考えたこと2

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倫理社会
毎日、高校の履修漏れのニュースが出ている。
その中で、倫理社会をやっていない…というような記事が出ていた。

倫理社会…懐かしい科目だ。僕にとってはすごく思い入れがある。

高校3年の時、倫理社会の授業が週に1時間あった。
その時間は、ほとんどの生徒が内職をしていて、あまり聞いていなかった。
(註:内職とは授業中に他の科目の勉強をすること)

そんな状態だったから、今も昔もあまり状況は変わっていないのかもしれない。

僕らの倫理社会の授業は特別だった。高校3年を終わって、倫理社会の教科書は新品のままだった。
教科書を一度も開かなかったのだ。
O先生が担当だったが、この先生は1年間かけて、伊藤仁斎、荻生徂徠、本居宣長の3人の儒学者・国学者について、プリントを配って、ひたすら読むという授業をやった。

どういうわけか、この授業が面白くて、儒教、朱子学、陽明学というような言葉をこの時に覚えて、何冊かそれについて書いてある本を買った。
意味がわからなくても、とにかく読むという、そんな授業だった。

O先生は、みんなが内職をしていても、おかまいなしにプリントを解説していた。
僕は、時々配られるプリントを、そんなに大まじめではなかったが読んでいたし、授業中は先生の解説を聞くのが楽しみだった。
だから、倫理社会の授業は、マジメに受けていた。
O先生はすごくいい先生だったと思う。
テキストを読む、という事を教えてくれた。

この話には、おまけがある。
その、倫理社会でやったプリントのテキストが入試の国語の問題に出たのだ。
きっと難易度の高い問題だったと思う。
僕は2行ほど読んで、あれ、これ知ってる…と思った。

本当にラッキーだった。

入試が終わって、高校に行ったとき、僕は職員室に行って、O先生にそのことを伝えた。
先生は少しうれしそうな顔をして、「結果が出るまで寝ておけ」と言った。

僕が番狂わせで合格したのは、O先生のおかげだったのかもしれない。

教科書は一度も開かなかったが、今となっては、あれが本当の勉強というものだった…という気もする。

そういう先生に出会えたのは、本当に運がよかった。

倫理社会という言葉をみると、今でもそのことを思い出す。

| | 考えたこと | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
新品を買った方が…
バブルが崩壊して、デフレと言われた時期があった。
今もそうなのか…。

デフレだから、オカネの価値が上がって、モノの値段が下がった。
たしかに、100円ショップで何でも買えるし、特に家電製品やパソコンなど、すごく安くなった。

10年ちょっと前から聞くようになった言葉がある。
何かが壊れて、修理に持っていたら、「新品を買った方が安い…」、これだ。

ある時期から、特に家電製品がよく壊れるようになった。

昭和30年〜40年代のソニーのトランジスタラジオなど、10年経っても壊れなかった。
テレビのがちゃがちゃ回すチャンネル(といっても、わからない人もいるだろうが)は、壊れたが、部品をかえれば直った。

たいがいのものは、修理して使ったのだ。

最近では、ラジカセの音が出なくなる、ビデオの画面が出なくなる、プリンタで印刷できなくなる…いろいろと壊れるが、修理に持っていくと、まずはざっと見積もってくれて、「新品を買った方が安い…」という話になる事が多い。

どうも、おかしいと思う。

新品を買った方が安いということは、モノの値段に対する人件費が下がったことが大きな原因だろう。
修理という仕事には、壊れている箇所を探す、という作業が必須であり、それにはノウハウが必要だ。だから、機械的にはできない。ある程度の経験を積んだ人がやらないと、壊れているところがわからない。
そして、部品を交換する事が必要だ。
これも、壊れた部品だけを変えるとなると、かなり熟練された人がいるだろう。

だから、モノの修理代は人件費で決まる。

新品を買った方が安い、ということは、新品は人件費が安いということになる。

家電製品がよく壊れるようになったのは、日本の家電メーカーが海外工場から輸入を始めてからではなかったか…。

だから、値段が安くなったし、壊れやすくなったと思う。(別に海外工場に偏見を持っているわけではない。自分の経験からそう言えるという事だ。)

