考えたこと2

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メーデー
明日はメーデー。

最近は、ニュースで動員数や旗を掲げて集会するところを映さなくなった。

もうメーデーも形骸化したのか。
昔は労働組合を組織している会社なら、大きなところは参加した。
ぼくは神戸の会社だったから、大倉山のところに集まったと思う。
そこそこたくさんの人が、組合旗を持って集まった。
前の台上には社会党の議員や総評の役員がいたのではないか。

ぼくが初めて参加したのは、昭和50年代。
そのころは、会社の中で組合の割り当てがあって、毎年順番で当番が回ってくる。それに当たれば、集会に行く。当たらなければ、休みだ。

しかし、気がつけば当番で出ることもなくなっていた。
昭和60年代にはもうなかったと思う。

単に休みが増えたということになる。
5月1日はメーデーで休み、ということだ。

ずっと会社にいれば、それが当たり前になっていただろう。
今はそれがない。
カレンダー通りになった。
メーデー、というと「?」という反応。
だいたい、メーデーという日のことを知らない。

ぼくらはかろうじてメーデーに集会に行って、シュプレヒコールを挙げた。

もう、メーデーも集会もシュプレヒコールもみんな死語になった。

こうやって、歴史は変わっていく。

明日はメーデー。



| | 考えたこと | 23:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
インサイト
昨日ホンダのクルマの整備に行ってきて、ついでにインサイトの1.5Lに試乗してきた。

ホンダのハイブリッドはエンジンが主で、動いているときは常にエンジンが回っている。だから、運転に違和感がない。
メーターはだいぶ変わっていて、タコメーターを中心に、右側に水温や燃料、左側にモーターのアシスト、上に離れてスピートメーターのデジタル表示となっていた。
エコノミーモードのボタンや今の充電状態などを示す表示が、タコメーターの真ん中にある。

新型はアイドリングストップもするようで、信号待ちになると、やたら静かになった。
エンジンの始動はあまり気にならない。
だいたい、最初は気づかなかったくらいだ。
でも、エコノミーモードにしてないと、アイドルストップはしない。
エアコンや充電の具合によっては止まらないこともあるという。

しかし、燃費が1.5Lハイブリッドで25km/lぐらいはいくらしい。
ガソリンは上がる一方で、160円とか170円とかになっている。
これから先、中国やインドに本格的なモータリゼーションが起こると、どんどん上がるだろう。
だいたい、給油を2回するところ、1回で済むのだから、倍のコストになっても耐えられる。
130円くらいが以前の相場だったから、260円になってもOKということか。
本格的にガソリンが高騰したら、もっとハイブリッドが売れるだろう。

今乗っているストリームは気に入っている。
このクルマのデザインは全く古くない。
5ナンバーだし、1.7Lのエンジンで十分。
おまけにIHCCという車間距離一定のクルーズコントロールがついている。
これは、ぼくのように高速が多いドライバーにはありがたい。
これに慣れると、もう普通のクルマには乗れない。
こないだの車検の時に、普通のクルーズコントロールの代車に乗って、衝突しかけた。

ところが、ホンダのハイブリッドにはこれがつけられない。
ボンネットの中が狭いのか、値段を抑えるためにやっているのか…。
スバルがアイサイトという、デジカメを使った車間距離一定のクルーズコントロールを出している。
あれはレーダーを使わないので、コストが安いのかもしれないが、ああいう装備はどんどん採用すべきだ。
少なくともオプション設定にしてほしい。

残念ながら、その装備がつかないので、買い替えは無理、とディーラーで言ってきた。

トヨタにはついているのだが…。


| | 考えたこと | 23:20 | comments(2) | trackbacks(0) |
出版業の将来
出版業の将来について、考えさせられることがあった。

将来、出版業はどうなっていくのか。
電子化の波をどう捉えるのか。
ぼちぼち日本でも始まっているが、これをどう乗り切っていくのかということになる。

現在は大手の出版社は守りに入っているが、電子化は確実に進むだろう。

出版業のコアはなんだろう。
それは、編集という仕事ではないか。

前にも書いたが、個人が世界に向かって発信できる時代。
インターネットの書き物と出版される書物は何が違うか?
それは、出版されたものには、編集という影の仕事がある。
作品を読み、作者と話をして、場合によっては書きなおす。
そういう書き手と読み手の間に、編集者がいる。

よい編集者は、読者の欲するものを作り出すために、時代を読み、「これはこの作家が書ける」という判断をして、その話を持っていく。
どういう視点で判断するか、その基準がある。
その部分は電子化しても、絶対に残る。

それがクオリティを保証する。

それ以外の仕事はなくてもかまわない。

そうではないか?



| | 考えたこと | 20:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
アナログとデジタル
ぼくが会社に入ったのが1979年。
実験室での実験が仕事だった。
ちょうどアナログの計測器が終わり始めた時代。
そして、デジタルの計測器が出てきはじめた時代。

アナログの計測器は大変だった。
朝、実験室の前を通るときにスイッチを入れて、暖め始める。
1時間は暖めないと、途中で計測値が狂う。

キャリブレーション(基準信号を入れて、値を合わせること)をやるのも大変だ。
XYレコーダーという機械に書かせて、合わす。
合わすというのは、基準の値のところにペンがいくようにするのだ。
書くと簡単だが、当時この作業をやるのは職人技だった。
ぼくは比較的飲み込みが早かったほうだと思う。
何せ、50センチX30センチくらいの盤面に、スイッチ、ボリューム、ランプなどが100個くらい並んでいる機械だった。
そのうちのいくつかのスイッチを上げたり下げたり、ボリュームを回したりしてペンの位置を合わす。
だいたい、意味などほとんどわかっていない。
何をやっているのかという意味がわかったのは、その仕事をして何ヶ月か経ってからだった。

最初は朝から計測器をいじり始めて、昼からやっと測定、という状態。
数ヶ月経って、やっと朝から始められるようになった。

そんなことをやったのはぼくが最後。

入社2年目くらいで、デジタルの測定器が出てきた。
初めて使ったときはなんと便利な機械だろうと驚いた。
値段も当時のアナログ機器を買った値段より安い。

その後、ぼくの使っていたアナログの機械は捨てることもできず、結局計測器の墓場に行った。

何年か後に捨てられたと思う。

それからだんだんとアナログ機器がデジタル化された。

2000年にはもうデジタル化できるものは、されてしまった。
値段もかなり安くなった。

いざ、そうなってしまうと、あまりに簡単に設定できすぎて、やっている人が設定の意味がわからなくなっていることに驚いた。

これを測るときはこうする。
こちらを測るときは、こうする。
単にスイッチを覚えている方に切り替えるだけだ。
こうなって、初めてアナログの良さに気づいた。
アナログ機器は使う人にやさしくないが、使い方を覚える段階で、自分のやっていることの意味を理解せざるを得ない。

