考えたこと2

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遺伝子
エライ生物学の先生が、人間は遺伝子のコンテナのようなものだ、と言った。

遺伝子を研究していると、そういう気持ちになるらしい。
人間が生きているのは、遺伝子を伝え残すためだという。
人間という外側は、それを運ぶための入れ物、という意味だ。
要は遺伝子さえ生き残ればいいということになる。

ぼくらは外側にこだわって生きているが、遺伝子にとってはそんなものはどうでもいい。
単なる遺伝子の入れ物だと考えると、人間の営みなどバカバカしく思えてくる。

人が増えすぎたり、食べ物が少なくなると、戦争が起きる。
これも遺伝子がそういうふうにセットされているのだろう。

石油という便利なものがあると、あとさきを考えずに使う。
燃やしたり、原料として利用したり、どんどん使う。
遺伝子は享楽的でもある。
楽して生きられるのなら、何でもありだ。

そして遺伝子は代々つながっていく。
人間という入れ物を乗り継いで、生き延びる。
それが人間という種の目的である、と言ってしまえばそれまでだ。

時に人間の営みを見ていると、立場が違えば、深刻なことも時にはバカバカしくて滑稽ですらある。

STAP細胞の小保方さんも、みんなの党の渡辺代表も、そんなことがバレないと思っていたのだろうか。
バレた時のことを想像しなかったのだろうか。
遺伝子は時に自己中心的だ。
自分さえよければ、回りが見えなくなる。
あとさきは考えない。

あるいは、単に気楽なだけかもしれないが…。

しかし、遺伝子の仕業だと思えば、誰もが同じようなことをする可能性があるということだ。

人間とハエの遺伝子は数%しか変わらないらしい。
その数%の遺伝子の中に、あとさきを考えずにやってしまう、という部分がある。

人間の営みは面白い。

| | 考えたこと | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
山本俊彦
赤い鳥のメンバー。
ハイ・ファイ・セットのメンバーでもあった。
そして、山本潤子の夫だった。

3月29日に亡くなったとのこと。

それに先立って発表されたが、山本潤子は自身の声の調子が悪く、5月以降の音楽活動を休止するという。
練習熱心で有名な人だが、自分に厳しいのだろう。

赤い鳥の時代の活動はよく知らない。
忘れた朝、竹田の子守唄くらいかな。

でも、ハイ・ファイ・セットは好きだった。
1980年代を風靡したコーラスグループだと思う。
女性1人、男性2人の3人組。
ニューミュージックが出てきたころ、華のあるコーラスグループで、デビューした。

卒業写真、冷たい雨、土曜の夜は羽田に来るの、スカイレストランなど、初期の作品は今でも歌える。

そして、ハイ・ファイ・セット解散後、山本俊彦はプロデューサーとして活動していたようだ。

これでもうハイ・ファイ・セットは再結成できなくなった。

ビートルズもそうだが、メンバーが亡くなると、自動的に再結成はできなくなる。
ジョン・レノンが撃たれた時、そう思った。

個別のメンバーがどう思っているかは知らない。
再結成など、あり得なかったかもしれない。

それでも、ファンは期待してるものだ。

さようなら、ハイ・ファイ・セット。


| | 考えたこと | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
睡眠時間
年をとると寝起きがよくなるという。

たしかにそういう傾向だ。
目覚まし時計はセットするが、年をとると鳴る前に起きるようになる。
必要な睡眠時間が減少するらしい。

不思議なことに、土曜や日曜は早起きが苦にならない。
二度寝できるからだろうか。
いつもはスヌーズボタンを押して、10分間の猶予をもらうのだが、土日はそんなことをせずに起きる。

それと、夜更かしができなくなった。
すぐに眠くなることが多い。
パソコンの前で寝てしまう。
昔はそんなことは皆無だった。
11時頃帰ってきても、2時頃まで起きていることができた。
でも、もうそんなことはできない。
体力が衰えてきたのだろう。

年をとるということは、衰える体力との戦いでもある。
戦いというよりは、折り合いをつける、と言ったほうがいいか。
どうせ勝てる戦いではないのだ。

いずれ、永遠の眠りにつく。

それが人間の宿命だ。

| | 考えたこと | 01:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
電話
公衆電話のことを”pay phone”という。
知らなかった。
公衆だから、”public phone”とでもいうのかと思っていた。
“pay phone”とはわかりやすい表現だ。

携帯電話は”cell phone”という。
これはドラマでしょっちゅう出てくるので覚えた。

スマートフォンは”smart phone”でそのままだった。
ついでに、ガラケーは” feature phone”というらしい。

電話が発明されて約150年。
電話は完全に日用品になり、そして、その機能が拡張された。

固定電話から、携帯電話。
80年代後半のこの変化は大きかった。
たった十数年で携帯電話は小さくなり、価格は安くなり、誰もが持つ時代になった。
それまで電話は家族のものだったが、個人のものになった。
電話はそれまで「誰からかかってくるかわからないもの」だったが、「誰からかかってきたか、表示されるもの」という新しい常識ができてきた。

そしてメールができるようになり、カメラがついたり、現金の決済機能ができたり、二次元バーコードが読めるようになったり、インターネットにつながるようになったりした。

数年前から、スマートフォンはパソコンと同等の機能だ。
インターネットで検索したり、写真を撮って加工したり、添付ファイルを見たり、音楽を聞いたり、テレビを見たり、GPS信号を受信してナビの代わりになったりするようになった。
今はやりのソーシャルネットワークサービスもここから発信できる。
そのうち、スマートフォンが身分証明書になるかもしれない。
新しい使い方やビジネスができてきている。

スマートフォンを見ていると、電話を機能アップしたというよりも、パソコンに電話がついた、という感じさえする。
電話はついでにできる、という程度だ。

固定電話の時代は「話すこと」がコミュニケーションだったが、時代は変わってバリエーションが増えた。

どこまで進歩するのだろうか。

だんだんわからなくなってきた。

| | 考えたこと | 08:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
オトナ度
就職でいうオトナ度とは一体何なのか?
オトナ度と言ってしまえばそれまでだが、それを学生に説明するとなると、ちょっとむずかしい。

一つはオトナと臆せず話せる、というのは自信がないとだめだ。
何かで自信をつけてやる、ということは必要。
今の教育システムでいうと、ゼミしかないと思う。

それと、就職について話すときには、どうしても「自分はどう生きたいのか」「自分の将来はどうなっていたいか」「働くということをどう考えているか」「今、自分は自分の将来というものとどう向き合おうとしているか」「どんなふうに仕事がしたいのか」「なぜその仕事でいいのか」といったことが話題になる。
こういう、抽象的なことを、論理的に話せるということができるかどうかだと思う。
つまり、そこに問題意識を持っているか、ということだ。

手に触れることばかり話していても面白くない。
手に触ることができないもの、自分の頭の中にしかないもの、そういう抽象的なものについて、考えたことがあるのかどうか(例えば、あなたはなぜ生きるのか)、というところが大きいと思う。
そういうことを考えている学生は、自分が世界の中でどの辺りにいるか、ということを知っているような気がする。

