考えたこと2

2024.9.24から、今までhttp:で始まっていたリンクが、https:に変わります。申し訳ありませんが、リンクが見られないときは、httpsに変えてみてください。
CALENDAR
<< December 2006 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
+SELECTED ENTRIES
+RECENT COMMENTS
+CATEGORIES
+ARCHIVES
+PROFILE
+OTHERS
斉藤哲夫
今年の、小田和正のクリスマスの約束という番組に、斉藤哲夫が出ていた。

「悩み多きものよ」というレコードを買ったのは、もう二十数年前のこと。
LPを2枚持っている。

本当に懐かしい。
小田和正よりも少し若いのか…。
そうだろうなぁ。

「バイバイ・グッバイ・サラバイ」という歌もあった。
三拍子の歌をよく作っていた。

吉田拓郎や井上陽水とは一線を画した、シンガー・ソングライターだった。

宮崎美子が出ていた、ミノルタのCMで、「今の君はピカピカに光って…」という曲は少し売れたと思うが、それ以外の曲はあまりメジャーにならなかった人だ。

今でも歌っていたんだなあ…と感動した。

小田和正とグッド・タイム・ミュージックという曲をやったが、この歌も聞き覚えがある。

テレビでは、今紅白歌合戦をやっているが、そんなものとは全く縁がない人だったが、個性的な歌を作り、歌う人だった。

歌っていてよかったなあ…と思う。

今までどうしていたんだろう。

ここにホームページがあった。
http://tetuo0404.hp.infoseek.co.jp/profile.html

でも、番組に出てきて、歌っている顔はすごくよかった。

苦労したんだろうと思う。
でも、いい顔だった。

年の終わりにいい人に会えて、いい人の歌が聴けてよかったと思う。

みなさん、良いお年を。

来年もよろしくお願いします。

| | 音楽 | 23:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
自分の決算書
本を読むということは、今すでにいなくなった人との対話である、と誰かが書いていた。
山本夏彦だったか…。

鹿児島でお墓参りに行って、亡くなった人とお話してきた。

仕事のこと、プライベートなこと…2年少しの間に話したかったことを話してきた。
小さな箱に入ったお骨が、物理的に残されたものである。
その箱に向かって、話しをしてきたのだ。

早く亡くなる人もいれば、長生きする人もいる。
この世で生きた時間を、人と比べることは、あまり意味がないことだと思う。
どれだけの人の心の中に残っているのか…、それがその人の人生の決算ではないか。

そういう意味では、生活したこと、仕事したこと、書いたもの、書かれたもの、何かの形に残したものなど…、それに関わった人たちの心の中に、その人は生きている。

どれだけ生きたかという時間よりも、何をしたのかという事だろう。

神サンは気まぐれだから、いつお呼びをかけるのかはわからない…とは田辺聖子の言葉。

自分でいいこともしたきたし、ろくでもないこともしてきた。

いつでも決算できるように、決算書を意識しておかないといけないのだろうが、これがまた難しい。

いいこと、ろくでもないことというのは、あくまで主観の問題だからだ。
自分にとっていいことというのが、必ずしも誰にとってもいいこととは限らない。

最終的には、神サンが判定するのだろうが、神サンの判断基準は、ルールブックがあるわけではなく、公開もされていないから、決算書を意識することも実際には難しい。

う〜ん、どうしたらいいのかわからない。

結局、こたえがないのが、人生の難しいところなのだろう。

そんなことを、鹿児島から帰ってきて考えた。

今年ももうあと1日。

今夜はとりあえず自分の年次決算をしてみよう。



| | 考えたこと | 17:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
一人旅
どういうことか、明日から一人旅をする。

仕事の出張ではなく、自分で行く一人旅というのは、初めてだ。

行き先は鹿児島である。

2年少し前に、すごく懇意だった職場の先輩が急に亡くなり、その方のお墓参りが目的だ。

Sさんは、僕が会社に入った時に同じ部署の先輩だった。
大学時代に落語しかしていなかった僕のことを、なぜかデキるヤツが新入社員でやってきた…と思っておられて、色々と振動・騒音のことを教えてくれた。
すぐに化けの皮ははがれ、あまりの無知さに驚かれたのをよく覚えている。

