとは思うが、もともと江戸時代のドラマだから古さはない。
あまりにも古いものは、ドラマの展開が遅いとかいう違和感はある。
でも、ぼくが中学時代くらいのものなら大丈夫。
当時見ていたという贔屓目もあるかもしれないが…。

一方で、ちょっと前の現代のサスペンスやホームドラマは苦しい。
いかにも古いのだ。
その原因は服装であったり、小道具であったりするが、見ていて陳腐な感じがする。
その当時、時代の最先端であったもののメッキが剥げた感じだ。
流行というのは恐ろしい。

その時に最先端であればあるほど古く感じるのはなぜだろう。
今の格好をした人が折りたたみ式の携帯電話を使っていても古くは感じないが、その当時の若い俳優がいかにも新しいという感じで携帯電話を取り出すと、やっぱり古い。
その当時、トレンディであったものは、時間の流れに勝てない。

その「モノ」が古くなるのではなく、それらを使ったり着たりしている人の言葉にはされない態度みたいなもの(ノンバーバルなコミュニケーション)が古さを感じさせるのだと思う。

当然のごとく使っているものは、そんなに古く感じない。
昔の警察ドラマで黒いダイヤル電話を使っていても、ぼくの世代ならそんなに違和感はないが、ちょっと新しいドラマで「いかにも」という感じで携帯電話を使うと、すごく古くさい。
そんなちょっとしたことで、古さを感じたり、感じなかったりする。

でも、時代劇なら大丈夫。
みんな髷を結って、着物を着て、悪さをするのもそんなに凝った犯罪ではない。
時には鉄砲も出るが、ほとんどは刀で決着がつく。
それでも、楽しめる。

昭和の時代に生まれてよかったと思う。




| | 考えたこと | 01:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
初年次教育 その2
少し前に大学の「初年次教育」について記事があり、それを読んでぼくも感想を書いたが、その続編があった。

続編の内容は以下のようなもの。
中下位の大学では、本来の大学教育である学士課程教育をやろうとするのだが、大学の大衆化で学力がついてこない学生が多く、その準備段階として初年次教育というのが始まった。
いざやりだしてみると、これも足りない、あれも足りないということがわかり、科目が増える。
教え方も丁寧にならざるを得ない。
しかし、その事が結果的に「学生」を「生徒」にしてしまい、本来の学士課程教育にはそぐわない「受け身」の姿勢を作ってしまう、というもの。

この先生は法政の先生だから、大学のレベル的にはそこそこ高い。
学部の偏差値は57.5になっている。
法政レベルなら、そんなに推薦やAOは多くないだろう。
調べてみると、一般入試で7割弱はとっている。
関西で言うと関関同立レベルだ。
そのレベルだからこそ、悩ましい事が起こるのかもしれないが…。

ぼくがいた大学も初年次教育をやっていた。
でも、出口の面(就職)から見ると、まだまだ足りないものだった。
エントリーシートが書けない。
もちろん書く内容が見つからない学生もいるが、内容があっても書けない学生がほとんど。
だから、一生役立つ文章力をつけることを考えた。
初年次教育に続けて、文章の書き方を指導する授業をやってもらった。

と言っても、簡単にできたわけではない。めちゃくちゃ苦労した。
やるからには必修でやらないと意味がないし、その授業を作って、課外で教える場所も必要だったから場所も確保して、そういうことを教えている先生を見つけ、来てもらったのだ。
もちろんぼく一人で出来るわけはない。なかに協力してくれる先生を見つけてお願いした。
先生を採るとなると、いろんな教員の会議を通して採らないといけなかったから、ホントに大変だった。

それで、3年目。
三回生がエントリーシートが目に見えて書けるようになったかというと、相変わらず。
毎年来る学生のレベルは下がっている感じだったから、授業をやってどれだけ伸びたのかはわからないのだ。
一つの授業を入れて教えても、それでどれだけの学生が育つかは難しい。
あとはゼミの中で少人数で問題意識を持たせ、本を読ませ、文字を書かせるという経験が必要なのだろう。
それでも、やらないとどんどんひどくなる。
文章力がないと、就職してから、一生困ることになるからだ。
そういう努力はやらざるを得ない。
記事の中にこう書かれている。

「初年次教育への取り組みは、大学教育の善意であり、熱意の表れである。実施すれば、それだけの効果はある。きめ細かな対応を試みようと科目を新設すれば、それ以前と比べて、明らかに成果は出る。そうやって、初年次教育を担当する日本中の大学教員が、日々苦労と努力を重ねている。その営為を嗤うことは、けっして誰にも許されない。」