そういう、人間が成熟するときに必ず問う問いを、問っているかということかもしれない。

今は大多数の学生は、そういう問いを大学時代には問わず、社会に出てから問うているのだろうと思う。
このあたりは、中等教育の大失敗だと思うが…。

20歳を過ぎて、そんなことを一度も考えたこともない、というような学生は、面白くないし、オトナ度が上がらないのだと思う。

そうはっきり意識しているわけではないにしても、そういう類の思いや悩みを持ったことがあるのか、ということだろう。

そういうことを考えようと思えば、身の回り30メートルの世界ではダメだ。
それをせめて50キロくらいに広げないと…。

これを彼らに伝えるのは難しい。
それができないから、みんな困っているわけだから。

でも、簡単ではないにしても、「君たちは、どう生きたいのか、そして何をするのか」というようなことを考えていないような人は、就職できないぞ、ということになるのだろうか。

答えになっているかどうかわかりませんが、そういう哲学的なところに答えはあるのだと思われます。


| | 考えたこと | 00:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
義務教育の問題
今の大学生に基礎学力のことを聞くと、だいたい小学校4年あたりがネックになっているようだ。
分数、小数、文章題など。
結局、小学校の高学年でつけるべき知識をつけないまま、18歳まで来ている。
中学や高校の先生も気がついているはずだが、そのままだ。
この問題は根が深い。
割合や値引きなどの計算もあやふやだからだ。

何といっても学校の良し悪しは先生で決まると思う。
では、なぜ初等教育や中等教育がダメになったのかというと、教員免許の問題があると思う。
この教員免許というのは、大学が今のように増える前の制度だ。
1954年に、大学で所定の単位を修得すれば、だれもが教員免許状の授与を受けられるようにした、というのが経緯。

1955年の統計によると、大学数は227校、18歳人口は170万人、大学進学者は13万人、進学率は8%。
それが2013年には大学数782校、18歳人口は120万人、大学進学者は60万人、進学率は50%。

つまり、この58年間の間に、大学は555校増え、18歳人口は50万人減り、大学進学者が47万人増え、進学率が42%増えたことになる。
当然、大学は入りやすくなって、今や選ばなければどこかの大学に入れる時代だ。

つまり、小学校や中学、高校の教員免許課程は大幅に取りやすくなったということだ。

取りやすくなったということは、必然的に質の低下が起きる。

ぼくはそういう経緯で今の状況が生まれているのだと思っている。

| | 考えたこと | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
57歳
こないだ57歳になった。

57歳になる、ということはどういうことかというと、生まれて、57年経ったということだ。
生まれた時から、地球が太陽のまわりを57回も回ったということにもなる。

この1年、めっきり老眼がひどくなって、近くが見えなくなった。
この変化は大きい。
もう老眼鏡は手放せない。

しかし、当たり前だが、57歳になるのは初めてだ。
人間は常に新しい自分になっている。
57歳と1日、57歳と2日、57歳と3日…、というふうに常に新しい自分になるのだ。
毎日が初めての日であって、同じ日は二度とない。

考えたら、これはすごいことだ。
毎日新しい日を迎え、年を取っていく。
誕生日は1年おきだが、毎日を記念日にしたって構わないのだ。

そう考えると、少しは年を取るのが楽しみになる。

年をとって確実に増えるのが「経験」だ。
単に生きているだけでも経験は増えるが、その年に新たなことをやると、その経験は新しい自分になる。

人は基本的に経験の生き物だ。
経験がその人の人生を作る。

それを補うのが、小説やノンフィクションを読むこと。
映画でもテレビでもいい。
擬似的に経験を積むことになる。

でも、自分の経験に勝るものはない。

いくつになっても、新しい自分でいれたらいいと思うが…、難しいだろうなあ。

| | 考えたこと | 23:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
マイケル・J・フォックス
マイケル・J・フォックスは、2000年の5月までスピン・シティというコメディをやっていた。
ニューヨークが舞台。
市長の補佐官の役だった。

このドラマの途中でパーキンソン病であることを発表し、シーズン4で降板した。

その経緯は「ラッキーマン」という彼の本に書かれている。

そのマイケルが戻ってくる。
この4月から、マイケル・J・フォックスショーというコメディが始まる。
パーキンソン病のために引退したテレビキャスターという役どころ。
ユーモアを大事にして生活しているというマイケルが、自分しかできない役として演じている。

マイケルはパーキンソン病の治療を進めるために財団を作り、いろいろな治療や研究に対してお金を出してきた。
財団のホームページを見ると、多くの組織や企業、研究者がこの財団の支援を受けている。
その成果が出たのだろう。

番組の宣伝を見たが、彼の表情にはちょっとひっかかりがある。
でも、スピン・シティの時よりも自然になっているような気もする。
アメリカでは去年の9月から放送されているらしい。

日本では4月25日からケーブルテレビで放送される。

スピン・シティが終わったときは、もう彼の姿を見ることができないのかと思っていた。

スピン・シティを降板した後、ゲストでドラマに出たのが数回あったと思う。
でも、今回は毎週のシリーズ。

病気も個性の一部だ、という彼の姿を見るのが楽しみだ。


| | 考えたこと | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
入りやすく出やすい
受験地獄と言われていた頃、日本の大学は「入りにくく出やすい」ということだった。
アメリカの大学は日本に比べて「入りやすく、出にくい」と言われていた。

留学生の記事などをみても、アメリカの大学はすごく課題が多く、遊ぶ暇などない、ということが書かれていた。
ぼくの経験からは、入りにくく、出やすかったのは事実。
入試は厳しかったと思う。
4当5落という言葉があって、睡眠時間が4時間なら合格、5時間寝ると不合格、という意味だった。
今は死語になっているだろう。
その入試をくぐり抜けて入ったら、あとは自由だった。
自由という意味は、勉強したい人は勉強できたし、したくない人はしなくてもよかった、ということ。
ぼくは落語研究会に入り、ほとんどその活動と、下宿の友だちと遊んだりして4年間を過ごした。
さすがに、ぼくのような者が大学院に行くなどおこがましい、と思い4年で就職した。

しかし、時代は変わって、全入の時代。
要は大学に入りたいという人は、より好みしなければどこかに入ることができるという時代だ。

つまり、全体では入りにくかったのが、入りやすくなっている。
さすがに難関校では現役比率はあまり増えていないが、それでもだんだんと高くなっている。
偏差値が50を切るような大学では、浪人生を見つけるのが難しい。
そういう大学は、AOや推薦で半分以上取っている大学だ。
浪人生でも推薦を受けることができる大学もある。

総体に見て、日本の大学は今や「入りやすい」といえる。

入ってからはどうだろうか。

ごく一部マジメにやっている大学もあるが、残念ながらほとんどの大学は厳しい勉強をさせていない。
必修だからマジメにやって、たくさんの学生を落とせば、教務に文句を言われる。
次の年の授業がいっぱいになるからだ。
そのうえ、休退学が多いと文科省に文句を言われる。
せめてこのレベルを、と思っているセンセイも、評価を妥協せざるを得ない。
そういうことが何年か続くと、諦める。
そうして、来た学生のレベルに合わせた授業をするようになる。
そういう学校の入試は推して知るべしだ。
AO、推薦でたくさん取る。
一般入試もほとんど選抜の役割を果たさない。
したがって、来た学生のレベル、というのも低下する。
そのうち、大事なのは知識ではないとか、大学から出て社会と触れ合うことだとか言い出す。
本当に大事なのは、センセイ自らが汗を流して学生を鍛えることなのに、それは諦める。
それでも、単位は乱発だ。
来た学生のレベルに合わせるからだ。