「君なあ、天下の○○大学の工学部を出てるんやろう…。」
「すみません。落研しかしてなかったので…。」

という会話は今でもハッキリと覚えている。

それでも、親切に色々と教えてもらった。
僕がその後の仕事がマジメに(?)できたのは、Sさんに教えてもらったことが大きいと思う。

鳥は、生まれてすぐに見たものを親だと思う…という。
ちょっとたとえが悪いが、会社生活も似たところがある。最初に配属された部署の先輩や課長というのは、すごくその後に影響を与えるものだ。
その意味で、僕はラッキーだった。

その当時、僕は実験をやっていた。
扱う機器はいずれもビックリするような値段のものばかりだった。
10万円を越えるような機器を無造作に触っていたのだ。
Sさんは、もの知らずの僕のために、これは○万円、こちらが○万円…と値段を教えてくれた。
そのたびに、ひぇーと声を上げた。

仕事を始めて数ヶ月した頃、ちょうど仕事に慣れて、やることが雑になってきた頃だった。
会社の機材を壊してしまった事がある。
僕の扱いが雑だったために、機材のメーターを被っているガラスの部分を割ってしまったのだ。

少し青ざめて、実験室からSさんに電話をして来てもらった。

「スミマセン…」
「形あるものは、いずれ壊れるんや。」

それがSさんの口から出た言葉だった。

結局はSさんが伝票を書いて、買い換えてくれた。

その後、どうしようもない場合を除いて、機材を壊した覚えはない。
あの一言は、ありがたかった。

僕が年を重ねて部下ができて、何かを壊してしまった時、僕もSさんと同じように言っていた。

Sさんは、関西の人ではなく、ちょっとなまった関西弁だった。その、少しおかしな関西アクセントで言われた「形あるものは、いずれ壊れるんや。」という言葉は、一生耳に残る言葉になった。

僕の会社生活では一番親身なつき合いをした人だったと思う。

急に亡くなられたので、実際に亡くなったという感覚はなかった。
それが、少し前に親族の方から形見分けの電話があって、その時に初めて涙が出た。

それでやっと、ああ、やっぱり亡くなったんだと思えた。
だから、お墓参りに行くことにしたのだ。

そんなわけで、明日は鹿児島に行く。
この旅の価値がどんなものなのか…、それはまだわからない。

お墓の前に立って、お参りした時にそれはわかるのかもしれない。

ということで、明日は鹿児島です。


| | 考えたこと | 23:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
体感時間
子供が、明日が高校生活の最後の試合だという。
「中学で部活を始めて、もう最後の試合か…、あっという間やなあ」というと、そんなことはないという。
子供にとっては、長い時間だったのだ。

年をとると、毎日同じことの繰り返しで、時間の経つのが速くなるのだ、と説明するが、わからないだろう。

中学3年間、高校の3年間、合わせて6年間は長かったと思う。
一番成長する時だし、色々な新しいことを経験する。
自分がエライと思ってみたり、逆にダメだと思ってみたり…。

体感時間は、経験の量に比例して長くなる。
新しい経験が多いと、ふり返った時に長かったと思えるのだ。

今、この歳になると、毎日を過ごしてはいるものの、新しい経験は学生時代とは比べものにならないほど少ない。
毎日勉強してどんどん知識が増えていくわけでもないし、やったことのない事をやる、というような事もほとんどない。

その代わり、物事について判断したり、感じとったりする引き出しは増えているのだと思う。

それらを有効に使えれば、充実した時間を過ごせるのではないか。

深く感じとったり、広く判断したり、何かをまとめたり、作り出したりできるかもしれない。

そうすれば、体感時間を長くできるかもしれない。
もしできなかったとしても、一年を終わる時に充実感を持てるだろう。

そんなふうに、毎年を過ごせれば、よいと思う。

しかし、それはむずかしい。



| | 考えたこと | 00:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
補佐官みたいに…
時々、ホワイトハウス(West Wing)というテレビドラマを見る。
文字通り、アメリカのホワイトハウスの日常を描いている。

