考えたこと2

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洋楽の邦題
昔は、洋楽にはたいがい題名を意訳して邦題をつけていた。
サイモンとガーファンクルの"Bridge Over Troubled Water"は「明日に架ける橋」。
原題にはどこにも「明日」はない。どちらかというと、「友に架ける橋」というのが歌詞の内容だ。
でも、「明日に架ける橋」になってしまった。

カーペンターズの"Close to you"は「遙かなる影」。
曲の感じとは合っているのだが、歌詞に「影」は出てこないような…。
でも、"We've Only Just Begun"の「愛のプレリュード」は「私たちの愛は始まったばかり…」という歌詞を「プレリュード(前奏曲)」という言葉に置きかえてうまくつけた題名だと思う。

スティービー・ワンダーの"I just call to say I love you"は「心の愛」。
「好きだと言いたくて、電話したんだ」という原曲の感じよりも、重たいイメージ。
「声が聞きたくて」みたいな題名の方が、意味は表しているのだが、名詞で終わらないと、締まりがつかないというのもわかる。
自分で考えてみると、それなりに苦労して邦題をつけたんだろうなあ、と思える。
やっぱり、レコード会社で関係者が集まって、ああでもない、こうでもない…と会議をしてつけたんだろうか?
覚えやすく、言いやすいこと、などという基準があったのかもしれない。

スタンダードな曲だが、"The shadow of your smile"は「いそしぎ」であり、全く関係がない。
これは、映画の題名がそのまま曲の題名になったというパターン。

ビージーズの"First of May"を「若葉のころ」、"How Can You Mend A Broken Heart"を「傷心の日々」というつけ方は、すごくイイと思う。

でも、最近は洋楽に邦題をつけなくなった。

これは、それだけ英語が身近になったということか。

調べてみようと思って、オリコンのページを見たら、どれが洋楽で、どれが邦楽かわからないような状態だ。

たしかに、英語が身近になっている。

今になって思うと、洋楽の邦題というのも、何となく風流でよかったなあ。



| | 考えたこと | 02:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
クレージーキャッツのこと
植木等が亡くなった。
すごい喜劇人であり歌手であり役者だったと思う。

十数年前に、会社でクレージーキャッツの話をしていたら、若い人が知らないという。
植木等とハナ肇は知っているが、クレージーキャッツというグループを見たことがないのだ。
その時は、本当に昭和は遠くなったなあと思った。

小学校の頃、クレージーキャッツが大好きだった。
スーダラ節、ハイそれまでよ、五万節、ゴマすり行進曲、そのうち何とかなるだろう…大晦日の紅白歌合戦は、クレージーキャッツを見てから寝るということになっていた。

正月には日劇でのクレージーキャッツのコンサートがあり、芸達者な舞台を見ることができた。(もちろんテレビで見たのだ)
お呼びでない…という名文句もあった。

その頃は、さすがに無責任男などの映画は見に行かなかったが、ちょうど全盛期で年に数本映画を撮ったりしていたはずだ。

植木等は、笑いながら歌うというのが特徴だった。

スーダラ節の、「ぁちょいと一杯のつもりで飲んで いつの間にやらはしご酒 気がつきゃホームのベンチでごろ寝 これじゃ身体にいいわきゃないよ ぁわかっちゃいるけどやめられねー」という歌も、随所で笑っている。
この歌は、この人が歌わないとダメだ。

「カネのないやつぁ 俺んとこへ来い…」
「ゴマをすりましょ ぁ陽気にゴマをね…」
「学校出てから十余年…」
「プイと出たきり ハィそれまでよ…」

歌詞が口をついて出てくる。

ハナ肇、植木等、谷啓、犬塚弘、桜井センリという5人組。
最近忘れっぽくなったが、今でもメンバーの名前はすぐに出てくる。

犬塚弘と桜井センリは、男はつらいよの映画に時々出てきていたなあ。

谷啓はまだ時々テレビで見る。この人はトロンボーン奏者のダニー・ケイから芸名をつけた人だ。

クレージーキャッツもハナ肇と植木等が亡くなって、残り3人になってしまった。
どんどん昭和は遠くなる。


| | 考えたこと | 23:27 | comments(2) | trackbacks(0) |
弦楽器
ものごころついた時から、家にはギターがあった。
小さなスチール弦のギターだった。
でも、これはブリッジ(弦をボディに止めているところ)の接着が悪くて、壊れてしまったと思う。

その後、親父がクラシックのギターを買った。
当時、どれくらいの値段だったかは知らない。
カルカッシというクラシックの練習曲集があった。(ピアノのバイエルみたいなものだろう。)
母もそれを弾いていた。

そんな家だったので、ぼくも中学生になってギターをはじめた。

「ギターは、持ち運べる小さなオーケストラや。」当時家でよく聞いた言葉だ。

中学3年の時に、カントリーのバンジョーに憧れ、当時2万円くらいのバンジョーを買ってもらった。
あの頃は、フォークのバンドにバンジョーが入っていて、それがかっこよかったのだ。
知っているバンドのマネをして、ボディの裏側を外して弾いた。あれは何というバンドだったのか…。武蔵野タンポポ団だったかな?
弾く方は挫折してしまったが、これは今でも持っている。