以前、ビデオデッキが壊れたときに、ヘッドの交換で2万円ほどかかるといわれた。
新品のデッキは、安いのが1万円台である。
実際にそうなのだから、仕方がない。

もちろん、設計技術や材料技術が上がって、安く作れるようになった、という要因もあるだろう。

しかし、人件費が安くなったことの方が大きいと思う。
何となく、しっくりこない。

今や、日本の工場で作っています、ということが宣伝になる時代になった。
僕は、少し高くてもいいから、日本でたくさんのモノを作った方がいいと思う。
それらは、壊れにくくて信頼性が高く、壊れても、新品より安い値段で修理ができ、いつまでも使えるものであってほしい。

そういうモノづくりができて、そんな会社が利益を得られればいいと思う。


| | 考えたこと | 23:45 | comments(4) | trackbacks(0) |
夢をたくさん見る人もいれば、ほとんど見ない人もいる。
僕はあまり夢を見ない。

実際には誰もが夢を見ていて、覚えていないだけだ、という事をどこかで読んだ。

そうなのかもしれない。

夢を記録するために、枕もとにノートを置いておいて、夢を見たら、起きて書き付ける、という話も聞いたことがある。
やった本人によると、なぐり書きで、ミミズが這ったような字だが、それを見ると思い出せる…という。

夢は起きている間に、無意識に追いやられたものが、寝ているときに意識の中に進出してきてイメージ化されたものだ、ということになっている。
フロイトが発見した、無意識というヤツだ。

どうして夢を見ないのだろうか…。
どうして覚えていないのだろうか、というべきか…。

誰でも無意識に対して、フタをして生きているのだが、そのフタが頑丈なのだろうか?

フタが頑丈ということなら、結局は心の領域が狭いという事になるのかな…。
イメージの世界が狭いという事なのかもしれない。

そうなると、夢をあまり見ない人は、鈍感という事にもなるのだろうか…。

どっちがいいのかはわからないが、何となくたくさん夢を見られる人の方が好ましい気がする。
ないものねだりかな。

寝ているときの夢はさておき、現実上の夢となると、年とともに小さくなる。

誇大妄想はよくないけど、いつまでも夢を持って生きていけたらいいと思う。

そうするためには…、よく考えて生きることか。

「考えたこと」などというタイトルをつけて、雑文を書いてきたが、そんなに考えているわけでもない。
ただ悩んでいるだけの事もある。

自分を乗り越えるために、よく考えよう…。



| | 考えたこと | 00:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
とりあえず
テレビの宣伝で、「とりあえず、ビール」というのがあったと思う。
あれはビールの宣伝だったのだろうか…。

仕事をしていて、よく出てくる言葉が「とりあえず」である。

思考放棄のバターンだ。

考えるのが面倒になっているから、「とりあえず…」という事になる。

「とりあえず…」ではなく、「…だから、…する」というふうにならないといけない。

でも、今日もたくさんの「とりあえず」を使ってしまった。
思考放棄をしているわけだから、だんだん後にこたえてくる。
どこかで、本当に考えないと、「とりあえず」の爆弾が爆発してしまう。

少しずつ、方向が違っていても、その時はわからない。
最初の「とりあえず」はそんなに狂ってはいないんだろう。
でも、毎日毎日「とりあえず」で仕事をしていると、知らぬ間にエライ事になっている。

あ〜あ、とため息をつくくらいなら、「とりあえず」をやめればいいのだが、追いつめられて、それもできない。

明日こそ、ちゃんとしよう、と思いつつ、今日は終わる。

とりあえず、寝よう。


| | 考えたこと | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
SG-1000
22歳で就職した。

給料をもらって、親に何か買ったというような覚えもない。
親不孝だったか…。

24歳の時に、当時の自分としては大枚をはたいて、エレキギターを買った。
それがSG-1000というヤマハのエレキギターである。

当時、高中正義というギタリストがいて、ファンだった。
何枚かLPを持っている。
高中正義は、SG-2000というモデルを使っていて、これは20万円だった。
当時の国産のギターでは最高峰だった。
ギターのボディとネックの部分が一体になっているのだ。
スルーネック構造といって、それだけ大きな面積の木材が必要だから、当然値段も高い。