それはいいことだった。

計測は正確になったし、値段は安くなったし、ウォームアップも要らない。
しかし、便利になることがいいこととは限らない。

なるほど。
こういうのをフリーランチはない、というのかもしれない。


| | 考えたこと | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
目標と目的
目標と目的という駄文を書いた。
今日はこれで。

はじめに

最近、「勉強の仕方がわからない」という人の声をよく聞きます。
一口に「勉強の仕方」といっても色々なレベルがあり、どのレベルで困っているのかということがわからないと、アドバイスをしても一方通行になってしまいます。見ていると、最終目的は決まっていて、そのために何かしないといけない、ということはわかっていて、そこから先の方法がわからない、というケースが多いように思います。この場合、勉強の仕方がわからない、というより「何から始めたらいいのかわからない」という事も含まれるかもしれません。もっと言えば、「何かをしないといけないのだが、何をしたらいいかわからない」という「自分行方不明症候群」の人も含まれるでしょう。

そこで、何かをする時に準備をするための一般的な方法を示しますので、この段階のどこがわからないのか、という事を以下で考えてみましょう。

目的と目標

さて、何のために勉強をするのか、ということがまず重要です。
ここで気をつけていただきたいのは、「目的」と「目標」は違う、ということです。「目的」とは、勉強をした先に得られるもので、達成するためには比較的長い期間が必要であり、何らかの形を伴うものです。
それに対して「目標」というのはもう少し短い期間で、重要なことは、自分で設定するということです。
目的に到達するために、その道のりを分けて、その間に置くものが目標という事になります。細かい目標を積み重ねて、目的を達成するという事になります。

目的を決める

イメージとしては、目的を明確にして、どういうことをやらないといけないか、ということをはっきりさせ、そこに到達するために、どういう道のりで、どんなことを積み上げていくかということです。
まずわかりやすい目的から決めましょう。できるだけ、はっきりしたものがいいでしょう。いつまでに、何を、どうやって、どうする、というような項目を決めて、それを決めていきましょう。
一般的な言葉よりも、具体的なもので、自分で決めることが重要です。


目標を設定するには

それでは、いよいよ目標の設定…、と言いたいところですが、その前にやることがあります。現在の自分の位置がわからないと、目標までの道のりがわかりません。

よく、何もやってませんとか、何ができないかわからないという人がいますが、その場合でも、「どの程度できるのか」ということをわかる必要があります。例えば筆記試験と一口で言っても、色々な問題があります。理想的には、「この手の問題はできるのだが、こちらは苦しい」というふうなところまで、やってみるべきです。それによって、何をすればいいのかがわかると思います。
したがって、「何もやっていない」あるいは「何ができないかわからない」人はまずスタートラインに立つために、どんな試験をやるのかを一通り見ておく必要があります。それが目標設定の第一歩です。

結局、「何もやっていない」「何ができないか、わからない」という人は、「どんな試験があるのか、わからない」ということでもあり、そもそも目的である「○○になりたい」ということが「目的」ではなく、単なる「夢」になっている、ということです。
漠然と○○になりたい、と思っていても、それを実現することはできません。夢を目的にするためには、まず○○について調べなければなりません。実はここでつまずいている人が大変多いのです。「夢」を「目的」にしないとダメです。でなければ、いつまでも「夢」を追いかけるだけになってしまいます。

だから、「何もわからない」「何ができないか、わからない」という人は、「○○になるためには、私は何をすればよいか」ということを目的としてまずスタートしましょう。その上で、自分の現状を調べ、そしてはっきりさせましょう。

自分の位置を知ること、自分が何になりたいかを決めること…、この2つが決まらないと前に進まないと思って下さい。



| | 考えたこと | 23:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
テレビの報道
テレビの報道の目的は何なんだろうか。

センセーショナルな場面を見せることが、その目的とは思えない。
むき出しの怒りとか、謝罪とか、象徴的な場面は報道の価値はあると思うが、それだけを映すことはあまり価値があるとは思えない。

その報道は文章で十分だと思う。
十分だと思えるほどひどいことであれば、アナウンサーが事態を説明すればいいのだ。

怒っている方も、それを全国に映されて気持ちがいいハズがない。
テレビの報道番組は何か勘違いしていないか。
あれは、プライベートの場面だと思う。
それを映すというのは、良識がない。
たとえ映していても、上層部がそれを使わなければいい。

そういう場面を見て、気持ちのいい人がいるだろうか。

少なくとも、テレビは昔は茶の間、今はリビングでみんなで見るものだろう。
衛星放送ができ、ケーブルテレビができ、インターネットに追われ、テレビ業界は苦しい状況なのはわかる。
しかし、明らかにやり過ぎだろう。
演技でも何でもなく、むき出しの怒りを延々と映す行為。

あれは、パパラッチの行為だと思う。

ひどいのはわかったから、もうちょっと理性的にやってくれ。


| | 考えたこと | 22:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
フェイスブック
フェイスブックというソーシャルネットワーキングシステムが流行っている。

テレビで若い人事のメンバー3人が、面接した学生のフェイスブックのサイトを見て、友だちの数や書かれたコメントをチェックし、採用を決めた、という特集をやっていた。

一方、フェイスブックの自分のサイトをどう作るべきか、というサービスをしている会社があるらしい。
写真はアップで笑顔がいいとか、友だちの数は何人以上とか、どんなコメントは良くてどんなのが悪いとか…。

なんだかバカバカしくて、見ていられない。
3人の人事担当が、マジメな顔で話し合っている様子をみて、笑ってしまった。

自分たちは人を見る目がありません、と言っているようなものだ。
3人揃って大まじめにパソコンを覗いている。

採用された若者も、よかった、と嬉しそうな顔をしている。

みんなどうなっているのか。
世の中オカシイ。

フェイスブックというのは、映画で見たが、もともと大学生が誰が一番カワイイかとかいうことをネタにして、友だち同士がつながっていく、というサイトだろう。
基本的に、私生活の友だちのつながりだ。
そのオフのつながりを評価してどうするのか。

