考えたこと2

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笑えない「わろてんか」
今日終了した朝ドラ「わろてんか」。
その前の「ひよっこ」に比べて、ゲンナリする内容だったとぼくは思う。
吉本興業をモデルにしたストーリー。あくまでモデルだけだろう。

とても笑えない内容だ。
世間では視聴率も高く、調子がいいらしい。
これが視聴率が高い、というのがわからない。

関西製作は前回の「べっぴんさん」もひどかった。
こちらは子供服のファミリアがモデル。
若い役者が年寄りまでやらされて、気の毒だった。

そういえば、今回も主人公が老け役まで無理してやっていた。
一代記や半生記をやろうとすると、どうしても今の若い役者では無理がある。
実際の年齢が19歳で、50歳を超えたところまでやらないといけない。
おまけに、息子の役者のほうが年上だ。
ギャラの関係もあるのだろうが、無茶をしすぎ。

脚本も中途半端なところで終わる。
「ひよっこ」がよかっただけに、ギャップが大きい。
いったい、何が描きたかったんだろうか。
戦争が終わったところで、ドラマも終わりなんて、どういうことなんだろう。
このドラマの後半は、戦争を描きたかったのだろうか。
戦争を描くなら、毎日15分の枠でやるべきではないと思う。

「ひよっこ」が良かったのは、時代を描いたからだと思う。
昭和30年代から40年代という時代を、田舎から集団就職で出てきた女の子を主人公にして描ききった。
主人公がムリをしなくても、高校生から結婚前まででよかったし、脇役陣にも恵まれた。
東京制作だから、予算が多いのか…。
時代を描いたから、主人公の年齢はそんなに広げない。

そして、主人公は普通の人だった。
普通の人が、時代をどう生きたか、というドラマだった。

それが大阪制作になると、どういうわけか伝記的人物の半生記になってしまう。
だから、演じる年代も広くなる。
そのうえ、若い女優を選ぶ。
これでは見ていて気の毒なる。

おまけに、テーマがお笑い。
お笑いというのは、難しい。
吉本のお笑いに対する姿勢は、ある種の不真面目さを愛するところにあるのだと思う。
そこが全く描けていない。

関西人の悪しき権威主義や保守主義が出てしまった結果が「わろてんか」だと思う。
でも、それに一定のファンがいる、ということだろう。

だから、ややこしい…。




| | 考えたこと | 21:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
PDCAサイクル
こないだ大学の同級生と喫茶店で話していたら、PDCAサイクルの話になった。
彼は文系だが、ぼくと同じく、1979年にメーカーに入った。
当時はQC(品質管理)の花盛りで、メーカーではそれを仕事の進め方にまで拡大していた。
それがPDCAとなったのだと思う。

Plan-Do-Check-Actionという手順。
最初はPDCだったが、あとでAが付け加わったという歴史だった。
一周りしたら、それをもう一度回して改善していくから、PDCAサイクルと呼んだ。
仕事の進め方を考える時に、PDCAを意識しよう、ということだ。

彼が今勤めているのは2度めの職場。自治体の外郭団体だ。
業務の効率化を図るために、勤務時間の削減をしたいという。
そこで、PDCAサイクルが出てきた。
それ自体は悪いことではないのだが、どう考えても、言っている方がPDCAという言葉をよく分かっていない。

今回はあくまでも、業務の効率化が目的なのだが、友人は、どうしても達成しようとすると一人増やさないといけない、ということになったらどうするのか?と聞いたらしい。
そうすると「その時は人を増やす」という返事。

本来の目的はコストの削減だと思うが、一人増えたらそれは帳消しになるというか、マイナスだろう。
それでも、一人あたりの勤務時間を減らすという。
本来の目的が理解されず、言われたことをやる、という感じだ。

70年代あたりに民間のメーカーあたりから始まり、80年代に広がったPDCAサイクル。
学校法人でも周回遅れにビックリしたが、公務員の世界でもそうなのだ。
効率を考えなくてもいい、という世界。
自分たちが儲けなくても、税金で給料が入ってくる。

友人と「一体どうなってるんやろう」とため息をついた。
前にも書いたGとLの世界の違いだ。
「G」はグローバル、「L」はローカル。
民間で製品を輸出していたり、国内でも輸入品とシェアを競っていたりする会社は「G」の世界で生きてきた。
効率を上げて、競争に勝たないと生き残れないからだ。
そういうところは、80年代にはPDCAという言葉を使って、仕事のやり方を考えていた。

そうでない公務員や学校法人は「L」の世界で生きている。
競争がなく、効率を考えるよりは前例踏襲でつつがなく人生を過ごす。
それらの差がほぼ40年もある、ということだ。

日本の労働者の生産性が低いという。
それは「L」の世界の人たちが、何も考えずに「PDCA」と呪文を唱え始めたことを見ると明らかだ。

民間企業出身者をもっとLの世界に入れないといけないと思う。

このままでは、ダメだなあ…。

また、2人でため息をついた。


| | 考えたこと | 21:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
訃報 ハーブ・エリス
ジャズのギタリスト、ハーブ・エリスが亡くなった。
記事によると、アルツハイマーだったらしい。88歳。
かなり高齢になっても、元気にギターを弾いている姿がYoutubeで見られたのだが、3月28日にLAで亡くなったとのこと。

南部の出身で、どちらかというとブルージーで、カントリーっぽいところもあり、ジャズには珍しくチョーキングをする人だった。
テクニカルというよりは、勢いで聴かせるタイプ。

アマゾンで4枚が1セットになっているのをダウンロードした。
そのなかでも、Nothing But The Bluesが有名。
何曲かは去年ソロのところを楽譜にした。
1曲めのPap's Bluesという曲は、ゆっくりしたテンポで何とも言えないブルージーな感じがあって好きな曲。

教則ビデオもYoutubeにあって、英語で聞いたりした。
リクツはよくわからかなったが…。

ハーブ・エリスにリクツは似合わない。
老年になった顔を見ていると、何となく頑固親父というイメージだった。

こないだ、先生と「まだ生きてますよね」と確認しあったところだったのに…。

Rest in Peace.




| | 考えたこと | 09:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
中教審答申
中教審というと、中央教育審議会のことだ。
日本の教育の方針を決めるための審議会。
そこが今後5年間の5つの基本方針を決めたらしい。

■夢と志を持ち、可能性に挑戦するために必要となる力の育成
■社会の持続的な発展を牽引するための多様な力の育成
■生涯学び、活躍できる環境の整備
■誰もが社会の担い手となるための学びのセーフティネット構築
■教育政策推進のための基盤整備


これらがその方針。
まあ、基本方針だから、具体性はなくてもいいのだが、これ自体を読んでも何をしたいのか全くわからない。
例えば、1つ目の「夢と志を持ち、可能性に挑戦するために必要となる力の育成」という項目だが、「必要となる力」がこれだ、ということを書くべきではないか。
いろんな力があるが、「これ」を育てることが必要だ、ということだ。
それを明確にすると、いろいろと意見が出てくるから、玉虫色になってしまう。
だから、こんな書き方になるだろう。
でも、それを決めるための審議会ではないか。

ぼくがずっと書いている、「教員養成課程の見直し」ということは全く出てこない。
今の教員養成課程を大きく変えたくないからだ。
なぜかというと、教育関係者ばかりで審議会が構成されているからだと思う。
メンバーを見ると、大学の先生が15名、大学以外の教育関係者7名、企業等の外部組織の人5名、自治体の首長2名、評論家1名という構成。
大学関係者は今の教員養成課程の利益代表者だから、教育課程を大幅に変えようというインセンティブはもともとない。
また、実際の教育のことを知っている人がどれだけいるのか、疑問でもある。

今の大学生のなかで、分数の意味がわかっていない学生がどれだけいるか。
割合の概念がわかっていない学生がどれだけいるか。
アラビア半島がどこにあるかわかっていない学生がどれだけいるか。
アルファベットを最後まで言えない学生がどれだけいるか。
そんなことを調査することも提案されない。

こないだ、中高生の読解力がどれほどエライことになっているかを示した、新井先生の調査は、現場レベルで認識されているのか。

本気でそういうことをやって、対策を取らないと、ダメだと思う。

いくら生徒や学生の目標を書いても、それを育てる方を変えないと、目標は達成できない。

それは当たり前のことだと思うのだが…。

| | 考えたこと | 21:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
介護リテラシー
松浦晋也というノンフィクションライターがいる。
「国産ロケットはなぜ墜ちるのか」という本を読んだ。
だいぶ昔の話。
なんで日本のロケットはよく落ちるんだろう?と思って買った。
詳しい話がわかりやすく書かれていて、いい本だった。

