小学校の教員という仕事、大変な仕事だが、いい仕事だとも思う。
それなりに、やりがいもあるだろう。
でも、今はなり手が減っているらしい。
2014年の2月頃、大学のキャリアで勤めていた時に教育委員会の人が来た。
採用の話だった。
ぼくの勤めていた大学は、小学校教員の養成はしていなかったが、小学校の先生の数が足りないから、なんとかならないか、という。
どういうことですか?と聞いたら、中学校の教員免許を持っている人がいれば、臨時教員で雇いたいということだった。
今は小中一貫の学校もあるから、それでも何とかなる、ということだった。
そんないい加減なことでいいのかなと思いつつ、丁重にお断りした覚えがある。
今は産休代替などの臨時教諭もなり手が全くいないということらしい。
ちょっと古いが、いつもこの手の記事を引用する中沢氏の
ブログの記事があった。
それによると、今の小学校教員は管理職からかつてないほど管理されているらしい。
「たとえば、プログラミングの授業。来年度からやりたくもないし、やれもしない授業を教員たちはやらされるわけだが、ある教員がやる気を出して今年のうちからプログラミングの授業をやろうとする。もちろん、子供たちを思ってのことだ。すると、校長は「「いま」の指導要領のどこに載っているんだ」といって警告をしてくるのだ。
これからやることが決まっていることでも、自分の想像力の範囲を超えることをしようとすると、「なにかあったらどうしよう」と禁止にするのが学校管理職である。」
神戸市の東須磨小学校の事件でも、うやむやになったが、管理職が関与していたようだった。
今の校長は、60歳近くなっても、再雇用されないといけないので、トラブルを起こすことを心配しているらしい。
さらに、不祥事やクレームを恐れる管理職と教育委員会によって、ガチガチの管理体制に移行してしまったとのこと。
それが教師個人の決定権を減らしている。
そういう状態だから、このコロナ明けの近所の小学校で初めて登校した1年生が外で縄跳びを1時間半やって帰ってくる、という事態になる。
教室に入ったら危ないからだそうだ。
思考停止も甚だしい。
いったい何のために学校があると思っているのだろう。
ガチガチに管理されているから、バカバカしくなっても、やめられない。
学校はブラック職場だからだそうだ。
「学校の教員は、圧倒的に「生きる力」が弱い。転職という最大の選択肢がないからだ。つまり、教員は自分の人生を自分で切り開けないということだ。
それで「キャリア教育を充実させる」と言っているのだから、笑ってしまう。教員も転職エージェントに査定してもらえば、もうちょっと謙虚になると思うのに。」
それに耐えていかないといけない、ということらしい。
これなら、小学校4年生で習うはずの割合をわからない大学生がたくさんいるのもうなずける。
それはすなわち、
「たしかに、学校の正規教員は保証された人生だ。ただ、人生の大きな部分を占める仕事を徹底的に管理されて、教員たちは幸せなのだろうか。幸せでない人間が、子供たちに幸せな人生をおくる手ほどきができるのだろうか。教員はめったなことでは解雇されない。一見よい制度のように見えるが、それはまともな教員からみると、ふつうの組織なら首になっているような同僚と人生を共にし続けなくてはならないということだ。
教育はほんらいクリエイティブな仕事のはずだった。けれども、創造性は徹底的に削がれて、管理だけが残った。
この傾向は、保育園の教諭から大学の教授に至るまで、現在のベクトルは同じではないだろうか。年ばかりとった小さな組織・社会は管理に向かう。」
コロナの対応が下は保育園から上は大学まで、みんな同じような反応になるのはそういうことなのかもしれない。
中沢氏はこう結んでいる。
「教員採用試験は低倍率が常識になりつつあり、ふつうの人は聞いたことがない大学の卒業生ばかりになってしまった。中堅私大の出身者でもかなりエリートである。つまり、民間企業から内定がもらえない人ばかりになってしまったということだ。
このような職場で人生の大半を過ごしたいという若者は、そう多くはないだろう。ただ、すべてを決めてほしいという若い教員が、さいきん増えている気がするのは、気のせいだろうか。」
本来クリエイティブな仕事である教師がどんどん魅力をなくし、誰もなりたがらない職業に成り下がってしまったのは、いったい誰のせいなんだろうか。