考えたこと2

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この7月にNHK日本語発音アクセント新辞典が改訂されたとのこと。
日経に載っていた。
新しい言葉が4400語入り、3300語のアクセントに変更が加えられたらしい。

何といっても、アクセントの平板化が進んだということだろう。
ビーズ(B'z)というグループは1988年にデビューしたらしいが、このあたりからおかしくなった(ぼくにとっては)と思う。
ビーズというのはビーの母音のイーのところにアクセントがあって、極端に言うとビぃーズと言っていたのが昔風のアクセントだと思う。
それが若い人たちはビーズと平らに発音する。
それが新しいアクセントだろう。

ユーザーという言葉も、ユぅーザーというふうに頭の母音にアクセントがあった。
それが当たり前だった。
英語ではそうなっていたからだろう。
それが日本語化して、ユーザーと平らなアクセントになった。
どうも2音節や3音節程度の短いカタカナ言葉は平板になったような感じだ。

子どもが音楽に興味を持ちだして、ビーズの名前が出だした頃から気になっていた。
それも言うならビぃーズやろ、というとオカシイと言われた。
若い人たちの間ではビーズと平板アクセントで言うのが正解だという。

前にも書いたことがあるが、当初はすごく違和感があった。
しかし、ずっと聞いているうちに慣れてきた。
まあ、それでもいいか、という感じになってきた。

WANDSというバンドがあるが、これも平板アクセントだ。
どちらかというと、ポン酢に近いアクセントになる。
完全に日本語になったということだろう。
WANDSと英語で書けば、普通はAにアクセントが来る。
英語を話す人にWANDSを見せればそう話すだろうと思う。
でも、これは日本語なのだ。
ワンズと平板アクセントで言うのが当たり前になった。

記事によると、化粧水や試写会というような言葉も平板アクセントが第2選択で採用されている。
つまり、どっちでもいいということだ。
ケしょうスイとかシしゃカイというように真ん中にアクセントが来ないのもあり、ということになる。
ケショウスイ、と平板で言われてもピンと来ないなあ。

二次会もニじカイが第2選択に落ちて、ニジカイが第1選択になったとのこと。
いろいろとややこしい。
カタカナ語に限ったことではなく、アクセントは平板化しているのかもしれない。

そうなると、2030年頃にはだいぶ平板が増えているだろう。

ニホンゴモカワッテイクナア。

| | 考えたこと | 01:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
もう一つのアメリカ史 2
オリヴァー・ストーンのドキュメンタリー。
10回の放送の後半を見終わった。

ぼくが知っているアメリカとはだいぶ違うアメリカが描かれている。
軍国主義の日本から舵を切って民主主義を持ち込み、戦後の物資を補助してくれたアメリカとは違うのだ。
冷戦後のアメリカは覇権主義に陥り、ベルリンの壁の崩壊は当時のソ連に生まれた民主的な考え方を持ったゴルバチョフのおかげだったと説く。
その後も続いたアメリカ共和党のソ連脅威論と、ベトナム、中東、中米やアフリカでの国益保護のための行動がどんどん紹介される。
この時期、アメリカの外交はタカ派で固められていたという。

へー、と驚くことばかり。
ニクソン、フォード、カーター、レーガン、ブッシュ(シニア)、クリントン、ブッシュ(ジュニア)というような歴代の大統領が出てくる。
そして2000年のブッシュ(ジュニア)とゴアの大統領選挙の疑惑にも触れ、ブッシュ政権での外交もタカ派で占められていたことを暴き、この時期のアメリカの独善的な行動を批判する。
ぼくは2000年の選挙の時、アメリカにいたからよく覚えている。
印象としては民主党のゴアが勝ちをブッシュに譲ったという感じだった。

日本ではアメリカのやっている事は、日本に関係のあることしか報道されない。
されているとしても、ほとんど目に止まらない。
グレナダやソマリア、パナマなどへのアメリカの侵攻が紹介されたが、こんなこともあったのか、という感じ。
日本がバブルに浮かれ、その後崩壊して沈んでいた頃こんなことがあったのか。

ブッシュ(ジュニア)時代は開かれた記者会見の数も最低数で、本当に無能だったと描かれる。
そして、9.11が起こる。
アメリカが60年にわたって築いてきたものが何だったのか、という自問のなかで、テロ対策としてアメリカが暴力に訴えたことが失敗だったという捉え方だ。
ブッシュではなく、ゴアだったら…とオリヴァー・ストーンは言う。
アメリカが国際法を無視し、同盟国の言うことも聞かず、暴力に訴えてきたことが9.11を起こした、という立場だ。

そして2009年民主党のオバマが大統領になった。
共和党のブッシュから民主党のオバマに変わり、少しまともになったように見えるが、基本的にはオバマはブッシュの路線を引き継いているとのこと。
ヒラリーもタカ派の国務長官として紹介されている。
オバマのノーベル平和賞の受賞も、強烈に批判している。
広島訪問はそれに対する贖罪だったのかと思うくらいだ。

シリーズの締めくくりにあたって、今までのアメリカのように覇権を求める先には平和はないという。
中国はアメリカを見習ってはならない、ともいう。
過去にアメリカが輝いた瞬間は確かにあった。
しかし1970年代以降、正義の名のもとに間違った方向に進んだのかもしれない。
それをオリヴァー・ストーンは伝えている。

正義というのは便利な言葉だ。
正義を振りかざされる側から見たら、悪になる。
何かの価値を守るのが正義だとすると、そこに絶対的なものがないと、それは一面では悪だ。
そこを見定めることが必要なんだと思う。

そして、西欧や北米で言われている「自由」というようなものがその基準になるんだとぼくは思ってしまう。
そういう価値観を学んできた。
自由があるからこそ、オリヴァー・ストーンのように批判もできる。
こんな番組がロシアや中国ではきっと作られないことを思うと、やっぱりアメリカはマシだと思う。

ベトナム戦争以降のアメリカ史を、本国ではどのように学んでいるんだろうか。

今の日本の若い人たちにこれを見せて感想を聞いてみたいと思う。

| | 考えたこと | 23:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
入眠儀式2
ぼくが演芸に出会ったのは、小学校のころ。
昭和30年代はまだ土曜日の昼間に角座の中継をやっていた。
正月といえば、三が日で何度かは寄席中継をやっていたりした時代。
そんな中で、テレビが来たこともあり、よく中継を見ていた。

寝る時に聴き始めたのは深夜放送の延長だ。
寄席の放送を録音して寝るときに聴き始めた。
そして、落語のレコードがあるのを見つけ、それをテープに録ったりした。
中学時代、仁鶴が出てきて、めちゃくちゃ面白かった。
貧乏花見、池田の猪買い、七度狐、金の大黒など、毎日聞いていた。

高校に入ってもそれが続き、毎晩落語を聞いて寝るという習慣になった。
入試を受けに行った時も、落語のテープを持っていった。
中学、高校は主に仁鶴だったが、大学に入って枝雀や米朝も仲間入りした。
時にWヤングなども聞いたなあ。

会社に入ってからは漫才ブームがあって、聞くのがいとし・こいしやダイマル・ラケットになったりした。
その影響もあって、ウチの子供たちはいとし・こいしをよく聞いた。
おまわりさんのネタとか、湾岸戦争のネタとか、聞いて笑っていたなあ。
まだカセットテープの時代だった。

そして今はMP3プレーヤーになった。
Youtubeで漫才をパソコンで録音し、MP3プレーヤーに落として聞く。
昔のテープをMP3に変換し、それで枝雀や米朝の落語を聞くこともある。

機器は小さくなり、テープを持ち運ぶ必要もなくなった。
時代は進んで便利になった。
それでも、カセットテープの頃と聞くものはあまり変わらない。
みんな昭和の時代に活躍した落語家・漫才師だ。

一時は音楽を聞いたり、講演を聞いたりした時もあったが、結局は演芸に戻ってしまう。

おそらくもう一生変わらないだろう。

老後のために面白いものを録りだめしておかないといけないなあ。



| | 考えたこと | 00:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
入眠儀式1
寝床に入ったらすぐに眠れる人もいるようだが、ぼくは寝付きが悪い。
小学校のころは眠くなるまで本を読んでいた。
何冊かの本をローテーションしていた。
今でもよく覚えているのは、大岡裁き。
少年少女名作全集か何かに入っていたと思う。
あの、大岡越前守の目の前で、二人の母親が子どもの手を引っ張り合い、子どもが痛いと言って手を放したほうが本当の親だ、というヤツ。

でも、中学に入ってラジオを買ってもらった。
それで寝るときには深夜放送を聞くようになった。
MBSやABCをイヤホンで聞いた。
ミッドナイト寄席をよく聞いていた。

高校に入って、カセットレコーダーが出てきて、ラジオで落語を録音して聞くようになった。
それ以降、漫才に変わったり、落語に戻ったりしているが四十数年ずっと続いている。
会社に入ってからは、小さなラジカセを使っていた。
当時はクルマに乗る仕事だったが、カーステレオが着いていないクルマも多かったので、出張にも持って行っていた。
移動中に音楽を聞くのにも使えるし、寝る時に落語を聞くのにも使える。
サンヨーのU4(ユーフォー)というヤツだった。

そして、ウォークマンが出た。
あれは画期的だった。
最初のはB5サイズ位だったと思う。
後にカセットテープのサイズになった。
あれで、寝るときに聞くのには、飛躍的に便利になった。

長らくカセットの時代が続いて、MDに変わり、今はMP3プレーヤーになった。
当分これが続くだろう。

ぼくの入眠儀式は落語や漫才を聞くこと。
録音した当初は笑えるが、何日も聞いているともう笑えない。
それでもかまわない。

どんなのを聞いていたかはまた明日書く。

| | 考えたこと | 01:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
日本の初年次教育
児美川孝一郎という東大卒の教育学者が書いた、初年次教育についての記事をみた。
この人、今は法政大学のキャリアデザイン学部の教授をやっている。
キャリアデザインの学問体系などないだろう。
ぼくはよくこんな名前の学部を作ったなあと思っていたが、この人の言っていることは正論でありスルドイと思う。

初年次教育とは大学に入学してすぐの学生に対する教育のことだ。
大学教育に入って行く前の準備教育と言ってもいい。
時代とともに大学のユニバーサル化が起こり、必要になってきた。