みんな、自分のことを振り返って考えてみるといい。

オフでハメを外しても、かまわない。
すべての面で「いい人」を採ろうと思うと、結局可もなく不可もない人しか採れないだろう。

そういうつもりなら、いくらでもやればいい。



| | 考えたこと | 00:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
There is no such thing as a free lunch.
この英文の意味は、フリーランチというようなものはない、ということだが、このフリーは「自由な」という意味ではない。
「タダの」という意味だ。
それに「a」がついているから、「いわゆる」というような意味がつく。

「世の中にいわゆるタダ飯は転がっていない。タダに見えてもそれには何らかの費用がかかる」という意味になる。
これはなんと経済学の重要な教えの一つ、ということだ。

すごく合理的な解決策があるように見えても、それはいいことばかりではない、ということらしい。
何か悪いことがあるぞ、という注意を喚起する言葉。

それがこのThere is no such thing as a free lunch.という言葉。

これは覚えておいて損はない。




| | 英語 | 23:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
ボッチ飯
ボッチ飯(めし)という言葉が、若い人のあいだで使われている。

食堂で一人ぼっちで食べるご飯ということだ。
一人ぼっちのボッチとわかると、意味がわかるのだが。

便所飯というのもあったが、これはそれよりも程度が軽い。
食堂で一人で食べれるだけマシだろう。
しかし、この言葉があるということは、ボッチ飯はどちらかというと異常事態だということだろう。

なぜそんなに一人ぼっちが嫌がられるのか。
誰も友だちがいなければ、一人で食べる。
そんなことは、ぼくらの時代には当たり前だったし、誰も気にしなかった。
ボッチ飯と言われても、それがどうした、と言っただろう。
おそらく、そう思っている若い人も多いはずだ、と思うのだが…。

これほど、一人であることを、悪いことだと見なす事は、今までなかったのではないか。

友だちがいない、ということに対するアレルギー反応があるようだ。

ゴルゴ13みたいに、一切の友人との接触を絶って、一人で生きているヒーローがいないのかもしれない。
そういえば、「孤独なヒーロー」といわれる人がいなくなったか。

もともと人間は一人で生まれて、一人で死んでいくものだ。
そういう思い切りがなく、薄っぺらな友達がいることを大切だと勘違いし、ツレとじゃれ合って遊んでいる…、そういう事ではないか。

自分が一人である事を思いきって、初めて他人と交わろうという気持ちになる。
だから、一人であることは必要なことなのだ。

いくら友だちだからといって、一緒に死ぬわけにはいかない。

本当に自分のことを理解し、葬式で泣いてくれる友だちは多くて5人程度だろう。

どうせ、5人くらいしかいないんだから、薄っぺらな友だちがいないからといって嘆くことなどない。

堂々と一人で食べればいいのだ。



| | 考えたこと | 00:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
空気
現代は距離感が難しい時代だ。

人との距離感がわからない人が増えたのかもしれない。
いや、距離感に敏感になったのかもしれない。

人によって、また相手によって好みの距離感が違う。

だから、「空気が読めない」というようなことが気になるのだろう。
「空気が読めない」というのは、結局「空気が読めた」と思っている人たちの主観の問題だ。
場の空気などというものは、いいかげんなものだ。
だいたい、「空気が読めない」と思っている連中は、本当に空気が読めているのか。

空気を大事にするあまり、言えないことも出てくるだろう。
場の空気を気にするからだ。
そうなると、今度は逆に場を空気が支配してしまう。

山本七平によると、そういう空気が支配して、第二次大戦が起こった。
その上、負けるとわかっている戦いにどんどん人をつぎ込んだ。
最後は特攻というわけの分からない戦術で、貴重な人をなくした。

それらの原因が、「空気」だ。

KYなどと言われて、「空気を読め」というが、それが必ずしもいいとは限らない。
誰でもが空気を読んだら、また本当に具合悪いことが起こっても、誰も何も言えなくなるぞ。

だから、空気を読めない人や、空気を読まない人を大切にしないといけない。

そういう人が、いざというときに社会を救うのだろう。



| | 考えたこと | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハードディスク
職場のパソコンが調子悪かった。

時々、急に電源が落ちたり、いきなりブルーの画面が出たり、どうも怪しいなあ、と思っていた。
サポートに電話をしてみてもらったが、どうもハードディスクがやばい状態になっているとのこと。
それなら、ハードディスクを入れ替えよう、ということになった。

ところが、その機種のハードディスクはメーカーに頼むとなかなか入らないという。
何故かと聞くと、タイの洪水の影響らしい。
発生からだいぶ経つが、まだ洪水の影響があるのか。
たしかに、店に行ってもなかなかない。
USBの外付けのハードディスクならあるが、安い内蔵のタイプは見つからない。

仕方がないので、ネットで探して、ようやく入手した。

金曜日に頼んで、日曜日着で送ってもらい、月曜日職場に持って行って、火曜日に直った。

それにしても、タイの洪水の影響がまだまだ残っているとは、びっくりした。
調べてみると、タイはハードディスクの一大生産地だった。
影響は世界に及び、アップルもその例にもれないという。

NECのリストラと関係があるのかどうかは知らないが、パソコンのメーカーも大変だ。
いろんなモノが、世界で一番効率的な場所で作られる。
それが集積すればするほど、大量に作られるし、値段も安くなる。
そうしてパソコンは安くなったが、大きな落とし穴があった。
一ヶ所でつくると、そこが何らかの被害に遭うと、他の部品が揃っても、製品が作れない。
サプライチェーンが切れてしまう。

だから、東北の震災も、タイの洪水も大変なことになった。

阪神大震災の時にも同様のことが起こり、メーカーは分かっているはずだったが…。
それだけ、コストダウンの魅力は強いということだろう。

供給を二ヶ所にすれば、どちらかがちょっと高くなる。
当然ながら、一番安い部品を集めて作らないと、一番安くはならない。
供給リスクを抑えるためには、コストを我慢しなければならない。

そんな当たり前の事を忘れる。
それが、天災だ。


| | 考えたこと | 00:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
白熱教室
日経の朝刊で大学の特集をやっている。

そこにマイケル・サンデルの白熱教室を自分でやる、という教授が出ていた。
まず、ゼミで討論の練習をして、それから大教室での対話型授業で、考えて話す訓練をするという。
ハーバードに対抗する、という事だろう。