だから、出口は苦しくなる。
なかなか就職できない。
当たり前だ。

入りやすく出やすい大学は、社会に出るときに大変なのだ。

| | 考えたこと | 23:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
新聞
知らなかったが、産経新聞は2002年3月末に東京本社の夕刊をやめている。

全国紙(読売、朝日、毎日、産経、日経)で言えば、夕刊があるのは関東、近畿、東海だけだ。
その他の地域では記事が間に合わないから、朝刊しか出していない。
総発行部数で見ても、2005年以降だんだんと減っている。

一方で電子版が増えているのだろう。
インターネットが普及し、世帯利用率も9割に近づいている。
都市部であろうが地方であろうが、インターネットは関係ない。
日経や朝日は有料の電子版のサービスも始めた。
新聞社にとっても、印刷しなくて済むし、紙も使わないので、安くなるはずだ。
もちろん、記事は無料で読めるものが多い。
記者クラブで手に入るような情報は、無料で読めて当たり前かもしれない。
待っていたら手に入る情報だからだ。

実際、新聞を取っていない世帯も増えているのだろう。
昔はテレビ欄が…、という話もあったが、今はテレビ自体が番組表を持っている時代。

スポーツ紙や夕刊紙も減っている。
速報性はインターネットの方が強いから、野球やサッカーの試合結果などはネットに流れる。
今はスマホで見ることができるし、若い人は新聞を買うという文化自体がないだろう。

そう考えると、高齢化は新聞にとっては延命ができて好都合なことだと思う。
年をとった人は、朝新聞を読むという習慣がある。
暇つぶしにもなる。

でも、ぼくらの世代になると、それほど新聞に思い入れはない。
ネットでもいいか、という気もある。

積極的にやめようとは思わないが、夕刊くらいはやめてもいいかとも思う。

新聞の記事よりも、ネット上の識者の記事のほうが馴染みが出てきた。

日本の新聞は日本独特の記者クラブという制度を作り、待っていればお上から記事がもらえるようなシステムを作り、他社と横並びを良しとし、取材能力がなくなったのだと思う。
どこまでが事実でどこからが意見なのか、誰の意見なのかもはっきりしない。

各省庁の発表などは、ホームページで公開される時代。
どちらかというと、公開されたことに対する基礎資料などを見せるのが新聞の役割だと思う。
公表されたことが、本当に裏付けられるようなデーターがあるのか、あるいは現場の声はどうなのか、そういうところが知りたいのだ。

そんな新聞が出れば、生き残れると思う。

| | 考えたこと | 23:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
重力波の発見
宇宙の始まりはビッグバンだという。
要は大爆発が起こって、未だに宇宙は広がり続けているらしい。

普通に考えたら、宇宙は止まっているものだ。
最初は地球が宇宙の中心だと思う。
太陽が地球の回りを回っていると思っているのだ。
それはごく自然な人間の思いだろう。

ところが、太陽が中心で地球がその回りを回っているとわかった。
どうも人間が中心ではないらしい。

そして、銀河系の中では太陽系は端っこの方にいるらしいとわかった。
どうも人間は宇宙が何かの偶然に生んだ生き物らしい。

宇宙に望遠鏡を打ち上げ、調べてみると、なんと宇宙が広がっていることがわかった。
どうなっているのか、わからない。
どんどん大きくなっている。
そして、銀河系みたいな宇宙がたくさんあることもわかった。
どうも宇宙はもともとあったものではなく、何かで出来たもので、それが広がり続けているということらしい。

広がり続けているということは、宇宙の始まりはどうだったのか。
逆に小さいものだったのだろう、と想像がつく。

いろんな説があったが、今はビッグバンによってできたということになっている。
ビッグバンについて、インフレーション(膨張)が起こり、今の宇宙が形成されたという説。

その証拠になるのが、重力波というものらしい。
もともと原子より小さなサイズだった今の宇宙が、一気に膨張する。
その時に重力の分布に波ができるらしい。
アメリカのグループがその重力波を発見したというのが今回のニュース。

佐藤勝彦という日本の宇宙学者がその理論を唱えた一人。
今日のニュースでやっていたが、そんなものが観測できるとは思っていなかったらしい。

これがもっと観測されると、佐藤勝彦のノーベル賞が近づくかもしれない。

宇宙の始まりがわかったからといって、ぼくらの生活が豊かになるわけでもないし、紛争がなくなるわけでも、世界に平和が訪れるわけでもない。
もちろん、何かが便利になるわけでもない。

それでも、人間は宇宙の始まりを知りたい。
人類のルーツが138億年前のビッグバンだ、ということだ。

今日の生活が心配なら、そんなことは思わない。
でも、日本は豊かになった。
豊かになったから、そういうことを考えられる。

その豊かさがいつまで続くのかはわからないが…。


| | 考えたこと | 23:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
卒業式の風景
小さな会社でも、大変な人気企業で、競争率が1000倍を超える会社がある。
7回の面接を通り抜け、内定を勝ち得た学生がいた。
その会社1社だけ受けて、3ヶ月程度の長い面接試験を経て、見事入社を決めた。
特に、支援をしたわけではないが、エントリーシートをどういう考え方で書くのか、どういう意図で質問がされているか、というような事を話した覚えがある。

一方で、卒業式の時には決まっていなかったが、内定の連絡がその後入り、直後に内定の報告に来た学生がいる。
ちょうど、その1000倍の学生が挨拶に来ていたところだったが、そこに飛び込んできて「72社目にしてやっと内定もらいました」と言った。

見ず知らずの学生たちが、顔を見合わせて、思わず拍手をした。
「よかったね」という声も出た。
本当に、期せずして拍手と声援が起こった。

こういう瞬間がある。

面接で話しすぎる学生だった。
言葉が多すぎて、何を言っているのかわからなくなる。
シンドイ学生だったが、最後に明るい顔で進路決定報告をして、去っていった。

一人一人、違う進路だし、選ぶ基準も、選考課程も、落ちた回数も違う。
それでも、一人一人社会に出て行く。
進路なんて、そんなものなのだ。

そういう瞬間に立ち会えたことがうれしかった。

ありがとう。

| | 考えたこと | 23:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
マウス
ゼロックスのパロアルト研究所で発明されたというマウス、今のところこれに勝つものができていない。

画面上のどの部分を選択するか、という「ポインティングデバイス」はマウスをはじめ、トラックボールとか、トラックパッドとかいろいろある。
最近は直接指で画面をタッチするという方式も出てきた。
指の動き(つまむとか離す)ということと、画面の拡大・縮小を結びつけて操作するということもできるようになった。

マウスというネーミングはなかなかよく出来ている。
昔はネズミの尻尾みたいなコードがあったが、最近はワイヤレスのも出てきて、ホイールが付いていたり、ボタンの数も1つから5つくらいまでバリエーションがある。
作った方も、何の気なしにつけた名前だったのではないか。

しかし、細かいところを選択したりするのは、まだマウスに勝つものはないと思う。

初めてマウスというものを見たのは、たしか80年代後半だったと思う。
EZPSというキャノンのワープロ(というよりはDTP)専用機についてきた。
当時、EZPSの研修に行ってきた若い女子社員が操作をするのを見せてもらった。
ほー、と思ったが、その後ここまで一般に普及するとは誰が思っただろうか。
今や相当の年寄りでも、マウスと言えばあのマウスだし、使えなくてもその存在は知っているだろう。