それは事実だろう。
しかし、ぼくは思う。
うがった言い方をすれば、経営のことを考えなければ、学士課程教育に値する学生だけを入試で選抜することはできる。
入試というのは、本来それを問うものだ。
そこで経営のことを考えるから、こんなことになった。
定員分の人数を取る前提で予算はできているからだ。

大学の要求レベルというのは、概略、それまでの小中高の教育の結果だ。
人数稼ぎのために学力に目をつぶって推薦入試やAO入試をやっているのなら、それはやめなければならない。
その上で、一般入試でその大学が学士課程教育ができると判定する人をとらないといけない。
それが大幅に定員よりも少なければ、それはそれで仕方がない。
それが教育に関わるものの良心ではないか。
入れても、ちゃんと教育できない学生はとるべきではない。
それは逆に彼らの教育の機会を失わせていることになるからだ。

それでも、経営のことを考えないといけないのなら、大学を変えるべきだ。
暫定的にでも、小中高の学び直しの授業をやらないと仕方ない。
そして、大学が文科省に対して、小中高の教育の不十分なところを言わないといけない。

それをちゃんとやってこそ、日本の教育がまともになるのだと思う。

いつまでも現場で対応していくのは無理だと思う。



| | 考えたこと | 20:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
トヨタのロボット
昨日ちょっと書いたが、トヨタが「キロボミニ」というコミュニケーションロボットを発売するらしい。
座高10センチで持ち歩ける。
先行するアメリカの同じような製品は、人間型をしていないが、やっぱり日本人がデザインすると人間型になる。
このへんは、アトムの影響か、それとも宗教的なものなのかもしれない。
シャープのロボホンも人間型だ。

値段は3万9800円で、専用アプリ使用料が月額300円とのこと。

記事によると、このキロボミニは「話しかけた人の方向に顔を向けたり、顔や手などを動かして雑談のような会話ができるほか、新たな言葉や景色、ユーザーの好き嫌いを記憶することもできる。対話しながら成長していく機能もある」とのこと。

カメラやマイクを装備しているから、人間が顔を動かすとそれに追従するという機能もある。
ソニーからパソコン部門を分社化したバイオが作っているとのことで、このあたりは得意分野だろう。
人間型ロボットを作るなら必要な機能だ。
GPSを使って、場所の記憶もしている。

ぼくは20代の頃、毎月片道700キロほどのところへ、クルマで出張していた。
朝8時に吹田で集合して、夜7時過ぎに目的地に着く。
当時は道も整備されてなくて、ほぼ半日かけて行っていた。
いつも人手が足りなくて、一人でドライブがほとんどだった。

何が一番しんどかったかというと、眠気との戦いだ。
とりあえず好きな音楽を聴くのが対策。
カーステレオがないクルマが多くて、小さなラジカセを持っていって音楽をかける。
口を動かすのも効果があるので、とにかく何かを食べるのもよかった。
ガムや煎餅など、とにかく口に入れる。
それでも、昼過ぎのまぶしい時間や、西日のきつくなる夕方は眠くなる。
どうしようもないときは、パーキングエリアに入って身体を動かすとか、顔を洗うとかした。

でも、一番いいのは話し相手がいることだ。
誰かが乗っていて、話をしていると眠くならない。
だからといって、一人で窓を開けて大声で何かいっても効果がほとんどない。
知的な(といってもバカ話が多かったが)会話で脳が活性化することが、眠気を遮るのだと思う。

その意味で、クルマに載せることができるコミュニケーションロボットというのはいい。
そういう思いがトヨタの開発者にあったのではないか。
クルマだけにそういう機能をビルトインしても、ドライバーの日常がわからないから会話がなかなか成り立たない。
だから、日常一緒にいれるロボットということになる。

キロボミニはクルマに載せることも想定済みだ。
「ドライブ時にはクルマと連携することで、急ブレーキ時には、キロボが「気をつけてね」と反応し、安全運転を促してくれる。「つながる」サービスを利用すれば、クルマや家の状況を踏まえた会話も可能だ。」とのこと。

ロボットの仕草や会話はアプリを入れたスマホと通信して実現している。
そのうち、家ではロボットがコミュニケーションし、その情報をクラウドで共有して、クルマがオーナーの日常も含めた会話をするようになるかもしれない。
それがクルマのパーソナライズ化につながり、「クルマを持ちたい」という人を増やすことができる。
そういう野望もトヨタは持っているだろう。

余剰の内部留保を使って開発したんだろう。

日本の得意な人間型ロボットで、先行するアメリカを追い上げてほしい。


| | 考えたこと | 23:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
認知症予防
こないだ、NHKラジオの文化講演会で認知症の事をやっていた。
パソコンで録音して聞いた。

