考えたこと2

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橋下政権
大阪市と大阪府の選挙は、ともに大阪維新の会が大勝した。

平松と橋下の討論をちょっと聞いたが、平松の言っていることは反対ばかりで何をするということがない。
その点、橋下はやりたいことを言っている。
実際に教育や行政で政策を出していた。

独裁者という批判はあるが、今の議員たちがなれ合いでやっている民主主義に比べたら、独裁の方がマシだと思う。
国政であれだけ対立している政党が、みんな相乗りで候補を推薦する。
利権を守ろうとする首長と議員ばかり。
選ぼうにも、選択肢がない。

ぼくらは、民主主義が素晴らしいもの、という教育を受けてきた。
しかし、今見ていると民主主義はそれほど素晴らしいと思わない。
民主主義を素晴らしいものにするのは、国民だ。
その国民が選挙のたびに半分も行かない。

所詮、非はぼくら自身にある。

選挙で選ばれた議員や首長は、権利を行使しようと、放棄しようとぼくらが選んだのだから。

しかし、今回の選挙は選択肢ができた。
選択肢を行使した大阪の人はよかったと思う。

橋下政権では独裁だという批判は、ある程度あたっていると思う。

でも、なれあいで民主的にやるよりは、橋下政権の方がマシだ。



| | 考えたこと | 23:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
好奇心
好奇心は英語でCuriosityという。

11月26日に火星に向かって打ち上げられたNASAのロケットに乗っているのが、Curiosityだ。
探査用の車両。
ここにその勇姿がある。

http://www.nasa.gov/images/content/559441main_curiosity_946-710.jpg

2011年の11月26日に打ち上げられて、2012年の8月に火星につく予定。

今回は原子力電池を積んでいて、2年間の調査らしい。
火星の大気圏に入って、Curiosityを下ろすのも、ロケット噴射で空中にとどまり、クレーンでおろすという。

長いこと生きていると、このCuriosityが火星の上を走り回って撮影した画像も見られる。

はるかかなたの火星の景色が見られるのだ(と思う)。
1900億円もかけて作られた。

ユーロで危機の時に、こんなことをしている場合か、という声もあるかもしれないが、ぼくはやってほしい。
当初2008年の計画だったが、2011年に延期して総計2000億円以上の予算になったらしい。

2000億円はたしかに安くない。
ムダ使いもあるだろう。
NASAが無くなっても、とりあえず生活には困らない。
JAXAなど、もっとそうだ。

しかし、生きていくのには夢も必要だ。

地球が宇宙に唯一生物が存在する星ではなく、仲間がいるのだということを立証してほしい。
だから、火星に生物がいる(いた)可能性があるかどうかを調べるというミッションを、何とか果たしてほしいと思う。

とりあえず、宇宙が始まる前はどうだったのか、宇宙に果てがあるのかなどは置いておいても、それくらいはわかりたい。

来年の8月が楽しみだ。



| | 考えたこと | 20:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロカールの法則
CSIという鑑識のドラマで出てきた言葉。

捜査官が、「ロカールの法則だ。何か見落としている」と言う。
犯罪学の初歩らしい。

これをWikipediaで調べると、

ロカールの交換原理とは、とある異なる物体が接触する時、一方から他方へその接触した事実を示す何らかの痕跡が必ず残されるという原理。ロカールの法則とも呼ばれる。エドモンド・ロカールにより提唱される。

と説明されていた。

エドモンド・ロカールを調べると、彼の言葉が引用されている。

「彼がどこを踏んでも、どこを触っても、立ち去っても、無意識であったとしても、それらは彼を陥れる沈黙の目撃者としての役目を果たす。指紋や足跡でなく、彼の髪、洋服の繊維、彼の壊したコップ、彼の残した工具の痕、引っ掻き傷、彼が沈着させたり受け取った血や精液などである。これらは、彼を陥れる沈黙の目撃者となる。これらの証拠は決して健忘しない。現在の感情により混乱をきたすことはない。人間の証人のように居なくなることもない。真実の証拠である。物理的な証拠は誤解せず、偽証もせず、完全に消し去ることもできない。唯一人為的ミスによる発見によりその価値が下がるのみである。― エドモンド・ロカール」

今でも、科学捜査の基礎となっているらしい。
1877年生まれ、1966年没だから、DNAが犯罪の立証に使われる前である。

なるほど、素晴らしい。

指紋に始まって、靴跡やタイヤ痕、残された血痕、引っかかって抜けた毛髪、カーペットなどの繊維、爪先に残った皮膚、車の塗料などから犯罪者が特定される。

そして、たくさんのものが既にデーターベース化されている。
ドラマに出てくるように、車の車種や塗料、繊維の種類、靴のパターン、タイヤ痕などがデーターベース化されているのかどうかはわからないが、指紋はAFIS(Automatic Fingerprint Identification System)というシステムが実在する。

銃のデーターベースもよく出てくる。
弾丸に残る線条痕を特定して、凶器の銃を見つけるというパターン。
どの程度のデーターが入っていて、どこが管理しているのか、それはわからないが、銃を販売するのならそれくらいはしてほしい。

アメリカ人は何でもデーターベースにするのが好きだ。
以前話をしていて、あれも、これもデーターは残っている、ということを聞いた。
工場で作ったものの話だ。
とりあえず残しておけば、いくらでも後でチェックすることはできる。
何も考えず、とりあえず全部とっておくというのは正解だ。

その考え方があるからこそ、ロカールの法則も有効になる。

科学捜査というものが、どれだけアメリカで一般的になっているかわからないが、ロカールの法則とデーターベースはセットだと思う。



| | 考えたこと | 20:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
うま辛カレー
ご当地は尼崎だが、近くのダイエーで売っているのは神戸のレトルトカレー。
うま辛カレーという。
他にもいろいろあるが、うま辛カレーは抜群だ…、と言っても、あまり試していないのだが。