その一つ下のモデルがSG-1000である。

ボディが一つの木材ではなくて、三つの木を貼り合わせて作っているのが一つの特徴である。
ボディが厚くて、すごく重い。

左右対称で、きれいなデザイン。
色はブラウン・サンバーストといって、中央部が茶色で、縁の部分が黒になっている。
調べてみると、今でも作っているんですね!(でも、値段は倍になっている!)

http://www.yamaha.co.jp/product/guitar/column/eg/col05103101/003.html

買ってから25年。
毎日のように弾いた頃もあったし、じっとスタンドに立っているだけの時期もあった。
子どもが小さい頃は、部屋の奥の方にしまっていたなあ。

何度か大手術をしている。

音が合わなくなって、ブリッジの位置を変えてもらい、古くなったパーツを全部交換して、きれいにしてもらい、最近ネックとフレットをリペアしてもらった。

いくつかのギターがあるが、このSGが一番の古株である。

今日、西日が差す窓のそばのSGを眺めていて、おじいさんの古時計ではないが、この25年間、ずっとそばにいたなあ、と思った。

最近は、レッスンにも持って行くようになった。
とにかく、重いのだが、ここまでくると、もうモノではない。
長い歳月をともに過ごした仲間という感じになる。

リペアしてもらった楽器屋さんがすごく上手なので、25年の歳月を感じさせない。年をとった僕よりも、若々しく感じる。

そこここに傷があるが、それも歴史だ。

年とともに、モノに対する執着がなくなってきたが、こいつには逆に執着が増えている。

別に名前をつけているわけでもなく、特に意識していたわけでもないが、気がついたら25年経っていた。

ここに来て、25年…。

今日の夕方、夕日をあびて、ギターが話したような気がした。




| | 考えたこと | 01:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
時間旅行
もしも、不思議なヤツが現れて、過去のどこか1カ所だけ、見せてあげよう…と言われたらどうしようか、と車の中から夜空を見ながら考えた。

大きく分けると、選択肢は二つ。

大きな視点で考えるか、自分に関係のある事で考えるか…。

大きな視点で考えると…

この際、恐竜が闊歩していた時代を見てみたいなどという思いはやめておこう。
恐竜が滅んだ原因となったという、小天体の衝突というのも、あきらめよう。
僕が見たからといって、どうなるものでもない。

太陽系の誕生というのも、見るとなると万単位の年数がかかりそうだし、ちょっとシンドイ。
宇宙の誕生といわれているビッグバンというのも、時間にすれば一瞬みたいだから、あっけないだろう。
パンゲアという、今の5つの大陸の元になった一つの大陸というのも興味があるが…見てもどうにもならないし、と思う。

本能寺の焼き討ちとか、紫式部の顔を見てみたいとか、そんなのもある。
ピラミッドを作っているところなんかも面白そうではあるが…。

絶対見たいというものがあるかといわれると…難しい。
年をとってきて、知的好奇心が衰えてきた。

自分が関係した時となると…

自分が生まれたとき…これもなあ。
写真が残っている、幼稚園の学芸会、これもバツ。

すごくうれしかった瞬間を選んで、見に行くというのはアリか。でも、選ぶのが難しい。

こっちの方も、絶対これ、というのはなさそうだ。

結局、今あること、それがすべてだと思う。

今あることの不思議に比べたら、過去はそれほどでもないということか。

もしも、不思議なヤツが現れて、過去のどこか1カ所だけ…と言われたら、そいつに、君ならどこに行きたいのか?と聞くことにしよう。

それが一番良さそうである。



| | 考えたこと | 01:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
メジャーとマイナー
メジャーとマイナーというと、昨今では大リーグの話かと思われるが、そうではない。

メジャーは大衆的、マイナーはマニアック、という意味もあるが、そうでもない。

音楽の長調と短調のことだ。

もとの音に三度ずつ音を積み上げていく。
最初の音がドだとすると、ミは長三度で、ドミソはメジャーの和音になる。
ミを半音下げたミ♭にすると、これがドに対して短三度になり、ドミ♭ソになると、マイナーの和音になる。
コードでいうと、Cがメジャーで、Cm(シーマイナー。センチメートルではない)が文字通りマイナーの和音になる。
一般的にはマイナーのコードで始まる曲は短調、メジャーのコードで始まる曲は長調になる。

