考えたこと2

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アレルギー
子供のアレルギーが増えているような気がする。

学校の給食で、アレルギーが問題になるケースがあるらしい。

こないだのニュースでは卵・乳・小麦・そば・落花生・えび・かに・あわび・いか・いくら・オレンジ・キウイフルーツ・くるみ・鮭・さば・大豆・鶏肉・牛肉・豚肉・バナナ・まつたけ・もも・やまいも・りんご・ゼラチンなどのアレルゲン(アレルギーを起こす物質)でたくさんの項目が引っかかり、結果的にビタミンが摂取できなくなって、「くる病」になった子どもが出ていた。

ぼくが小学校の頃はもちろん給食だったが、そんなにあれがダメ、これもダメという人はいなかった。
一人だけ、そばアレルギーがある人がいたが、少なくとも牛乳や卵がダメという人はいなかった。
そばアレルギーの人は、うどんの中にほんの1本そばが入っていてもアレルギーの発作が起きて、大変そうだった。
あれは気の毒だと思う。

給食でカニやアワビ、イクラ、松茸などが出たことはなかったので、もしかしたらアレルギーの人はいたかもしれない。
それにしても、小麦やエビ、イカ、オレンジ、鮭、さば、大豆、鶏肉、牛肉、豚肉、バナナ、りんごなどでアレルギーを起こす人がいるとは驚いた。
テレビでやっていた子供は、牛乳、卵、小麦など5つくらいの食品がアレルギーだったという。
小麦が食べられないと、たくさんのものが食べられないだろう。
お好み焼き・パン・揚げ物・ケーキ・ラーメンなどはダメになる。

しかし、ぼくが子供の頃はそんな人は見たことがなかった。
たぶん、今50代の人たちは、子供の頃そんな人が回りにいなかったと思う。
だいいち、パンがダメなら、毎日の給食がダメになる。

どれくらいアレルギーが増えたのだろう?
ここによると、「食物アレルギーがある子どもの割合が、9年前に比べて約2倍に増えている」らしい。
だから、増えているのはマチガイない。

その原因は、わかっていないが、現代の生活が清潔すぎることに原因があるのではないかという人もいるらしい。

ぼくもそう思う。
何でも清潔であればいいというものではない。
ある程度の不潔さにも寛容になって、それと共存することで、アレルギーに強くなるのだと思う。

ぼくらが小学生の頃は今ほど清潔ではなかった。
水道の水を平気で飲んでいたし、学校のトイレはくみ取り式だった。
今から思うと、まだまだ日本は貧しかったのだろう。

でも、そんな状態だったから、アレルギーは少なかったのかもしれない。

豊かになって、清潔になった。
そして、アレルギーが増えた。

さて、本当の豊かさとは、何なんだろう。



| | 考えたこと | 01:24 | comments(0) | trackbacks(0) |
石油危機
ミドリムシが脚光を浴びている。
今日はミドリムシから作ったディーゼルエンジンのバイオ燃料の記事をみた。

Wikipediaによると、ミドリムシは「鞭毛運動をする動物的性質をもちながら、同時に植物として葉緑体を持ち光合成を行う」と書いてある。
要は、動物と植物の両方の特徴を持っているということだ。
だから、太陽の光さえあれば、増やすことができる。

ミドリムシを扱っている、「ユーグレナ」という会社のページを見ると、こう書いてある。

「ミドリムシは、体内の葉緑体によって光合成を行う単細胞生物(微細藻類)であり、古くからその有効活用について活発な研究が行われてきました。 人間が必要とする栄養素のほぼ全てを含むミドリムシは、特に機能性食品や化粧品としての有効利用に期待が注がれています。また、太陽光と水と二酸化炭素だけでも成育することから、大量の食料を搬出できない宇宙などの閉鎖系環境における食料源としての研究もされてきました。」

ページを見ると、サプリメントなどが並んでいる。

しかし、燃料になるとは思わなかった。
いろいろ調べてみると、ミドリムシが体内で作る脂肪が、ディーゼルエンジンの燃料として使われるらしい。
それを取り出すということだが、ミドリムシは体長が0.1mm以下。
その体内に蓄積される脂肪を取り出すのだから、すごい量のミドリムシが必要だが、環境さえ整えてやれば、理論的には光さえあればどんどん増やすことができるから、今回実用化したということだろう。
もちろん実用化といっても、それを軽油に混ぜて使うらしい。

こないだガソリンを入れたが、リッター169円。ビックリする。これは石油危機だ。
みんなハイブリッド車を買うわけだ。
さすがにこれだけ上がると、そのうちトラック輸送の費用も上がるだろう。
アマゾンもいつまで配送料無料でやっていけるのだろうか。

アメリカではそれを見越したのか、ラジコンヘリコプターみたいなもので、商品を空を使って自動運転で届けるということもやろうとしている。
あれは電気で動くから、原子力などの石油を使わない方法で作られたエネルギーなら安くできそうだ。

コンビニの24時間営業なども、いつまで続けるのだろうか。
テレビの24時間放送も、ネオンサインなどの夜間宣伝照明も、みんな電気エネルギーを使っている。
昔、石油危機の時に、テレビの深夜放送が自粛されたことがあったなあ。あの時はネオンサインも消したはずだ。
石油がこれだけ上がってくると、そういう「自粛」も考えないといけないと思う。

原発に反対している人たちは、そういう運動を起こさないのだろうか。
そこまでやらないと、片手落ちだと思うが…。

警察は喜ぶだろう。
昔と違って、夜中も普通に活動する人が増えたことが、犯罪が増えた要因だと思う。

12時間営業になると、生活は変わるだろうなあ。
8時から20時が営業時間になると、夜は静かになる。
ネオンサインも20時までなら、見た目も静かになる。

生産労働人口が減っても、いままで夜中に働いていた人が昼間に働けるようになるから、大丈夫だ。

ぼちぼち、石油がなくなった世界のことも考えないといけない。

ミドリムシが人類を救うかもしれないなあ。

| | 考えたこと | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
ネコ派
この記事によると、イヌは人間を別の生き物だとわかっているが、ネコはどうも人間を別の生き物だとは思っていないらしい。

どちらかというと、ちょっと大きな同族と思っているということだ。

そういうことなら、いろんな謎が解ける。

ネコは人間に愛想をしない。
こちらが寄っていってもあまり喜ばない。
小さい頃から育てている人間との関係は、どちらかというと親子関係のようになっている。
飼い主を自分の親だと思っており、自分がかまってほしい時か、困ったときだけ寄ってくるのだ。
人間を本当に自分の親だと思っているのだろう。

イヌをペットとしてよい関係を結ぼうとすると、飼い主はリーダーにならないといけない。

しかし、ネコはリーダーを必要としていない。
誰かを頼って生きていくのは、ネコらしくないのだ。

それはネコの持っている本能に書き込まれているのだろう。
群れにリーダーがいて、みんなとともに行動するというようなことはない。
野犬の群れというのはあるが、ノラネコの群れというのはないのがそれを証明している。

そこがネコ派がネコを好きなところでもあり、イヌ派が馴染めない部分でもあるのだと思う。

意外かもしれないが、このページによると、アメリカのペットの数自体はネコの方が多い。
ネコは散歩をさせなくていいし、手がかからないのが気に入られているのだろう。
もちろん、問題はある。
爪とぎで家具が痛むとか、イヌよりも排泄物が臭いなどだ。
しかし、毎日散歩に行けない人にとっては、ネコの方が飼いやすい。

イヌはちゃんと躾けると従順だし、社交性もあるし、飼い主の運動にもなる。
逆に言うと関わらないと面白くない。
アメリカで飼われているイヌは、一匹ならほとんど部屋の中で飼われている。
日本のように外で飼っていると、下手をすると虐待だと言われる。
それくらいの関わりが、イヌには必要だと思われている。

でも、ネコは最小限の関わりでいいし、放っておいてかまわない。
逆にかまうと面倒がられたりする。
それを面白いと思えないと、ネコは飼えないだろう。
イヌよりも自律したペットになる。

それもこれも、イヌは人間を別の生き物だと思っているが、ネコは同族の生き物だと思っているということから、説明されるのだろう。

これは面白い。


| | 考えたこと | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
ある日の休日出勤
日曜日、休日出勤して仕事をしていると、大学生が来た。
ある企業を受けるので、履歴書を書かないとイケナイから、添削してほしいという。
自分はバイトばかりしていたので、書くことがないという。
よくあるパターンだ。

その大学生は付き添いの友だちを連れてきていた。
リュックを背負ったその友だちは、資料棚の本を出して見たり、雑誌を見たりしていた。

添削は難航を極め、なかなか完成しない。
休みの日なので時間はあるというから、課題を出して、それについて今頑張って書くように言った。
ちょっと時間がかかりそうだったので、付き添いの学生に、話しかけた。

「君は就活はどうなってんの?」
「いえ、私はもう働いているんです」
「え、もう卒業したの?」
「いえ、高校を出て働いてます 同級生なんです」

このやりとりをしただけで、しっかりしているということがわかった。
目を見て話をすれば、二言三言でもどんな人かわかることがある。

「へー、そうなん。今日は○○さんの付き添いで来てくれたんか」
「そうです」
「悪いなあ、休みの日やのに…」

添削をしていた大学生とだいぶ違う。
社会に出るということが、どれだけ人を鍛えるかということがよくわかった。

自分の仕事をしながら聞いていると、その学生に見えていた社会人が、同級生の履歴書を書いている学生に言っていた。

「ここにたくさん資料があるから、それを見て勉強しぃ」

そうなのだ。
ハウツー本がたくさん置いてあるから、それを見て考えればできることもある。
大学生の方が言う。

「わたし、本は苦手やから、読まへんねん」

実際にあった話。

ぼくは複雑な気持ちになった。

どちらの人が大学に来たほうがよかったのか。

もちろん、大学に来て成長するという側面もある。
でも、社会に出て働くことで得られる成長もあるだろう。
人生にタラレバはないのだが、もしこれが逆だったらと考えた。

そう考えると、ちょっとせつなくなった。

| | 考えたこと | 21:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
マークシート入試
今の入試と70年代の入試、何が違うか。
私学に限っていえば、まずは入試の回数が違う。
一般推薦、特別推薦、スポーツ推薦、併願推薦、専願推薦、AO、一般入試A日程、B日程、C日程、センター併用などなど。
飛躍的に増えた。

そして、科目数が違う。
5科目を課しているのは私学では珍しい。
文系については国語、英語の2科目というのも珍しくない。
飛躍的に減った。

そして、記述式のテストが一部の大学を除いて、ほとんどなくなった。
マークシートの試験だ。
最近のマークシート試験を見ていると、数学などは工夫されてはいるが、丁寧な選抜という側面ではメリットは全くない。
とにかく、早く採点を済ませて、「次の入試」を受けてもらうためにやっている。
まあ、もともと入試が成立している大学での話だが…。