一時、遠藤賢二というシンガーがウクレレで弾き語りをしていて、3000円でウクレレを買ってきて練習したこともある。

親父は学生時代にマンドリンをやっていたらしく、家にはマンドリンもあった。
丸い胴の、哀愁のある音色の楽器だ。
ぼくが小さい頃は、時々弾いていたと思う。

めずらしいところでは、バラライカというロシア版マンドリンみたいな楽器もあった。
これは誰かからお土産にもらったはずだ。

祖母は三味線が得意だったらしい。
亡くなる前には、稽古三味線を田舎からウチに持ってきていて、結局ぼくが形見にもらった。
三味線というものが、折りたたみ式になっていて、小さな四角のケースに入るものだと、それを見て初めて知った。

そんなわけで、弦楽器にはなじみがある。

どこにでも持って行けること、音の高さや音色、強さを直接手で調整できること、ポジションを移動すれば簡単に転調できること、リズム楽器にもメロディ楽器にもなること、弾きながら歌が歌えること…そんなことが弦楽器のよいところだと思う。

弦を張って、はじく…ただそれだけの事だが、大きさやカタチ、共鳴するものや弦の材質によって、千変万化の音がする。

あらためて考えると、すごいことだ。

もちろん、弦楽器に限らず、楽器というものがすごいものなのだが…。

この歳になって、弦楽器をさわっていてよかったなあと思う。
そのことは、親に感謝している。



| | 考えたこと | 01:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
虹の彼方に
名曲…といえる曲がいくつかある。
「虹の彼方に Somewhere Over the Rainbow」はその一つ。

オズの魔法使いという映画のエンディングで使われたとのことだが、ぼくはその映画は見ていない。

ギターで先生に習ったが、いまだにうまくは弾けない。
後半が難しいのだ。

シンプルなメロディーだが、心にしみる。

今日はこの曲を聴きながら寝ることにしよう。

歌詞です…

Some where Over the Rainbow way up high.
There's a land that I heard of once in a lullaby.
Some where Over the Rainbow skies are blue.
And the dreams that you dear to dream really do come true.
Some day I'll wish upon a star and wake up when the stars are far behind me.
Where troubles melt like lemon drops away above the chimney tops.
That's where you'll find me.
Some where Over the rainbow blue birds fly.
Bird fly over the rainbow. Why then oh why can't I?

はるかに高い虹のむこうのどこかに
むかし子守歌で聞いたことがある国がある
虹のむこうには青い空が広がって
あなたが願えば、それはきっと叶う

いつか星に願いをかけて、起きると星ははるかかなた
そこでは心配事はレモンドロップのようにとろけてしまう
そこは煙突よりも上
わたしはそこにいる

虹のむこうのどこかに青い鳥がいる
鳥は虹のむこうに飛んでいく
それなら、私だって飛んでいけるはず



| | 音楽 | 23:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
日本では、春はものごとの切り替わりの時期である。

それは、学校の新学期が4月だから…というところに一つの要因があるんだろう。
ときどき、新聞で欧米と合わせるために、新学期を9月にしよう、というような案が出されているが、なかなか切り替えられないような気がする。
やっぱり、卒業して、入学、入社するころに桜が咲いて、散らないといけない。

会社の採用も、どんどん中途採用が増えているというが、まだまだ4月の一括採用が主体だろう。

新しい学校に入って、緊張して学校に通っているときや、就職して研修などやっているときに、桜が咲いて、散るのだ。
散っていく花びらが、今までの環境からの決別と、新たなスタートを予感させる…そんな感覚がある。

別に、桜が咲くから4月を新学期にした、ということではないのだろうが、もしも新学期を別の月に変更するなどということになったら、どうしても桜のことを考えてしまう…ような気がする。

今の学校制度ができたのは明治時代だろうから、たかだか100年あまりの歳時記だが、入学・入社と桜は今や心情的には切り離せないものなのだろう。
この時期になると、桜をテーマにした歌が出てくる。

今年は暖冬でどうなるのかな…と思っていたが、ここ一週間ほどは寒さが戻って、桜は3月末くらいとのこと。

もしも、外国から日本の新学期を9月にしてほしい、などという要望が出たら、それを「桜が咲くから」という理由で断る…というのも風情があってよいと思う。

日本人にとって「桜」は、グローバリゼーションに対抗できる文化の一つなのだ。

今年ももうすぐ桜の季節…年を経るごとに桜の存在が重たくなってくる。



| | 考えたこと | 19:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
日曜日の朝
半ドンで思い出したが、学生時代は土曜日は授業があり、朝寝坊できるのは日曜日だけだった。
土曜日の夜が、翌日の朝のことを考えずにすむ、ハッピーな時間だった。

アメリカでも70年代はそうだったのだろうか…。
サタデー・ナイト・フィーバーという映画が流行ったなあ。
今はこれがハナ金になった。

小学生の頃というと、日曜日の朝は10時くらいに起きて、自分でインスタントラーメンを作ったり、パンを焼いたりした。
我が家では、日曜日は昼食が朝昼兼用のご飯ということになっていた。
それ以前に食べたければ、自前で…ということだ。

