考えたこと2

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私大の経営難
こないだ、私学の財政支援という記事を書いたが、経営難に陥っている私学も多い。
だからこそ、財政を支援してほしいと思っているのだろう。

その対策を文科省でも考えている。
こないだの大学ジャーナルの記事によると、以下の意見が文科省の有識者会議で出ているとのこと。

「文科省によると、これまでの議論では今後の18歳人口急減を見据え、中小規模私大の経営力強化と経営支援の充実が必要とする意見が相次いだ。」

まあ天下り先を確保しようと思うと、潰れてもらっては困るということか。
ぼくはスクラップアンドビルドしかないと思う。
跡形もなく潰し、新しい大学を作らないとイケナイということだ。
だから、今の形の大学(経営の苦しいところ)には財政支援など要らない。

今の形の教養とか学問中心の大学は多すぎる。
文科省も言っているように、専門職業大学みたいな実学中心の大学にすべきだろう。
そのためには、申し訳ないが実学を教えられない今の教授陣にはお引き取りいただかなくてはならない。
それをしようとすると、潰さざるを得ない。

それは大学関係者が一番分かっていることだ。
現在経営不振の大学は、入れた学生をちゃんと教育しようとすると、今の教員では難しい。
いろんな工夫をしてはいるが、つまるところ大学は教員なのだと思う。
事務がいくら頑張っても、役に立たない。

面倒見のよい大学で業界では有名な金沢工業大学は、北陸出身の教員を取って、自学のやり方を徹底している。
その大学に骨を埋めるつもりの教員を選んでいるとのこと。
24時間開けている工房とか、24時間開けている学習室など、設備や運営の仕方が素晴らしいとは思うが、それを利用するかどうかは教員の指導次第だと思う。
やっぱり大学の質は教員の質なのだ。

その意味では、現在経営不振の大学は教員を入れ換えなければムリだと思う。
アカデミズムからプラグマティズムへの転換だ。

なかなか難しい転換だが…。

クビを切られる人たちが集まっていては決められないと思う。

有識者会議というのを一般人会議にしないとだめだろうなあ。

| | 考えたこと | 21:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
チューニングは奥が深い
ジェームズ・テイラーというギターを弾くシンガー・ソングライターがいる。
もう68歳。
高校の頃、キャロル・キングと共に憧れた存在だった。
アコースティック・ギターを弾きこなし、歌を歌う。
渋いシンガーだったなあ。

そのジェームズがギターのチューニングの解説をしてるページを見つけた。
前にも書いたが、チューニング・メーターが飛躍的に進み、今はチューニングは誰でも(たとえ音痴でも)できるようになり、音楽をやることの敷居は下がったと思う。

しかし、そのチューニング・メーターの使い方は結構難しい。
ギターのネックは長く、6本の弦のどこを押さえても完璧にチューニングをすることは難しいからだ。
通常、ギターのチューニングは開放弦で行う。
どこも押さえない状態で、音の高さを合わせるのだ。
チューニング・メーターがあれば、簡単に音は合う。
それでも、ネックの上で弦を抑える強さ(微妙に弦のテンションが変わる)や、弦を弾く強さなどで音の高さは変わる。
開放の状態で合わせても、微妙に狂ってくる。
それはギタリストの永遠の悩みだと思う。

ページによるとジェームズ・テイラーはちょっと低めに音を合わせているとのこと。
どうしても弦を押さえたり、強くひいたりすると、音の高さは上がり気味になるから、下げておくらしい。
太い弦ほど、下げ目にする、ということだ。
具体的には、一番低い弦で10セント、一番高い弦で3セント下げるという。(100セントが半音)
ビデオを見ても、違いはわからないほどだが、何となく下げておいたほうがまとまりがいい感じだ。

こういうプロのレクチャーが簡単に見られるようになったのは、とても嬉しい。

そうなると、今ぼくが持っているチューニング・メーターではセント表示ができないので、これを実行しようとすると、ちょっと値段の高いものを買わないといけない。
数値でセント表示が出来るものは、少ない。
ギター専用ではなく、他の楽器にも使えるようなものだ。

チューニングというのは奥が深い。
そのうち、ややフラット目で、弦ごとにセットできるようなものが出てくるかもしれない。

この記事が出て、もう開発を始めているかもしれないぞ。

| | 考えたこと | 23:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
一人あたりは最低
ちょっと前にデービッド・アトキンソンという人の本のことを書いたが、それからちょくちょく一人あたりとか時間あたりのGDPというようなものをネットで見るようになった。
前に記事を書いた時は、日本人に謙虚さがなくなったという、文化と関係があると考えていた。

その後何度も見るが、日本の生産性は先進国でやっぱり最低らしい。
自分でもそれを信じたくないと思うが、それは謙虚さが足りないのだろう。

自分を思い出して、反省する。
ぼくは結構ワーカホリックだったので、残業時間は長かった。
もちろん、管理職になってからは残業代はつかないが、会社の電気代は無駄遣いしたかもしれない。
「かもしれない」というのは、残業してやった仕事の価値が高ければムダにはならないが、低ければムダになるからだ。

残念ながら、残業時間の大部分はムダだったような気もする。
残業は習慣になっていたし、それを削減しようとする気もなかった。
自分が好きでやっていたんだから、それについて言い訳しようとも思わない。
部下はたいがい帰っていたから、だれかを巻き込んだということもない。
しかし、自分の生産性は低かったという事実は残る。

でも、生産部門の生産性は高かったはずだ。
そう思って調べると、製造業は諸外国と比べてもそんなに低くない。
問題はサービス業の生産性が低いことだという。
要は国際競争にさらされている産業は、輸出しようと思うと生産性を上げざるを得ない。
それでなければ、生き残れないからだ。
技術的優位と生産性の両方が高ければ、工場移転しなくても国内でやっていける。

しかし、技術的な優位性がどんどん海外に追いつかれ、そこで人件費の問題が出てきて、海外移転をしないと食っていけないということになる。
いったん海外移転すると、技術の流出も激しくなって、移転のサイクルが早まる。
そういう歴史をたどってきたんだと思う。
だから、国内に残っている製造業は生産性という面では高い。

前に書いたG(グローバル)とL(ローカル)という区分で言うと、Lの部分が低いということだろう。

確かに公務員という区分のサービス業を見ると、最近でこそITで業務を合理化しているが、あの仕事はもっと少ない人数でもできると思う。
企業でIT化を図り、合理化をした90年代以降もそんなに減っていない。
今270万人程度だが、ピーク(1994年)から減ったのは50万人くらい。
会社の管理部門の減り方はもっと多かった思う。
そろばんや電卓で計算していた人たちは十数人いたが、全くいなくなったのだから。
その分を本当の住民サービスの窓口等に回したらいいのだ。
多くの公務員は4時半になったら、新聞を読み始め、帰る支度を始め、5時になったらぱっと帰る、などという悪口をよく聞いた。
どこまで本当がわからないが、そういうこともあるんだろう。
ぼくが学校法人の仕事をしていて会った公務員の人たちは、そんな感じの人も多かったが…。

こないだ書いたが、年金事務所では未だに「いろは順」で並べ替える書類があるという。
また、エクセルを使えばあっという間に終わる仕事を手でやったりしている。
そんな話を聞くと、たしかに国も含めて公務の部分はいくらでも生産性を上げられると思う。

ぼくは99年から2000年にかけて、アメリカの会社に何度か行ったが、感心したのはかなり年配のスタッフが、パソコンを使っていたこと。
日本でいうと、部長クラスになるんだろうか。
それを見て、パソコンを使うというトップダウンが徹底しているように思った。

そういうトップが、Lの世界には少なかったということか。
仕事にITを導入するのには勇気がいる。
いままでのやり方を変えないといけないからだ。
そこで止まってしまった。
競争がないから、そこまでやる必要はなかった。

Gの世界では、競争がある。
国内の同業他社だけでなく、世界のライバルたちが効率化を進めていた。
だから、やらざるを得ない。
そうしないと潰れるからだ。

結局、自由競争が大事なのは、こういうことなんだろう。
Lの世界には、そういう意味での危機感もなく、止まってしまった。

今からでも、Lの世界の効率化を進めないとイケナイ。
そうしないと、生産性でどんどんアジアの国々に抜かれていく。

しかし、それをやれる人材はいるのだろうか…。


| | 考えたこと | 21:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
家庭のIoT
IoTというのは、全てのものがインターネットにつながる、というコンセプト。
いろんなところで考えられている。

既に、アメリカで製品化され予約可能なものがある。
それは「GeniCan」というゴミ箱につけておくバーコードリーダーだ。
空になって捨てるときにGeniCanで読み取れば、自動的に買い物リスト(スマホで確認)にそれが載るという製品。
自動的にネットで注文するという設定もできるらしい。
これが14000円。
ちょっと高くて、日本では売れないと思うが、数千円なら売れるかもしれない。

なるほど、こんなふうにIoTが進んでいくのか、と思う。
それがわかりやすい製品だ。
こういうのをインターネットを使ったイノベーションという。

インターネットが当たり前の通信手段になって、みんながスマホを持ち、いろんなことが可能になる。
例えば、掃除機がネットでつながると、各部屋の掃除をした時のゴミの量をセンサーで読み取り、次はいつ掃除すればいいかをスマホ経由で教えてくれるようになったりする。
もう特許が出ているかもしれない。

