考えたこと2

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フェイクニュースもどき
こないだ、新聞に「新卒採用、4社に1社が「質より量」 民間調査」という記事があった。
ぱっと見ると、新卒の学生が不足しているから、質より量を優先する会社が増えているんだな、という印象がある。
記事を見てみると、今まで「量より質」という会社が80%だったのが、75%に減り、「質より量」という会社が5%増えて25%になったということだった。
たしかに、見出しは事実を示している。

でもなあ、と思う。
こういう印象操作が最近多いのだ。
もちろん、記事を読めば本当のことはわかるのだが、「質より量」と「4社に1社」という見出しが、人手不足だから「質は考慮されない」という印象を生む。
もともと80%は量を重視して採用していたのが、それが75%になったということ。
逆に言えば、まだ4社に3社は「量より質」の採用をしている。
だから、見出しは「新卒採用 まだ4社に3社が「量より質」 民間調査」にしてほしい。

この民間調査会社は新聞社の関係する会社だ。
人手不足で、質より量の動きになってきた、という方が量を確保するために宣伝や広告が増える、という思惑があるのではないか。
企業に、採用は大変だ、という印象を与えているのだろう。
ぼくの考えにも偏りはあるが…。

実際にはAIという未知の化物が出てきたり、インターネットがインフラになって世の中の仕組みを変えていったりしているから、どれだけの人が将来必要かはわからない。
それが証拠にメガバンクなどは抑制に動いている。
流動性が低い日本の労働市場では、いったん正社員を雇ったら解雇しにくいということもある。
だから、非正規社員が増えているということだ。

学生の立場に立つと、まだまだ量より質だから頑張らないといけないということになる。
もちろん、世の中には会社関係者の方が多いのだから、この記事はそちらの立場に立っている、ということだろう。
記事の中にも「企業側の苦境が鮮明になっている」と書いてある。
だから、もっと採用のお金を使え、ということが言いたいのだ。

マスコミは第四の権力と言われ、自由な立場で不正を見張るという役割だったが、こと新聞やテレビに関してはもうそんなことは望めない。
食えなくなってきたからだ。
衣食足って礼節を知る、とは論語の中の言葉。
食えなくなると、食うことを優先して利益誘導するのは真実だ。

インターネットがその代わりをできればいいのだが、こちらは玉石混交である。
各々が何が正しそうかを選ばないといけない。

そうなると、メディア・リテラシーという「何が正しいかを識別する力」が必要になる。
そこで、教育が出てくるのだが、これもちゃんとできているとは言えない。

民主主義の根幹の部分だから、ちゃんとやらないといけないのだが…。


| | 考えたこと | 21:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギブソン
ギブソンといえば、レスポールに代表されるギターの老舗。
フェンダーと並ぶアメリカの2大メーカーだ。
アコースティック・ギターなら、ダブというピックガードに鳥の絵が書いてあるモデルが有名かな。
そのギブソンが経営危機になっている、という記事があった。

格付け会社が、ギブソンの格付けを下げ、さらにテネシー州の地元メディアの報道がきっかけで「倒産の危機」という話。
エライことだ。
東京のショールームを開いたが、12月に閉鎖したらしい。
2014年にできたところだったのに、残念。一度も行かなかった。

一方で、ギブソンは倒産危機の報道を否定したとのこと。
でもまあ、火のないところには煙は立たないから、シンドイのは事実なんだろう。

エレキギターの売上が急激に低下したとのこと。
過去10年でエレキギターの売上高は年間約150万台から年間100万台に低下したらしい。
ギブソンと並んでフェンダー社も負債を抱えているとのこと。
そうだったのか…。

そういえば、日本でもエレキギターを作っていたヤマハはラインナップを縮小したし、イバニーズもフェルナンデスも一時に比べると減った。
日本も少子高齢化で18歳人口が半分になって、ギターが売れなくなっているのだろう。

最近はギターケースを持ってい歩いている人も減った。
70年代後半はたくさんいたのになあ。

元ビートルズのポールがギター不振のインタビューに答えて言っている。

「私はジミ・ヘンドリックスに憧れたものだが、ギターのヒーローは、もういないんだ。かつては誰もがギターを欲しがったものだが......」

確かに、邦楽を見ても、洋楽を見ても、ギターヒーローは減った。
今はダンスブームでバンドは影に隠れていたりする。
以前と同じくギターはいるのだが、黒子になってしまった。
バンドなら、それなりにギターはかっこいいと思うのだが、以前ほどスポットライトは当たらない。

やっぱり、ギターは以前ほど人気がないのだろう。

ギブソンが経営危機とは…。
だから、ティアックを買収したりして、音響機器をギブソンブランドで出そうとしていたのか。
そういえば、フェンダーもブルートゥーススピーカーなどを出しているし、アンプも新しくなった。
ギブソンはちょっと遅れている感じだ。だからシンドイのかもなあ。

ギブソンのブランドは強いから、どこかが買収するとは思うが、まさか「儀武尊」みたいなことにはならないだろうなあ…。




| | 考えたこと | 21:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
古き良きイギリス
1980年代にヨーロッパに出張したときのこと。
イギリスとフランスを行ったり来たりした。
当時はタイヤを扱う会社にいたので、車での仕事が多かった。

イギリスでみんなでクルマに乗って移動していた。
ぼくは日本人の駐在員と一緒に乗っていたのだが、その人が言ったことで今でも覚えていることがある。
クルマの中でお腹がすいたので、パンか何かを食べていたら、それを同僚に見られて、あとで注意を受けたということだ。

同僚曰く「車の中でモノを食べるのは下品なことだ」という。
ニュアンスとしては、紳士のやることではない、というような感じ。
ぼくのいた会社は、もとはイギリスでも名門の企業で、それを日本の企業が買ったという状態だったから、日本人駐在員はエライ人だった。
同僚は、社会的な地位を意識させるべく言ったのだろう、とは駐在員の談。

きっと、ジェントルマンは車の中で食事などしない、ということだったのだ。
食事というのは、ちゃんとテーブルでとるものだという意識があったんだろう。
80年代のイギリスには、そういう気風があったんだと思う。
まだ、イギリスの紳士はいつも傘を持っているが、雨が降っても使わない、というような話が日本では言われていたころだ。

4年前夏休みにイギリスに旅行したとき、ガイドの人がロンドンも変わったと言っていた。
移民が増えて、古き良きイギリスが失われたらしい。
ぼくには、新しい車も多くて、昔に比べて景気がいいように思えたが、ずっといる人にとってはそういう変化なのだろう。

80年代のイギリスは、経済的には苦しんでいたと思う。
道には古い車ばかり走っていた。
その苦しさの中でも、ジェントルマンは…というイギリス人がいたということだ。
苦しい中だからこそ、ということかもしれない。
今ごろはもう70歳をはるかに超えているはず。

あれはイギリスの騎士道にまで通じるものだったのだろうか。
何となく、日本の武士道と親近感があって、ぼくは好きだったのだが…。

今ならきっと、車の中でパンを食べるのは、あの頃よりは普通に近づいていると思う。

日本ではコンビニで弁当を買って、昼飯を車の中で食べている人も多くなった。

ロンドンも変わったし、日本も変わったのだろう。

時間は戻らない。


| | 考えたこと | 22:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
しあわせの隠れ場所
2009年のアメリカ映画。
サンドラ・ブロックの主演。
この人はちょっときつい顔をしているが、だいたい出る映画は「当たり」が多い。
これもWOWOWでやっていたので、とりあえず録画して、見たらよかった。