記事によると、要するに「問題の核心は、従来であれば大学には進学してこなかった層の学生が、大量に大学教育の舞台に登場するようになったこと、そうした層の学生たちには、総じて大学で学ぶためのレディネス(学力という点でも、意欲・姿勢という点でも)ができていなかったという点にある。それゆえ、大学の側は、彼らへの対応に苦心し、大学生活や学業への円滑な「移行」を支援するための新たな取り組みを開始することになった。その1つが、「初年次教育」にほかならない。」という現状。

諸外国では、働きながら学んだり、働いていたがもう一度学び直そうという社会人経験者が大学の大衆化を促進してきたのに対して、日本では18歳人口が増えるのにしたがって大学も増えたという特徴がある、という。
だから、諸外国では職業能力開発のための大学によって大衆化をしたのに対して、日本は18歳のフルタイムの学生が増えたということだ。

それはひとえに、日本が高度成長下で豊かであり、人口ボーナス期にあったということに起因するのだろうとぼくは思う。
人口が増える時期と、それに伴う成長を可能にできた、今考えると幸運な国だったということだ。

同じ「従来なら大学には進学してこなかった層の学生」といっても、諸外国では社会人を経験した人たちのことであり、求めているのは職業能力としての教育であるのに対して、日本では18歳のフルタイムの学生であり、求めているのはいわゆる「大学教育」であるということだ。

たしかに、アメリカのカレッジなどでは夜間コースも多く、そういうところで学位を取ったというのはよくドラマに出てくる。
自動車の整備の知識をつけるためのカレッジもあるという。
そういう科目ごとに履修できるようになっているのだろう。

そして、日本の場合それらの増えた学生を私立大学が担ってきたということだ。
学校数で74%、学生数で77%が私立大学。
そこで何が起こるかというと、こういうことだ、と記事はいう。

「より条件の悪い大学群(私立大学)が、大衆化によって新たに大学に進学するようになった層の学生たち(学力階層的には中・下層の学生層)を大量に引き受けている。しかも、経営上の事情があるために、私立大学にはそれらの学生の受け入れを拒否するという選択肢はない。彼らを入学させ続ける必要があり、かつ、そう簡単に中退させるわけにもいかない。丁寧な初年次教育の実施が必須の課題となるのである。」

国がそれらの教育を引き受けていたら、経営上の理由はなかった(あるいはもっと軽かった)が、不幸にも経営の事情がある私立大学が引き受けてしまったということが、日本の初年次教育を理解する場合には必要だ、ということだ。

経営上の理由というのは、私立大学の入試が複雑になった原因の一つでもある。
早く志願者を集めたいため、下位の私立大学は推薦入試やAO入試を多用し、事実上入試の選抜が行われなかったり、そもそも一般入試で入る学生がほとんどいなかったりする。
一般入試も1月、2月、3月と何回もやり、入る機会を多くする。
これら全ては志願者を集めるための経営的措置だ。
多様な入試で多様な学生を集める、などと言っているが、学校としては学力レベルを多様にしたいわけがない。
教育の効率を考えると、価値観が多様で、かつ学力は一定のレベル以上を保っているのが望ましいのは当然だ。

それでも、学生が多い時はまだよかったが、18歳人口が減る中どんどん初年次教育の意味は大きくなっている。
文科省の資料では、平成23年度に651大学が初年時教育をやっている。
内容は、レポートの書き方、文章の書き方、プレゼンのやり方、勉強に対する動機づけ、将来進路選択などの領域。
昭和の時代に大学に行った人たちなら、びっくりするような内容だろう。

そんな風に大学は努力をしているのが事実。
ただ、それらが功を奏しているかというと、そうも思えない。
初年次教育をうまくやったからといって、学生のレベルが上がり、大学教育の効果が上がっているという実感を持っているところは少ないはず。
それは「やらないよりはやった方がマシ」という感じを持っている関係者が多いと思う。
もちろん、教える方の問題もある。
しかし、教わる方のモチベーションや基礎学力の問題もあるのだ。

したがって、初年次教育が全てを救うわけではない。
それは大学教育の目標に近づくための努力なのだろう。
でも、本来18歳になるまでに身につけているべき内容を、大学でやらねばならないという状況は一向に変わらない。
そんなことは文科省はわかっているはず。
それでも、義務教育の改革はできない。
教育課程をいじって複雑化してもどうしようもない。
先生の養成方法を変えないといけないと思う。

しかし、それをメインでやっている教育学者たちは、そんなことは言わない。

本当に心配になる。



| | 考えたこと | 23:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
氷河期世代
「氷河期世代」というのをネットで調べると、「卒業年が1993年度から2005年度の世代を就職氷河期世代、特に2000年、2001年を超就職氷河期と呼ぶ」という記載がある。
ぼくが就職支援の仕事をし始めたのが2008年度からだから、幸いその時期は知らない。
でも、大変だったということは聞いている。

卒業する年に22歳だとすると、今の年齢は33歳から41歳くらいか。
一番厳しかった頃の人は37、8歳になる。
本当に気の毒だと思う。
日本では新卒一括採用が学校を卒業する人の就職のメインであり、その時期を逃すといろいろとシンドイ。
景気に左右される就職だが、この頃は本当にひどかった。
その人たちを支援している「東京しごと塾」の記事を読んだ。

ニートの支援をやっている人の話も聞いたことがあるが、まずはやる気を出すことが必要だという。
そこで、この塾も最初は「目標を復唱すること」から始めるとのこと。

「正社員への覚悟を決める!」「あきらめない!」「なげださない!」。

それを30歳を超えたメンバーみんなで言う。
大事だとは思うが、メンバーを見たことがないぼくは、ちょっとやりきれない感じになる。
その人たちが悪かったわけではない。
時代が悪かったのだ。
記事にはこうある。

「バブル世代がどんどん乗り込んでいった会社というバスのドアが目の前で閉まった世代」。転職サイト「リクナビNEXT」の藤井薫編集長は氷河期世代をこう表現する。バブル崩壊後、企業は急速に新卒者の採用を絞り、若者は行き先を失った。その氷河期世代が30代後半から40代前半になりつつある。総務省の調査によると35〜44歳で非正規で働く人は約390万人。うち約2割は不本意ながら非正規を続けている。まだ可能性が広がる若い世代の陰で、行政の支援からも「忘れられた世代」になってきた。」

390万人もいるのか…。
その世代の人たちが、将来の不安に加えて親の老齢化などでやっぱり正社員に、と思っている。
それは当然だろう。
去年、今年と就職状況はよく、売り手市場だからチャンスはある。
親ももう70代に入ろうとしているから、それを望む。子供の支援に毎月10万ほど払っている人もいるから、親も後押しする。

行政サイドもようやく問題に気づき、支援を始めたが、なかなか難しい。
一度キャリア形成につまづくと、なかなか元に戻れないのが現実だと思う。
氷河期世代が中年にさしかかろうとするのが現実だが、行政の支援は若者に向かっていたこともある。
だから、「忘れられた世代」と言われるのだろう。

記事の中で慶応義塾大学の樋口美雄教授がインタビューされ、こんなことを言っている。

「日本では雇用は十分にあり、仕事に就けないのは本人の問題だという意識が強かった。一方、欧州は長い歴史の中で、社会的阻害(ソーシャル・エクスクルージョン)が失業や雇用に限らず社会的悪循環をもたらすという問題意識を持っている。そのため社会的包容力(ソーシャル・インクルージョン)に力を入れている。日本でも就職氷河期世代を放っておくと生活保護などの財政問題が生じる。そうした問題を認識する段階に入ってきている」

そうだろうなあ。
このままいくと、生活保護が増えて、にっちもさっちも行かなくなる。

日本では正社員になることが就職と思われているが、ぼちぼちその意識を変えていかないといけないと思う。
正社員と非正規社員の垣根を低くして、非正規社員の処遇をよくすることだ。
今までの正社員が守られすぎていて、産業構造が変わらないという面もある。
定年制度も見直しが必要だろう。
60歳や65歳で退職金をもらって定年するという制度をいつまで続けるのか。
退職金の代わりに長く働くという道もあるだろう。(実際そういう中小企業もある)
そんな「働き方の改革」を早くしないと、今や4割を超えた非正規社員の問題は解決しない。

ぼくは就活ゼミをやっていた頃に、「終身雇用は必要か?」と学生に聞いたら、みんな口をそろえて「必要だ!」と言った。
しかし、「その制度のおかげで、若い人たちの雇用機会が減っている」というと一様に「ふーん、そうなん?」という顔になった。
正社員になれれば勝ち、という社会でいいのかな、と問いかけると「それは…」という。
もちろん、就活ゼミだから、就活生は正社員を目指して頑張ってもらう。
でも、今の労働のあり方に疑問も持ってほしいと思っていた。

彼らは今どう思って仕事しているんだろうか…。

そういう若い人たちが政治を変えていかないとイケナイ。
| | 考えたこと | 20:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
学校の部活
6月17日に文科省から「学校現場における業務の適正化に向けて」という通知が小学校、中学校、高等学校に向けて出された。

これはOECDの調査などでも、日本の教員の労働時間が長いことに対して取った措置。
いいことだと思う。

今回の通知は、「この中で,とりわけ,部活動における休養日の設定の徹底をはじめとした運営の適正化や、勤務時間管理の適正化の必要性等を示している」とのこと。
この文書によると、政令指定都市を除く市町村教育委員会が主体で、所管の学校に対して必要な支援を行うことになっており、「各教育委員会における業務改善に関する取組について、適切な時期にフォローアップを行い、その推進を図ってまいります」と書いてある。
その上で、上部機関である都道府県、政令指定都市の教育委員会に対して「本件について十分な周知を図るとともに、必要な指導,助言又は援助をお願いします」とある。

これに関して大阪府のページには早速「文科省は中学高校の部活動で休養日を設けるよう各教育委員会に通知したが、教育の一環であることを勘案しなければならない難しい問題だと思う。」というような意見が寄せられている。

これに先立って、2014年に大阪市で「運動部部活を民間委託」という記事があったのを思い出す。
ぼくの学校では特に中学、高校時代、部活の指導というのが時間を取っていた。
あまり強くはなかったが、それでも土日は練習しているところもあったし、大会に出るとかいうことになると顧問や監督者の休みは潰れる。
放課後は7時前まで練習、朝も練習というところもあった。

この部活というのはどういう位置づけなんだろうか。
はたして部活は教育の一環なんだろうか。
それなら全員参加にしないといけなくなるが、そんなことはできないと思う。

海外の部活との比較をしているサイトをみると、こう書いてあった。

「日本以外では、スポーツは学校教育と別に行われるのが一般的である。しかし、日本では、運動部活動として、スポーツが学校教育に強く密接に結び付けられているのである。」