最近の新聞の全面広告で、ガス漏れが見えるカメラというのもあった。
そのうち、花粉が見えるカメラもできて、家の外をモニターして「今日はマスクをして行ったほうがいい」などと教えてくれるようになるかもしれない。

そんな風になればなるほど、ネットのセキュリティというのが大事になる。
インターネットが止まると、生活が止まるという事態になる日も近いかもしれない。
インフラやいろんなサービスがネットの存在を前提にし始めている。

だからこそ、サイバー戦争というのも現実味を帯びる。

日本の政治家のITレベルを見ていると、心配になるが…。

話がそれたが、高齢化社会には家庭のIoTというのは強い味方になるだろう。
日本の技術で、そういう製品をたくさん作ってほしい。
市場は充分にあるのだから。
そして高齢化が迫っている国に輸出しよう。

次の産業はシルバーインターネット産業だぞ。


| | 考えたこと | 01:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
大学の丸投げ
日経ビジネスで大学の特集をやっていた。
その中に、大学が「本業」を業者に丸投げしているという記事があった。
本業とは「教育」のことである。
「死にゆく大学 空洞化の衝撃」というセンセーショナルな表題もついていた。

教育の中には入試問題の作成もあるし、授業も含まれる。
本業中の本業だと書かれているのが、入試の作問。
どのような学生を取りたいのか、という大学の意思表示としての入試という位置づけだ。
記事にはこう書かれている。

「とはいえ、入試や学部の新設は大学がどんな人材を取り、どう育てたいかを性格づける大学のコア業務とも言える内容である。文科省の幹部も、入試問題の作成を外部委託する大学が存在することを認める。大学の空洞化が進んでいる象徴と受け止められても仕方がない。」

この記事を書いた人たちは、今の大学は良い学生を取るために入試を作り、入った学生を育てるためにちゃんと教育している、という前提に立っている。
上位の大学はそうかもしれないが、中位以下の大学ではもうそんなことはない。

どこで見分けるかというと、入学生の構成だ。
推薦入試、AO入試で半分近くの入学生を取っていれば、そんな前提はもう当てはまらない。
まあ、推薦入試の難易度やどれだけマジメにAO入試に取り組んでいるかということはあるが…。
ほとんどの場合、そういう大学では入学生の二極化を招いても、入学者数を確保するために入試をやっている。

一年間に何度の入試をやっているか、というのも判断材料になる。
当然のことだが、回数が増えるほど人数集めに徹しているということだ。
それが高校の進路指導でもわからないほど入試を多様化させ、早期の推薦やAO入試が高校生の受験勉強の機会を奪っているというのが、大まかに見た実情だと思う。

多くの大手私学が、系列の高校を増やしているのも、理由は同じ。
入学生の確保というのが第一。
世界の上位校の趨勢は、何とかして良い学生を取ろうということだが、残念ながら日本の中位校以下はそういう努力をするよりも、高校生を囲い込むことで対応している。

90年代に規制緩和されて委託が増えたらしい。
ぼくが大学に転職したのは2004年だったが、当たり前にやっていたと思う。
英語は教員が作っていたが、その他の試験は委託だったはず。
そんなの当たり前と思っていた。
教員を見渡しても、入試を作れそうな人が見当たらない。
メインの科目は国語と英語。
国語といっても現代文だけだった。古文や漢文はない。
現代国語の専門家がいないから、委託するのが当たり前だろう。

入試業務がコア業務という大学は、ちゃんと入試が成立している大学だ。
それ以外の大学では、入学者を集めるという意味の方が大きい。
Fランク大という位置づけの大学なら、入試期間があってその間に来ればいつでも入試をやってくれる大学もある。
人を集めるために、入試をやるということだから、作問は正確を期せばいいのだ。

問題の内容よりも時期とか回数、科目数などが重要になる。
大学として恥ずかしくない問題、という部分は担保する。

上位の大学にとって、受験生は選別するものだが、中位以下の大学にとっては受験生はお客様なのだ。
一人入れば、年間100万円として400万円が入ってくる。
だから、至上命題は人数の確保。
ライバル校や上位校と日が重ならないようにするとか、入試日を複数にするとか、工夫をする。
科目が少ないほうが受験生は喜ぶから、減らす。
そんなことをずっと続けてきて、入試が多様化した。

中位以下の大学の入試の担当は大変だ。
昔は年に1回の入試だったが、今は多いところでは6回も7回もある。
それを全部やろうと思ったら、問題作成を委託するしかないのだ。

それが実情。
それが高校の教育をどれだけ歪めているか、関係者はわかっているんだと思う。
それでもやっているのは、経営が立ちいかなくなるからだろう。

その部分にメスを入れないと、良くならないと思う。

長くなったので、入試以外の授業のことは別途書く。

| | 考えたこと | 20:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
Let's make America great again!
BSでリアルボイスという番組をやっていた。
選挙の後のアメリカの分断を描いたドキュメント。

ダイナーを巡って、アメリカ人の本音を聞こうという番組だ。
アメリカの大衆食堂であるダイナーの美味しそうな料理を見ながら、カリフォルニアやテキサスで食堂に来た人の本音を聞くという企画。
見ていて、いろいろ考えさせられた。

ロスではコメディアンが職業という男性が、マジメにトランプに対して思いついたことを簡単に発信するのはよくない、と言っていた。
ちゃんと編集を通せ、ということだ。
こないだのスウェーデンの話もあるし、どうもトランプさんは時事に疎いような気がする。
フェイクニュースを流しているのは本人だということか。

西海岸の学生は、差別的な言論には反対だと言っていた。
カリフォルニアはもともと民主党の地盤だから、そういう人が多い。

場所を変えて、共和党の地盤であるテキサスのダイナーも出てきた。
一人の黒人の老人が、1950年代の差別的な時代を思い出しながら、トランプのことを語る。
彼はトランプのスローガンである「Let's make America great again!」というものが、無意識に差別の時代を思い出させ、その差別的な思いを解き放ったという。
確かにそういうことはあるかもしれない。

次はメキシコ移民の多いアリゾナ。
チミチャンガというダイナーのメキシコ料理は美味しそうだった。
ヒスパニックの多いダイナーで、正規の移民のメキシコ人たちは「壁」を作るのは賛成だと言っていた。
移民といってもいろいろな人がいる。
その人たちも分断されているということだ。

印象的だったのは、ネィティブアメリカンの末裔という人。
アメリカに住んでいる人たちはみんな移民だ、といった
彼から見れば、そうだろう。白人も移民なのだから。

最後は北部のミシガン州ランシング。
GMの城下町。
かつては自動車で反映したが、今は見る影もない。
ここではGMをレイオフされようとしている労働者の声を聞いた。
トランプへの期待は大きい。
GMが海外に工場を作って出ていくのは許せない、という。
ここでは看板メニューの9ドルの料理が減って、6ドルのハンバーガーが増えた。
お金がないのだろう。

構造的な失業やヘイトクライム、どうなっていくのか、お手並み拝見というのが最後の声。

こういう番組を地上波でもやればいいのに。


| | 考えたこと | 23:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
私学の財政支援
こないだ、女子大の学長が、「文科省はもっと私学に支援すべきだ」という事を日経に書いていた。
この種の意見はよく出る。
いつも引き合いに出されるのは国立大に比べて私学の支援が少ないというもの。

しかし、一方で志願者を増やすためだけに推薦入試やAO入試をたくさんやって、高校生のレベルダウンを招いているのもまたそういう私学なのだ。
調べてみると昭和女子大は偏差値47.5〜52.5。ちょうど真ん中あたり。
その偏差値でも、推薦入試とAO入試で入学した人数が2016年度の入試で629人。
入学者全体で1167名だから、半分以上が推薦・AOで入っている。
この学長は自身の大学が、志願者を集めるためにそういう入試をやっていることを認識しているんだろうか。

本気で、推薦入試でちゃんとレベルが確保された学生が来ていると思っているんだろうか。
本気で、AO入試でやる気のある、学力レベルも担保された学生が入っていると思っているんだろうか。
本気で、アドミッション・オフィスを置いて、選抜をしていると思っているんだろうか。

その結果、高校の進路指導の教員でも指導が困難というくらい、入試の時期、回数、種類が増えて、高校生もどこを受けていいかわからず、進路が決めにくくなっていることをわかっているんだろうか。
その結果、入学生が2極化し、ひいては一般入試を避ける学生が増え、日本の高校生のレベルが下がっている、という実態をわかっているんだろうか。

この学長、「学生ファーストの視点で」と言っているが、そんなことをやることが学生ファーストだと思っているんだろうか。

記事の中に、「90年以降に設置され学生数の増加を担ってきた新設私立大学は相対的に低所得層出身や地方の学生が多く、彼らが高い授業料を負担している。しかし、それらの大学は「先生に質問したり、勉強の仕方を相談している」「理解されやすいように教え方が工夫されている」など教員との関係も深く、アクティブ・ラーニング(能動的な学習)なども比較的よく行われている。」と書かれているが、それは自分たちが落とした高校生の学力レベルを補うためにやっている、ということに気づいていないんだろうか。