このうま辛カレーの辛口は本当においしい。
神戸はいから食品本舗というところが作っている。

りんごペーストが入っているのが最初にわかる。
何かのフルーツの香りがするからだ。
そのあと、カレーの風味がして、最後に辛さが来る。

カレーは奥が深い。

定価420円のレトルトカレーでここまでの味が出せる。
ただただ辛い、というカレーではなく、辛くておいしいカレーだ。

外食すると、一人420円では食べられない。
こういうものを作れるというのは、素晴らしい。

ダイエーのカレー売り場にはたくさん並んでいる。
500円以上のものもある。
安いレトルトカレーなら5つ買える値段だ。

それでも、外食に比べると安い。
この値段は商売が成り立つ値段だろう。

外食のカレーが800円だとすると、4000円のカレーの店があっても流行らないだろう。
しかし、400円、500円のレトルトカレーなら食べてみようかと思う。

大きなメーカーではなく、小回りの効く地域のメーカーが発売することができる。

このプレミアムレトルトカレーのジャンルはなくならないだろう。

ぼくのオススメはうま辛カレーの辛口。


| | 考えたこと | 00:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
クローン
ちょっと前にクローンの羊が生まれて、ちょっとニュースになった。

ドリーという雌羊。
羊ができるのなら、きっと人間も作れるのだと思う。

自分の細胞から作られたクローンは、物理的には自分のコピーだろう。
そうすると、身体のパーツは交換可能だ。
病気になった時のために、自分のクローンを作っておくと、移植のために便利だ。
そういう映画があった。

しかし、遺伝子工学というのは恐い。
映画のようなことは、実験を重ねればできるような気がする。
ただ、今までクローンでできた生き物は、寿命が短いということがあるらしい。
日本では「ヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律」というのが制定されていて、その法律で「何人も、人クローン胚、ヒト動物交雑胚、ヒト性融合胚又はヒト性集合胚を人又は動物の胎内に移植してはならない」ということになっている。

海外でも、禁止している国、医療目的に限定している国、法制化していない国など、まだ定まっていない。

クローン技術を使って、人が人を作るというのは、人が神の行為をするということであり、宗教的には禁止する方向だろう。

しかし、一方で医療などの研究のために必要だという声もある。

世界中で議論されていて、まだ結論が出ていないということは、その有用性と危険性、また倫理上の問題について、いろんな立場の人がいるからだと思う。

それほど難しい問題なんだろう。

ヒトクローン胚というものが、どういう位置づけになるのか、そこがグレーだ。

だから、総合科学技術会議意見では「人クローン胚の研究目的での作成・利用については原則認められないが、人々の健康と福祉に関する幸福追求という基本的人権に基づく要請に応えるための研究における作成・利用は、そのような期待が十分な科学的合理性に基づくものであり、かつ社会的に妥当であること等を条件に、例外的に認められ得る」とされている。

アメリカでは以前マイケル・J・フォックスが、パーキンソン病の治療の可能性がある、としてヒトクローン胚の研究を推進してほしい、と言った。(彼はパーキンソン病だ)

こういうのを聞くと、医療目的の研究ということは許してもいいのではないかと思う。

それでも、共和党が反対しているところを見ると、そんなに簡単には決められない問題なのだろう。

この問題は難しい。






| | 考えたこと | 09:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
自己アピール
自己アピールというのは、難しい。

特に日本人は自己アピールすることを伝統的に嫌っている部分もあるので、余計に難しいんだと思う。
「能ある鷹は爪を隠す」というではないか。

しかし、世の中はどんどん変わってきて、そういう日本人も自己アピールをしないといけなくなってきた。
AO入試や就職の面接など、そういう時にアピールできないと落とされるのだ。
奥ゆかしさ、というような美徳はもう不要だ。
自分が今まで何をしてきたのか、どういう考えを持っているのか、どんな出来事があったのか、それでどう成長してきたのか…ということが問われる。

そうなると、若い人はダメだ。
そういう訓練をしてきていない。
オトナもそういうことはできないのに、若者に要求している。
オカシイと思わないのか…。

自己アピールできる自分に変身しないといけない。

変身することで、一皮むけて、試験に通るようになる。

私は、サークル活動でこんな苦労をして、それを乗り切って、こういうことを身につけました…、というようなことだ。
あるいは、私は小さい頃からこういうことをやっており、今までこんな事を経験して、現在はこんな事を考えている…、というような場合もある

上記の代名詞のところに固有名詞を入れて、具体的に話すのだ。

しかし、自己アピールを上手にできても、それが本人とは限らない。
身代わり受験というような意味ではない。
本人が本当の自分を出しているかどうかだ。
どうしても、違和感があると思う。
もちろん自分の事をアピールすることに関しての違和感だ。
ここで自分を作りすぎると、後で苦労することになる。

それともう一つ、なぜその試験を受けるのか?ということだ。
本当の理由などわかるわけがない。
とりあえず、いいかな、と思って受けているというケースがほとんど。
実際入学したり、働いたりすることはしていないわけだから、そんなことはわからない。
それでも、なぜ?という。

そんなことは聞いても仕方がない。
やる気はありますか?と聞くしかないし、あるとしか答えようがない。

学校は入ってみないと、仕事はしてみないと、本当のことはわからないものだ。

わかったようなふりをするよりも、わからないと言ったほうがよいのではないか。

日本人には日本人のやり方がある。


| | 考えたこと | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
時代劇の約束
昔のテレビ時代劇を見ていると、パターンが決まっている。

毎回同じようなパターンで、見るほうが安心して見ていられる。
絶対に主役が勝つし、悪役は負ける。

主役が厳しい場面もない。

もともと、暴れん坊将軍や遠山の金さん、水戸黄門などは主役の地位が高いから、やられようがない。
それに、とても強い脇役もいる。

大団円の殺陣は象徴的だ。

最初に悪役を追い詰め、悪事をバラす。
前半は見なくても、ここから見ればだいたい分かるようになっている。

そして、悪役が反撃を開始する。
ここで殺陣が始まる。
暴れん坊将軍なら、テーマソングが流れる場面だ。

悪役が団体の時は、斬ってきって斬りまくる。
それでも、血が飛ぶわけでもないし、死体が累々と積み重なるわけでもない。
ちゃんと斬られたら、ジャマにならないように走って退場する。