マークシート試験のメリットは、採点が楽ということしかない。
それはそうだろう。機械が読み取って採点するのだから、間違いようがない。
グーグルで「マークシート試験 メリット」と入れて検索してみればわかる。
出てくるページをみても、上記以外の「メリット」について書いてあるページがない。
おそらく、マークシートをよいものだと思って使っている入試関係者はいないと思う。
必要悪だと思っているはずだ。

マークシートが出てきて、入試が変わったのだと思う。
大学の先生方は自分たちは研究者だと思っているから、入試などには関わりたくないという人が多い。
多くの先生は、内心、入試は余計な業務だと思っている。
採点という仕事がなくなったことで、入試は完全に事務の業務になった。
それまでは、良くも悪くも、採点に関わることで、入ってくる学生のレベルを知ったり、入学者の課題もわかってきただろう。
そういう情報は、マークシートを導入して、なくなったのだと思う。
それも、今の多くの大学の問題点だと思う。

一部の私学では、入試の作問を外注しているから、さらに入試に関わらない。
おそらく、私学の事務サイドは、下手に先生に関わられると迷惑だと思っている。
もちろん思っているだけで、口には出さないのだが…。
下手に作問されて、間違いがあっては困るということもある。
入試の最中に、訂正の板書をしないといけなくなる。

こういう経緯を経て、入試という業務が、大学の仕事ではなくなってしまった。
入試は、入試のプロの仕事になったと思う。回数も増えて、種類も増えたからだ。
年間何回も入試をやって、早めに受験生を獲得したり、検定料を稼ごうと思うと、丁寧な仕事をやっていてはムリだ。
一般入試については、テストをやった日の翌日には採点が終わり、その次の日には入試委員会をやって、そのまた次の日には教授会を開き、合格発表をしないといけない。
そういうふうにしないと、A日程、B日程、C日程などという強行軍はできない。
受験生が減って、採点が楽な(それは不幸なことだが)学校などは、マークシートをやめても頑張れば採点が間に合うのだが、そういう学校に限って先生が入試に興味がなかったりする。

要は、マークシートのメリットというのは、大学側が入試を業務パッケージにして何度もやるためでしかないと思う。
地方入試も入れると、小さな大学でも多くの入試をやっており、それをさばこうと思うとそういうやり方しかできない。

ちなみに、京都産業大学の入試スケジュールを見てみると、前期が1月27、28、29、30日で、中期が2月14日、後期が3月10日となっている。
受けた人数は前期が約24000人、中期が約3000人、後期が約3000人だった。
この人数について、2週間ちょっとで、入試の結果を出し、学内手続きを済ませ、合格発表をしないといけない。
そして、落ちた人は次の入試の申し込みをさせないといけない。
丁寧な入試などやっていられない。
だから、必然的にマークシートでなければ、できないのだろう。

マークシートは、暗記して得た知識を確認したりする試験には向いていると思う。
しかし、今大学で言われている課題解決の能力を図るのには向いていない。
得た知識をどう使うか、というような能力が必要とされているのに、入試ではそれを測らないということだ。

センター試験など、膨大な人数の生徒の一斉試験などには、マークシートを使うしかないだろう。
これは落とすために試験ではなくて、知識をどれだけ得たかという試験だから、それでもいいと思う。
消極的賛成ということだ。

現状ではもう受験生は少ないから、記述式に戻せる学校もあるんだと思う。
でも、一度楽をしてしまうと、もう元には戻れない。
いくら記述式がいいとわかっていてもだ。
よほど志の高い教員組織がないと、ムリだろう。

もう一度言うが、マークシートの入試には、採点が早いというメリット以外何もない。

入試の改革を文科省は考えているようだが、ぼくは入試の回数を減らし、マークシートの入試をやめるという方法を推薦する。(もともと記述式のところは回数だけ減らす)

いい考えだと思うのだが…。

| | 考えたこと | 00:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
ヤジとユーモア
東京都議会で女性蔑視のヤジが問題になっている。
情けない話だ。
どうしてあんなヤジを飛ばすのか、わからない。

ヤジの話というと、阿川弘之の言っていた話を思い出す。

代々、イングランドとスコットランドは仲が悪い。
国会で、イングランド出身の議員がスコットランドの悪口を言ったらしい。
「イングランドでは馬しか食わない「えん麦」をスコットランドでは人間が食っている」
それに対応してすぐにスコットランドの議員が応答した。
「今のイングランドの議員の行ったことは正にその通り。だからスコットランドの人間が優秀で、イングランドの馬が優秀なのだ」
これで会場は大爆笑。
殴り合いにも、新聞沙汰になることもなかった。

日本でこういう話をすれば、間違いなく誰かが口に出したところで、すぐに問題になるだろう。
でも、イギリスの議員にはユーモアのセンスがあった。
この例の場合は、スコットランドの勝ち。
言ったイングランドの議員も、一本取られたという感じ。
見事なユーモアである。

どうせヤジを飛ばすのなら、そんな機知を働かせるようなヤジを飛ばしてほしい。
みんなが思わず笑って、それで新しい議論にいけるようなヤジだ。

もともと、日本の議会の質問など、自分がいかに頑張っているかという宣伝みたい内容が多い。
わかりきったことをくどくど言う。
質問者はほとんど質問をせず、その問題について自分がいかに知っているか、ということを話す。
あれでは、質疑応答にならない。

おまけに、○○先生、という言葉づかい。
あの言い方は何とかならないのか。
知性のかけらも感じられない。

そもそも、議員に知性を求めることがムリなのか。

仕方ないなあ。




| | 考えたこと | 00:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
クラシックカー・ディーラーズ
ケーブルテレビで、クラシックカー・ディーラーズという番組をやっている。
中古のクラシックカーを買い付け、それを修理し、売って儲けを出すという番組。
こう書くと、なんかしょうもない番組に聞こえるかもしれないが、買い付ける車が毎回楽しみで、そしてそれを修理する腕が抜群で、楽しみにしている。

買い付けるのはマイクで、修理するのはエド。
扱う車は70年代、80年代の車がメイン。
イギリスの番組だが、フランス車、ドイツ車、アメリカ車も扱っている。
まれに日本車も出てくる。
アメ車はロスに買い付けに行くことが多い。

今までいろいろな車が出てきた。

イギリスのジャガー、フランスのシトロエン、ドイツのワーゲンやポルシェ、メルセデス。
まれにはボルボやジープ、アルファロメオなどもある。

今回はどの車かな、ということで買い付けも面白いのだが、圧巻は毎回の修理。

エド・チャイナという名人の仕事を見ることができる。
ミッション、ブレーキ、エンジン、マフラーなどの駆動・制動・排気系はもちろん、外装の修理や内装の修理も見ものだ。
毎回説明があって、手順よく修理していく。
シートの張り替え、凹みの修復、ペイントの塗替えなどもやる。
もちろん全塗装などは業者に任せるのだが、色が変わると車の印象が変わる。

いつも、買った時は中古のポンコツだが、売るときには見違えるほどの車になる。

70年代や80年代の車は、構造自体はわりとシンプルで、修理が目に見える。
五感を使って調子が悪いところを見つけ、その部分にアクセスし、必要なら部品を変えたり調整したりする。
時にはエキゾーストシステム全体を交換したり、ミッションの歯車を交換したりする。
そこに行きつくまで、いろんな部品を外さないといけない。直すのは簡単ではない。
でも、エドの修理を見ていると、40年経っても車は走れるということがよくわかる。

まだまだコンピューターが車の中に使われていない頃の車だ。

あと何十年か経って、こんな番組ができるだろうか。

調子が悪いところがなかなか五感ではわからない。
車がどんどん複雑になって、簡単にいじれなくなる。
メーターパネルは液晶になる。
アクセルペダルは、直接車を制御しない。ボリュームペダルみたいなものだ。
踏んでも電気信号が流れるだけになる。
ハンドルも、同じだ。
電池とモーターで動くクルマになると、感電に気をつけないといけない。
部品点数は飛躍的に減るだろうから、見ていても面白くないだろう。

そんな車ばかりになっても、クラシックカー・ディーラーズは成り立つのだろうか。
あまりおもしろい番組にはなりそうにない。

コンピューターの診断の器械を持って、修理する。

なんとなく味気ない。

車も変わっていくなあ。


| | 考えたこと | 21:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
20代のための「キャリア」と「仕事」入門
20代のための「キャリア」と「仕事」入門 塩野誠 講談社現代新書

著者は、東洋経済オンラインで「キャリア相談:君の仕事に明日はあるか?」を連載している。
著者自身も、ゴールドマン・サックス、ベイン&カンパニー、ライブドア等への転職や起業も多数経験しているらしい。

はじめにー知っておきたい「働く」ということ、という章にこう書いてある。

「みなさんは「普通の働き方」というものを、高校や大学を出て新卒で一斉に就職し、そのまま定年までその会社で働き続けることと思っているかもしれません。
たしかに少し前の時代まででしたら、それが当たり前だった部分がありました。しかし、そのような終身雇用を前提とした新卒の一括採用は、昔から日本の一部の大企業の話であり、より正確には男性の正規雇用社員についての話でした。しかし今、みなさんが固定概念として漠然と思っているこうした働き方は、大きく揺らいでいます。
文部科学省によれば、2013年春の大卒者は約56万人で、このうち約37万人が就職したそうです。つまり10人中6人しか新卒で就職していないことになります。10人中、残りの2人は無職だったり、アルバイト契約社員だったり、非正規雇用の状態にあります。こうした数字から、新卒で就職してその会社に勤め続けるという「普通の働き方」がすでに「普通ではない」ことがわかるかと思います。」

大人の世代と、若い世代は同じではない。
それはずっと昔からそうだったのだが、この数十年の変化は大きい。
というか、高度成長の時代を過ごしたぼくらの世代が特殊だったのかもしれない。
明日は必ず昨日より豊かになる、ということが当たり前で、全く疑わなかった時代だった。
そしてこう書く。

「街に出ればエンターテインメントとモノが溢れて豊かに見える日本も、その社会システムの制度疲労により、生きていくのがとても困難な時代を迎えています。大企業に勤めていた大卒男性社員が40代でリストラに遭い、派遣社員として月収20万円以下で働き、正社員になろうと面接を受けてもどこにも採用されないという状況が日常となっているのです。現実には40歳を過ぎてからの正社員での転職は極めて困難です。」

そうだと思う。
今はまだ日本は豊かだ。高度成長時代に貯めたストックがある。それを担保に借金し、生きていっているのだ実情だと思う。
でも、いつまでも借金を続けることはできない。
だから、変わらないといけない、というのが現在だと思う。

この本は一問一答形式で、若い人たち(だけとは限らないが)の仕事に関する疑問や悩みについて答える、という本になっている。
章立ては以下。

はじめに:はじめにー知っておきたい「働く」ということ
第1章:ようやく就職先が決まったのに家族は大反対です
第2章:友達より年収が低いのはなぜ?
第3章:転職するなら35歳までに決断したほうがいい
おわりに:おわりにー大人たちの攻撃で討ち死にしないために

第1章から、いくつか抜き出してみる。

相談1「キャリアを考える」ってどういう意味ですか?