こういうのをマッチポンプという。
自ら火をつけておいて、火事だから消さないといけない、というやつだ。
これを自己変革などという言葉で言ってほしくない。

本気で学生ファーストというのなら、そういう学生たちが何を求めているのか、もっと真剣に考えるべきだ。
アメリカのカレッジがやっているように、もっと実学を教えるべきなのだ。
でも、それをやるためには大幅に教授陣を入れ替えないといけない。
自分の首が危うくなることはやらず、金だけほしいと言っている。

いい加減にそういう議論はやめ、本気で日本の教育をレベルUPするにはどうしたらいいか、考えたほうがいい。
高校以下のレベルを上げるには、もっと小学校をちゃんとすべきなのは明らかだと思う。
大学にカネを使うのはその後だろう。

「三つ子の魂百まで」というではないか。



| | 考えたこと | 23:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
アイスランド人から見た日本
アイスランド出身の外国人が日本で語学学習のベンチャーを立ち上げている。
2003年に来日し、東工大で修士と博士を取っている。
その人が、今の日本人は自信を失っていると言う。

この20年余り、高度成長が終わり、普通の経済になって以前から見ると右肩下がりだ。
今の若い人たちは高度成長の時代を知らない。
この人の来日も低成長の時代が始まってからになる。

高度成長には、一部の日本人が頑張って働いたこと、人口が多く日本市場で食えたこと、製品を輸出できたこと、アメリカに肩代わりしてもらって軍事にお金をかけずに済んだこと、バブルに熱狂したことや、熱狂できるほどお金をジャブジャブにしたことなど、いろんな要因があった。
でも、それらが終わって、少子化が進み、人口が減り始め、相対的に老人が増えていくから、仕方がない。
若い人の人口が増えていた頃の仕組みを変えずに今も続けているから、若い人たちは希望が持てない。
貧困も進んでいるから、結婚ができず、子どもが持てない人も増えている。
バブルがはじけたあと、仕事につけなかった人たちが未だにフリーターやニートで過ごしている。

一体ぼくらは何をしていたのかと思う。

ジャパン・アズ・ナンバーワンと言われて舞い上がり、何も生み出すことはない土地そのものにどんどんお金を注ぎ込み、銀行や証券会社でボロ儲けした人たちのほんの一部が不良債権の責任を取ったが、多くの金融期間は税金を投入され、何事もなかったように今も続いている。

そのあたりから、国がおかしくなったような気がする。
日本人の「和を持って尊しとなす」という気質が、悪い方に出た。
アメリカでは多くの経営者が責任を問われるような事態であったのに、日本では問われることもなく、役人もグルになった。
あの頃に、「末は博士か大臣か」とか、「先生はエライ人」というような価値観がなくなったと思う。

そういう経緯があって、今の事態が起こっているのだと思うが、外国人にはそれはわからない。
あるいは、わかっていても、言わないのかもしれない。
そして、自信がない一因として英語が苦手であることを挙げている。
たしかに、韓国と比べて英語力は劣っていると思う。
言葉の成り立ちの問題もあるだろう。
でも、一億人を超える市場規模があり、さほど輸出に頼らなくても生きていけたということが大きいんだと思う。
一部の日本人が頑張って、外貨を稼いできたのだ。

これから、少子化がどんどん進み、市場規模が小さくなってきたら、多くの日本人が英語をやらないと食えなくなる。
それは中国語かもしれないが…。

そのために、頑張って英語を教えようとしてくれている。
ありがたいことだ。

そういう動きは大事だと思うが、それよりもやらないといけないのは、希望が持てる国にするために、ぼくらがどうしたらいいかということを考えることだろう。

何だかわけがわからなくなったが、今日はこれまで。

| | 考えたこと | 21:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
アクティブラーニング
今の文科省の教育方針は「アクティブラーニング」だ。
大学から小学校まで、アクティブラーニングをどうするかという声が現場では上がっているという。
これでは「ゆとり」の時と同じになるのではないか。

ゆとり教育の推進者は、ゆとり教育そのものが悪かったのではなく、そのやり方が悪かったのだと反省したらしい。
総合的学習をちゃんとできる先生が少なかったということだ。
そういう意味では先生に対する指導の失敗だったということになる。
それはそうかもしれない。
結局ゆとり教育が失敗したのは、ゆとり教育の良さを語るだけで現場の教師を教育することをせず、やり方だけ伝え、あとは現場に丸投げしたことが原因だろう。

アクティブラーニングもまたその二の舞いになる。
ただただ能動的に学習したらいいというものではない。
予備知識を揃えてこそ、いろんな考えが出てくる。
それをしないと、結局は一部の真面目な生徒が能動的に引っ張っていってくれるだけで、あとの生徒は何の勉強にもならない。
それはすでにアクティブラーニングを取り入れた一部の大学で起こっていることだ。

前に「Fランク化する大学」という本を読んだ。
その中にはこう書かれていた。

「大学で講義を行ったことのある経験者として言わせてもらえば、知識がないままで学生が議論をしても、ほとんど何も出てこない。学生がもとから持っている少ない知識や感覚だけで議論をし、抽象的な空論に終始することになってしまう。
 ちなみに、この講義を受けていた学生に感想を聞いてみたところ「役に立っているとは思わない。だけど、友だちと話してそれで終わりだから、ラクに単位が取れていい」そうである。」

文科省の狙いはEテレでやっていた「白熱教室」かもしれないが、あれは教える側にも、教えられる側にもそれなりのスキルや知識があるからこそだ。
それを形だけ真似して、やろうとするのが間違い。

この本の著者が言っているように、4回の授業で1回がディスカッション、残り3回はそれに関する基礎学習というやり方など、考えるべきだ。

文科省は教育を担当しているのだが、教育者の教育は全くできていないと思う。
教員養成の課程はずっと変わらない。
大学のセンセイの要件も、いい加減なことがたくさん行われているが、もっと口をだすべきだ。

それでいて、学習指導要領という教える内容や教え方は、今回のアクティブラーニングのようにコロコロ変える。
それらを変えたら、当然教職課程も変えるべきなのに、全く変わらない。
理系の科目が入試にない学科でも、教員養成課程を持っている。
それで「理科離れ」とはオカシイと思わないのだろうか。
全く理系の素養のない先生ばかりで、どうして理科的な考えが教育できるのだろう。

予備知識があるからこそ、ディスカッションで化学変化が起こる。

文科省の役人や教育学者こそ、アクティブラーニングしないといけないのではないか…。

| | 考えたこと | 22:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
山桜
今まで邦画はほとんど見なかった。
見るといったら、アニメかよほど話題になったものくらいだ。

こないだ「三屋清左衛門残日録」というドラマのことを書いたが、最近、藤沢周平の作品のドラマを見るようになった。
こないだやっていた映画「山桜」というのも藤沢周平だったから、録画して見た。
田中麗奈という女優がヒロインをやっている。
不幸な結婚をして、苦労するというおなじみの役。
映画はほとんどヒロインの姿を映す。

ヒーローは東山紀之。
最近は大岡越前などやっていて、それを見ているともう一つだったのだが、この映画ではなかなかよかった。
その原因は、一本の映画を通じてセリフがほとんどなかったからだ。
喋ると、イメージがちょっと変わるのかもしれない。
こんなヒーローは珍しい。

百姓の取り立てが厳しく、年貢が払えなくなった田畑を手に入れ、私腹を肥やすという絵に描いたような悪者が出てくる。
その悪者に対して、一人で立ち向かい、斬る。
無言で牢に入り、沙汰を待つという剣の達人を演じた。

昭和のタイプのヒーローだ。
そういえばあの頃「男は黙って…」という宣伝も流行った。

この映画をいい映画にしているのは、出番も少なく、セリフもほとんどないが、それ故に重みがあるこのヒーローだと思う。

山桜の清々しい花が、それを表しているようだった。

| | 映画・舞台 | 21:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
イケメン
BSでやっているワールドニュースに出てくるフランスのニュースキャスターは、若い頃のアラン・ドロンに似て、本当に男前だ。
ぼくらの世代なら、誰が見てもそう思うはず。

でも、最近のイケメンという言葉はどうも納得がいかない。
イケメン=男前と考えてはいけないんだろう。
だからこそ別の言葉を作った。

ネットで「イケメンとは」で調べると、イケメンの定義が出てくるが、それがバリエーションに富んでいて、まだまだこの言葉が定まっていないことがわかる。
最初に出てきたサイトによると、定義が20個もあるという。

彫りが深い、(瞼が)二重でなくても良い、肌がきれい、清潔感がある、身体がしまっている、姿勢が良い、声が低い、若々しい、自信がある(ただし謙虚)、ポジティブ、器が広い(おおらか)、笑顔がきれい、社交性がある、素直、話し上手、仕事ができる、頼りになるなど。

これらとぼくが思う男前と比べると、だいたい重なる。
でも、男前という言葉は内面的なものはあまり含んでいないような気がする。
あいつは男前やけど、仕事はできんなあ、とか頼りにならんなあというのは成立すると思う。
別にポジティブでなくてもいいし、若々しくなくてもいいような気もする。
社交性や素直さなど求めてもいないし、あまり話し上手でない方がよかったりもする。