今はタッチセンサー、タッチレスセンサーというようなものの開発が花盛り。
触った感じがザラザラしているとか、そんなセンサーもあるらしい。
運転中に何らかの動作をしたら、ナビに入力が可能とか、実際に触らなくてもOKというようなセンサーも開発されている。
テレビの前に人がいるかどうかは、既にカメラで実現しているが、テレビの前で腕を振るとかいう動作でもテレビが操作できるようになったりするらしい。
実際、便利なのは独居老人の安否確認サービスだろう。
既にポットで実現しているが、ポットよりもテレビの方がインターネットとは相性がいい。

そういう風にパソコン以外のものは、人間が入力するところが開発されているが、パソコンはマウスから進歩がない。
これでもう決まり、という感じなのだろうか。

1980年代に作られたマウスが、2014年になってもやっぱり現役だ。
もう30年以上経つ。

最初の発想が素晴らしかったのだろう。

当分はマウスの時代が続く。

| | 考えたこと | 00:18 | comments(2) | trackbacks(0) |
もっとコロッケな日本語を
もっとコロッケな日本語を 東海林さだお著 文春文庫

中古を4冊まとめて買った最後の1冊。
相変わらず面白い。

2003年に出た本だが、この年に著者は66歳。
今は74歳になっている勘定。
この時点で、文春文庫に東海林さだおの本は53冊出ている。
ほとんどは連載されていたものだと思う。

この本にもスルドイ考察が書かれている。

「ドーダの人々」という項では、人が自慢をするのが好きだ、ということが語られる。
ドーダというのは、自慢のことだ。
油断をすると、ついついドーダしてしまう、とかさりげない会話にも、ドーダが入っているとか…。

でも、この本にかかれていることで、今ぼくがすごく共感するのは「スローフードの時代」という項目。
ちょうど2001年〜2002年というとバブルが崩壊して、本格的に景気の悪化が感じられるようになってきた時代だった。
この頃、これからも日本は持続的に成長できるのか、ということが問題になり始めたのだと思う。

『「中国、インドがやがて先進国の仲間入りをし、それぞれ13億、10億の人々が、現在の先進国なみの生活水準になれば、地球の資源はアッというまに失くなる。しかし、彼らの先進国化を誰も止めることはできない」と言って暗く目を伏せる評論家がいる。
じゃあどうすればいいのか。
「みんなの考え方を変えなければなりません」
その評論家はあっさり言った。あっさり言ったけど、その次に言葉はなかった。
そうなんだよね。考え方を変えなければならない。
もうこれから先、人類は現在以上の生活水準は望めないのだ。
後退していくだけなのだ。
人類はこれまでイケイケで突っ走ってきた。そしていま、イケイケが破綻しつつある。』

ぼくはその頃、自動車産業に関わっていた。
いろんなメーカーが中国に出ていき、彼の地にモータリゼーションを起こそうとしているのを見た。
中国でモータリゼーションが起こったら、偏西風に乗って日本に排気ガスが来る。
ガソリンが高騰して不足する。
でも、中国の人たちに、我慢してくれ、とはいえない。
ぼくらが何も考えずにしている生活を、やめてくれとはいえないのだ。

だから、生活水準は後退していかざるをえない。
でも、いきなり落とすのはつらい。
そこで、努力目標を設定しようという。

『皮を剥いたミカンから四房をいっぺんにつかみ取り、四房をいっぺんに口に放りこむ。四房をいっぺんに噛みつぶす。
最近はいつもこういうふうにミカンを食べている。
三房か四房のかたまりずつ食べるから、ミカン一個を三口で食べ終える。
そのときコタツのかたわらにあった東京新聞が目に入った。東京新聞の「あけくれ」という投書欄である。
その投書のタイトルは「みかんの房」というものであった。
千葉県の三十六歳の主婦の投書で、要約すると、ーー昭和十年生まれの父の家は貧しく、ミカンさえ特別な果物だった。だからミカンを手にすると、何房あるか、必ず数を数えた。そして、ミカンの房は、必ず九個か十一個であることを覚えた。だから、十一個のときは二個多いと喜んだ。柑橘類の房は、花の構造上、九個か十一個だろいうことをあとで知った。子供がミカンの房を数えた時代が日本にもあったのだーー。
(中略)
わたくしは何を言おうとしているのか。
今はミカンを三口でポイで、ハイ、次、だが、昔はずいぶんゆっくり、丁寧にミカンを食べていたのだ、ということを言いたいのだ。ゆっくりと、たっぷりミカンを楽しんでいたのだ。
まず房の数を数えることから始める、という人さえいたのだ。
”三口でポイでハイ次”より、何倍も豊かな生活をしていたと言えるのではないか。
このあたりの生活、この時代あたりまでなら戻ってもいいのではないか。
とりあえずこのへんを、生活水準の後退の努力目標にしてはどうか。
コタツに入ってミカンのスジを丁寧に取って食べていたころの生活、いまから考えるととても懐かしい。
なんだか羨ましいような気さえする。』

引用が長くなったが、2000年ごろにそういうことを考えた人がいる。
おもしろおかしく書いているが、書かれていることは本当に問題だと思う。

その他にも本当に面白いことも書いてある。

なかなかいい本だ。

| | 考えたこと | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
宇津井健
宇津井健といえば、ザ・ガードマン。

まだガードマンという職業が一般的でなかった頃に、警備保障の会社で現金輸送や警備の仕事を通じて、悪人と戦う男たちのドラマだった。
1965年に始まり、1971年末まで放送された。
いまのように、ガードマンの制服ではなく、スーツ姿だった。

当時、最高視聴率40%を越えて、人気ドラマだった。
小学校の高学年の時、金曜日だけはザ・ガードマンを見るために夜更かししてもよい、といお許しをもらって見ていた。
ベンチャーズ風のテーマソングもよかったなあ。

宇津井健はザ・ガードマンのキャップ役。
役名は高倉なので、高倉キャップと呼ばれていた。
ゲストには、懐かしい名前が多い。
松岡きっこや小林千登勢、沢たまき、ジェリー藤尾、吉行和子、天知茂、吉田日出子、悠木千帆(樹木希林)などがいる。

その後、山口百恵の赤いシリーズで父親役をやったりしていた。
その縁で、山口百恵の結婚式で仲人も勤めた。

でも、まともに見たのは、ザ・ガードマンが最初で最後だった。

82歳だから、男性にしては長生きだ。

かっこいい俳優だったと思う。


| | 考えたこと | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
性善説
大学というところは性善説で運営されている。

元々は「大学の先生は善い人ばかり」というか「悪いことなどする人はいない」という考えだ。
だから、学校法人に対して文科省は補助金を出し、非課税にしている。

しかし、その大学で研究費の不正があったり、入試はやっているものの、教育できない学生を入れたりしている。
本来大学というところはそういうことはしない、という考えで今までやってきたが、それも苦しくなってきた。

何を言っているかというと、小保方さんの論文の話。
あの早稲田大学の博士論文がコピペで作られていたということだ。
小保方さんの博士論文。
それも、アメリカ国立衛生研究所(NIH)の論文を20ページにわたってコピーしていたという。
小保方さんは誤って?下書きを出したとか言っているようだが、博士論文審査には主査と副査がいて、その人達は少なくとも、ちゃんと読まないと指導したことにならない。