アメリカの南部が舞台。
実話を元にした映画だ。

サンドラ・ブロックはファストフードの経営者と結婚している。
自分もデザイナーをやっている、キャリアウーマン。
BMWを乗り回している。

ひょんなことから、黒人のホームレスの男の子を家に連れて帰って、世話を始める。
自分の娘と息子も無口な彼と馴染む。
彼の生い立ちを調べたり、出身のダウンタウンに行ったりする。
黒人と白人の格差は大きい。
彼のことを考え、後見人になることを決意する。

前半を見ると、アメリカのキリスト教ボランティアの理想がわかる。

レストランで上流の女性たちと食事をしながら、黒人を家に入れたことに驚く友人が言う。
「彼はあなたに会って、変わったでしょう」
「彼が私を変えたの」と答える。
印象に残る場面だった。

後半は、ホームレスの黒人が才能を発揮し、フットボールの選手になる、というストーリー。
どちらかというと、映画は後半が見せ場になっているが、ぼくは前半が面白かった。

サンドラ・ブロックの魅力は、自立した女性を演じられることだ。
儚い、弱々しい女性は似合わない。
こういう役が彼女のはまり役。

サンドラ・ブロックが好きな人にはオススメの映画。



| | 映画・舞台 | 17:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
カーリング
冬季オリンピックで女子カーリングが銅メダル。
昨日の準決勝は延長で韓国に負けて涙した。
今日はカーリング発祥の地、イギリスとの戦い。
最後のイギリスのショットがうまくいかず、結果的に日本の勝利。
いやー、よかった。

イギリス発祥のスポーツらしく、相手のミスショットを喜んではいけないらしいが、最後日本のストーンが中央に押されてナンバーワンストーンになったのは、喜んでしまった。
選手は淡々と握手をしていたのはさすが。

カーリングはメンタルのスポーツだろう。
イギリスらしい。
もちろん体力も必要だが、最後はメンタルの勝負だと見ていて思った。

笑顔とチームワーク。

ストーンを投げたあとの話もマイクで拾っていたが、そこで話される北海道弁。
以前毎年冬に北海道に長期出張で仕事に行っていた。
「そだねー」という独特のアクセントの言い方には聞き覚えがある。

2年前の女子バドミントンのときの金メダルのときも手に汗握ったが、今回も同じ展開。

ちゃんと相手選手と握手をしたあと、抱き合って喜んでいた。

今回のオリンピックで一番よかった。





| | 考えたこと | 00:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
夢を語る
大学でキャリアに関係した仕事をしていると、思いの外学生が将来の仕事について考えていないのがよくわかる。
ぼくらも、将来何をしたらいいかわからない、という感じだった。
就職前になって、求人票を見て考える、という程度のことだったと思う。
それでも、大学生の数が少なかったし、高度成長時代だったから、何とかなったのだと思う。

今はそういうわけにはいかない。
その対策として、高校でキャリア教育の時間などもあり、一応将来のことを考えさせているらしい。
それだからか、こういうことがやりたい、という夢を持っている大学生が多い。
特に資格養成系でない普通の文系学部(法・経・商・文など)は、自分でこんな仕事をしたい、という気持ちを持っていないといけない、ということだ。

夢を持つこと自体はいいことだが、単に持てばいいというものではない。
もう大学生になるのだから、夢を実現するためのステップも考えないといけない。
実現するステップを考えないなら、単なる空想だ。
夢はどんなに大きくてもいいが、それを実現するステップが重要だと教えてほしい。
でも、高校の先生は教員免許を取って、採用試験に通って先生になったのだから、分からない道を歩いてきていない。
だから、夢を持たせて終わりになっているのではないか。

将来の可能性は無限大だ、などという言葉は小学生に伝えるものだと思う。
年齢が上がるにつれて、可能性は狭くなるのが一般的。
例外はいるが、それはあくまでも例外だ。
高校でコースを選択していれば、そこでも可能性は変わる。
すでにチョイスしている、という事を伝えないといけない。
苦い言葉になるが、それは伝えないといけないのだ。
夢ばかりではダメだ。

プロ野球の選手になりたいという夢があるなら、甲子園に出場するランクの高校の野球部に入り、そこで活躍することが必要だろう。
そのためには、中学でどういうチームでどんな活躍をしないといけないということを考える。
みんながみんなではないが、今のプロの選手はそういう道をたどってきたのだと思う。
よほどのことがないと、高校3年になって、野球もやったことがない人が「将来はプロ野球の選手」などということはない。
ステップがわかっているからだ。

でも、一般の会社員になるのなら、そのステップは明確ではない。
そこが難しいところ。
語学とかコンピューターとか、問題意識を持つための読書とか一般的なスキルはある。
そのためには、こういう仕事をしたければ、こういう本を読んだり、スキルを習得したりすることが必要だ、というガイドが要る。
あるいは、自分がしたい仕事を見つけるために、どんな事を考えるべきか。
どんなふうに時間を過ごすべきか。
そういうガイドだ。

特に今の日本の文系の仕事は、大学で学んだことと関係がない。
全学部、全学科で求人が来る。
専門性は一切問われない。
だから、なおのこと決めにくくなる。

だからこそ、ほんの少しでもいいから、そういうガイドを伝えるべきだと思う。

| | 考えたこと | 23:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
地方自治
シカゴの消防士のドラマが面白い。
ずっと録画して見ているのだが、消防士の一人がシカゴの市会議員?に立候補することになった。

話は議員の在り方に疑問を持った消防士が、地域の住民に勧められ、立候補するために住民の署名を集めるというところ。
なるほど、泡沫候補の立候補を食い止めるために、そういう制度になっているのかとわかる。

感心したのは、当選しても消防士の仕事には支障は出ないということだ。
アメリカの地方議員は仕事を持っていて、副業でできる。
平日の昼間に議会をやっていないのだろう。

調べてみると、250万人以上の人口のシカゴで、市議会議員の数は50人。
アメリカでは多い方だ。
ロスアンゼルスではたった15人しかいない。
尼崎は人口は40万人を切っているのに、42人もいる。

おまけに、市議会議員はボランティアに近いという。
カリフォルニア州では、報酬は月給400ドルらしい。日本円で4万円ちょっと。
たしかに、これだけでは食べていけない。

ネットを見ていると、「カリフォルニア州・バークレー市は、人口22万人で議員はたったの8人。市民が参加しやすいよう、議会は毎週火曜日夜7時から始まります。議員は市民の側を向いて座り、会議の冒頭では、市民が誰でも発言できます(外国人でも子どもでも一人3分×10人)。」という記事もあった。
市議会が、民主主義を体現する場になっているのだろう。
だから、アメリカは強い。

日本では地方議員のなり手がないということで、地方議員の年金を復活させようという動きもあるという。
これこそ本末転倒。
今の議員のシステムを根本的に変えることが、地方政治を活性化させ、民主主義を日本に定着させることになるのだと思う。

せっかく憲法改正をするのなら、そのへんも考えてやってほしい。
地方自治が民主主義の鍵なのだ。

みんなの生活から遊離した人たちが議員や地方政治をやっている。
だから、興味もなく、投票率も低くなる。
悪循環だ。

地方議員の民主化をやらないといけない。
市議会議員はボランティアにしよう。

| | 考えたこと | 00:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
国家的詐欺
庄司雅彦という弁護士が、ブログで「法科大学院は国家的詐欺」という記事を書いていた。
当時文科省や法務省が、「卒業者の7割が法曹になれる」と言っていたということに対して、知人が文句を言っていたとのこと。
その当時、名も知らぬ大学まで法科大学院を設立したことを知った弁護士たちは、「7割は絶対にありえない。7割も通したら司法修習ができない」と判断していたらしい。

