考えたこと2

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少子高齢化
今の日本は少子高齢化が進んでいる。

テレビで年金の特集を見ていたら、いやになった。
今の制度を続けていくことが無理なことは、ある程度わかっていたはずだ。

金利が下がったとか、リーマンショックがあったとか、想定外のことはあったにせよ、少子化で低成長という二つの理由だけでも制度設計を変えなければならなかったはずだ。

年金をもらう人の問題ではなく、もう少し払う人の問題として考えるべきだ。

長生きすることは、それだけで価値があることだろうか。

池田晶子が臓器移植について書いた文章にこんなものがある。

「人が、死ぬのを恐れて、他人の臓器をもらってまで生きたいと思うのは、なぜなのだろうか。
生存していることそれ自体でよいことである、という、人類始まって以来の大錯覚がここにある。しかし、生存していることそれ自体は、生まれ落ちた限りサルにでもできることで、いかなる価値も、そこにはない。それが価値になることができるのは、人がそれを「善く」生きようと努める、そこにしかあり得ないのだ。(中略)
遠慮なく、極端なところを言ってしまえば、愚劣な欲望を価値とする愚劣な人間が、ひたすら長生きしてどうするのだ。愚劣な人間の愚劣な欲望のために、自分の臓器を差し出すことが、なぜ愛なのだ、世のためになることなのだ。」

極論だと池田晶子は言っているが、ぼくは正しいと思う。
曽野綾子も「老いの才覚」の中で、似たようなことを言っていた。

政治家は老人が選挙で票を持っているから、その味方をする。

票を持っていない若い人はどうなるのだ、と思うような政治家はいないのか。

NHKの解説者だけが、フリップを出して、この年金の問題は、若い人の就業の問題と切り離して議論はできないと言った。
ニート、フリーターをどうやって社会に復帰させるかとか、働きたい若い人が就職できない状況をどうしていくか、そんなこととこの年金の問題はつながっている。

もちろん、アジアの若い人に比べたら、日本の学生は魅力がない、という企業の意見があるのはわかる。
その通りだと思う。

だからこそ、早くこの問題を議論しないと、間に合わなくなるぞ。


| | 考えたこと | 01:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
マカロニ・ウエスタン
ぼくが小学校のころだから、1960年代の後半くらいに日曜洋画劇場が始まったと思う。

淀川長治の名解説。
そこで西部劇を見た。
白黒の作品で、幌馬車とか、インディアンとか、騎兵隊とか、カウボーイが出てくる勧善懲悪のストーリー。
今から思うと、日本の時代劇のようなものだった。

その後、インディアンは出てこなくなり、白人の悪者が出てくるようになった。
ストーリーが複雑になり、決闘や悪人との対決が主題になって、心理描写が多くなった。
正統派ウエスタンは1970年代に入って、下火になったと思う。

変わって出てきたのがマカロニ・ウエスタンだった。
イタリアで作られたから、マカロニ・ウエスタンという。
これはアメリカのウエスタンと違って、なんというか乾いた空気。
メキシコの国境あたりが舞台で、極悪人とさすらいのガンマンというような取り合わせだ。
一度やられて、最後に対決して勝つ。

クリント・イーストウッドが懐かしい。
荒野の用心棒、夕陽のガンマン…。

高校時代に友達とよく近所の映画館に観に行った。
マカロニ・ウエスタンの3本立て。
朝の10時くらいから、夕方の4時頃まで観る。
若かったから、できたことだ。今なら目と頭が痛くなる。
昼飯は映画館で売っているものを食べた。
当時、ポップコーンがあったか…。
今は潰れてしまった。

朝から夕方まで、1日仕事。
帰りに映画館の近くの食堂で丼かうどんを食べた。

マカロニ・ウエスタンというと、クリント・イーストウッド、映画館、食堂のセットで思い出す。

70年代は、商店街の近くに映画館があった。
スクリーンが一つ。今のシネマコンプレックスとは全く違う。
3本立て、というような興行をしていた。
そんな映画館もなくなって久しい。
映画が庶民の楽しみだった頃にたくさんできて、90年代にはほとんどなくなった。
レンタルビデオの影響もあったんだろう。

世の中は変わっていく。

ゆく川の流れはたえずして、しかももとの水にあらず。

鴨長明が800年ほど前に書いた言葉が、この年になると身にしみる。




| | 考えたこと | 09:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
宗教
宗教という言葉は日本人にはあまりなじみがないと思う。

特に友人どうしでは、宗教についての会話などほとんどない。
宗教がタブーでさえなく、話題にならないだけだ。

日本人は無宗教だとか、生まれたときは神道で死ぬときは仏教だとか、いろんなことが言われているが、みんなそんなことも全く気にしていない。

ぼくは、漠然と、神さんはいるだろうと思っている。
これを宗教心と言えるかどうかはわからない。

世界の戦争のかなり大きな部分は宗教戦争だ。
パレスチナとイスラエルの戦いも、現代の宗教戦争と言えるだろう。

日本人は宗教に関して鈍感だから、宗教上の対立ということがわからない。
そんな細かいこと、気にせんかったらええやん、というような本音がある。

パレスチナとイスラエルの争いも、ええ加減なとこで手打ちしたらええのんちゃう、というような本音がきっとある。
みんな仲ようしいや、といって半々で住んだらどうか、というような気分。
だから、国際的な和解の立役者にはなれない。
何でそんなしょうもないことでいがみ合ってんねん、と思ってしまっては本腰が入らない。