実際、学校によっては特定の部活ができる先生を採用するというようなこともやっていると聞く。
本末転倒である。
リオのオリンピックで金メダルを輩出した水泳、柔道などはどちらかというと学校外のクラブ等でやっているのではないか。
学校単位でやるというのは、指導の点でも、やっている生徒にとってもいいことばかりではない。
才能のある生徒を集め、良い指導者が指導すればもっとうまくなれる。

高校野球のように、学校の宣伝のためにその競技を強くするというようなことも行われている。
これも本末転倒だと思う。
今大会で創部3年目で出場した高校もあったが、何度も優勝した監督を招き、何人かは県外から選手をスカウトしている。
要は設備と指導者、いい選手を集めれば勝てる。
ある種ビジネスになっているのだ。
でも、そのビジネスを学校の部活という隠れ蓑で隠し、主催者は美談に仕立てている。
もう学校とは切り離して、クラブチーム等でやったらどうか。
その方がピッチャー投げ過ぎなどの弊害がなくなると思う。

今の中学、高校に染み付いた「部活」というものを見直し、出直したほうがいい。
本来の教育をもっとちゃんとやらないといけないと思う。

そのためには、今回の適正化を厳格にやってほしい。

| | 考えたこと | 00:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
SMAP解散その2
SMAPの解散報道だが、ネットメディア以外は見事な管制状態だと思う。
ぼくは別にSMAPに思い入れはないが、ぼくのような素人でもネットで解散騒動を調べるといろいろと出てくる。
その中から、事務所の経営者一家とマネージャーの確執が出てきて、そのとばっちりを受けた形で今回の解散になった、ということは明らかだ。
でも、そこに正面から突っ込む既成のメディアはない。
普段大きなことを言って、何かあれば突っ込むテレビも、このことに関しては頬かむり状態。
何か言えばジャニーズ事務所からタレントを引き上げられ、視聴率が落ちるのが恐い。
だから、箝口令を敷いているんだろう。
そんなマスコミなら、ワイドショーなどやめてニュースでも流しておけばいいのだ。

ネットのおかげで、一般の人のほとんどは実態を知っている。
知っていて、突然のFAX1枚で解散を受け止め、それ以降触らないようにしているマスコミを見ている。
ワイドショーなど、芸能ネタで食っている人たちは情けなくないのか。
自分たちの生活を守ろうとするのはわかるが、権力に立ち向かうのがジャーナリズムだったはずだ。

SMAPの解散は事務所も予想しなかった反乱のためだと言われている。
それはそうだろう。
事務所はドル箱のグループを何とか維持したいと思っていたはずだ。
それを翻して解散というカードを切らせた。
おそらく、もう芸能界と縁を切ろうとしているメンバーもいるのではないか。

そういう事態になった責任は、事務所側にある。
ジャニーズを独立して、SMAPを引き連れて別の事務所を作ろうとしたマネージャーを徹底的に潰した。
それが全ての原因だろう。
日本のタコツボ組織の問題とも言える。

ぼくは別にSMAPが解散しても構わないが、国会議員までが解散は残念と言っている。
多くのファンが解散はしてほしくないと思っている。
それなら、マスコミはジャーナリズムの意地を見せてほしい。

舛添騒動の時も、政治資金規正法がザル法であって、それがこの騒動の原因だと追求しなかったマスコミの罪は重いと思う。
その罪を重ねるのか。

このままでは本当にマスゴミになってしまうぞ。

| | 考えたこと | 21:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
書くことの意味
何かの本で読んだが、書くことはビジネスの基本だという。
ぼくも、仕事=書くことと言ってもいいと思っている。
もちろん、書いてさえいればいい、というわけではない。
そんな仕事はなかなかないだろう。
それでも、仕事の基本だと思う。

書くのが商売の小説家でさえ、いろんなところに取材に行き、いろんな人に会い、いろんな経験をすることが必要だ。
営業マンなら、得意先に行くとか、新規の顧客を開拓するとか、まず動くことをしないと仕事にならない。
エンジニアも同じだ。実験をすることも大事だし、顧客や製造現場のことも知らないといけない。

でも、それら大事なことをするためには、何が必要かと考えると「書くこと」が出てくる。
書くことは考えることでもある。
だから、「仕事=考えること=書くこと」なのだ。
今の企業は営業なら提案営業だし、提案するためには考えないといけない。
相手が何を考えているか、何を必要としているのか、何が不要なのか…、仕事の大事な部分は動くことではあるが、動くためには考えないといけない。
そこができないと、ムダな労力を使うことになる。
パソコンに向かって、「顧客のニーズ」と書いて、それに続けてどう書くか。
そこを考えて書くことが、本当の仕事になる。

また、文系であろうが、理系であろうが、仕事には打ち合わせがつきものだ。
顧客との打ち合わせもあれば、関連部署との打ち合わせもある。
個人対個人であれば、電話をしても、そこには打ち合わせと呼べるものもある。
一方、みんなで話をすると会議という。
喫煙コーナーでのバカ話からもビジネスのヒントが出たりする。
問題はそれらをどう組織に伝え、自分の考えを組織に広げていくかだ。

それらの話をまとめて上司や同僚に伝え、関連部署に回すためには要点をまとめなければならない。
それが書くことだ。
まとめるために考えることでもある。
まとめなければ、書けない。

誰かが言っていたが、頭の中にあるのは漠然とした考えのカオスのようなもので、それが話したり、書いたりすることで初めて明確になる、ということだ。
考えていることは、アウトプットしないと明確にはならない。
そして、話し言葉は話し終わった瞬間に消えてしまうものだから、それを形にするためには書かないといけない、ということになる。
そこが書くことの意味になる。

20代は勢いで仕事ができるかもしれないが、30代になると書けないと仕事にならない。
それだけ、書くことは大事なことだ。

若いうちに練習しておいたほうがいい。


| | 考えたこと | 00:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
SMAP解散
SMAPが解散した。
解散しても、5人共事務所にとどまるという。
元はといえば、育ての親のマネージャーが事務所を辞めたこと。
またその元は、経営陣一家とマネージャーの確執だとわかっている。
5人共所属が変わらない形で解散するのは、苦肉の策だろう。
ジャニーズ事務所としては看板でもあり、ドル箱でもあるSMAPをバラ売りでもいいから持っておきたいということだ。

策略も噂されている。
一説によると、急転直下風に見せかけた情報操作があって、オリンピックの最中に発表になったという話もある。
たしかに、特集番組など組みにくいし、オリンピックの喧騒で最初の1週間は終わる。
実際に5人揃ってのコンサートや音楽番組への出演はもうできない状態だったらしいし、看板番組も視聴者を入れて撮ることができないほど雰囲気が悪かったらしいし、前回の独立騒動で実質的には終わっていたということだろう。

独立派だった中居以下4人のメンバーと、残留派だった木村の確執。
強大なジャニーズ事務所を敵に回して、芸能界で生きていくことができるのかという挑戦をするかしないか、ということだ。
勝つためには5人セットでの独立しか選択肢はないと思えたし、最初は5人一緒に独立の予定だった。
しかし、そこで一人木村が残留に変わった。
一説には嫁の意見だったという話もある。
唯一家族を持っている木村としては、安全な道を選んだのかもしれない。
あるいは、一人では食っていけない仲間を救おうとしたとも言える。
真実はその中間にあるのだろう。

サラリーマンのぼくとしては、事務所から独立して自分たちの力を試す道を選んでほしかった。
多くの日本のサラリーマンはそういう思いを持っているのではないか。
ジャニーズ対SMAPという図式を期待していたのだが…。

でも、それはそんなに簡単なことではない。
自分たちの生活がかかっているからだ。
一人でも食っていけると言われている中居と木村はいいとしても、他の3人のことを考えると、中居も木村も悩んだのだろう。
木村が裏切ったという説もあるが、彼は彼なりに仲間のことを考えた結論だったと思う。
コメントを見ていても、中居と木村はSMAPを存続させたいという思いは共通しているようだ。

ジャニーズ事務所の損害は大きい。
SMAP解散に伴う損害は90億円とも言われている。
5人集まってのコンサートもなく、CDも出ず、それでも日本最大のドル箱グループだったのだ。
その損害を最小にしようと事務所は動いている。

急転直下の解散にしたのは、ファンクラブの会費(入会月によって年会費を払う)をギリギリまで取るためだろうし、解散後の5人を事務所所属にするのも一人ずつのファンクラブに分割するためだと言われている。
実際、この6月のファンクラブ会報でも解散はしない、と言っていたらしい。
そのあたりに事務所のセコさが見え隠れする。

今年の12月末に解散して、来年の9月の契約更改までどういう処遇になるかだろう。
事務所にとどまって解散という手段を選んだのは、最大限の事務所への抵抗だったのだと思う。
でも、事務所にとどまっているのだから、事務所側はメンバーの仕事をなくしたらファンから敵視されるし、対応が難しいところ。
外野としては、ここの駆け引きが一番の見どころだと思う。

最前線でアイドル25年やってきた底力を見せて、40代中年の期待を裏切らないでやってほしい、というのが知り合いのジャニオタ女史の意見。

一番罪深いのは、事務所の社長一族だろう。
マネージャーとの内紛に所属タレントを巻き込み、ファンの事務所不信はだんだんと大きくなりつつある。
どこかで手打ちをするのか、それともこのまま突っ走るのか。

長らくタレントプロダクションで強大な力を持ってきたジャニーズ事務所。
その帝国を育てたのもSMAPなら、それを崩壊させるのもSMAPになるかもしれない。
初代社長が生きている間は何とかなるだろうが、亡くなった時がアブナイだろうなあ。

知り合いのジャニオタ女史はこんなふうに書いた。

「偶像崇拝でキラキラした人達に夢中だったはずが日々剥がれていくメッキの中身へのガッカリ感と、改めてSMAPの偉大さを知り、アイドル追いかけて現実を知り、我に返った2016夏です…。」

そういう思いの人は多いだろうなあ。

でも、まだSMAPはサラリーマンのヒーローになれるかもしれないぞ。

| | 考えたこと | 20:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
暮しの手帖
朝のドラマでは「あなたの暮らし」という雑誌の話をしているが、あれは実際には「暮しの手帖」という雑誌のことだ。
母がこの雑誌をずっと買っていて、机の上にあったのを小学校のころ見ていた。
ドラマにもあるように、戦後しばらくたっていろんな商品が出てきた時に、いろんな商品テストをやっているのが面白くて読むというより見ていた。