しかし、そんなことは小学校からやらないとダメだ。
文化が違うのだ。
アメリカは良かれ悪しかれ自己主張の国で、だから訴訟が多く、弁護士がたくさんいる。
弁護士を増やそうとして、司法改革をやったが、今のところ失敗だ。
法科大学院は軒並み潰れそうで、弁護士になっても仕事がない。
もっぱら、グレーゾーン金利の返し過ぎの手続きをするばかりだ。
それをテレビで宣伝しないといけないのだから、よほど困っているのだろう。

日本の小学校では、自己主張をすると先生が戸惑う。
果たしてそれがいいのかどうか、わからない。
中学校でも、自己主張をすると嫌われる。
だいたい、一人でいることを嫌う文化だから、それは仕方がない。

この文化は法科大学院の失敗や、「友達がいない」ということを嫌う若者を見ていても、そう簡単に変わるとは思えない。

「正義とは何か」この問いは、いろんなバックグラウンドの人がいる教室で、初めて意味を持つのではないか。
この島国で、同質の中で育ち、言わなくても通じる、という中で育った人間には必要がない。
この国では、正義はその場の空気で決まるものだからだ。

そんな状況の中で、自分で考えて話す、という事を鍛えるにはどうしたらいいか。
そこから考えなければならない。
ハーバードのマネをして何とかなる、と思っていること自体が今の大学の底の浅さを表している。

社会に出て、「自分で考えて話せる」という実績のある人に調査をしたらどうか。
最初からそんなことができたわけではないだろう。

何にせよ、そんなに簡単にできる事ではないという意識を持ってやらないといけない。

文化に反することをやるのだから。


| | 考えたこと | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
夢の続き
年に1回は朝起きて覚えている夢を見る。

昔はよく夢を見たが、30代を過ぎてあまり見なくなった。
正確に言うと、見なくなったのではなく、覚えていなくなったのだ。

夢は無意識が考えていること、というのが基本的なフロイトの考えだと思う。
意識の上に出てこない、自分でも気づかない思いが夢だ。

母親が自分の面倒をすごくよく見てくれる、と思っている子供が、肉の塊の中でもがいている夢をみたという。
それをえらい先生が解釈したら、肉の塊は母親のことだという。
自分でも気づかないうちに、母親のことをうっとうしいと思っていたのだろう。
形を変えて出てくるから、夢を解釈しないといけなくなるらしい。

まあ、そんなややこしいことは置いといて、どうしても夢の続きを見たいということがある。
そんな時は、もう一回眠り、続きが見られたらラッキーだと思う。

人によって、続きを見る方法があるのかと思うが、ぼくの場合は続きをみたいと思って眠るしかない。

ネットの情報によると、夢を覚えておく訓練をして、自分で眠るときに見たい夢のことを考えて眠るといいと書いてあった。

夢はちょっと気を抜くと、すぐに忘れる。
たしかに、覚えておくのには訓練が要りそうだ。
朝起きて、ああ夢かと思って、着替えているうちに忘れたり、歯を磨いているうちに忘れたりする。
また、そういうのはなかなか思い出せない。
どうなっているのだろうか…。
自分に都合の悪いことだからだろうか。

ぼくの記憶では、何度かは続きを見られたという気がする。

何の夢かは忘れたが…。


| | 考えたこと | 00:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
戦後すぐ
このところ、朝のドラマは戦後すぐを描いたものになっている。

これはきっと震災の後の復興と引っ掛けているのだろう。
戦争のあとは、本当に大変だったと思う。
どう描いても、セットでは表現できないだろう。

地下水を汲み上げるポンプがあるところで、みんな歯磨きをする。
そこら中に瓦礫があり、学校は屋外に黒板をおいて授業。
もちろん、地面にムシロを敷いて座って授業を受ける。
ムシロと言っても、見たこともないという若い人が増えた。
戦後は遠くなりにけり、だ。
今日話していたら、30代でも「ナフタリン」を知らなかった。
防虫剤といえばナフタリンだったが、もう通じない。

1945年8月15日だから、もう67年前になる。
ぼくは戦争が終わって12年経って生まれた。
70年代は「戦争を知らない子どもたち」という歌が流行った。
いろいろと戦争や戦後を描いた小説を読んだが、その悲惨さはとても想像ができない。
体験した人しかわからないだろう。
ぼくらは、ただ想像するだけだ。

でも、今の自分たちを支えている社会を作ったのは、その人たちだ。
戦争の体験者が戦後の日本を復興させ、今の日本の道筋をつけたのだと思う。

手塚治虫が、終戦の日に灯火管制が無くなり、ネオンや街灯がついている大阪を見て、「ああ、生きていてよかった」と思ったことを書いていた。

その本に、1990年代の日本は、「見かけは平和を享受していても、大衆の心は戦争時代よりもある意味でもっとすさんで、不安な状況になっていると思います。少なくとも戦争中は、それがまちがっているにせよビジョンのようなものを人々は持っていました。それが多少なりとも「生きがい」につながったと思います。しかし最近は体制社会のなかで、ただ毎日を生きのびるという処世術が先行して、人生の喜びや未来への期待はしだいに失われてきています。ことに若者や子供がそうです。」と書かれている。

残念ながら、21世紀に入って、手塚の心配が当たっている。

若者が、手本になる大人をなかなか見つけることができない。
夢を語り、ビジョンを語り、一生懸命に生きている大人が身近にいないのだろう。

というより、そういう大人がもういなくなったのかもしれない。

| | 考えたこと | 21:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
数の種類
今の算用数字を作り出したのは、インド人だ。

ヨーロッパ人はアラビア数字と呼んでいるが、アラビア人はインド数字と呼んでいるらしい。
インド人は何といっても、ゼロの概念を導入した功績が大きい。
空を表す数字ゼロを使うことによって、数字の表記が飛躍的に簡単になった。

もともと、数はモノを数えるために出来たのだと思う。
それが自然数だ。
1,2,3,…という数。

それにゼロが加わり、マイナスの数が加わって、整数になる。
そこから、整数と整数の間を詰める数が生まれてくる。
小数、分数だ。
これらを有理数という。

しかし、分数で表せない数が出てきた。
円周率や平方根などだ。
これらを加えて、実数となる。

さらに、2乗してマイナスになる数が虚数。
これらも加わって、複素数となる。
これらが高校までに習う数だ。

これらの数は、何度も書くが、どれひとつとして実体がない。
これ、といって差し出せるものは何もないのだ。

数は人間が生んだものか、それとももともと存在するものか、という問いがある。

普通に考えれば、人間が生んだもの、という答えになるだろう。
しかし、そう考えると、人間がいなくなったら、数もなくなるということになる。
そんなはずはない、という数学者もいる。
数の不思議をいろいろと知れば知るほど、これはもともと宇宙に存在するものなのだ、という気になるらしい。