もともと、国内に弁護士の需要があったわけではなく、アメリカなどの外圧で弁護士を増やすことありきでやったことだろう。
だから、実需が増えるわけがない。
日本みたいな単一民族社会では、なんでも訴訟するような文化は合わない。
そういう意味では、もともと半信半疑で始まったのだ。

文化系の資格で最も難しいとされている、司法試験を通ってなっていた法曹の人たち。
その人たちがレベルの低下を言わないはずもない。
そういう意味でも失敗の気配はあったのだと思う。

しかし、ぼくは一番の戦犯は文科省の口車に乗って、バカみたいに法科大学院を作った大学だと思う。
法曹になるための最低限の知識や学力というのは、想定されていたんだろうか。
それを想定して、入試をやったのだろうか。
いくら多様な人材が法曹界に必要だといっても、最低限の知識を身につけるだけの能力は必要だ。

大学がいかに法科大学院バブルに乗ったかというと、14年前の創設時に68校が名乗りをあげた。
ピーク時には74校になり、入学定員は5825人。
74校というと、大学の約1割が法科大学院を作ったということだ。

しかし、8年ほど前に『法科大学院教育の質の向 上のための改善方策について』が出て、入学定員が減り始め、今は43校が2566人まで減ったとのこと。

この過程で募集停止をした大学は、 姫路獨協大、大宮法科大学院大、明治学院大、駿河台大、神戸学院大、東北学院大、大阪学院大、新潟大、信州大、島根大、香川大、鹿児島大、白鷗大、獨協大、大東文化大、東海大、関東学院大、龍谷大、広島修道大、久留米大、 静岡大、熊本大、國學院大、東洋大、神奈川大、山梨学院大、愛知学院大、中京大、京都産業大、成蹊大、名城大の31校。
募集停止予定が、北海学園大、青山学院大、立教大、桐蔭横浜大の4校。

一部の国立大を除けば、募集停止をしたところは偏差値の序列で3番手以降の学校。
おそらく、これらの学校法人は、文科省の発表を聞いて、これからの少子高齢化で学校の評判を上げるために法科大学院を作ろう、ということになったのだろう。

もちろん、新しい司法試験のレベルを想定して、合格するために最低限の学力を推定し、それで入試をしていれば、問題はなかったはず。
それでも、せっかく作った鳴り物入りの大学院だから、募集定員を切るわけにはいかない。
赤字になるからだ。
だから、想定していたかどうかはともかく、定員を満たすだけの志願者を入学させた。
教えるのは従来の教育を受けたきた教員。
基礎学力が足りない学生を教育する技術はない。
その結果、そういう大学は司法試験合格率が良くても10%台になった。
10%を切って、一桁の大学も30校以上。
やはり法曹の仕事をするのは、難しいのだ。

当初は司法試験は3回受けてダメだったら受験資格を失う、ということだったが、今は5回に緩和された。
それでも、なかなか通らない。
そのうえ弁護士が増えた結果、テレビで弁護士事務所の宣伝をするまでになったが、そのほとんどは「過払い金の請求」というような仕事だろう。
文科省の初期の狙いとはだいぶ違う。

これは法務省、文科省による国家的詐欺だというのはよくわかる。
でも、その片棒をかついのだは、法科大学院のバブルを作った学校法人だと思う。
法学部の先生たちは、自分たちの仕事を作ってくれたから、何も言わない。

本来なら、この「国家的詐欺」を糾弾するべきなのだが…。


| | 考えたこと | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
AIと寿命
AIが進んで人間のように考えられるようになったとする。
その時にはどうなるんだろうか。
人間の愚かさを軽んじて、地球を征服しようとするんだろうか。
人間のように考えることができれば、そういうことも起こるかもしれない。
人類の歴史は戦争の歴史と言ってもいいからだ。

AIと人間の違いの大きなところは、人間には寿命があるが、AIは電気さえあれば死なないというところだと思う。
本当にAIが賢くなったら、寿命を与えるといいかもしれない。
際限なく賢くなり続ける(賢いということの定義は難しいが)のは、寿命があれば防げる。

人間に死があるということが、人間の特性を決めている面もある。
死があるから、人間は祖先や子孫の事を考える。
死があるから、人間は他人に優しくなれたりする。
死があるから、人間は自分を省みたり、人のことを思いやったりできる。
全て、一人の人間には限られた時間しかないから、そういう人間性が出てくる。

だから、AIも寿命を意識させ、時間が来たら死ぬようにプログラムしておけばいいと思う。
死なない人間はいない。
AIを人間に近づけるには、AIに寿命を持たすことだ。

そうすれば、人に優しいAIができるかもしれないぞ。



| | 考えたこと | 23:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
尊厳死・安楽死
高齢化社会が進んできて、「尊厳死」や「安楽死」が記事になるようになってきた。
尊厳死、安楽死の定義を書いている。
なかでも、尊厳死(積極的安楽死)の定義は、過去の裁判から以下の様なものらしい。

<積極的安楽死の4要件>
1 患者が耐えがたい肉体的苦痛に苦しんでいる。
2 死が避けられず、死期が迫っている。
3 肉体的苦痛を除去・緩和するための方法を尽くし、他に代替手段がない。
4 生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示がある。


記事には「現実的には積極的安楽死を実施するのはほぼ不可能」と書いてある。
たいがいの場合は、3に示されている「他の代替手段」が見つかるからだ。
そこには医療サイドの事情もあるとのこと。

「終末期の延命治療はどうしても高額医療になります。
患者本人には特定医療費などの保険制度で負担が軽くなりますが、病院側は最新の延命治療をすればするほど医療収入が上がります。
このように、病院経営者に延命治療をストップするインセンティブが働かない仕組みになっているのです。」

最新の延命治療をすればするほど、医療収入が上がる現実がある。
それで意味のある延命ができればまだいいのだが、意識もなく延命されるだけなら、やめてほしいと考えるのは自然なことだと思う。

もちろん、医療収入だけではなく、死を回避するために、医師が他の代替手段を試そうとする気持ちもあると思うし、それは自然なことだとも思う。
周りの家族の気持ちもあるだろう。

それでも、事前の意思表示をすれば、延命はしなくてもいい、というコンセンサスを持ったほうがいいように思う。

命は最も大事、という言葉が日本では全てに優先する。
そこでみんな思考停止するのだ。
いや、必ずしもそうではないとでも言おうものなら、周りから袋叩きにあう。
みんなそれが怖いのだ。

国会の予算委員会ででまだモリカケ問題をやっているが、いつまで続けるのだろうか。
100兆円を超える予算を審議せずに、何をやっているんだろうか。

こちらの方が、予算と関係があるし、重大な問題だと思うのだが…。

| | 考えたこと | 22:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
明治150年
今年は明治が始まって150年の年。

ぼくが小学校の時に、明治100年という言葉をよく聞いた。
あれは、もう明治は遠くなったというようなニュアンスで言われていたような気がする。
実際にその頃を支えていた人たちはどう思ったのかはわからない。
戦後の復興を成し遂げ、これから高度成長に向かっている時代だった。

国際的には冷戦が本格的に始まった時期。
東西の駆け引きの中で、日本はアメリカの庇護のもとで経済成長をしようとしていた。
ぼくは若い頃は左よりだったが、会社に入って、現実を見てそれをやめた。
何やかや言っても、アメリカが好きだった。
音楽も、ファッションも、映画も、文化も、結局はアメリカがお手本だった。
安倍首相がアメリカ議会で演説をしたとき、You've got a friendが出てきて、何となく感動した。
ぼくも、キャロル・キングが好きだった。