殺陣というのは約束事だ。
斬る方と斬られる方の作法。

ぼくらは小さい頃からこの約束事を見てきた。
だから、何の疑問もない。
本当は返り血を浴びて、着物は血だらけになるとか、死体がジャマになって動きにくいとか、刀が切れなくなるはずだとか、そんなことは無粋なことだ。
野暮なことは言わず、そういう約束事なんだから…ということ。

しかし、ウチの息子の世代は時代劇を見ていない。

この美しい約束事が通じなくなるのも、もうすぐだ。

これをオカシイと思う時代がくるのか…。


| | 考えたこと | 09:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
上を向いて歩こう
アメリカのヒットチャートで唯一、1位になった日本の曲が「上を向いて歩こう」。

sukiyakiという題名だったらしい。
当時は詩の意味もわからず、曲がよくて流行ったのだろう。
ぼくがまだものごころつかない頃だ。

その曲を日本語でカバーしたアメリカ人が、Ben.E.King。
何といっても有名なのは、Stand by me。
サビのSo darling, darling stand by me…というフレーズを聴いたら、あああれか、とわかるはず。
John Lennonもこの曲をやっていた。

「ラストダンスは私に」という曲もある。
ぼくは知らないが、ドリフターズというバンドのボーカルをやっていたらしい。

彼はもう78歳。
現役のソウルシンガーとしてはかなり高齢だ。

その彼が、「Dear Japan, 上を向いて歩こう」というアルバムで歌っている。
この曲は本当にいい曲だ。
永六輔が作詞、中村八大が作曲、坂本九が歌。
六、八、九と数字が並ぶようにした、と永六輔が言っていた。

このアルバム全体が、ゴスペル風にアレンジされた曲が多い。
特にコーラスが入るとそういう感じになる。
Benの日本語はたどたどしいし、Stand by meの時のような高音はもう出ないようだが、暖かい声で歌っている。

また、Stand by meは、日本語訳の歌詞でセルフカバーしている。
これもなかなかいい。

2曲目にはI will go anywhereという曲が英語で歌われる。
これが「どこまでも行こう」という曲のカバー。
見事に前半はゴスペルになっている。

もう1曲、Good night babyも英訳されて歌っている。
懐かしい曲だ。

ということで、Benのことはあまり知らないが、CDを買ってしまった。

通勤の時のお友達として…。


| | 音楽 | 00:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
もうすぐ来るクリスマス 2
今年もクリスマスが近づいてきた。

まだ、クリスマスソングは聞いていないが、近所のパーマ屋さんがデコレーションを始めた。
赤と白と緑が基調。

このシーズンになると、どうしてもユーミンの「雨音に気づいて 遅く起きた朝は まだベッドの中で はんぶん眠りたい」という曲が頭の中で鳴る。
タイトルは「12月の雨」。
ユーミンの曲の中で、ベストテンに入る曲だと思う。

この歌のことは前にも書いた。

ミスリムというアルバム。
2枚目のアルバムだ。1974年のリリース。
17歳の頃。

あの頃の時代の空気が思い出される。

シンガー・ソングライターが当たり前になり、既成の作曲・作詞・歌手という枠組みが崩れ、彼らがレコード会社を作って自由に曲を出すようになった時代。

拓郎が出てきて、陽水が出てきて、そしてユーミンが出てきた。
ハイファイセットも山下達郎も出てきた。

そこから後は洋楽を蹴飛ばして、ニューミュージックそしてJ-POPの全盛期になっていく。
その過渡期あたりが、この頃だったんだろう。

だから、失恋の曲なのに、明るい。

きっと時代の雰囲気をユーミンも感じていたのだ。



| | 考えたこと | 00:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
Puppy Linux
新しいパソコンにデーターの移動が終わったので、古いパソコンにはLinuxをインストールしている。

以前書いたUbuntuは、バージョン10.40で動いている。
一度、使っていたら画面から11.40にアップデートできます、ということを言われたので、ホイホイとアップデートしたら、途中で動かなくなった。
どうもパソコンが古すぎたようで、ハードがついていかずに止まった。
そこらが自己責任になっているのが、オープンソースである。

しばらくそのままになっていたが、新しい方のパソコンでもう一度Ubuntuの10.40をダウンロードして読み込んだら動くようになった。

このUbuntuの10.40はちょっと重いのだが、全く問題なく動き、インターネット上のサイトも問題ない。
googleのドキュメントやカレンダーなども問題なく見ることができ、書きこむこともできる。
これなら十分に商品になるレベル。
Ubuntu版のファイアフォックスやクロームもあって、ダウンロードできる。
大したものだ。
これが無料とは恐れ入る。

しかし、隣の新しいパソコンはもっとサクサク動くので、もっと軽いLinuxはないのか、と長男に聞いた。

軽いといえば、Puppyだ、ということで探してダウンロードしてみた。

これはUSBやCD-ROMから直接動くほど軽い。
200MBもないのだ。

さっそく設定してCD-ROMから動かしてみると、なるほど軽い。

ワンクリックで何でもすぐに開き、待ち時間はほとんどない。

付属しているブラウザはシンプルなものだが、インターネットを見るにはまず大丈夫かと思う。

しかし、googleのドキュメントやカレンダーは不具合があった。
ファイアフォックスも使おうとしたら、ちょっと表示がオカシイ。

このPuppy Linuxはオーストラリアのおじさんが作っていて、とてもフレンドリーな画面。
ご存知のように、Puppyは子犬のことだ。

子犬のアイコンが出てくるのはそのため。

出てきた頃はLinuxはオープンソースであるため、商用のものには追いつかないのではないかと思っていた。

しかし、いろんなLinuxが目的に応じて出てきており、十分に商用目的で使える。

Windowsが壊れた時には、Puppyを立ち上げて動かすということもできる。

オープンソースの力というのはスゴイものだ。
やりたい人が、自分の楽しみのために作る。
それを動かしているのは、便利になったというユーザーたちの声だろう。
企業で仕方なく作っている(多くはそうではないと思うが)のとは違う。
「こういうものを作りたい」という思いがオープンソースを支えている。
そういう人たちが簡単に集まって、情報交換できる。