どんな曲がマイナーでどんな曲がメジャーかというと…。

ピンクレディの曲は、マイナーが多い。「ペッパー警部」や「UFO」、「サウスポー」、「ウォンテッド」、「カルメン77」など。
キャンディーズはメジャーの曲が多くて、「年下の男の子」や「春一番」など、明るい。
ユーミンでは、「埠頭を渡る風」や「あの日にかえりたい」がマイナーで、「やさしさに包まれたなら」や「12月の雨」、「ルージュの伝言」などがメジャーである。

メジャーの曲は明るい響き、マイナーの曲は暗い響きである。

ずっとそう思ってきたが、考えてみると不思議なことだ。

僕にとっては、実際に長調は明るく、単調は暗い。小学校や中学校の音楽の授業でもそう習った。
小学校の音楽室で、先生がドミソとラドミの和音を、こっちが明るい感じ、こっちは暗い感じ…と弾きわけてくれて、ごく自然に「その通りやなあ」と思ったし、その時から印象は変わらない。

君が代はマイナーでちょっと暗い感じだし、アメリカの国歌はメジャーで明るい感じがする。
本当にそう感じるのだ。

しかし、明るいとか暗いとかいうのは、主観の問題だろう。

そういう風に教えこまれて、明るい、暗いを決めたわけではない。それが、不思議だ。
誰もがそう感じるのだろうか。

文化が違えば、違うかもしれない。
インドの音楽やイスラムの音楽を聴くと、短調なのか長調なのかわからないものもある。
浄瑠璃の三味線などは、短調っぽいが…詳しくはわからない。
西洋音階でいう、三度の音がもともとない音階になると、長調・短調の区別がつかなくなるのかな…。

しかし、ドレミファソラシドで作られた音楽でいうと、長調は明るいし、短調は暗い。

一体、誰が決めたんだろうか…。

人間の脳の奥深い部分に、イブの時代から刷り込まれたものがあるのだろうか。
それとも、所詮はここ数百年の産物なのだろうか。

ひょっとしたら、音楽の授業の時に、マイナーの曲を聴いて、「どこが暗いねん…」と思ってた人もいるのかもしれない。

自分の気持ちさえわからない自分だから、自分の感性に自信がない。

メジャーとマイナーというのは、はたして人類の共通言語なのか…。





| | 考えたこと | 10:56 | comments(2) | trackbacks(0) |
イヌとネコと少子化
近所にノラネコが多い。
ウチにも入ってきて、トイレがわりに使われたりするので、イヌに見張りをさせている。

僕はネコはどちらかというと好きなのだが、家人はあまり好いていないので、仕方がない。

イヌとネコというのは、どうなんだろうか…。
仲が悪いと決まったものなのだろうか…。

少し前は、塀の上にネコが座っているのを見つけると、塀の下から吠えて、追い散らしていた。
最初はネコも逃げていたが、しばらくすると、イヌが自分のところまで上がってこられない事がわかり、平然と塀の上から見下ろしていた。
そういうところが、可愛げが無い…と思われるんだろう。
人が寄っていくと、おもむろに逃げる。

更に増長すると、塀から下りて来て座っていたりする。
ウチのイヌもぼけっとしているので、気づかない。
夜遅く僕が帰ってきたりすると、小屋から出てきて、ネコがいるのに気づき、吠えて追いかけるという事が数回あった。

しかし、こないだ、夜遅く帰ってきたら、イヌが小屋の外にいて、小屋に入ろうとしたら、そこからネコが飛び出してきたのだ。
びっくりした。
ネコが小屋の中に入っていて、イヌが外にいたのだ。