朝寝をしないのには、理由があった。
10時〜11時くらいに、アニメをやっていた。
よく覚えているのは、リボンの騎士。手塚アニメである。
これを見るのが、朝起きる理由だった。

昼からは吉本のお笑いを見て、公園に遊びに行く…というパターンだった。

今から思うと、週に一日の休みで、オトナはしんどかったと思う。

日曜日の朝の雰囲気は、なぜか心に残っている。
子ども心に、雨戸を開けるとガタガタ音がして、寝ている親に悪いという気があり、暗い部屋でテレビを見たりした。
建て付けの悪い雨戸は、震災の後まで、そのままだった。

冬はこたつで、夏は扇風機をつけて過ごした。
もちろん、エアコンなどない。

そんな日曜日の朝だった。

なぜか、このところ、昔のハナシばかりになってしまった。

| | 考えたこと | 23:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
半ドン
1979年から会社勤めをしたが、その頃はまだ完全に土曜日が休みになっていなかった。
時々、土曜日の出勤という日があった。これは半ドンだった。

「半ドン」わかりますよね?
土曜が休みになって、若い人には半ドンという言葉も死語になってしまった。
昔は、お昼に大砲の音が「ドン」と鳴って、それで帰ったから、「半ドン」という言葉ができた…と何かで読んだことがある。
「半日でドン」ということだ。

それから少しして、土曜の出勤の日が減ったが、その代わり半日ではなくフルの出勤になって、半ドンはなくなってしまった。
その後80年代の前半には完全に土曜日は休みになったと思う。
日本全体では、90年代の前半くらいには、かなりのところで土曜日は休みになった。
国を挙げて、休日を増やそうとしていたのだ。

土曜日の出勤…なつかしい。(もちろん、休みの方がいいのだが。)
半日で帰れるというのは、それなりの楽しみだった。
結局は、夕方まで働いたりするのだが、それでも昼になったら帰れるという解放感があった。
何となく、昼をまわって、いつもと違うのんびりした雰囲気の中で羽を伸ばして仕事ができる…という感じだ。いつもと同じ事務所なのに、何となく時間が止まったような、ゆったりした気分になれる。
まばらにしか人はいないし、電話はあまりかかってこないし、納期にさえ追いかけられていなければ、先のことを考えてやっておこう、というような仕事ができたのだ。

事務所も、まだパソコンなどなく、グラフ用紙に向かって、定規、コンパスで格闘していた。
コピーは現像液の臭いがする青焼きだったし、そのために、報告書は薄手の用紙だった。
ゼロックスは贅沢品で、コピー室にしかなかった…と思う。
そこここに製図板があって、T定規や消し板、R定規、砂消しゴムなどの小物があった。
今ならコンピューターで製図するが、当時はまだ紙と鉛筆の時代だった。
ファックスも無かったし、全ては郵便で運んでいた。

そう思うと、半ドンの時代から二十数年…世の中は変わったなあ。

「半ドン」という言葉に、なんとなくのんびりした響きを感じるのは、実際のんびりした世の中だったからだろうか。

昔のことを思い出すと、今はたしかに便利になったとは思うのだが、何でも合理化され、「待ち時間」がなくなったというか…。

あの、半ドンの土曜日の午後のような、そんな時間がなつかしい。

そんな時間があって、日本は高度成長していたのだから、半ドンの効用があったのかもしれない。
結果的には、土曜日が休みになって、バブルへと突入していったのだ。

半ドンの午後に、事務所でのんびりと仲間と話をしていたら、防げたとは思わないが…。



| | 考えたこと | 14:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
One Hit Wonders
ずっと前にFM放送をエアチェックしたカセットがある。
さすがに、ここ数年聞いていないが、以前は車で出張という時には、持っていったりしていた。

American One Hit Wondersという特集のテープだ。
深夜にやっていた番組を録音した。
One Hit Wondersというのは、一曲だけ大ヒットして、その後鳴かず飛ばずになった人たちのこと。
"One Hit Wonders"をグーグルで検索すると、たくさんのサイトが出てくる。

このテープに入っていたのは、ドン・マクリーンのAmerican Pie、リン・アンダーソンのRose Garden、カール・ダグラスのKunfu Fighting、クリスティーのYellow River、オーシャンのPut your hand in hand、ヒルサイド・シンガーズのI'd Like to Teach the World to Singなど。
60分テープにいっぱいだった。

70年代のOne Hit Wondersは本当に懐かしい。

80年代にはもう仕事が忙しくなっていた。
70年代がぼくのティーンエイジだったのだ。

もちろん、One Hit Wondersではなく、ビートルズやキャロル・キング、サイモンとガーファンクルなどのスターもいたが、One Hit Wondersは本当にその時の旬という感じで、何かの拍子で耳にすると、すごく懐かしい。
ラジオなどでその時しか聞いていないし、レコードも持っていない。当時は深夜放送でヒット曲は毎晩のようにかかっていたから、それで覚えているのだろう。
今なら、レンタルもあるし、FMを録音することなどないだろうが、当時はとにかくラジオで聞き、ギター雑誌などに載っているコード譜をみて覚えた。
音楽がデーターになる前の時代で、ラジオの録音が貴重な時代だった。