大統領補佐官というのは大変な仕事である。
もちろん、大変に決まっているのだが…。
ドラマを見ると、具体的に想像できる。

次々と発生する問題に対して、決断を下さないといけない。
もちろん、最後は大統領が決断を下すのだが、そこに行く前に、判断することもある。

どんな問題が来ても、聞いてすぐ判断を下さないといけない。

状況を見守るのか、更に調査をするのか、こちらを選ぶのか、あちらを選ぶのか…。

いつも、答えの選択肢をいくつか持っている。

頭の中にいくらたくさんの引き出しを持っていても、足りないだろう。
判断する元になるものがないと、仕事はつとまらない。

一体どうしたら、何が起こっても、人の話をちゃんと聞いて、必要な情報をインプットして、状況判断をして、決められた時間内に、最善と思われる何かを決めて進めていくことができるのだろう。

そんな人になるための方法がわかれば、素晴らしいと思う。

きっと、なろうと思って、なれるものではない。

そんなことがわかれば、アメリカのことだ、教育プログラムができているだろう。

いろんな経験をすること、いろんな人と知り合うこと、本を読むこと、旅をすること、何かに一生懸命になること…そんなことが必要なのかもしれない。

いつかそんな風になれたら…と思うが、むずかしいだろう。

ホワイトハウスに就職できるわけもないし…。

それはそうと、日本の首相官邸にはあんな補佐官がいるのだろうか?



| | 考えたこと | 23:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
おもしろく話す
4年間落語研究会に在籍した。

落研では、部室でだれかがボケると、つっこまなければならない。
自分でボケておいて、自分でつっこむのもありだ。
とにかく、どんな話題でも、笑いにつなげようとする。

最初は、先輩が話していても、なかなか輪の中に入れない。
話の流れを切ってしまうと、先輩ににらまれてしまう。

卒業前になって、先輩に言われた。(先輩は留年したのだ)

「オマエは、落研に入ってなかったら、単なるしょうもないこと言いやったやろなあ…」

我ながら、そう思う。

落語もしたが、おもしろく話をする、という事についてはもともと才能がない。(話をすること自体は好きだったが)
とりあえず、4年間の努力(と言えるかどうかわからないが)で、みんなの輪に入れるようになった。

ボケたらちゃんとつっこみを入れるようになったし、ここはボケるところ…がわかるようになった。

おもしろい話をおもしろく話すのはむずかしい、ということを知らない人が多い。
誰でも、おもしろい話をおもしろく話せるのなら、落語家などいらないのだ。

一つの例は、おもしろい話をする時に、「おもしろい話があって…」と話し始める事である。
聞く前に、おもしろいという予告をされると、当然期待が大きくなる。
期待が大きいと、ちょっとぐらいおもしろい話では、笑えなくなる…。
まだ、冷静に、「おもしろい話があって」と言うならマシだが、話す本人が思い出して笑ってしまったりすると、よほどの事がないと、取り返せない。

これは、当たり前の話だと思うが、意外とわかっていない人が多い。

おもしろい話は、何気なく始めるのだ。
それが、一つのコツである。

それと、いくらおもしろくても、その場にいないと笑えない話がある。
ある人の表情がおもしろかったとか、その場全体がおもしろい雰囲気になったとか…。

そういうのは、場の笑いであって、なかなか伝えることがむずかしい。

どうしても話したければ、「これは、その場でないと、わからんやろうけど…」くらいの前置きをおかなければならない。

エラそうな事を書いたが、やっぱり自分には人を笑わす才能がないと思う。

ただ、楽しく話したい、という気はすごくある。

おしゃべりは楽しい…そう思っていることが、一番の秘訣かもしれない。


| | 考えたこと | 01:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
朝型、夜型?
朝型か、夜型かというと、圧倒的に夜型だ。

夜には強い。遅くまで仕事をしても、大丈夫である。
また、昨日書いたように夜一人でいると、いいことを思いついたりする。

休みの前の日は、ついつい夜更かししてしまう。
本を読んだり、ビデオを見たりして、夜中まで起きてしまう。

電車通勤していた時も、帰りの電車の中で本を読んだり、メモを書いたりした。

しかし、あまり夜更かしが続くと、体調が悪くなる。
もともと、朝は弱いのだが、昼になっても頭の中に霧がかかったようになってしまう。
昼ご飯を食べた後は、もちろん眠くなる。
結局、夕方みんなが帰りはじめる頃に本調子…ということになってしまう。

こうなると悪循環である。
夜にならないと本調子にならない。
どこかの休みで、早めに寝て、睡眠時間を埋めないといけない。

何かの本で、夜に筆が進むとかで、昼間も真っ暗にしてスタンドをつけて仕事をする、という作家のアイデアが書いてあった。
そこまでやるか…。
たしかに、締め切りに追われる作家なら、調子にのって書けるかどうかは死活問題だから、仕方ないのかもしれない。

これは、持って生まれたバイオリズムというヤツなんだろうか、それとも単に生活のリズムなんだろうか?