写真を多用して結果がわかりやすい構成になっていたから、小学生でも見るだけでほぼわかった。
今思うと、ホントに志の高い雑誌だったと思う。
時代もちょうどそれを求めていた。
今のように、社会にも企業にもCSR(企業の社会的責任)というような意識がなく、モノを作れば売れた時代だったから、粗悪な商品もあったんだろう。
いろんな家電製品をどんどんテストして載せていた。
ドラマに出てくる白黒写真が懐かしい。

主婦が、いろんな家電製品のどれを買ったらいいのかという情報を、的確に与える本だったと思う。
冷蔵庫や洗濯機という、「三種の神器」と言われた家電製品のテスト結果は興味深かった。
実際に洗って、どんな汚れがどれだけ落ちたかというような試験や、洗ったものの傷みのようなものも評価していたと思う。
試験するものは全部買って、実用的な試験項目で、全部自分たちでやっていた。
一切の広告を載せない、という独自の強みがあった。

今回、あの本がどんな経緯で世に出たのかがわかって、感慨深いものがある。

「暮らしの手帖」が出たおかげで、メーカー側はマジメに作るようになったはずだ。
大げさに言えば、あの本が日本の家電のレベルを上げ、メーカーを淘汰し、ものづくりの姿勢を変えたと思う。
特に生活に密着した白物家電。
あの本のおかげで、マジメなものづくりができた。

現代はモノがあふれ、価格競争もあり、「安くてそこそこのもの」か「高くて十分なもの」しか生き残れないという時代だが、あの時代はモノ不足で、作れば売れるという時代だった。
高度成長で、給料も増えて、購買意欲は高かったからだ。
製品に国際競争力をつけるという効果もあった。
そして各メーカーは研究所や部署を作り、自分たちで試験をするようになった。
それを促したのが「暮しの手帖」だったと思う。

Wikipediaによると、「暮らしの手帖」は2007年に商品テストを中止したとのこと。
ようやく時代が「暮らしの手帖」に追いつき、商品テストは役目を終えた。

日本の一時代を作った雑誌だ。

| | 考えたこと | 21:33 | comments(2) | trackbacks(0) |
バドミントン金メダル
今日は寝不足の人が多いはず。
昨日の深夜、オリンピック女子バドミントンダブルスの決勝の熱戦はすごかった。

高橋・松友ペアがダブルスで優勝。
この競技、日本初の金メダル。
デンマークのペアは身体も大きく、スマッシュの力は強かったが、日本の二人は力で勝ったというより、戦術で勝ったという感じだった。

素人目に見ても、あのデンマークの大きな二人は横に並ぶことはできても、前後に並ぶと前が見えなかったり、じゃまになったりするんだと思う。
だから、コートに横に並ぶ形の展開になる。
でも、日本の二人は小さいから前衛と後衛という感じで縦に並ぶ。
そして、後ろから高橋がスマッシュを打ち、松友が前で返球をさばく。
体格が大きいから有利とは限らない。

1対1で迎えた第3セットは手に汗握る展開。
21点マッチで、19-16になって、3点差をつけられて、もうあとがない。
あと2点取られたら、負ける。
そこから5点連続の得点で逆転勝ち。
終わった時には午前3時を過ぎていた。

勝った瞬間、高橋は涙顔になり、松友は笑顔になった。
この二人は対称的だ。
だからこそ強いんだろう。
ホントにおめでとうと言いたい。

その試合に先立って、シングルスの準決勝で奥原は惜しくも負けてしまったが、惜しかった。
3位決定戦の相手がケガで棄権して、銅メダルが確定。

女子バドミントン、いいゲームを見せてもらった。



| | 考えたこと | 22:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
笑いの効用
小説家の島崎藤村が「ユーモアのない一日は、寂しい一日だ」と言っていた。
あまりそういうことを言いそうな作家には見えないから覚えている。

一般的に、笑いと幸福感というのは結びついていると思う。
「笑う門には福来たる」ということざわはみんな知っているだろう。
ナチスに虐殺されたユダヤ人が収容されていたアウシュビッツでも、最後まで人間らしく持ちこたえたのはユーモアの精神がある人だったと言われている。
アドラー流に言えば、人は幸せだから笑うのではなく、笑うから幸せになる、ということだ。
それは真実だと思う。

笑うとがん細胞を攻撃するキラーT細胞が増えるという話もあるし、一般的な免疫力が増えるということも言われているはず。
健康の面からも笑うという行為はいいことだと思う。
一時よしもとが研究しているという話もあったが…。

ぼくがグーグルを信用しているのも、「邪悪になるな」という理想を掲げ、世の中に技術を広めて民主的になるのを情報によって助ける、という会社の方針を持っているからだ。
グーグルは社員に愛される会社になることによって、社員のモチベーションを上げ、実際に効果を出しているという。
創造的な生産性が求められる職場では、こういうやり方が行動経済学的にもいいと言われているらしい。
そこには遊び心と同時に笑いがあるんだと思う。
楽しい職場でないと、笑えないし、新しい知恵は出てこない。
難しい顔を突き合わせていては、できるものもできなくなる。

だからぼくは仕事は楽しくやるべきだと思っている。
それが結局生産性を上げる事になる。
もちろんロスもあるが…。

そのロスがあっても、余りあるメリットがあるとぼくは思っている。


| | 考えたこと | 21:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
電気自動車
「ベストカー」に電気自動車の記事があった。

国内の電気自動車の累計販売台数は7万台程度。
全部で8千万台程度あるうちの0.1%にも満たない。
それでも、いつかは電気自動車の時代が来ると思う。
ガソリンや経由を燃やして走るというエンジンのエネルギー効率が悪すぎるからだ。

今のガソリンエンジンはエネルギー効率でいうと20%程度。
ほとんどのエネルギーを熱として捨てている。
それに対してモーターは90%になる。
だから、電気自動車を増やさないといけない。

アメリカ、特にカリフォルニアでは政策的に電気自動車を増やしている。
テスラという会社が電気自動車を作っていて、パナソニックが電池を供給している。
来年末、発売予定のテスラモデル3というクルマは3万5000ドルという値段。
もう普通のクルマに近い値段になった。

記事によるとだいたい、普通の運転で、充電満タンしておけば、200キロ程度走れるらしい。
夏にエアコンをonにしてもそんなに落ちない。
それよりもヒーターのほうが効くらしい。

日産リーフは急速充電30分で容量の80%まで充電できる。
充電を繰り返すと、電池の容量が落ちてくるのは電気自動車も同じ。
新車時に8割の充電で130キロほど走れても、ヘタってくると100キロという感じらしい。

ミッション、というものは電気自動車には必要がない。
モーターは常に出力が一緒なので、回転数は関係ないらしい。
だから、アクセルを踏むと一気に加速する。

アメリカのユーザーに聞くと、電気自動車はガソリンスタンドに行かなくていい、というのがメリットというらしい。
なるほど、家で充電しておけば大丈夫。
これが想像以上にいい、という。

またメンテナンスにお金がかからない。
エンジンオイルは不要だし、ミッションオイルなどの油脂類はほとんど要らない。
今はパワステも電動アシストだったりするから、オイル不要だ。

ということは、整備工場はだいぶ潰れるということになる。
仕事が減るからだ。
これは大変なことだ。

内燃機関は複雑で作るのも大変だが、モーターは楽ちんだ。
もちろん変速機も不要になるし、マフラー等も要らない。
自動車産業に地殻変動が起こる、ということだ。
部品点数が大幅に減ることになる。

今から会社を選ぶなら、それも考えたほうがいいぞ。


| | 考えたこと | 20:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
女子バドミントン
今の中高年は、バドミントンというと単なる遊びという感じだったが、北京のオリンピックで「オグシオペア」という名前が有名になって、競技としてのバドミントンの認識が広まったと思う。
さらに、直前に男子のトップが賭博で出られなくなったりしたのも話題になった。

今回のオリンピックで、女子のバドミントンを見ていて、本当に日本のレベルの高いことに驚かされる。
そういえば、ラケットのヨネックスは今はテニスが有名だが、元はバドミントンのラケットの会社だ。
調べると、ぼくが生まれた年にラケットを開発している。

女子シングルスの奥原、山口、女子ダブルスの高橋・松友ペアともにとにかく強い。
勝って奢ることなく、淡々とゲームをすすめる姿勢もすばらしい。

なぜか女子バドミントンのトップ3人は、よく似ている。
とにかくポーカーフェイスだ。
メンタルな部分が大きいのだろう。
そして試合中はどんなに有利になっても、派手なガッツポーズなどほとんどないし、声も出さない。
それどころか、高橋・松友ペアは時に笑顔で、試合を楽しんでいるように見える。

今日見たシングルスの奥原は試合が始まるとき、何かをつぶやいて礼をしてコートに入る。
2015年の国際大会の時には「ここまで来られたことに、たくさんのサポート、ファンの皆さんの声に、すべてに感謝して、この舞台を楽しもう、やりきろう、よし!」とつぶやいたらしい。
それをルーティーンとしている。
そんなところも、オジサンにとっては好ましい。

ダブルスの高橋はどんどん強打で打つタイプだし、松友は前衛でテクニカルに攻める。
この二人のペアの対象的なプレイは面白い。
柔と剛という感じだ。
次は決勝。頑張ってほしい。

解説を聞いていると、体育館の中でも空調などの風の流れがあり、完全に無風ではないという。
さらに観客が入ると風の流れが変わり、コートの風上、風下を考えてプレイするらしい。
また時間の経過によって日当たりが変わると、それも風に影響する。
何気なく打っているような(そんなはずはないが)ラケットでも、力の入れ具合を細かく考えているとのこと。
世界のトップレベルだから当たり前といえば当たり前だが、すごく繊細なスポーツでもある。
だから、メンタルが大事で、常に冷静にプレイすることが大事なんだろう。

シングルスは強すぎて、ベスト8が日本人同士の対戦になってしまった。

知らぬ間に日本はバドミントン大国になっていたんだなあ。

ダブルス、シングルスともにメダルを取ってほしい。


| | 考えたこと | 23:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
男について2
男について2 文藝春秋社

アマゾンの中古で買った「男について2」というアメリカのコラム集を読んだ。
いろんな男性が、男について書いていて、少し古いが面白い。
ニューヨーク・タイムズに載ったコラムを集めたものだ。
1992年に日本で初版の本。
執筆者はだいたい50歳以上が多いと思う。
今はもう亡くなっている人もたくさんいるんだろう。