ぼくはそこまでは思えないが、それでも人間がいなくなると数もなくなるというのは、ちょっと寂しい気もする。


| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
ミサイル
北朝鮮のミサイル発射は失敗に終わった。

さすがに今回は失敗を認めざるを得なくなって、失敗だと発表した。
情報を遮断することは、もうできないと思っているからだろう。
あれだけ騒がれて発射したので、隠しようがない状況になったということか。

しかし、失敗で失った威信を回復するために、何をやるかわからない。
なんでも、100周年か何かの記念だったはず。

もうちょっと飛んでいれば、成功だと強弁出来ただろうが、発射して数分で落ちたという事なら言いようがない。
コントなら、ちゃんちゃんという音が鳴って、ずっこけるところだ。

この失敗を取り返すには、よほど大きな事をやらないといけない。
新聞では核実験をするのではないか、と書かれている。

それくらいのことをやらないと、威信は取り戻せない、と新体制は思っているだろう。

威信というのはやっかいなものだ。
それが国の威信となると、よけいにややこしい。
気にしない人は、そんなもの気にしないのだが、気にする人は気にする。

今の日本は、そんなもの気にしないという人が圧倒的多数になっている。
北朝鮮の首脳部は、気にするだろう。

ちょうど間をとったら、両方ともましになると思う。

それにしても、日本の情報の遅さはどうなっているのか。
困ったものだ。


| | 考えたこと | 21:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
押すと引く
日本のノコギリは引いて切る。

西洋のノコギリは押して切る。
ここまでは知っている人が多いが、では中国のノコギリは引くか、押すか。

これは押して切るらしい。
カンナも同じで、日本と西洋、中国は逆になる。

これは、「引く文化」と「押す文化」ということを象徴しているかもしれない。
自己主張しかり、外交しかり、政治しかり。
日本は引く文化だ。
何か問題が起こると、引いて解決しようとする。

一方、西洋人は自己主張が強く、外交では奸知に長け、政治は強気だ、というのは半ば当然のことと思っている。
だが、多くの場合、彼らがフェアだとも思っている。
いいところも、悪いところもあって、半々になっているというところだろう。

中国についてはどうだろうか。
今の日本では、若い人は中国とあまりつながりがなく、過去に第二次大戦で侵略した国、というところだろう。
しかし、最近は毒入りギョウザとか、中国新幹線の事故とか、その電車の特許問題とか、尖閣列島の問題とか、どうも印象が悪い。
それに加えて、ドラえもんやクレヨンしんちゃんの偽物とか、上海万博の歌の盗作問題とか、どちらかというと、無法地帯のような報道もある。

そんなワケで、若い人たちの中には、中国を毛嫌いしている人もいるらしい。

まあ、それは仕方がないことだ。

しかし、同じ東洋でも、中国と日本は全く文化が違うということは理解されていないように思う。
中国は、西洋に近いのだ。
日本のように引く文化ではない。
押す文化なのだ。

その上、宗教がないから、その文化がモロに出る。

そういうことは、理解しておいたほうがいいと思う。


| | 考えたこと | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
セカイ系
セカイ系、なぞの言葉だ。
こないだ、長男と次男がセカイ系の定義について議論をしていたが、さっぱりわからなかった。

どうも、これはカテゴリーを表しているらしい。
インターネットで言葉を引くと、セカイ系とは「過剰な自意識を持った主人公が(それ故)自意識の範疇だけが世界(セカイ)であると認識、行動する(主にアニメやコミックの)一連の作品群のカテゴリ総称」と書かれている。

また、「きみとぼく←→社会←→世界という3段階のうち、社会をすっ飛ばして“きみとぼく”と“世界”のあり方が直結してしまうような作品を指すという定義もあるようだ」とも書いてある。

見たことはないが、新世紀エヴァンゲリオンなどは、「きみとぼく」が「世界」の上位に来ているらしく、こういうのが「セカイ系」というカテゴリーに入るらしい。

2002年頃にできた言葉だという。

よくわからないが、今の民放のドラマはみんなセカイ系ではないか。

とにかく、出てくる人が少ない。
予算の制約があるのだろうが、極端な話、病院のシーンで担当医と患者しかいないとか、医局のメンバー数人でだれもいない廊下で話をするとか、病院では考えられないようなシーンが多い。
そして、とにかく主人公と周りの登場人物以外は存在しないかのようだ。
これはセカイ系の定義に合う。

今の日本人がセカイ系なのかもしれない。

世界にひとつだけの花、というのもセカイ系の歌か。

なるほど。

そう理解すると、よくわかる…。


| | 考えたこと | 02:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
趣味・特技
趣味や特技を書く時、何を書くか。

人それぞれ、いろいろあるだろう。
多いのは、音楽鑑賞とか、カラオケ、映画鑑賞、読書あたりか。

どんな音楽が好きかで、何となくその人がわかったりする。
ミスチルが好きな人と、森山直太朗が好きな人ではだいぶ雰囲気が違う。
その人らしさを想像できるようになる。

映画は行く頻度が問題だ。
月に何回行くのか、と聞いて3回行くということなら、だいぶ映画好きだろう。
今はDVDを借りにいくのもありだから、もっと多くてもいい。
最近見た映画で、一番オススメは?と聞いて、何が出てくるか。
邦画と洋画でタイプが分かれるか。
ホラー、ヒューマンドラマ、恋愛物、歴史大作、アクションなどのジャンルで、何となくタイプがわかる。

読書は難しい。
いろんなタイプがある。
これも、どういう系統の本を読んでいるか、ということだろう。
時代小説もあれば、恋愛小説もあるし、ミステリーもある。また、新書の類もある。ノンフィクションもあるし、評論もある。
読書が趣味と言ったら、月に4冊は読みたいところ。

楽器が弾ければ、楽器もいい。
ぼくはギターを弾くので、たいがいギターと書いている。

あとは、料理なども書きやすい。
料理が趣味という男性も増えた。
個別で習っているものでいえば、フラメンコとか、ダンス、水泳など。
昔やっていた、ということなら、野球、サッカー、バレー、テニスなどがある。
ブラスバンドもあるなあ。