答えの部分から抜粋する。

「みなさんが学生の時や社会人の早い段階からキャリアについて考え始めるのは、決してムダなことではありません。ただし、世の中は偶然や変数に満ち溢れているので、ほとんどの場合はみなさんの思いどおりにはいきません。思った通りにはいきませんが、人生の中でさまざまなイベントが起きた時に初めて、「こんなことが起こるなんてまったく考えてなかった、どうしよう」と慌てるのではなく、たとえば就職や結婚、またはリストラや病気といったイベントが起きた時に備えて何をやっておくかを、なるべく若いうちに考えておいて損はありません。考えておかなければならないほど、この国の経済状況は厳しく、頼ることはできないのです。おすすめは悲観的な前提を踏まえつつ、環境の変化を楽しんで生きることです。」

「みなさんが望むと望まざるにかかわらず、社会の変化として、みなさんの仕事は誰がやっても変わらないコモディティ業務と呼ばれるマニュアル通りの単純労働と、非常に高度な知識を要求され、高付加価値を提供する専門的な労働とに分かれていきます。みなさんがすでに気づいている通り、簡単に誰かにとって代わられるようなコモディティ業務に従事する人たちの雇用は、不安定になっていきます。そのような仕事を代替するのは日本以外のどこかの国の人でも、企業側にとってみれば「問題ない」のです。
仕事をしていく中で、求められるものは時代によって変わってはいきます。ただし、みなさんがキャリアを考える上で、「自分にどんな値段がつくか」ということを意識してくことの必要性は不変です。みなさんは値段がつく仕事を選択肢として持つために準備すべきなのです。準備ができていれば職業選択の自由が手に入りますが、準備をしていなかった場合、選択の余地はありません。未来の自由のために働き方を考えましょう。」

この筆者は75年生まれだから、39歳だ。その若さだから、高度成長の時代も少しは知っているが、ほとんどは日本の低成長の時代を生きている。
その彼が、この国の経済状況は厳しく、頼ることはできない、という。
そのとおりだと思う。
ぼくらやその上の世代は、本当に悪いことをしたと思う。
高度成長にあぐらをかいて、後の世代につけを回す借金ばかり増やした。
そこにIT革命が起こり、人が考えなくても出来る仕事が増えた。それに伴って非正規社員が増えたのだと思う。
それが、筆者が言う「コモディティ業務」というやつだ。
だから、社会にでる前に自分の価値を上げなくてはならない。
大学生をやっている時に、アルバイトでコンビニや居酒屋でコモディティ業務をしている場合ではないのだ。

相談2 何のために仕事をするのでしょうか?

「率直に言えば、日本という国の「段階」として、高度経済成長期に考えられた「今は苦しく不安定な生活だけど、未来はきっと安定的で豊かになる」という図式が、完全に崩れたのです。みなさんは生きていく中で、将来の不安定さを「当たり前」のこととして考えなければなりません。こうした中で日本の企業も余裕がなくなり、その継続性もわからなくなっています。しかし、逆に考えてみれば、一生どこかの会社に勤めなければいけない決まりはありませんし、みなさんが何かの「価値」を作り出せれば、それは仕事になります。みなさんにとってはごはんを食べて暮らしていくための「手段」である仕事が、誰かに必要とされたり、誰かに必要とされることがみなさんにとってうれしかったりすると、お金を稼ぐ「手段」だった仕事そのものを楽しんで生きていけるかもしれません。日本人に職業選択の自由がなかった時代があったことを思えばとても贅沢なことです。」

「仕事の目的はお金をもらってごはんを食べることなので、みなさんが就職活動をしていく中で、「今はやりたい仕事がないから」と何の仕事にも就かないでいるよりは、どんな仕事でも関わっていたほうがいいです。どんな仕事でもムダになりませんし、仕事をしない空白期間があると、あとから頑張って働こうと思っても他の諸事情によって、たとえば体力がなくなっていたり、育児や介護に時間をとられたりして、フルパワーで仕事をやりたくてもできないことがあります。これは社会に出る前に知っておくべきです。」

繰り返しになるが、ぼくらは幸いにも、高度成長の時代に人生の大半を生きることができた。
「人生」というのは普通名詞だが、誰のものでもない一般的な人生など、どこにもない。
人生というのは、常に誰かの人生であって、個別的なものだ。
戦争が終わり、戦後が終わり、そして高度経済成長があった。
そして、経済成長が終わり、高齢化が起こり、少子化が起こり、低成長の時代に入りつつある。
今の年寄りの世代は、もっと若い人たちのことを真剣に考えないといけないと思う。

「一見華やかそうに見えても、実は地味な作業の連続で「こんなはずじゃなかった」という仕事が世の中にはたくさんあります。とにかく早く気づいて、早く撤退すれば傷も浅くて済みます。あとは、新卒の時に「絶対にこの仕事じゃなきゃダメ」などという気持ちは捨てたほうがいいです。どこかで中途で入ってもいいですし、自分で商売を始めてもいいわけなので、新卒で、「その会社に入らないといけない」「その仕事に就かないといけない」という考え方は、今の時代には全然合っていないので、しっかり捨てましょう。」

その通りだと思う。
まずは組織に属して仕事をすることが第一。
やりたいことはできたらいいが、できなくても構わない。3年経ったら考えよう。

相談11 新卒で就職するならやっぱり有名企業?

「一つの例ですが、新人教育というのは企業にとって大きなコストなので、「新人教育しているヒマはないよ、自分で何でも考えてやってね」というベンチャーよりは、古くから続いている有名企業や大企業の方がビジネスマナーをうるさく教育してくれることが多いものです。大企業に入社することは、名刺の出し方、電話のかけ方、人の迎え方などという社会人のお作法を最初に学ぶにはいいかもしれません。
そんな初歩的なことだけでなく、社会人になって早い段階で会議の議事録の書き方などをきちんと学んだかどうかは後になって効いてきます。信じ難い話ですが、歳を取っても会議の議事録で何を書いているんだかわからない人はたくさんいます。」

「また、大きな会社で働いていると、大きな仕事のごく一部分しかやったことのないことが多いので、若ければ若いほど全体像を理解していない場合があります。そうすると、大企業で数年働いていても、本当に、「ビジネスマナーしか知らない人」になっているかもしれません。」

大きな企業に入るメリットもデメリットもあるということだ。
今や大きな会社だから潰れないということもない。
あの銀行が統合を繰り返し、今やわけのわからない名前になっているのを見ればわかるだろう。

相談13 ベンチャーに就職するのは危なくないですか?

「ただ、ベンチャーのかなり初期の段階から参加して、もしもその事業が大きくなった場合は、そのリスクを負っただけの大きなリターンがあることも確かです。ベンチャーに行って、若いうちからどんなに小さくても経営に関わるという経験は、将来ムダになることはありません。そこに飛び込むことによって得られるリターンは、みなさんがベンチャーに何を求めるかによって変わります。金銭的なリターン以外にも、若い時の何物にも代えがたい濃い経験がリターンとなるかもしれないのです。」

これもその通り。
大きな会社かベンチャーか、という選択ではなくて、会社で何を伸ばしていくか、ということを考えればいいんだと思う。
今の時代、「絶対大丈夫」という会社はないので、自分がどんなスキルをつけることができるか、ということを考えればいいのだ。

相談14 人助けがしたいのでNPOで働きたいのですが

「世の中のためになる仕事に就きたい」といって、NPO(非営利活動団体)やNGO(非政府組織)に就職を希望する学生がよくいます。でも、ここでよく考えていただきたいのは、何もNPOやNGOだけが、人助けをしたり世の中のために役立っているわけではない、ということです。
世の中にあるたいていの仕事は、人様の役に立っています。街の定食屋さんは日々誰かを幸せにしているでしょうし、バスやタクシーは誰かに利便性を提供しているので商売が続いています。NPOに入ることだけが、自動的に人の役に立つわけではありません。本当にNPOで働きたい場合は、利益を追求している一般的なビジネスより高度なマネジメントがわかっている必要がありますし、ある意味、普通の会社よりもお金に対して貪欲でないと続けられないのです。」

これもよくある勘違い。
NPOが世の中の役に立っているのと同じく、会社も役に立っている。
下手をするとNPO団体の方が、役に立っていないと思う。

利潤を追求するという事の悪い側面ばかりを強調する人たちが、学校には存在する。
昔の左翼的な考え方の人が残っているのだ。
もう時代遅れだと思うのだが、そんな意見を聞いてびっくりした。
今や利潤の追求は、社会から認められないとできない。
考えたらわかると思うのだが、学校の先生には頭の固い人が多くて困る。

相談17 どうすればエリートになれますか?

「ただ、誤解している人も多いかもしれませんが、たとえば学歴について言いますと、世界の先進国の中で日本は学歴が低い国です。日本では大学名を入試偏差値順で並べて、その上の方を高学歴を言っていますが、本来はそれを高学歴とは呼びません。高学歴という場合は修士であったり博士であったり、大学院以上の専門課程において高度な専門教育を受けていることを指します。海外ではベンチャーの経営者が「博士号を2個持っています」「理系博士で弁護士です」「実は医者です」などというのはわりと普通です。そもそも、日本に比べると韓国やシンガポールの受験戦争の方がよっぽど過酷です。
では世界的にはどうかというと、子供の頃に「自分は全然勉強しないのに、すごくテストができちゃうな」とか、「別に練習しているわけでもないのに、すとく運動ができちゃうな」とか、何らかの自分の才能に気づいて、こんな才能を天から授かってしまったからには、世のため人のために、何かやらなきゃいけないと思った人が本物のエリートです。」

「みなさんがエリートを目指して、いきなり世界平和レベルのことを成そうとするのは難しいので、まずは何よりも目の前の仕事をこなし自分で稼いだお金でごはんを食べられるようにする。または自分の家族にごはんを食べさせられるようにする。少しでも他の人のために何かしようと思うのなら、満員電車で人を押しのけない、近所の人にしっかり挨拶をするなど、日常に中には他人をちょっと幸せな気分にさせる機会はたくさんあります。(きちんと挨拶もできない大人はわりと存在します)。その上で、もっと人の役に立つことが自分にとって快感であればやればいいのであって、それは人に役に立つことが好きだったり、気持ちよかったりしないとなかなか続きません。世のため人のため的な行為は、続けることが難しいものです。」

過去に、世界のために働きたい、といった学生もいた。
では、自分に、世界のために何ができるのか、といったら考えていた。
就職活動はうまくいかなかったと思う。
あまりにも大きな夢を持って、自分の実力とのギャップでどうしようもなくなったのかもしれない。
どうして、ちゃんと就職して、税金を払うことが世界のためになる、というふうに考えられないのかと思ったのだが…。

相談23 ロジカルシンキングって本当に役に立つの?