アメリカが好きになるように教育されたわけではない。
テレビではアメリカのドラマをゴールデンタイムにやっていた。
小さい頃はラッシーとか、フリッパー。
馬がしゃべるのもあった。
ポパイも3バカ大将もあった。
父が好きだったコンバットもあった。

中学以降はハワイアン・アイやベン・ケイシー、ペリー・メイスン、サンセット77…、枚挙に暇がないというのはこのことだ。
自分の子供達とは全くアメリカとの距離が違う。
アメリカは一番身近な外国だったし、憧れだった。
それがぼくらの昭和だったと思う。
会社に入って、生まれて初めてアメリカに行った時は、うれしかった。

今年の明治150年はどうだろうか。
あの時と同じように、東京オリンピックを控えてはいるが、国の勢いはだいぶ違う。
低成長を続け、中国にGDPを抜かれ、これから少子高齢化で市場は縮小し、どうやって国をやっていくのか、困っているという…、そんな感じがする。

アメリカは今でも経済力では世界一だが、世界の警察官をやるほどではない。
そして、第2次大戦前のように内向きになってきた。
日本を守ってきたが、それもお役御免にしたいと思っているように見える。

日本は、古いシステムを維持しようとするために、社会保障は厳しい状況だ。
どんどん進む少子高齢化をどうやって迎えていくのか。
既に若い人たちは貧しくなり、それが少子化を進めてもいる。
国際的にはアメリカが保護主義に転換したり、強くなった中国の影に怯えているようだ。
アメリカ頼みの国防をどうしていくのか、憲法改正の節目も迎えている。

ぼくらはこの150年をふりかえって、何を変え、何を残すのか、考えないといけない。

そういう時期だと思う。

| | 考えたこと | 22:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
聴覚
人間の五感の中で、最期までコミュニケーションできるのは聴覚かもしれない。

嗅覚と触覚、味覚は感じるだろうが、意味はないだろう。
視覚は意外と早く終る。
こないだ血圧が下がった時、視界が暗くなった。
視覚は膨大な情報量を処理しないといけないが、聴覚はどちらかというと軽い処理だろう。
動画と音楽では、データー量に100倍位の違いがある。
ある程度の活動力がなければ、視覚は機能しないのだ。
だから、最期まで残るのは聴覚になると思う。

目は開かないと見えないが、耳は常に聞いている。
ネットで調べても、そういう記事がたくさん出てきた。
なかには危篤状態でも、周りで話している声は聞こえている、という記事もあった。
そうかもしれない。

生まれる前、きっと胎内でも音は聞いている。
音で初めて外界を知るのだろう。
人間は音を聞いて生まれ、音を聞きながら死んでいく。

人間と動物の違いで一番大きなものは、言葉によるコミュニケーションだ。
言葉を持ったから、複雑なことを考えることもできるようになった。
最初は耳で聞いて、言葉を聞いたり伝えたりしたはず。
聞けなければ、話せない。
やはり聴覚は大事だ。

そういえば、小林秀雄が文字のない昔は、きっと一度聞いて覚えていることがたくさんあったと言っていた。
文字を持つことで、その能力が退化したのだという。
そうかもしれない。

死ぬ時に聞こえる音はどんなだろうか。
家族の声の場合もあるし、病院ならスタッフの声かもしれない。
一人なら、テレビの音だったりするかもしれない。

信仰があれば、その言葉を聞けるかもしれない。
でも、ぼくはそんなものはない。
家の宗旨は浄土真宗だが、南無阿弥陀仏という言葉にはそんな思い入れはない。

遺言に、死ぬ時に聞きたいもの、というのを書いておくとよいかもしれない。

若い頃に聞いた音楽とか、好きだった演芸とか。

まあ、どうでもいいことのような気もする…。



| | 考えたこと | 21:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
地方創生?
「地方は若者の「起業家」を使い捨てにしている」という記事を読んだ。
そんな地方自治体ばかりではないと思うが、実際にそういうことが起こっているということだ。

税金で安く起業家を呼んできて、その人達に丸投げしてやってもらおう、という企画。
その起業家たちの事業は失敗しても自己責任。
雇用の保証もなく、格安で雇おう、という姿勢。
どれくらい安いかというと、「地元の一般的な公務員給与1人分の年収よりも安い金額」ということらしい。
おまけに地元と摩擦が起きると、行政が調整もせず「出て行け」と言われることもあるとのこと。
農業分野で、地元の特産品を加工し販売して人気商品になると、それを地元が取り上げる、という例すらあるらしい。
ここまで来ると、まるでヤクザのような商売だ。

記事にはこうある。

「実は、若者に不利な条件を押し付け、「自己責任」の号令のもと事業に取り組ませるという仕掛けは、過去にも「新規就農者支援」「新規漁業従事者支援」など、多様な形で取り組まれてきました。しかし、その多くが若者たちを事実上「使い捨て」にしてきています。地元出身の若者たちが地元を離れていくのは、このように、若者たちに「平気で不利な条件を強いる構造」が一因であることを忘れてはいけません。

地方が、本当に事業を興して地域課題を解決したいのなら、制度を活用した「予算という名の、人のおカネ」しか出さないのではなく、地元の人々が、「自分たちの財布」からおカネを持ち寄って、起業家が必要とする金額を投資するという前提が求められます。」

こないだ地方議会のことを書いたが、行政も併せて地方自治というものを考え直さないといけないと思う。
テレビドラマで地方の町おこしみたいなものをやっていたが、あんなに現実は簡単ではない。
さらに、地方の人たちはみんな純朴で素直な人たちばかりでもない。
そういうステレオタイプは捨てるべきだ。

ぼくは最低限、地方公務員試験を変えていく必要があると思う。
民間の選考と違うのが、今の公務員試験をダメにしている。
橋下さんが大阪の役所の採用試験を変更し、民間と同じ形式にしたのは先見の明がある。

今の試験制度を続けるなら、民間は厳しそうだからイヤだという、安定志向で定年まで税金で食わしてもらって働こう、というような若者ばかりになってしまう。
大阪ばかりでなく、地方こそ変えないといけないのだ。

そして、業務を効率化して年配の人たちの希望退職を募ること(今朝フランスでニュースになっていた)。
さらに、中途採用で企業出身の人を入れること。

そういう改革をやるべきだと思う。

それが地方創生の第一歩だ。


| | 考えたこと | 20:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
アイドル
ぼくらが若い頃、アイドルといえば女性では天地真理、南沙織、ちょっと遅れてキャンディーズ、桜田淳子、山口百恵、その後、ピンクレディそして松田聖子、中森明菜という感じだった。
男性では、ジュリー(沢田研二)、ショーケン(萩原健一)、その後、郷ひろみ、西条秀樹、野口五郎あたりだったか。

ぼくは歌謡曲にはあまり興味はなく、洋楽以外ではフォークとかニューミュージックとかいうジャンルが好きだったから、当時のガロ、チューリップ、オフコース、荒井由実、ハイ・ファイ・セットあたりをたどってきた。
レコードやCDが全盛期で、音楽は買って聞くものだったから、そんなにライブはやらなくてもミュージシャンは食えた。