これも、だれかが書いていたが、ずっと夜型だったが、年をとってきて、朝型に変えた…というものあった。
夜は早く寝て、朝早く起きて、朝食までに一仕事するというのだ。
家で仕事ができるような職業なら、それもアリかもしれないが…。

そういえば、毎日始発で会社に行って、みんなが来るまでに仕事をするというヤツもいたなあ。

朝型、夜型…遺伝子に書いてあるんだろうか…?

でも、何となく朝型の方が長生きできそうな気がする。

朝型にチェンジする方法を自分なりに考えないといけない。

変えたことがある人、何かいい方法ないですかね?



| | 考えたこと | 01:01 | comments(0) | trackbacks(0) |
便利な日本語
昨日、最終退勤する、と書いたが、考えてみると日本語は便利だ。〜するという形でなんでも動詞にできる。

「お茶する」というのがある。
これは、喫茶店などに行って、だべって時間を過ごしましょう、という意味だろう。
この頃よく聞くようになった。

「メールする」というのもここ数年の言葉か。
メールは英語では動詞だから、なんとなくメールするというのはスッと入ってきた。

「インターネットする」というのは意味が広い。
ウェブのページを見たり、何かを検索したり、買い物したり…。

「パソコンする」というのは、昔はオタクを意味したが、今は普通の言葉になった。
ぼちぼち、パソコンせなあかんなあ…などとウチの親父は言っていた。

「パソコンするけど、インターネットしてないねん」という言葉など、30年前はわからなかっただろう。

「チンする」というと、電子レンジ。
これは、電子レンジを知らない人には、全く通じない言葉だが、ひとたびわかるとこれほどわかりやすい言葉はない。

俳優などになりきった…と思っている時には、「今日はリチャード・ギアしてる」などというのもある。
人の名前まで動詞になる、というのはすごい。

「この曲、ちょっとユーミンしてる」というのは、ユーミンの曲に似ている、という意味。
色々な使い方がある。

「最終退勤する」というように、仲間内だけでわかる言葉も簡単にできる。

日本語はふところが深い。

みなさん、めずらしいものがあれば、教えて下さい。


| | 考えたこと | 00:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
最終退勤する
以前、よく最終退勤をした。

「最終退勤する」というのは、そのフロアで一番最後に帰る事になったとき、最終退勤カードというのに記入することから、「最終退勤する」という動詞で使っていた。

窓は閉めたか、電気は消したか、パソコンは消したか…チェック項目が並ぶ。

そのカードにチェック内容を書くことが「最終退勤する」という動詞の意味である。
言い換えれば、遅くまで残業したということであり、それは仕事が多いということでもあり、仕事が遅いということでもある。

その頃は、しんどかった。
毎日最終電車で帰っていた。

夜更けのオフィスは寂しいが、仕事がはかどることもある。

誰もいない、広い大部屋のオフィスで、一人で仕事をするという事も慣れるといいものだ。
考えにふけることもできるし、たまっていた仕事をはけることもできる。

そんなときに、何かをまとめていると、ふと思いつくことがあったりする。
川の流れの中に石があって、ひょいと流れを変えるようなものだ。

また、そういう思いつきが、すごく大事なことであったり、よい結果をもたらしたりする。

そんな経験をすると、思いついた仕事をやらないと気がすまなくなり、当初の残業の目的は達成できなくなる。

それでもそんな瞬間を持てることは、すごくいいことだと思う。
残業手当などの問題ではない。

最近、そういう経験が減ってきた。

あの、思いついた時の感覚…。最初は大したことではないと思うのだが、それを書いていると、あ!と思うことが出てきて、どんどんふくらんでいくのだ。

人によって、そんな瞬間が来る環境は違うと思うが、そんな瞬間が持てる仕事ができればいいと思う。

それは、オカネには代えがたいものだろう。



| | 考えたこと | 01:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
欲しいものは…
最近、飯田経夫という経済学者(もう亡くなっておられる)の本を読んでいる。