好きなものや長くやっているものは、その人を表す。

だから、書かせるのか。

| | 考えたこと | 22:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
お腹が空かない
高校を出てから、お腹が空いたことがあるのは1回だけ。

摩耶山の登山の時だ。
この時はお腹が空いて、歩くのがしんどかった。
子供たちを連れていたので、疲れたという子供に付き合って休んだ。
そうすると、お腹が鳴った。
それでアメとチョコレートを食べたら、また登ることができた。
あの空腹感はそれこそ「学校を出てから、何年ぶりかで味わった」ものだった。

それに気づいたのが十数年前。

それ以来、あの空腹感はない。

生活習慣病と言われ、メタボと言われ、痩せないといけない。

それで昼ごはんはサラダだけ、というようなメニューにするのだが、お腹が空かない。
一応、空くのだが、あのお腹がすいた、という感じがないのだ。

それなら、その空腹感を感じるまで何も食べなければいいのではないか、と思うのだが、それも難しい。

ひょっとしたら、これは深刻な状態なのかもしれない。

慢性の食べ過ぎ、というようなものだろうか。

周りに聞くと、お腹が空くという感じがあるという。

ぼくは時間が来たから、あるいは何となくお腹が空いたから(実際はどうかわからない)食べるという生活を送っている。

毎晩帰るのが遅くて、夜中にたくさん食べていたのが悪かったのだろうか。
そういう生活を、大部分の人生で送ってきた。
身体が、食べたら貯めこむようになっているのかもしれない。

こんどこそ、頑張ってみよう。


| | 考えたこと | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
ツンデレ
ツンデレとはツンツンデレデレの略。

最初はツンツンしていて、あとでデレデレする、というキャラクターの性格を表す言葉らしい。
何となく意味はわかるが、いきなりツンデレと言われてもわからない。

ツンツンはよそよそしいという意味で、デレデレはなれなれしいという意味。
通常の意味だ。

恋愛ゲームでのキャラからできたというサイトもある。
2000年くらいから出てきたとのこと。

そうだろうなあ。
ツンツンもデレデレも使うが、ツンデレはぼくらは使わない。
子供に聞いたら、使うという。
このツンデレを名詞化して、ツンデレラというのもある。
ツンデレの人、ということになる。

調べてみるとヤンデレという言葉もあるらしい。
ヤンは病んでいる、ということで病的になっている、ということ。
それにデレるがついた、という構造らしい。
このデレる、というのは、「好きな相手等に異常な好意的感情を抱いた時に自らを制御出来なくなり、態度が幼児化したり、メロメロになったり、普段見せないような可愛らしい一面を覗かせたりする現象」らしい。
デレデレが動詞になったのか。
結局、病的にデレる、ということになる。

このデレがつく言葉は多く、ドロデレというのもある。
これはドロドロしたデレということで、「火曜サスペンスのような娘」という意味らしい。
なかなか面白い。

これらは、ゲームからできた言葉らしい。
どちらかというと、その手のゲームオタクが使う言葉のようだ。

しかし、こうなると日本語も難しい。

中学生の男の子が「デレるな」と女子に言われて、意味がわからず尋ねているサイトがあった。
ベストアンサーは、「そんな辞書にのってないような言葉、気にする事ない」となっていた。

そうなると、あまり若者にも支持はされていないらしい。

そういうことだ。



| | 考えたこと | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
昨日の続き。

桜という花は、無常を思う気持ちに触れるから、日本人に人気があるのだろう。
ぱっと咲いて、ぱっと散る。
世の中の無常を表している。

これほど派手な花も珍しい。
約1週間で嘘のようになくなってしまう。
ちょうど、「奢れるものも久しからず」という平家物語のセリフにぴったりだ。

しかし、日本古来の桜は、山桜らしい。
小林秀雄が言っていた。
このソメイヨシノになったのは、植木屋と文部省が結託して学校に植えたから…。
この桜は手入れが楽なのだそうだ。

山桜はもう少し上品なものらしい。

ぼくらは戦後生まれなので、ソメイヨシノを桜だと思っている。

ワシントンのポトマック川の川岸にも、桜が植えてある。
4月になって一斉に咲いても、アメリカ人は冷静に見ているらしい。
もちろん、きれいだと思うんだろうが、「ああ、桜が咲いた」という、どこから来るのかわからない感動はないようだ。

ぼくらは人類のみんなが、桜が咲けば「ああ、桜が咲いた」という感動をセットされているものだ、と思っている。
それがないなどとは、信じられない。

狂気とすら言えるような美しさを、日本人は感じる。

事実、あの桜の下で、飲めや歌えの大騒ぎをして、ほたえるのが年中行事になっている。
新入社員が昼から場所取りに行くのは、業務になっている会社も多いだろう。

あれも、桜の下だから、許されるのだろう。
すべての無礼は、桜の花によって免罪される。

入学式を春にするのも、桜の時期だからではないか。
日本では入学式を秋にできないのは、桜が咲かないからだ、という説明で十分だ。
いい学生が取りたいとか、国際的でないとか、批判はあるが卒業・入学のシーズンには桜が咲かないといけない、と日本人は思っているのではないか。
桜のようにはかない人生…、その無常な人生の節目なのだ、という戒めかもしれない。

無常観があるからこそ、来年も桜が見られるだろうか…、という思いが浮かぶ。

あと何回桜を見られるのか…。

今まで数限りない日本人が、桜について書いているだろう。
一度それらを調べて、まとめてみると面白いと思う。



| | 考えたこと | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
無常
日本人は世の中は無常だと思っている。

あらゆるものは永遠には存在しない。
永遠に存在しないばかりか、一生のうちになくなるものも多い。
平家物語の「祇園精舎の鐘の音…」、鴨長明の「ゆく川の流れは絶えずして…」という有名な書き出しは、多くの人が共感するものだ。

だから、起こってしまったことには、諦観がある。
リンボウ(林望)先生が言っていたが、原爆が落ちても、これは日本が海外に侵略したから、仕方がない、と諦める。
アメリカに対して、投下を断罪するというような人はほとんどいない。
そういうことをするのは、性に合っていないのだ。

原爆の慰霊碑文には「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」と書いてある。
誰の過ちかというと、戦争を起こした日本の過ちと思う人がほとんどだろう。
どこかの国なら、「1945年8月15日にアメリカが原爆を落した」と書くのではないか。