十代で聞いた唄は忘れない。

あのカセットは、貴重なカセットになったなあ。
もちろん、One Hit WondersのCDなどないし、レンタルも不可能である。今や影も形もないミュージシャンたちだ。

あのカセット、どこかにあるはずだが…。



| | 音楽 | 00:38 | comments(2) | trackbacks(0) |
なってみたら、なっている
ついに大台を迎えた。
50歳である。

よく言うことだが、昔は50歳などという歳は、想像もできず、自分がそんな歳になるとは思っていなかった…というやつだ。
40歳から、着実に41、42、43…と増えていって、去年が49だったわけだから、当然今年は50である。

髪の毛が白くなる、肩こりがひどくなる、仕事で無理がきかなくなる…徴候はどんどん出てくる。

身体を動かさないといけない、よく眠らないといけない、マッサージにいかないといけない…イケナイことはどんどん増える。

もちろん、鏡を見ると若いころの写真とはまったく違う。
もう、写真を撮らなくなった…いや、撮りたくなくなった。

鏡をみるのは、朝と夜の洗面所。
歯みがきをしている自分が、鏡の中にいる。

それでも、変わったとはいえ、「自分」という連続した物語のなかにいることは間違いないし、自分の中では当たり前のことながら、ずっとつながっているのだ。

いつもと同じように起きて、特に何かが変わっているワケではない。

なってみたら、なっている…そういうことだ。

これからも、生きよう。

経験を積んだ老練さ、新しいものを受け入れられるやわらかさ、感動できる素直さ…そんなものがこれからの10年に大切なんだろうと思う。

10年後、自分がどんなことを書くのか、楽しみだ。


| | 考えたこと | 23:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
追悼 池田晶子さん
今朝の新聞を読んで驚いた。
池田晶子さんが亡くなっていた。46歳だった。

このブログの「考えたこと」というのは、池田晶子さんの書かれていることから拝借した題名です。
勝手にお借りしました。

ぼくのようなものが、大それたタイトルを使ってよいのか?という気はあったが、何気なくつけてもうすぐ2年が経つ。

もっと書いてほしかった。

池田晶子さんは、著書の中で、繰り返し、「在る」と「無い」、「生」と「死」について書かれ、「死」を怖れることはできない…なぜなら「死」は存在しないのだから、と書かれていた。

凡人のぼくは、その言葉を完全に「わかって」いない。

新聞によると、亡くなる直前まで本を出す手配をし、連載をつづけられたとのこと。

池田晶子さんは、本当に「死」を怖れてはいなかったのだろう。
文筆家としての「生」を全うすること、「善く」生きること、それだけが、死を迎えるにあたっての思いだったのか…。

いや、池田晶子さんは、「考えて」いたのだ。
文筆家として書くことは、それを使命としてやっておられたのだ。
本来のご自分は、考えつづける人、問いつづける人だった。
きっと、今も思索の彼方で、宇宙の存在として考え続けておられるのだ。

死を迎えて、「在る」から「無い」へジャンプする…その瞬間をはっきりと意識の中で待っておられたのではないかと思う。

天は彼女に二物を与えたと思うが、その代わりに早く逝かせたのだ。

池田晶子さんの新たな著作を読むことはできなくなった。
でも、一生かかっても、今まで書かれた著作の言葉を、本当に作者の流儀でわかることはできないと思う。
近づくことができるのみだろう。
それでも、そのようなテキストを遺してもらえたこと、そして、同じ時代に生きられたことは、感謝すべきことだ。

たくさんの著作を遺してくださって、ありがとうございました。
これからの時代を生きていくうえで、最も必要とされている人の一人だったと思います。
そして、亡くなった今も、これからも、必要とされつづけられる人だと思います。

ほんの一部だけ、ここに引用して紹介し、追悼させていただきます。
--------
14歳からの哲学 (仕事と生活)より

「・・・生きなければならないという法律はなく、誰もその人に生きることを強制してはいないのだから、生きることはあくまでもその人の自由なんだ。生きたくなければ死ぬ自由はあるんだ。なのに、死なずに現に生きているのだから、生きることを自分の自由で選んでいるのだから、その人は、本当は、「生きなければならない」ではなくて、「生きたい」と言うべきなんじゃないだろうか。
 本当は自分で生きたくて生きているのに、人のせいみたいに「生きなければならない」と思っているのだから、生きている限り何もかもが人のせいみたいになるのは当然だ。生きるためには、食べなければならない、食べるためには、稼がなければならない、そのためには、仕事をしなければならない、この「しなければならない」の繰り返しが、大人の言うところの「生活」だ。しなければならなくてする生活、生きなければならなくて生きる人生なんかが、どうして楽しいものであるだろう。・・・(中略)・・・ だったら人は、自分で自分の人生を選んで生きているということを、はっきりと自覚して生きるべきなんじゃないだろうか。仕事も生活も何もかも、自分がしたくてしていることだと、自覚するべきじゃないだろうか。そうすれば、自分のことを人のせいみたいに文句を言いながら生きることもなくなるはずだ。」