結局、男前というのは、主に外観にコミットする言葉だろう。
それに対してイケメンというのは「外面と内面、どちらもカッコイイ男性のこと」を言っている。

それでも、最近テレビでイケメンと呼ばれる男性を見ると、よくわからない。
どう見ても、「ちょっとカッコイイ」程度でイケメンと言っているように見える。

自分が年だから、誰を見ても頼りなく見えるのは仕方がない。
清潔さの基準が変わったのか、どう見てもそんなに清潔感があるとは思えないヤツもいる。
ぱっとみて、普通の男性だろうと思う。

男前の時代は、その時代の顔というような側面もあった。
ぼくらが若い頃の田宮二郎、石坂浩二とか、もう少し若いところでは草刈正雄とか…。
今のイケメンのように人数は多くはなかった。

テレビの大衆化が進み、出演者がどんどん普通の人に近くなって、言い方は悪いが基準が下がったのだと思う。
40年前は、テレビは賢い人が出るものだった。
テレビに出て、みんなに笑われるのは「芸」だった。
笑われることは、笑わせることだった。

しかし、今は自分の馬鹿さ加減をテレビで笑われる時代。
ちょっと前に「おバカタレント」と言われていた人が、コメンテーターで出ていたりする時代でもある。
それはテレビというメディアが特別なメディアだった時代から、大衆に媚びるメディアになってしまったことと無関係ではないだろう。
それだけネットなどの影響で力がなくなり、お金もなくなったということだ。
実際、日本は豊かになったが、今は相対的には貧しくなっている。

その貧しさとイケメンは関係しているような気がする。


| | 考えたこと | 20:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
選ばなかった人生
もうすぐ還暦。
干支の12年サイクルを5回繰り返して、もとに戻る時期。
男性の平均寿命が80年くらいだから、3/4が終わったことになる。

ぼくが生まれた1957年は平均寿命はもっと短く、63歳だった。
あの頃なら、もうぼちぼちこの世からいなくなる準備をしないといけない。
この60年で日本が豊かになったことで、生活環境が向上し、医療も進んで寿命が伸びた。
ペットですら、夏は冷房、冬は暖房の部屋で飼うと、野良でいるよりも寿命が伸びるから、その効果は大きいんだろう。

しかし、長生きという結果に見合うような社会になっているかというと、それは疑問だ。
河合隼雄が言っていた、500m必死で走ってもうゴールだと思ったら、役員が出てきて、すいません、あと300mおねがいします、という状態に近いと思う。
え、そんなに走るの?といいたくなる。

60歳から65歳まで働ける、という再雇用を選択せず、NPOの面接を受けて震災の復興支援の仕事をしている会社の後輩(年はぼくより上)に去年会いに行って、話を聞いた。
他にもいろいろ事情はあっただろうが、その彼は、最終的に65歳まで会社にいると、そこから先はもう働けないのではないかと思ったとのこと。
自分はもっと長く働きたいから、60歳でその道を選んだということだ。

ぼくも47歳で一度会社を辞め、10年間学校法人で働き、そこも辞めた上で今は学生支援の仕事をしている。
これから先もどうなるかわからないと思っている。
でも、時々もし辞めてなかったら…と思う。

人生は選択の連続だと思うが、転職というのは進んで違う道を選ぶということだから、選ばなかった道もまたはっきりしているということだ。
最初の転職は25年働いていたのだから、先はある程度わかっていた。
顔なじみも多かったし、職場の雰囲気もよかった。
でも、敢えてそこを辞めて、違うところに行こうと思ったのは、やりたいことが見つかったからだ。

そして、職を変わって、学校法人では学生支援でホントに楽しい思いはした。
それでも、メインの業務のところでどうしても相容れない部分が大きくなってきて、そこも辞めた。
主に民間企業と学校法人という違いから、根本的な考え方が違ったのだ。
それに関しては、考えが甘かったとは思う。

57歳というのはちょっと早かったかもしれない。
でも、身体を壊したりもしたので、少し休んで出直したかった。

ぼくは転職を積極的には勧めない。
やっぱり現状維持が楽だから。
47歳で職を変わったとき、いちから違うところで人間関係を結ぶのは大変だった。
頼まれたことはなんでもやって、信頼関係を結ぶことも最初からだった。
徐々にみんなに信頼され、全体の仕事も任され、大学の学部改組や学科変更などの仕事もやり遂げた。

それでも、あの苦労はもう味わいたくないと思う。
教授たちにはほとんど嫌われたからなあ。

3月に以前の会社の人たちが集まって還暦祝いをしてくれるという。
中途退職してもそういう形で会社と関われるのは幸せだ。

どちらを選んでも、よかったのだろう。

それは、今目の前にあることを一生懸命やる、というキャリアの原則を証明しているのか。

| | 考えたこと | 22:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
24時間営業
じわじわと少子高齢化が社会を変えていく。
その変化の一つが、長いこと24時間営業をしてきたファミレスが24時間営業の見直し。

記事では長時間労働の対策とか書いてあるが、ぼくは少子化で働き手が減り、高齢化で夜中に出歩く人が減ったことが原因だと思う。
儲かっていれば、24時間営業は続けるだろうし、人手不足でも高い給料で人を雇える。
卵が先か鶏が先かという問題はあるが、少子高齢化で儲からなくなったからだろう。
それと長時間労働を結びつけたんだと思う。

すかいらーくやロイヤルホストが、一部の店舗で24時間営業を止めるということだ。
この動きは広がってくるだろう。
外食だけでなく、コンビニだっていつかはやると思う。

以前警察署長と話をした時の記事を書いたが、24時間営業が減っていけば、犯罪も減るだろう。
不要不急なことは、明るいうちにやればいいのだ。

こないだニュースでも24時間営業中止のことをやっていたが、ネットの発達で一箇所に集まらなくても、困らないという若者の変化を挙げていた。
しかし、それだけではないだろう。
若い人たちにお金がなくなったという貧困化も原因だろうと思う。

労働時間が減れば、生産性も上がるかもしれない。
日本より生産性が高い欧州では、キリスト教の影響もあり、24時間営業は少ないとのこと。

夜中の営業がムダなのか、それともやったほうがいいのか、熟慮の上で結論を出したのだ。
やめたほうが光熱費や人件費を考えると、得なのだろう。

ぼくは、これはそんなに悪いことではないと思う。
何でも24時間というサービスはネットでやればいい。

自分が大学生の時は、24時間営業の食堂に助けられたが…。


| | 考えたこと | 23:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
今生の別れ
こないだ電車に乗っていたら、若い人が「今生の別れ」と言ったので驚いた。
言われたのは、ぼくのとなりに座った男性。
言ったのは、前に立っていた女性。
大学の先輩、後輩の間柄だろう。

よく考えたら大学4回生は後期試験も終わって、あとは卒業式だけ、という状態か。
そういうシチュエーションだとは思わなかった。
きっとゼミかクラブで送別会があったんだろう。

下宿の人はもう引き払って、卒業式だけ出るという人も多い。
クラブはもう引退しているし、たしかに今会っている人ともう二度と会えないという状況。
話しぶりでは後輩の女性は六甲で下宿、先輩の男性は大阪の実家から通っている。

聞くとはなく2人の会話を聞いていた。
ずっとたわいない世間話だったが、あと2駅を切った頃から別れの会話になってきた。

後輩が、ひょっとしたら、これでもう一生会えないのかな、と言う。
先輩が、まあ、そうかもしれんなあ、と返事。
ここで「今生の別れ」という言葉が出た。

よくそんな言葉知ってたなあと感心した。
ここ1ヶ月は別れの季節。
それでも、またご飯行きましょね、と言って降りていった。
そんなに親しくなかったのかもしれない。
残された先輩はスマホを見ていた。

あとから考えると、あの会話が最後だったといことになる。

そして、そのことすら忘れてしまう。

若いということはそういうことだ。
無限の未来を信じている。
ぼくもそうだった。
もう二度と会えなくなることが、別にどうということもなかった。

今ならわかる。


| | 考えたこと | 22:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
全自動衣類たたみ機
家庭用のロボットは会話ができるものだけではない。
2017年にランドロイドという製品が出る。
日本で作られた、洗濯物を自動的にたたんで仕分けしてくれるというロボット。
話したりはできないが、家族を登録しておくと、それも考慮して洗濯物を仕分けするらしい。

何といってもスゴイのは、無造作にほりこんだ洗濯物を自動で一度広げ、形状を認識し、最適なたたみ方でたたんでくれること。
人は何もすることがない。
開発に10年もかかったとのこと。

中には簡単そうに見えるのに、なんで10年もかかったのか、と思う人もいるかもしれない。
でも、無造作にほりこんだたくさんの洗濯物を一つ一つに分けて、それをちゃんと広げるというところが難しかったとのこと。
いろんな服があるし、厚みや材質等によって広げ方も違うだろう。
どこまで想定していいのか、そこもややこしそうだ。
服の形はカメラで認識するんだろうか。
形状が決まれば、たたむのはわりと簡単そうだ。
図面の折機などである程度のやり方は想像できる。