「普通はダラダラとしゃべった後に、結論がイエスかノーかもよくわからないという人が大半を占めます。ある論点に対して、イエスかノーかの結論を最初に言い、そのような理由が何点あって、それぞれの理由は○○ですという話し方ができる人は非常に少ないのです。なぜロジカルシンキングブームが続いているかというと、短時間のうちに正確に意志が伝わり、相手にも「あ、この人、頭の回転速いな」「キレる人だな」という好印象を与えるからです。
ロジカルシンキング風な話し方は、地頭のよさというより、心構えや習慣の問題でしかありません。必ず最初に結論を話し、自分がその論点に対してイエスなのかノーなのか、自分のポジションをとって明確に述べてから理由を説明するというのがポイントで、それらを自分に課すだけでまったく世界が違ってきます。人は普段からそんなことはしていませんので、論点に対し自分のスタンスを明確にするだけで志向が整理されます。」

「論理的思考は元来、何かの問題解決を効率的に行うためのツールだと考えられますが、たいていの人は解こうとする問題からして間違っています。論点が間違っていたり、あるいは問題設定自体を間違う場合も多いです。ビジネスにおいて難しいのは、学校のテストであれば問題がすでに書いてありますが、ビジネスでは問題そのものも自分で設定しないといけない点なのです。」

論理的に話すこと、論理的に考えること、これらは訓練でできることだ。
これはぜひ学生時代に鍛えてほしいと思う。

全般的にこの本は質問、解答形式でわかりやすく書いてある。
就活生に特化したものではないが、読むことで「キャリア」と「仕事」の入門ができるようになっていると思う。

| | | 23:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
沈黙は金
かわいがっていたペットの死は、肉親の死に近いものがある。

「なぜイヌの寿命は人間より短いのだろう」ということに対して、6歳の男の子が愛犬の死に際して言った言葉。

「人間はみんな生まれてきてから、人を愛したり、幸せな人生を送る方法を覚えるんでしょう? でも犬は、生まれたときからもうすでにその方法を知っているから、長く生きる必要がないんだよ。」

このページに載っていた。

時々こういうペット関連の記事があって、ぼくは感心する。
いくらかは脚色もあるんだろうが、それでも、こういうことを子どもに喋らせる力が、ペットにはあるんだろう。
子供の素直な心がペットに通じるのかもしれないなあ。

ペットというのは、イヌでもネコでもそうだが、何かしら心が通じあった(と飼い主は思っている)生き物だろう。
でも、それはペットが言葉を話さない、ということが主因だと思う。

ゴールデンレトリーバーを飼っている人に、「イヌが喋れるとしたら、どうでしょうかね」と聞いたら、「きっと、腹が立ってペットにはならん」と言っていた。

イヌやネコは地表に近いところにいるから、夏の暑さは人間の何倍もあるそうだ。
夏になったらイヌが「暑い暑い、私らはあんたらと違って地面に近いところにおるんやから、もうちょっと気を遣ってくれ」などと言ったとしたらどうだろうか。
いくらカワイイと思っていても、ちょっと何か言いたくなる人もいるだろう。
「そんなこというても、イヌやから仕方ないやろ」という言葉が出たりする。
そうなると、イヌもイヌで「そういう気を遣わんから、人間はあかんねや」と売り言葉に買い言葉で言ったりする。
そうなると…。

だから、ペットがペットであるのは、人とのコミュニケーションの手段が言葉以外のものだからだろう。

イヌやネコと人間は遺伝子はそう変わらない。
ほんのちょっとの違いが、人間を人間たらしめている。

その違いの部分で一番大きいのが「言葉」だと思う。

昔から「沈黙は金、雄弁は銀」という。

ペットたちの沈黙が、「生まれたときからもうすでにその方法を知っている」ということなのかもしれない。

普段からしゃべりすぎるぼくは、ちょっと反省しよう。

| | 考えたこと | 22:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
野球派
ワールドカップの時期になると、世の中はサッカー一色になる。
野球派は分が悪い。
日本では、プロスポーツのトップは今はまだ野球のような気がするが、いずれサッカーに取って代わられるような気がする。

しかし、アメリカのようにプロスポーツが盛んな国でも、サッカーはマイナーという国もある。
アメリカンフットボール、バスケット、野球などの人気が高い。
なぜか、サッカーは人気がない。

このニューズウィークのコラムによると、アメリカでサッカーが人気がない理由は、

1.野球、フットボール、バスケット、アイスホッケーにテニス、ゴルフもあって、もういっぱいいっぱいだ。

2.「フットボールと違って一人でボールを持って駆け込めないのはつまらない」とか「アイスホッケーみたいに前へ前へ投げ込んで、取られても当たって奪い取るのが好きなのに」あるいは「MFもDFも局面によってはシュートを打っていいなんていういい加減な役割分担は嫌い」という誤解?がある。

3.「45分間ダラダラ走っている割に点がほとんど入らないので退屈」で、時計の妙味(時間が止まったり動いたりする)がない。

ということらしい。

要するに、サッカーを見ても面白さがわからない、ということだろう。
何となくその気持はわかる。
どう言ったらいいのか…。

アメリカンフットボールほど作戦が緻密ではない。
バスケットボールほど、テクニカルではない。
アイスホッケーほど、ぶつかり合うこともない。
野球ほど、場面設定が明確でない。

そういう意味では、サッカーは全てが中途半端に見える。

ぼくは、試合中にああだこうだと言えないことが、もう一つサッカーが好きになれない理由の一つでもある。

野球やアメリカンフットボールならプレーに「間」があり、次はどうするだろうかとか、こういう作戦でいくべきだとか、次のプレーが勝負だなあとか、そういう話ができる。
それがサッカーではしにくい。
もちろん、ぼくがサッカーの知識がないこともあるだろうが…。
サッカーは見ている方も忙しい。

つまり、野球やアメリカンフットボールには、「間」が作る「ドラマ性」がある。
野球なら、一球ごとの間があるし、アメリカンフットボールなら、攻撃側のプレーがスタートするまでの間がある。
その間が、ドラマ性を盛り上げる。
一緒に見ている人に、ああだこうだと話ができる。

案外、そういうところがサッカーが人気がない原因ではないかと思っている。



| | 考えたこと | 00:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
アサイチ嫌い
アサイチという番組、NHKが朝8時半からやっている。
まるで民放かと思う。にぎやかな番組だ。
車で通勤している時に、おはよう日本からこの番組に変わって、聞くのをやめた。

聞くと、人気があって視聴率も高いという。
ぼくは、こんな番組のためにNHKに受信料を払っているのではない。
NHKにお金を払っているのは、ある程度のクオリティを保った番組を見たいからだ。

朝からアナウンサーとジャニーズのタレントが出てきて、朝のドラマのことをわちゃわちゃ話す。
健康や家事などにちなんだテーマが毎日設定され、それについてコメンテーターが出てきてワケの分からないコメントをする。

地方に取材に行って、それをVTRで流し、これまた司会者、タレント、コメンテーターが一緒になってわちゃわちゃ言う。
料理人が出てきて、料理をしてみせる。
まさに、いろんなことを詰め込んでやる、バラエティ番組だ。

こういう番組をやらないことが、NHKの存在価値ではなかったか。
静かなニュースやハイブローなニュース解説はどこに行ったのか。
朝からうるさい。
こういう番組を見たい人は民放を見ればいい。
全部同じような番組なら、NHKの存在価値はない。

日本中、うるさいアナウンサーとジャニーズに毒されている。
とにかく、うるさく話す。
声が途切れる時間がない。

NHKよ、お前もか、と言いたい。

おそらく、視聴率を考えるとこちらにいくのだろう。
それらの人たちからも、受信料をもらわないとイケナイから、こんな番組ができる。

しかし、こんな番組を作っていると、まさに一億総白痴化が進んでしまうぞ。

この番組を見ると、池田晶子が書いたことを思い出す。

「先日のニュースなど、近所でおいしいキムチを作るおじさんがいるので、このことを全国の皆さんに是非とも知らせてあげたい。で、その情報をインターネットテレビなるものに作成して流している人のことを、これまたテレビで放映しているわけである。
 そうまでして、そうするべきことなのだろうか。自分たちがいかに無内容なことをしているかということを、今やそこにいる誰もがわからなくなっているのだ。これは驚くべきことである。
 情報伝達機器が発達するほど、伝達される情報の無内容が露呈してくるというのは、皮肉なことだ。当然といえば当然である。伝えるべき内容を発達させずに、伝える手段ばかりを発達させてきたからである。そもそも「何を」伝えたいのかという然るべき問いを、なぜ所有せずにいられるのか、それが私には不可解である。「便利になる」、大変けっこうなことである。しかし、便利になるほど人が馬鹿になるのは、どういうわけなのだろう。」


アサイチを見て、本当にそう思う。

| | 考えたこと | 23:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
グローバル人材
グローバルという言葉が定着して久しい。
一般的にはヒト、モノ、カネが国境を超えて自由に行き来する状態を、グローバル化した状態、と言うと思う。
そして、そういう状況に対応してビジネスをやるために、グローバル人材の育成ということが言われている。

人材関係のコンサルタントをやっている、河合薫さんという人が日経ビジネスに記事を連載している。
その記事を読んで、ぼくも同じ思いを抱いた。

文科省を筆頭とした教育関係者は、まず語学と言っている。
英語が話せないといけない、というワケだ。
だから、小学校から英語を必修にしたり、大学では英語で授業をやることを推進したりしている。
それがイケナイと言っているのではない。
河合さんはこう書く。

「TOEIC が高得点だからといってビジネスシーンで英語が使えるとは限らない。ビジネスで使う英語力は入社後に研修やOJT で磨くことになる。(電気機器F社)
 正直、この結果をみてホッとした。私自身、英語よりも「伝える中身」を持つことの方が重要だと思っていたし、企業の方たちと話すと、海外で仕事経験のある人ほど、「英語ができるに越したことはないが、できるからといってグローバル人材にはなり得ない」と考えている人が多い、という印象を持っていからだ。
 と、こういうことを書くと、すぐに、
 「何、分かったようなこと言ってるんだ。英語ができないことには、海外で仕事なんかできないぞ!」
 「コミュニケーションを取れなきゃ、信頼だってされない」
 「スピードが要求される今の世の中で、英語ができないことで失うものの大きさが分かってない!」
 などと、口をとがらせる人たちがいる。
 なので、何度も書くが、英語ができて悪いことなど1つもない。海外で仕事をするのに英語はできた方ほうが楽だし、いろいろな意味で、最初のハードルが下がる。だが、昨今の英語至上主義は、ちょっと異常だ。」