だいたい、どのコラムも1980年代の後半に書かれている。
フェミニズムが台頭し、伝統的な男性観が揺れ、男としての生き方をどうするのか、という時期だったと思う。

男女間の意識の問題について書いている男性も何人かいる。
ウォール街で3年間働き、10万ドル以上の貯金をして辞め、自分の好きなことをして生きている男性もいる。
ゲイでカミングアウトした男性もいる。
日本人に生花を習った男性もいる。
3人の娘を嫁に出し、義理の息子を観察している男性もいる。
イヌを飼っている男性もいる。
自分のガンや親の死を書いた男性もいる。

読んでいると、男というのは、理屈っぽくややこしいものだということがよくわかる。
小難しいリクツを後生大事に書く。
女性が読んだらバカバカしいのかもしれない。
そんなコラムが多い。

まだアメリカの価値観が今のようにぐらついていない頃だ。

理屈っぽさが、ある意味懐かしさにつながるようなコラム集だった。

| | | 20:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
ビーフジャーキー
ぼくが会社に入った頃(1980年代)、海外出張はまだ珍しいものだった。
当時の行き先は、アメリカかヨーロッパ。
自動車の輸出先だ。
アジアなどまだまだで、モータリゼーションが起こっているのは日米欧の3カ所だけだった。

食料品の輸入もそんなに進んでおらず、嗜好品などはなかなか入ってこなかった。
まだまだ円は弱かったんだろう。
時代としては日本が欧米のトップメーカーに追いついたのかなというところ。
それでも世界の壁はまだ厚いという感じだった。

当時、海外に出張に行くとなると、神戸の本社から伊丹空港に部署みんなで行って、壮行したのを思い出す。
行く方も「頑張ってきます」といい、送る方も「成功を祈る」などと言っていた。

その頃の土産の定番がビーフジャーキーだった。
ぼくがビーフジャーキーを初めて食べたのも、アメリカに出張に行った人の土産だったと思う。
へー、こんなものを食べているのか、と思った。
まだまだ珍しかったから、ありがたくいただいたものだ。
これは、西洋のスルメみたいなものか、と食べながら思った。
いろんなブランドがあり、テリヤキというようなものもあったと思う。
保存食だから、やけに塩辛かったのは事実。

今はアマゾンで検索すると、国内でも作っているようだ。
なつかしい輸入ブランドもある。
いずれもすぐに手に入るようになった。

80年代初頭に比べると、ずいぶんグローバル化したものだ。
大学生の話を聞いていると、海外に行ったことがない人のほうが少ないようにすら思える。
ぼくらの時代とはだいぶ違う。
ぼくは飛行機に乗ったのも、海外に行ったのも会社に入ってからだった(もちろん出張だ)。

今の20代の人たちの、海外に対するハードルは低い。
ぼくらの頃とは比べものにならない。
彼らがぼくらの年代になる頃にはどうなっているのだろう。

もうビーフジャーキーは土産にならないだろうが…。

| | 考えたこと | 20:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
トニー・ディノッゾ
10年間ほど毎週録画して見ていたNCISという海軍の犯罪捜査官のドラマがある。
シーズン13まで終わり、ずっとレギュラーだった俳優が役を降りた。
トニー・ディノッゾという役。

ドラマが始まった頃はまだだいぶ若かった。
捜査官の役。何度か死にかける場面もあった。仲間の死もあった。
役を終える頃には中年になった。

イタリア系アメリカ人の役。いつもジョークを言い、後輩をかわいがる(時にいたぶる)。
映画好きで、なにかと映画のシチュエーションにあてはめて話す。
元はたしか刑事で、海兵隊の出身ではなかったはず。
プレイボーイを気取ってはいるが、根はマジメな人間。
いつもしょうもないことを言って、ボスに後頭部をハツラれるという役どころだった。
彼がいることで、厳しいボスの元で捜査をするシリアスなドラマに、だいぶ明るさが付加されていた。

10年ほども毎週見ていると、そこそこ仲良くなる。
仲良くなると言っても、友だちになるわけではないが、彼の役の上での人間性や言動などわかるようになる。
もう役の上で彼を見ることができないのかと思うと少し寂しい。

このドラマ、海兵隊上がりのボスがいるドラマで、アメリカでは高視聴率を保っている。
志願兵を増やすためにも、こういうドラマが作られるんだろう。
決して仲間を見捨てず、助けるためには逆説的だが死を厭わない。
仲間を家族と呼び、やられたらやり返す、という精神。
それを何度もくり返し、確認する。
本国では13年続き、スピンオフのドラマも2本出来ている。
この手のドラマは手を変え品を変え、常に作られている。

これで最初からのメンバーはボス、科学捜査官、検視官の3人になった。
こうなると、いつ終わるんだろうかと思う。
主人公のボス役の俳優はもう64歳になった。
きっとここまで続くとは思っていなかっただろう。

ある種、アメリカの価値観を表したドラマ。

その名物男が一人去った。

お疲れさま。

| | 考えたこと | 23:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
社会科
今の高校の社会は科目が増えた。
世界史A、世界史B、日本史A、日本史B、地理A、地理B、現代社会、倫理、政治経済、と9科目もある。
同じ歴史や地理でも、AとBに分かれている。
今回、2020年の実施案が示され、世界史の必修がなくなり、歴史総合と公共というのが必修になるらしい。

ニュースによると、

 「高校では、「社会科」で必修の『世界史』を見直し、世界情勢の中での日本の立場や影響などを、近現代史を中心に学ぶ『歴史総合』という科目を新設する。また『公民』でも、18歳選挙権の実施などを受けて『公共』という科目を作り、模擬選挙などを通じて社会に参画する力を養う。」

ということだ。

日本人がアジアの周辺国を意識して、世界との関係の中で近現代史を学ぶというのはいいことだと思う。
内容については、いろいろ揉めそうだが…。

ぼくらの頃はたしか日本史、世界史、地理、倫社、政経の5つだったと思う。
高校の方針でいろんな履修の仕方があったが、3年間で一通りは習うようになっていたはず。
どれかを全く習わない、ということはなかった。
今は世界史と現代社会か倫理+政治経済のいずれかが必修で、それ以外に日本史か地理を1つ取ればいい。
自国の歴史を高校で学ばなくてもいい、というのはおかしな話だが、これには世界史の履修漏れの問題があっての処置。

総じて社会科という科目は、なぜそれを学ばないといけないのか、というところが一番難しいと思う。
わけも分からずいきなり教えても、覚えられないだろう。
それぞれの科目の意味を教えないといけない。
ひょっとしたら、教えてくれたのかもしれないが、忘れてしまった。

ぼくは社会に出てから、なぜ歴史が大事なのかということを本で読んで感心した。
そういう元のところを教えることが一番大事だ。
でも、いまのように社会化を細分化して教えるのはヨクナイと思う。

高校時代、倫社の授業はみんなの内職の時間だった。
先生もそれは仕方ないという感じで授業をしたと思う。
ぼくは入試は日本史で受けたが、倫社も政経も面白かった。
入試の科目ではないから、逆に興味を持てたのかもしれない。

どうせなら、社会総合という必修の授業を立てて、各科目を習う意味や、どういう関連性があるのかとかを教えたらいいと思う。
こういう科目は、興味を持たないと、入試が終わったらそれで一生オシマイになるのが通例。

世界はどんどん小さくなっていく。
グローバル化で世界に出ていく人も、世界から来る人も増えるだろう。
その人たちと話ができるように、教養を高めるという意味でも社会科は大事になってくると思う。

大枠で全体を理解することが必要だと思うのだが…。

| | 考えたこと | 23:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
小学校が大事
8月4日の日経産業新聞にびっくりする記事があった。
「ロボットは東大に入れるか」というプロジェクトで、東大入試を人工知能に解かせている、国立情報学研究所の新井紀子教授が書いている。

冒頭を引用すると、

『「仏教は東南アジア、東アジアに、キリスト教はヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニアに、イスラム教は北アフリカ、西アジア、中央アジア、東南アジアにおもに広がっている」

 オセアニアに広がっているのは何か。仏教、キリスト教、イスラム教、ヒンドゥ教の4つのうちから選ぶとしたら、正解はなんだろう。

 もちろん「キリスト教」だ。そんなことは字が読める人なら誰でもわかる、と思うかもしれない。しかし、それは幻想である。』

これは中学生が教科書の文章を正確に読めるかどうかの問題。
ある市の教育委員会の協力で実施したが、びっくりするのは正解の「キリスト教」を選べたのは全体の54%しかない、ということだ。

さらに、記事は続ける。

「分析を進めると事態は想像以上に深刻だった。約20%の生徒が、「サイコロを転がすのと同じ程度」しか正解を選べていない。うっかりミスをしたどころではなく、たまたま正解しただけに見える生徒が20%もいたのである。さらに肝をつぶすような事実も判明した。学年が上がっても「サイコロを転がす程度」にしか正解できない生徒が減らないのだ。」

間違えた生徒と、たまたま正解した生徒を加えると、なんと7割以上の生徒がこの文章が理解できないということになる。
にわかには信じられない結果だ。
でも、ちゃんと分析して出てきた結果なんだろう。

クチの悪い人なら、答えが直接書いてあるような問題、というだろう。
昔やっていた島田紳助のおバカ番組で出てきそうな問題。
それが本当にわからない生徒が7割もいる、という状況。

分析結果は「つまり、調査した全ての因子の中で、結果を左右するのは入試を経て中学校に入っているかどうか、だけだったのである。」と締めくくる。

事態は深刻だ。
文科省はこの結果をどう考えるのだろうか。
小学校でプログラミングを教えるとか、英語をやるとか言っている場合ではない。

「子どもたちの基礎的な読む力は小学校のどこかの時点で大きな差がついてしまうらしい。読める子は予習も自習もできるが、教科書が読めない子にとっては難しい。小学校から中学、高校へと進むに連れて学力差は開く一方となるだろう。」

ぼくは大学で就職支援の仕事をしていたが、その時に感じたのも、小学校がネックだということ。
割合、百分率がわからないということから始まって、負の数がわからない、分数、小数の計算などができないということだった。
ぼくが気づいたのは算数だったが、実際文章を書くことも苦しかったのは事実

実際、「民主主義の普遍性」ということについてレポートを書かせたら、何となくおかしなレポートがたくさん出てきて、よく聞いたら「普遍性」という言葉を単に「普通」と思って書いたという学生が多かった、という話も先生から聞いた。