実際は彼らにとっては、「しょうもないこと」などではないし、命をかけて戦うべき価値があるものなのだろう。

だから、日本人は世界では珍しい部類の民族になるだろう。

しかし、山本七平は実際には日本には日本教がある、といった。
日本人は気づいていないが、我々にも宗教がある。
たとえば、犬を食べるということは禁忌である。
どこかに、日本人は「彼らは犬を食べる」という理由で、かつて民族差別を行った、と書いてあった。

日本人にとっては、宗教というのは難しい。

本当に難しいのは、宗教があることを認識せず、宗教がないと思っているのに、実際は宗教があることだろう。

これから本当にグローバル化していくのに、これはいつか認識せざるをえないと思う。


| | 考えたこと | 01:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
資格
資格が流行っている。

就職に有利だろう、ということで資格を取る。
「どの資格が有利ですか?」というような質問もある。

考えないといけないのは、資格は手段であることだ。
何かやりたいことがあって、そのために資格を取らなければいけない、という場合がそれにあたる。

それが逆転している。
そのために、資格を取らなければ仕事ができない、という思い込みさえ招く。
オカシイことだ。

 「就職するのに資格がいるでしょう」
 「そんなものはいらない」
 「え、そしたら何で決まるんですか?」
 「熱意とやる気」
 「・・・」

そういう会話がそこら中でされている。

また、資格が多い。
厚労省関係が目立つ。

社会保険労務士、医師、歯科医師、保健士、助産師、看護師、診療放射線技師、臨床検査技師、理学療法士、作業療法士、視能訓練士、言語聴覚士、臨床工学技士、技師装具士、歯科衛生士、救急救命士、あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師、柔道整復師、薬剤師、社会福祉士、介護福祉士、精神保健福祉士、管理栄養士、美容師、理容師‥。

こんなに要るのか、と思う。

いくつかの資格は、もともとはなかった。
介護関係などは、介護保険制度とともにできたものだろう。
厚労省が何かをすると、資格ができ、その試験を運営する公益法人ができ、天下り先ができる。
そしてその資格を取るための専門学校ができ、場合によっては大学の学部ができる。

しかし、考えてみてほしい。

資格が必要な仕事というのは、ほとんどが税金を使う仕事である。
ナントカ士の人たちは、収入の何割かを保険などの税金で得ているのだ。

これから少子高齢化が進み、GDPは減少し、税収は減り、保険制度や年金制度は破綻する。

一体どうするつもりだろうか。

若い人が資格、資格と奔走し、資格をとって10年〜20年ほどしたら、税収が激減する。
そうなると、その資格は世の中にとっては必要なのだろうが、お金が払えなくなり、みんな利用しなくなる。

早い話が、今まで500円払えばやってもらえた仕事が、1500円になるのだ。

どうするつもりなんだろうか。

今は税金を使う人を作るのではなく、払う人を育てないといけないのだ。

低成長の時代なったら、それにあった制度を作らないといけない。

本当に、どうするつもりなんだろうか‥。




| | 考えたこと | 02:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
タバコ
タバコをやめて、3年になるか。

やめると、タバコのにおいが気になるようになったり、近くで吸っている人が疎ましく感じられたりするというが、ぼくはそんなことはない。

タバコを吸った年数が三十数年。
今死んでも、まだ半分以上だ。
それほどタバコは身近なものだった。

脳梗塞で入院して、入院中は吸えず、退院して灰皿やライターが捨てられていて、やめた。
意外とあっさりやめられたものだ。
それまで1回だけ禁煙したことがあるが、十日持たなかった。

これは一生タバコとは縁が切れないなあ、と思っていたら脳梗塞。
病気には勝てない。

でも、タバコの良さはわかる。
世の非喫煙者はタバコに異常に冷たい。
それは吸ったことがないから、当然だ。

仕事をして、一段落ついた時の一服。
食後の一服。
考え事をしている時の一服。

あの一服はすばらしい。

けむりを燻らす、という表現があるが、まさにそういう感じ。

残念ながら、ぼくはもう吸えないが、その価値はわかる。

世間の風は冷たすぎる。

もちろん、副流煙や灰皿など、人の迷惑は気にしないといけないが、楽しみは認めるべきだと思う。

物理的に身体に悪いことが、必ずしも人間にとって悪いことだとは限らない。

それをわからないといけないと思うのだが…。


| | 考えたこと | 00:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
ユニクロ
ユニクロがニューヨークに出店した。

すごい勢いだ。
中国やフランスに出ていったかと思うと、次はニューヨークのソーホー。

しかし、ちょっと前まで中国は生産地であって、消費地ではなかったはず。
ユニクロというと中国製、ということだった。
いつの間にか、中国も消費するところになった。

圧倒的な安さで、アパレル界の価格破壊をした。
とにかく安かった。

あれから数年。
ユニクロはあまり安くはない。
時代は変わる。

安いことは安いのだが、以前の衝撃的な値段ではない。
そして高いものが増えた。
服の種類が増え、平均単価はきっとかなり上がっていると思う。

家の中で着るスウェットなどは、安いと思う。
だから、部屋着はユニクロで買う。
スリッパもユニクロだ。

しかし、外で着る服はユニクロでは買えない。
ユニクロのサイズはスリムなのだ。

だから、痩せていないと買えない。

太っていると高くつく。

それを教えてくれるのが、ユニクロだろう。



| | 考えたこと | 00:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
サン・トワ・マミー
越路吹雪の曲。

日本でシャンソンといえば、この曲か枯葉かな。

このサン・トワ・マミーという曲は、出だしが「二人の恋は終わったのね…」で始まる。
そして、最後が「目の前が暗くなる サン・トワ・マミー」で終わる。
どう考えても、失恋の歌。