早稲田の先端理工学部では、博士論文をちゃんと読まずに、博士号を出しているのだろうか。

また、小保方さんは、コピペをしたらダメという認識がなかったというような報道があるが、それはいったいいつ覚えたのだろうか。
まわりの人達もやっていた、ということなら、早稲田大学の罪は重い。

日本で学問分野のモラルや倫理について、あまり教えないという。
しかし、常識として、自分の論文で、引用元も明らかにせず、20ページにわたってまるまるコピペするなどということは、モラルや倫理以前の問題だろう。
剽窃(ひょうせつ)という難しい言葉を使うが、そんな言葉を使わなくても、盗作で十分だ。
審査した人たちの責任問題だと思う。

今、日本では博士が大量生産されている。
ポストドクターといって、博士課程を卒業して、職がないものが1万8千人もいる。
そんな状態なのに、こんな杜撰な審査をしていていいのだろうか。
おそらく、小保方さんのまわりの博士課程の学生もコピペをしていたのだろう。
そういう風潮だから、罪の意識がないのだと思う。

もうぼちぼち性善説ではいけないと思う。

大学というところは、志願者を集めるためには、いいかげんな入試をやるところだし、教育できる可能性のないものも入学させ、奨学金という隠れた補助金を使って4年間学費をとるところだし、更にいい加減な審査しかせず、博士号を出しているところだ。博士号がこんな状態だから、修士号もいい加減なものだろう。

この際、もっとちゃんとやるような仕組みを作るべきだと思う。

大学や学校法人に対しては、もっとちゃんと行政指導をやるか、それとも補助金などやめてしまえばいい。
性善説は当てはまらない。

| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
インターネットの影響
「インターネットは我々にどのような影響を与えるのだろうか?最近報道された5つの研究結果」という記事があった。
それによると…

1.ネット依存症になる

深刻なネット依存症という人がいるらしい。
ネットゲームに何時間も費やすような人は、依存症になっているから、ネット接続をやめさせると禁断症状が出る。
これは深刻かもしれない。
ネットゲームに熱中すると、部屋から出てこなくなったり、不規則な生活になったりする。
コンビニが24時間開いているから、いつでも食事ができる。
24時間営業というのが、現代病を増長しているのかもしれない。
便利になったのと引き換えに失ったものもある。

2.孤独で嫉妬深くなる

これはFacebookなどのユーザー。ずっと他人のページを見続けていると、自分が孤独を感じたり、人の幸せそうな姿や目立った姿を見続けていると、嫉妬深くなるとのこと。
ソーシャルネットワークサービス(SNS)という言葉でくくられるサービスが、一般的になってきた。
今日何を食べたとかいうくだらないことから、どこで何をしたという、同じくくだらないことまでオープンにしている人がいる。
一方で個人情報にはうるさくなっているが、やっている人に聞くと、無神経に見せている人もいるらしい。
それを見て、嫉妬する人もいるということか。

3.十代の若者の間で自殺率が高まる恐れ

これは自殺願望を持った若者が、インターネット上の情報を元に自殺をする、ということらしい。まあ、いろんな情報があるから、そういうこともあるかもしれない。
これはインターネットが確実に死ぬ方法を教えてくれる、ということで、インターネットを見ているから死にたくなる、というのではないらしい。
それはそうだろう。

4.情報過多による記憶障害の可能性

ソーシャルメディアを活用している人は、多くの情報をインプットされている。流されるままにそういう情報をインプットしていると、入った情報を整理しきれなくなるということ。
たしかに、処理しきれない情報量だろう。
どれがくだらない情報で、どれが価値ある情報か、判断できなくなってくる。
そういうのは自衛するしかない。

5. 悪いことばかりではない。適度なネット使用は脳を活性化する

ネットの検索エンジンの利用は、脳を活性化するという結果がある。
これはいいニュースだ。ネットで検索していると、脳のいろんなところを使うらしい。
ボケ予防になる。

インターネットは世の中を変えていっているが、人間をも変えていっているのだろう。
ぼくらは中年になってから、インターネットに馴染んできたが、今の若い人は10代の時からインターネットがある。
この世代はどうなっていくんだろうか。

想像がつかない。



| | 考えたこと | 01:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
ステアリング・バイ・ワイヤ
新しいスカイラインの記事を読んだ。

インフィニティのバッジをつけた日産スカイラインになったらしい。

日本ではスポーツカーはあまり売れない時代。
スポーティセダンの色を濃くしたようだ。
ぼくらの若い頃は、走り屋のクルマはトヨタの86かスカイラインという時代だった。

今度のスカイラインは値段が450万で、全車ハイブリッド仕様になっている。

しかし、なんと言ってもスゴイのは、ステアリング・バイ・ワイヤを実現している点。

今までのクルマはハンドルを切ったら、物理的なリンクを通じてタイヤが動く仕組みだった。
スカイラインはステアリングを切った角度に応じて電気信号を発生し、それに応じてモーターでステアリングを切るという仕組み。
機械的に切るよりも、遅れが少なくていい、という評価をされている。

これは今どこの自動車メーカーもやっているのだろう。
おそらく技術的には可能なレベルだが、誤動作したときが恐いのでまだ他メーカーは出していないのだと思う。
何せ、誤動作したら思わぬ方向にクルマが舵を切るのだから、正面衝突や人をはねるというようなことが容易に起こる。
どんなフェイル・セーフ機能を持っているのか、興味がある。

フェイル・セーフというのは、機械が壊れたときにどう制御するか、という機構だ。
根底にあるのは、機械は必ず壊れる、という考え方。
例えば、ジャンボジェットの舵の制御などは、もしもAという油圧ラインが切れたときには、Bが働くというふうに設計されている(はずだ)。(実際にはもっと何重にもやっているのだろうが)

世界初というのは素晴らしい。
でもかなりのリスクがある。
他のメーカーはすぐに買って分解し、どうなっているのか見たいだろう。
ドイツのメルセデスやBMW、フォルクスワーゲン、日本のトヨタやホンダも興味津々で分解するだろう。

最近、技術の日産というキャッチフレーズを聞くことがなくなったが、久々に技術の日産らしいクルマだ。

この、ステアリング・バイ・ワイヤの技術が確立すると、前に障害物があったり、人がいたりすると、クルマの判断でよけることができるようになる。
もちろん、自動運転もやりやすい。

モーターを作っている会社や配線を作っている会社にとっては、うれしい技術だ。

昔、クルマの中にはコンピューターなどなかった。
でも、今やクルマは高度な電子制御の塊になりつつある。
少なくとも、日本で作るクルマは、高付加価値でなければならないと思う。
そうでなければ、日本で作る意味がないからだ。

そういうクルマ作りをしていけば、まだまだ自動車産業は生き残れると思う。


| | 考えたこと | 00:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
クラウド・ファンディング
最近、クラウド・ファンディングという言葉を聞く。
新製品を出すときなどに、出てくる言葉だ。

Wikipediaで調べると、「不特定多数の人が通常インターネット経由で他の人々や組織に財源の提供や協力などを行うことを指す、群衆(crowd)と資金調達(funding)を組み合わせた造語である。」とある。

要は、何かいい新製品の考えを思いついたらそれをインターネット上で公開し、それを製品化するための資金を募る、という仕組みらしい。
有名な事例では、スマートウォッチがある。
これはスマートフォンと連動してメールが来たり、着信があったりしたら、腕時計が知らせてくれる、というもの。