ランドロイドの大きさは幅約87センチ、奥行き約63センチ、高さ約220センチ。
やはり、かなり大きい。
それだけのことをやろう思うと、この大きさになるのだろう。

しかし、洗濯物を分類してたたむというのは、ずっとやり方は変わらなかった。
電気釜ができて簡単にご飯が炊けるようになり、洗濯機ができて、自動で洗濯できるようになっても、掃除機で簡単に掃除ができるようになっても、洗濯物をたたむのは旧態依然とした手作業。
そこに目をつけたということか。

このランドロイドは単体で売るよりも、家にビルトインして売ることも考えているらしい。
あの大きさならそうだろう。
家を建てる時から計画しておかないと置き場所に困る。
病院や施設では、定形のパジャマなどがあるだろうから、それらをたたむのを自動化するのはいいかもしれない。
それなら、値段も安くなるだろう。

どんどん便利になっていく。
次は自動調理ロボットか。
冷蔵庫を見て、材料を入れると、適当に作ってくれたりする。
材料をみて識別し、その組み合わせで調理法を考え、下ごしらえをして、調理をする。
調味料をセットしておけば、適当に味付けしてくれる。
これはかなり難しいが…。

日本のロボティクス産業は頑張っている。


| | 考えたこと | 20:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
日残りて昏るるに未だ遠し
藤沢周平の「三屋清左衛門残日録」というドラマを見た。
北大路欣也が御用人を隠居した老人をいい感じで演じている。

彼がつけている日記を残日録と呼んでいる。
物語りは彼が東北の小藩のお家騒動に巻き込まれていく姿を描く。

三ツ矢清左衛門は、今で言うと、サラリーマンをそこそこの地位で退職したという感じ。
つれあいには先立たれた。
まだ元気は余っているが、やることがない、というところから始まる。
そこで残日録をつけ始める。
それと同時に、お家騒動に巻き込まれていき、やる仕事ができて元気になる。
現役時代のネットワークや、未だに現役の友人の奉行などから情報を仕入れ、若い頃にやっていた道場で剣道の稽古も始める。
子どもに剣道を教えることに喜びを見出す。
選択を誤って出世できなかった同級生との確執もある。
身体の不調も出てきた。キライなお粥も食べないといけない。
友も亡くなっていく。

今まで自分が正しいと思った道を歩いてきたつもりだが、人にはそう見えなかったのかもしれない。
自分を嘆くのは簡単だが、それではいけない。
今、ここで生きるしかない…。

そう考えて、今を一生懸命生きる。

こういうドラマは今ウケるんだと思う。
高齢化の時代だ。
三ツ矢清左衛門と自分を重ね合わせる人は多いと思う。

定年して、何もすることがない。
仕事一途でやってきて、趣味と言えるものもあまりない。
定年当初は同期の退職者といろいろやっている。
でも、最近は一人欠け、二人欠け、だんだんと減ってきた。
自分はまだまだできる、と思っているのだが、世の中が自分を必要としているのかどうかわからない。

残日録の「日残りて昏るるに未だ遠し」という言葉が身にしみる。

ドラマの最後に書かれた言葉。

老いることすなわちまた生きることなり
いつの日か命果てぬとき来たらば
ありがたき心捧げて死を迎えん
されどいよいよ死ぬるその時まで
与えられし命いとおしみて
ひとすじに生き抜くべし

藤沢周平、まだまだ読まれるだろう。

| | 考えたこと | 22:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
右腕
彼は私の右腕だ、というと、彼を頼りにしている、という意味。
これは英語でも同じらしい。
He is my right-hand man とかいう。

昨日トランプ大統領と安倍首相が会談して、握手している写真が新聞に出ていた。
トランプ大統領については、いろいろと言われているから、安倍首相についても対米べったりでいいのか、とい批判もあるようだ。
特にドイツではそういう声が大きいらしい。日経に出ていた。

トランプ大統領も賢いのか、賢くないのか、よくわからない。
アメリカの人たちが彼を選んだ理由というのは何となくわかるのだが、その人たちもここまでやるのか、と驚いているというのが正直なところだと思う。
やっぱりアメリカは理想の国だから、そこからあまり外れると、ちょっとヤバイという気になるのではないか。
全ての人は平等である、という独立宣言の言葉はやっぱり生きている。

それにしても、大統領令に対して、ちゃんと裁判所が裁定を下すようなシステムになっているのが立派。
三権分立の原理が機能している。
でも、まだどうなるかはわからない。
ダメ元で大統領令を出したのではないかという声もある。

当分は大統領と議会や裁判所などとの戦いになるんだろう。

アメリカという国自体が、民族を超えた人類の実験という側面はあるが、その国がどうなっていくのか、というのは民主主義の実験でもある。

安倍首相はトランプ大統領の右腕になれたんだろうか。
果たして、それはどうなっていくんだろうか。

終戦から冷戦を経て、これからの時代をどこまで見ることができるだろうか。

人類の歴史は戦争の歴史だとも言うが、そんな感じがするなあ。


| | 考えたこと | 22:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
高校は何のためにあるのか
高等学校というのは何のためにあるのか。
Wikipediaによると、「日本の高等学校は中学校の教育を基礎とし、中学校の課程を修了した生徒に高度な普通教育および専門教育を施すことを目的とする。」「主に市民としての総合的な基礎教養、大学・専門学校など高等教育機関への進学準備、また就職に向けての技術・技能の習得の教育を行う。」と書かれている。
当たり前だが、大学入試のための進学準備というのは入試対策だ。
入試が変わらないと教育内容が変わらないというのは、悲しいことだが事実。

しかし、そもそも高校は大学入試に受かるためにあるわけではない。
高校の目的が入試にシフトしすぎているのだと思う。
ぼくは日本の教育の問題の根っこは小学校にあると思っているが、高校の在り方も問題だ。
それには大学入試が多様化して、どんどん顕在化してきたのだと思う。

こないだ書いたが、進路指導の教員ですら、大学入試がやたら多くなってどう指導したらいいかわからない。
それはそうだろう。
特に理由もなく、志願者を増やすために増やしたんだから。

ほとんどが一般入試で、推薦もごく一部、AO入試などなかった1975年当時は、進路指導も難しくなかっただろう。
大学の数も今の6割程度だったから、選択肢は半分ほどだったし、ややこしいカタカナ学部などできていないから学部で迷うこともない。
あとは生徒の興味関心とレベル、経済的理由くらいだから、進学指導は楽だったはず。
模擬試験を2回ほど受ければ、だいたいわかった。

今は大学数が増え、入試の種類がやたら増え、ややこしい学部が増え、入試の時期も増えて、選択肢が増えた。
一般入試を受けるのが嫌な生徒は、推薦やAOを選びたい。
指定校推薦の人数は決まっているから、学校内で希望者が多いと選別をしないといけない。
AO入試は時期が早いし、学校別に面接を伴う何かがあるから対策もしないといけない。
推薦も面接があるから、面接対策をしないといけない。
夏から冬まで入試づくめだ。
一般入試を受ける生徒たちには、もちろん受験勉強が必要だ。
模試も受けないといけないし、センター入試対策もある。
私学の3科目入試や2科目入試に対応するためにコース分けも必要になる。
数学は数1で終わって、2,3年は文系の、それも入試科目の勉強に重点をおく。
それを進学コースと称して宣伝もしないといけない…。

そんな状態で、生徒全員にまともな高校教育ができるんだろうか。
できないだろう。
高校3年生で秋には推薦やAO入試を終える生徒もいるし、そこから一般入試を追い込む生徒もいる。
推薦やAOを受けたい学生は先生の顔色を見て過ごす。
評定平均を下げられたら、行けなくなるからだ。
そんな風に、大学入試が高校の生徒も二極化してしまう。

だからこそ、一昨日書いたように、大学入試の多様化を止めないといけないと思う。

高校は入試のためにあるのではない。

こんなアタリマエのことを文科省はわからないんだろうか。

| | 考えたこと | 00:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
Top Gear
トップギアという番組をケーブルテレビでやっている。
かなり古い番組で、今やっているのは2004年あたりのもの。

クルマを紹介する番組で、有名人がサーキットタイムを競うコーナーもあるし、新車のインプレッションのコーナーもある。
しかし、何といっても楽しいのは3人のメンバーのしゃべくり。
歯に衣を着せぬというか、言いたい放題と言うか、個人の好みと偏見だらけというか…。
とにかく、見ていて面白い。

アメリカ版とイギリス版があるが、圧倒的にイギリス版が辛口。
とにかく、格好が悪いとか、遅いとか、ショボいクルマはボロクソに言う。
よくあの番組が流せるなあと思う。
日本なら、まず放送できないだろう。

ほとんど日本車のレビューはないが、こないだ見ていたらトヨタのトラックは丈夫だという特集をやっていた。
単に壊れにくいというだけではない。
高いところから落としたり、水の中に入れたり、ありとあらゆることをして、それでも動くという特集だった。
ああいうのがトヨタの評価なのかと思って、面白かった。

やっぱりイギリスだけあって、ポルシェよりもアストンマーチン、ベンツやBMWよりもジャガーびいきだ。

でも、イギリス人は本当にクルマ好きだと思う。
毎回多くのオーディエンスが立ったまま参加している。
そして、毎回出てくる俳優などのゲストもクルマに乗ったら結構熱中して走る。