でも、この題名を調べると、Without you, my lover という意味で、あなたなしでは(生きてはいけない)という訳になると思う。

だから、雰囲気的には、失恋の歌ではなく、失恋しそうになったのだが、やり直したい、という歌なのだろう。

ぼくはフランス語はわからないが、この曲調はどう考えても明るすぎる。
こんなに明るい失恋の歌はない。
ずっと疑問だったのだが、原語ではこの曲調のように、ほんのり明るい曲なのだと思う。

そう思って探してみると、フランス語の歌詞の訳が載っていた。

ニュアンスがちょっと違っている。

やっぱりメロディは正直だ。

万国共通の言葉なのだろう。



| | 音楽 | 23:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
久しぶり
久しぶりに誰かに会う。
久しぶりにどこかに行く。
久しぶりに何かをする。
「久しぶり」と誰かに声をかける。

久しぶりはいい言葉だ。

しかし、忘れてはならない。
人生は一期一会の連続。
今日、「おお、久しぶり」と言った相手と次にいつそういう言葉が交わせるかは、全くわからない。
それが今生の別れになるかもしれない。

よくお墓に倶会一処と書いてある。
これは「みんなで一緒にここで会おう」、というような意味だと思う。

人生で確実なことは、死ぬことだけだ。

昔は死は遠い彼方で、言葉に現実味はなかった。
ところが、だんだんと現実味を帯びてきて、最近は少し近づいた感がある。
いつかはそれが形をとって現れる。

できれば、自分が死ぬときに、あの時久しぶりと言ったがあれが最期だったのか、しまった、と思うのは避けたい。

でも、そういうことはその時にはわからないんだろうなあ。


| | 考えたこと | 22:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
科学と文学
寺田寅彦著 青空文庫

電子書籍リーダーを買って、ダウンロードした。
昭和8年の作品。
こういうのがあるから、年寄りは得だ。
昔読みたかったが、入手できない作家の本が著作権が切れて青空文庫というサイトで公開されている。
この寺田寅彦や岡本綺堂、正宗白鳥、泉鏡花などが無料で読めるのだ。
ボランティアで電子化してくれたみなさんに感謝しながら、読む。

寺田寅彦は科学者だったが、夏目漱石の弟子でもあり、科学者兼文学者。
たくさんの随筆を残している。
今でこそ、日本でも海外でも、ノンフィクションの分野で科学者の伝記文学や業績、最新の研究動向などを科学者兼作家たちが本にしているが、昭和8年当時は少なくとも日本ではそういう動きはなかったと思う。

この科学と文学という小論で、寺田寅彦はそういう事態を予測している。

「それはとにかくとして、現在において、科学者が、科学者としての自己を欺瞞することなくして「創作」しうるためにとるべき唯一の文学形式は随筆であって、そうしてそれはおそらく、遠き「未来の文学」への第一歩として全く無意味な労力ではないと信ずるのである。」

現在、科学者であり、文学者でもある人たちがいる。
日高敏隆、杉山幸丸、正高信男…、これらはいずれもサル学の人たち。
岡潔、藤原正彦などの数学者もいる。

海外では、ぼくが知っているだけでも、E.T.ベルやサイモン・シン、アミール.D.アクゼル、コンラート・ローレンツ、チャールズ・サイフェ、リチャード・ドーキンスなど、数多くの科学者兼文学者がいる。

「要するに科学の基礎には広い意味における「物の見方と考え方」のいろいろな抽象的な典型が控えている。これは科学的対象以外のものに対しても適用されうるものであり、また実際にも使用されているものである。それを科学がわれわれに思い出させることは決して珍しくも不思議でもないのである。もとよりそういう見方や考え方が唯一のものであるというわけでは決してないのであるが、そういう見方考え方が有益である場合はまた非常に多くてしかも一般世人がそれを見のがしていることもはなはだ多いように思われる。」

そういった人たちの考え方に触れて、触発されるものは多い。
それは、決して直接何かの役に立つものではないことがほとんどだ。
でも、すぐに役に立つものは、すぐに役に立たなくなるということも、人生の知恵としてある。
だからこそ、そういったすぐれた科学者の考え方や、世の中の見方を知ることは、大事なことだと思う。

時代は進み、寺田寅彦の予想は実現され、さらに先に進んでいる。
たくさんのポピュラー・サイエンスの本が出版され、読まれるようになった。

しかし、彼の予想になかったのは、教育がその方向に行かなかったことだ。
彼が今の「理科離れ」という状況を聞いたら、さぞかし残念がるのではないかと思う。

もったいない…。

| | | 22:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
山下達郎
次男から山下達郎のCDを持っているか?と聞かれた。

何かで一度聞いて興味を持ったらしい。
残念ながら、新しいものは持っていないので、全部LPレコードだ、というとあきらめた。
何でもTSUTAYAでは山下達郎は貸し出ししていないらしい。
なんでかな?