ぼくもそう思う。
英語が出来たほうがいいのはわかっている。
でも、いくら英語ができても、ビジネスで話す内容がなければ、通訳にしかならない。
だから、必要条件として英語力がいるのだろう。
極論すれば、英語はカタコトでもいいのだと思う。
それよりも、向こうが知りたい内容、こちらが伝えたい内容を持っていることがまず求められる。
いくら挨拶が上手にできても、俗語を知っていて打ち解けて話ができても、内容がなければ相手にされない。
英語は手段なのだ。
目的がなくて、手段だけ持っていても意味がない。

そしてこう書く。

「大反発をくらうこと覚悟で、意地悪な言い方をすると、「それって仕事ができないことを、ただただ英語ができないからと言い訳にしているだけじゃないんですか?」などと言いたくなるほど、今のグローバル人材育成の流れは、英語力が特化されて、短絡的になっていないかと思うのである。
 米メジャーリーグで活躍した野茂英雄さんは渡米する際に、「ところで野茂さんは英語が話せるんですか? メジャーリーグのベンチで英語が話せないとイジメに遭うかもしれませんよ」と記者から質問された。
 それに対して彼は「僕は英語を覚えるためにアメリカに行くわけじゃない。野球をやりに行くんです」と答えた。
 そして渡米後、アメリカ人にとって最も有名な日本人になるほど、彼は大活躍した。
 世界で使えない人は、日本でも使いものにならない。「日本でしか通用しない人」と思われている人は、実際のところ、日本でも通用していないんじゃないだろうか? 
 もし、ホントにグローバル人材が日本にいないとするならば、日本中が使えない人たちであふれているか、もしくは、英語がたまたまできないというだけで、グローバル人材という枠からはじき出されてしまっているか、そのどちらかだ。
本当に日本で働く以上に求められることとは?
 ただ、1つだけ日本で働く以上に、繰り返すが、「日本で働く以上に」、必要なものがあるとするならば、「たった1人でも、完全なるアウェーでも、どうにかしてその場で、限られた資源の中でベストと思える答えを探り出す力」。自律性(autonomy)だ。
 自律性は、「自分の行動や考え方を自己決定できているという感覚」で、自分を信じることで、目の前にあってできることを1つひとつ進め、自分の強みを進化させる動機付け要因となる。自分を信じる力は、何ごとにも優るエネルギーを引き出す。
 誰も助けてくれない。たった1人。その状況でも、「これでよし」と自分の行動を決められる「自律性」なくして、世界では太刀打ちできない。」

全くその通り。
「日本でしか通用しない人」と思われている人は、実際のところ日本でも通用していないんじゃないだろうか、というのは本当にそうだと思う。

今の、英語が出来ないといけない、というのは英語が出来ないことを仕事ができないことの言いわけにしているのだ。
もともと、国の役人というのは、あまり海外での仕事はない。
内向きの仕事ばかりだろう。
だから海外に出ていくためには、英語ができないとイケナイと短絡的に考えるのだろう。

ぼくらの先輩は、アメリカやヨーロッパに出て行った。
そして欧米から技術を輸入したり、製品を輸出したりした。
彼ら先輩は英語が堪能だったろうか。
失礼かもしれないが、大多数はそんなことはなかったと思う。
でも、熱意を持っていたり、技術を持っていたり、売るべき製品を持っていたりした。
英語はカタコトでも、やる気があったのだと思う。
そうしないと、日本は食っていけない。
そういう使命感もあったかもしれない。
そういうふうにして、日本は輸出大国になれた。
あの先輩たちの苦労は語学だったろうか。
きっとそうではない。
たしかにそれは障害になったかもしれないが、単に障害だっただけだ。
伝えようという思いとその熱意で乗り切ったのだと思う。

そういう世代の人たちは、今の英語の教育については何も言わないのだろう。
出来たほうがいいに決まっているからだ。
でも、大事なことを伝えていない。
語学より大事なことは、仕事に対する熱意であったり、使命感であったりするということだ。

そういうことを忘れて、グローバル人材には英語だという。

そんなことを本気で思っているのだろうか。

そんなことを本気で思えるのは、日本でも通用しない人たちだと思う。

| | 考えたこと | 22:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
振り返らないと勝てないぞ
ワールドカップ、日本は第一戦コートジボワールに2-1で負けた。

今日各選手がテレビに出ていて、コメントしているところを見たが、一貫して「過去は振り返っても仕方がない」「済んでしまったことは振り返らない」というようなことを言っていた。
監督の指示でも出ているのか、というほどの異口同音ぶり。
きっと試合後にミーティングで総括し、振り返ったのだとは思う。
いくらなんでも、敗因を分析し、それを次回のギリシャ戦で繰り返さない、ということをやらないと、勝てないと思う。

ぼくはサッカーには詳しくないし、さほど思い入れもない。
それでも、選手が口をそろえてああいうことをいうと、心配になる。
本気で思っているのだろうか。
まさかそんなことはないだろうが…。

イングランドとイタリアの試合を見ていると、だいぶ違う。
日本は格落ちという感じだ。
やっぱり本場のサッカーは、スピードがあるなあ、と思う。
日本の優勝予想が0%というのも、むべなるかなという感じだ。

イングランドやイタリアのリーグでプレーしている選手もいるのに、と思う。
でも、よく考えたら、コートジボワールの選手たちも同じだ。
いい選手はみんなヨーロッパでプレーしている。

しかし、自国のリーグが育っていないと、ナショナルチームは不利だろう。
その意味では日本のチームの方が有利だったと思う。
いくら選手個人としてはランクが上だったとしても、サッカーには戦略というものがある。
その戦略がうまく働かないだろう。

たしかに、コートジボワールの選手のほうが体格的には強そうだった。
熱帯の国だから、暑さにも強いのだろう。
ランキングも上だった。
だから、負ける要因の方が多い。

負けるのは必然だったということなら、振り返っても仕方がない。
そう思っているのなら、あのコメントはうなづける。

でも、そうではないはずだ。

本気で「過去は振り返っても仕方がない」と思っていないことを信じよう。

次はギリシャ戦。
どうなるか、楽しみだ。

| | 考えたこと | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
自己点検
自己点検という言葉、聞き慣れない言葉だろうと思う。
文字通り、自分で自分を点検する、という意味だ。
これは文部科学省、大学で使われる用語。
まともな大学関係者なら知っている言葉になる。
しかし、意味と歴史を知っている人は意外と少ないのではないか。
多くの大学関係者は本音ではこんなもの要らないと思っている。
特に歴史のある大学ほど、何でこんなことをしないといけないのか、と思っている人は多いと思う。

weblioというWeb辞書の高等教育質保証用語集によると、「大学等が、自己の目的・目標に照らして教育研究等の状況について点検し、優れている点や改善すべき点などを評価し、その結果を公表するとともに、その結果を踏まえて改善向上を行っていくという質保証の仕組み。学校教育法において、その活動が義務化されており、高等教育の質保証は一義的に大学等自らが主体的に行うものという点が示されている。 」と書かれている。

この自己点検は91年に努力義務化され、99年に義務化された。
大学の自治に任せて9年間待ったが、何も前に進まないので義務化した、と言われている。
まあ、そうだろう。
「大学の自治」は大事だが、何もチェックをしなくていいという事ではない。
株式会社が株主総会をやって、株主の評価を受けるように、大学もステークホルダーの評価を受けなければいけない。
自己点検でちゃんと出来るのなら、9年も待たなくてもちゃんと出来ているはずだ。

日本には学問をやっている人たちはエライという間違った認識がある。
全て性善説でやっていればうまくいく、というものではない。
優秀な研究者が集まっていると言われている、理研の小保方騒動をみれば、それは明らかだ。
組織を運営するという面では、明らかに素人だし、全くエラくない。
ぼくの理解では、学校という組織をその総体で捉えられる人は、ほとんどいなかった。
学問をやっている(かどうか疑問な人もたくさんいるが)人たちは、学問のプロであって、組織運営が出来る人ではない。
もちろんそういう見方ができる人も中にはいるし、そういう人が上に立ったらラッキーだと思う。
彼らの意見は学校として尊重すべきだが、全部自治に任せるのは間違いだ。
まして、私立大学でも税金が投入されているのだから、外部からチェックをするのが当然だと思う。

ぼくが大学に転職してすぐの2005年に、教授会で自己点検の外部認証を得るためには、「教員の昇任基準」を明確にしないといけないということで議論されていた。
要はちゃんと資格を持った人に教えさせろということだろう。
これが紛糾した。
教授や准教授(当時は助教授)に昇任するためには、「過去●年に査読付きの論文数●本」という基準を明文化したのだ。

まだその当時は、事務のメンバーも教授会に出ていたので、その一部始終を聞かされた。

一番文句を言いたかったのは、もうすぐ教授になれるとか、准教授になれる、というような人たちだった。
明文化以前の人たちは、そんな基準は適用されずに昇任した、ということだからだ。
それは要するに、査読付きの論文など出さずに教授や准教授に昇任していたということだろう。

中には「そんな基準を作るんだったら、いままで昇任した人はどうなるのか」という、あまりにも素直な人もいた。

もちろん、過去に遡及して規則を適用しない、というのは常識であり、そんなことを言い出したらどんな規則も成立しない。
それでも、よほど悔しかったのだろう。
その議論で1時間ほどかかったかもしれない。

バカバカしい議論だったが、そういう議論をする学校もあるということだ。
これは後日ぼくが理解したことだが、そんな基準を厳格に適応すると、多くの人が昇任できない、という事態になる。
文科省が一つ一つチェックするのは不可能だが、その論文が査読をされているのかという基準が不明確だから、そんなことが起こる。
それが「大学紀要」とか「学部紀要」という雑誌が増える原因だ。
さすがに大学の内部からも批判が出てきたのが実情。

もちろんそんな学校ばかりではない。
上位の学校はもちろんちゃんとやっているだろう(ちゃんとやってもらわないと困る)。
でも、おそらくそうでない大学もあると思う。
そこには、日本の大学が急激に増えすぎたことや、設置基準が緩和されたことなど、いろんな要因がある。
しかし、いったん大学が出来てしまったら、後のチェックは任されるということが、こういうことが起こる原因だろう。
だから、自己点検をしないといけないということだったんだと思う。

何度も言うが、ちゃんとやっているところはちゃんとやっているのだろう。
しかし、ちゃんとやっていないところも確かにある。

人間、そんなに厳しくないから、自分で自分を点検することなど難しい。
ましてや、それを組織としてするなど、土台ムリなのだ。

そして、外部評価といっても、大学の関係者がやっている。
やらないよりはマシなのはわかっている。
でも、前述の記事を見てもらったらわかるように、実態はユルユルなのだ。

これが大学のやっている「自己点検」という、けったいな日本語の意味だとぼくは理解している。



| | 考えたこと | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
週報
ぼくは大学で進路支援をしている7年間、毎週、その週の業務を文書で報告していた。

それは前の会社で「週報」というものを出していたからだ。
その流れで、書き始めた。
実は会社時代の週報は、隔週で発行して、それを持ち寄って会議があった。
大学では毎週事務の課長の会議があったので、毎週出したということだ。