落ちてしまったものは仕方がない、という思いが日本人の気持ちだろう。

きっと世界では珍しい考え方だと思う。

そんな考えをもっているから、外交など全くダメだ。
強いことを言われると、譲ってしまう。
「どうせ無常なんだから…」と担当者は思っているのだろう。
そのとおり、世の中は変わっていくから、今の譲歩はかまわない。
国民も通り一遍の文句は言うが、無常だとわかっている。

世界中のすべての人が日本人のように無常観を持っていれば、平和になるだろう。

憲法9条が変わらないのも、日本人が別にそれでかまわないと思っているからだろう。

実際、地球が永遠にあるものでもないし、いずれは太陽に飲み込まれて消え去る運命だ。
やっぱり、世の中は無常なのだ。

この国民性は変わらない。

それで日本人が滅びても、いいではないか…と心の底で日本人は思っている。


| | 考えたこと | 21:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
カンガルー
カンガルーは大きなしっぽを持っていて、二本足で立てる。

移動はピョンピョンと跳んで、結構なスピードで移動する。
おなかに袋を持つ有袋類だ。

昨日テレビを見ていたが、カンガルーは優れた母体の機能を持っているらしい。
袋の中には2種類の乳首があり、片方は生まれたての子供用、もう片方は袋から出た子供用のものらしい。
胎内で胎児が育っていても、袋の中に赤ん坊がいれば、自動的に成長が止まる。
そして、袋から出ると、また成長し生まれるというシステム。

アカカンガルーは、10日ほど水を飲まなくても生きられる。
オーストラリアの中央部は、厳しい自然環境だ。
そこで生きていく。

有袋類がそのまま進化して、人間にならなかったのはなぜだろう。
ひょっとしたら、そういう人類もいたのかもしれない。
滅びてしまったのか…。

人間と鳥類を除くと、二本足で常時いるのは、カンガルーだけだ。

カンガルーにも、人間のように知的な生物になるチャンスはあったかもしれない。
進化のいたずらだろう。

もしかしたら、宇宙のどこかに有袋類の二足歩行の生物がいる星もあるかもしれない。

最近新聞で地球型の惑星はたくさんある、という記事を読んだ。
広い宇宙にはカンガルー型の知的生命体がいて、ピョンピョン跳んでいるかもしれない。

昨日、夕日をバックに、荒野を移動している親子カンガルーを見た。
もちろんテレビだが、すごくきれいな姿だった。

どこかの星でもそんな姿があるかと思えば、救われるような気がする。


| | 考えたこと | 00:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
聖書の組織論
新約聖書の中のパウロによるキリストの福音書のコリント人への手紙第12章に次の記述がある。


実際は、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。
もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけでもない。
また、もし耳が、わたしは目でないから、からだに属していないと言っても、それで、からだに属さないわけでもない。
もしからだ全体が目だとすれば、どこで聞くのか。もし、からだ全体が耳だとすれば、どこでかぐのか。
そこで神は御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。
もし、すべてのものが一つの肢体なら、どこにからだがあるのか。
ところが実際、肢体は多くあるが、からだは一つなのである。
目は手にむかって、「おまえはいらない」とは言えず、また頭は足にむかって、「おまえはいらない」とも言えない。
そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。
それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。
もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。


これはキリスト教の組織に関する考え方を表している、と曽野綾子が言っていた。

確かに、この文章をまとめると、One for all, all for one.というラグビーのチームワークを表す言葉の意味になるのだろう。

しかし、回りくどいと思う。

聖書というのは、なかなか日本人には理解できない。
それは荒野というなじみのない土地で生まれたものだから、という説明は説得力がある。

日本には四季があり、厳しい季節もあるが、良い季節もある。
キリスト教が生まれた土地では、自然は敵だった。
しかし、日本では自然は敵ではない。
恵みもあれば、厳しい時もある、そんな存在だろう。

日本人は神道の神を信じている。
いたるところに神はいる。
そして、組織論など考えない。

そんな気がする。

| | 考えたこと | 01:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
幕末の志士
司馬遼太郎が言っていたが、幕末は宗教と美術のない時代だという。

道徳と宗教は人が生きていく上で大きなものだが、その片方が欠落しているらしい。
燃えたぎる熱情を道徳だけが支えていた時代。

京都で高杉晋作が将軍暗殺を考えていた。
ある浪士が自分も仲間に加えてほしいと頼んだが、高杉は断った。
浪士は高杉が自分を臆病者だと思っていると思い、その場の軒先で、立ったまま腹を切って死んだという話があるらしい。
死んではもう何もできないのだが、そういうような人があふれていたのが幕末だという。
宗教の目的の一つは、死後の世界だが、そんなものはどうでもよかったらしい。

徳川家は浄土宗だった。
しかし、儒教が入ってきて、その中の朱子学というものが、基本的には無神論であったことが要因らしい。

道徳で死ねる時代。

さすがに歴史家、司馬遼太郎だけのことはある。

そんなことは考えたことがなかった。
もちろん、ぼくの知識がないからだが、そういうふうに言われると幕末の特殊性がよくわかる。

幕末という時代は、日本人が火事場の馬鹿力を出した時代なんだろう。
しかし、道徳で死ねる時代というと、第二次大戦もそうだったかもしれない。

でも、あれはある意味強制されていたのかもしれない。

歴史を語るのは、歴史家であって、歴史研究者ではないと司馬遼太郎は言う。
歴史家は小説家や詩人に類する仕事をしている人だ。
色々な事実を並べて、それらの事実を吟味し、「何か」を考える。
そんな仕事が彼の仕事だったらしい。

そういう仕事のなかから、司馬遼太郎の作品群が生まれた。

坂の上の雲、峠、梟の城、播磨灘物語、花神、燃えよ剣、歳月…。



| | 考えたこと | 23:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
BAU 行動分析課
BAUはBehavioral Analysis Unitの略。
クリミナル・マインドという番組に出てくる。

FBIの中に実在するらしい。
今はやりのプロファイラーのユニットのことだ。

犯罪現場の特徴や犯行の状況、被害者の状況などから犯人のプロファイリングをする。
それも驚くほど細かい。
年齢、肌の色、生育歴、家族との確執、性格、職業などを推定する。

実際はどうかはわからないが、これに近いことをやっているのだろう。

プロファイラーたちは、博士もいれば、現場のたたき上げみたいな人もいる。
チームには、それ以外に広報担当、情報検索担当(コンピューターの担当)がいる。
この広報担当が、チームで扱うべき事件を選ぶ。
各地の警察が依頼してくる事件から選ぶのだ。
そして、専用のジェット機で移動する。
いかにも、アメリカという感じのドラマ。