これが本当のインターネットの力だろう。




| | 考えたこと | 13:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
地球と月
月の引力については、以前書いた。

その後またテレビを見た。月の地球に及ぼす影響のことだ。

月がなかったら、地球の地軸は90度までいくほど不安定になるらしい。
90度になったら大変だろう。
自転が昼と夜を作らず、ずっと昼間の部分と夜の部分に分かれる。
地熱があるから、どこまで冷えるかわからないが、日照がなければ人間は住めないだろう。

今まで読みとばしていたが、月はだんだんと地球から離れていっているとのこと。
1年間で3.8センチだから、別にどうということはない。
しかし、10億年たつと、38億センチ=3800万メートル=3万8千キロメートル離れる計算。
今の距離が38万キロメートルだから、一割遠のく計算になる。

どこかの距離になったら、地球の重力をふりきって、離れていくことになる。

残念ながら、その時まで生きていることはできない。
人類が生きているかどうかもわからない。

今の地球を取り巻く環境というのは、奇跡的なものかもしれない。
月の存在一つとっても、僥倖というべきものだ。

でも、そういう風に考えると、そうなるが、そう考えなければ、そうならない。

まず、そうなっていなければ、人類は生まれていない。
他の形の生物が生まれていたかもしれない。
その生物がぼくらと同じように空を見上げて、こんなことを考えるようになっていたかもしれない。

何せ、何億年という単位の時間は想像しにくい。

宇宙のことを考えると、すぐに億の単位が出てくる。
まあ、億だからこそ、心配もせずに考えられるとも言えるが…。



| | 考えたこと | 00:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
マイカー
アメリカのドラマを見ていたら、「中年症候群」という言葉が出てきた。

ある程度年をとった男性が、スポーツカーが欲しくなるということに対して使われた。
スポーツカーといえば、若者の象徴。
若いころ乗っていたか、あるいは憧れたスポーツカーにもう一度乗りたくなる、という心情。
マスタングのオープンカー、2シーターみたいなクルマがその対象になる。
本当に年をとって、それが認めたくなくて、もう一度若いころに戻りたい、というようなところか。
それが中年という認識なのだろう。

そういえば、ファミリーカー(向こうではミニバンという)に買い換えるということが、もう若くない、ということの証明になる、という場面も見たことがある。
「あいつ、今ミニバンに乗っているらしい」とか「おれはミニバンに買い換えたんだ」というようなセリフで、「まともな生活をするようになった」ということと同時に「あいつもついに年貢をおさめたか」というようなニュアンスを表していた。

アメリカでのマイカーというのは、にほん以上にライフスタイルを表している。
だから、マイカーを変えるというのは一大事だ。

若いころはオープンカーやスポーツカーに乗って、結婚して子供ができるとミニバンに乗り換え、そして子供が独立するとまた…、という具合。

クルマはその人を表す、ということだ。

日本以上にクルマがあふれている社会。

ぼくも、そろそろ、曲がり角にきたなあ。

今はスポーツカー、ミニバンの他にエコカーもある。

そのうち、「あいつもエコカーに変えたらしい」というようなセリフが出てくるかもしれない。

彼も地球環境のことを考え始めた、という意味になるか。

ぼくはどういうライフスタイルを目指すのか…。

まだ決まらない。


| | 考えたこと | 11:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
洋裁
明治時代の生活というのは、わかっているようでわかっていない。

江戸時代と現在は明らかに違っているとわかっているが、その間はどうなっているか、漠然としている。

朝のドラマを見ていると、昭和の初期でもほとんどの人がまだ着物の生活をしている。
ネットで調べてみると、「大正から昭和の初期はまだまだ着物が主流」と書いてあるものもある。

ということは、昭和の初期は、庶民はまだ着物が主流だったのか。

洋裁というのは、その頃からだんだんと普及したものらしい。

実家の母はドレスメーカー学院?に通っていた。
昭和の初期、まだ洋裁を教える学校があったのだ。
調べてみると、ドレスメーカーとかドレメとかいう学校はたくさんある。
東京にも東北にもあった。
母の場合は、神戸ドレスメーカー女学院というもの。
今の神戸ファッション専門学校、神戸ファッション造形大学らしい。

神戸というハイカラな土地柄と、洋裁という技術、ドレスメーカーというカタカナの名前がよくマッチしたのだろう。

洋服の作り方は、型紙を作り、裁断し、仮縫いをして、修正、本縫という過程を経る。

一時は母が家で洋裁を教えていたので、そんな言葉も耳に馴染みがある。

しかし、今ではよほどのことがない限り、洋裁などしない。

既製服で事足りるからだ。

生地を買って、裁断して‥、というような面倒なことはしなくなった。

小さい頃、家には足踏み式のミシンがあった。
いろんなパーツがあって、ややこしかったのを覚えている。

ペダルを踏むと、生地が送られ、針が上下して縫う。
誰が考えたか、すごい仕組みだった。

英語を習い始めて、ミシンとはMachineのことだと知った。
本当はSewing machineという。

今では電動の小さなミシンでも、かなり複雑なことができるようだ。

ぼくらが高校くらいまでは、洋裁店というのがあって、生地やボタンなどを売っていた。
今はそういう店も少なくなった。

今では洋裁はほんの一部の人の技術になった。

そのうち、生地を買ってきて、洋服を作る、ということ自体が忘れられるのだろう。
服は買うものであって、作るものではないということだ。

少し残念な気がするが、しかたない。


| | 考えたこと | 02:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
世の中の常識
世界は平等でも公平でもない。