それをイヌが認めていたのか、知らぬ間に入ったのか…。

一応、追いかけていったが、どうも真剣味がないように見える。

縄張り意識というのがあって、自分のホームグラウンドを取られたら、もっと真剣に怒りそうなものだが…。

ひょっとしたら、仲の良いネコがいるのかもしれない。

それにしても、自分の寝床を取られるとは…。
どうも、イヌの方がネコよりも気がいいとは思う。

しかし、気がいいにも限度があると思うのだが…。

昭和30年代には野良犬がいた。近所で見かけたが、恐かった。
でも、決して、ネコとじゃれているような野良犬はいなかった。

イヌも、衣食足って礼節を知る、という事があるのか。
そこから考えると、世界の紛争はやっぱり貧困が原因なんだろう。

アメリカの人口が3億人を越えたという。
衣食足るためには、少子化も良いことなのかもしれない。


| | 考えたこと | 23:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
スウィングジャズ
ちょっと前に、スウィング・ガールズを見て、イン・ザ・ムードやムーンライト・セレナーデなどのビッグバンドの演奏が聞きたくなったので、今日CDを買ってきた。

RCA Swing! 100という6枚組のCD。
6枚で100曲入って、3000円ちょっとの値段。
すごく得したような気がする。

イン・ザ・ムード、ムーンライト・セレナーデはもちろん、茶色の小瓶、ビギン・ザ・ビギン、スターダスト、A列車で行こう、サテン・ドール、サニーサイド・オブ・ザ・ストリート、オール・オブ・ミー、セントルイス・ブルース、この素晴らしき世界、マイ・ファニー・バレンタイン、センチメンタル・ジャーニー、マンボNo.5、コーヒールンバ、時の過ぎゆくままに、ムーンリヴァー、酒とバラの日々、風のささやき…。

1930年代から1980年代くらいの曲のオンパレードである。

スゥイングというのは、1930年にデューク・エリントン楽団が出した、"It Don't Mean A Thing. If Ain't Got That Swing."という曲のタイトルが起源と言われている…と解説に書いてあった。

日本の音頭と逆で、後がはねるようなリズムである。
身体が自然に揺れる…だからスゥイングなのかもしれない。
4ビートのリズムで、はっきりしている。

サックス、トランペット、トロンボーン、クラリネットなどのブラスの華やかさも気持ちがいい。

グレン・ミラー楽団、これは小学校の頃学校の映画会で見た。グレン・ミラー物語。
ベニー・グッドマン、デューク・エリントン、カウント・ベイシー、みんな名前は知っている。
五つの銅貨という映画も見たなあ。これもジャズの楽団の映画だった。

ボーカルは、ペリー・コモ、ルイ・アームストロング、フランク・シナトラ、ビング・クロスビーなど。
イイですね…。

聴く音楽が、年とともに、60年代、50年代…とさかのぼっていっているような感じだ。

若いころは、古い録音は音が悪いとか、モノラル録音だとか、そんなことにこだわっていたが、もうどうでもよくなった。
イイものはイイのだ。

酒とバラの日々が流れてきた。原題はDays of Wine and Rosesだ。

今日はワインを飲もう。



| | 音楽 | 10:38 | comments(4) | trackbacks(0) |
マルバツ
外国人と話すと、時々あたりまえの事があたりまえでない、という事に遭遇する。

以前、海外の技術者を相手に、いくつかの試作品を数項目にわたって評価し、どの試作品のどの項目が良いのか、ということをまとめていたときのこと。
いつものように、すごく良ければ二重マル、良ければマル、ふつうは三角、悪いはバツ、すごく悪いはバツ2つ、という具合に表を作った。