このサイトによると、このアイデアはクラウド・ファンディングで10億円集めたとのことだ。

これは製品の宣伝と資金集めを一挙にやってしまうということで、従来の銀行で資金調達する、という仕組みを覆すものになる。
こういうことが広まってくると、銀行はどうやって生きていくのだろうか。

単純に言うと、銀行の役割は個人から余っているお金を預かり、それをまとめて運用して、儲かる話を見つけて、そこに投資をする、という事だと思う。
そうやって、余剰の価値が創出され、お金が世間に回ることになる。
当然、貸し付ける方が利子が高いので、その差益で儲かるという仕組みだ。
これが金融機関というものの役割だと思う。
今みたいに国債ばかり買ってたり、何かというと担保ばかり取るのは何か間違っている。

その銀行の役割を、仕組みとしてぶっ飛ばすのがこのクラウド・ファインディングになる。

インターネットは全ての社会の仕組みを壊しているが、銀行の役割も潰れていく。
こういうファンドが成り立てば、銀行は必要ない。
個人が、個人の判断で融資をするかどうか決める、という究極の金融(カネを融通する)ができるようになる。

これで10億も集まるというのだから、町工場など零細企業でアイデアだけは持っているというようなところは、クラウド・ファウンディングをすればいいと思う。

やりたいことがあって、それをやるための資金の目標額を決め、資金を募る。
もしも賛同する人が多くて、資金が集まれば、実行する。

なかなか面白い仕組みだと思う。
こういうのはインターネットができて、初めてできることだ。
不特定多数を相手に情報を伝達する仕組みが世の中を変える。

21世紀が終わる頃には、銀行もなくなっているかもしれない。


| | 考えたこと | 22:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
オガララ帯水層
アメリカのトウモロコシの生産は3億5千万トンくらい。
当然世界一の生産量。
五大湖の南側をコーンベルトといって、そこが主な生産地になっている。

このコーンベルトでトウモロコシを生産するためには、当然水が必要だ。
この地域の水を支えているのが、オガララ帯水層というもの。

Wikipediaによると、「世界最大級の地下水層で、総面積は450,000km²(日本の国土の約1.2倍)におよび、アメリカ中西部・南西部8州にまたがる」と書いてある。

とにかく、地下にたくさんの水がある。
何でもこの水は氷河期に蓄えられた水らしい。
もともと、この地域はあまり降水量がなく、当然使っていたらなくなる水源だ。
すでに井戸がだいぶ枯れたりしている。

これは大変なことだ。
世界一の穀物の生産地が、いずれなくなる水源に頼っている。
トウモロコシは半分以上が家畜の飼料になっているが、この生産量が落ちると家畜が飼えなくなる。
そうなると、酪農ができなくなったり、肉の生産量が落ちる。
そうなると、飢餓が発生し、争いが起きるのは人間の常。

21世紀は水の世紀だというが、こんなところにも水の問題がある。

地球にはたくさん水があるように思えるが、人間が使える真水は全体の0.8%しかないらしい。
意外と少ない真水。

でも、日本は真水が多い国だ。
水資源にだけは恵まれていると思う。

そういえば、イギリスに行って、日本の調子でクルマを水洗いして、近所の人たちに驚かれたという話を聞いたことがある。
あんなふうに水を使えるのは、日本の特殊事情らしい。

そうすると、21世紀は日本の時代かもしれない。

この水を使って、もっと農業をしないといけないのではないか。

そんな気がする。

| | 考えたこと | 22:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
老化
人間の老化のメカニズムは、比較的最近になってわかったらしい。

細胞が生きていくのにエネルギーが必要だ。
そのエネルギーを生み出すのがミトコンドリアというもの。
これが細胞の中にあって、エネルギーを生み出す。
大昔に二つの生物が合体して、細胞の中にミトコンドリアができたらしい。

ミトコンドリアが働いてエネルギーを生み出すときに活性酸素が出る。
これが遺伝子を破壊する。
遺伝子の一部が壊れるのだ。

これらは修復されるらしいが、いくらかはマチガイが残る。
これが老化の元になるらしい。

一般的に鳥は長生きだ。
鶴は50年以上生きるし、鳩は20年くらい生きるという。
カナリアでも10年以上は生きる。
これはなぜかというと、鳥類の細胞にはミトコンドリアがたくさんあって、活性酸素が出にくいということらしい。
ミトコンドリアがオーバーワークしなくて済むからだという。

ネズミが2〜3年しか生きないことを考えると、やっぱり鳥は長生きなのがわかる。

エライものだ。
ここまで理屈が分かれば、いつか長寿の薬ができるかもしれない。

しかし、もしも人間がみんな120歳まで生きることになると、大変なことが起こる。
人口が増えすぎるのだ。
超高齢化社会になる。

でも、老化しないのだから、90歳くらいまでは元気に働けるのかもしれない。
元気な90歳。
結婚は50歳でもOKということになる。
こうなると世界が変わる。

どんなふうに変わるのだろうか。

想像がつかないが…。

今世紀中に実現するかもしれないなあ。

| | 考えたこと | 23:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
前向きな生き方
アメリカのドラマは、前向きな生き方をする人たちがほとんどだ。
国の特性でもあるのだろう。
長く続くシリーズは特にそうなる。

不幸な生い立ちで、悪の道に入らざるを得ない人がいる。
スラム街で過ごす黒人などがそういうふうに描かれる。
ギャングの仲間にならないと、生きられない。
本当にそう思う。
運命のどうしようもなさが悲惨だ。

そんな生い立ちの人が罪を犯す。
そういう人を捕まえざるを得ない。
気の毒だと思うが、罪は罪だ。

その犯人が言う。
「一つ学んだ。必ずしも願いは叶わない。」
その犯人は妹に会いたかったのだが、会えなかったのだ。

犯人を捕まえた刑事が言う。
「でも、おれは願い続ける。」
そう言って、犯人の妹を彼に引き合わせる。

妹との再会を喜ぶ犯人。

何度見ても、こういうストーリーはいいと思う。


| | 考えたこと | 00:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
大学間連携フォーラム
仕事の関係で、大学間連携フォーラムという会に行ってきた。
ほとんどの出席者は大学の関係者だ。

最近の大学生は社会貢献の気持ちが強すぎて、働く上では問題がある、というような講演があった。
自分の仕事に社会貢献が感じられないと、辞めてしまうという。
しかし、それは言いすぎだろう。
そういう学生もいるかもしれないが、とてもそんなことは考えていないとしか思えない学生も多い。
講演者はどちらかというと、大企業のことを話し、「いい大学」の学生を対象にしていた。

パネルディスカッションをやった時も、何となく違うなあと思った。
こういうところが大学間の連携の難しいところだろう。

今や大学は一括りで大学と言えない。
上位のレベルの大学を大学というなら、下位のレベルの大学は社会にでるための準備をする訓練校だ。

それらが連携するのは至難の業だ。
大学の関係者はみんなそれを知っている。
知っているが、決して口にしない。
だから、どうしてもやっていることが建前になってしまう。

さらに、一つの大学の中でも、二つに別れる。
主に入試の種別で別れるのだ。
AO、推薦といった、高校3年の途中で入学を決めるような入試で入った学生と、一般入試で試験を受けて入った学生だ。
それに、系列校出身者という優待入学者が加わる。
大学は学生が二極化していると言っているが、入試を二極化しているのは自分自身だ。
できるだけたくさんの学生をAOや推薦入試で確保しておく。
残りを一般入試で少なめに取って、偏差値を上げる。
そんなことをしたら、二極化するのは当たり前だ。
下位校はそんなわけでどんどん教育が難しくなって、悪循環になる。
そうなるのはわかっているが、教育より経営が大事というのが学校法人の考え方。
こんなところが国から補助金をもらって税金を免除されている。