山下達郎はすごいミュージシャンだと思う。
職人肌というヤツだ。

シュガーベイブのSongsに始まって、山下達郎のソロになってからのCircus Town、Spacy、It's a poppin’ time、Go Ahead、Moonglow、Come Along、Ride on Time、For you、Melodies、Pocket Musicまで、全部LPレコードで持っている。
全部で11枚。1975年〜1986年までだ。

もちろんそれ以降も音楽活動をしているが、興味を失った。

ぼくが一番すごいと思うのは、Circus Town。
ソロの一枚目だ。
何度か書いているが、彼がアメリカに渡って、LPの片面をニューヨーク、片面をロスで録音した、というもの。
この音は衝撃的だった。
A面の2曲目のWindy Ladyという曲で、ウィル・リーという人がベースを弾いている。
これがスゴイ。

その後、Ride on Timeで売れるまでのLPは聴きごたえがある。
吉田美奈子との共作がすばらしい。
メロディは達郎で、吉田美奈子は詩とコーラス。
山下達郎というと、一人アカペラのイメージがあるが、あんなものとは比べものにならない。
とにかく、このコンビは最強だ。

そして、残念ながら、いまだにCircus Townを超えるアルバムは作られていないと思う。

デビュー作がベスト盤。
この人らしい。
| | 考えたこと | 10:03 | comments(2) | trackbacks(0) |
入社時の上司
書いたことがあると思うが、入社時の上司というのは大事だと思う。

ぼくはそれに恵まれたと思っている。
今日宴会に呼ばれて行ったら、その人が来ていた。
もう70過ぎだが、ちょっと頭が寂しくなったことを除けば、元気で昔のままだった。

「おお、元気そうやな」と会って一番に声をかけられた。

ぼくが会社を辞めたときには、もう定年していたが、覚えていたのか。

興がのって、宴会の終盤に、その人が言った言葉。

仕事は自分のやりたいようにやらんといかん。楽しくやらんといかん。
昔はそういうことができた時代だった。それには感謝しないといかん。

だいたい、そんな意味だったと思う。
今日は酔っ払ったので、定かではないが、ぼくにはそう聞こえた。

今はシルバークラスとかいう、生涯教育の教室に通っているらしい。

人と人の出会いはほとんど偶然である。
でも、その偶然に支配されることはたくさんある。
もちろん、振り返って、そう思うだけだ。
出会ったときは、どんなふうになるかなどわからない。

でも、ぼくが入社した時、課長は仕事は楽しくせないかん、ということを教えてくれた。

海外の文献の翻訳の宿題が出て、期限までにできなかったら5000円、と言われ、結局それを支払った。
今の若い人なら、どうして5000円払わないといけないのか、と反論することもあるだろう。
でも、そんなことは、全く思わなかった。
仕事というものはそういうものだ、と思っていた。
それでいいのだ。
その金は課の宴会に使われた。

課長が血液型に凝って、みんなの血液型を当時の名簿に書いていた。
ぼくが入った時には、血液型を聞かれ、それで会社というところは血液型を重視するのか、と思った。
今なら個人情報だ、といって訴えることができる。
でも、そんなことは考えなかった。
仕事というものは、そういうものだと思っていたからだ。

5時を過ぎて課長に電話がかかってきたら、雀荘に電話をしたこともあった。
昼間に何かコソコソと電話していたら、たいがい麻雀の相談だ。
会社の近くの店でよく卓を囲んでいた。

そういう課長だった。

その人に会っていなかったら、どうなっていたかはわからない。

人生は一度に二回の経験はできないから、それは仕方がない。

でも、ぼくはいい出会いだったと思う。

そういう運命に感謝しないといけない。



| | 考えたこと | 00:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
貧乏ゆすり
半年くらい前から、貧乏ゆすりがひどい。

右足か左足(あるいは両方)を小刻みにゆする。
わかっていても、やめられない。
無理にやめても、すぐに始まる。

どうしてもやめたいときは、イスの上であぐらをかく。
これなら大丈夫と思うのだが、そのうち膝が上下し始める。

小学校の低学年の頃、貧乏ゆすりをしていた。
その時も、自分ではやめたいのだが、なかなか止まらない。

それも高学年になると、いつの間にかなくなった。

ネットで調べると、ストレスが原因だという。

小学校の高学年から、社会人になって32年間は貧乏ゆすりとは無縁だった。
その頃もストレスはあったと思うのだが…。

自分でも嫌だが、やめられない。
自分の意志ではどうにもならないと思う。

よくわからないが、何らかの種類のストレスが貧乏ゆすりをさせているのだろう。

仕事をやめれば、止まると思う。

でも、仕事はやめられない。

自分で何とかしないといけないとは思うのだが…。

| | 考えたこと | 01:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
カリグラフィーペン
カリグラフィーという言葉がある。

これは専用のペンを使って、文字をきれいに書いてみせるための技術というようなもの。
専用のペンというのがミソである。

カリグラフィーペンで一般的なものは、幅の広いペン先の万年筆。
まっすぐ書いて、幅が1.5mm〜5mm程度の太さになる。
ただ、これを同じ方向に持ち、縦に書いたり、横に書いたり、ななめに書いたりすると、字の幅が変わる。
その効果を用いて、字をきれいに見せる手法がカリグラフィー。

何本かカリグラフィーペンを持っている。
一つは3つのペン先が取り替え式になっているもの。
1.5、3.0、5.0の三種類だったと思う。

あとの2つはペン先が1.5mmのもの。
一つは普通の万年筆。
もう一つは、特殊なペン先のもの。
パイロットのパラレルペンという、二つの金属を合わせたような構造。なかなかよくできている。

最近、目が悪くなり、字が見えなくなった。
また、字は書かないと下手になる。
その両方が相まって、字が汚くなった。
だから、きれいにみせるために、カリグラフィーペンを使う。

太さが1.5mmもあるから、まず小さな字は書けない。
ペンをしっかり持って、方向を確認してから書くので、ゆっくりになる。
そして、カリグラフィーペンを使うと、きれいに書こうとする心理的効果が働く。

これら3つの効果が、汚い字をマシにみせる。

ワープロを使うようになって、漢字は忘れるわ、字が汚くなるわ、ろくな事がない。
しかし、そのろくな事を補って余りあるメリットがワープロにはあると思う。

だから、カリグラフィーペンの出番なのだ。

もっと短いのや、普通の万年筆みたいなのを出せば、売れるんではないかと思う。

どうでしょうか…。



| | 考えたこと | 23:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
MS-DOS
今日は久しぶりにレッスンだった。