この人は、経済学というものを、アダム・スミス、マルクス、ケインズという3人の偉大な経済学者をもとに概説している。

僕の読んだ本は、バブルの崩壊後すぐに書かれたもので、バブル後の不況を見て、本当に不況なのかと問うていた。
1999年に書かれたものだが、たしかにあの頃バブルは崩壊したとはいえ、マスコミが不況・不況というほどの不況感はなかったと思う。
それよりは、景気が回復した、回復したと言う今の方が、99年当時よりも不況感がある。

本の中には、今の日本で、もはや欲しいものがないほどに豊かであるのに、一体どうやってものを消費するのか、と書かれていた。

そうかもしれない…と思う。

実際、世の中が変わってきているのだ。

「物より思い出」という宣伝があった。クレジットカードか何かのコマーシャルだったか…。

今は、物よりも形のないサービスや時間、行動などの方が消費される時代だろう。

携帯のパケット代など、その最たるものだ。どうしてもパケットをたくさん使って、通信しなければ困るものなどほとんどないはずだ。
そんなものに、若い人たちが月に数千円を使う…。

少し前なら考えられないことだが、どんどん消費の方向が変わってきている。

飯田さんの言われた後、日本の社会はどんどんオカネを動かすために、そんなサービスを生み出してしまった。

一体どうやってものを消費するのか…、こうすればよい、という答えがそんな過剰サービスなんだろう。

それは、果たしていいことなのだろうか。

人間の欲望を限りなく満たすことが、資本主義の行き先だとしたら、それは危ないものだと思ってしまう。

これからどうなるんでしょうか…。


| | 考えたこと | 23:57 | comments(2) | trackbacks(0) |
お茶
最近、そば茶を飲んでいる。

最初に飲んだのは、中央道のどこかのパーキングエリアだったと思う。
食堂で出されるお茶が、そば茶だった。
ほうじ茶みたいな色だが、香ばしい香りがして、おいしかった。

三宮の百貨店の中に、兵庫県の物産売り場があって、そこで買ったのはまあまあおいしかった。

こないだ、家の近所のお茶屋さんで買ったものは、安い方にしたからか、香りが薄い。
そば茶の魅力は、香ばしい香りである。
次は高い方を買ってみよう。

そば茶には、血圧を下げる効果があるという。
最近、時々血圧が高くなるので、一石二鳥である。

色々なお茶がある。
烏龍茶、ジャスミン茶、プアール茶、どくだみ茶、柿の葉茶…。
紅茶はお茶に入るが、コーヒーはお茶には分類されないのだろう。
英語で Tea or coffee? というからなあ。

中華料理のしつこいのを食べた後は、ジャスミン茶を飲むとスッキリして、気持ちがいい。
烏龍茶は脂肪を溶かすとかいう。
中華料理は脂っこいものが多いが、中国人でアメリカ人のように太った人が少ないのは、お茶の効果なのだろうか。

烏龍茶を飲む時には、蓋が付いた中国製のマグ(安物の景徳鎮)に直接葉を入れて飲む。
葉を入れて、熱いお湯を注ぎ、蓋をして少し待つ。
葉が沈んだころに、ちょうどお茶ができている…ということらしい。
何回か出すことができて、一杯目より二杯目以降の方がおいしい。

紅茶は一時オレンジペコが好きだった。レモンを入れて飲む。

外では最近はカフェラテを飲む事が多い。
近所にドトールができたので、そこで飲む。Mサイズが260円で安い。
スターバックスは近所にないので、なかなか飲めない。

お茶にもいろいろあるが、葉っぱを入れたお湯を飲むというのは、最初は勇気が要ることだったと思う。
誰がやり始めたのか…。

元々は中国のものだろうと思う。
そこからインドに行って、紅茶になって、ヨーロッパに伝わったのか…。
そんな風に思っているのだが、違うのだろうか。
どうも、そうらしい。
http://www.china.org.cn/ri-chawenhua/cha01.htm

しかし、お茶の文化はイギリスだろう。
ティータイムというのは文化だ。
実際に、会社でも3時になると仕事の手を休め、そこここに集まって、お茶を飲んで話をする、という光景を見たことがある。