その松浦晋也が、自分の親の介護の本を出した。
1962年生まれだから、ぼくより5歳年下。
今は56歳になるのか。

彼は母親が認知症になって、介護を体験した。
「介護生活敗戦記」という記事が日経ビジネスに載っている。
それをまとめたものが、出版された本らしい。

その記事の中に、松浦晋也の世代は経済成長に乗って人生を歩めた時代が長いから、人生全体に対するイメージが貧困だ、という意味の言葉があった。
その通りだと思う。
とにかく、時間が解決してきたという感じがある。
黙っていても、人は増えたし、それに伴なって会社は大きくなったし、ポストは増えみんな給料が増えた。
ぶっちゃけて言えば、そんな時代だった。

どうやって自分のキャリアを積んでいくかとか、成長しない事を前提に、どうやって生きていくかというような考えは必要なかった。
時代が解決したのだ。

「特に男性は、最後は奥さんに看取ってもらうのが当然と思っている方が多かった」という時代。
もはや親の寿命も伸びたし、医療も進んで、どうなるかはわからない。
そこの切り替えがなかなかできない。
だから、ぼくらの世代は介護リテラシーがないという。

そのとおりかもしれない。

自分の人生の先のことを考えなくても、生きていけた時代。

これからは、そうはいかない。



| | 考えたこと | 22:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
引っ越し
昨日は次男の下宿の引っ越しの準備に行ってきた。

長男のときは、結構古い物件だったので、掃除をしても仕方ないという部分もあったが、次男はちょっと遠いところで新築だったので、掃除のし甲斐があった。
5年ほど過ごした割にはきれいだったと思う。

自分の下宿の引っ越しの時のことは、何度か書いた。
ぼくは大学でほとんど勉強もせず、下宿で遊んでばかりいた。
さすがに4回生になって、これ以上はこんな生活は続けられないと思い、就職した。
最後に、4年間入り浸っていた無人の落研の部室に行って、帰るときの青い空は忘れられない。

子供らの下宿生活は楽しかったのだろうか。
ぼくは、大学の下宿生活が人生で一番楽しかった。
その後の人生を生きていく糧になる時間だったと思う。
そういう時間を過ごしたから、これから働いていこうと思えるのだ。

こないだ大学の同級生と話したとき、自分の子供達は親が知らない間に勝手に決めて進んでいくのだが、よく考えたら自分もそうやってきたなあ、ということになった。
確かに、自分の就職の時を考えてみると、とりあえず目の前のことで精一杯という感じだったか。
新入社員は全員寮に入ったから、下宿を一旦引っ越しして、バッグ一つ持って寮に入った覚えがある。
ぼくの場合は実家が近かったから、当座のものだけ持っていった。

4月に入って、ずっと研修。入った年の年末まで研修のプログラムだったから、長い研修に父はビックリしていた。
販売実習に始まり、技術サービス、生産技術、工場の実習を経て、最後は雪国の営業所で2ヶ月。
考えたら、贅沢な研修だったと思う。
今はもっと短縮しているだろう。
1979年。思えば、これから日本がJapan as No.1になり始める時期。
いい時代だったと思う。
まことに申し訳ないが、そのいい時代を無駄に過ごし、子供らの世代に引き継げなかったのは、慚愧に堪えない。

子育ての30年ほどを振り返ると、自分は決していい親ではなかったと思う。
特に子供らが小さいときは、ほとんど仕事にかまけて、家族のことはあまり考えなかった。
それでも、子供らは大きくなって、ぼくと同じようにギターを弾き、コンピューター好きになった。
家内に感謝。ありがたいことだ。

彼らの人生はぼくらとは違って、低成長の時代になると思う。
それでも、それなりに楽しみを見つけ、やりがいを得て、いい人生を送ってほしい。
そのことを願うのみだ。

これからのぼくらは、だんだんと彼らから教えてもらうことが増えてくる。
いつまでも子供ではない。
負うた子に教えられる、ということだ。

そういう年になってきた。

| | 考えたこと | 23:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
手書きの功罪
1990年代の後半あたりに会社にワープロが導入され、だんだんと手書きがなくなっていった。
ぼくがいた技術部は、一人一台の体制になるのが早かったので、かれこれ20年ちょっと、まとまった文章を手書きで書いた、ということはない。
ぼくは、ブラインドタッチを覚えるのが早かったので、最初の方こそ手で書くほうが早かったが、パソコンを打ったほうが早い、という時期を迎えるのは早かった。
仕事をしている上ではそう不便を感じたことはない。
でも、最近本当に字が下手になって、漢字が書けなくなった。

もともと字はきれいな方ではなかったが、自分では読みやすい字を書けると思っていたし、レポートなどを書いてもそういう評価だった。
ところが、ここ数年は本当に字が汚い。
最悪、自分で書いた字が読めなかったりする。
本気で、丁寧に書こうと思って気合を入れて書けば、書けないことはないのだが、なかなかそういうモードにならない。
大概は汚い字で殴り書き、という感じだ。

そんな時、Wall Street Journalで「米大学「ノートPC禁止」の講義、学生の対策は」という記事を見た。
記事の中にこうある。

「教室でのパソコン使用を一部教員が禁止していることに、幼い頃から手書きよりもキーボードに慣れ親しんできた世代が困惑している。携帯電話で授業を録音したり、字がきれいな友人に頼ったりする他、学校側に柔軟な対応を求めるよう懇願するケースも見られる。」

今のアメリカの大学の新入生は、小さい頃から手書きではなく、パソコンを使って打ち込んできた人も多い。
クロームブックというグーグルが出している、教育用のPCなどがその後押しをしているのだ。
ほぼ40年間手書きで書いてきたが、それでも20年ほどパソコンのキーボードで打ってきたぼくでも、字を書くことが苦手になるのだから、ずっと手書きをしていない世代には手書きで書け、と言われたらシンドイだろう。
やはり、自分の書いた字が読めない、ということになっているらしい。

この状況はいろんな衝突を教える側と学ぶ側に生んでいるとのこと。
大学側は手書きの良さやメリットを強調するし、学生側はパソコンの方が便利だという。
筆記体を教えなくなったことも、影響している。

しかし、大学側はだいぶ強気に出ている。

「学生がノートを取っているのか、アマゾンでスニーカーを注文しているのか、教壇からは判断できない。キーボードを使えばメモは素早く取れるものの、それは頭を使った作業ではなく、総合的に情報を理解できていないとする教員もいる。」

ということだ。

ぼくも教員側の意見には一理あると思う。
実際、パソコンで早く打てるのは文字だけだし、線や矢印で結びつけるとか、簡単な絵を描くとか、そういうことも含めると手書きの良さは捨てがたい。

しかし、小中高とパソコンを使ってやってきた学生にそれを押し付けるのは酷だとも思う。

日本ではまだまだそういう段階ではない。
小学校でプログラミングを教えると言っているが、キーボードリテラシーがない教員の方が多い。
でも、そのうちそういう時代が来る。

今となっては、どちらの気持ちもよくわかる。

頭の固い教育学者が、手書きにこだわりすぎないようにしてほしいと願う。

| | 考えたこと | 23:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
時代劇の価値観
年をとって、昔の時代劇にハマっている。
単なる勧善懲悪のものはダメだが、池波正太郎や藤沢周平、古いところでは山本周五郎の原作はいい。
なんといっても、池波の「鬼平犯科帳」、「剣客商売」のシリーズ。
新しいところでは「三屋清左衛門残日録」、「居眠り磐音江戸草紙」、「妻はくノ一」、「みおつくし料理帖」なんかもよかった。
邦画で時代劇をやっていたら、面白そうなら録画する。
自分でもこんなふうに時代劇が面白くなるとは思わなかった。

大体は昭和の作品だが、平成になってからのものもある。
あるパターンが「いいなあ」と思わせるのだろう。

誰かのために、決死の覚悟を持つとかいうパターンはある。
昔から、日本人の価値観になっているものだ。
それは封建主義と結び付けられて、ヨクナイものだと習った気がするが…。
特攻隊の「お国のために」とか「家族のために」とかいうパターン。

それでも、そういう心情は消せない。
ヨクナイと言っていた人たちも、部活の場面で、「チームのため」ということになると賛成するのだから。
ブラック部活がなくならないのも、結局は日本人の、「合理性を超えて誰か、何かのために頑張る」という心情がそうさせている。
組体操で、危険を顧みず、子どもたちに高い所に登らせている人たちの心情も同根だろう。