行ってみると、先生がスマートフォンを持っている。
あ、それカシオのやつですね、と言ったら、長いことパソコンを持っていない生活だったので、こういうのを買うと面白い、との返事。

先生は早速チューナーのアプリを入れていた。
なるほど、チューナーにもメトロノームにもなるのか。
こちらが教えられる始末。

MS-DOS以来、こういうのを買ったとのこと。

MS-DOS?いつ頃、何をしてたんですか?と聞くと、20年以上前にMS-DOSのマシンのデーターベースを仕事にしていたらしい。

MS-DOSはコマンドを打ち込んで、自分で触れるところが面白かった、とのこと。

へー、とびっくりした。

MS-DOSといえば、listとか、dirとか、cdとか、copyといったコマンドを打ち込んで、動かすもの。
ぼくはマイクロソフト(MS)ではなかったが、デックのミニコンのDOSを使っていたので、だいたいは知っている。

ウィンドウズが一般的になる前のオペレーティングシステム。
GUI(グラフィック・ユーザー・インターフェース)ではなく、CUI(キャラクターベースド・ユーザー・インターフェース)である。
つまり、マウスを使って、ウィンドウの中のファイルを動かしたりするものではなく、キーボードで文字を打ち込んで動かす仕組み。

先生がそれを使っていたとはびっくり。
なぜそれを使う事になったのか、経緯は聞かなかったが、そんな風にコンピューターを使っていた時期があったのか、と親近感がわいた。

今日は前回やった、Once I lovedという曲の続き。
メロディと伴奏を一緒にやった。
いい曲だ。
ジャズのスタンダードナンバーは弾いていて楽しい。

しかし、先生はすごい。
| | 考えたこと | 23:32 | comments(2) | trackbacks(0) |
公務員試験のカラクリ
大原瞠著 光文社新書

著者は民間の教育産業で公務員試験対策をやってきた人。
まえがきで東北の大震災の時に、家族は二の次にして住民のために頑張っている公務員の例をひいて、書いている。

 実は、著者はこれまで民間教育産業で、公務員になりたい人を手助けする仕事をしてきた。その中で感じたのは、とにかく公務員になりたい人たちの動機が不純なことであった。

公務員は楽で転勤がなく安定しているから、という理由だけでなりたい人がいる。
親が公務員だから、という理由だけでなりたい人もいる。
公務員、という仕事はないのだが、いったい公務員が何の仕事をしているのかもわからない。

公務員試験受験者の利権にはいろんな人がぶら下がっている。
大学は合格者を増やすために、援助しているし、資格スクールは金をとって受験指南している。
無理やりでも合格者を増やすために、公務員になるのがふさわしくない人にも指導をする。
講師の悩みとのこと。

公務員試験とはどういうものか、本書には書いてある。
国家公務員試験は人事院が、地方公務員は財団法人日本人事試験研究センターという内閣府の外郭団体が作っている。

色々な問題点が書かれているが、それはそれで正しいと思うのだが…。

公務員試験の本当の問題点は、問題こそ変われど、毎年どの領域から何問ずつ出る、ということが決まっていることだと思う。
ぼくは知らなかったのだが、本当に毎年どんな問題がどれだけ出るかは決まっているのだ。
どれを捨てても、何点取れるということがわかる。
だから、資格スクールで傾向と対策ができる。
毎年、たくさんの人が資格スクールから試験を受けに行って、問題を覚えてくるらしい。
それで持ち帰り不可の問題がわかるようになっている。

ぼくは、何十年も同じような問題を出していることが、問題だと思うのだが…。



| | | 22:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
自治体の記念式典
自治体の記念式典に行ってきた。

出張である。

市政百何十年というふれこみ。
会館の前にはたくさんの人が並んでいた。
受付の場所がたくさんある。
たくさんの団体が来ており、30くらいの受付が出ていた。

ぼくも受付をしたら冊子をくれたが、それは市政の冊子ではなく、表彰者の団体名、氏名が書いてあるだけだった。
それでも、かなりのページ数がある。
ほー、すごい表彰者の数やなあと思って入場した。

最初に木管三重奏の演奏、それから市歌、国家斉唱。この間10分くらい。
続いて市長が5分ほどの挨拶をして、知事代理の挨拶があり、壇上の関係者の紹介が手短にあって、そこからが表彰式。

表彰されるのは代表だけであり、それでも50人くらいいた。

長々と表彰式が続く。

式が始まって、1時間ほどでようやく表彰が終わり、そこで幕が降りて、終わり。
あっけなかった。
出口は表彰状を持って帰る人で長い列ができている。
代表が表彰状を受け取るのだが、式が終わったら、一人ひとりに表彰状が渡されるのだ。
額に入った立派な表彰状。

なるほど、この記念式典は表彰するのが目的だったのか。
そのために冊子を作り、名前を載せて、表彰をする。

ちょうど市長の改選の年だ。
なるほど、こういう手があるから、現職は強いのか…と思う。
うがった見方だが、そういうことだろう。

記念式典に参加している人はみんな表彰者なのだ。
逆に言うと、会場の大きさに併せて表彰者を決めていたということだ。

表彰されたら、やっぱり気分がいいし、その市長にもう一回投票するというのは人情だ。

なるほど、こういう催しもあるのか…、と会場を後にした。
自治体の名前は伏せておこう。

勉強になった。


| | 考えたこと | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
霞が関
出張で霞が関に行った。

文部科学省というところ。
2回目だが、前よりも暗い。
暗いというのは、本当に暗いのだ。
廊下の電気は蛍光灯になっているが、ほとんど消えている。
4個に1個くらいしかついていないので、本当に廊下が暗いのだ。
節電の指示が出ているのだろう。