世の中の常識である。
こんなことが分からない人がいる。

公平や平等という概念は必要だ。
しかし、現実と混同してはいけない。

世の中のいったいどこに、公平や平等というものがあるのだろう。
そんなものがないから、公平や平等という概念があるのだ。

今の学校は平等と公平に最上の価値を置いている。
たしかに最上の価値を置くべき概念なのだが、だからといって世間で実現しているのかというと、そんなことは人類史上、いまだかつて実現したことがないと思う。
先生たちもそれを教えない。
実際、先生たちは通知簿は絶対評価で、その人なりに頑張ったら◎をつけるし、◎の絶対数はいくらでもOKだ。極端な話、全員が◎でもよい。
しかし、世の中に出てしまうとそんな評価はあるわけがない。
逆に、頑張ったのにそれを評価しないのか、と言われ不公平と言われるのがオチだ。
先生たち自身が、内申書を書くときに(学校の言葉でいえば)不公平な評価をしている。

だから、不公平、不平等というのは当たり前だ。

同じように働いていて、どうしてあの人が登用されるのかという人がいる。
それはぶっちゃけて言えば、「あの人」がふさわしいと思うからだ。
どうしてもそれが嫌なら自分が辞めればいい。
どうしてそんな簡単なことが分からないのか。

世の中間違っている。


| | 考えたこと | 00:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
ベース
ベースは音楽を支えているもの。
だからベースという。
この楽器は奥が深い。

エレキベースもあれば、アコースティックベースもある。
アコースティックベースは、たいがいはウッドベースだ。
ジャズのトリオなどで、ドラムの横で大きなバイオリンみたいなものを持っている、あれがそうだ。

どちらであっても、音楽のコードのルート音を中心に弾く。
ルート音というのは、ドミソのコードの場合はドの音。
ルートという文字通り、根本の音。

80年代にチョッパーという弾き方が出てきた。
最初にやったのは、ラリー・グラハムというアメリカのベーシスト。

その後、スラップという名前で呼ばれている奏法。

親指で低い音を弾き、人差し指で高い音を弾く。
低い音を弾くときは、親指を叩きつけるように弾く。
高い音を弾くときには、弦を引っ張り上げて離す。
だいたい低い音と高い音は、オクターブ違いのことが多い。

一時このチョッパーベースに憧れて、エレキベースを買った。

ベースはネックが長く、フレットの幅が広い。
だから、押さえるのが難しい。
ベースは基本的には単音楽器だから、コードを押さえることはない。
しかし、弦が太いから、押さえにくいのだ。
ぼくの手の大きさなら、レギュラーベースは難しい。
だから、ミディアムスケールベースという、少しネックが短めのを買った。

このベースは3年ほど持っていたが、欲しいという人があって譲った。

エレキベースというのは、エレキギターの下4本と同じチューニングだ。
だから、簡単に弾けると思っていたが、左手は指をストレッチしないと弾けないし、右手も結構難しい。

チョッパーの音は簡単には出ない。
理屈では分かっていても、指の弦が当たるところが固くならないと、あんな音にはならない。
残念だが、ちょっとなめていたと言わざるを得ない。
そこまでやる気がなかったのだ。

譲って以来、ベースはあきらめた。

今度はギターでやってみようと思う。


| | 考えたこと | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
映画館の英語
昨日映画館に久しぶりに行ったが、見た映画はアメリカのオークランドが舞台。

オークランドというと、カリフォルニア州。サンフランシスコのそばにある。
場所的に、そんなにきついなまりがあるとは思えないところ。

映画館で聞く英語は比較的わかりやすい。
字幕を見ながら聞く英語は、キーワードはだいたいわかる。

テレビの字幕ドラマはもっとわかりにくい。
何を言っているか全くわからないものもある。

日本でも方言で流されるドラマはあるが、その方言は標準語に近くなっている。
見ている人にわかりやすくしているのだ。
土佐や薩摩の訛りを本気で話されたら、よくわからないだろう。

アメリカではどうなんだろうか。
標準語というものはないらしい。
しかし、LAやNYの放送局で話されている英語(米語というべきか)は一応標準語といえるものらしい。
ハリウッドで製作された映画は、さすがにそのあたりは考慮されているだろう。

だから、映画の英語はわかりやすいのかもしれない。

出ている役者たちは、標準語となまりのバイリンガルなんだろう。

たいしたものだ。


| | 考えたこと | 00:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
マネーボール
今日映画館で見た。

原作は読んだが、ちょっとイメージが違った。
ブラッド・ピットが主人公を演じたが、どうも思い描いていた姿とは異なる。

原作を読んだ時に書いたのは、「この本は、メジャーリーグの野球という世界最高レベルのスポーツで、過去の因習にとらわれず、カネをかけずに勝てるチームを作るという仕事を実際にやってのけた、オークランド・アスレチックスのゼネラル・マネジャーとそのブレインを縦糸に、そして実際の選手たちや過去に野球というスポーツを解析しようとした人たちを横糸に織り交ぜて、実際の取材に基づいて書かれたドキュメントだ。」ということ。

もともと、ドキュメントとして書かれたものをドラマにするのは難しい。

本に書かれた主人公は、もっと緻密かつ大胆なイメージだった。

でも、おそらく本人はブラッド・ピットのような人なのだろう。
過去に野球選手として失敗し、悩み、そして弱小球団のゼネラル・マネージャーとして野望を持っている、そんな人間。

原作は2時間以上かけても、描き切れない。
映画3本分くらいの量がある。

原作を読まずに見たら、きっといい映画だと思う。

しかし、原作のドキュメンタリーがあまりにも印象が強く、それを読んだ人にはちょっとつまらない、そんな映画になったと思う。

まあ、仕方ないことだが…。


| | 映画・舞台 | 00:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
老眼 その2
老眼がだんだんひどくなってきた。