そう考えると、ブラックバイトも同じことだ。
合理性を超えて、バイト先のために頑張る、という心情があるから無くならないのだろう。
バイトだから、辞めて次を探せばいいのにとさすがにぼくは思う。
それでも、「店長が気の毒だ」などという心情がムリをさせる。
東大を出た新入社員でも、辞めずにブラックな働き方を続け、自殺に至っているのだ。
つくづく、日本人にそういう心情は刷り込まれている。

それらブラック部活やブラックバイトに比べると、まだ時代劇の「お家のために」の方がマシに思えるのは、ぼくの偏見か…。

アメリカのドラマでも、「仲間を決して見捨てない」というのはある。
海兵隊出身者などが出てくると、そんな感じになる。
西洋でもそういうのはある。
それでも、長期にわたって、合理性を欠いてまでやるという感じではない。

やっぱり、日本人の奥底にあるパターンがあって、それが琴線に触れるから時代劇のようなものに感動するんだと思う。

それは、やはりドラマの中だけにしておいて、現実は変わらないといけないのだろう。
そう簡単に変わるとも思えないが…。

| | 考えたこと | 00:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
Society 5.0
1月に閣議決定されたものの中に、内閣府が提唱したSociety 5.0というものがあるらしい。
Society 5.0とは、「サイバー空間(仮想空間)とフィジカル空間(現実空間)を高度に融合させたシステムにより、経済発展と社会的課題の解決を両立する、人間中心の社会(Society)」という定義。
こういうのを作っても、果たして国会議員の人たちで分かる人がどれだけいるのか疑問だが、これが第5期科学技術基本計画で決まったものだ。

Society 5.0ということは、5番目の社会ということであり、1番目から4番目を経て5番目になるということ。
1番目は狩猟社会、2番めは農耕社会、3番めは工業社会、4番目は情報社会、そして5番目がこれになる。
日本でいうと、狩猟社会は縄文時代、農耕社会は弥生時代、工業社会は明治に入ってから、情報社会は80年代くらいから、という感じ。
社会の変化が加速しているのがよくわかる。
特に工業社会になってから、情報社会になるまでが100年ちょっと。
そこからSociety 5.0までが40年くらい。
縄文時代が1万年以上続いたことから考えると、確実にスピードアップしている。

ぼくらの世代は工業化社会に生まれ、情報化社会を迎え、その次に入ったところあたりであの世に行く。
一人の人生で、3つの時代を経験することができる、初めての世代だ。
そう思うと、大学の学科を選ぶときに、情報関係を選んだのはまことに正解だった。
全く勉強しなかったから、ほとんど役には立っていないが…。

それでも、90年代からパソコンには馴染んできた。
最初はMac、社内LANができてからはWindows、最近はタブレットやChromeBook。
当初はワープロなど、パソコン単独でソフトを使うためのものだったが、ブロードバンド化してからはネットに繋がってなんぼ、の世界になった。
今やインターネットは社会インフラだ。
Googleやアマゾン、楽天がなければ、生活に困る…と言ったら言い過ぎになるが、Society 5.0で目指している時代はそういう時代だろう。

社会インフラだという認識になれば、どうやって安全性を担保するかということになる。
しかし、インターネットの世界は自由な世界。
自由だからこそ、ここまで発展したとも言える。
オープンソースと言われる、誰でも自由に使え、改善できるというようなソフトウェアで進化してきた。
GoogleやアマゾンがAIを自由に使えるアプリケーションにして提供しているのも、そういう基本があるからだろう。(ただし、その仕組みで儲けているのも事実)

今やインフラとなったインターネットのセキュリティをどう確保するのか。
それは社会の課題でもあると思う。

ビッグデーターとか言われ、政府の持っている個人のデーターなどがクラウド上で利用できたりしないと、Society 5.0の時代は便利にならない。
安全性と利便性を両立しないといけないのだ。

これらの技術を開発したり、運用したりできる人が必要になる。

Sosiety 5.0という掛け声はいいが、「人を育てる」という時間がかかることを早くやらないと。



| | 考えたこと | 23:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
卒業式2
3年前に長男の卒業式に出た。
今日は次男の卒業式。
1万人の第九で行った、大阪城ホール。
さすがに、1万人の第九よりは空いていた。

シンプルでいい式だった。
余計な挨拶もなく、学位記授与と総長の式辞だけ。
あとはグリーとオーケストラの演奏。曲は「威風堂々」だった。
ハレの日にふさわしい曲だ。

ホールの前にはたくさんのクラブ、サークルのメンバーがいて、卒業生を送別していた。
人生で一番いい時とのお別れだ。
送る方も、送られる方もそれはわかっている。
笑顔の中にも、別れの寂しさがある。

この日を境に、もう一生会わないだろう人もいる。
今日会ったからといって、何が変わるわけでもない。
それでも、みんなが人生の糸を同じ場所に集わせるのが、卒業式。
ここから、旅立っていく。

どんな志があるんだろうか。
あの若い人たちは、これからどんな人生を歩むんだろうか。
そんな事を考えながら、式を見ていた。

前も書いたが、ぼくは入学式も卒業式も出なかった。
そんな学生はあの時代、けっこういたと思う。
既存の権威にそまるのが嫌だったのだ。
学生運動の末期だった。

どんな卒業式だったんだろう、と今さらながら思う。

でも、それもまた人生。

人生は選択の連続の結果。
今日の祝辞の中でも言っていた。
自分が選んだ道は、結果的に必然であり、最善なのだ。

そう思えるように、生きていこう、というメッセージだったと思う。

これで子ども2人とも社会人になる。
めでたい日だった。


| | 考えたこと | 18:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
どこで死ぬのか
どこで死ぬのかを自分で選ぶのは難しい。
そもそも、自分がまともな精神状態かどうかさえわからないから、それもやむを得ないと思う。

今のところ、日本では8割が病院で亡くなる。
そういえば55年前、母方の祖父が亡くなったのは自宅だったが、その後は身近な人はいない。
今は何となく、病院で死ぬのが当たり前という感じだ。
実際、1952年には日本の自宅死率は81%だったとのこと。
医療が大幅に進んで、逆転した。
それが医療費を増大させている原因でもあるのだが…。

欧米では病院で死ぬのは5割くらいらしい。
アメリカは保険制度が大きく違い、病院に入れない人もいるのだろう。
それでも、死に対する考え方が違うのも事実。

記事によると、人間の身体はよくできていて、死ぬ時に苦しまなくてもいいようになっているという。
命が終わるときには、脳内モルヒネが出て、痛みなどがやわらぐ。
食べられなくなると、脱水と低栄養状態が進み、脳内モルヒネが増加して意識がなくなり、眠るように息を引き取るような仕組みらしい。

ところが、病院にいると、それらの徴候は危険だと判断され、栄養補給されてしまう。
それが死のプロセスを妨害して、結果的には苦しんで死ぬことになるという。

それは延命至上主義と言われて、医療的に「いいこと」とされてきたが、疑問を呈する人も増えてきた。
まあ、そうだろう。
数週間か数ヶ月のために、穏やかに死ぬのを放棄して、苦しんで死ぬ方を選ぶ人が多いとは思えない。
そういう事実を知らないから、延命してしまう。
そんな気持ちがあるから、病院で死ぬのではなく自宅で死にたい、という人が多いのだと思う。

延命するか、しないかではなく、穏やかに死ぬか、苦しんで死ぬかという選択。

人間の身体はうまく出来ているから、本当にそういう風になっていると思う。
生まれた瞬間から、死はプログラムされているのだ。

老いて衰えて死ぬ、という選択。

どこで死のうが、それは賢い選択だと思う。

| | 考えたこと | 22:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
科目の目的化
学校法人に勤めた時、わからなかったことの一つが入試の科目。
全く聞いたことがない科目があった。
数学A,Bとか、現代文A,Bとか、日本史A,Bとか…。
ぼくは直接関係なかったから、わけわからんなあと思っていたが、今回高校の学習指導要領が改定されるにあたって、調べてみた。

OKWebというところに、科目の違いへの回答がある。
それによると、

「日本史B・世界史B・地理B→昔の日本史・世界史・地理に相当と考えてください。

地理・日本史・世界史のABは難易度で分かれています。
Aは近現代中心で、近世以前は内容が浅いです。
Bは全体的に詳しく学びます。
従いまして、大学受験にはBが必要ですが、例えば理系のように社会が浅くてもいい場合は2科目目をAにしたりするケースがあるわけです。現在は授業数が少ないのでこういったことが行われています。」

なるほど。
社会は難易度でA,Bが分かれているということか。
結局は入試でどこまで必要か、ということであって、要は理系を選択した生徒向けに近現代中心に覚えることを減らしたものを作ったということだ。
科目が入試対策のための目的と化している。
本来、歴史や地理は、「何を知っているべきか」で決めるのが、教育課程の考え方だろうが…。