就職や進路支援というのは、大学で言えば出口にあたる。
以前は就職課と言っていたものだ。
今は多くの大学でキャリアサポートというような名前で呼ばれている。
なんでキャリアサポートと呼ばれるようになったのかについては、別途書く。

つまり大学では、入試が入り口で、進路が出口、学生の生活支援と教育支援は中の仕事になる。
会社でいう、川上が入試、川中が学生課、教務課、川下が進路支援ということだ。
入試の結果は、毎回(推薦、AO、一般入試A,B,Cと例によって何回もある)学内に公表されるし、総括もされる。みんなの関心も高い。
なぜかというと、収入に直結するからだ。
でも、そういうふうにして入った学生が、どんなふうに出て行ったかを知ってもらわないといけない。
だから、入試と同じように進路の状況もみんなで共有し、毎週報告することにした、というのがあとづけの理由。
要は、自分のまとめのためにも、毎週の取り組みや内定率などを把握しておきたかったのだ。

ところで、大学というところはどうやっていろんな活動を教員組織に伝えていくのか。
ぼくは、こんなことをやっているのか、と呆れた。

全ての業務は委員会が主体になる。
就職なら、就職委員会だ。
その構成員は各学部から2名とか決まっている。
小学校の代表委員会を思い出した。
そういえば、中学も高校も生徒会があり、図書委員とか、風紀委員とかがいた。
毎月それらの委員会があって、それに委員は出席し、聞いてきたことを学級会で発表する。
それが、そのまま大学の教員組織でやっていることだ。
委員会で決まったことを、学科会で報告するのだ。
学校というのは、上は大学から、下は小学校まで、同じことをやっているのだ。
だから、ずっと学校にいる人は、それしかないと思っている。
これは結構新鮮な驚きだった。
別に小学校と大学が同じだからといってダメというわけではない。
でも、もうちょっと機動的なやり方を考えても良さそうなものだが、そうしたことが検討された形跡はない。
ずっと学校にいる人(教員や一部の事務の人など)はそういうやり方、ひいてはそういう組織しか眼中にないということだろう。
それは仕方がないことだ。
みんな平等なのだ。
余談になったが、こんなふうに平等意識は学校に根付いている。

どんな教員を就職委員に選出するかによって、その学部の就職に対するやる気がわかる。
とても熱心な先生もいれば、学生のことを諦めている先生、自分のゼミの学生だけに興味のある先生など、いろんな先生がいる。
おしなべて、就職は大事だという認識はある。
でも、自分たちが何をしたらいいか、わかっていない先生が多かった。

だから、進路就職のことは事務におまかせだった。
ぼくはそれでいいと思っている。
進路のことについてゼミなどで学生に進捗報告させたり、様子を聞くという役割はしてほしいが、具体的な就職先のことがわからないなら、事務部門に任せるべきだろうと思う。
もちろん、自分のコネがあって具体的な就職先を紹介できる先生はやってくれたらいい。
要は先生が自分の進路のことを気にしてくれている、ということが大事なのだと思う。
やはり、そういう先生のゼミは就職内定率が高めになる。

ゼミ訪問といって、キャリアサポートの事務員がゼミの教室に行って、説明をするということもやっていた。
もちろん、先生が要望を出せばやる、という話。あくまでも教育が優先だ。
要望が出る先生は年間5人くらい。
それが実情だった。実情を変えたいという気持ちもあった。
そんな状態で、7年間、ほぼ毎週進路就職のことを報告していたのだ。

最初は紙ベースで回覧し、最後の1年ほどはメールにした。
その7年間を通して、その週報の内容や書いてあることについて、誰かから問い合わせがあったという記憶がない。
細かい数字のことなどあったかもしれないが、内容については全くなかった。
他の部署が出していないのに、どうして出すのかとか、逆に他の部署はどうして出さないのかとか、事務からも教員組織からも一度も聞かなかった。

途中からは意地になって何も言わずに週報を出していた面はある。
それでも、ほんとに誰も何も言わないというのはどういうことなのだろう。
いいとか、わるいとか、何か言ってくれてもいいと思うのだが…。

週報はA4に収まる内容で出していたが、紙面があまった時には自分の考えを書いたりしていた。

例えば、2011年の5月にはこんな内容もあった。パソコンの資格講座のことだ。

「今年度前期のパソコン資格取得講座の受講者人数を業者にもらった。大学生が15名。内訳はワード8名、エクセル7名、P検3級0名、P検準2級0名という状況。資格があるからできるとは限らない、という入社試験もあるが、資格すらなければ全くできないという事を言っているようなもの。このパソコン資格を取得するということに関して、学部のリテラシー科目では誘導していただきたい。すでにインターネットの時代になっている。パソコンの操作リテラシーを上げていくことがエンプロイァビリティを上げることになるという状況であり、就職率を気にするなら、この数字を何とかしないといけない。」

こんな内容を見ても、どうして誰も何も言わないのか、不思議だったが、2年目くらいからは諦めていた。
それでも、共有することは大事だと思ったから、毎週発信していた。

元の会社なら、あり得ない出来事だが、大学というところは文化が違うのだと悟った。

ぼくのひとりよがりで、他のメンバーに迷惑をかけていたのかもしれない。

でも、キャリアサポートのメンバーは分かってくれていたんだと思う。

| | 考えたこと | 00:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
イタリアの老人
南欧の人は陽気だという。
暖かい地中海の気候がそうさせるんだろう。

イタリアの老人たちは「人生はうまいワインとよい音楽があれば、それでいい」という。

ホントかウソかはわからないが、ぼくの持っているイタリアのイメージには合う。

こんなエスニック・ジョークがある。
ドイツ人が言った。「フランス人とイタリア人が戦争に弱いのは、 戦場まで豪華な食事を運ばなきゃいけないからだ。 その点、俺たちはジャガイモだけ、 イギリス人はフィッシュ&チップスだけ、アメリカ人はハンバーガーだけ食ってればいいから戦争に強いんだ」

フランス料理と並んで、イタリア料理は世界で有名だ。
ピザ、パスタは日本でも食べられる。
地中海にはイカやタコがいて、日本人にも馴染みがある食材だ。
イカスミのパスタがなければ、イカスミを食べることもなかった。

料理ほどは知られていないが、カンツォーネもある。
学校で習った。「サンタ・ルチア」とか、弘田三枝子の「砂に消えた涙」とか、明るい歌が多い。

最近のイタリアというと、首相のスキャンダルがあったり、経済的にもあまりよくないことが多い。

一説によると、13世紀にローマ帝国が滅亡してからというもの、右肩下がりになっているという。
旅行ガイドを見ても、スリが多いとか、こそ泥が多いとか、治安はあまりよくない。
不景気だからだろう。
マフィアも元はイタリアだ。

それでも、カソリックの国であり、教会も多く、信心深いイメージがある。
古いイタリア映画では、日曜日に朝教会に行ったり、食事の前にお祈りをしたりするシーンが出てくる。

そんなイタリアの老人が「人生はうまいワインとよい音楽があれば、それでいい」というと、ああ、そうなのかと思う。

何より、不況が続いており、若者の失業率も高いのだが、それでも明るく生きている。

これは、日本人も見習わないとイケナイと思う。

何かというと悲観的に考えてしまうのをやめて、明日は明日の風が吹く、と考えてのんびり行ければいいと思う。

「人生はうまいワインとよい音楽があれば、それでいい」

| | 考えたこと | 00:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
デュアル・カーボン・バッテリー
ナショナル・ジオグラフィックにデュアル・カーボン・バッテリーというのが発表されている。

記事によると、「リチウムイオンバッテリーより 軽い/安い/安全/長持ち/発熱しない/劣化しにくい/早く充放電ができる。」とのこと。
充電サイクルは3,000回以上。

この十数年で画期的に改良されたものの一つに乾電池がある。
ノートパソコンや携帯電話、スマートフォンなどの充電サイクルを長くし、いままでは電池では使えなかったものも電池で使えるようになったりした。
例えば扇風機。充電式になって、数時間ならバッテリーで動く。

また、路上ライブで使われるアンプ付スピーカーも乾電池になった。
何時間かは音を鳴らすことができる。

コードレス掃除機の力も上がったし、ロボット掃除機もバッテリーの進化がないと出来なかっただろう。
充電式湯たんぽや充電式カイロもある。
ドライヤーもアイロンも充電式になった。
自動車みたいな重いものも、モーターと電池で動かせる時代。
電池の進化はスゴイ。

ぼくらが小さいころの電池はマンガン電池。
そして、充電式のニッカド。
アルカリ電池、ニッケル水素、リチウムイオンなどのいろんな電池が開発された。
開発されるたびに性能が上がる。

充電電池は電気を貯めておくためのものだ。
これが発達すると、文字通り電気を保存することができる。
いつか、雷の電気を貯められるようになるかもしれない。
究極の再生エネルギーになる。

デュアル・カーボン・バッテリーは未来を拓くエネルギーになるだろうか。

物理や化学を専攻する学生たちが未来をつくるかもしれないぞ。



| | 考えたこと | 23:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
理系志望
ぼくは理系だった。

いつから理系を志したか、覚えてはいない。
ものごころついた時から、理系だった気がする。

そのきっかけは一度書いたことがあるが、マンガに出てくる科学者だった。
マンガといっても、まともなSFマンガだ。
鉄腕アトムのお茶の水博士、天馬博士、サイボーグ009のギルモア博士など。
いまどきの無国籍マンガとか、時代がいつかわからないマンガ、なぜそうなるのか、説明がないマンガとは違う。
ちゃんとしたサイエンス・フィクションだった。

そういうマンガに出てくる、科学が好きだった。
科学は良いものであり、人類を幸せにする、という憧れがあった。
それで、わけもわからず理系だと思っていた。
単に科学者になりたかったのだ。

そして、プラモデルを作るのが好きだった。
モーターや豆電球を配線し、組み立てたプラモデルが動くのが楽しみだったのだ。
自分で組み立てるから、どういう仕組みかわかる。

中学校を卒業した時、何の迷いもなく理系だと思っていた。
高校1年で理系クラスに入った。
今から思うと、別に数学や理科が得意だったわけではない。
それでも、なんの疑いもなく理系だと思い込んでいた。

だから、理科離れを止めるのは簡単だ。

SFマンガをもう一度流行らせ、博士を出せばいい。
科学は人を救うもの、人類の未来を明るくするものであり、科学者はそれを実現する人だ、ということをマンガの哲学にする。

主人公はロボットでもアンドロイドでもサイボーグでも超能力者でも何でもいい。

手塚治虫や石森章太郎のような作家が出てきて、マンガを書いてほしいと思う。

もう時代遅れかもしれないが…。

| | 考えたこと | 21:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
変態大学
最近、入学式で話題になった近畿大学だが、英語の名称を変更したらしい。