廊下とはいえ、こんな暗い職場で、意気が上がるのだろうか。
おまけに、ドアというドアは全部しまっており、中がどうなっているかわからない。
普通は開け放していると思うのだが…。
それが役所だろう。
国家公務員であっても、オープンであるべきだ。

指定された部屋に行くと、役人らしくない役人が出てきた。
年の頃なら30歳過ぎの男性。
それと30歳前くらいの女性がついている。

ああ、まだクールビズなんですか、というと、10月末までです、とぶっきらぼうな答え。
余計な言葉は話さないという感じ。

まあ、基本的には民間のやることを助けてくれるという役目だから、色々と質問をして感触を聞く。

全般的には親切である。

しかし、あの廊下の暗さは尋常ではない。

エレベーターに乗る人も、無言の人ばかり。

これでは元気がでないのは当然だ。

何とかならんのか…。


| | 考えたこと | 01:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
どうしようもない
世の中には、どうしようもない事がある。

努力が足りないからだとか、ヤル気がないからだとか、能力が足りないからだとか、いろんな意見をいう人はいるが、それでもどうしようもないことが世の中にはある。

その組織が持っている背景とか、歴史、風土といったものが、それをどうしようもないことにする。

想像がつかない原因がある。
誰が見ても明らかだと思うのだが、それが全く明らかではない。
本当に想像もつかないのだ。
わかっていて、わかっていないふりをしているのではない。
本当に見えていないのだろう。

不思議だが、本当だ。

どうしようもないことが、本当にどうしようもなくなる日まで、それはわからない。
ひょっとしたら、そうなっても、わからないのかもしれない。

それほど、ある種の組織の風土というものは強固である。

変えようとしてもムダだ。

諦めるしかないと思う。

諦めがつかないという人は、頑張ってほしい。

ぼくはイチ抜けた。

抵抗していたら、身体が持たない。

このネタ、もう何回目かな…。

| | 考えたこと | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
ステファニー・ブラム
久しぶりにステファニー・ブラムのシリーズを読んだ。

「バスルームから気合を込めて」というもの。
以前は扶桑社から出ていたが、なぜか集英社文庫に変わった。
そのおかげで、ポップなイラストの表紙になった。
こちらのほうが、この本に合っている。

ジャネット・イヴァノヴィッチという女性作家が作りだした、ミステリーの主人公。
女だてらにバウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)をやっている。

だいぶ前に買っておいた文庫本。
なかなか読む気にならず、ずっと置いてあった。
今日久しぶりに手にとって見てみると、読む気になった。

読みだすとやめられない。

あー、この本はこういう本だったなあ…と思う。

当然、まだ読み終わっていないが、この本を読むと元気になる。

プラムのやけくその生き方。計画はあってもその通りには絶対ならない。それでもめげない。自分でこれはやってはいけないということは、絶対やってしまう。

極論すれば、ストーリーは何でもいいのだ。

ひさしぶりに面白い。


| | 考えたこと | 22:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
書いてみないとわからない
小林秀雄が、作家も評論家も何かの衝動にかられてものを書くが、実は書いてみないとわからない、と言っていた。

つまり、書いている間は、何が書けるかわからない。
書き手は、自分が書き終わったものを見て、驚いているのだ。
逆に言うと、わからないから、書くのだ。
書いているうちに、わかってくる。
創作とは、そういうものだ。

ふーん、そうなのか。
何となくわかるような気もする。

もちろん、それに関する知識や情報はないとダメだ。
いろいろ調べているうちに、何となくこれはどういうことなのか、と思う。
考えはまとまっていない。
だから、書いてみる。
そういうことかもしれない。

そういえば、仕事でも同じようなことがある。
レポートを書いているうちに、考えがまとまったり、わかることがある。

だから、書くというのは、わかっていて、わからないことを書くのだろう。

わかっていて、わからないこと、これは不思議なものだ。



| | 考えたこと | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
定年
定年はめでたいものだ。

定年を迎えた人に対しては、おめでとうございます、と言う。
通常は、長いことご苦労様でした、という言葉もつける。

まだしばらくは、定年する人は40年程度働いているケースが多い。
会社生活には、色々とあっただろう。
今定年する人は、まだ幸せだ。
高度成長の時代を享受し、バブルは崩壊したが、なんとか生き残った人だ。
いい時を知っている。

これからの時代は難しい。
どうなるか、全くわからない。
確実なのは、高齢者が増え、働く人が減ることと、それに伴って税収が減ること、そうなると医療や福祉や年金が今のままでは成り立たないということだ。
おまけに国家予算10年分の借金があり、ひょっとしたら金融破綻するかもしれない。

あと20年先、日本はどうなっているのだろうか。

年金も医療福祉もどうなるかはわからないが…。

それでも、定年はめでたいものだ。

今定年する人はそういうリスクを抱えている。

ぼくらはもっとリスクを抱えることになる。
若い人たちは、いい時を知らないまま、定年を迎えることになるのか…。

それでも、定年はめでたいものだ。
40年ほど、働けたのだから。



| | 考えたこと | 01:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
イニシエーション
イニシエーションとは通過儀礼のこと。

一般的には、入学式や入社式などの行事がそれに当たる。
それを経て、新しいステージに入るというもの。
学生から社会人になる、というのは一つの大きな変化だ。

ぼくの場合は入社式というのはあまり印象に残っていない。
それよりも、最初の配属先の方が大きかった。
配属されて、行ってみると誰もいない。
みんな揃って出張していた。
誰もいない課があるのか…、とびっくりしたが、その日は隣の課で一日過ごした。