日本にもこのパクリのようなドラマがあったが、厚みが違う。
年齢も相応の人がやっているし、だいいち、そんな若い人にこんな仕事ができるわけがないのだ。

見ていると、プロファイリングは精神を消耗することがよくわかる。

メンバー自身、色々と問題を抱えており、家庭が崩壊したり、本当におかしくなって去った人もいる。

これを見て、自分はプロファイリングがやりたい、と思う人は少ないだろう。

それだけつらい仕事だが、メンバーはそれでも頑張っている。
これは職務に対する使命感と誇りがそうさせるのか。

このドラマはリアリティがある。



| | 考えたこと | 22:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
イージー・リスニング
久しく聞かないが、イージー・リスニングというのはどうなったんだろうか。

今でもあるのだろうか。

ぼくが中学のときに、ポール・モーリアが水色の恋、いや違った、「恋はみずいろ」を出した。
チェンバロの音を初めて聞いて、いい音だなあと思ったと同時に、フランスのしゃれた音を感じた。

一度フェスティバルホールに聞きに行ったことがある。
ポール・モーリアオーケストラだ。
ストリングスが10人ほどに、ドラム、ギター、キーボード、ピアノ、ベース、ブラスが5人ほどだったか…。
途中オーケストラの休憩のときに、大道芸人風の人が出てきて、身体を使って音を出すというお楽しみがあった。
身体のいろんな所にラッパをつけていたのだ。

ポール・モーリア以外にも、フランク・プールセル、パーシー・フェイス、ビリー・ボーンなどのオーケストラがあった。
ビリー・ボーンオーケストラといえば、「波路はるかに」だ。
トロンボーンの響きが売り物。
パーシー・フェイスは「夏の日の恋」。
ストリングスのメロディが夏を思わせる。

ニニ・ロッソの「夜空のトランペット」も懐かしい。
ラテン系のイージー・リスニングもあった。あれは、なんと言ったか…、忘れた。

その後出てきたのが、リチャード・クレイダーマン。
今でも生きている。
この頃にはあまり聞かなくなっていた。

ほとんどがオーケストラそのものだったり、オーケストラをバックに演奏したりしていた。

今はもっと昔に戻って、ムード・ミュージックとでも言うのだろうか。

カラオケやPAが進歩して、オーケストラは馴染みがなくなったのも一因だろう。

ポール・モーリアはかっこよかった。
指揮をするだけだったと思う。
細身で、いかにもフランスの紳士という感じ。

1970年代初頭だった。

今みたいに、世の中に閉塞感が満ちておらず、何となく希望があったような気がする。


| | 考えたこと | 22:17 | comments(2) | trackbacks(0) |
論語
ぼくらは高校で漢文の時間に論語を習った。

習ったといっても、「学んで時にこれを習う、またよろこばしからずや」とか「友あり遠方より来る、また楽しからずや」とか、「ゆくものはかくの如きか、昼夜をおかず」とか本当に有名な部分のみだった。

子路とか顔回という弟子がいたことはかろうじて知っている。
子路は向こう見ずで、顔回は賢いということも書いてあったような気がする。

漢文は週に1回はあった。
3年間続いたのは間違いない。
ぼくはどちらかというと、漢文が好きだったので、よく覚えている。
どこかに、薄い漢文の教科書がまだ置いてあるはずだ。
なんとなく、捨てられなかった。

孔子に対して、老師というのもあった。
ぼくはどちらかというと、そちらの方が好きだったが、日本ではやっぱり論語がメジャーだ。

この年になると、論語の言葉が身にしみる。
五十にして天命を知る、と孔子はおっしゃった…という。
もう55歳だが、天命を知るというには全くおこがましい状態だ。

以前、香港に行った時、論語の話をして感心されたことがある。

「孔子」と「学而時習之亦楽哉」などと書いたら、意味はわかったようだ。
人間、誰しもその国の有名人を知っていたらうれしいものだ。
調子にのって、「日本人はみんな孔子のことを偉いと思っている」くらいのことは言ったような気がする。

香港の人はみんな喜んでくれた。

その当時、中国の人は孔子を知らない人がたくさんいたはずだ。
今はちょっと事情が変わっているだろうが…。

しかし、2500年ほど前に生きた孔子の言葉を、それから200年か300年か、はたまた500年後かに弟子が記録したものが論語だという。
それだけの歳月、弟子がいつづけたこともすごいし、それを言い伝えていたということもすごい。

誰かが言っていたが、古典とはいつまでも新しいもののことを言うらしい。

まさに論語は古典だろう。




| | 考えたこと | 21:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
インドの時代
CNNによると、「急成長を続けるインドは2050年までに中国を抜いて、世界一の経済大国になる見通しだ。英ナイトフランクと米シティプライベートバンクがこのほどまとめた世界の富の配分に関する報告書(2012年版)で予想した。」とのこと

2050年というと、今から38年後。
今55歳だから、93歳まで生きれば確かめられるが、それは無理だろう。

「中国は2020年に米国を抜いて世界最大の経済大国となる見通し。しかしインドの国内総生産(GDP)は購買力平価(PPP)ベースで2050年までに85.97兆ドルに達して中国の80.02兆ドルを上回ると予想。米国は30.07兆ドルで3位に後退するとした。」

国民総生産だから、人口が多い所で工業化が進めば当然増加する。
人口自体は2030年に中国が15億人、インドが20億人だから、インドのほうが多い。
しかし、中国の統計も当てにならないから、もっと多いかもしれないが…。

アメリカは3億人程度だから、まだまだ一人あたりのGDPでみると豊かだ。
でも、こんな予測が出ると、また企業がインド、中国に行こうという意欲が高まるんだろう。
自由競争の結果は、国も止めることはできない。
お金に国境はないからなあ。

東京裁判の時、インドのパール判事はA級戦犯の被告人全員無罪を主張した。
天才数学者、ラマヌジャンを生み、今の数字のシステムを作った国でもある。

インドのイメージは、とにかく人が多い国、ヒンドゥーの神秘の国、数学に強い国…。

ぼくが生まれた頃、インドはイギリスから独立して10年ほど。
ぼくが死んだあとには、世界一の経済大国。

アジアの時代が来るなあ。


| | 考えたこと | 22:11 | comments(0) | trackbacks(0) |