41歳からの哲学より イラク戦争でネット上で反戦の声をあげた若者たちをみて

「・・・つまり彼らは、無力感を覚えるというまさにそのことによって、戦争を他人事だと思っているのである。自分のことではないと思っているのである。しかし、戦争が起こっているこの地球のこの時代を生きているのは、まさしくこの自分である。なんで他人事みたいに無力感など覚えていられるものだろうか。
 戦争を子供に教えるために、といった意見も聞かれたが、これも変である。戦争を生きている人は、戦争を生きるしかない。そんなものを教えて教えられると思っているのは、戦争を他人事だと思っている人だけである。
最後には、反戦の声など無力だという自嘲ともなっていたが、これは仕方ない。声すなわち言葉というのは、こういった考えを伴って、初めて力となるものだからである。
 そんなふうに考えると、人というのは案外に呑気なものである。何もできない自分に無力感を覚えるほどに、暇なのである。自分の人生を他人事のように生きているから、そういうことになるのである。・・」

41歳からの哲学より 乞われて田舎の中学校の純朴な学生に対して、話をしに行った時の事

「言うには、我が校の生徒はこんなふうだから、町の学校へ行くと、感化されて、たちまちに悪くなる。そうでなければ、外の風に耐えきれずに引きこもる。高校側は、免疫をつけてきてくれと言う。馬鹿を言うな。悪く教育しろと言うのか。
 悩みは深い。この世の中である。あの子供たちに未来はない。それで、「哲学を」ということだったらしい。私は納得した。つまり、外的状況に動じない、強い精神に鍛えたいと。
 その通りです、それこそが哲学の身上です。私は同意した。昨今の教育現場の風潮、何を勘違いしているのか、「よのなか科」?商売の仕方や金のもうけ方を、早いうちから教えることが子のためだなど、驚くべき勘違いである。世の中のことは、世の中に出てから覚えればよろしい。世に出る前には、世に出る前にしかできないことがある。それが、考えることである。徹底的に考えて、自分の精神を鍛えておくことである。その過程を経ることなく、世に出てしまった大人たちを見よ。世の状況に左右され、フラフラと動じてやまないではないか。それが見事な証左ではないか。・・」

41歳からの哲学より 食の安全について

「そも食べ物に感謝することを忘れたということ自体が、こういった騒動の大本ではなかろうか。牛だって鶏だって生き物だから、殺されて食べられるのはイヤである。しかし生き物は互いに食べ合って生きているものだから、その意味でそれは仕方ない。「仕方ない」という、こちらの側の、このイヤな気持を、ではどうするか。
 だから感謝するのである。私が生きるための食べ物になってくれてありがとう。「ありがとう」、言うだけではダメである。それは証されなければならない。証しとは何か。決まっている。よい人間になることである。よい人間、真っ当な人間として、生きることである。そうでなければ、私が生きるために殺される他の生き物たちに、申し訳が立たないのではないか。・・・」

41歳からの哲学より 携帯電話の「その一言が、たった五円で」という広告について

「自分で金を出して買う物、一般商品の場合ですら、人の心はそのように動く。値段がその物の価値なのだ。それなら、もともと値段のついていないもの、金のいらないタダのものを、ありがたいもの価値あるものと、思うことなどあるわけがない。金のいらないタダのもの、誰もが持ってる普通のものの筆頭が、すなわち、言葉である。日々話されるこの言葉、これが価値だと知っている人など、きょうびいるものだろうか。
 言葉なんて、タダだし、誰でも使えるし、世の中は言葉だらけだし、なんでそんなものが価値なのだと、人は言うだろう。しかし、違う。言葉は交換価値なのではなくて、価値そのものなのだ。相対的な価値ではなくて、絶対的な価値なのだ。誰でも使えるタダのものだからこそ、言葉は人間の価値なのだ。安い言葉が安い人間を示すのは、誰もが直感している人の世の真実である。安い言葉は安い人間を示し、正しい言葉は正しい人間を示す。それなら、言葉とは、価値そのもの、その言葉を話すその人間の価値を、明々白々示すものではないか。
 だから人は言葉を大事にするべきなのである。そのようにして生きるべきなのである。自分の語る一言一句が、自分という人間の価値、自分の価値を創出しているのだと、自覚しながら生きるべきなのだが、こんなこと、きょうびの人には通じない。・・・(中略)・・・五千円、五万円だろうが、必要な言葉は、必要なのである。
価値ある言葉に、値段はつかないのである。常にそのような自覚によって、言葉を語る人生と、そうでない人生とでは、その人生の価値は、完全に違うものになるのである。」

事象そのものへ!より

「私たち生まれてきたものは、死ぬまでは生きてゆくしかないのだろう、先に死にゆくものたちを、こころの隅で見送りながら。ただそれだけの事実の、何がいったい、こんなにも悩ましく私たちのこころを追い詰めるのか。そして、追い詰められたこころが、追い詰められたそこに、責めるべき何をも、祈るべき何をも見出し得なかったとき、再び自身に、生滅する一切に、添い続けようとする以外の何が残されているだろう。哲学は構築されるのではない。感受したものを問うことだ。夢を見るように問い続けてゆくことだ。たとえそれが、あの至高点に消え果てることが既に知られているとしても、私たちのこの宇宙が、生(ある) と死(ない)という夢を、そこに浮かべて見続けているその限り。」