新入生に語彙力テストをやったら、びっくりするような結果がでたこともある。

文科省は大学に「大学教育レベルではない授業をやっている」と文句をつける。
それは事実だし、ぼくもそれはよくないと思う。
しかし、それをやらなければ、おそらくもう学ぶチャンスはないのだ。
入れた方も悪いが、なぜそういう学生が中学校、高等学校を卒業できたのか、ということはもっと問題だ。

政治家や教育者、大学の先生も口をそろえて「教育は大事だ」という。
それなら、もっとこういう事実をわからないとダメだ。
大学の先生の半分はそういう事を知っているはず。
なぜ黙っているのか。
結局自分の研究ができればいいとか、文科省に睨まれるのが恐いということだ。

ぼくは、この結果をもっと真摯に見つめ、まず小学校でちゃんと教えるべきだと思う。

記事の締めくくりの言葉は全く同感。

「小学校では英語教育を充実させたり、高校ではプログラミングを学ぶ新科目「情報1」を必修にしたりする。対話を通じて「深い学び」を目指すアクティブ・ラーニング(能動的学習)も導入するという。

 だが、それより優先すべきことがあるのではないか。まずは、すべての子どもが、義務教育終了時に中学校の教科書を読めるだけの読解力を身に付ける。そのようなシンプルな教育目標こそ必要だと思う。」

その通り。
もっと文科省に働きかけてほしい。
| | 考えたこと | 20:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
ストラディバリウス
ストラディバリウスというと、バイオリンの名器。
イタリアの楽器製作者ストラディバリが作ったものだ。
高いものは10億円以上の値がつく。

でも、本当にストラディバリウスが「いい音」がするのか、は疑問だ。
それを証明しようとする実験が行われている。

2012年に行われた実験は本格的なものだ。
概要は以下。

・演奏者はトップクラスのバイオリニスト10人
・バイオリンの数は12台。(ストラディバリウス5台、18世紀イタリア製のバイオリン1台、現代の弦楽器製作家が作ったバイオリン6台)
・場所は音楽用のリハーサル室とコンサートホール
・演奏は2回 75分ずつ
・基準は「自分がコンサートで使うならどのバイオリンが一番いいか」
・演奏中は特殊なゴーグルをつけ、バイオリンが見た目で判断できないようにする
・自分が用意しているバイオリンも演奏可
・観客から意見を聞いたり、他のバイオリニストの演奏を聞くのも可

まず、お気に入りのバイオリン4台を選び、気に入った順に並び替えて、気に入らなかったバイオリンを指定する、という実験では現代に作られたバイオリンが合計26ポイントでトップになった。
最も評価が低かったのが、なんとストラディバリウス。
上位は、1位と2位が現代のバイオリンで、3位が黄金期のストラディバリウスだったとのこと。
今のバイオリンの方がいいという結果。

作られた年代を答えるという実験では、正解が31回、不正解が33回で答えが曖昧だったのが5回。

総合的な結果として、プロの演奏者は好みのバイオリンを選ぶことができるが、年代はわからない、ということだ。
現代のバイオリンの値段はストラディバリウスの1/100程度とのこと。

いつの時代も古いものにお金を出す人はいるが、この骨董趣味はちょっとひどいという結果。
17世紀から18世紀の楽器だから、300年ほど前の楽器。
できた時はもっといい音だったのかもしれないし、逆かもしれない。
一般にエイジングすればよくなると言えるが、保存状況にもよるだろう。
昔はエアコンなどないから、今よりも状況はヨクナイと思う。
その結果が現れたということか。

でも、日本でも有名なバイオリニストが家を売ってストラディバリウスを買ったりしている。
音の良さと骨董的値打ちは違うということかもしれないなあ。

Youtubeで高いギターと安いギターの弾き比べをやっていたりするが、あれは違いが明確にわかる。
いい音の定義は人それぞれだろうが、多くの人が値段の高いギターを選ぶと思う。
でも、そこそこ高いもの同士になると、あとは好みや弾き手の問題で意見は分かれるだろう。
だいぶ前に高石ともやがマーチンの年代物のギターを間違って持ってきてしまって、今日は保険無しで演奏します、と言っていたのを聞いたが、そんなに感激するほどの音はしてなかったと思う。
まあ、歌の伴奏だから、そんなものかという感じだ。

ある程度の値段以上なら、本人の思い入れ(自己満足ともいう)で決まるんだろう。
それにしても、ストラディバリウスは高い思い入れだということが証明された。

もちろん、思い入れだから、持っている人はこんな実験は意味がないのだが…。

| | 考えたこと | 23:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
チューニング・メーター
ぼくは中学2年の時からギターを始めた。
人より少し早かったので、何人かぼくにギターを教えてくれという人もいた。
ちょうど世間ではサイモン&ガーファンクルや拓郎、陽水の流行っている時期でもあり、駅から降りてくるたくさんの大学生がギターを持って通っていた。
フォークソングのブームだったなあ。

ぼくが教えた人は、どこでツマヅイたかというと、チューニングだ。
最初にチューニングをやって、それから教えるのだが、そこが難しい。
当時はチューニング・メーターというような便利なものがなく、耳で音の高さを合わせるしかなかった。
ギターという楽器は毎回音合せが必要だ。
相対的には、2弦の5フレットと1弦の開放、3弦の4フレットと2弦の開放、4弦の5フレットと3弦の開放、5弦の5フレットと4弦の開放、6弦の5フレットと5弦の開放、という具合に音の高さを合わせていく。
それが一応合った時点でコードを弾いて、響きを確かめる。
狂っているようならオクターブ違いの音を弾いて、合わせていく。
絶対値を合わせるなら、音叉でラの音(440Hz)を鳴らし、それと5弦の開放を合わせる。
2台のギターなら、片方のどこかの弦を弾いて同じ音に合わす。

この、同じ音に合わせる、というのができないとギターは弾けない。
というか、チューニングが狂ったギターで平気で練習できる人は、あまり音楽が向いていないと思う。

でも、ぼくが教えた何人かはそこでツマヅイた。
この音、同じやんなあ、と言われても返事に困るような状態の人もいた。
仕方ないので、代わりに合わせて、簡単なアルペジオを練習したりしたが、やっぱりチューニングがちゃんとできないと、音楽にならない。
それは弾いている本人もわかるのだろう。
だから、面白くなくなって弾かなくなる、という感じだった。

その、狂っていたら何となく分かるのだが、合わせることが難しい、という人たちがボーダーラインにたくさんいると思う。
別に音痴でもなく、歌も歌えるのに、最初のハードルが超えられない。
それでギターを諦めた人も多かったのではないか。

しかし、それをテクノロジーが救った。
安価なチューニング・メーターが出てきたのだ。
80年代半ばくらいには、数千円で買えるようになったと思う。
ぼくもそのころ買った。
その頃のものは、マイクで音を拾うか、エレキギターならシールドでつないで合わせるというようなものだったが、最近はクリップ式でボディの振動を拾って音を合わせる。
もう1000円しない。
あのころ、チューニング・メーターがあったら、ハードルを乗り越えられたという人たちが、還暦を過ぎてもう一度挑戦しているのかもしれないなあ。
80年代後半にバンドブームが来たのは、チューニング・メーターのおかげかもしれない。

チューニングは職人芸でもあり、どこかを合わせるとどこかがずれるというようなものだ。
それほど奥が深いのだが、メーターがあればとりあえず簡単に合わせることができる。
アマチュアなら、十分なレベル。
今は当たり前のように使われているし、だからこそバンドで音が合う。

テクノロジーがユーザーの裾野を広げるという意味で、ギター人口の増加にチューニング・メーターの果たした役割は大きいと思う。


| | 音楽 | 23:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
イチローの美学
今日コロラド・クアーズ・フィールドで、イチローが3000本安打を達成した。
見事な3塁打だった。
朝5時からやっている中継を録画して、8時前からその瞬間を見た。

アメリカ人はこと野球に関しては人種や国境を超えて応援する。
いろんな国からメジャーリーグを目指して選手がやってくるが、スゴイ選手はリスペクトされ、それなりに扱う。
アメリカ人にとって、野球場は神聖な場所であり、ベースボールはアメリカの国技だと思っている。
そして、国技を愛するものは誰であろうと尊敬する。
偉業を成し遂げると、敵地のファンもスタンディングオベーションで祝福する。
だからこそ、みんなメジャーリーグを目指すのだろう。

今日のメジャー3000本は日米通算安打数のようにややこしい記録ではないから、イチローも感無量だったのではないか。
打った後ナインから塁上で祝福を受け、チェンジになった。
ベンチの中でも握手攻めで、チームメイトが祝福する。
それが終わった後、ベンチの奥に一人座り、おもむろにサングラスをかけた。
あれはクールなイチローが、やっと3000本安打を達成できて泣いていたんだと思う。

中継では汗か涙かわからない、と言っていたがあれは涙だったと思う。
メジャーの長い歴史のなかでも、30人しか達成していない記録ホルダーになったという感動があったはず。
いくら数多くの記録を通過点だと言ってきたイチローでも、いろんな思いがこみ上げてきたんだと思う。

BSの解説も、あの涙の意味はきっと語られないだろうとは言っていた。
速報の記事では「3000という数字より、僕が何かすることによって、僕以外の人が喜んでくれることが、今の僕にとって何より大切なことだと改めて認識した」と言っていたとのこと。

あの涙の意味はきっとインタビューで語ったことだけではない。
きっとイチローにしかわからない、ここまでの人生の歴史の重みがあったはず。

それを語らないのがイチローの美学だと思う。

まだまだ頑張ってほしい。
リアルタイムでイチローの活躍を見られるぼくらはラッキーだ。

2016年8月7日は忘れない。

| | 考えたこと | 19:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
人口オーナス
今の日本の社会の課題の一つは、少子高齢化だ。
ぼくらが小さい頃は人口が増えていた時期だ。
これを人口ボーナス期という。
小学校の近くに川崎重工の団地がいくつも建って、たくさんの友だちもいたが、いつの間にか団地はなくなり広い敷地に高級マンションが建った。
あの団地は高度成長の象徴だったのかもしれない。

日本はこれから人口が減る。
少子高齢化というのは少産多死で、寿命が伸びた社会ということだ。
世界は豊かになっていっている。
先進国では豊かになって寿命が伸び、高齢化が進んでいる。
老後は社会保障制度で保証され(破綻しかけている日本もあるが)、子どもはそんなにたくさん要らない。
だから、少子化が進む。
そして働き手が少なくなる。
アメリカのように移民を受けいれている国はそうはならないが、そのために起こる問題もある。