昨日書いた山本七平の講演で聞いたことだが、江戸時代は45歳くらいで隠居したとのこと。
15歳が成人式だから、だいたい30年間が働ける時間。

当時は45歳になると、メガネがないから文字が読めなくなったのと、歯が抜けて公式の場所で食事ができなくなったという2つの理由が大きいらしい。

なるほど。

今は当たり前のように老眼鏡を使っているが、こういうものがなければ確かに困る。
メガネが人間が働くことができる時間を伸ばしたとも言えるだろう。
歯の治療技術も同じことだ。
今の基準で考えがちだが、そこはその時代を想像できないといけない。

ぼくは目が悪くなかったから、老眼はシンドイ。
パソコンのディスプレイの文字はメガネはいらないし、普通に生活するにはメガネはまだ要らない。
運転も眼鏡なしでいける。

でも、常に老眼鏡を持っていないと、何かの時に困る。
今日は何日だったかな、というので時計を見るが日付の字が小さくて読めない。
これは情けない。
だからといって、日付の入っていない時計にする、というのは悔しい。

10年くらい前から、洋画を見に行くときはメガネがいる。
字幕を読むのがシンドイからだ。
これは遠くをよく見るためのメガネ。
時々これを忘れ、映画館に入ってから気がつくが手遅れになる。

当たり前にできていたことができなくなる、というのは「老い」を感じる瞬間だ。

定年して毎日が日曜日になれば、日付など気にする必要はなくなる。
厚労省は65歳までの定年延長を言っているが、今の年金制度がいつまでもつか‥。
若い人の足はひっぱりたくない。

平均寿命は男性が79.6歳だという。

この世に生まれて、生きて死ぬ。
人生80年。

この年になっても、まだ平均寿命の7割にいかないという事実。

そろそろぼくらはこの事実を見つめなおさないといけないのではないか。
長生きすることはよいことだ、という大きな錯覚。

今の若い人も「どう生きるか」が難しい世の中だが、年をとっても難しい。





| | 考えたこと | 23:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
知足安分
山本七平が講演の中で言っていた。

江戸時代、信心深い人というのは、知足安分を基礎に生きている人だということだ。

知足安分は、ちそくあんぶんと読む。
足ることを知って、分に安んじる、という意味。分は分際の分である。

要は高望みをせず、自分の境遇に満足すること。

江戸時代の日本人で信心深い人は、前世、現世、後世の3つを生きるもので、だいたい、この3世を平均するとみんな同じになる、という考え方だったらしい。

現世で金持ちなのは、前世か後世で貧乏だし、現世でお金を取られた人は、きっと前世でお金を取った人で、本来ならこちらから返しに行かないといけないのに、親切にも向こうから取りに来てくれた、という考え方になる。

こういう考え方をしておれば、何に対しても文句が出るはずがない。
年貢をたくさん取ってくれ、という人もいたらしい。
これは、後世で楽ができるように、ということだ。
だから、日本人は非常に諦めがよい。

ちょうど敗戦の時の日本人がこういうふうだった、と山本七平は言う。

良い意味では何かにこだわらず、前向きに生きていけるし、悪い意味では過去のことを反省しない。

なるほど。
そういえば、そんな気がする。

何かがあっても、これは仕方ない、と思う時がある。
意識はしていないが、これは前世の因果か、あるいは後世で取り返せるのか、とにかく現世ではどうにもならない、という感じだ。

そういう強さが日本人にはある。
そういう弱さがある、と言ってもいいかもしれない。

足ることを知って、分に安んじる。

これはキリスト教にもないし、仏教にもない。

日本人は十分に宗教的だろう。



| | 考えたこと | 00:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
NHK朝の討論
久しくNHKの日曜日の9時からやっている討論を見ていなかったが、こないだ見てしまった。

復興庁の事を話していたが、内容のことはわからない。
しかし、一つどうしても気になることがあった。

国会議員はなぜお互いを「先生」と呼ぶのだろうか。

大辞泉によると、先生とは

1  学問や技術・芸能を教える人。特に、学校の教師。また、自分が教えを受けている人。師。師匠。
2  教師・師匠・医師・代議士など学識のある人や指導的立場にある人を敬っていう語。呼びかけるときなどに代名詞的に、また人名に付けて敬称としても用いる。
3  親しみやからかいの意を含めて他人をよぶこと。
4  自分より先に生まれた人。年長者。

となっている。

1と4の意味ではないことは明らか。
3の意味でもないだろう。(そういう意味の時もあるとは思うが)

ということは2の意味なのだが、そうだとすると、「学識のある人や指導的立場にある人を敬って」というところが怪しくなっている。

最近の議員を見ていると、学識があるとは思えないような発言ばかりだ。

大臣になって、有頂天になってマスコミに失言するとか、地元に帰って後援会に失言するとか…。
もっとひどいのは、漢字が読めないとか、都道府県の場所がわからないとか…。
とても学識があるとは思えない人が多い。

そうなると、指導的立場にいる、というところが残る。
これとて、内閣の支持率をみていると、最近は50%を超えるのが珍しい。
過半数が指導に不満を持っている。

直接の部下には指導的立場といえるだろうが、一般の国民に対して指導的立場といえるような代議士は珍しい。
選挙の投票率もなかなか50%を超えないし、多くの人は消去法で候補者を選んでいると思う。

それで、「先生」とお互いに呼び合うのに違和感がある。

一人くらい「私を先生とは呼ばないでくれ」という代議士がいてもいいのではないか。

朝の討論会を聞いていても、何だかかしこそうな顔がいない。

「本当に有能な人が代表に選ばれるのは、その国民の運である」というような事をむかし聞いたことがある。

まったくその通りだと思う。


| | 考えたこと | 23:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
腰痛
人間が二足歩行をするために直立したときから、腰はウィークポイントだと何かで読んだ。

朝、歯磨きするのにかがんでいたら、突然ビビッときた。
数日前から、何となく腰に違和感があって、ちょっとやばいなあと思っていたら、案の定だった。

腰痛とは長いつきあいになる。
会社に入ってしばらくして、作業をしていたら腰が痛くなった。
そのころはちょっとした痛みだとバカにしていたが、そのうち痛くて歩けなくなり、靴下がはけないし、トイレでかがむのが一苦労、かがんだら立つのが一苦労になった。
整形外科に行って、診てもらったら、腰椎分離症だという。