記号というのは便利である。
意味がわかっているものにとっては、一目で内容がわかる。

しかし、この時は驚いた。

ドイツ人だったと思うが、表の意味が全くわからないのだ。

冷静に考えれば、マルバツの記号システムになじんでいなければ、理解できないということはあたりまえなのだが…。

「このサークルはどういうことか?」

「サークル?…マルのことか?…これはGoodだ。」

「このクロスは何か?」

「クロス?…バツか?…これはBadだ。」

これだけでも、ビックリするが、僕らにとっては、マルがGoodなら、二重マルはVery Goodだ、というのが類推できると思うのだが、それが通じない。

「このダブルサークルは何か?」

「ダブルサークル?…二重マルか…え、これがわからないの?」

マルがGoodだから、二重マルはVery Goodに決まっている、というと、「ふーん」という返事。
もちろん、バツ二つも通じない。

次から懲りて、マルバツは使わないことにしたが、このときは本当に驚いた。

当然、わからないからといって、悪びれた様子もない。わからないのが、あたりまえなのだ。

これは、カルチャーショックだった。

幸い、これ以上の違いには出会わなかったが、お互いにビックリするような事が他にもたくさんあるんだろう。

でも、そういう機会が持てたことは、すごく良かったと思う。

マルバツが世界共通語ではない、ということが身をもってわかったのだ。

よく考えたら、マルバツに相当する英単語もない。でも、便利だと思うのだが…。

今、多くの日本企業が海外に進出しているが、いつの日かCircle-Cross Systemという言葉が、オックスフォード辞典に載る日が来るかもしれない。

そんな日が来ることを期待しましょう。



| | 考えたこと | 00:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
これでいいのか?
こないだ、読売新聞の夕刊を見て、びっくりした。

日本物理学会で、水を入れたボトルに、ワープロで「ありがとう」とか「ばかやろう」とか書いた紙を貼りつけて置いておいたら、「ばかやろう」と書いた紙を貼った水だけ、カルシウム濃度が変化した、という発表があったらしい。

日本笑い学会ではなくて、日本物理学会ですよ…。
WEBで調べたら、たしかに発表の題名が載っていた。

「言葉の持つ意識エネルギーが水の中の元素の核変換を引き起こし、別の元素に変えたためと考えられる」との発表者の弁。

ほんとなら、一大発見であろう。
ひょっとしたら、宇宙を作るのに、神の意志が働き、神の言葉のエネルギーでビッグバンが起きたのかもしれない。

しかし、会場から、何度やっても同じ結果になるのか?という質問に対し、再現実験はしていない、ということらしい。

発表したのは、九州大大学院工学研究院の人である。
税金を使ってやっているんですよね…。
あきれた話でしょう。

でも、こんな大胆な発表が日本物理学会にすっくり行く、というのがもっと驚くべき事だと思う。

ふつうなら、回りの人がチェックするだろう。
当然、日本物理学会ででたような質問が内部であって、ちょっと待て…ということになるハズだ。

この発表の内容よりも、それが日本物理学会まで行った、ということが問題なのだ。

どこにでも、おかしな人はいる。
でも、組織というものが機能しているなら、表には出ないはずだ。
組織が生きていれば、プライドがあり、組織の名誉を汚すようなことは、組織のメンバーが必死で止めるだろう。

この発表は、ニセ科学の横行、という問題であると同時に、九州大大学院が組織の体をなしていない、という事を問題提起している。
その方が問題としては大きいと思う。

昨今の科学・工学は一人の人間でできることはしれており、組織的なビジョンや実験などが必要なハズである。(そうでない分野もあるだろうが…)
今回のノーベル物理学賞は、宇宙衛星を打ち上げて観測することでしか得られない結果に対して与えられていて、そんなことは到底一人の人間のがんばりだけでは無理だと思う。
組織的に考え、協力し合う体制が必要であり、オカネも取ってこないといけないし、たくさんの人を説得しないといけないだろう。
観測の意義についての説明も必要だし、そのためには組織としての行動が必要だと思う。

そういうことが、九州大大学院工学研究院にはできないだろう…ということが大きな問題なのだ。
昨年度、52億円の科学研究費を使い、1200億の支出予算を持っている大学が、こんなことになっている。

エエかげんにしなさい…という漫才のつっこみでは済まないだろうなあ。



| | 考えたこと | 22:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
純情きらり
少し前にNHKの朝の連続ドラマ「純情きらりが」終わった。

このドラマは、二つの点で、意外なドラマだった。

一つは、ヒロインが最後に亡くなるということ。朝のドラマにしてはめずらしいと思う。

もう一つは、戦前の青春を明るく描いたということ。
ドラマの中の「戦前」というと、やたらに暗かったり、ヒロイックすぎたり、言いたいことも言えず、したいこともできず…というのがお決まりのパターンだったが、今回のドラマはそのパターン一辺倒ではなく、戦前の若者の青春を明るく描いていたと思う。

これらの二つの意外性と、「音楽は人のこころを明るくできる」「音楽はこころの中に生きつづける」という音楽に対するメッセージを感動的に伝えたことが、すごくよかったと思う。

次の朝のドラマは、田辺聖子の自伝的な小説が原作。
最初からヒロイン役の藤山直美がぶっ飛ばして笑わせてくれる。(今回は新人を使わない!)