「次に数学ですが、こちらは内容で6科目にわかれているので社会とは意味合いが少し異なります。

多少の整理はされましたが、大まかには
数学Iと数学A→昔の数学I・数学IIに相当
数学IIと数学B→昔の基礎解析・代数幾何に相当
数学IIIと数学C→昔の微分積分・確率統計に相当
と考えていただければと思います。

文系はIAIIB、理系はIAIIBIIICを学ぶのが標準です。

同様に理科の各科目も昔は1つでしたが
今はI(基本)。II(応用)にわかれています。」

と書いてある。
これは一部の高等学校では崩壊していると思う。
18歳で入学してきた学生の多くが「割合」や「分数」がわからない状況だ。

一方、大学のカリキュラムも「何ができるようになるか」を明確にしないといけなくなった。
実用的な科目ならいいのだが、そうでない科目には違和感がある。
何ができるようになるかは、学んだ人が決めるものだと思う。
中学や高校で学ぶのは教養に類するもので、何かのために学ぶものではないと思う。

そんな中、今回高校の国語も変更されている。

現在は、国語総合、国語表現、現代文A、現代文B、古典A、古典Bの6つ。
こちらも、A,Bの違いは、Aが教養講座的なもので、Bが大学受験を目指すものだったらしい。

改定後は、現代の国語、言語文化、論理国語、文学国語、国語表現、古典研究になる。
文科省は「高等学校において育成を目指す資質・能力を踏まえつつ、教科・科目の構成を改善」と言っている。

国語の先生は変わらない。
分け方を変えて、教科書を変えていじくり回す。
それで、力を入れている、ということになる。
こんなものは教育学者の遊びでしかないと思う。
国語は昔から国語だ。

結局教える方の力量が落ちたから、ジャンルを分けないといけなくなったんだろうと思う。
もちろん、小中でのレベルダウンもあるんだろうが…。

ということで、2020年から変わるのは止められないだろう。

いい加減に高等学校も、入試ばかりを追いかけて、科目をいじるのをやめるべきだと思う。

文学国語を選択しなかったら、文学のテキストを習わないなんて、オカシクないか。


| | 考えたこと | 23:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
The future of War
戦争の未来、というエコノミスト誌の記事を、Google翻訳に手伝ってもらって読んだ。
会社勤めをしていた時に、これがあったら、もっと記事の翻訳は楽だったとつくづく思う。

記事の内容は、今までの戦争の歴史をざっと見て、今後の戦争の予測をしようというもの。
まず、最近の戦争は内戦であり、対外的な戦争はほとんどなくなった、と書いてある。
大国間の戦争がなくなったのは、核兵器の抑止力によるものだ。
お互いに自分たちも滅びてしまうから、戦争ができなくなった、という皮肉な事実。

そういう日本も、アメリカの核の傘の下で戦後70年を送ってきた。
平和憲法が戦争を抑止したという人がいるが、エコノミストの記事には"mainly because of the mutually destructive power of nuclear weapons"と書いてある。
平和憲法は素晴らしいと思うが、それが通用しない国もあるし、そういう国には「核の抑止力」に頼らざるを得ないということだ。

記事には、人口の増加や宗派的あるいは民族的過激主義が今後も内戦を生む可能性が高い、とあった。
人口が減るのも良くないが、増えすぎるのは、もっと危険だということか。

エコノミスト誌だけあって、自由主義陣営からの見方を書いている。
ロシアと中国が、冷戦が終わったあと、アメリカ中心の秩序を嫌って、「彼らが正当な利益として見るものを守るために軍隊を適用する用意があることを最近明らかにしている。南および東シナ海の地域の近隣諸国との紛争で力を発揮しています。」と書いてあった。
なかなか見事な日本語。Google翻訳の実力だ。

ロシアと中国という2大国に対するアメリカ、という図式。
ロシアと中国が、グレーゾーンの領土をどんどん得ていこうとしている、ということだ。
また、プーチンとトランプが核の安全性を揺さぶっているので、このままの状態が続くということに関しては悲観的だ。
冷戦中には核抑止力でハルマゲドンを避けられたが、その仕組みを新たにしないといけない、という論調。

西側と東側が協力しないといけないのだろう。
でも、今の東西の指導者たち、トランプ、プーチン、習近平を見ていると、自分たちの国の利益しか考えてないように見える。
アメリカ・ファースト、ロシア・ファースト、チャイナ・ファーストだ。
こういう状態は良くないだろうなあ。

核の抑止力を揺るがしている原因の一つは、サイバー攻撃にあるという。
核攻撃の命令制御システムをサイバー攻撃で止められれば、抑止力はなくなるので、核を使うことができる、というリクツ。
だから、サイバー攻撃は重要なんだろう。

また、自律的に行動するロボット兵器やAIの戦争への利用にも言及している。

「人工知能(AI)の急速な進歩と深い学習が、戦争のやり方や人々の戦争への影響にどのように影響するかについて、さらに大きな疑問があります。大きな関心事は、これらの技術が、自らを創設または配備した人とは無関係に人を殺す選択をする自律的兵器システムを作り出す可能性があることです。」

だからこそ、人間という要素(human factor)が大事になる、という。
何となく悲観的な締めくくり。

これからの時代、どうなっていくのかと思わせる記事だった。


| | 考えたこと | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
クロスワードパズル2
日曜日は、読売新聞に載っている、クロスワードパズルを楽しみにしていた。
今朝もパズルをやっていたら、その下に「今週で終わりで、来週から新しいパズルが始まる」と書いてある。
ビックリした。
数独は続くということで、一安心したが、クロスワードパズルがなくなるとは…。

人気がなかったのだろうか。
こないだ、電車に載っていたら、読売の数独を新聞から切り取ってノートに貼って、それをやっている中年の人がいたから、数独は人気があるのだろう。
病院の待合室でも、数独をやっている人は時々見る。

クロスワードパズルというのは、やる人口が減っているのだろうか。
昔からある、伝統的な(といっても、西洋の伝統だが)パズルなのに…。
知的な遊びとして、海外の映画やドラマにも時々出てくる。
エニグマの暗号解読の技術者を選ぶ試験も、映画ではクロスワードだった。

脳梗塞をやってから、ずっと数独とクロスワードパズルをやっている。
脳の中の切れた回路を、新たにつなぐのに役立ったと思う。
結局、数独に負けてしまったということなんだろうか。

それに関連して、何となく、若い人たちの間で「言葉」の使われ方が違ってきているような気がする。
ラインに代表される短文のやり取りが基本。
今では了解が「り」の一文字になったりする。
使って便利だと思うが、書くことによる会話のやり取りが、悪い影響を及ぼしているような気がする。
今までなら、家族で話しているか、一人で過ごしているかした時間が、友達との短文のやり取りに費やされている。

だから、文章の意味を取るという事が、苦手になっているのではないか。
何かの文字を連打して、感情を表すような仕組みに慣れてしまうと、それを長い言葉で表現できなくなる。
すぐに感情を爆発させるのも(キレる)、言葉で表現できないからかもしれない。

時代の流れだから仕方がない。
昔、ガラケーができた頃、「ケータイを持ったサル」という新書を読んだ。
ガラケーでのメールのやり取りが、引きこもりや大人になることを拒否することにつながっている、という本だった。

本が出てから15年。
新井教授の書いた「AIvs教科書が読めない子どもたち」の書評を見ていると、あの本は正しかったのかもしれないと思う。

クロスワードがなくなったのも、その影響かもしれない。

来週から何が始まるのだろう。

| | 考えたこと | 17:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
音楽業界の変化
Forbesが2018年に起こるであろう音楽業界へのインパクトをまとめている。
主にアメリカのことだろうが、日本も影響を受けるだろう。
全部で7つの変化を挙げている。

1.ストリーミングの大手、スポティファイが上場する
2.アマゾンが勢力拡大
3.グーグルが本格的に参入
4.各社ともに音質アップ

これらは要するに、音楽を所有する時代が終わり、聴きたいときに聴く、という時代になっていく、ということだろう。
インターネットというインフラが普及して、こういう時代が来たということだ。
日本はアメリカに比べると、ストリーミングが普及していないが、これも時間の問題だろうなあ。