どんなに忙しくても、ティータイムはあるのだろう。
これぞ「余裕」という気がする。
そういうことが、文化の成熟の現れなのではないか。

クールビズ、ウォームビズもいいが、横文字をやるなら、国会でもティータイムもやったらどうでしょう?
少しは良い議論ができるかも…。

もちろん、オフィスでもやったらいいですよね…。


| | 考えたこと | 20:31 | comments(2) | trackbacks(0) |
一人で暮らす時の問題
笑うという行為は、人間が対象だと思う。
ごくまれに、擬人化した動物が対象になるが、それは動物を人間として見ているからだろう。

何でそんなことを思ったかというと、自然現象をみて笑ったという経験がないからだ。

自然は、笑う対象にならないと思う。

外の景色を見て笑う、ということは想像できない。
そこに人間が絡めば別だが…。

これは、笑いというものの本質を突いた真実ではないか…。

そんなん、当たり前やん、というような事ではあるが、これを思いついた時は自画自賛した。

だとしたら、思い出し笑いは別として、一人でいたら、笑えないということになる。

それは、苦しいことだろう。

もちろん、テレビという便利なものがあるので、お笑い番組を見て笑うことはできる。

しかし、実際に人と接して笑うのと、テレビを見て笑うのはちょっと種類が違うように思う。

天然物と養殖というか、実弾と空砲というか、本物と偽物というか…。

やっぱり、本物がなければ、シンドイ。

一人で暮らすということの、もっとも大きな問題点は、これではないか。

お墓のない人生は、はかない人生というコマーシャルがあったが、笑いのない人生は、本当にはかないと思う。



| | 考えたこと | 02:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
もうすぐ来るクリスマス
12月もここまで来ると街にはクリスマス・ソングが流れはじめる。

クリスマス・ソングというと、まずはスタンダードナンバーである。

ジングル・ベル、ホワイト・クリスマス、赤鼻のトナカイ、ママがサンタにキスをした、サンタが街にやってくる、サイレント・ナイト、Have yourself a merry little Christmas …。

どれが一番かは、決めにくいが、ジングル・ベルはとにかくクリスマス…という感じ。
ホワイト・クリスマスは、すごくいいが、華やかな感じがちょっと欠けるかな。

個人的には、「サンタが街にやってくる」が一番クリスマスらしくて好きだ。

日本の曲で言うと、松任谷由実の「恋人がサンタクロース」「ロッジで待つクリスマス」、山下達郎の「クリスマス・イブ」などが思い浮かぶが、一番気に入っているのは、竹内まりやの「すてきなホリディ」。

ケンタッキーの宣伝でかかっている曲だが、この曲は好きだ。
オーケストラのバックがすごく合っているし、歌詞がいい。

クリスマスが歌詞に出てくる曲で、よく思い出すのは、荒井由美の「12月の雨」。
「もうすぐ来るクリスマス …」というところがなぜか印象に残っている。

クリスマス・ソングをまとめて出しているアーティストも多い。
カーペンターズやマンハッタン・トランスファーのは聞いたことがある。

ぼちぼち、クリスマス・ツリーが立っている店も増えてきた。

小さい子供のいる家は、プレゼントに何が欲しいかを聞き出したり、買いに行ったり、大変だ。
靴下に入れた手紙を抜き取ったり、夜中に起きて置いておいたりしないといけないし…。

うちはそんな行事ももうなくなったが、それも懐かしい。

そんなこんなで、クリスマス、もうすぐですね。


| | 考えたこと | 23:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
昔の名前
ずっと使っていた名前が変わっても、慣れ親しんだものは変えられない。

今はJTBというが、昔は交通公社と言っていた。
今でも、JTBと書いてある看板を見ると、交通公社だと思う。
三宮に交通センタービルというのがあるが、ここには交通公社がある、と思っている。
切符を買いに行くのは、今でも「交通公社」である。

レコード屋というのも、今はCD屋というのだろうか?
CDしか置いてなくても、やっぱりレコード屋である。

そのレコード屋に行ったら、J-POPなどと書いてあるが、これはニューミュージックだ。
荒井由美はニューミュージックであって、J-POPではない。

クロスオーバーとか、アダルト・コンテンポラリーとかも、もう使わないのだろう。
音楽のジャンルをあらわす言葉は回転が早い。

クルマのエンジンの排気量は、昔は1500とか、2000とか、ccであらわしていたのに、いまは1.5とか2.0というようにリッターであらわすようになった。
これも、なじみがあるのはccの方だ。