なぜかというと、近畿大学はKINKI UNIVERSITYのはずなのだが、このKINKIというのが間違ってKINKYという英語にとられることが多いという。
このKINKYの意味は「変態」らしく、KINKI UNIVERSITYが「変態大学」になってしまう、ということが原因らしい。
英語名称を変えることによって、留学生募集した時に不利にならない、ということだ。

実際、どうなんだろうか。
近畿という言葉は由緒ある日本語だろう。
そして、KINKI UNIVERSITYといった時に、わざわざ変態大学と思われるんだろうか。
日本の大学の名前とわかっていて、KINKIをKINKYだと思う人はあまりいないと思うのだが…。

まあ、発音の問題もあるだろう。
代わりに呼び名は、KINDAI UNIVERSITYになるという。
そうなると、日本語では近大大学ということになる。
名は体を表す、といって、名前を軽んじてはいけないと思う。
だいいち、近代大学というマチガイも起こるではないか。

近畿、という名前はそんなに軽いものだったのか。
ま、あれだけ軽い入学式をする学校だから、名前も変えるのだろう。
学内で反対はなかったのだろうか。

真偽の程はわからないが、英知大学がエッチ大学と間違われるから、という理由でセント・トマス大学という名前に変えていたなあ。
この大学は破綻して、もう学生がいないはずだが…。

名前は大事だ、ということが言いたかった。

中学の時、学校名を略して言っていたら、先生がそういう言い方はしてはいけないと言った。
自分の学校名には誇りを持て、ということだ。

その話を思い出した。



| | 考えたこと | 23:16 | comments(0) | trackbacks(0) |
株でいいのか
ウチの父は経済学部を出て、会社の経理をやっていた。
そのせいで、株をやっており、亡くなった時に株をいくらかもらった。

ぼくがもらった株はほんの少しだが、株の話はよく聞いた。
会社に入った時、自社株を買っておいたほうがいいと言われた。
なぜかというと、会社の株価に敏感になるからだ。

最初は持株会をやっていたが、それをやめて1000株買った。
会社をやめても、まだ持っている。
自分で買った株はそれ以外に3銘柄だけ。
ほとんど売り買いはしない。
これという会社を選んで買ったので、損をしても持っている。
上がっても売らない。

父も株はあまり投機目的では持っていなかったと思う。
だから、あまり上がり下がりの大きいものは買っていなかった。
よく、証券会社の文句を言っていた。
彼らは株で儲かるのではなく、客が売り買いするから儲かるので、何かあれば売り買いを勧める。
証券会社の言うとおりして、儲かった奴はいない、と言っていた。

あくまであまったお金があれば、株をやればいいという感じだった。
産業の振興にささやかながら投資で参加する、ということだ。
自分でこの会社は大丈夫、という判断をしないといけない。
それで大損をしている会社もある。
でも、それは自分で決めたから納得できるし、いつかは元に戻るはずだ、とも思える。
だから、損をしても持っている。
ぼくのやり方はそういうやり方だ。

今朝の日経電子版に「公的年金運用見直し、9〜10月に前倒し 首相が指示」という記事があった。
なんでも、公的年金の積立金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の資産運用の見直しをするらしい。
「国債に偏った資産構成を改めて日本株などを買い増し、収益率を高める」ということが書いてある。

それはそうだろう。
日銀を動員して国債をバカみたいに買っているんだから、これ以上国債は買えない。
だから、国民から集めたお金を株に回す、ということだろう。
安部首相の興味は株価にしかないような気がする。
まあ、たしかに国民から預かったお金で国債ばかり買っていても、借金が増えるだけだから、いいことではあるのかもしれない。
余計な心配だが、日本国債の格付けが下がって、金利が上がったら、どうやって国は返すんだろうか。
とにかくインフレにして、お金の価値を下げて、返しやすくするという財務省の作戦かもしれない。
国民の財布が軽くなるだけだ。

しかし、株価はこの1年ちょっとで上ったとはいうものの、最近は上がったと思ったら、また下がる。
上がったり下がったりを繰り返している。
一時は外国人が買って、上がったら日本人が売っている、ということも聞いた。
株で損をしていた人が、上がったら売っているんだろう。

いずれにせよ、株で儲かった人はほとんどいないのだから、あまり公的資金を株で運用するようなことはしてほしくないと思う。
安部首相はとにかく株価原理主義だから、株価を上げたいらしい。

本来は規制緩和して、民間の成長分野への参入を促進して、経済成長をするしかない。
それをしないで、見かけの株価だけ上げても、すぐバレる。
もう国債は買えないから、株を買う、という発想ではまずいのではないか。

例えば、保育分野。
保育所をもっと増やしてほしいという声がある。
待機児童の数も多い。
しかし、保育所は増えない。
なぜかというと、既得権のある保育所を守ろうとするからだ。
株式会社で配当をして保育所をやればいい。
そんな規制緩和もできないで、少子化が止まるわけがない。

今ある枠組み変える努力をしないで、見かけだけ変えても仕方ないと思う。

株でいいのか。


| | 考えたこと | 23:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
音楽の価値2
昨日の続き。

音楽の価値は他にもある。
人生に彩りを添えるという価値だ。

それはお金で計れる価値が下がっても、依然としてある。
お金では測れない、精神的な価値だ。

ふらりと入った店のBGMで、懐かしい曲が流れたりすると、なぜかうれしくなったりする。
ある日、ある場面で聞いた曲が、生涯忘れられない曲になったりする。
ある時、突然歌詞の意味に気がついて、ああ、これはこういう曲だったのか、と感動したりする。

ウォークマンができて、音楽が持ち運べるようになり、運動選手などが試合の前にヘッドホンをかけているのをよく見る。
自分の好きな曲を聞いて、自分を落ち着かせたり、気持ちを奮い立たせたりできるんだろう。

朝起きた時や通勤の時にふと口ずさんだ曲が、その日の自分の曲になる。
音楽はそういうお供もしてくれる。

そして、落ち込んだ時には、音楽が癒してくれたり、勇気づけてくれたりする。
夜、一人で聞いていて、涙が出たりする曲があるだろう。
いつもいつも、そうなるわけではない。
でも、そういう時もある。

そんな曲のストックが多ければ多いほど、落ち込んだ日が多いということかもしれない。
そういう曲が人生を彩ってくれる。

何もなく平穏な人生もいいだろう。

でも、そうでない時もある。

そんな時、音楽はこころの友になってくれる。

| | 考えたこと | 23:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
音楽の価値
昔はLPレコード1枚が2000円くらいだった。
ひと月の小遣いが飛んでいく値段。

だから、買う前にはいろいろと調べた。
ラジオなどで聞いたり、雑誌を見たり…。
そして、買ったら何度も聞いた。
それこそ、レコードが擦り切れるくらい聞いたものもある。

ビートルズの赤と青のアルバム。
キャロル・キングの「タペストリー」「ミュージック」。
5thディメンションの2枚組のベスト盤。
ビージーズの2枚組のベスト盤。
中学から高校の頃は洋楽がメインだった。

あの頃の音楽は、気合を入れて聞くものだった。
ちゃんとレコード盤を拭いて、ターンテーブルに載せ、針を置く。
スピーカーの前に座って、ジャケットを見ながら曲を聞く。
そんな儀式めいた聞き方だった。
何かしながら聞いたら、音楽に悪い、という感じすらあった。

それが今はコンピューターの中に音楽データーがあって、クリックすれば再生できる。
90曲500円のデーターもある。
たいがい、何かをしながら聞くものになった。
ぼくもこれをパソコンで打ちながら、70’sベストという50曲500円のアルバムを聞いている。

ツタヤなどのレンタルショップができて、音楽が借りられるようになった。
その次はデーター化し、受け渡し可能になった。
そんなわけで、CDの売上が減った。
99年に5695億円だったCDの生産総額は2013年に2705億円と半分以下にまで減少した。

音楽の価値は相対的に下がったのだと思う。
それだけ一般化したのだ。
歩きながら、運転しながら、勉強しながら、仕事しながら、運動しながら音楽を聞くことができる。
ウォークマンができて、それがipodに取って代わられ、今はスマートフォンでも聞ける。
インターネットさえあれば、クラウドから再生できる。
ちいさなプレーヤーをつないで、家では大きな音で聞けるようなシステムが安く売られている。

最新機器では無線で音楽データーを飛ばし、再生するアンプやスピーカーも出てきている。

あの、儀式めいた音楽の聞き方はもはや過去のものになった。

でも、それだけ音楽を聞く機会は増えている。
生活の一部になっているということだ。

それはいいことだ。
でもなあ…。

| | 考えたこと | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
一期一会
ジムでお世話になっている、ストレッチのコーチが青森出身。
恥ずかしながら、いままで青森出身者に会ったことがなかった。

ぼくの経験では、東北地方出身者は関西ではあまり会えない。
福島、山形は出身者を知っているのだが、青森、秋田、岩手の3県はめったにいないと思う。
北海道はわりといるのだが…。

コーチはどこの出身ですか?と聞いたら、青森です、と言われた。
青森に行った人は知っていても、青森出身の人は珍しいと思う。

別に避けているわけでもないのだが…。
東北の人は関東で止まるのではないか。
家族を聞いたら、3人兄弟で、一人は青森、一人は神奈川、自分は大阪に住んでいると言っていた。

ところが、6月に異動になって東京勤務になるとのこと。
最後の日にお世話になりました、と挨拶した。

26歳と言っていた。
わりと朴訥そうな青年。
青森というと、太宰治を思い出します、と言ったら、はあ、と言っていた。
あまり地元でも読まれないのかもしれない。

東北というと、美人で有名ですが、と水を向けると、とにかく関西に来て、女性がよく喋るし、派手なのに驚いた、とのこと。
たしかに、関西の女性はよく喋る。

転勤が決まってから、神戸に映画を見に行き、京都にお寺を見に行ったとのこと。
たこ焼きは食べたが、まだお好み焼きは食べてないとのこと。
えー、それは食べてから行ってくださいよ、と頼んでおいた。

あの青森出身のコーチは関西をどう思ったのだろうか。
正直なところを聞いてみたかった。
ほんとに朴訥そうな青年だったから、こちらにいても彼女はできなかったのかもしれない。

東京は大阪より馴染みがあるからいいですね、というと、そうです、と正直に答えていた。
アニキが一人いるから、便利だという。

一般に東京の人は言葉に寛容で、大阪人はよその言葉を話す人に容赦ないという。
そのとおりだと思う。
漫才でも、大阪と東京の比較のネタは常に受ける。
それだけ、大阪人は関西弁にこだわりがある。

きっと嫌な思いもしたに違いない。
大阪、尼崎、宝塚、西宮のチェーン店を回っていたとのこと。
文句を言わないから、便利に使われたのかなと邪推してしまった。

一期一会。
コーチには東京でも頑張ってほしい。

| | 考えたこと | 22:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
人生とは…
「人生はうまくいかないものだ。だからこそ愛おしいのかもしれない。」
ラジオドラマで言っていたセリフ。
役の上では60歳。仕事を退職した父親が言った。