話がそれた。

大学間フォーラムなどというのは、大学同士が傷の舐め合いをやっているだけだ。

大学間の学生格差を話題にしないで、そんな取り組みをやること自体、それを表している。

出席者はそんなこともわかっているはずだ。

| | 考えたこと | 23:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
合理的ではない世の中
「若いからまだわからない」とか、「年をとったらわかる」、という事をよく言う。
そう言われると、若い人は不満らしい。
そんなことがあるか、という不満だ。

若いと、世の中合理的にできている、と思っている。
合理的なのは、教科書の中の世界だけだ、ということがわからない。
何にでも一つの答えが出ると思っているのだろう。

もちろん、自然科学の世界は別だ。(本当は別ではないが…)

実際の世の中で起こっている事は、ほとんど合理的ではない。
リクツがつかない。理由がわからない。理不尽だ。何でこうなったのかわからない。
こんな事態になる。

「合理的」には年は関係ない。
だから、「年をとったらわかる」という言葉はオカシイと思う。
わかるものは今わかるし、わからないものは年をとってもわからないはずだ、ということになる。

これは仕方がない。
若い人は合理的なものを理想としているはずだ。
ぼくも若い頃はそうだった。
AならばB、BならばC、だから、AならばC、というような命題は年に関係なく成り立つ。
この世の中はそういう仕組みでできていると思う。
そうでなければならないとさえ思う。

でも、実際は違う。
自分で年をとらないとわからない。
世の中は理不尽で、アンフェアで、どうしようもないものだということがわかってくる。
それが人間の集まりなのだ。

人間はどうしようもない悪さもするし、びっくりするような良いこともする。
それはそうなんだから仕方がない。
それを受け入れて生きていくしかない。

それは残念ながら年をとらないとわからない。

| | 考えたこと | 02:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
読書ゼロが4割超え
2月27日の読売新聞の記事。

「大学生の4割が全く本を読まないことが全国大学生活協同組合連合会(東京)の生活実態調査でわかった。調査は大学生協連が昨年10〜11月、全国30の国公私立大学で実施し、大学生8930人の回答があった。
 1日の読書時間(電子書籍も含む)を尋ねたところ、平均26・9分。全く本を読まない「0分」と回答したのは40・5%だった。同様の調査を行っている2004年以降で読書時間は最も短く、「読書ゼロ」は初めて4割を超えた。」

どれほど全体を表しているかわからないが、感覚的にはそうなのかもしれないと思う。
ただ、ネット上の記事などは、今の人はたくさん読んでいるのではないか。

でも、自分を振り返ってみると、大学時代は小説をよく読んだ時代だったと思う。

池波正太郎の忍者ものや柴田錬三郎の眠狂四郎シリーズや岡っ引きどぶ、筒井康隆の一連のドタバタSF、豊田有恒の歴史SFやかんべむさしのパロディSF、光瀬龍の年代記SFなど、そして司馬遼太郎の歴史物、そして卒業前にトルストイとドストエフスキーをまとめ読みした。

高校時代から本格的に小説を読み出したが、その延長で色々読んだ。
気に入った作家は、作品を追いかけるタイプだったので、筒井康隆や豊田有恒は就職してからも追いかけて読んだ。

就職してからは小説も読んだが、年月を経てどちらかというと新書やノンフィクションが多くなった。
今読む小説は、海外のミステリー、日本の時代劇小説あたり。

小説の世界を知ることは大事なことだ。自分の世界だけだと、本当に世間が狭い。
自分のできる体験などたかがしれている。
テレビ番組を見てもいいし、映画を見てもいい。
しかし、小説の世界を知らないと、もったいないのではないか。

ハードボイルドな火付け盗賊改方の世界、孤独なシカゴの女探偵の世界、東西冷戦のスパイの世界、実業界のかけひきの世界、SFの荒唐無稽な世界など、いろんな世界がある。

そしていろんな世界を知ることで、人の気持ちを察することができるようになる。
ある人が教養とは人の心がわかること、と言っていた。
教養をつけるためには、本の世界を知ることが大事なのは言うまでもない。

今の人がコミュニケーション力がないというのは、読書をしないことと関係があるのではないかと思う。

ぼくは、それは教養がないこととイコールだと密かに思っている。


| | 考えたこと | 00:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
2233歳
音だけのドラマは、昔はラジオドラマと呼ばれていたが、今はオーディオドラマという。
音しか情報がないので、セリフや効果音などの工夫がいる。

今はNHKのFMで土曜日にFMシアターという番組をやっている。
これをパソコンで録音しているのだが、何度聞いてもいい番組というのはめったにない。
でも、こないだやっていた芸術祭大賞を受賞した「2233歳」という番組はよかった。

アニメ、サザエさんの波平役の故永井一郎が出ていた。
アカデミー賞でいうと、助演男優賞というところか。
ヒサナガという自称2233歳のおじいさん。見たところ90歳だが、2233歳だけあって、戦争の事や江戸時代、平安時代、大和時代、弥生時代などの話をする。

主役はちょっと不器用な25歳の娘。父母と妹は先生の先生一家だ。自分だけがなかなか居所が定まらず、3つ目の職場で、今は病院の介護職。

この二人が妙に馬が合って、話をするようになる。
そして主人公はヒサナガさんの話を聞くうちに、自分に自信を持ち、仕事のやり方を覚え、いつしか職場に慣れて自立していくというストーリー。

最初に主人公がヒサナガさんにかけた言葉が、「ずいぶん長生きですね。それじゃ想い出がたくさんあるでしょう」という言葉。
この言葉で二人は仲良くなった。
普通の人なら、「そんなバカな」というところだが、2233歳という年齢をとりあえず受け入れ、ヒサナガさんの話を興味深く聞いたことがよかったのだ。

ヒサナガさんの話し相手を務めることで、主人公は成長する。
そしてヒサナガさんの最期を看取り、ドラマは終わる。

さすが芸術祭大賞を受賞しただけのことはある。
いいドラマだった。
こういうシナリオを書いて、それがドラマになったら楽しいだろうと思う。

しかし、この数ヶ月録音して聞いているが、これはよかった、というのはこの1本だけ。

難しいものでもある。
絵がない分だけ、ストーリーの比重が大きくなる。
想像力に訴えるような台詞回しも必要だろう。

何でも難しいが、オーディオドラマも難しい。


| | 考えたこと | 23:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
ソウルフード
テレビで世界のファストフードというのをやっていた。
ちょっと見たのだが、いろんな食べものがある。

その中で、聞いたことがなかったのが、チタリングス。
豚の小腸を茹でたもの。
ソウルフードというカテゴリーの食品だという。

調べてみると、ソウルフードというのは「アメリカ合衆国南部で奴隷制を通して生まれた、アフリカ系アメリカ人の伝統料理の総称」とのこと。
今まで聞いたことがなかった。

記事によると、フライドチキンもその中の一つだという。
Wikipediaでフライドチキンをひくと、「アメリカ南部に移民したスコットランド移民の鶏肉料理が、アフリカ系アメリカ人の使用人に伝わり、現在の調味料やスパイスを使用したアメリカ風フライドチキンの調理法が形作られたといわれている。」と書いてあった。