コンサートという言葉も、あまり使わなくなってきたようだ。
若い人はライブという。
やっぱり、コンサートがなじみがある。リサイタルというと、ちょっと古いか…。

フォークギター、これも今はアコギという。
アコースティックギターを縮めた言葉だ。
昔はそんな言葉はなかった。みんなフォークギターと言っていた。

だんだん、人間が古くなっていくのだろう。
今はJRというが、やっぱり国鉄と言ってしまう。

その国鉄のことを、うちの親は省線と言っていた。
もと鉄道省が管理していた線だから、省線である。
子ども心に、何で「しょうせん」というのか…と思っていたが、小学校の高学年の頃に理由を聞いて納得した。
そんな昔のことを…と思ったものだ。

「鉄道省」古いでしょう。

うちの子供は、親がJTBの事を「交通公社」と言っていた…と、そのうち思うのかもしれない。



| | 考えたこと | 22:12 | comments(0) | trackbacks(0) |
行きつけの…
誰でも、行きつけの…という店があると思う。

パーマ屋さんや散髪屋さんはたいがい行きつけの店になるだろう。
毎回変えている人はいないと思う。

行きつけの飲み屋とか、喫茶店、食堂とか飲食関係もあるだろう。

女性の場合、服や靴を買う店も、行きつけの…になるのかもしれない。

趣味の関係は、行きつけになることが多いように思う。

ギターは前にも書いたが、行きつけの店がある。
これは、信頼できるところでないと…。

行きつけの本屋もある。
いつも行っているところなら、だいたいどのあたりにどんな本があるかわかるので、探しやすい。

文房具屋も、同じところに行く。
時々、店内を回り、どんなものがあるか確認したりする。

マッサージもそうだ。
気に入ったところに行きつけになる。

ガソリンスタンドも、行きつけの店になる。
毎回スタンプを押してもらっている。

しょっちゅう行っていても、スーパーは、行きつけの…とは言わない。
店の人とのコミュニケーションが必要なのだろう。
行きつけ、という言葉にはそういうニュアンスがある。

生活の中に、行きつけの…が多い人は、それをエンジョイしているような気がする。
値段だけではなく、笑顔や話に価値を見出すのだ。

そういう意味では、マクドナルドのように、誰が来ても同じ応対というような店は行きつけにはならない。
あの手の店は、何度行っても「いつものヤツ」で通じるようにはならないから。

どうも、その手の店が増えてきているような気がしてならない。

それは、生活をエンジョイできなくなってきている、という事なのかもしれない。




| | 考えたこと | 22:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
人は知らないものに愛を感じない
昨日も書いたが、朝の連続ドラマの話…。

「芋たこなんきん」の中で、東京の大学に行っているという、主人公の従兄が言っていた。

「人は知らないものに愛を感じない。」

だから教育は大事だということだ。

食うことに精いっぱいで、学校に行かず、工場で働いている中学生に対して、志願して出征を覚悟した大学生が言ったセリフだった。

自分は、ほんの少し早く生まれてきたおかげで、勉強する楽しみを知った…君も学校に戻れ…というメッセージ。

川を見ながら彼は言う。
川のことを知らなければ、川を愛することはできない。だから、知ることは大事なのだ。教育は大事なのだ…。

音楽を知らなければ、音楽を愛せない。
言葉を知らなければ、言葉を愛せない。
仕事を知らなければ、仕事を愛せない。

何かを知ろうと思う、その意識が人間にはあるのだと思う。

でも、それには時間が必要だし、いくらかのシンドイ思いも必要だ。
その、時間とシンドイ思いを与えるのが、教育というものなのか…。

「人は知らないものに愛を感じない。」

名言だと思う。



| | 考えたこと | 00:34 | comments(0) | trackbacks(0) |
明るい戦前
NHKの朝の連続ドラマを見ているが、前作に続いて今回の「芋たこなんきん」でも、戦前の学生の青春が描かれている。
今回の作品は、田辺聖子の自叙伝的な作品だが、戦前の大阪が2週にわたって舞台となっている。

昭和18年…ガダルカナル戦も終わり、敗戦に向かってひたひたと足音が聞こえている時期であろう。
ドラマの中でも、中学校の女性の英語の先生が、「早く戦争が終われば…」というような事を言って疎開していったり、舞台となっている写真館の技師に召集令状が来て出征していき、戦争の影の部分が描かれる。