そうなんだろうなあ。
上には上があるから、いくらうまいこといったと思っても、もっとよくなると思えることはたくさんある。
でも、そこで諦める。
これが自分の分だ、と思う。
だから愛おしいのだろう。
もっといい人生があったかもしれないが、これで分相応だと思うところに、愛着がわくのかもしれない。

もっと、もっとと欲を出すと、愛おしいとは思えないだろう。
欲は結局不満しか生まない。

前に生きていくことは、選択することだ、と書いた覚えがある。
選択するということは、何かを捨てることでもある。
たくさんある選択肢から、それを選んだということは、それ以外を選ばなかったということだ。
それを意識する場面もあるだろうが、無意識に選んでいる場面の方が多い。

選んだものが、ベストではなかったかもしれないが、その結果を受け入れること、ということだ。

自分の人生が、自分が選んできた結果だから、愛おしいのだろう。

最期の時、どう思うのだろうか。

自分の人生はうまくいかなかったが、愛おしいと思えたら、いいと思う。


| | 考えたこと | 00:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
Everything is under control, guys.
ドラマの中で、集会をやっていて、騒ぎが起こり、それを静めた警官が言った言葉。

字幕には「大丈夫です」と出た。
「全てがコントロールされている」ということは、「大丈夫」ということになる。
これは英語的な表現だと思う。

西洋人の考えでは、全てを人間がコントロールしている状態を理想としているのだと思う。
自然に対してもそうだ。
地下水を組み上げ、砂漠に町を作り、穀倉地帯を作った。
自然は征服するものであって、コントロールするものだ、というのが西洋人、とくにアメリカ人の考えだと思う。

だから、コントロールされているということは、大丈夫だということになる。

日本人はどちらかというと、自然はコントロールするべきものではなく、うまく付き合っていくものだと思っている。
そのあたりの違いが、大災害にあった人々のリアクションの違いになっているのだろう。

自然に文句を言っても仕方ない。
諦めるしかないのだ…、と日本人は思う。

だから、震災の時の被災者の反応を見て西洋人は感心する。
何であんなに我慢強いのか…、ということだろう。

そうではなく、ただどうしようもないのだ。
阪神大震災の時にそう思った。

そんな考え方の違いが、この英語の表現につながっているのだと思う。



| | 考えたこと | 22:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
自分で考えさせる
こないだの小学校の授業の話の続き。

いきなり教材を見せられて、そこで「考えて発表する」ということをやらせるのは、いいことだろうか。

教育というのは今の時代、全ての人が経験している。
教育を受けたことがある、ということだ。
義務教育、高等学校は今の若い世代はほぼ経験しているだろう。
だから、自分の経験をもとに、今のことに意見を出すことができる。
でも、逆に言うとその経験を離れて意見を出すことが難しい、ということに気がつきにくい。
自分の学校経験に比べて今は…、というふうになってしまいがちだ。
でも、それは仕方がない。
人は自分の経験から離れて生きることはできないし、考えることもできないからだ。
でも、それは意識しておくことが必要だろう。
「教育」というのは、そういう類の問題なのだと思う。

そして、人は自分の経験に色をつけがちだ。
良い方にも、悪い方にも。無色の経験などない。そんなものは忘れてしまう。
これも仕方ない。
当たり前だが、人は主観的にしか経験できない。
そして、経験したものは、自分という色眼鏡を通さないと、語れない。
そう言うと、だいたい何でも自分の経験を通して話をするだろうから、切り離すのはムリだろうとも思うが、こと教育に関してはその色が強いと思う。

そういうことを考えたのは、こないだニュースでやっていた小学校の「子どもに考えさせる」という場面をみて、違和感を感じたからだ。

自分の小学校教育を顧みて、先生から「考えてみよう」ということをあまり言われた覚えがない。
言われたのかもしれないが、覚えてないということは、それが無色の経験だったということだ。

ぼくが経験した小学校の先生方は、年配の人が多かった。
見るからに20代という人は覚えがない。
いくら若くても、30代だったと思う。
1年〜4年は女性の先生、5、6年は男性だった。
要は戦前生まれで戦争を体験していた人だったということだ。

教える側も、自分の経験とは切り離せない。
戦前の教育を受けた先生は、自分の経験を良きにつけ、悪しきにつけ、位置づけながら戦後の教育をしていたのだと思う。
戦前の価値観でいえば、先生は偉い人だ。
高い志を持って、教育という大事な仕事をやっている人だと世間では思っていたと思う。

ウチの父は、デモシカ教師という言葉をよく言っていた。
教師にでもなろうかとか、教師しかなれないとか、そういう先生もいる、ということだろう。
きっと、これは父が教師という職業に思い入れがあったからだろうと思う。
父の祖父は田舎で先生だったらしいから、そういう思い入れがあってもおかしくはない。
デモシカ教師というのは、先生に対する悪口だが、それだけ先生に対する期待も大きかったのだろう。
晩年、退職したら塾をやりたい、と言っていたこともあったからなあ。

話がそれたが、覚えている限り、ぼくの知っている小学校の先生方は、そんなに「自分で考える」ということを言わなかった。

きっと教えることが大事だと思っておられたのだと思う。

ぼくは自分の受けた教育に満足している。

小学校の恩師に感謝。

| | 考えたこと | 22:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
学校の研修
ぼくが入社したのは昭和54年。1979年だった。

その当時、ぼくの会社では大卒の新入社員には手厚い研修があった。
全員がその期間、寮に入ったと思う。
4月に入社して、配属先が決まるのが6月、そして本格的に仕事をするのが1月というスケジュールだった。

ウチの父は繊維商社だったが、研修の長さに感心していた。
「会社に余裕があるからできるんやなあ」と言っていた。

今はとにかく「即戦力」が求められるので、入ったらすぐ活用しようという流れだろう。
でも、研修を丁寧にやらないとなかなか使えないと聞くが…。

まず座学で会社の役員や部長の話を聞く。
そして、生産技術実習、販売実習、技サ実習、工場実習、スノー実習と続く。
配属は7月に決まるが、実際に仕事をするのは翌年の1月からだったと思う。
やっている時は、何でこんなことをしないといけないのかなあ、と思ったりしたが、今思えばとてもいい経験ができたと思う。
当時会社はそんなに儲かっていたわけではないが、人材が大事だという考えがあって、文系も理系も工場や販売店、サービスなどを知ってから仕事をさせたのだろう。
メーカーというのは、工場と販売店を知らないと商売できない。

中でも、工場実習は一番きつい。
生産装置やエネルギーの有効活用のために、工場は24時間動いていた。
一直、二直、三直という時間割で、4班が交代で勤務するという体系。四班三交代制と言っていた。
三直が夜勤で、夜の10時から朝の6時までだったかな。一直が朝の6時から昼の2時、二直が昼の2時から夜の10時という時間割だったと思う。
工場実習ではその三交代を経験した。
今は工場もだいぶ機械化され、きつい仕事は機械がやるようになったと思うし、熱効率を上げて、熱を有効利用するから、排熱が少なく、工場内は涼しくなった。
でも、昭和54年当時はまだまだきつかった。
それを実際に体験し、工場の人たちの苦労を知ることができたのは、今でもありがたいことだったと思う。
ぼくは実習の最後は二直だったが、最終日を終えて、夜の工場の明かりを見て、なんとも言えない感慨があった。
こういう仕事、こういう人たちが、生産を支えているのだ、という実感を持つのと持たないのでは、それからの仕事は違うに違いない。
口はばったいことを言うと、大卒としての責任感みたいなものを感じさせられた。
あの人たちが工場で頑張っているのだから、ぼくらも頑張らないと、というような責任感だ。
当時はまだ大卒新入社員というのは、そういう扱いだった。今より少し重かったと思う。
工場実習をすると、工場の人たちにムチャは言えなくなる。製造業だから、工場を尊重するという姿勢を植え付けるのには良かったんだろうと思う。

翻って、その25年後、ぼくの転職した大学は、職員の研修がほとんどなかった。
やらないといけない、という話はずっとあったらしいが、学校法人や他の設置校が絡むのでめんどくさく、やっていなかった。
まあそういう部署すらなかったから、仕方がない。
新任教員は半日オリエンテーションを受けておしまい、というレベル。
後は全てOJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング、仕事を通じて覚える)だ。
OJTというと聞こえはいいが、教員の場合は仕事をやってみせる上司もいないから、要はいきなり自分で授業をやって、それで学生のレベルをつかめ、ということだ。
大学の先生は高校までと違って、教育の手法を習っていない。
だから、よけいにどうしたらいいか、わからないのだろう。
気の毒といえば気の毒だが、その教員に教わる学生はもっと気の毒だ。

本来はその大学の教えたいことや教えるべきこと、学生に合わせて授業はどういうやり方をするべきか、というようなことを学科長や学部長がオリエンテーションするのがスジだ。
上位の学校はともかく、下位校はこれをやらないといけないと思う。
ところが、新任の教員にはそういう説明は一切ない。

非常勤はもっとひどい。
とりあえず任せてやらせているだけ。
これはまた、稿を改めて書く。

ぼくは新任の教員に就職の説明をするときに、学生のレベルについて話し、「言葉を知らない学生が多いから、説明の時にはご注意を」ということを言っていたが、学部の教員から、そういったオリエンテーションなどはなかったと思う。

先生という人種は、先生に対して遠慮がある。
というか、極論すると授業は「アカデミック・フリーダム」の範疇で、外部から口を挟むのは失礼だ、という考えすらある。
「アカデミック・フリーダム」とは、このサイトによると「19世紀初頭のドイツにおける大学改革論議のなかで、アカデミック・フリーダム(学問の自由)という概念が確立した。アカデミック・フリーダムは、大学教師は(自らの知的関心にそくして)何を研究してもよく、その研究成果に基づいて何を講義してもよいという意味の「教授の自由」と、学生は(自らの知的関心にそくして)何をどこで誰から学ぶかを自由に決定できるという意味の「修学の自由」を含意していた。この二つの意味のアカデミック・フリーダムが、ドイツ大学の発展を促したと考えられている。一方、アカデミック・フリーダムが強調された結果、大学が一般社会から遊離し、「学問のための学問」を追求する「象牙の塔」になってしまったとの批判もなされてきた。」と書かれている。

ここに「批判がある」とは書かれているが、それは本当にアカデミックな先生たちの話だろう。
普通の大学には、そんな「批判ができる」という自由な雰囲気はない。
授業改善活動で、授業公開をしていても、見に行く先生はほとんどいないし、行く時にはその先生に断って行かないといけない。
自社の商品(授業)をチェックする、という機能がないのだ。

だから、学長であっても、「こうしなさい」ということを言えない。
ゼミナールの改善もできない。
あ、また話がそれた。

早い話が、学校というところは学生を教育するところだが、その学生を教育する先生を教育するのは不得意だし、事務員を教育研修するのも不得意だ、ということだ。

とりあえずそうまとめておこう。

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