それによると、認知症は脳の中にアミロイドβというものが重合してたまることが原因だと思われてきた。
たまることによって、エピソード記憶や短期の記憶、物事の手順などの記憶が保持できなくなる。
しかし、最近の研究でアミロイドβがたまっても、発症しない人もいることがわかった。
それらの記憶障害の予備能力が高い人は、アミロイドβが増えても問題がない、ということだ。

認知症は40歳位から20年、30年をかけて発症するため、そのあたりの因果関係がはっきりしていない。
薬の効き目も、もうすでに発症した人に使うと効き目がないものもある。
しかし、問題は誰が発症するかわからないということのようだ。

たいがいの人は年をとってどうなるのがイヤかというと、寝たきりになるのがイヤ、というのが一番に来る。
そらそうやなあ、といって聞いていると、二番目にはボケるのがイヤだという。
正確に言うと、ボケ始めて、ボケきるまでの間が困るということだろう。
ボケてしまったら、本人はもう何ともできないからだ。

巷のニュースなどによると、認知症は家族の顔がわからなくなったり、服の着方がわからなくなったり、トイレの場所がわからなくなったりするらしい。
それによって、家族や回りの人たちに迷惑をかける。
最終的には本人が家族に迷惑をかけているのもわからなくなるらしい。
徘徊して、行方不明になる人もいる。

記憶のなくなり方は、まだらになって進行するという。
思い出す日があったり、思い出さない日があったり…。
だんだんと思い出さない日が増えて、最終的には全く忘れてしまう。
それがなくなるのか、忘れているだけかはわからない。
そのまま最後は死んでしまうのだろう。

研究によると、40代、50代から始まっていて、70代で発症するのが多いということらしい。
やっかいなのは、本人も始まっているのかどうかがわからないことだ。
病気が非常にゆっくり進行するので、対策が難しいのだ。

今確実に予防として効果があると言われているのは運動だ。
運動をする人は認知症になりにくいらしい。

そして講演会で話していたのは、学習の効果だ。
学習をすると、脳のネットワークが構築されて、予防になる(かもしれない)という。
新しいことを知る楽しみは、いいことだ。

そういえば、公文(くもん)が同じようなことを言っていた。
公文式のプリントで計算や漢字のドリルをすると予防になるらしい。

人と話をすることも脳を刺激する。
老人ホーム向けのロボットは人の顔を識別し、声をかけてくれるらしい。
今日トヨタがそういうコミュニケーションロボットを販売すると言っていた。
そういうロボットが進むと、認知症も減るかもしれない。
ペットもある種コミュニケーションできるからいいんだろう。

そして、ずっと元気でいて、そこそこの年齢で死ぬというのが理想的。

人それぞれ、目標は違うだろうが…。


| | 考えたこと | 00:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
Yさんのこと
ぼくが会社に入って2年目あたりだったと思う。
当時実験室で振動や騒音の解析をしていて、計測器を使っていたのだが、別の事業部で最新型の周波数分析器を買ったということで、見に行ったのがYさんと会った最初だった。
Yさんは何かのプロジェクトをやっていて、その予算で解析機を買われたとのこと。
それがHP5420Aという、今でもヒューレット・パッカード社の解析機のメモリアルページに出ているマシンだった。
正式名称はDigital Signal Analyzerという。
メモリアルページに「70年代末の時点で、そのカテゴリーの中で最も洗練された機器」と書いてあるが、まさにそうだった。

当時ぼくらの実験室では、まだアナログの機械を使っており、HP5420Aがあまりにも便利なのにあきれ果てた覚えがある。
それほど便利だった。
おまけに、そのマシンはプロッターをつなぐとすごいスピードで結果を描いてくれる。
早すぎてボールペンではかすれるので、専用のサインペンを使っていた。
もちろん、CRTにも映るのだが、それを紙とテープに残せるのだ。
まさにデジタルのマジックだった。
当時のことだから、A-Dコンバーターというアナログ信号をデジタルに変える装置だけで、かなり大きな入れ物が必要だったが、それでも手押し車があれば、実験室の外に持っていけるという代物だった。

Yさんはそういった機器に詳しく、ぼくらに親切に教えてくれた。
そのおかげで、数年後に実験室の機器も新しくなった。
その時はぼくはもう実験室の担当ではなかったが…。

その後ぼくらの事業部の隣の課に来られ、よく話をするようになった。
とてもマジメな人で、当時商品耐久のプロジェクトをやっていて、胃を痛めたりしておられた。

また、Yさんは文房具好きで、いろんな新しい文房具を持っていた。
ぼくが文房具に凝るようになったのは、Yさんの影響だ。
とても整理がよく、何かを聞きに行ったらちゃんとファイルが出てきた。
特徴的な四角い字を書く人だった。