それでも、時に空襲警報が鳴るものの、主人公の中学生にとっては、のんびりした日常であったことがわかる。
川の土手を、「アイスクリーム食べたい〜」と言いながら、歩いていく。

友達の工場で働いている男子中学生を意識したり、大学生の従兄への思いがあったり…。(その大学生はフランス語の原書を読んでいるという学生だった。そんな大学生がいたのか…。)

食べものも、まだ大阪にそこそこあったみたいである。
甘いものはなかったようだ。

今週には大阪の大空襲も(もちろん、神戸にもあったのだが)描かれるだろう。
どんどん悲惨になっていく…。

でも、戦前という時代が、暗く、陰惨で、ただただ間違っていた時代だったと思うのは、もうやめよう。

戦前には、悪いこともあったが、いいこともあったのだ。


| | 考えたこと | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハイテンション
吉本の若手の漫才師を何組か生で見る機会があった。

みんな、元気があってよいのだが、同じようなシャベリをするのが気になる。
とにかく、テンションが高いのだ。

声が高く、大きい。
最初から最後まで、それで通す。
ボケもツッコミも同じような調子だ。

見たのが、全国ネットの収録で気合いが入っていたという事もあったのかもしれないが…。

テンションを上げて、お客さんをひきつけるという狙いはよくわかるが、ずっとそれでは、聞いているのがシンドイ。

不安の時代なのか。
常に、高いテンションを続けないといけない…。

1000組くらい漫才師がいると言っていたから、たしかに生き残ろうと思うと大変なんだろう。
どんどん新人が出てくる。追い越されたら、追いつけない。

時々、若い人が話しているのを聞いていても、そんな話し方をしている事がある。
やたらテンションの高い声を出し続ける…そんな感じだ。
ぼんやり聞いていたら、怒っているのか、ケンカしているのか、などと思うことがある。

大きな声、小さな声、高い声、低い声、おしころした声、擦れた声、抜けた声、明るい声、暗い声、ドスのきいた声など、声を形容する言葉はたくさんある。
テンションの高い声というのは、そのなかの一つ。

一本調子で突っ走るという感じの話し方ばかりになるのは、もったいないと思う。

余裕が必要なんだろう。
舞台の上で余裕がないと、テンションが下げられない。

テンションを上げて、かつ、10分なり15分なりの時間を続けようと思うと、きつくならざるを得ない。

いったんテンションを下げれば、楽になるのに…と思う。
(自分ができるかどうかは別として…)

せっかくたくさんの形容詞があるのに、もっと使ってほしい。


| | 考えたこと | 01:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
カルミン
明治製菓といえば、マーブルチョコレートとカルミンである。

マーブルチョコレートは今でも時々見るが、カルミンはあまり見かけない。
今やカルミンを知らない子供ばかりになった。

カルミンは、カルシウムとミントの合成語らしく、ミント味のチュアブル(噛める)キャンデーである。
カリカリと噛むと、ミントの味がする。

どういうわけか、今は日本では作っていない。カルミンは昔ながらの包装紙(ブルーと白)の上からラップされて売られている。
見ると、シンガポールで作っていると書いてある。

東南アジアでも売っているのだろうか…。

夏の終わり、地蔵盆でもらうお菓子の袋詰めには、たいがいカルミンが入っていた。

長らくその手のお菓子は、カルミンの天下だったが、カバヤのジューCオレンジというようなものが昭和40年代に入って出てきたと思う。
カルミンのように紙で包装されているのではなく、プラスチックのケースに入っていた。それがオシャレだったので、いつしか遠足のおやつの定番になった。

300円まで…というような決め方だったので、当時できたばかりのダイエーに行って、できるだけ300円に近づくように買ったものだ。

それでも、カルミンの味は忘れられない味だ。

昨日、偶然カルミンを手にして、懐かしく食べた。

子供の頃に食べたお菓子の味は、いくつになっても忘れないということがよくわかる。

今の子供を見ていると、定番らしきものはハイチュウか…。

カルミンとハイチュウ…。

何となく、「カルミン」という言葉の響きに夢を感じるのは僕だけか。

カルミン…いい名前ですよね。


| | 考えたこと | 01:34 | comments(0) | trackbacks(0) |