考える日々より 子供に対する「死の教育」について

「教え方がない」のではなくて、「教えるもの」が、そもそも「無い」のだ。現場の先生方には、このことをしっかりと認識してもらいたい。認識してもらうためには、とにかく自分で考えてもらうしかない。自分でもわかっていないことを、人に教えることは決してできない。しかし、わかっていないということはわかっている。このことなら、教えることができる。いや、このことを教える以外、死について教える仕方はあり得ない。
 私は思うのだが、命の大切さを「教える」ことは不可能だ。むろん、「命を大切にしよう」というお題目を復唱させることならできる。しかし、そんなことが、望まれているそのことなのではないはずだ。
 命の「大切さ」を教えるより、命の「不思議さ」を感じさせるほうが先だ。命の不思議さとは、言うまでもなく生と死、すなわち「存在と無」の不思議である。生きて死ぬこと、存在することしないこと、この当たり前の不思議に驚くところにしか、それを「大切にする」という感覚は出てこない。

考える日々より 臓器移植について

「 人が、死ぬのを恐れて、他人の臓器をもらってまで生きたいと思うのは、なぜなのだろうか。
 生存していることそれ自体でよいことである、という、人類始まって以来の大錯覚がここにある。しかし、生存していることそれ自体は、生まれ落ちた限りサルにでもできることで、いかなる価値も、そこにはない。それが価値になることができるのは、人がそれを「善く」生きようと努める、そこにしかあり得ないのだ。
(中略)
 遠慮なく、極端なところを言ってしまえば、愚劣な欲望を価値とする愚劣な人間が、ひたすら長生きしてどうするのだ。愚劣な人間の愚劣な欲望のために、自分の臓器を差し出すことが、なぜ愛なのだ、世のためになることなのだ。」

考える日々2より 「落ちるところまで落ちてきた」

「 私は直には知らないことだが、敗戦の焼け跡、つまりまさしく最悪の状態から立ち上がってくる人々のパワーというのは凄いものだったと、知っている人々は口を揃えて言っている。しかし、立ち上がってくるその方向を、どうやら間違えていたらしい。五十数年かけて、われわれは一国を滅ぼしつつあるらしい。五十年かけて滅んだものを立て直すには、通例二、三百年はかかるというのは、さる碩学の言である。建造物ではない。壊れた建造物なら、数年数か月で再建できるが、いったん壊れた国家や社会を再建するのは、容易なことではない。ことは人心の問題だからだ。人心の教育、再教育には、何世代にもわたる忍耐と覚悟とが必要なのだと。
 このような議論の運びには、その通りと納得しつつも、だからどこからそれを始めるのだ、始められるのは誰なのだ、という現実的な疑問に、いつもハタとぶつかってしまう。やっぱりニワトリとタマゴなのである。教育こそが必要なのだが、教育する人を教育する人がいない。警察官を取り締まる人がいないのと同じことである。」

ロゴスに訊け(サルにだって言葉は書けるぞ)より

 「しかし、だからこそ、言葉は闘い取らなければならないのだ。闘い取る言葉にのみ価値があることになるのだ。ふやけた言葉ばかりが、新聞にも市場にもネット上にも氾濫する。このような状況において、言葉のためにその本来の価値を闘い取るべく、私は自覚的に文筆を業としているのである。したがって、読者は、それを自覚的に読むことで、価値を闘い取らなければならない。共同戦線なのである。」

ロゴスに訊け(生きている、ただそれだけで価値なのか)より

「 「ただ生きることではなく、善く生きることだ。」ソクラテスが喝破したのは、二千五百年前のことである。民主政治の堕落した当時のアテナイにおいて、快楽や金銭を人生の価値と思いなし、それらのために生きている大衆に対し、説くには、もしもそれらが価値であるなら、君が生きていることに価値はないはずではないか。なぜなら、それらがなければ君には生きている価値はないのだから。そして、もしも君が、生きていることはそれ自体価値であると思うなら、それらのことは価値ではないのでなければおかしいではないか。なぜなら、君が生きていることそれ自体が善いことなのだから。
 留意してほしい。彼は、すべての人はただ生きているだけで善いことだと言っているのでは断じてない。善く生きている人にとってだけ、生きていることは善いことだと言っているのである。言うのもおかしなくらい、これは当たり前なことではないか。どうして、善く生きていない人にとって生きていることが善いことである道理があるだろうか!」

考える日々3 (生き残るだけが価値ではない)より

「「フリーター」という職業名が、正式なものになったと聞いた。その語感の示すような、自由気ままなアルバイト暮らしというのは、若いうちにはその大変さは、たぶん自覚されない。けれども、そのまま最後までヌクヌクゆけるものではないこと、また、フリーターを選ぶような人には、そのような人生はちっとも面白くないだろうこと、ちょっと覚えておいた方がいいかと思う。それなりの覚悟あっての、それなりの人生ということである。」