5.ネット中立性の欠如が、オンライン消費を変える
アメリカでは「ネットワーク中立性に関する規制」というのがあった。
これは、ネット業者がすべてのインターネットコンテンツを平等に扱うこと、という意味で、あるコンテンツの通信速度を上げたりするのは違反になる。
それを撤廃することが決まったという話。
強くなった共和党が賛成しているらしい。
これによって、ネットワークを運営している会社は、自社のサービス・コンテンツを優先したりすることが可能になる。
他社のコンテンツをブロックすることさえ可能になる、というから、穏やかではない。
今は中立性に支えられて、ネットワークを使ってる業者は、場合によっては不利益を被るということだ。
それによって、ストリーミング業界も変化することになる。

6.メジャーなレーベルから中堅アーティストが消える
これだけストリーミングが大きくなり、従来のCDのセールスが落ちてくると、アーティストにとって、メジャーレーベルに所属するメリットが減少する。
インディーズが台頭してくるということになる。
中堅のアーティストたちは、メジャーレーベルとは契約しなくなるということだ。
ここでも、ネットの影響でテレビやラジオや印刷媒体でのマーケティングの効果が薄れてくる。
一般的な広告業界と同じことだ。
インターネットがすべてを変えていく。

7.アナログレコードの売上は横ばいに
横ばい、というのはこの状況なら「よい」ということだろう。
将来的には減ると予想されているが…。

インターネットというインフラが、音楽業界を変えていく。
その動きは止まらないということだ。
こないだのギブソンの不調の話といい、この変化の話といい、どんどん音楽の価値が下がっているような気がする。
それだけ、音楽が身近になったということだろう。

それは、いいことでもあり、悪いことでもあると思う。


| | 考えたこと | 22:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
こうなることはわかっていた
今日の日経に、「長生きと年金 支えきれぬ引退生活、制度設計に遅れ 100年設計図」という記事があった。
そんなことはずーっと前からわかっていただろう、と言いたい。

有効な少子化対策も打てず、働き手の人が減っていく。
若い人たちは社会保障の負担がどんどん増えて、貧しくなる。
子供の貧困も、実際の問題になっている。

若い人が10人以上で一人分の年金を支えていた時期と、3人や4人で支えないといけない時期が、同じ制度でいけるわけがない。
厚労省は年金は100年安全だと大嘘をついた。
あり得ない利率で年金基金が運用できたり、少子化率が高すぎたりして、ようやく問題の先送りができた、という感じだった。
早くもそれが破綻したということだ。

おまけに、高齢者の寿命が伸びたことも大きい。
どう生きるか、どう死ぬか、という議論もなく、長生きはいいことだという医療をしている。
個別の事情はあるだろうが、いい加減「尊厳死」についてみんなも考えるべきだと思う。
法律で決めるようなことではないにしても、一人ひとりが考えないといけない。

これから、年金支給年齢の引き上げや、定年廃止、高齢者の就労など、しんどい話が続くだろう。
実際、働き手は減るのだから、それについてはラッキーだと思う。

早く制度設計して、若い人の負担を下げないといけない。

ここまで放置した政治家や厚労省の罪は重いと思う。
与党も野党も、高齢者の票がほしくて、その問題に触らない。
政治家が触らないから、役所も公然と嘘をつく。
この悪循環を止めないといけない。

団塊の世代以降の人たちにとっては、辛い決断になるだろう。

でも、それをやらないと、この国は持たないと思う。

ようやく、その道筋が見えてきた。
ちょっと遅かったが…。


| | 考えたこと | 21:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
過労死の原因
「過労死」という言葉は日本語であるが、それに当たる言葉が外国にはないらしい。
だから、「karosi」と言われている。
行動経済学者がその分析をしている記事を読んだ。

ある種、過労死という状況は、日本に特有の事情があるのは事実だろう。
それは高度成長期にもてはやされた、日本型雇用慣行だ。
具体的には終身雇用、年功序列、企業内組合という3つ。
それらが、高度成長時代にはうまく時代にマッチした。
しかし、低成長期に入ってそれがマッチしなくなり、今の過労死を招いているのだと思う。

日本のサラリーマンは終身雇用制度で会社に取り込まれ、年功序列賃金で若い頃は安い賃金で働かされるが、年をとると働き以上の給料がもらえ、企業内組合で企業の中で守られる。
それはとりもなおさず、一つの企業の中で職業人生を終える、というモデルだ。
今となっては、それが過労死を生む。

世界にはハードワーカーはたくさんいるが、karosiという言葉が表すように、日本みたいに自らサービス残業を積み重ねての過労死のような問題はない。
なぜかというと、そんな状況になったら労働者は辞められるからだ。
辞めても他に働くところがあれば、辞めることに対する障壁は低い。
日本はそれが高すぎるということだ。

その原因が終身雇用・年功序列という制度だ。
結果的に、会社が労働者を囲い込んでいることになる。
この会社にいれば、定年まで面倒を見てくれる、というインセンティブがサービス残業を合理化するのだ。

また、一旦入ったら、定年まで働くのだから、正社員を雇うコストを上げざるを得ない。
だから、あの手この手で選別をする。
仕事の能力だけで人を選ばないから、人柄とか協調性とか熱意とかいう主観的なものまで判断せざるを得ない。
文系の学生など、本当に気の毒だと思う。
自分が学んできたものが求められず、下手をすると全く質問もされないのだから。
それを知っている学生は、学ぶことに対するインセンティブも下がってしまう。

記事の中では、こう言われている。

「日本企業で過労死が起きる根本的な原因は、問題を抱えている従業員が、自身が組織から逃げる「イグジット」と、声に出して状況を訴える「ボイス」という選択肢を、取りにくい状況に追い込まれているからではないでしょうか。日本の組織は辞職という選択肢が一般的でなく、再就職も簡単でないため、一度組織に入るとイグジットという選択肢がなかなか取れません。」

これが、高度成長期には成功した終身雇用・年功序列のシステムの弊害だと思う。
成長しているときには、組織がどんどん大きくなれるし、一つのところにとどまってそこで貢献することがプラスに作用したのだろう。
しかし、もうそれは行き過ぎたサービス残業を生んだり、過労死を生んだりしている。

おまけに、正社員を雇うコストが高いことが多くの非正規の人達を生んだ。
さらに、成長産業に人が移っていかない。
会社に面倒を見てもらおうという人が多すぎるのだ。
それが雇用の流動性を下げている。

ホントの働き方改革はそこを変えないといけないと思う。


| | 考えたこと | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
パイの日
今日は3月14日。
フェイスブックを見ていたら、今日はパイの日という記事があった。
なるほど。3.14は円周率のパイの値だ。

前にも書いたことがあるが、ぼくらの小学校6年の時、図書館に図形についての本があって、そこに円周率が1ページ、何百桁か書いてあった。
なぜかぼくのクラスでは、それを覚えるのが流行って、ぼくも覚えた。
エライやつは百桁を超えていたと思うが、ぼくは50桁でやめた。
今でも50桁まで覚えていると思っていたが、今日パイの値を見ていて気づいた。

3.1415926535897932384626433832795028841971までしか思い出せない。
10桁分が記憶からなくなっている。
小学校の6年の時には円周率の意味もわからず、やみくもに覚えたのだが、一部は忘れたということだ。

6939937510という41桁目から50桁目の値は、何となく聞き覚えがあるのだが、はっきりしない。
円周率の50桁は忘れないだろうと思っていたのに、残念。
何度か唱えていると、ああそうやったなあ、という感じはあるのだが…。

と思って、過去の記事を検索してみると、2009年に20桁しか思い出せないと書いてあった。
当時はストレスフルな時期だったから、頭が弱っていたのかもしれない。
今は40桁に増えたのかと、ちょっと安心。

こういう風に老化していくのだろう。
覚えていたことが、思い出せたり、思い出せなくなったりする。
でも、覚えていることは減っていくんだろう。
小学校で覚えたことだから、脳の深いところに記憶されていて、まだ思い出せたりするだけマシだ。

来年のパイの日は何桁覚えているだろうか。

| | 考えたこと | 21:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
ねこあつめの家
2月22日は猫の日だった。
ニャンニャンニャン、ということだ。
それで2月にはWOWOWでネコの映画の特集をやっていた。
あまり見る気はなかったのだが、暇つぶしに「ねこあつめの家」というのだけ録画して見てみた。

ドカンと賞を取ってデビューした小説家が、書けなくなる。
よくある話だ。
彼を尊敬している若い女性の編集者がいろいろと気を遣ってくれるが、どんどんダメになっていく。
結局連載小説は打ち切りになる。

気分を変えようと郊外の1軒屋に引っ越しをした。
そこにはネコが何匹か住んでいて、だんだんと彼と仲良くなる、という話。
最初はそんなにネコ好きではなかった彼が、たくさんのネコを庭に集めるようになり、ついにペットショップでアルバイトをすることになる。
そして…、というストーリー。