次の日にみんな出勤した。
そろって、実験に行っていたのだ。

その日は機材の片付けをやり、次の日から振動・騒音の実験を担当することになった。

そこからぼくの今につながる。
今にして思えば、いろんな事があった。
これからもまだあるだろう。

しかし、あれがぼくのイニシエーションだったと思う。

| | 考えたこと | 00:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
スティーブ・ジョブズ
ついに亡くなった。

最期は、気の毒なくらい痩せていた。
まだ50代。早いなあ。

アップルの創始者。
パソコンを身近なものにした功績は大きい。
ゼロックスのパロアルト研究所で見たGUI(グラフィック・ユーザー・インターフェース)をマッキントッシュで使った。
高価だったが、熱烈なファンを作り、一世を風靡した。
その後、マイクロソフトの攻勢を受け、会社は凋落。
一度は追い出されたジョブズだったが、見事に返り咲いてiMacを出し、アップルを再び上昇させた。
その後、MacOSを新しいものに変え、モトローラのCPUをインテルに変え、Macを進化させた。
そして、iTunes、iPodで音楽をデーターに変えるという荒業をやってのけ、ソニーのウォークマンを蹴落とした。
iPodに続いてiPhoneを出し、そしてiPadを発売。
アップルを完全に復活させた。

たった10行で書いたが、この人こそカリスマだろう。

部下には容赦なく叱り飛ばしたらしい。
ユーザーよりも自分の直感を信じて、開発をさせた。
ユーザーは自分の欲しいものを知らない、という考え方。

この人は技術者ではない。
技術者に何を作らせるか、という経営者だった。

アップル教の宗主と言ってもいいだろう。

アップルの製品は素晴らしい、という事を信者に信じさせる。

ぼくもずっと信者だった。
5年くらいかな。
しかし、会社のパソコンがウィンドウズになって、宗旨替えした。

信者を続けるのは大変だ。
当時、軽く小さく薄いパソコンが欲しかったのだが、アップルはアメリカ市場しか見ていないから、そんなものは出さない。
だから、アップル教徒は大きなノートパソコンを持っていた。

別にウィンドウズでもマッキントッシュでも、やりたいことができれば構わないのだ。

このアップル教はいつまで存続するのか。

ジョブズが亡くなった今となっては、どうなるのかわからない。

しかし、すごい人だったと思う。


| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
相対論がもたらした時空の奇妙な幾何学
アミール・D・アクゼル著 早川文庫

アインシュタインの相対性理論の物語。

前半は彼が相対性理論を考案して、それが証明されるまでの物語。
後半は宇宙が膨張しているということを、どうやって説明するか、宇宙の形はどうなっているのかといった宇宙論。

アインシュタインも人間であり、仲違いや文句をいうこともある。
自分の考えだした理論の証明が、どうしても天文学者しかできない、という焦りがあった。
結局は自分が知らない間に、イギリス人が証明し、それで一躍有名になった。

相対性理論の証明に、皆既日食の観測が役立ったということだ。
太陽のまわりで空間が歪む。
それによって、光がまっすぐ進まない。
だから、皆既日食の時に、太陽のまわりの星は位置がずれて見える。

アインシュタインは運が良かったのだと思う。
彼の数学に対する知識が深かったことと、リーマンというもう一人の天才が、すでに宇宙を表す幾何学を完成していたということが、相対性理論を完成させた。

アインシュタインがいなければ、相対性理論は完成していただろうか。
大概のものは、きっと他の誰かが見つけていただろう、と思えるのだが、アインシュタインは別だ。
未だに人類は宇宙が理解できていなかったのではないかと思う。

宇宙の果てはどうなっているのか。
宇宙の形はどういうものなのか。
膨張し続けている宇宙は、永遠に膨張するのか。
そういう疑問がわいてくる本。

しかし、なぜ宇宙があるのか、ということはわからない。


| | | 23:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
電子書籍
電子書籍がだいぶ普及してきた。

といっても、まだまだ仕様が統一されたわけでもなく、出版社が本気でやりだしたわけでもなく、売れっ子の作家が参加を表明したわけでもない。

しかし、確実に増えていっているように思う。

アメリカではキンドルというグーグルの出している端末で、たくさんの本(英語)が購入できるし、読める。

日本でも、ソニーやパナソニックが端末を出している。
専用ではなくても、タブレット型のPCでそういうアプリが出ている。
ただ、キンドルやソニーの専用端末は液晶を使っていない。
その上、白黒である。
E inkという表示技術を使っている。
これはバックライトで照らして見せるのではなく、実際に画面のある部分が黒くなるという技術。
つまり、紙の上にインクが載っているのと同じ方法だ。

色々なサイトを見ていると、やっぱり液晶で見るよりも、E inkの方が圧倒的に目が楽らしい。
本はカラーである必要はないから、これでいいのかもしれない。
その代わり、明るいところでないと見えない。
普通の本と同じだ。

ソニーの最新型の専用端末では、無線LANが使える。
本の購入も端末でできる。

そのうえ、青空文庫というサイトがある。
これは著作権が切れた作品を、Web上でボランティアの人たちが本にしよう、というサイト。

太宰治や芥川龍之介、泉鏡花、内村鑑三、岡本綺堂、尾崎紅葉、織田作之助、折口信夫、菊池寛、倉田百三、小泉八雲、幸田露伴、斎藤茂吉、坂口安吾、田中英光、坪内逍遥、寺田寅彦、徳田秋声、夏目漱石、西田幾多郎、二葉亭四迷、宮沢賢治、紫式部、森鴎外、横光利一、和辻哲郎などの作家が登録されている。
現在収録数10698作品。