考える日々3 (そうまでして、そうするべきか)より

「先日のニュースなど、近所でおいしいキムチを作るおじさんがいるので、このことを全国の皆さんに是非とも知らせてあげたい。で、その情報をインターネットテレビなるものに作成して流している人のことを、これまたテレビで放映しているわけである。
 そうまでして、そうするべきことなのだろうか。自分たちがいかに無内容なことをしているかということを、今やそこにいる誰もがわからなくなっているのだ。これは驚くべきことである。
 情報伝達機器が発達するほど、伝達される情報の無内容が露呈してくるというのは、皮肉なことだ。当然といえば当然である。伝えるべき内容を発達させずに、伝える手段ばかりを発達させてきたからである。そもそも「何を」伝えたいのかという然るべき問いを、なぜ所有せずにいられるのか、それが私には不可解である。「便利になる」、大変けっこうなことである。しかし、便利になるほど人が馬鹿になるのは、どういうわけなのだろう。」

考える日々3(そうでなければ、それまでだ)より17歳の殺人に触れて

「 いったいどこが不可解なのか。あるいは「孤独な心の闇」と言う。なんでこんなものが心の闇か。
 こんな薄っぺらな言動を、何か深遠な預言でも受け取ったかのように深読みしようとし、少年たちのサインを見逃さないで、などの阿呆なことを言っている。いつまで寝呆けているつもりなのだろう。
それほどまで死について興味があるのなら、他人を殺す前に、自分が死んでみるべきである。そうではなかろうか。
 存在感がないことが悩みなら、それを苦にして自殺すればいいのである。そうではなかろうか。
 青年期の一時期、生死について悩み、自意識過剰になるのは当たり前のことで、そういう時は、かつてなら、自殺を考えるか、実際に自殺するかしたものだ。そうではなかったろうか。しかし、自分のことで悩んでも、誰も他人を殺そうとはしなかった。これはどうしてなのか。
 言うまでもない、自分のことを悩むことと、他人を殺すこととの間には、いかなる関係もないからである。自分の存在、自分の生死、まったく正当に不可解であるこれらの事柄が、他人を殺すことで理解できることになるわけがない。死が不可解で、なぜ他人を殺すのか。
 あれらの少年たちが、自殺をすることなく他人を殺すのは、要するに、悩み方が足りないのである。思い詰めたことなどじつはないのである。自殺をするよりも、注目されたい、つまり自分ではなく他人を見ている。たんに甘えているのである。」

新・考えるヒントより 小林秀雄にむけて

「批評という形式、あなたの文章は、何を説明しているわけでもない。「説明」というこの文章の調子が私は大嫌いで、野暮の極致だとかねがね思っているのですが、文章が説明的になったら負けと言っていいでしょう。なぜって、語ろうとしているところのものが、そもわからないことなのだから。わからないことをわかったことのように説明することはできない。わからないというまさにそのことが、その言葉であるのでなければ、そんなものはウソッパチでしょう。何を説明するのでもなく、断定的に語られるあなたの言葉によって、読む者は、わかります。わかるということは、決して説明によってわかるのではない。言葉自体の力によってわかるのだ。だから、読む者にわからせようとして書く必要などないのだということも、あなたから学んだことでした。」

「現代日本に限らない。近代以降、制度として整備された大学は、覚悟という言葉の意味すら解さぬ愚者の楽園となり果てた。べつに学問をしなくてもいいのだが、生活は保障されるからという理由で大学にいる者たちの言葉が、一般生活者にとってどうでもいいものとなるのは当然である。学問や学者が、世間に侮られる存在となるのも当然である。ところが中にいる者たちは、これを逆手にとって居直るか、卑屈になって媚びを売るかのどちらかである。精神の仕事をしているのだ、なぜ生活が問題か。そんなふうに矜持を示せる者などいやしない。だからこそ生活者を目覚ますこともできるなど、思いもよらない。
 理科系の学問は、産学協同の掛け声に活路を見出したが、文化系の特に哲学など、完全に無用の長物である。無用にも用がある。科学が用なら、哲学の用とは、科学を用とするこの世のありようそのものを問い質すことに決まっている。われわれはなぜ生きているのかという問いを問うことは、生きるためには有用なことか無用なことか、常識は知っているはずである。」

勝っても負けても (言葉の力を侮るなかれ)より

「 言葉の力を侮ってはならない。人は言葉なしには生きてゆけないのだから、言葉とは、すなわち命なのである。言葉は命なのである。死ぬときにもまた、人は必ず言葉を求める。「死ぬとはどういうことですか」。必ず人は問うのである。この時初めて、人は正しい言葉を求めるのだ。間違った言葉で救われても、救われたことにはならないからである。」