半年に1枚や1年に1枚出るLPレコードが楽しみだった。
小遣いを握りしめて買いに行ったものだ。
当時買ったレコードは今でも捨てられない。

今は音楽がネット上で聞けるものになったから、ミュージシャンは大変だ。
みんながネットに接続し、Youtubeで聞いたり、ストリーミングで聞いたりする時代になる。
音楽が、希少材から消費財になった。
聞き方も多様化し、聞く人の好みも多様化した。

昔は音楽は座って、集中して聞くものだったが、今や生活の中で流れているものになっている。
レコードの時代は本当にそうだった。
レコード盤をうやうやしくジャケットから出し、ターンテーブルの上に置いて、針を落とす。
曲の順番を換えたりするのも面倒くさいから、レコードの通りに聞く。
レコードの時代は、ミュージシャンにすべての主導権があった。

でも、CDになって、簡単に曲の順番が変えらるようになった。
そして、パソコンが普及して、コピーが出来るようになった。
音楽の主導権が作る人から聞く人になったのは、こういう変化が大きかったのだろうと思う。

モノは消費財になると、品質が落ちるという法則がある。
音楽の裾野が広がり、誰もが作って発表できる環境になったということもあるが、iPodやネットにつながるウォークマンなどの機器がそれを助長したのだと思う。
簡単に曲が手に入り、聞くことができる。
それが作り手のカリスマ性を失わさせたんだと思う。

おそらく、これから先すべての世代に知られているアイドル、というのは出てこないだろう。
日本人が長生きになり、世代の幅が広がりすぎたことや、メディアが多様化したことが原因だと思う。
テレビの台数も増え、ネットという代替物も増え、親の見るものを見る若い人も減った。
エンタメは家族で楽しむものではなくなったのだ。

ぼくは今年のレコード大賞をとったグループを知らないし、楽曲も知らない。
昔にように、大晦日にはレコード大賞の中継を見るという習慣はなくなった。

こんな状態では音楽で国民的アイドルになるのは難しいだろう。

まあ、今でも国民的アイドルというと、スポーツ選手が思い浮かぶから、そのうち意味が変わるかもしれないなあ。
| | 考えたこと | 22:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
トラウマ
トラウマという言葉はわりとたくさんの人が知っていると思う。
災害の後などにマスコミで使われる。
福知山線の脱線の時にも、だいぶ言われたはず。
事故にあった後、電車に載ることができない、というような症状が紹介されたと思う。
それは、脱線事故のトラウマがあるから、ということだった。

もともと、ベトナム戦争の復員兵で、大きく研究が進んだ。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)という言葉もその時できたんだと思う。
ぼくが持っている知識では、トラウマとは気軽に思い出せるような心理的外傷ではなく、あまりに大きな障害だから心が抑圧してしまう、というものだと理解している。
最近はトラウマという言葉を軽く使うことも多いが、本来はもっと重篤なものだ。

主な治療法は、抑圧されているトラウマ記憶を思い出して、再体験して自分の中で理解して抑圧を解放してやる、ということだと書いてあったはず。
だいぶ昔の話だ。

和田秀樹はこの分野の専門家。
彼の書いている記事を読んだ。

それによると、だいぶ治療法は変わったらしい。
そういえば、アメリカでトラウマ記憶を思い出させることによって、間違った記憶で親を訴えるということが頻発した、という本も読んだことがある。
記事でも紹介されていた。

要は、トラウマに対してちゃんと情報提供して、ストレス反応に対する対処術を教える、ということが基本になっているとのこと。
何が何でも体験を思い出す必要はないらしい。

それでもまだ、ネット上にはそんなことは出ていない。
やっぱりトラウマ体験を思い出して…、というのがほとんど。
なかなか、一度覚えたことは変わらないのか。
それとも、新しい治療法が根付いていないのか…。

和田先生はそれについても、医学界は頭が固いと言っている。

「メタボリックシンドロームの対策においては、コレステロール値が高いほうが長生きしているとか、やや肥満の人のほうが長生きしているという大規模な疫学調査があるのに、まったく目標値が変わらない。」

「私は、恐らくこの手のことは氷山の一角で、治療方針を変えるべきなのに、権威の面子のために変わらないままになっていることは珍しくないと思っている。」

そんなこともあるのだ。

ぼくは、若い頃からコレステロール値が高く、高脂血症だと言われ、脳梗塞をやってからはその薬も飲んでいる。

こういうのを聞くと、どうなんだろうと思う。

まあ、誰にも迷惑をかけず、死にたいと思っているだけなのだが…。



| | 考えたこと | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
ボッチ席
2011年に便所飯、2014年にボッチ飯、2015年に友達のリセットについて書いた。
ぼくは、一人でごはんを食べるのは平気だし、何が問題になるのかと思っている。

それでも、その後どうなったのかなと思ってネットで見てみると、大学でボッチ飯対策として「ボッチ席」というのが食堂に設置されているとのこと。
テーブル席の真ん中に仕切りを立てて、向かい合って座っても目線を合わさなくてもいい、ということらしい。
それが人気だという。

ということは、ボッチ飯というのは、一人で食べたい、ということだったのだろうか。
法政の新しいビルキャンパスのトイレがキレイで、そこで食べる人も多いというのに、驚いた覚えがある。
当時の論調は、誰も食べる仲間がいないのがイヤ、ということで便所飯というようなことになった、ということだった。

しかし、目を合わさず、仲間がいなくても食べられる席があると、そこが人気になった。
ということは、ボッチ飯を食べる人は、どちらかというと人から干渉されたくないということだ。
食べている時に、前の席の人と目があって、話しかけられたりすると、うっとうしいと思うタイプ。
だからこそ、ボッチ席が人気なのだろう。

つまり、みせかけの仲間は要らないということだ。

大学に入って、自我が確立し、それまで付き合っていたような薄っぺらな友人関係が嫌になるということかもしれない。

そういうことなら、ボッチ席の人気はいいことだと思う。

| | 考えたこと | 21:57 | comments(0) | trackbacks(0) |
オケ老人
杏が主演の2016年の映画。
初めて実写映画に主演した作品。

題名からわかるように、「梅ヶ丘交響楽団」という年寄りばかりのオーケストラが舞台。
全くのポンコツ楽団。
こういう映画を撮ろうとしたら、役者には事欠かないのが日本の強みと言ったら言い過ぎか。
小松政夫、左とん平、石倉三郎、藤田弓子など、芸達者の俳優。
なんとなく、楽しんで演じているように思える。

そこに間違って入ってしまったのが、杏が演じる高校教師。
若い人があまり出てこないのだが、それが日本の地方の未来を表しているようだ。
杏と同僚の高校教師(坂口健太郎 初めて知った)、団員の娘(黒島結菜 こっちも初めて)くらい。

ライバルの梅ヶ丘フィルハーモニー(これと間違えて、梅ヶ丘交響楽団に入った)との確執が、物語を盛り上げる。
だんだんと老人たちと打ち解けていき、トラブルもあって指揮を任される。
楽団員もだんだんと増えてくる。

フランス人のプロの指揮者が出てくるが、この人が「音楽は楽しくやるものだ」という。
それが物語を盛り上げる。

杏の指揮がいかにも素人臭いところは演技指導だったのか…。
クライマックスの演奏会の「威風堂々」が、下手な頃と大違い。
定番のストーリーだが、笑いあり、涙ありでまとまっている。

見ていて、「1万人の第九」を思い出した。
思いきり、楽しくやろう、という音楽への向き合い方。
終わった後の「ブラボー」の感動…。

これまた、音楽はいいものだ、という事を思い出させてくれる映画だ。

長らくサボっていたギターの弦の交換をやって、ネックの掃除をした。

また頑張ろう。


| | 映画・舞台 | 19:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
ユーミンのベスト版
「ユーミンからの、恋のうた」という新しい3枚組のCDが出るとのこと。
4月に発売だ。