犬の首輪、と呼ばれるようなX線の写真が出てきて、先生がこれは色々と謎が多い病気だという。
X線の写真は腰椎が分離しているところを表しているのだが、これがあっても、痛くない人もいる。
先代の朝潮は腰椎分離症だったが、平気で相撲を取っていた。
また、エスキモーはたくさんの人が腰椎分離症だ。

ぼくの場合は、重いものを持ったり、姿勢が悪いとだんだんとおかしな状態になる。
そこで、ある状況を超えると、本格的な腰痛になる。

だいたい、1日か2日寝ているとマシになる。
シップをして、カイロを入れる。

なおりかけの時は、少々痛くても動かさないといけない。
その見極めが難しい。

今回は体重が増えたのが原因か…。

痩せないといけない。



| | 考えたこと | 00:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
グラン・トリノ
久しぶりにいい映画を見た。

クリント・イーストウッドの映画。
グラン・トリノという題名。クルマの名前だ。

彼の役どころは、妻に先立たれ、子供夫婦も去り、一人で暮らす老人。
周囲からわからずやで頑固じじいと思われている。
イヌだけが彼の友達。
時々吐血して、あまり先が長くない事を匂わせる。

そんな彼がアジア系の姉弟と知り合う。

そして二人と親しくなり、弟に工具の使い方を教え、建設関係の仕事を紹介してやる。

姉弟にはアジア系のギャングの従兄弟たちがいた。
あいつらがいる限り、姉弟は安心して生きていけない。

姉が襲われたのをきっかけに、ギャングたちに一人で立ち向かう老人。

老人はグラン・トリノを大事にしている。
古い車だが、ピカピカに磨かれたグラン・トリノは、老人の人生を象徴しているようだ。
何でも新しいものがいいとは限らない。

息子夫婦に老人ホームに入ることを勧められるが、けんもほろろに断る。
一人で生きられなくなったら、死を選ぶというような人生。
彼を見ていると、孤独はつらいものだが、それを選ぶ気持ちもわかる。

純粋なアジア系アメリカ人の方が、世故長けた息子夫婦よりも、老人と合う。

そんな老人を演じられるのは、クリント・イーストウッドしかいない。

古き良きアメリカ。

最後に老人は亡くなる。

老人がかわいがったタオという若者とイヌを乗せて走り去るグラン・トリノ。

それがラストシーン。



| | 映画・舞台 | 13:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
ATOK
今はワープロの標準はマイクロソフトWordになったが、最初は一太郎だった。

ジャストシステムという徳島の会社が作っていた、Made in Japan。

一太郎は日本製らしく、紙と鉛筆の発想で、用紙のどこからでも書き始められた。
Wordがタイプライターの発想で、上からしか書けなかったのとはだいぶ違う。

今は一太郎はWordの互換路線に変わり、何とか頑張っている。

でも、ATOKという日本語処理のソフトはまだ強い。
どうしても、マイクロソフトがタダでつけているIMEに負け気味だが、最初にATOKを見た時はスゴイと思った。

何がスゴイかというと、あめりかと入れると、アメリカと変換される。
てれびと入れると、テレビと変換される。

カタカナの言葉がひらがなで入れられる。
こんな簡単なことが…、と思うかもしれないが、あめりかと入れると、当時はアメリカにならなかった。
カタカナ変換のキーを押して、ひらがなをカタカナになおす、という操作が必要だった。
だから、ATOKが使いたいから、一太郎を使った。

そのうち、一太郎とATOKは別売りになって、ATOKだけでも買えるようになり、Wordの時代が来た。

今はGoogleの日本語変換が出て、ATOKからそちらに変えた。
よく使う言葉や有名な言葉は学習していなくても変換される。
一長一短があるが、いい勝負だと思う。

でも、長いことATOKは日本語変換の第一位だった。

まだATOKはしばらく1位を保つかもしれない。
しかし、Googleの無料攻撃にはなかなか勝てない。

残念だが。




| | 考えたこと | 00:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
車遍歴
免許を取って、最初に乗ったのは、前にも書いたが軽のホンダN360。
当時の軽は360ccだった。
友達3人で買った。5万円だから、一人16666円。
1年足らずでエンジンが焼き付いて止まった。

社会人になって乗ったのが、三菱のミラージュ。
あの形が好きだった。
親に借金したが、未だ返していない。
それに5年くらい乗ったと思う。

その次に乗ったのが、カリーナだった。
これは会社の仲間と3人で3台一緒に買った。そのおかげでかなり値引きしてくれた。
1.6リッター。5年以上乗ったと思う。
神戸の深江というところのマンションにいたのだが、豪雨が降って、地下駐車場が浸水した。
気づいて車を地下駐車場から地上に出したが、地上もかなりの水位で結局は運転席のシートの下部まで水につかった。
すごいニオイで、しばらく乗ったが、結局中古で売った。

その当時、近所にスズキのディーラーがあり、そこはプジョーを扱っていたので、一度は外車に乗りたいと思い、プジョー205を買った。
外車といっても、フランスでは軽みたいなものだ。
赤の205。これはなかなかよかったが、ちょっと小さかった。
これも、5年くらい乗ったと思う。

その続きで、同じディーラーでプジョー306に買い換えた。
今度はグリーンにした。
この車は重かった。鉄をたくさん使っていた。
これも5年ほど乗ったと思う。

さすがに燃費が悪いし、エアコンの効きも悪いので、この次は日本車にしようと思った。
事情があって、トヨタは買いたくなかったので、ホンダにした。
5ナンバー、7人乗りのストリームを買った。
日本車はこんなに静かでエアコンの効きがよいのか、と感激だった。
これにも5年ちょっと乗った。