今度はドイツ版のTop Gearを見たいと思う。

でも、ドイツ人はマジメすぎて面白くないかもしれないなあ。

| | 考えたこと | 22:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
大学入試改革の目的
今、文科省で大学入試改革をやっている。
大学入試改革の真の目的は、入試を変えることで小中高の教育を変えるためだ。
それ以上でも以下でもないと思う。

まだ日本の社会では大学入試に通ってどんな大学を出たかということが、大学での成績よりも、その人の属性を決める大きなシグナルになっている。
だから、入試がゴールとみなされる。
それを目指して頑張るのだから、入試改革は大事になる。

改革はあくまで国立大学とセンター試験が対象だ。
国立大でもAO入試が多用されるようになるということだ。
AO入試は何度か書いたが、いい試験方法だと思う。
ただし、そこにマンパワーを投入し、本気でやるならということだ。
現在、偏差値が低い私学でやられているのは、早期に志願者を獲得するためであって、それとはまったく違う。

高等学校基礎学力テストというのが導入されるのは画期的だが、それをどう使うかがわからない。
趣旨から言って、高校生が全員受けるべきだと思う。
そこで、学力を担保すれば、あとは大学が自由にやったらいいのだ。

しかし、そもそも私立大学では半分以上の学生が一般入試を受けないところがほとんど。
それは何ら改革されない。
推薦入試の比率を減らすとか、AO入試でも学力テストを必須とするとか、試験の回数を減らすとか、そういう改革はやらない。

その結果、定員割れを恐れる大学が、どんどん入試を増やし、入試が多様化した。
何の意味で多様化かというと、大学に多様な学生を入れるとか言っているが、結局はわけの分からない多様化だ。
それはそうだろう。真の目的は単に志願者を集めることだからだ。

私立大学だって、多様な人材がほしいからと言って、その多様性が学力のバラツキになったら困るはずだ。
大学でのカリキュラムが理解できる学生と、まったく理解できない学生が同居していたら、教える方は大変だ。
そのために、入試をやる。それが入試の意味だ。
もちろん、入ってからのやる気でカバー出来る範囲はあるだろう。
しかし、授業で使う言葉がわからない学生がたくさんいれば、授業自体が成り立たない。
ぼくは入学直後の学生に、熟語の知識のテストを提案し、実際にやったことがある。
それを先生に見せて、どういうレベルの学生が来ているかをわかってもらい、授業のレベルを逆に学生に合わせてもらおうと思ったからだ。
何度かそのことは書いたが…。

そもそも入試というのは、その学校で学ぶために必要な学力を試すものであって、そこを通ったらその大学で授業を受けられるように設計されているべきものだ。
入ってから英語の実力テストをやっている学校はマジメに教えようとしているのは事実だが、入試についてはマジメにやっていない。
というか、やったら入る学生が少なくなるんだろう。

大学入試が多様化したおかげで、高校では進路指導ができないという先生が増えた。
普通は進路指導というのは、生徒の得意分野を見極め、生徒自身の希望を聞き、一緒になってどの道に進めばいいのかを考える、ということだと思う。

リクルートが全国の高校の進路指導主事を対象に行った「高校の進路指導・キャリア教育に関する調査」の結果を引用する。

「■91.9%の教員が、進路指導を「難しい」と感じている。前回調査(2014年)から引き続き高止まり。
■困難の要因(上位3項目)は「入試の多様化」がトップ(前回4位から上昇)

・難しさを感じる要因は、前回調査4位の「入試の多様化」(25.7%)がトップ。
・前回調査1位の「進路選択・決定能力の不足」は3位、2012年調査1位の「家計面について」は5位。景況感については回復の兆しを感じさせる結果である一方で、入試制度の多様化が進路指導に影響を与えている。

■大学・短期大学などに期待することは、「入試の種類の抑制」「わかりやすい学部・学科名称」で変わらず、「実際の講義・研究に触れる機会」が増加。

・大学・短期大学などに期待することについては、1位が「入試の種類の抑制」(39.3%)、2位には「わかりやすい学部・学科名称」(36.6%)が入り、入試制度や学部・学科の種類が増加・複雑化している現状が進路指導にも影響していることが明らかとなった。」

今や入試の回数が増え、生徒の選択肢が増えた結果、進路指導の教員ですら「難しい」と感じている。
確かに、多くの私大では、なぜ何回も入試をするのか、明確でない。
志願者数増以外の理由が見当たらないのだ。

まして、推薦やAO入試については、明確に「入りやすい」入試になっている。
世間でFランク大と呼ばれているような学校では、よほどのことがない限り、受ければ通るという状態だ。
推薦と言っても、専願か併願か、学校推薦か指定校推薦か自己推薦かなど、これも種類が多い。
1つの大学を受けるだけでも、どれで受けるのがいいのか、そんなものはわからない。
その結果、Fランク大ですら一般入試組と推薦・AO入試組で二極化が起こっている。
大学は二極化が問題だと言っているが、そんなものは入試の結果で当たり前なのだと思う。

文科省もどうしてそこにメスを入れないのか。
私学に対しても助成しているのだから、指導はできるはず。
高校で困っているのは、どちらかというと下位の生徒だと思う。
そこを底上げしないと、これからの世の中を生きていけない生徒が増える。

入試改革は、まず私大の多すぎる入試をなんとかしないと…。



| | 考えたこと | 23:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
シェアリング・エコノミーの肝はレビューシステム
BtoBやBtoCという商売の形はよくある。
法人向けか、それとも消費者向けかという区分だ。
そうではなくて、CtoCというのが出てきた。
消費者から消費者へという商売の形。
これが今流行りのシェアリングエコノミーというやつだ。

代表的な会社としては配車ソフトで有名になったUber(ウーバー)や、民泊のシステムであるAirBnB(エアービーアンドビー)といったところがあげられる。
ちょっと前にAirBnBの社長ジョー・ゲビアが、TEDというアメリカのプレゼンテーションの番組で喋っていた。

それによると、UberやAirBnBの一番肝心な点は、心配をなくすことだという。
つまり、見ず知らずの人を、どうやって信用するかというシステムを設計することだ。
それをデザインの力で乗り越える。
デザインとは人生経験をつくり上げるものだという。

ジョー・ゲビアは、シェアリングエコノミーは人間関係が主体のビジネスと捉えている。
彼は、デザインの力で”見知らぬ人は危険”という偏見をなくすことができると考えた。
それで、自らAirBnBという会社を始めた。

彼は、AirBnBを利用して泊まった人が、そこで心臓発作を起こしたが、宿のホストは彼を病院に連れて行って、毎日見舞いに行き、追加料金無しで退院したゲストを泊めてくれたというエピソードを紹介した。
いかに空いている宿泊スペースを提供し、そして泊まった人と人間関係を結ぶかという話だ。

そこで一番大事なのが、レビューシステムになる。
泊まった人も、泊めた人も、お互いにレビューを報告する。
だから、泊まった人はいい人であろうとするし、泊めた人もいい人であろうとするのだろう。
そういう制度設計が彼のいう「デザイン」の力だと思う。

配車ソフトのウーバーでも、乗った人も、乗せた人もレビューをするシステムだ。
常にウーバーを使おうとすると、いい運転手であり、いい乗客であることが理にかなうようになっている。

ウーバーは日本ではまだタクシーとの関係で入ってきていないが、東京にはウーバーイーツというレストランのメニューの配達サービスがある。
人を乗せる代わりに、空いている人が自分のクルマで店から食べ物を運ぶ、というサービスだ。
東京にいる長男がそれを頼んだところ、手違いがあって間違ったものが着いたとのこと。
それをウーバーに問い合わせたら、お金が帰ってきた上に、2000円のクーポンもくれたとのこと。

ドライバーが間違ったわけではなかったろうが、そういうことをやって、ユーザーが心地よく次も頼もうとしてくれるようにしている。

そういう善意を大事にする、というシステムを組み上げるのが、シェアリングエコノミーの一番大事なところなんだろう。

そのうち日本でも広がってくるだろう。
早く規制緩和しないと…。



| | 考えたこと | 22:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
内向きの価値観
以前、「総務課が重要?2」という記事を書いた時に、「内向きの価値観」の事を書いた。

ぼくは学校法人で10年間過ごしたが、教育関係者は本当に内向きの価値観で仕事をしているところだ。教育は大事だから、そう簡単に外向きの価値観には変わらない、という気持ちもわからなくもないが、どう考えてもここはあかんやろ、というところでも内向きだ。
それがまた出たのが、横浜市の教育委員会。

ぼくもひどいと思って記事を書いたが、11月に福島から避難してきた生徒をいじめたというニュースがあった。
その後も教育委員会が調べていたらしい。
今回、横浜市の教育長が「いじめと認定できない」と発言し、それが問題になって「配慮が足りなかった」と謝罪会見した。

大津の時のいじめにしても、今回にしても、教育委員会というところは、とにかく問題そのものがなかったということにする傾向にある。
明らかにあったのに、なぜなかったことにするのか。
きっとそれは、いじめがあったということになると、いろいろと問題が大きくなるからだ。
いつからあったのか、いつ気づいたのか、気づいてからどういう対処をしたのか…。
だから、問題が大きくなればなるほど、なかったことにする。