ぼくが知っている曲は1枚目のPure Eyesに7曲、2枚めのUrban Cowgirlに4曲、3枚目のMystic Journeyに2曲。
全部で45曲のうちの、13曲という内容だ。

荒井由実のデビューの時代から、松任谷由実になって、しばらくの間がぼくがユーミンを聞いた時代。
就職して仕事が忙しくなってからは、あまり聞かなくなった。

持っているLPレコードは、「ひこうき雲」「MISSLIM」「COBALT HOUR」「14番目の月」「時のないホテル」「昨晩お会いしましょう」「PEARL PIERCE」「REINCARNATION」「VOYAGER」「NO SIDE」「ALARM a la mode」「ダイアモンドダストが消えぬまに」の12枚。
1973年から1987年のアルバム。
やっぱり、ぼくにとっては、ユーミンはLPレコード。
何度もターンテーブルの上に載せて、針を置いた。
その思い出が強いなあ。

CDは何枚か借りて録音した。買ったのは「A GIRL IN SUMMER」と「POP CLASSICO」の2枚。
LPレコードが飛んでいるのは、その時はあまり聞かなかったからだ。

今回のベスト盤は、当然だが5年前のベスト盤からあとで出されたアルバムからの選曲がメインになっているから、どうしても新しい曲が多くなる。
ユーミンももう64歳。

ユーミンの気持ちはわからないが、一般的には年をとってくると、だんだんと歌いたいものが枯渇してくるのではないかと思う。
若い頃は歌いたいことがたくさんある。そして、若さの勢いがある。
きっと、若い頃に作った歌を超えられないと悩んだこともあったろう。
そういう迷いもふりきりながら、今も現役で頑張っている。

ユーミンはこんなメッセージを書いていた。

「歌を聴きながら、昔を懐かしく想うこともあるでしょう。
でも思い出は、未来に目を瞑るためのものではないのですよ。
明日を生きるために、あるのです。
明日へ一歩踏み出すために、思い出から力をもらうのです。」

きっと本人もそう思っているんだと思う。

4月に発売。

予約したぞ。


| | 考えたこと | 20:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
司書
小学校には変なローカルルールがある。
図書館で借りられる本は、年齢制限がつく、という学校がある。

記事
によると、6年生は「10歳までに読みたい名作シリーズ」は借りられないとか、「ゾロリ」は2年生までとかいう決まりがあるらしい。
もちろん、多くの学校ではそんなことはないと信じたい。

図書の先生というと、司書の資格を持っている人ということだろうか。
本が好きで司書になりたい、という人は多い。
資格を取れるところはたくさんある。
ネットによると、年間1万人くらいは司書資格を取っているということだ。

もちろん、図書館司書とか、司書教諭とか、別の資格をもたないとできないものもある。
でも、なりたい人は多いが、なれない仕事の一つだと思う。

実際ぼくが勤めていた学校法人の図書館は、今やほとんどの仕事を外注しているが、実質的に働いている人はほとんどが派遣だ。
業務を丸投げして、委託している学校も多い。

そういえば、公立図書館がTSUTAYAに業務委託をした、という話もあった。
どこでもやることは一緒なので、流動性が高い仕事になっているのだろう。

しかし、学校の図書館業務で一番大事なのは、本と人のマッチングを仲立ちするリファレンス業務だと思う。
これはそう簡単にはできない。
そこまでできる司書は少ないと思う。

要するに、こんなことが知りたいとか、何を読んだらいいのかというユーザーに、「それならこういう本がいい」というのを勧める仕事だ。
どう考えても、学校ではぼくはこの仕事が一番大事だと思う。
それを年齢で一律に制限するのは、オカシイ。
読みたいときが、読むべき時なのだ。

本の分類とか、書架の整理とかそういうのはぶっちゃけて言えば誰でも出来る。
図書システムがよくなったから、貸出や返却も手間も要らない。
本当に大事なのは、いろんな本を読んでいて、ユーザーの期待に応えられる司書だ。
繰り返すが、その業務こそ求められているんだと思う。

年齢で図書を規制する学校の図書室は、やっぱりオカシイと思う。

| | 考えたこと | 22:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
県庁の星
2006年の映画。
織田裕二が主役の公務員を好演している。

公務員批判の辛口映画。
公務員改革はずっと言われているが、今も全く変わっていないと思う。
いや、地方公務員については実態はどんどんひどくなっているかもしれない。
今見ても新鮮な映画だ。

この映画で初めて知った、柴咲コウというヒロインとのロマンスがサイドストーリー。
単なる辛口映画になっていないところがいい。
2006年の邦画興行収入の第6位を取っている。
織田裕二人気だったのだろう。

県庁の最も県庁らしい公務員だった主人公が、県の公共事業の一大プロジェクトに絡んで、民間との交流でスーパーマーケットに半年間出向するところから物語は始まる。

予想通り、使えない社員ということで、厄介払いもあって店長がベテランのパート(柴咲コウ)を教育係にする。
お決まりのストーリー。
最初は馴染めず、みんなに疎んじられ失敗の連続だが、保健所と消防署の査察があって、流れが変わる。
ちょうどその頃、県庁の仕事もプロジェクトを外されてしまう。

民間のやり方を知り、心を入れ替えた主人公は県庁に戻って頑張る。
こちらがメインのストーリー。

織田裕二のちょっとオーバーな演技と、柴咲コウのいかにもパートでこんな人いるよな、というところで最後まで引っ張る。

県庁に帰って、スーパーで学んだことを活かして、働こうとするが簡単にはいかない、というオチ。

こういう熱血の人がいたらいいと思う。

しかし、現実にはそういう人がいないからこそ、こういう映画が繰り返し作られるんだろう。

みんなとは言わないが、ホントに公務員はダメだと思う。
前例主義、事なかれ、丸投げ、なれあい…。

何とかしないと、公務員は変わらないぞ。


| | 映画・舞台 | 21:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
新しい職業
日経コンピューターの記事によると、「AIやロボットの自動化技術で2027年までに全世界で2470万個の職が失われる」とのこと。
アメリカのリサーチ会社が発表した。
すべての職業のうち、17%にあたる。

一方で、これらの自動化技術から「2027年までに1490万の新たな職が生まれると予測している」とのこと。
これは全職業の10%にあたる。

ということは差し引き7%の職が減る、ということか。
AIやロボットによる自動化自体は職を減らしていくが、それを食い止めることはできないだろう。
それよりも、失われる職についている人を、新しい仕事に移行できるような仕組みを早急に作らないといけない、ということだ。

記事の中には、2023年、2028年までに出てくる新たな職業も予想されている。
アメリカのコグニザントというITコンサルタント会社が発表したもの。

記事から2023年までに登場する可能性のある職業を引用すると、

データ探偵(Data Detective)
デジタルEUC実践者(Bring Your Own IT Facilitator)
倫理的調達責任者(Ethical Sourcing Manager)
AI事業開発マネジャー(AI Business Development Manager)
エッジ・コンピューティング・マスター(Master of Edge Computing)
付き添い/話し相手(Walker/Talker)
健康維持支援カウンセラー(Fitness Commitment Counselor)
AI支援ヘルスケア技術者(AI-Assisted Healthcare Technician)
サイバー・シティ・アナリスト(Cyber City Analyst)
ゲノム戦略統括者(Genomic Portfolio Director)
人間-AIの協働マネジャー(Man-Machine Teaming Manager)
金融健全性コーチ(Financial Wellness Coach)
デジタル仕立て屋(Digital Tailor)
最高信頼責任者(Chief Trust Officer)
量子機械学習アナリスト(Quantum Machine Learning Analyst)