その言い方でいくと、ぼくのソウルフードの一つはさしずめ「お餅のお茶漬け」だ。

この食べ方は、誰に言っても「そんな食べ方聞いたことがない」と言われる。
いまだかつて、「ああ、そういう食べ方もあるなあ」と言われたことがないのだ。
ぼくが幼稚園の頃、母から教わった。
おそらく、当時母が読んでいた暮らしの手帳か何かに出ていたのだろうと思う。

料理法は簡単だ。

まず餅を焼く。あまり焦げ目がつくほどではなく、プーッと膨れたくらいでOK。
それをお椀に入れ、味の素と塩と醤油を適量かける。
そしてお湯を入れるだけ。
好みで塩昆布、かつお節、とろろ昆布を入れる。
味付海苔を入れてもいける。

それだけだが、醤油は湯を入れる前に直接餅にかけるのが正解。
塩昆布を入れるのなら、塩の量は調整する。
味の素はこの時のために買ってある。

これは次男が受け継いだ。

ソウルフードは受け継いでいかないといけない。


| | 考えたこと | 21:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
郵便というシステム
最近の若い人の中には、郵便というシステムのことを理解していない人がいる。

郵便局に宛名しか書いていない封筒を持っていった大学生がいる。
伊達や酔狂で持っていったわけではない。
それで届くと思っていた由。

封筒の真ん中に宛名だけ書いてあるのだ。
それが届くためには、郵便局が宛名から住所がわかるデーターベースを持っている必要がある。
たしかに、インターネットでは有名なところならその名称を入れたらページが出てきて住所がわかる。
だからといって、そんなことをいちいちやっていたら、多数の郵便を届けられない。
有名でない(一般の人の)住所はわかるわけがない。
そんなことを考えていたのだろうか。

もちろん、裏に自分の住所氏名を書くことも知らなかったらしい。
郵便局の局員に言われて、ああそうか、と書いた。
それが、もしも届かなかった時に、差出人のところに戻すために書くというところまで想像できたかどうか…。

二十歳を過ぎても、そういう常識がない。
世の中のことに問題意識を持っていないのだろう。
自宅にダイレクトメールなどの封筒は届かないのだろうか。
届いても、それを見ていないか、それとも何も考えずに生きているのか。

それにしても、何のために住所や郵便番号があると思っているのだろうか。

この若者は、郵便というシステムそのものを理解していない。
住所を書けば、そこに届けるというシステムだ。
郵便というシステムは産業革命の時にイギリスにできた。
迅速な情報伝達のためにできた、画期的なシステムだ。

21世紀になって、それが陳腐化してきた。
インターネットが発達して、メールシステムの全盛期になった。
封筒で送る代わりに、添付ファイルもできた。
それでも、まだ過渡期だ。
大事な書類は封筒で送る。
そのために、住所と郵便番号がある。

もちろん、若者のみんながみんな、郵便というシステムを理解していないわけではない。
年賀状を送っている人は、ある程度わかっているだろう。

年賀状も送らない、郵便など見たこともない、その上、世の中のことについて何の興味を持っていない人たちが、郵便というシステムを全く知らない。

それを知らないからといって、別に覚えたらいいだけだ。
しかし、それを知らない人は他の何を知らないかわからない。
だから、恐くて仕事など任せられない、というのが世の中の常識だ。

しかし、人類の生み出した知恵が、こんなにも簡単に忘れ去られるとは、驚くしかない。

それほどインターネットは衝撃を与えた。

| | 考えたこと | 22:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
2660件
このブログ、初めて9年。記事の数が2660件になる。

多くの記事は、読んでくれている人にとってはどうでもいいことだったり、関心がないことだったりすると思う。
始めた頃は、書いたり書かなかったりで、月に10件〜20件だった。
でも、2007年くらいからは書く日の方が多くなって、2009年からはだいたい毎日書いている。

難しいところで、毎日書くから気に入ったものが書けるという場合もあるし、下らない記事が増えるということもある。
たしかに、毎日書かないと…と思うと、ネタがないときは苦しい。
疲れて帰った時、書くのがシンドイときなども、書くことを探すことになる。
思いついたことはメモしたりしているが、それでもないときは休む。

でも、時々は無理やり書いてよかった、というケースもある。
書き始めてみて、思いもよらない記事が書けたりする。

時々は書いていて、一度書いたような気がしてくる。
そういう時は、そのキーワードで検索する。
それで没になった記事もある。
ほとんど同じことを2回書いて、気がつかない。

余裕がある時もある。
週末に書きだめしておけたりする。
次週の分を全部書いてしまえるときは好調だ。
でも、そんな時はめったにない。

途中まで書いてほっておく時もある。
ひどい時は題名だけ書く。
とりあえず、題名が決まっているとあとは書きやすい。

本当に何にも出てこない時もある。

そういう時はこういう記事を書く。
おそまつ。

| | 考えたこと | 22:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
スコヴィル値
スコヴィル値とは、トウガラシの辛さの単位。

この単位、今はトウガラシに含まれている辛さの成分、カプサイシンの量を測って値を決めるようだが、Wikipediaによると、それ以前は「トウガラシのエキスの溶解物を複数(通常は5人)の被験者が辛味を感じなくなるまで砂糖水に溶かし、その倍率をスコヴィル値としていた」とのこと。

普通のピーマンをゼロスコヴィルとすると、ハバネロは30万スコヴィルになる。
タバスコ社(正式にはMcIlhenny社)のホームページを見ると、いろんなスコヴィル値のソースが売られている。
一番辛いソースがハバネロソースで7000スコヴィル程度。これは家にある。

辛いものというのは、どこの国でも愛好者がいるらしく、アメリカのブレア社というところは「デスソース」というのを作っている。
もちろん、デスはDeathで、死ぬほど辛いということだろう。
入れ物にはガイコツの絵が書いてある。
ここのウルトラデスソースは117万スコヴィル。

このスコヴィル値の最大は純粋なカプサイシンの結晶で、1600万スコヴィル。
辛さ成分そのものだから、トウガラシ系でこれより辛いものはない。

だいたい、暑いところは辛い食べ物が多いと思う。
暑さで食欲がなくなるのを防ぐために、辛いものを食べる。
汗をたくさん出すことで、体温を調節するという効果もあるらしい。

インドのカレーなどはまさにそうだ。
トウガラシに限らず、いろんな辛いスパイスがある。

インドネシアに出張したとき、薬味で出ていたハバネロをまるまる1個食べて、しばらく口の中の感覚がなくなった。
普通のシシトウだと思ったのだ。
この時は強烈だった。
その時に食堂で食べたものは味がわからなかった。

しかし、辛いものには慣れがある。南米かどこかのロケで、辛いものは得意という人に実際にトウガラシを塗りたくったものを食べてもらっていたが、それは平気で食べていた。
しかし、日本のワサビを食べたとたん、これは無理、と吐き出していたから、味覚には慣れがあるのだろう。

ワサビは日本発の辛さだ。
英語でもwasabiという。
あの鼻と目に来る辛さは独特のものだ。

ワサビやトウガラシやスパイスの辛さを統一する単位は作れないものだろうか。

「辛さの統一単位」これはできたら素晴らしい。
ノーベル賞はもらえないだろうが…。

| | 考えたこと | 22:36 | comments(0) | trackbacks(0) |