そして、今の車になる。
ストリームのモデルチェンジした2代目。
これにはもう5年乗っている。

運転歴は32年。
1+5+5+5+5+5+5=31
だいたい合っている。(当たり前か)

ホンダ、三菱、トヨタ、プジョー、ホンダと乗り継いできた。
7台のクルマ。

だいたい5年乗るとして、70歳まであと3台か。
いくつまで運転できるんだろうか。
健康状態によるだろうな。

でも、あと3台しか乗れないなら、よく考えて選ばないと‥。



| | 考えたこと | 00:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
肉声
山本七平という人の本を集めた時期がある。

きっかけは「私の中の日本軍」という文庫本。
それまで何となく疑問に思っていた戦前の日本軍について、そうだったのか、という答えが出た本だった。

20代後半から30代前半にかけて、本屋で見つけると手当たり次第に買ったなあ。
亡くなって20年になる。

実際の下士官として南方戦線に行っていた。
キリスト信者。
山本七平は昭和を代表する批評家だと思う。
彼の日本人論は、日本人自身が気づかなかった無意識について教えてくれた。

その山本七平の講演のテープが残っていて、CDになっているのを見つけた。

彼の声は低い声で、穏やかな話し方。
何となく納得のできる声だった。
いかにも冷静な分析家という感じの声だ。

肉声を聞くというのは、文字だけで知っているのとは全く違う情報になる。

作者の声を聞いて、本を読むと、その声が聞こえる。

いくつかの彼の著作は古典になっていくだろう。

あの頃、電車の中で行き帰りに。何度か読み返した文庫本をもう一度読んでみようと思う。


| | 考えたこと | 23:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
単位系
単位は便利だ。
それ自体が計算の方法を表している。

km/hという速度の単位は、距離(km)を時間(h)で割って求められる。

もしも求める答えの単位がm/秒であれば、kmを1000倍して、時間を秒になおすだけだ。

最近は力の単位はややこしい。
kgf(キログラム・フォース)がN(ニュートン)になった。
1kgfは9.8Nである。
これはこう覚えるしかない。
最近の中学生、高校生はニュートンの時代。
これはSI国際単位系と呼ばれるもの。

今ではmb(ミリバール)も使わない。
hPa(ヘクトパスカル)という。
1mbは1hPaと同じだから、言い換えるだけでいい。

ぼくらは昔の単位で習った。
ニュートンやパスカルは出てこない。

日本人はわりと積極的に新しい単位系を受け入れている。

明治にメートル法に切り替えたし、今回のSI国際単位系への切り替えもした。
尺や寸という単位はもうほとんどわからない。

実際には単位系を変えると、生活上の不便が起こるし、世代が違うと通じないことが増える。
それでも、こういうことには日本人は鷹揚だ。

今回のSI国際単位系への切り替えは、1999年くらいから段階的に実行された。
技術系の会社の人は、みんな当時図面の書き換えが大変だったと思う。

世界では未だにマイルやポンド、インチなど独自の伝統的な単位をが流通している国もある。
アメリカやイギリスはそうだ。
直感的にわからなくなる、というのが切り替えが遅れる理由だろうが、単位系は文化の一部でもあるからだろう。

新しい単位系になるほど、合理的な考えに基づいて決められている。
ぼくらには合理的であるほど素晴らしい、という考え方がしみついている。

それが、西洋の新技術をキャッチアップする、という国策に合っていたのだろう。

そのおかげで、目標は達成された。

犠牲になったのは、古い単位を使ってる人たちと、新しい人の意思疎通ができなくなったということだろう。
そういうことはいろんな所で起こっていたのだと思う。

ぼちぼち、伝統的な日本文化で、近代化によって捨ててきたものを、思い出してもいいのではないかと思う。

年をとってきたのだろうか…。


| | 考えたこと | 11:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
70億人
昨日の新聞で、世界の人口が70億人になった、と記事があった。

これはめでたいことなのか、危機的なことなのか、判断が難しい。

人類が地球に生まれてから、自然との戦いに勝利し、あるいは自然との共生に成功し、豊かな生活を望んできて、それが叶ったら、人口が増えるという意味でいえば、めでたいことになる。

しかし、地球上の食物や水、資源等をどんどん食いつぶす存在が人類だとしたら、あまりよろしくない、ということにもなる。

結局、先進国では多くの国が少子高齢化になり、国力は落ちてくる。
その先鋒をいくのが日本ということらしい。

2030年頃には中国がGDP世界一になり、それを2050年にはインドが抜く、という予想もある。

2085年には、世界の人口が100億人を突破する、という予想もある。
この時にはアフリカの人口が世界の1/3を占めるということらしい。

人口は力でもある。

それを地でいっているのが中国。
大きな市場がありますよ、といいながら自国に企業誘致をし、技術供与をさせるというような策を取っている。
市場があるから、ものは売れる。
大きな市場がある、ということはそれだけで強みになる。
つまり、人口は力だ。

1988年に今の中国に行ったが、驚いたのは道路工事の風景。
たくさんの人が働いていた。
重機は見えず、一輪車を使って土を運んでいた。
今はもうそんなことはないと思うが、その当時中国の通訳の人が、人だけはたくさんいますからね、と言っていたのが印象に残っている。

記念すべき70億人突破の日。

2011年10月31日。

これからしばらくはアジアの世紀になるだろう。

その移行の時が、危ないと思う。

何事につけ、安定するまではややこしい。

無事に安定期に入ることを願うが、ぼくはもういない。

子供ももういないだろう。

でも、もしできたら、孫はいるかもしれないなあ。


| | 考えたこと | 23:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
眠い
とにかく眠い。

朝も昼も夜も眠い。
別に薬をのんでいるわけではない。

目が自然に閉まる。

無性に眠たいのは何が影響しているのだろうか。

起きていられない。

だから、もう寝る。

何とかしてくれ。

やらないといけないことがたくさんあるのに、眠らないと仕方ない。

こういう時は調子が悪い。

今日はお休み。


| | 考えたこと | 00:02 | comments(0) | trackbacks(0) |