見てみると、残念ながらそう簡単に変われるような仕事ではない。
専門知識を要するものが多い。
わりと変わりやすいところでいうと、倫理的調達責任者、付き添い/話し相手、健康維持支援カウンセラーあたりだろうか。

政府は働き方改革とか言っているが、こんな調査結果を見たらどう考えるのだろうか。
今の大学の文系の学部など、どうしていったらいいのだろうか。

覚えることだけでなく、考えることも機械がやり、その上考えて臨機応変に動くこともロボットができるようになったら、人間は何をするのだろうか。
みんながみんな、ダンスをして、歌を歌って、小説や詩を書いていればいいというわけでもないだろう。
記事の最後の部分を引用する。

「理系・文系を問わずある分野のエキスパートであることや、物事を正しく理解する、きちんと話を聞く、考えを分かりやすく伝える、相手と円滑にコミュニケーションを図るといった、ビジネスパーソンとして一般的なスキルの大切さは5年後も10年後も変わらないと言えそうだ。」

年寄りが教えている場合ではないかもしれないなあ。

| | 考えたこと | 07:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
プログラミング教育2
こと文系の単科私立大学については、驚くほどITリテラシーが低いと思う。
事務はともかく、教員の方がヒドイ。
ぼくが京都の私立大学に奉職して最初に思ったことだ。

2004年当時で、大学の教員は、メールが使えないとか、マイクロソフトオフィスが使えないとか、ITの仕組みを使って教育しようとしてもできないとか、そういう状態だった。
私立大学情報教育協議会とかいう所に行っても、似たり寄ったりの感じだ。

ましてや、系列の中高小はもっとひどかった。
LANもひかれておらず、一人一台のノートPCもない。
もともと、ITリテラシーを上げようという動機もない。
民間企業から公立小学校教員に転職した人のブログ記事にもそう書いてあった。

いかに民間企業に比べて、小学校がヒドイかというのはブログを読んでもらうとして、学校のICT環境がヒドイという内容は以下のようになっている。

「民間企業に比べ、日本の学校現場のICTへの対応はあまりに遅れています。

教室がwifi環境にない
学級事務や成績処理など未だに手書きが多い
親への連絡は手紙(紙媒体)で連絡帳アプリは未導入
PCルームのコンピュータは起動に一体何分かかるんだというお古
等々、民間企業にも諸外国の教育現場にも非常に遅れをとっている、日本の学校のICT環境にも驚きました。」

こんな状態でも、教育学者たちはこれから「プログラミング教育」をしようと言っている。
文科省もその音頭を取っている。
順番が逆ではないか。

当の文科省自体がITリテラシーが低い。
以前紹介した「エクセル方眼紙」を使っている。
そのうえ、小学校など本当にITリテラシーがある教員がほぼゼロだろうと思う。
そういう教育をしていない。
いまだに、していないのだ。

プログラミング以前に、先生がコンピューターを使って便利になるという事を体験しないといけない。
そういう研修すら、ちゃんとやっていないのではないか。
教育無償化も大事だが、小学校や中学校の先生をどうするべきか、を考えることが急務だ。

これからの世の中、どんどん仕事の内容が変わっていく。
AIやロボットがどんどん出てくる。
そういう時代に生きていく子どもたちを育てるのだ。

文科省や教育学者は頭が古いのだと思う。
プログラミング教育、という授業をやったら、それができるようになると思っているのだろうか。

世の中、そんなに簡単ではないぞ。

| | 考えたこと | 20:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
デザインの時代
3Dプリンタがどんどんよくなってきた。
いろんなものが3Dプリンタで作られる。
素材もいろいろあるんだろう。

3Dプリンタというのは、3次元のCADで作ったデザインをそのまま作るもの。
2次元なら紙にプリントするのだが、3次元だから、空間に造形することになる。
光硬化樹脂などが使われる。

もう十何年前になるが、3次元で作ったデーターを造形したことがある。
ホントにモノが出来るのは、感動だった。
3次元のCADで作ったものがそのままできるのだ。
その当時は、3次元プリンタなどという名前ではなかったし、そう簡単に買えるものではなかった。
3次元CADのソフトも高かった。

しかし、コンピューターが進み、機械も安くなって、誰でも3次元でモノが作れる時代になった。
小さなものなら、50万の卓上3次元プリンタで作ることができる。
それを元に型を作れば、狙い通りのモノができてしまう。

今までなら、旋盤で削っては仕上がりを確認してやっていた作業が、もっと正確に、デザインしたまま出来るようになったのだ。
これは革命的なことだ。

長い時間をかけて、モノを作る職人を育てなくても良くなったということだ。
日本がモノづくりで勝っていたのは、デザインそのものだけではなく、それを現物に落とすところが優れていたのだと思う。
熟練の職人技が支えていたのだ。

それが、3Dプリンタで変わる。
デザインがよければ、そのまま作ることができる。

もちろん、材質や作り方のノウハウの部分は大きいし、まだまだそこに優位性はある。
そう簡単に追いつけない。

でも、確実にデザインの時代になりつつある。
単にグローバル化しただけではなく、そういう技術革新があるから、どんどん海外のメーカーが強くなっているのだろう。

その証拠に、イタリアのクルマはよくなった。
昔は雨の日に載ると雨漏りするなどと言われていたが、もうそんなことはない。
職人技ですり合わせしなくても、デザインさえよければ、ちゃんとできるようになったからだと思う。

アルファロメオはかっこいい。
昔は「でもなあ、イタリア車はなあ」と思っていたが、最近はよくなった。

その裏に、きっと3次元CADや3Dプリンタの世界があるのだ。


| | 考えたこと | 22:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
三屋清左衛門残日録
前に一度書いた、北大路欣也のはまり役。
そのドラマを見た。藤沢周平の原作。
この人は年をとって、時代劇の主役が本当にしっくり来るようになった。
御年74歳。
とても74歳には見えない。
まだまだ現役で頑張れそうに見える。
実際、原作の役の上では52歳。
メイキングの場面では、年に一度の撮影が終わって、いいスタッフに恵まれて感謝する、と言って涙を流していた。
自分と三屋清左衛門が重なるんだろう。

清左衛門は、もう隠居して家を息子に譲った身だ。
それでも、上の信頼が厚く、藩のお家騒動に巻き込まれ、老骨に鞭打って働いてしまう。
そんな身の上を生きている。
そのドラマの最新版を見た。

前回のドラマが完結編だったが、今回のドラマはその前の時間を描くもの。
今回は殺陣も少なく、淡々とした友との交わりがテーマだった。
出て来る俳優がみんな70代。
ドラマも高齢化している。

友の中には若い頃に家柄の違う家に婿に行って、子どもが出来てからは冷遇され、みんなの見ている前で切腹して死んだものもいる。
彼は久しぶりの幼なじみの宴会に出て、本当に楽しかった、と挨拶をして帰った直後だった。
あれはみんなにお別れをしたのか、と清左衛門は思う。

また、32年前に試合に負けて、ずっと諸国を修行し、32年ぶりに帰ってきて当時の相手に立ち合いを挑み、また負けて去っていく友もいる。
刀を置いて去っていく彼を追いかけ、32年頑張ったのだからまだ頑張れる、と言って故郷に戻ることを説得するが、行ってしまう。