もう一つ、とにかくダジャレが多かった。
今ならオヤジギャグと言われるようなダジャレだ。
Yさん自身も「わかっちゃいるけど、やめられない」という感じだったなあ。
ぼくは何度か、「それ言うと思てました」と突っ込んだ覚えがある。
そういうと、いつもニヤッと笑って、「ほんまか」と言っておられた。

会社を辞めてからも、毎年年賀状を出していた。
なんでも、シルバーの方々の生涯学習のところで、コーラスをやっておられるとのことだった。

そのYさんが亡くなられたと今日連絡をもらった。
72歳。
まだ早いと思う。

亡くなられる前に、もう一度会いたかったというのは、いつも思うことだ。
きっと、天国でもダジャレを言って、してやったりとニヤッと笑っているんだろう。

あのオヤジギャグが受けているかな…。

合掌。


| | 考えたこと | 22:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
アメリカの高齢者の仕事
最近アメリカで流行りのシェアリング・エコノミー。
配車アプリのUberや民泊のAirb&bなどがある。

Uberはアプリで登録して、自分のクルマをタクシー代わりに使ってもらうという仕組み。
もちろん、自分がドライバーをやる。
自分の空き時間に自分のクルマを使って、仕事ができる。
アプリを入れたスマホが現在地から近いお客さんを紹介してくれ、ナビアプリでそこまで行き、そこから目的地まで行く。
決済はカードなので、現金のやり取りはない。

Airb&bは自分の家の空き部屋などを宿として貸し出すという仕組み。
これもスマホで登録し、旅行者などを探してもらう。
スマホやネット、カード決済というインフラがあれば、誰でも可能だ。

そういう仕事で収入を得ているのは若い人たちかと思っていたが、65歳以上の高齢者も多いとのこと。
2015年の調査によると、アメリカで40万人の高齢者がこういった仕事から収入を得ているとのことだ。

確かに高齢者は時間だけはたくさんあることが多く、スキマ時間での仕事はやりやすい。
また、不動産などの余剰資産を持っている人も多く、それらを使って収入を得ることもあるだろう。
スマホとインターネットというインフラが、それまでできなかった個人と個人を結びつける。
そこで成り立つ仕事だ。
そこには、サービスの主体としてのUberやAirb&bはあるが、今までのような「会社」という概念はない。
ドライバーや貸主として登録された人がいるだけだ。
そういう形の働き方が増えてくるのかもしれない。
それがサービス業の未来の姿の一つになるだろう。

これからの日本、年金がいつまでもたくさんもらえる時代ではない。
そのために、こういう仕事はいいと思う。
自分のクルマと空き時間や、空き部屋などを有効利用する。

そのためには、いろいろな昔からの規制を緩和しないといけない。
それこそが第三の矢だろう。

これだけお金が市場に溢れていてもダメなんだから、もう金融を緩和しても仕方ない。
規制緩和が必要だと思う。

| | 考えたこと | 21:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
MG5
MG5(エムジーファイブ)というと、男性整髪料。
男も中学3年になると、整髪料に興味を持つ人が出てくる。
当時はMG5が圧倒的にメジャーだった。

ぼくは使ったことがないので、未だにヘアトニックとかヘアリキッドとかの違いはわからない。
男性整髪料を使う進歩的な友だちは、いろいろと講釈をしていた。

当時の中学3年というと、ぼちぼちオトナに憧れる時期。
進歩的な友だちは精神的に背伸びをしていた。
ぼくにはあまりそういう思いはなかった。

整髪料を使ったからといって、オトナの仲間入りをしたわけではない。
でも、何となくそれがオトナっぽく見えたのだろう。
そういう友人たちが、MG5を使っていた。

Wikipediaによると、MG5は「成功の要因の一つとして印象強いパッケージデザイン、これはアメリカ的な機能主義の精華とも位置づけられるが、西欧の「ギンガムチェック」、日本伝統の「市松模様」にも見受けられる普遍的な配色を基本としながらも黒と銀の大胆な色使いにより、若者の新たなライフスタイルに相応しい、新鮮さ・男らしさ・若々しさをアピールするなど徹底した斬新さを打ち出した。」とある。
それが1967年だったらしいから、71年当時はそのイメージが定着していたと思う。

そんなに詳しいわけでもない友人たちが、MG5のユーザーだった。

今でも当時のデザインのパッケージで売っているようだ。
たしかに、黒と銀のチェックで統一されたいいデザインだと思う。

しかし、当時の神戸市の中学生はみんな坊主頭だった。
坊主頭の中学生が、どうして整髪料を使うのか…とも思う。
常識で考えれば必要はない。
でも、そういうぼくもシャンプーだけでなくリンスも使っていたような気がする。

中学生とは、そういう理不尽なことをする年齢なのだ。

今となっては懐かしい。

そういう仲間たちももう還暦か…。

| | 考えたこと | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) |