文科省のいじめがあるか、という調査でも同じことだ。
いじめはあってはならないから、あってもないことにするのだ。

外向きの価値観で見たら、本当に馬鹿らしいことだ。
今回の件にしたって、証拠もあるし、実際お金も動いている。
だからこそ、一般の人たちもオカシイと指摘したのだ。

こんなことなら、教育委員会のメンバーを公選制にしたらいい。
学校のメンバーでやるから、こんなことになる。
半分だけでも外部の組織の人を入れること、というルールにしてもいい。
とにかく、外の価値観を持った人を入れないと、自浄作用など期待できない。

学校の事務も民間企業の経験者を中途で入れたらいいと思う。
そういうことをしないから、いつまで経ってもバカなことをやる。

戦後、アメリカが決めたように、教育委員は公選制に戻すべきだ。

そうしないと、日本の教育は変わらない。


| | 考えたこと | 21:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
OJTと情報化
1979年、ぼくが入社したころはまだまだ情報化が進んでいなかった。
通信手段は電話だけ。FAXもない。
まだコピーは高級品で、青焼き(ジアゾ式のコピー)が一般的だったし、海外との連絡はテレックスだった。
要するに、離れたところと情報共有するのは大変な時代。

もちろん書類は手書きだったし、ワープロなどというものは姿も形もなかった。
青焼きのコピーなど、今の若い人たちは知らないだろう。
原紙は薄手の紙で、それに手書きで書いて原稿を作り、原稿をコピー用紙に重ねて感光、定着器に入れる。
そうすると、原紙が戻ってきて、コピーが一枚作れる。
青い文字になるので、青焼きだ。
当時はたくさんの枚数コピーしようと思うと、その回数だけ原紙を通さないといけなかったから、冊子のようなものを何部も作ろうとすると大変だった。
だから、青焼き専門のパートさんがいて、一日中やっていた。

ちょうどゼロックスの特許が切れる直前。
会社に入って数年でカーボンコピーの特許が切れ、ゼロックス以外の会社からどんどんコピー機が出てきて競争で価格が下がり、青焼きはなくなっていった。
そんな時代だった。

ある意味、今から思うとムダがたくさんあった。
だから、待ち時間みたいなものが多くて、のんびりしていたような気がする。
2000年代からみると、そう見えると思う。

だから、入ってきた人を教育する時間もあった。
当時、OJT(On the Job Training)という言葉がトレーニングに関して使われていた。
仕事をしながらトレーニングということだ。
お手本はたくさんあった。
主な通信手段は電話だから、何でも電話でやる。
それを横で聞いているだけで、訓練になったのだと思う。

結局、効率化が進んでいなかったから、隙間の時間が多かったのだ。
だから、無駄話をする時間もあった。
電話の話を横で聞いていたりして、情報共有できていたから、話もすぐ通る。
周辺知識は知らぬ間につけていたのだ。

それがだんだんとできなくなってきた。
ぼくが辞めた2004年はそうなりかけていた時期だろう。

メールで情報共有できて、一人ひとりに連絡が行く。
FAXにメモ書きを書いて回していたころとエライ違いだ。
そのために、送られた情報に付加される他の人の意見が見えなくなった。
写で送られたメールは読まずに置いておくことができる。
忙しくなって、読まずにためていくと、だんだんと他人の仕事がわからなくなる。
それでも自分の仕事は進む。

だいたい、仕事の意味などという大層なものは、面と向かって話して聞かせるものではないと思う。
面と向かって「仕事の意味」を話すとなると、紋切り型のものになって、聞く方も構えるし身につくものも身につかない。
そういうことは、仕事に関して話している時に、ポロッと入ったりするものだ。
聞いている方が、ああそういうことなんかと理解する、そういうプロセスを経て身につくものだと思う。

そんなわけで、高度に情報共有が進み、IT化で効率が上がり、その分仕事が増えて縦割りになった職場ではOJTで伝えられるものなど知れているのだろう。
インフォーマルな世間話とか、茶飲み話、残業の合間のバカ話などが大事だったのだ。
でも、時代はそんなことは考えず、進んでいった。

ぼくが会社を辞めた2004年頃はそういう時代だった。
そこから先、どうなっていったかは知らない。
でも、そういう事態を憂慮して打破しないといけない、というような記事はたくさんあった。

Off the Job Training(講義型のトレーニング)を増やすのはあの当時やった。
やらないより、やった方がマシ、ということだ。
どれだけ効果があったのか…。
問題意識がないところに、いくら詰め込んでも残らない。
ぼくも講師をやったが、余裕を持って話せなかったから、きっとあまり残らなかっただろう。

やっぱり、昔のちょっと緩い職場で、息抜きの時間にしていた先輩の話などのOJTがよかったなあ。


| | 考えたこと | 20:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
いい職場、よくない職場
いい職場、よくない職場の定義は難しい。
人それぞれ、自分の基準があるからだ。
世にブラック企業と呼ばれている会社だって、法的に問題なく存在しているのだし、それをブラックと呼ぶかどうかは最後はそこで働く人たちがどう思っているかだと思う。

ぼくは最初の転職で民間企業から学校法人に変わった。
双方を体験して、思うことがある。

最初の会社では、海外展開をしている時、上司がビジネスクラスをやめてエコノミーで行くことで、予算内で若い人も海外に行かせるということをやっていた。
また、パソコンの導入が始まった時、パソコンを使える若い人から順にパソコンを入れた。
ぼくはそういう姿をみて、当たり前だと思っていた。

学校法人に行くと、だいぶ考え方は違った。
あくまでエライ人から順に何でもやっていく。
使えないパソコンを机の上に置き、ディスプレイにポストイットを貼り付けている課長の姿を見て驚いた。
財務システムを入れて、年度違いの帳票を参照するのは、効率化のために当然のことだと思っていたが、それができないシステムになっていて、驚いた。
あとで開発した会社の人に聞くと、それは学校側の指示でそうしたとのこと。
未だになぜかわからない。

会社では前例踏襲は悪だったが、学校法人ではなぜ変えるのか?と言われた。
会社ではシステム導入は人を減らして合理化するためのものだったが、学校法人ではシステムを入れて、使えない人のために人を増やして対応していた。

最初の会社は仕事はしんどかったが、ぼくにとっては面白かった。
学校法人は仕事は楽だったが、ぼくにとっては面白くなかった。(学生との接触は別だ)

いい職場だと思うのは、どっちだろうか?


| | 考えたこと | 20:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
メイ首相
イギリスの女性は強いというイメージがある。
エリザベス女王、サッチャー元首相に続いて、メイ首相も出てきた。
イギリスのEU離脱を実行する首相として、保守党が出してきた切り札だと思う。
見るからに頭が切れそうな女性。
おしゃれで、靴をたくさん持っており、料理好きでレシピ本を100冊持っているという。

牧師の娘で、12歳で政治を志したとのこと。
オックスフォードで地理学を学んだ。
金融業界で仕事をしたという職歴もある。

離脱派の急先鋒だったジョンソンを外相に起用したのには驚いた。
そういうところは、根っからの政治家だと思う。

サッチャーが「鉄の女」と呼ばれていたのに対して、「氷の女王」と呼ばれている。
馴れ合いを嫌い、仕事をこなす姿から、そう言われるらしい。
こないだニュースでイギリス国会で演説する姿が映っていたが、「イギリスは移民を受け入れ続ける」と断言した姿は毅然としていた。
文字通り国を二分した国民投票だったが、それをまとめようと腐心している。

離脱するからには、おそらくEU側は甘い条件など示さないだろう。
そんな甘い条件があるなら、離脱しようという国が増えてくるからだ。
しかし、弱気の顔は見せない。

自らはEU残留派だったが、EUに対して懐疑的な意見もあるらしい。
今は国民投票の意思を貫こうとしている。
さすが民主主義の起こった国だ。

イギリスという国は、ここぞという時に名宰相が現れる。
第二次大戦の時のチャーチル、戦後没落の一途を辿っていた時に現れたサッチャーだ。
メイがその3人目になるかどうか。

ぼくはイギリスがEU残留をしたほうがいいと思っていた。
せっかく第二次大戦後、戦争を二度と起こさないという理想を掲げ、EUという単一国家を目指して作ったのだから、当然だ。
しかし、イギリスの国を二分して争うほど、離脱派の意見も強かった。
イギリス人はやっぱりイギリスが独立する道を選んだのだろう。

それが吉と出るのか、凶と出るのか。
イギリスとアメリカという、世界の二大国家が大きな変化を迎えようとしている。
どちらも、国民が選んだ道だ。

それがスゴイことだと思う。

| | 考えたこと | 21:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
会社を辞めるとき
東洋経済の記事で、「会社の「辞めどき」は15のポイントで判断せよ」というのがあった。

ぼくは2004年の3月末で会社を辞めたが、その時の状況を考えると、この記事にある「辞めるとき」には当てはまらない。
辞めた一番の理由は、逆説的になるが、その時やっていた仕事が面白かったからだ。
2001年あたりから、あるシステムの導入を検討しはじめ、2004年の3月で導入が完了した、という状況だった。

ぼくは会社に入ったときは評価部署で実験室とテストコースで走り回り、6年目に設計に異動。
そこから15年OEMの設計をやって、最後の4年間を技術部の企画部署で過ごした。
その最後の4年間がこのシステム導入の仕事の期間だった。
何度か書いたが、主に4人でやった仕事。