日本のような状態を「人口オーナス期」というらしい。
オーナスは英語で"onus"であり、「重荷」とかいう意味だ。
「人口オーナス」は、人口の変化が経済にマイナスになるいう意味。
実際、先進国の中で日本の経済成長率は最も低く、ゼロに近い。
いくらアベノミクスで金融を緩和しても、経済を動かすのは生産活動だ。
それが減少傾向になっているのだから、既得権を破壊し、新たな成長を生み出すような規制緩和をするくらいしか、打つ手はないと思う。

例えばタクシー業界は痛手を受けるかもしれないが、Uberを認めれば65歳を越えても働ける人は増えるはず。
自分が持っているクルマをシェアして使うという、シェアリングエコノミーで年金を減らすことも可能だ。
一時的に既得権者が損害を被っても、より良い社会を目指すのが政治家の努めだと思う。
人口が減っている田舎などから、どんどんやっていくべきだ。
実際アメリカなどではもう一般的になっているらしい。

また、処方箋薬局は痛手を受けるかもしれないが、医療費抑制のために処方箋薬の通販を認めるとか、マイナンバーで個人がもらっている薬を管理し、飲み過ぎを抑制するとか…。

尊厳死についても、宗教界から意見を出すべきだ。
公明党など、創価学会という宗教団体がいるんだから、そういう議論をするべきだろう。
世の中の死に関するコンセンサスづくりをしないと、ブータンのように幸せにはなれない。
憲法で保証されている生存権には、人間の尊厳を保つために死ぬ権利も含まれているはずだ。

そういう時期に日本は来ているということだろう。
今はまだ豊かだ。
今の間にそういう事をやっていかないと…。


| | 考えたこと | 01:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
原爆慰霊祭
8月6日は広島の原爆投下の日だ。
学校に勤めているときは、車の中で音声だけ聞いていた。
毎年大規模な慰霊祭が開かれる。

知らなかったが、日本版のニューズウィークオフィシャルサイトに「トルーマンの孫が語る謝罪と責任の意味」という記事が出ていた。
今年の5月末の記事だ。
それを読むと、原爆投下の命令を出した責任を持っていた当時のトルーマン大統領の孫として生まれ、それを背負っている大変さがよくわかる。

原爆投下については、いろんな意見がある。
もう戦争は日本の負けだったが、それでもまだ本土決戦、と言っていた日本を早く終戦に導いたという意見もあれば、ロシアに対して原爆の威力を見せつけるために、無理な要求を出して終戦を遅らせ、実験的に投下をした、という意見もある。
記事にもあるが、真実はそれらの中間にあるんだろう。

ぼくはアメリカのやったことはよくないと思うが、それと同時に日本がやったこともよくないと思う。
だから、原爆について一方的にアメリカに謝罪を求めるのは気が進まない。
彼らのやったことは、一般市民を殺傷する戦争犯罪だが、日本だって同じような状況になればやっていたに違いない。
単に負けていたから出来なかっただけだろう。
彼らはジャップといい、ぼくらは鬼畜といい、お互いに人間だと思っていなかったのだから、お互い様だと思う。
被爆体験を伝えている方も、アメリカに行って「戦争で傷ついたのは、アメリカ人も同じだ」と言われて、返す言葉がなかったという。

あの当時、日本の軍部が日本に戦争への道を進ませたことは間違いない。
それに一部の政治家が加担した。

もう戦争が終わって70年も経つのだから、少しは風化して教えやすくなっているだろう。
今の風潮では、戦争は悪であり、してはならないというのが常識的な意見。
でも、それを実現するには戦争の経緯を学ばないといけない。

日本人として、あの戦争は仕方がなかったという意見もあるが、どう考えても、中国で勝手に戦争を拡大していったり、南方の戦線で兵站など全く考えない作戦を何度も実行したり、もう効果がほとんどない特攻をやったりした罪は、広く認識されないといけないと思う。
そういう歴史を総括してこそ、平和を目指すことができるのだろう。
今の平和をヒステリックに求める声などを聞いていると、心配になる。

日本は一方的に戦争を仕掛けて負けた。
戦争に巻き込まれたのではない。自ら戦争をしたのだ。
いくらでも避ける機会はあったのに、戦争に突入したということを知らないといけない。
あの戦争は、日本人がやりたくてやったのだ、という事実。
それを我々自身が反省しないといけない。
東京裁判で連合国はそれを裁いたが、それを日本人自身で裁かないとダメだと思う。
もう関係者はみんな亡くなっているのだから、歴史の上で裁くということだ。
そうしないと、いつまで経ってもあの戦争は終わらないのだと思う。

今年はリオのオリンピックの開会式と日が重なった。
見ていると、世界は平和なように見えるが、テロリズムや覇権主義などの緊張が高まっているようにも見える。

そういう思いを見つめなおす日が原爆慰霊祭。

| | 考えたこと | 18:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
幸せセンサー
日立製作所が働く人の幸福感向上に有効なアドバイスを、各個人の行動データーから作成する、という発表をした。
もちろん、今流行りの人工知能を活用している。
既に13社で実証実験をしたとのこと。

各個人の行動を調べるのは名札型のセンサー。
赤外線センサーと加速度センサーがついていて、対面情報(誰と誰がいつ会っているか)と身体の動きを記録するらしい。
人と会っているときは「話し手」か「聞き手」かなどもわかるらしい。
それらの膨大なデーターを人工知能が処理して、個人のスマホでアドバイスを行うという仕組みらしい。

記事によると、行動の多様性が幸福感とつながっているということだ。

「当社は、長期にわたって、ムードが悪くなったり、充実感を感じていたりする際に、人間がどのような反応をするかを大量に分析してきた。10個の組織、468人に幸福感に関する20個のアンケートを行った。アンケートを組織ごとに平均化し、その組織が幸せかどうかを数値化する。そして、468人にウェアラブルセンサーを長期間着けてもらい、体の動きを検知すると、行動の多様性が強いほど、組織での幸福感が高いことが分かった。」

本人も気づいていない、幸せな人に共通する無意識的で精密に決まっているパターンがあるらしい。

「具体的には、幸せな人は「短い動き」と「長い動き」が混じっていた。逆に、あまり幸せでない人は、バラつきが少ないことが分かった。1回動き出したら、10分くらい動かないとか。つまり、瞬間ごとの幸福感は分からないが、1日分のまとまったデータで「短い動き」と「長い動き」が混じりあっているかを見ると、その人や周辺の人々が幸せなムードに包まれているかどうかが分かる。」

ということだ。
無意識的な動きで判断するため、人工知能でアドバイスするまで1ヶ月の観察が必要とのこと。
何となく、ホントらしいような気がする。
センサーで取得したデーターとスケジュールを組み合わせて判断する仕組みだ。
会議がいつあるとか、誰と会ったかとか、そういうデーターを本人が入れないといけない。
でも、それは大事なことだと思う。

記事を読むと、どうやったら仕事をしていて幸福感が得られるかわかるようになるかもしれないと思う。
でも、それが必ずしも組織としてできるかどうかは別問題だが…。

上司が苦手な場合、上司が出張していたら幸福度が高い、という結果になるだろうし、その部署のみんながそういうパターンなら、上司が呼ばれて「君がいないほうがみんな幸せだ」と言えるんだろうか。
それがみんなを育てることになるのかもしれないし…。
人工知能で幸せを測ることはできても、どうやってそれを運用していくかが問題になるだろう。

幸せを測ってしまったら、それはそれなりに問題だろうなあ。

これからの会社は大変だ。

| | 考えたこと | 22:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
ミレニアルズ
アメリカの若い人たちを表す言葉に「ミレニアルズ」というものがある。
これは、1985〜90年代に生まれ、2000年以降に成人となった、現在の20〜35歳くらいの人たちを指すらしい。
現在のアメリカの人口は役3億人で、なんとその1/4を占める。
やっぱりアメリカは若い国だ。

その人たちがちょうど大人になった頃に、アメリカはリーマンショックをはじめとする不況を経験した。
その影響をもろに受けた世代だ。
今のアメリカの若い人たちにとっては、「アメリカンドリーム」が失われ、その象徴であるクルマと家を持たない人が増えているらしい。

記事によると、22〜24歳のミレニアルズ世代は77%しか運転免許を持っていない。
あの広いアメリカで、クルマを持たないという選択。ちょっとびっくりした。
1983年には22〜24歳の93%が免許を持っていたが、2008年に82%に減って、2014年に77%になった。
いずれ生活のために持つのかもしれないが、この減り方はスゴイ。

実際にクルマを持っている若者(詳細の年齢は不明)が2007年に77%で、それが2011年に66%に減っている。
同時に家を持っている若い人も40%から33%に下がっているらしい。

最大の理由はお金がないことだという。
アメリカの大学はお金がかかり、アメリカでは18歳を超えたら親は面倒をみないのが一般的だから、ミレニアルズの人たちの9割が日本円で400万から500万円の借金を返しているのが現状とのこと。
それじゃあ、クルマは買えない。
卒業と同時にクラウンを頭金なしのローンで買ったようなものだ。

またお金がないから、結婚が遅れ、家を持たない。
ミレニアルズの結婚率はたった26%らしい。
アメリカの団塊の世代であるベビーブーマーが46%、1960年代〜70年代生まれのジェネレーションXが36%だったから、約50年で下がり続け、約半分になったということだ。

ミレニアルズが経済格差の是正を全面に押し出した、民主党の左派のサンダースを応援した理由はここにあるんだろう。
今の権力の中枢にいて、格差の上の方にいるヒラリーには反感を持っているのだ。

ただ、クルマや家が欲しくても買えない、ということだけではないという。
それに変わる価値観が出てきたということらしい。
ミレニアルズはスチューデントローンで苦しんでおり、そのせいで卒業して親の家に戻る事が多い。
親との同居は「恥ずかしい」という感覚はなくなってきているからだ。
ぼくの見ているアメリカのドラマでも、大学を出て家に帰ってきている娘や息子が出てくる。
そういう時代なのだ。

そして、スマホが出てきた。
ミレニアルズの85%がスマホを持っており、過去5年間に3回機種を変えている人が6割。
5年間にスマホにかけたお金は1人平均で1593ドル(通信費は入らない)。
そして、7割の人が常に最新機種に交換するプログラムに入っているということだ。

スマホがあれば、顔を見ながらチャットもできるし、離れていてもオンラインゲームができる。
テクノロジーがクルマで移動する距離をなくしたということか。
だから、親の車をたまに借りるので十分らしい。
Uberという安いシェアリングサービスもあるからなあ。