勝っても負けても (小説を書こうかな)より

「 話し言葉とは、思っていることを口にすることである。口にする前によく考えることもあるが、たいていは書くよりは考えられていない。書くという過程は、思っていることをよく考えるという過程を、必然的に強いるのである。これはなぜかというと、そこに反省という意識が働くからである。反省は、思考が思考についてひとりきりで行なうものである。これに対して話すという行為は、複数で行われるものである。ひとりで考えこんでいる暇はない。伝達という機能が優先されるからである。
 携帯メールとは、話し言葉のこの伝達機能を、書き言葉にして代用するものだろう。ゆえに、話すように書くとは、考えずに書くということと、ほぼ同じである。これで人間は馬鹿にならずにすむものだろうか。おしゃべりをそのまま書いたような文章が、文学と言うことでいいのだろうか。私は思うに、そんなものは人間の言語以前、やはり何かサルの雄叫びか鳥の囀りに似たものである。人間とは考える動物である。思惟された形跡のない言葉は、動物の示威行為に等しいのではなかろうか。」

勝っても負けても (いまいましいゴミ問題)より

「 案の定である。場所によって異なるような相対的なルールを守ることが、なんで正しいことなのか。相対のものを絶対と思い込み、ルールを倫理とする時、人は誤るのである。行政はサービスである。相対のルールを強要するのは逆である。なるほど、ゴミ問題は今は過渡期なのだろう。それなら、そのように説明してルールを理解させればすむことである。たかがゴミの問題ではないか。
 その、たかがゴミの問題が、今や地球規模の大問題なのだと、環境派の人々は言うだろう。それは認める。しかし、それでも私はあえて言いたい。やはりゴミは、たかがゴミである。たかがゴミのことなんぞで頭を悩ませているよりも、我々にはもっと考えるべきことがある。四六時中ゴミのことばかり思っていると、ゴミのような頭になってしまう。じっさい私は、マニュアルに従ってゴミを分別しようと気をつけ始めてから、そのことを実感した。この包装の材料は何だろうとか、ホチキスの針がついた紙のラベルをどうしようとか、そのつど注意が動いてしまうのがいまいましい。これを続けていると、人間は確実に馬鹿になるぞ。」



| | 考えたこと | 22:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
書評欄
日曜日の朝は、新聞の書評欄を見るのが楽しみだ。

たまに週刊誌を見ても、パラパラとめくるだけのことが多いが、書評欄には目がとまる。

以前は、書評欄を見て、おもしろそうな本があると買っていた…今は買わないという意味ではない。おもしろそうな本があまり見あたらなくなった。

一年ちょっと前は、新聞の書評欄を見て買う本があった。。
ここ一年ほどは、そんなことがなくなったのだ。

これは、どういうことだろう。

書評を書く人たちの好みから、自分がずれてきたのか。
自分の興味が世間からずれてきたのか。

ひょっとしたら、自分の興味が狭くなって、いろいろな本をおもしろそうだと思えなくなっているのかもしれない。
視野が狭くなったとか、がんこになったとか…そういうことか。

それは…あまり良いことではないだろう。

心が固くなってきているのだと思う。

もともと、身体が固いのに、心まで固くなってはイカン!

心のストレッチをするためにはどうしたらいいのか。

よく休んで、リラックスすることか。
リラックスするためには…おもしろい本を読むことか。
それが、なかなか見つからない。

ここで、グルグル回ってしまう。

何か対策を考えねば…。


| | 考えたこと | 00:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
安保反対
トイレにポストイットのメモが置いてあるのは、前に書いたと思う。

何かを思いつくと、そこに書いて、別のノートに貼り付けている。
もちろん、ウィークデーの朝はそんな暇はない。
休みの日の朝は、気持ちもゆったりして、ふと何かを思いつくことがある。
そんな時に、このメモを使う。

今日見なおしていたら、安保反対のメモが出てきた。
「安保反対」といっても、僕らより少し若い人はもうわからないだろう。
「安保」は日米安全保障条約のこと。その条約の更新に当時の若者が反対したのだ。

もっとも大規模だったのは、1960年の安保闘争らしい。これは知らない。

ぼくが知っているのは、1960年代後半のことである。今では想像もできない、すごい運動だった。
まだ、小学生だったから、当時の白黒テレビのニュースで見たのだろう…。
それから70年代にわたって、ずっと学生運動が続いた。
過激派、中核、革マル、内ゲバ…などという言葉が、新聞紙面にあふれていた。

ぼくが今日見たメモに書いてあったのは、「どうして今も反対し続けない?」という言葉だった。

別に、反対していた人たちを責めているわけではない。

でも、あの時のすごいエネルギーは、本当に一過性のものだったのか…ということだ。
その後、ずっと安全保障条約は有効である。
あの頃まだ若くて、反対したが体制に押し切られ、涙をのんだ人もいたに違いない。
その年代の人たちが、今は世の中を仕切っているはずだ。
今なら、あのエネルギーがあれば、一致団結して破棄できるかもしれない…というふうにはなっていないらしい。

おもしろい…といえば、怒られそうだが、それは鬱屈したエネルギーが対象を求めているときに、偶然居あわせたようなものだったのか、それとも、若気の至りで後から思えばマチガイだった、ということなのか。

中途半端な気がしたから、そんなメモを書いたのだと思う。

若い時、何かに取り憑かれることはある。
それがあったということは、幸せなことなのか…。
残念ながら、ぼくにはわからない。

いずれにせよ、その思いには答えが出ていないし、もう出ることはないのだろう。

今思えば…どうなんだろう?



| | 考えたこと | 00:44 | comments(0) | trackbacks(0) |