ねこあつめ、というのはスマホのアプリだそうだ。
2017年の映画。

スターも出ず、平凡な景色で、とりたててスゴイところはない。
ネコがたくさん出てきて、それがちょっと珍しいという感じ。
低予算で作ったのだろう。

そんなにネコの魅力が詰まっているわけでもない。

まあ、それでも、ネコが好きな人にとってはちょっといい話だろう。

もうちょっと、ネコの表情を映画的に撮ってほしかったかな…。


| | 映画・舞台 | 21:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
算数の目的
算数の目的とは何だろうと最近思う。

文系私学の大学生に小学校の初歩の算数を教えなくてはならないという事実。
学生たちが、公式に頼り、意味を考えないという事実。
そんな事実を目の前にして、どうしてそれを18歳になるまで放置しておいたのか、と思うからだ。

ぼくは数学の専門家ではないから、大それたことは言えないが、一応理系でメーカーの技術の仕事もしてきたから、体験的になぜ数学を学ばないといけないのか、ということにはおぼろげながら答えを持っている。
でも、それは技術の仕事をする上でのことであり、文系の私学では単なる就職対策でしかない。
それでも、分数や割合の概念を知っていることは、日常生活で大事なことだと思うからだ。

それらの大学生は、計算ができないのではない。
見ていると、加減乗除はできる。
暗算には弱く、簡単な計算でも筆算を使うのだが、計算そのものでつまづいているのではない。
文章題の意味をつかむことが出来ず、イメージができないのだ。

出合い算という計算がある。
離れた2つの地点から、2人の人が異なる速度で各々出発し、いつ出会うのか?という類の問題。
小学校の算数の問題だ。

まず、速度というのは単位時間に進む距離だ、ということを伝える。
1分間に50m進むなら、分速50mということ。
そして、図を書いて、1分後の様子を考える。
出発して1分後にはお互いの速度の分だけ、距離が縮まる。
だから、向かい合って進むときには、お互いの速度の合計だけ、二人の距離が縮むことになる。
出会うということは、二人の距離がゼロになるということだから、もともと離れている距離だけ進むということ。
だから、二人の間の距離を各々の速度の合計で割ってやれば、何分後に出会うのかはわかる、ということになる。
これを図に描いて、説明する。

図を描いて説明を始めると、理解を諦める学生がいる。
頭の中に、抽象的なことをイメージする回路ができていないのだろう。
A君、B君ではイメージできないだろうということで、太郎君と花子さんにする。
それでも難しい。
速度というものが、距離を時間で割って、単位時間で進む距離だ、ということが直感的にわからない。
理屈でも、わからない学生が多い。
分速50mは1分間に50m進むということ、と言っても怪訝な顔をしている。

円を書いて、それを3つに分けて、「はじき」と書かないと速度の問題はできない、と思っている学生もいる。
そういう教えられ方をしてきたのだろう。
速さは距離を時間で割る、というのを円の中の「はじき」で表して、そこで理解を止める感じだ。
割合は「くもわ」。
「比べる数」「元になる数」「割合」の3つを円の中に書く。
こういう教え方をしたら、算数をやる意味がないということがわかっていないのだ。

言葉の意味などというものは、形而上のものだ。
形而上というのは、形があって、触れるものではないということ。
人類が発展してきたのも、そういうことが考えられるからだろう。
その訓練が算数だと思う。
数字などというものは、人間の頭の中にしかない。
抽象概念だ。
一つのリンゴというのはあっても、一つ、というのは世界のどこにもない。

なぜ、算数をやるのか。
なぜ数字を扱うことを就学前からやるのか。
なぜ小学校で速度の問題をやるのか。

それは数字の意味を考えることで、抽象概念の操作をすることを訓練できるからだと思う。
それができないまま、大学入試に通っていいのだろうか。
小学校や中学校、高等学校の教員は、算数ができないことをほったらかしにしているのだろうか。

大学の無償化などの前にやることがあると思う。


| | 考えたこと | 22:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
ぼくのギターヒーロー
こないだ、ポール・マッカートニーがギブソンの不振に関するインタビューで、「今はギターヒーローがいない」と言っていた。
たしかに、今の若い人たちに「ギターヒーロー」と言っても、「なんのこと?」という感じだろう。

ぼくは14歳でギターを始めたから、ギターヒーローというか、あこがれのギタリストはたくさんいた。
最初はアコースティック・ギターだ。
まずはポール・サイモンのフィンガーピッキング。
彼はサイモン&ガーファンクルの一人として有名だが、70年代前半にギターを弾いていたぼくにとっては、フィンガー・ピッキングの達人だった。
「4月になれば彼女は」はだいぶ練習したなあ。

そして、ジェイムス・テイラー。
シンガーソングライターだったが、ギターもうまかった。
当時のギター雑誌に載っていて、練習したものだ。
ギブソンの低音が効いたギターだった。

高校くらいになると、エレキの影響が大きくなって、ジミ・ヘンドリックスやエリック・クラプトンは友人たちの影響で聞いた。
ぼく自身はハードなものは好きではなかったから、日頃はあまり聞かなかったが、とにかく、どうやって音を出しているのかわからない、という感じだった。
その頃からいつかはエレキギターという感じだった。

エレキギターを買ってからは、日本人では鈴木茂や高中正義。
どちらかというと、クリーンな音が好みだった。
クロスオーバーというのが流行って、その中ではラリー・カールトンも好きだった。
当時テープを買って練習したが、結局挫折した。
あの頃もっと練習しておけば…というのはあとの祭り。

最近は古いジャズになるが、ハーブ・エリスやパット・マルティーニなど。

でも、あえて一人選ぶとすると、初期のユーミンの頃にバックをやっていた鈴木茂だ。
地味なギタリストで、ソロのアルバムはあんまり出していない。
それでも、あの当時の演奏は好きだった。
彼よりもテクニックのあるギタリストはたくさんいると思う。
普通のギター弾きのギターヒーローではないだろう。

それでも、ぼくの一番のギタリストはやっぱり鈴木茂。

初期のユーミンの歌のバックや、間奏のソロは彼ならではのものだ。

最近はどうしているのだろう。
もう60代の後半はいっているはず。

元気で頑張ってほしい。



| | 考えたこと | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハモンドB3
今日はジャズオルガンのライブに行った。
大阪のミスター・ケリーズという小さな店。
ギターの先生もバックで出た。

聞きに行ったのは、70年代に製造中止になったハモンドB3という楽器。
1955年から75年まで20年間生産された。
その1台をライブハウスに持ち込んでの演奏。
ハモンドB3の楽器部は200キロ以上あり、音を出すレスリースピーカーという大きなスピーカーボックスが50キロほどあるという。

レスリースピーカーは、スピーカーにモーターが入っていて、上でホーン型のスピーカーが回っている。
スピーカーが回って、音にうねりを出すのだ。
回る速さは楽器側でコントロールしているらしい。
もちろん、スピーカー部にも真空管が何本もあった。

浜田恵子というオルガニストによると、楽器の中も真空管のかたまりみたいになっているという。
トーンホイールという円周がサイン波上に波打っている円盤をモーターで回し、電磁ピックアップで音を出す仕組み。
エレキギターと同じだ。
ハモンドB3には91枚のトーンホイールが入っている。
スイッチを入れて、それらが回転を始めて安定するのに時間がかかるから、なかなか音が出ない。
まるで家具のような楽器。

しかし、ライブが始まるとすごい迫力だった。
うねる音が響いてくる。
いろんな音が出る。
ドローバーというレバーを調節しながら弾く。
アナログな楽器と友だちになって、使いこなしていた。

圧巻だったのは、アンコールのジョージア・オン・マイ・マインド。
歌うようなオルガンだった。
あの音はハモンドでないと出ないんだろう。

ああいう音を聞くと、生きていてよかったと思う。
心に響く音だった。

音は単なる空気の振動だが、あれは魂の振動だ。

ハモンド、万歳!

| | 考えたこと | 00:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
体育会系
体育会系の人たちには悪いが、最近体育会系への批判が出ている。
学校のクラブ活動だ。
昔はクラブ活動というと、文化系と体育系があったが、今は文化系が減った。
今のメジャーは圧倒的に体育系のクラブ。
いろんな学校のHPを見ても、文化系のクラブであるのは吹奏楽、コーラスあたりが定番で、むかしよくあった新聞部や鉄道研究会なんかは消えてしまった。

批判が出ているのは、ブラック部活とかいって、ほとんど休みがないとか、指導が厳しすぎるというような内容。
それらの指導に関わっているのは、主に体育会系と言われる人たちだろう。