ボランティアのみなさんのおかげで、これらの本を無料で読むことができる。

それ以外にも、世界の名作シリーズ(有料)なども出ており、これらの作品は聞いたことがあっても、本屋では見ないものがほとんど。

それに、この電子端末が使えるのだ。
老眼で読みにくくなっても、字を大きく表示できるというメリットもある。

機は熟したような気がする。



| | 考えたこと | 23:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
割りばしの輪ゴム鉄砲
ウチの長男が小学校の時に、割りばしで輪ゴム鉄砲をつくった。

割りばしを4本(二組)ほど遣って作る。
色々なタイプがあるが、簡単なのは普通のピストル状のもの。
半分に折った2本の割りばしで持ち手の部分を作り、それを銃身となる割りばし2本で挟む。
そして、先端のゴムを引っ掛ける部分と、引き金の部分を挟む。
これは半分より短めのものを使う。

6つの部品を輪ゴムでグルグルと巻いて止めるだけ。
そんなに難しくはない。

今日職場で頼まれて一つ作った。
エライ感謝されて、びっくりした。

ああいうモノは、小さい頃に作っていないと、なかなか作れないのかもしれない。

これは、もっと飛ばないのかという質問があった。

そのためには、長い割りばしで銃身を伸ばすか、それとも短い輪ゴムを使えばいい、という。
それがピンと来ない。

要は思い切り引っ張って、離すとよく飛ぶ。

そのためには、輪ゴムを思い切り伸ばすということだ。

だから、同じ輪ゴムなら、銃を伸ばすことが必要だし、それが出来なければ、短い輪ゴムを使えばよいのだ。

輪ゴムを遠くに飛ばす、というだけのこと。

まあ、輪ゴムは飛ばすものではないからなあ。


| | 考えたこと | 00:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
陰膳
陰膳(かげぜん)という風習がある。

古い日本の風習。
亡くなった人の分もお膳を出して、供養をするというもの。

実際にやったことはない。
そういう風習がある、というのを知ったのは本を読んだり時代劇を見たりしたからだ。

膳と言われても、若い人はピンと来ないかもしれない。
昔は一人ずつお膳を出して食べていた、ということから説明が必要だ。
今なら精進料理などを食べに行かないと、イメージがわかないかもしれない。

身内がなくなったときに、その人の分も料理を作って供えるというのは、何となくわかる。
法事の時に陰膳するという習慣があるところもあるらしい。

そういう習慣が日本にある、ということは知っておいたほうがいいと思う。

何となくそう思う。

そういう年になった。


| | 考えたこと | 00:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
Jiffy
ジフィーという単語がある。

これはもともと「瞬間」というような言葉で、in a jiffy で「すぐに」という意味だ。

コンピューターオタクの女性が出てくるアメリカのドラマがある。
その女性が、ちょっと待って、という時に wait a jiffy といって、「ジフィーは1/100秒のことだけど、話せば長くなるので…」という場面があった。
そのままドラマは進んだのだが、きっとjiffyはコンピューターの用語だろうと調べてみた。

jiffyはリナックスシステムのクロックの単位。
なるほど、話せば長くなるはずだ。
リナックスはコンピューターのシステムの一つであり、そのシステムで一つの命令を実行する時間がジフィーということになる。

こういうドラマは好きだ。
そのキャラクターになりきっている。
おそらく、俳優が自分で勉強したのだろう。
ああいうセリフはきっとアドリブだ。

それらしい、というより、そのもの。

こういうディテールにこだわった俳優が何人いるかで、ドラマの完成度が決まる。
もちろん、それ以前に脚本やキャスティング、予算の問題もあるのだが…。

しかし、そうなるためには、3ヶ月で終わっていては無理だろう。
若い俳優ばかりでも無理だ。

それなりに練られた脚本と、リーズナブルな予算、そしてプロ意識を持った俳優がいないとできない。

だから、くだらないバラエティばかりになるのだろう。

| | 英語 | 20:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
流感
流感は流行性感冒のこと。
今でいうインフルエンザだ。

この「流感」というのが、もう若い人には通じない。
リュウカンってなんですか?という。
リュウカンは流行性感冒のことや、というと、それがわからないという。
それはインフルエンザのことや、というと、ああそうですか、となる。
それならなぜインフルエンザと言わないのか、という勢いだ。
ひょっとしたら、感冒が風邪のことだとわからないのかもしれない。

20代でも聞いたことがあって知っている、という人もいれば、30代で知らない人もいる。
知ってる/知らないがマダラになっている。
親の年が違うのか、地域性があるのか…。

風邪のことを感冒というのは、昔CMでやっていた。
ルルか何かだったと思う。
総合感冒薬というような文字が最後に出たと思う。
あれは昭和50年代だったか…。

それでも「流感」というのは10代になると全滅らしい。
インフルエンザで通じるから、別に困らないのだが。
でも、漢字は便利だ。流行性感冒というと、だいたいの意味はわかる。

「流感」のような言葉はたくさんあると思う。
ぼくらは通じると思っていても、若い人に通じない言葉。

江戸、明治、大正、昭和と時代が変わって、新しい言葉ができ、古い言葉が死んでいった。
これらの時代は体制の変化もあったし、大量に新しい言葉を使わざるを得なかったということもあっただろう。

しかし、昭和から平成にかけては、それまでよりも変化は少ないと思う。
それでも、大量の日本語が消えていっているような気がする。

もっと時間がたたないと、評価はできないが…。


| | 考えたこと | 22:08 | comments(0) | trackbacks(0) |