さすが、藤山寛美の娘だけのことはある。
半年間、楽しみだ。


| | 考えたこと | 02:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
100歳
小学校1年の夏休みに祖父が亡くなった。
この日のことはよく覚えている。

数年前に母から僕が小学校の頃に残していたものをもらった。
その中に夏休みの絵日記があり、そこにも亡くなったことが書いてあった。

その日は夏の暑い日で、通夜の夜に僕と従兄弟たちが雑魚寝のようにして寝ているところを、母や伯母がうちわであおいでくれていた場面が目に焼きついている。

葬儀の日には、祖母が大きな声で祖父に呼びかけていた。
亡くなった祖父は60歳くらいだったと思う。人力飛行機の設計図を描いたりしていた、一風変わった人だったらしい。
胃ガンだった。

祖父が亡くなって後、祖母は信心深く、いつも自分でお経をあげていた。
「なんみょうほうれんげきょう」という言葉が、僕が最初に接したお経だった。

そんな祖母だったから、法事はきっちりとやった。
祖父も祖母も家族が多く、そんな日は、祖母の家の畳の部屋の襖を取っ払って、たくさんの人が来た。
ちらし寿司や、水につけて冷やしたスイカが食べられるし、あとで仏さんのお下がりはもらえるし、全く意味はわかっていなかったが、法事は楽しいものだった。

それが、今から40年以上前のこと。
もちろんクーラーもなく、白黒テレビがやっと家に来たところで、そこここに非舗装の道が残っていた…という時代だった。

それから四十数年生きて、9月30日に祖母が亡くなった。
100歳と半年生きたのだ。

生まれたのが1906年。明治時代である。
もちろん、炊飯器もなく、冷蔵庫もなく、洗濯機もなく、ラジオ放送すら始まっていなかった時代だ。
日露戦争が終わってすぐに生まれたことになる。

太平洋戦争の時代を生きぬいて、終戦の頃が働きざかりだったと思う。
僕が生まれたときには、まだ51歳。
いずこもそうだろうが、孫にはやさしい人だった。

従姉が来たときには、泊めてもらいにいき、遊んでもらったり、夏の終わりの地蔵盆のお菓子をくれたりした。
小学校の頃の思い出が多い。

80歳を過ぎても元気で、遺影はその頃の写真だった。

僕が田辺聖子を読むようになったのも、祖母のために母が買ってきた本を、もらって帰ったのが縁だ。
残念ながら、晩年は目が見えなくなり、本を読むことはできなかったが…。

15歳年下の弟を残して、他の兄弟はみな亡くなり、祖母は逝った。
「親代わりだった…」と涙ぐむ叔父さんを見て、もらい泣きしてしまった。

100年の歴史を見た人だ…とあらためて今日思った。
明治・大正・昭和・平成の四つの時代…第二次大戦も、戦後の苦しいときも、高度成長も、バブル崩壊も、全て見ていた。

祖母がいなければ、母も僕もいなかったのだ。そんなことを思った。1000年、2000年、3000年、数万年、それよりももっと前から人類の歴史は続いている。その系図の中をずっとたどっていくことを想像する。
その中の一人の人間でも欠けたら、僕は存在しない。
数十人ほどさかのぼれば、もう平安時代になる。日本の人口は700万人ほどしかいなかったらしい。
その時代のだれかと、僕はつながっている…つながっているからこそ、存在する。
宇宙の時間から思えば、ほんの一瞬だが、その中に歴史があり、自分が今存在しているし、いずれなくなるのだ。

100年は長かっただろうと思う。

感謝と慰労の気持ちで合掌した。


| | 考えたこと | 01:02 | comments(2) | trackbacks(0) |