70年代のアメリカンドリームというと、郊外の大きな家に住み、アメ車に乗ってショッピングモールに行く、というようなものだったが、ミレニアルズは違う。
郊外などには住みたくない。
便利な都会がいいのだ。

記事には「レストランやスーパーマーケットも歩いて行ける距離にある、友だちも近所に住んでいる、そんな都市型のライフスタイルを望んでいるのです。一方で全米の地方都市の再開発が進み、郊外よりも都市のコミュニティのほうが成長する現象は1920年代以来とも言われています。都市なら公共交通機関が整備されているから車は必要ない、また住まいも自然とレンタルのアパートが多くなります。その結果レンタルマーケットが活況を呈し、家賃も上がっています。」とある。

日本でも同じような感じだ。
若者のクルマ離れが起こっている。
昔ならなけなしのお金で頭金を作り、車を買っていた層が今はスマホの通信費でローンなど組めない。
もともと都会にいて、クルマが必要ないという考えもある。

ミレニアルズの時期は日本でもバブルが崩壊し、不景気だった。
アメリカと日本が連動しているのがよくわかる。

ミレニアルズが2011年に「ウォール街を占拠せよ」というムーブメントを起こした。
1%の富裕層がアメリカを牛耳っているということに対する抗議行動だった。
それ自体は勢いを失ったが、それらの若者は今回のサンダース支持に動いた。
サンダースは民主党の大統領候補を降りたが、ヒラリーも無視はできない。
それだけミレニアルズの声は大きいのだ。

日本も高齢化に伴う世代間格差は大きい。
1945年生まれの70歳の世代は、年金を払った分の5.2倍を受け取り、今の30代は2倍程度になるという。
もちろん、かなり甘めの試算結果だ。いろいろと数字のマジックがあって、現実にはもっと若い世代には厳しくなる。
そんな状態でも、日本の若者は声をあげない。
選挙の争点にもならない。
右から左まで格差が問題というが、選挙で大きな票を持つ高齢者におもねり、若者に肩入れする党はないのが現実。
資本家対労働者というより、年寄り対若者なのだ。
そういう事実を意図的に隠している。

これは教育の成功なんだろうか。
それとも失敗なんだろうか。

18歳に選挙権を広げたのはいいことだが、そういう問題を社会が抱えているということを教えなければダメだと思う。
安保や憲法だけでなく、経済格差や年金の問題を伝えていかないといけない。
年金の問題は政治イシューではないから、事実を伝えればいいのだ。
医療も同じ。今の状況をちゃんと伝えればいい。

その上で、若者に判断を任せよう。
それは教育者の義務でもあると思うのだが…。



| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
専門職業大学
5月に中央教育審議会が新しいタイプの大学を創設するように答申したとのこと。
新しいタイプ、というのは以前書いた記事で「新しい大学」と言っていたもの。
名称はまだ未定だが、「専門職業大学」みたいなものになるようだ。
2017年度の概算要求で設置認可の支援策も織り込まれるかもしれない。

これらの対象は下位の大学。
どちらかというと、定員割れをしているような大学や、これから経営が危ぶまれる小規模私大などだろう。
あまり中位や下位の大規模な私大は考えていないと思う。
大幅な教員の入れ替えが伴うから、なかなかできないだろう。
新設学部を専門職業大学、という扱いにするところは出てくると思う。

そもそも設置の要件が今までの大学とはだいぶ違う。
記事によると、こう書いてある。

「4年制(大学)、2・3年制(短大)の2種類の修業年限があり、4年制では前・後期制も導入して、編入学や「社会人の学び直し」をしやすくします。産業界や地域と連携したカリキュラムを組み、卒業単位のおおむね3〜4割以上を実習等に充て、とりわけ企業内実習等を2年間で300時間以上、4年間で600時間以上、実施するよう義務付けて、事業の現場の中核を担う人材を養成するのが目的です。そのため専任教員のおおむね4割以上は、企業関係者などの実務家教員とします。職種としては、IT、観光、農業(いわゆる第6次産業化)などの「成長分野」が期待されています。

専門学校からの転換の他、大学・短大が一部の学部・学科を転換して併設することも可能にします。ただ、財政措置に関しては、既存の私学助成の枠組みに含めることに私大関係者の反発があり、答申でも「相応(ふさわ)しい支援を行っていく」という抽象的な表現にとどめています。」

企業内実習を4年で600時間以上、というのがきついだろうなあ。
一日7時間として、90日程度。1ヶ月の稼働を22日とすると4ヶ月以上になる。
学校全体でやるには、かなり小規模でないと人数的に受け入れ先を探すのが大変。
だからこそ、大学なら1年目に当該業界の基礎知識を徹底的に学習させる必要がある。
そのうえで、今流行のインターンシップみたいなことを長期間でやる。
既存の学部と違って、就職先が見えるので、人気は出るだろう。
農業なら過疎地で困っているところなど、年間を通じて若い人が来るとなるといいかもしれない。
6次産業化、ということならちょっと難しいが…。
ITは忙しいから、なかなかインターンを長期で受け入れできないだろう。
観光もホテルなどは無償なら受け入れてくれるかもしれない。
しかし、人数分の実習先の確保が難しいだろうなあ。
地域の商工会議所などとタイアップというのはあり得る。

ただ、専任教員の4割以上が実務家教員というのが、既存学部学科からの転換となるとシンドイところ。
今いるアカデミックな専任教員をだいぶクビにしないといけない。
そこが一番のハードルだ。
まあ、中教審でG型大学、L型大学を主張した富田氏は、今のアカデミックなやり方をL型大学では止めるべき、という立場だったからなあ。
経済学よりも簿記を教えよう、という感じだったはず。

ぼくもこの案には賛成だ。
大学で実用的な知識、スキルを教えて、実際に学生時代にある程度のまとまった就業経験をすることは、アルバイトに明け暮れるよりよほどマシ。
下位の大学の学生は6割以上アルバイトやっているのだから、それをインターンに変えればいい。
そして補助金をもらって、それをちょっとした給料にして学校が払えばいいのだ。
そうすれば就職もイメージが湧くし、その分野に行かなくても働くことに対するハードルは下がる。
実際、2週間程度のインターンに行った学生の就職率は有意に高かった。

苦しい専門学校や短期大学は転換するかもしれない。
苦しい大学も転換はあるとは思うが、まあ、学部単位や学科単位だろうなあ。
でも、それで大当たりすれば、大学業界は右に倣えで大きく動くかもしれない。

大学教員にとっては受難ということにはなるが…。
でも、増え過ぎた結果、揺り戻しが来たということだ。



| | 考えたこと | 23:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
自動運転レベル2
交通事故はクルマが起こすのだが、その言い方は正確ではない。
原因は、運転している人間のほうが圧倒的だろう。
シートベルトやエアバッグなど、乗っている人を守る仕組みはここ十数年で増えた。
でも、歩行者を守る仕組みはあまり増えていないのが事実。
そこをやろうとするのが、自動運転だと思う。
人間は間違いを犯すものという前提に立っている。
それは多くの場合正しいと思う。

目の代わりになるセンサーや、その情報を判断できるコンピューターの能力が上がり、そこに人工知能という「考える」ことができる仕組みができて、ようやく人間が運転するよりも安全に近づいてきた。
今や人間がクルマの運転を見張っていれば、安全に走ることができるようになってきた。
でも、複数のレーダーやカメラを積んでいくと、コストが上がる。
これを安く実現するのがいつになるか、というのが今の課題だろう。

でも、これをカメラ一つの情報でできる、というのが日産。
この夏に出すセレナにこの技術を搭載するという。
単一車線でステアリング、アクセル、ブレーキを制御するという。自動運転レベル2だ。
今のぼくのクルマでも、高速道路ではほぼできているが、それを一般道にまで拡大したということだ。
だから、歩行者の飛び出しとか、信号の判断、路側の自転車などへの対応が入る。
実用上、ここまで自動になったらもういいのではないか、と思えるレベルだろう。
VWのゴルフもその機能を持っていたはず。

搭載するのをカメラ1台におさえ、コストを下げた。
イスラエルの画像認識用のチップを搭載するらしい。
工夫されているのは、自動運転をどういう時に解除して人間に任せるか、というところ。
逆光や濃霧の時や、雨が降ってきてワイパーをONにしたら自動的に解除される。
さらに、人間がハンドルに手を添えていないといけないらしい。
このへんはホンダと同じだ。
一番便利なのは渋滞の時だろうが、クルマが停止して何秒か経つと解除されるとのこと。
まあ、勝手に動いたら困るからなあ。

スバルもアイサイトの次のバージョンアップで同様のものになるらしい。
おそらく、どのメーカーも同じようなシステムを搭載していくのだろう。
問題はシステムの信頼性と安定性、そしてコストだと思う。
だから、日産はカメラ一つでの動作にこだわった。

こうなると、クルマという商品のキーデバイスは車の「目」にあたるセンサー(レーダーやカメラ)や、その信号を画像処理して判断するチップになる。
それらの技術を自社開発しようとして、トヨタは子会社をシリコンバレーに作った。

このへんの成長分野を日本の会社もやってほしいと思う。
できれば、日本国内で。


| | 考えたこと | 19:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
ゆったりと歌う
こないだからレッスンの時間が1時間早くなった。
今までは9時からだったが、8時からになって、行く前が忙しくなった。

前々回から、"I wanna be loved by you"というモンローの映画でお馴染みの曲をやっている。
歌があって、2コーラス目がソロなのだが、そのソロのアドリブが難しい。
ソロのコツは、細かいコード進行にとらわれず、大きな流れでやること。
そして、コードの響きを感じてゆったりと歌うように弾く、ということ。

忙しく弾くのではなく、ゆったりと歌うように弾くのが難しい。
まず最初はコードを弾いて、実際に思いつくメロディを歌う。
ドゥードゥ、ディーダ…というような感じ。
もちろん、メロディーをも感じながらだ。
それをギターで弾く。

ゆっくりとコードを感じながらメロディを作って弾くのは、気持ちがいい。
自分がちゃんとコードに乗っている、という感じ。
そこがちゃんとできると、もう少し短い音符でスケールを意識してつないでいくことができる。

このコードではこのスケールが使えるということがわかると、どうしても機械的にスケールをつないでいこうとしてしまう。
それでは面白くない。

ゆっくりと歌うように弾く。

これができたら一人前。

| | 考えたこと | 23:47 | comments(0) | trackbacks(0) |