与えられた仕事ではなく、自分でやりたいと言って、予算獲得からやった。
そのために、社外に見学に行ったり、コンピューターの勉強をしたり、いろいろ大変だった。
上の人は、ぼくがそんな仕事を始めるとは思っていなかったと思う。
どちらかというと、技術部をどうしていくか、というような企画をやらそうと思ったのではないか。
もちろん、その中期計画の作成もやったし、海外の情報を翻訳して回覧するというようなこともやった。

それまでの仕事は、どちらかというとわりと花形の仕事だったし、予算など考えたことがなかった。
自分が今まで青天井で使っていたということを、企画部署に行って初めて知った。
お金を取ってくるということが、いかに大事かということだ。
そのためには、そのシステムを入れたらどれだけの効果があって、投資額よりもリターンの方が大きいとか、現状の仕事量が大幅に減るとか、全体で見たら得になるとか、いろんなことを考えた。

最初は入れたほうがいいのは当たり前なのに、どうしてこんな説明をしないといけないのかとバカバカしくなったこともあった。
大きな額だったので、予算を取るためには大きな会議でプレゼンをして、役員の決済を仰ぐ。
まあ、アタリマエのことだが、ムダな仕事に思えたのは若気の至りだったと思う。

曲がりなりにも決済を取って、予算が出て、ようやく導入の運びになってうれしかったが、そこからが本番。
図面の仕事だったので、図面のユーザーである工場や金型の部署に説明に回り、ここでまた現状の改善ができる、という説明をしないといけない。
これもシンドい仕事で、いったい誰のためにやってんねん、と思うこともあった。
ユーザーはこれまでよりも早く図面を手に入れられるようになるから、仕事が早くできて、得になるに決まっているのに、現状からの変化を嫌がったりする。
仕事の慣性がいかに大きいかを思い知った。
とにかく、今やっている仕事を変えるという、そのことに対する抵抗がある。

でも、システムが立ち上がって効果が出始めると、本当にうれしかった。
利用者がどんどん増え、目に見えて今までのムダがどんどんなくなっていった。

結果的にこの仕事をやって、現場の仕事のおもしろさがわかったのだ。
だから、人・モノ・カネを動かすマネージメントの仕事より、現場の仕事を選ぼうと思った。
もう40代後半だったから、これから会社にいると、マネージメントの仕事が主になるからだ。

ちょうどその時、古い学校時代の友だちから、大学の話があった。
教育は会社でもやっていたし、若い技術者をどうやって育てるかということは課題だった。
それまでOn the Jobトレーニング一辺倒だったのをやめ、集合型の講義形式を取り入れたりした時期だった。

その中で、若い人たちが、本質的なところで仕事を理解していないということがわかった。
自分の仕事が全体の中で位置づけられていなくて、上から言われたことをやればいい、という人が増えてきたのだ。
派遣の女性に仕事のムダを指摘されて、それを若い担当者に言うと、「これはこうするように言われている」という始末。
そういう事例がいくつか続いて、これは企業の教育の問題ではなく、その前の段階からやらないといけないと思っていたところだった。

時期的に会社では仕事が増えて、どんどん縦割りになっていったこと、電話が減りメールが増えて職場の会話がなくなって、他の人の仕事を暗黙のうちに共有できなくなったこと、モノづくりがコンピューターになり、製図板がなくなってモノに関わる人が減ったことなど、いろんな要因が重なっていたのは事実。
それは効率化のためには仕方のないことだったろう。
でも、多くの会社が、「見える化」などといって、その状態を何とかしようとしていた時期。

それでぼくは清水の舞台から飛び降りた。
全く環境が違う大学というところに行った。

それがぼくが会社を辞めるときに考えたことだ。

それが良い選択だったのかどうかは、この世を去る時にわかるのだろう。



| | 考えたこと | 00:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
大学の先生
大学教員の世界にも世代間格差が!」という記事を読んだ。

ノーベル賞をもらった大隅博士が「最近、大学で研究評価がとても厳しくなっているが、特に若者にとって厳しくなっています。大学に任期制が導入されてから、若い人は数年で成果を出さないといけないという、圧迫感があります」ということを訴え、その上で基礎研究の重要性を説いているということだ。

大隅博士のような人とは違い、ぼくはどちらかというと底辺に近い文系の単科大学にいたが、そこから見た景色とはだいぶ違う。

税金を投入して研究するのだから、もちろん納税者に対して説明責任が生じる。
基礎研究だから説明できない、というのならそれはやめるべきだと思う。
せめて、やっている本人は、この研究が完成した暁にはこういうことが可能になるとか、こういう可能性があるとか、そういうことを考えているはずだ。
それを熱く語ることができないのなら、そんなものはやめたほうがいい。
少なくとも、文系の研究に関してはそう思う。

若い人が厳しい、というのは年寄りが居座っているからだ。
大学にいた時、若い先生でいい先生はたくさんいた。
教育熱心で、調べてみると論文も出しており、評判もいい。
学校としてはそういう先生を雇いたいのだが、年寄りの先生が居座っていて、雇えない。
だから、頑張っても任期制教員みたいな形になる。
本当に見込みのある先生は、上の人が認めて雇うべきだと思う。
ちゃんと学部長や学科長が教員採用に対して責任を持ち、こういう教育ができて、こういう研究分野を広げていく、というようなビジョンを持って採用をすればいい。
何でも委員会でやっていては、それこそ「なんでもいいんかい」になってしまう。
大学のガバナンスが言われているが、ホントにそれが欠けている。

前にも書いたが、学生からベストティーチャーに選ばれるような人が非常勤で来ていても、そんな人は雇わない。
自分より能力の高い人を雇うのが恐いのか、と思ってしまう。
そのためには、もっと教員の流動性を上げないといけない。
失業保険も出るのだから、大学の先生も肩たたきをやるべきだとさえ思う。

ある意味、競争状態にならないと、年寄りの先生はどんどん手抜きになるし、若い先生は雇えない。
そういうことも記事には書いてはあるが、もっと前面に出していくべきだ。
投入する税金には限りがあるし、有効利用を考えないといけないのは火を見るより明らかだ。

大隅先生の回りにはそんな悪い人はいないかもしれないが…。

| | 考えたこと | 19:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
ランサムウェア
最近よく聞くランサムウェアという名前。
マルウェアという「悪いソフトウェア」の一つだ。
コンピューターウィルスやワームというものをまとめてマルウェアと呼ぶらしい。
要は、コンピューターの中に入ったら、エライことになるというものだ。

ランサムウェアのランサムというのは、身代金のこと。
英語圏の人たちはランサムウェアと聞けば、「人質を取って身代金を要求する」というイメージがある。
日本では、ランサムという意味がわからないので、なんか具合の悪いことをするんだろう、という感じではないか。

ランサムウェアを実行してしまうと、コンピューターの中のファイルを勝手に暗号化して見えなくしてしまい、それを人質に取って、身代金を要求する、という仕組み。
実際に見たことはないが、コンピューターが立ち上がっても、その中の個人的なファイルにアクセスできなくなる。
そして、どこそこに身代金を遅れ、と言われるのだ。
支払い方法は指定され、ビットコインなどで送金する。
便利になると、犯罪者もそれを使うということだ。

中には暗号化せず、コンピューターを立ち上げるとポルノ画面が表示されて、それを止めるためにはお金を払えというものもあるらしい。
それに似たものは学校で勤めている時に見たことがある。
愉快犯的なものだったので、駆除できたのだが、ややこしいのは本人がなかなか申告せず、その間に広まってしまうのだ。
これは、感染してもがパソコン自体は使えたので、最初に感染した人がすぐに言っておれば、そんなに大きな騒ぎにならなかった。
大学の先生には、不正直者が多いということになる。

最近のランサムウェアはコンピューターの暗号化の技術の進歩で、それ自身も進歩している。
非常に解読しにくい暗号化を行い、かかってしまうと打つ手がないというやつだ。
個人のファイルやコンピューターに接続しているネットワークのファイルも暗号化してしまう。
そうなると、仕事で必要な情報が見られなくなるという事態になる。
だから、企業が標的となり、ヤミでお金を払うというケースもある。

暗号化の技術が進歩すると、ランサムウェアも進歩してしまう。
その進歩があるから、クレジットカードの番号やパスワードを安心して送ることができる。
しかし、それを悪用する人が出てくる。

だいたいはメールの添付ファイルが感染源。
最近は犯罪者も賢くなったから、巧妙な手口でメールを送る。
だから、開いて添付ファイルを実行してしまう。
しかし、いきなりランサムウェアが動くわけではない。
パソコンに忍び込んで、回りに感染する。
それから、本領を発揮することになる。

最新の手法で暗号化されたら、レスキューを頼んでもなかなか復元は難しい。
対策はバックアップをとっておくことだ。
でも、ランサムウェアがいつ入ったかわからないと、うかつにバックアップを戻せない。
データーだけを選んで戻す等の処理が必要だ。

ランサムウェアは恐い。

見ず知らずの人から来たメールや、知っている人からでもアドレスがややこしいものなどは開かないこと。
開いても、オカシイと思ったら添付ファイルは開かないこと。

それが対策になる。

エライ時代が来たものだ。


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