民間企業から小学校の先生になって、今は辞めている中沢良平という人のブログ記事に『「スポーツ馬鹿」問題は日本の縮図である』というのがあった。
考えさせられる記事だ。

なぜ体育会系の先生の意見が強いのかという理由が書いてある。
体育会系の先生方が「学校の秩序」を維持しているからだ。
その「人間力」や「精神力」に頼らず、制度や仕組みで学校を運営していかないと、この問題は解決しない、と言っている。

本当にそうだと思う。
自分の中高時代を思い出しても、思い当たるフシがある。
これは日本社会の伝統なんだろう。

記事の中で、中沢氏は「日本社会は「惰性」と「精神力」によって回っています。「スポーツ馬鹿」は日本の停滞の縮図と言えましょう。昨今の未曾有の人手不足で、この日本の暗部にメスが入ることを祈ります。」と書かれている。

まことに、そのとおり。
ぼくはこれら人間性や精神性を重視するやり方が、イジメの根になっているとも思う。
まさに、本当に学校を制度や仕組みで運営できていないことが、イジメがなくならない原因だ。

だから、学校に普通の社会人出身の事務を増やし、学校の業務をもっと分業することが必要だろう。
ちゃんと、社会の常識をわかった人を増やすのだ。
それはまさに制度と仕組みを変えることにつながる。

学校を先生たちのものから、社会のものにしないといけない。


| | 考えたこと | 23:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
OODA
アメリカの海兵隊といえば、最も機動的な組織。
そこで課題解決に使われている手法が、OODAだという。
OODAと言われても、なんのことがわからないだろう。
でも、これはPDCAの代わりだと言えば、分かる人には分かる。

PDCAというと、1979年に会社に入った時に習った。
Plan-Do-Check-Actionという、科学的な品質管理の手法の一つ。
課題解決のためには、PDCAという手順を踏まないといけない。
計画し、実行し、評価し、改善する、という手順。

しかし、もうそれは古いらしい。
記事からOODAの解説を引用する。

「OODAループは「観察(Observation)・情勢判断(Orientation)・意思決定(Decision)・行動(Action)」の4段階からなる。最初の観察では五感を駆使して現実をあるがままに直観し、暗黙知的に知覚する。最新の脳科学でも知覚的な情報はほとんど身体が吸収し、脳はそこからしみ出る一部の情報を認識していることが判明している。次の情勢判断では、過去の経験、自身の資質、身についた文化など自らが蓄積してきた暗黙知と新たに知覚した情報をもとに判断する。そして、対応策を意思決定し、行動に移す。

特に重要なのが「ビッグO」と呼ばれる2番目の情勢判断だ。それぞれの部分的な知を総合して全体としての概念を導き、判断する。こうして暗黙知と形式知を相互変換しながら、「部分から全体へ」と総合し、概念化していくことを「暗黙的知り方」と呼ぶ。客観的な数値データをもとに「AだからB、BだからC」のように論理をたどる「分析的思考」よりはるかに俊敏に判断ができる。この過程で論理では到達できない「跳ぶ発想」が入ると創造的でイノベーティブなアイデアが創発され、新しい価値や意味が生まれる。」

ぼくらは主に品質改善の手法としてPDCAを習ったが、海兵隊の用途はもちろん戦争だ。
その戦争の中でも、素早く機動的に動き、場合によっては中央の指示を待たず自律的に動くことが求められている。
物量で勝つというより、素早い機動力で勝つ、という感じだ。
その中で大事なのが、OODAという考え方らしい。

中でも、2番めの「O」であるOrientation(情勢判断)が大事だという。
ここでは情勢を見て、リクツだけではなく身体が持っている暗黙的な知識を駆使し、新しい価値や意味を生み出すとのこと。
この訓練のために、13週間のブートキャンプをする。

PDCAの問題点は、Planする前の段階がないことだ。
正確に情勢判断をしてから、planを立てる必要がある。
だから、観察(Observation)・情勢判断(Orientation)というところが大事になる。

品質管理というような、目標が決まっているものについてはPDCAが有効だが、世の中にいろいろある課題を解決しようというような場合、OODAの方が有効なのもわかる。
海兵隊の戦いは相手がどう出るかわからないから、Plan自体が難しいのだろう。
それを現場で個々人に求め、機動的に動くということらしい。

ITは分析が得意だ。
しかし、分析されたものを統合的に考え、新たなものにジャンプするような思考は、人間に分があるような気がする。
記事の中でも、「米マイクロソフトもAI開発に関して、「他者に共感する力をAIが身につけるのは極めて難しい」として、人間の「代替」ではなく、「能力の拡張」を目指す立場を明示した。AIが進歩しても、最後は人間性が求められるのだ。」と書いてあった。

PDCAのような、トップダウンでやるものではなく、決断を早くしようとすると現場の機動性を重視せざるを得ない。
だからこの情勢判断というのも、それぞれの観察結果を持ち寄って話し合って、上に上げて…というものではなく、その場で共感するという感じなのだろう。

AIに勝つための「OODA」。

こういう事ができるように、頭を鍛えておくといいかもしれない。



| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
メッセージ
去年の秋に封切られた映画。
もうWOWOWでやっていた。
アカデミー賞の音楽編集賞を受賞した。

これは難しいサイエンス・フィクションの映画。
エイリアンものだ。
主役は言語学者。宇宙人の文字を解読する。
その宇宙人は世界各国に突然飛来して、各々コミュニケーションが図られる。
アメリカに飛来した宇宙船の担当が主人公だ。

主演はエイミー・アダムスという女優。
知的な感じがする。

人間は言葉で思考するから、その思考は言語の構造に支配される、というような事が初めの方で語られる。
それほど言葉は大事ということだ。

彼らの文字はサークル状のもの。
紙に書くわけではなく、煙のようなものを出して数秒だけ見える。
彼らにとっては時間は相対的なものだ。
だから、紙に書く必要は無いのかもしれない。
ここがこの映画のキモ。
彼らは、人間のように3次元に住んでいる生物ではなく、時間も含めた4次元に住んでいる宇宙人なのだろう。

そのメッセージを解読して、人類を救うというストーリー。

いろんな解釈ができるかもしれない。

久しぶりにわりとハードなSFを見た。
見ているうちに、どれが過去で、どれが未来かわからなくなる。
そうやって、時間の相対性を表しているのだろう。
映画ならではの描き方。

なかなか面白かった。

| | 映画・舞台 | 00:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
満天のゴール
FMシアターのラジオドラマで「満天のゴール」というのをやっていた。
離婚して田舎に帰った看護婦と息子、お医者さんのドラマ。
それ自体はまあいい話だったのだが、ドラマの中では「死」を扱っていた。

このタイトルの「満天のゴール」というのは、死んで満天の星の一つになる、ということ。
死ぬことを「人生のゴール」という言い方をしていた。
生まれて、走り始め、ゴールを目指す。
そう考えれば、死は人生のゴールという言い方もシャレている。

何より、積極的に目指すのだ、という語感がある。
ドラマの中では末期ガンのおじいさんが出てきて、山の中の家で死にたい、という。
家族は都会の病院で治療をしてほしいと言うが、おじいさんはここでないと生きている感じがしない、という。
訪問看護の看護婦と、医師はそれを尊重している。
そのおじいさんが、ゴールはもうすぐだ、といってその何日が後に亡くなる。

なかなか「人生のゴール」を意識して生きるというのは難しい。
やっぱりそれが見えてきてからのような気がする。

エリザベス・キューブラー・ロスという人の「死の受容の5段階」というのがある。
それによると、人間が死を宣告されてから「否認」、「怒り」、「取引」、「抑うつ」、最後は「受容」の5段階を経るということだ。
おそらくキリスト教の人なので、その色がついている。
第3段階の「取引」というのは「神との取引」らしい。
この段階は日本人はパスだろう。

ドラマのおじいさんは、最初から5段階の「受容」だった。
死を受け入れなければ「ゴール」という積極的な意味付けはできないと思う。
舞台は自然の多い田舎だった。
そういう自然の中にいれば、「受容」が早く出来るのかもしれない。
もちろん、ドラマだから時間の流れは飛ばして描いているのだが…。

ラストシーンは海に映った満天の星。
その星一つ一つが、誰かの命だ、という。

高齢化の日本は人生100年の時代だという。
100年の時代だから、長く働こうとか、健康寿命を上げようとか言っている。
科学技術が発達して、いろんなことが良くなっていくのだろう。

でも、所詮は人間が生きて死ぬということだ。
人生でただ一つ、生まれたときから決まっていること。
人類でただ一人の例外もなく、かならず起こることだ。

そのゴールを意識することは、やっぱり大事だろうなあ。


| | 考えたこと | 20:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
Ruby開発者の言葉
Rubyという日本発のプログラミング言語がある。
他の言語と同じようにフリーで作られ、Rubyのコミュニティで改良されているのだが、それを作ったのが、まつもとひろゆき氏。
今年が生誕25周年にあたり、世界中からまつもと氏にお祝いが届いているという。

彼が、2020年から日本の小学校でプログラミングの必修化が始まることに関して、インタビューに答えてこう言っている。

「正直、私は学校教育にプログラミングは向かないと思っています。問題としては、幼い頃からプログラミングに触れてきた子とそうでない子がいるため成績がつけにくいことと、短期的にはプログラミングの楽しさを教える先生がいそうにないことが挙げられます。

プログラミングを長く続けている人の多くは、プログラミングが楽しいから続けています。なので、必修化するのであれば、「プログラミング教育」ではなく、「楽しさ」を教える「プログラミング体験」であってほしいです。

教育によって、プログラミングが嫌いな子を増やすより、体験によってプログラミングに興味を持った子を発掘し、別途、部活、少年団、地域コミュニティなどで、そういった子が伸びる環境を用意するほうが有意義ですよね。」

ということ。

彼が危惧している一つは先生の不足だ。
ただでさえIT化が遅れている学校で、本当にプログラミングの楽しさを知っている先生がいるのか、というとムリだろう。
そういうことを周りが理解することすら難しいと思う。

自分でITを利用し、便利さを理解している人でなければITの良さを伝えることもできないし、ましてやプログラミングの楽しさなど伝えられない。

まさに、彼が体験から話していることは真実だろう。
前にも書いたが、教育課程を変える時には、先立って教職課程を変えなければダメだろう。
教える人を育てなければ、教えられないというのはアタリマエ。
ゆとり教育の時からそういう失敗をしているのに、文科省や教育学者はそこから学ばない。

教育によって、プログラミングが嫌いな子を増やすことがないように。

こういう人の声を文科省は聞くべきだ。


| | 考えたこと | 23:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギターの練習
ぼくは飽き性だ。
熱中しても、続かないことが多い。
ある程度わかったと思ったら、それを極めようと思うのをやめるというのが自己分析結果。
要は「いいかげん」なところで満足するということだ。

この「いいかげん」という言葉はピッタリだ。
「あいつはいいかげんなやつ」というように、あまりいい意味では使われない。
「いいかげんにやめておこう」というのは、深入りするとよくない、というニュアンスがある。
「ちょうどいい頃合い」という意味に使われることもあるが、少ないと思う。
ぼく自身もいい意味で「いいかげん」と言ってはいない。

ぼくが一番長く続けているのは、ギターだ。14歳からだから、45年以上続けている。
弾きたい曲はたくさんあった。
ギターを始めて数年目のまでは、必死になって練習した。
最初は頑張らないと後が続かないのだろう。

こないだ書いたが、サイモンとガーファンクルの「スカボロー・フェア」や「4月になれば彼女は」などは、楽譜を見て必死になって練習した。
毎月新婦ジャーナルやヤングギター、ガッツというような雑誌を買って、載っている楽譜を練習した。
中学生、高校生の頃はホントによく弾いた。

しかし数年たつと、楽譜そのままでなくても、ある程度似たような感じで弾ければ満足するようになった。
これが悪いクセだ。

エレキギターになっても、同じこと。
速く弾きたいと思うのだが、地道な練習ができない。
適当なところで諦めてしまう。
結局自分が出来ることを大幅に超えることができない。

ジャズギターの教室にも10年以上通っているが、最初の頃は頑張った。
しかし、続かない…。
先生に悪いとは思うのだが、最近はレッスンの時間がギターを弾く時間になってきた。

結局は、「いいかげん」なのだ。
始めた頃の熱意はどこに行ったのか。

でもまあ、いいかげんだからこそ、これだけ長い間付き合えたとも言える、と今は思う。
ずーっと必死で取り組んでいたら、こんなに長くは続かない。
ギターを弾いていた友人が、弾かなくなるのを見たらもったいないと思ったが、それは練習熱心だったからかもしれない。
いいかげんなところで満足して弾き続けるか、思った通りに弾けないから諦めるかの違いだろう。

友人に、絶対楽譜通りに弾く、というタイプがいた。
レパートリーは少ないが、弾きばえのするする曲を完成させていた。
彼も弾き続けているのだろうか。
ちょっと聞いてみたい気がする。

下手の横好きという言葉があるが、それもまた長続きの秘訣ではないかと思う。

それでも、今回の課題曲は、弾けるようになりたい、と思って練習している。
弾けたらかっこいいのだが…。



| | 考えたこと | 21:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
地方自治
シカゴの消防士のドラマが面白い。
ずっと録画して見ているのだが、消防士の一人がシカゴの市会議員?に立候補することになった。

話は議員の在り方に疑問を持った消防士が、地域の住民に勧められ、立候補するために住民の署名を集めるというところ。
なるほど、泡沫候補の立候補を食い止めるために、そういう制度になっているのかとわかる。

感心したのは、当選しても消防士の仕事には支障は出ないということだ。
アメリカの地方議員は仕事を持っていて、副業でできる。
平日の昼間に議会をやっていないのだろう。

調べてみると、250万人以上の人口のシカゴで、市議会議員の数は50人。
アメリカでは多い方だ。
ロスアンゼルスではたった15人しかいない。
人口は40万人を切っているのに、尼崎は42人もいる。

おまけに、市議会議員はボランティアに近いという。
カリフォルニア州では、報酬は月給400ドルらしい。日本円で4万円ちょっと。
たしかに、これだけでは食べていけない。

ネットを見ていると、「カリフォルニア州・バークレー市は、人口22万人で議員はたったの8人。市民が参加しやすいよう、議会は毎週火曜日夜7時から始まります。議員は市民の側を向いて座り、会議の冒頭では、市民が誰でも発言できます(外国人でも子どもでも一人3分×10人)。」という記事もあった。
市議会が、民主主義を体現する場になっているのだろう。
だから、アメリカは強い。

日本では地方議員のなり手がないということで、地方議員の年金を復活させようという動きもあるという。
これこそ本末転倒。
今の議員のシステムを根本的に変えることが、地方政治を活性化させ、民主主義を日本に定着させることになるのだと思う。

せっかく憲法改正をするのなら、そのへんも考えてやってほしい。
地方自治が民主主義の鍵なのだ。

みんなの生活から遊離した人たちが議員や地方政治をやっている。
だから、興味もなく、投票率も低くなる。
悪循環だ。

地方議員の民主化をやらないといけない。
市議会議員はボランティアにしよう。


| | 考えたこと | 00:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
犬を飼うメリット
スウェーデンの中高年を対象にした調査で、犬を飼っていると、循環器の疾患や死亡そのもののリスクが低い、という結果が出たとのこと。
特に1人暮らしの人に大きな利益をもたらす、と書いてあった。
具体的には循環器疾患の死亡リスクが23%、総死亡のリスクが20%下がるということだ。

一人ひとり個体は違うので、どうリスクを計算したかはわからないが、そういう結果が出たのは頷ける。

犬を飼うと、話し相手になるから、喋るようになる。
また、散歩に連れて行くから、歩くようになる。
世話をするのに、家の中での動きが増える。
そういう細かいことが死亡リスクを減らすのだろう。

ただ、複数人で飼っている場合は循環器疾患の死亡リスクは変わらないという結果だったとのこと。
自分が世話をしていないと、メリットは得られないということか。
でも、犬を飼う事によるストレスを差し引いても、得られるものが大きいという結果だ。
犬を飼っている人にとっては、嬉しいニュースだと思う。

しかし、長生きのために犬を飼うわけではないだろう。
そんなことを言えば、飼っている人は怒ると思う。
損得抜きで、飼っているのだ、というのが普通の人の意見。
中には番犬とか役割もあるにはあるが…。

それでも、ぼくはペットを飼うのは飼い主のためなのだと思う。
何かの目的で飼うのではなく、誰かのために生きている、という感覚が大事なのだ。
それが人間でなくてもかまわない。
そういう意味では、犬でなくても猫でも亀でもイタチでもかまわない。
人間は一人で生きていてもつまらないのだ。

仕事をするのも、誰かのため、ということだ。
経済的なものや、自分の目的もあるかもしれないが、誰かの役に立っている、という感覚が一番大事なのだと思う。

それがペットのメリットの第一だろうと思う。




| | 考えたこと | 21:18 | comments(0) | trackbacks(0) |