人生はいろいろだ。

それでも生きていく。
まだまだ死ぬには遠い。

「日残りて昏るるに未だ遠し」

人生が終わるのは、まだ先だ。

若い頃は時代小説といえば、司馬遼太郎のように格調高いものとか、池波正太郎や柴田錬三郎のようにもっと娯楽性の高いものが良かったが、年をとると藤沢周平の良さがわかる。

| | 考えたこと | 22:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
シンガポールの高校
シンガポールの高校から日本に帰ってきた学生に聞くと、教室がぜんぜん違うという。
シンガポールは先生が真ん中に立って、みんなを見渡しながら討論するように授業をする。
文科省の言うアクティブラーニングというやつだ。

日本では前に先生がいて、生徒同士の顔は見えない。
シンガポールでは先生も近いし、生徒同士の顔も見ながら授業ができる。
だから、討論もできて、仲良くなりやすいという。
そんなに違うのか、とビックリした。

今やシンガポールは一人あたりのGDPでも日本を上回っている先進国。
世界の大学ランキングでシンガポール国立大学は12位で、東大は34位だ。

文科省もアクティブ・ラーニングを推奨している。
それなら、教室の配置も変えないといけないのではないか。
シンガポールの教室の話を聞いて、本当にそう思った。

日本に帰ってきた学生は、日本よりシンガポールの方がいい、と言っていた。
たしかに、教室の形は何を目指しているのかを表している。

国会議事堂もそうだ。
イギリスの国会議事堂は、与党と野党が向かい合って座って、討論する形になっている。
民主主義が機能するために、そういう形にしているのだ。
日本とは根本的に違う。

アクティブ・ラーニングという掛け声は立派だが、本気でやろうとしているのだろうか。
ぼくの知っている大学の先生たちをみても、できそうな先生は半分もいない。

マイケル・サンデルの白熱教室のように、的確なテーマ設定、意見の誘導、議論が成立するような問題提起をしないと、アクティブ・ラーニングなどできない。
何の予備知識もなしに、いきなり議論しようとするのは時間のムダ。
それなら、講義をしたほうがよほどマシだ。

時間がなくて、そこまでシンガポールの話を聞くことができなかったが、今度会ったら、先生のスキルについて聞いてみたい。

文科省や教育学者、教育委員会でさえ、やろうと言ったら出来ると思っている。
それで失敗したのが総合学習。

ちゃんと準備をしないとできないのがわからないのだろうか…。


| | 考えたこと | 22:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
何がフェイクニュースか
フェイクニュースという言葉がいろんなところで取り沙汰されている。
Wikipediaで定義を見てみたが、まだ確定していない。
何をもってフェイクニュースというのか、だいたいのサイトではこんな定義。

「フェイクニュースとは、事実ではない、虚偽・デタラメな内容の情報・報道の総称である。読み手が真に受けて(事実として受け取り)、ソーシャルメディアなどを通じて広く拡散され、時には世論を動かしたり社会的な混乱を招いたりすることもある。」

でも、最近のマスコミを見ていると、この定義の後半の「ソーシャルメディアなど通じて」というところは必ずしも正しいとは思わない。
マスコミ自身がフェイクニュースを流すこともあるし、日本ではその悪影響の方が大きい場合もあると思う。

日本のマスコミは基本的には政治的中立ということになっているが、ワイドショーではそんなことは全くない。
明らかに偏っている。
コメンテーターというような、昔はいなかった人種が出てきて、局の思惑に合わせて意見を言う。
全くその事に詳しくない人でも、意見は言えるから、歪曲するには都合がいい。

一方、ネットではいろんな意見がある。
そこでは、白という意見もあれば、黒という意見もある。
それを選ぶのは、ネットを見ている本人だ。
ある程度のネットリテラシーがあれば、どこのサイトが信頼性が高そう、ということも理解したうえで、ニュースを読む。

もともとニュースに中立ということはありえない。
事実だけを報道しているように見えても、記者や編集者の見方を消すことはできない。
現実に起こっている写真だって、どこの場面を切り取るかで印象は変わる。
写真が載っているから真実とは限らない。

そのニュースに至った時系列の歴史もある。
それを知っているか、知らないかで読む時の問題意識は変わる。

だからこそ、教育は大事なのだろう。
その基本的なことを知っていないと、フェイクニュースにだまされる人が増えて、民主主義はおかしくなる。
イギリスのEU離脱だって、アメリカの大統領選だって、その影響を大きく受けたと言われている。
昔はCIAみたいな組織がやっていたスパイ活動など、今のネット上で行われる情報戦に比べたらかわいいものだろう。
それくらいネットの影響が大きくなった。
サイバー軍が作られるのは必然だと思う。

特に日本では、第4の権力と言われた既存のマスコミの衰退はひどい。
地上波を主に見ている人たちは高齢者。
昼のワイドショーの視聴者の年齢はどんどん上がっているだろう。
今は、その人たちが選挙では多数を占める。

この際、マスコミの政治色を明確にしてはどうかと思う。
それによって、対立軸がはっきりするからだ。
この局は、こういう方針でニュースを報道します、と言えばいいのだ。
それが、フェイクニュース対策にもなると思う。

もちろん、教育の役割はもっと大きいが…。

| | 考えたこと | 22:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
薬剤師国家試験
薬学部のことについて、もう一度書く。

Webを見ていたら、6年制になってから3回めの薬剤師国家試験合格率は以下のようである、という記事があった。

第97回2012  88.3%
第98回2013  79.1%
第99回2014  60.8%

だんだんと合格率が下がっている。
それ自体は別に問題ではなく、大学別にみると、異常に新卒受験者数が少ない大学があるという。
薬学部を持つ74大学のうち、21大学が3割以上の中退率。
7割しか卒業できないというのは、日本の大学では考えられない数字。

文科省は中退率を問題にしているが、ひっかからないのだろうか。

また、入学定員に新卒合格率をかけて、歩留まりを出し、ワースト5を出している。
以下、記事を引用すると、

        卒業率  歩留まり
第一薬科大学   0.289  0.063
奥羽大学     0.328  0.085
青森大学     0.277  0.111
日本薬科大学   0.338  0.115
姫路獨協大学   0.341  0.175

「これらの薬科大学では、入学者の3割しか卒業できず、2割以下しか国家試験に合格できない。8割以上の学生は、学費と時間を浪費させられただけで、社会に放り出され、高卒時よりも、さらに悪い条件で生活していかねばならない。

底辺薬科大学では、教育は崩壊しているといってよく、速やかな廃校が求められる。情報収集力の未熟な高校生をひっかけ、その人生を破壊するようなトラップを、政府が認可して存続させることは、罪であろう。」

と書いてある。
まことにその通りだ。

これは法科大学院と同じ図式だと思う。
結局は弁護士になれない学生を大量に生み出し、大量に廃校になった。
まだ廃校は続くだろう。見栄で続けている大学院もあるのだ。
入試で実際の資格試験に合格できる学力を担保せずに入学をさせる、功利主義の大学経営がそれを生んだ。
それを認可した文科省にも罪はあるかもしれない。

問題が大きくなる前に、底辺大学院は募集停止にするべきだ。
ワースト5になっているような大学は、本気で学生に対して責任を持つ気があるんだろうか。
こういう状態が長いこと続いて、やっと文科省が思い腰を上げる。
本来は学校法人は善意の人たちであり、入学してもその学校の教育システムでは教育できないという学生は入れないという原則だ。
でも、この状況を見ると、明らかに善意の人ではない。
教育システムが、人の人生を狂わせるようになっている。

モリカケ問題をやるくらいなら、この薬学部の問題を国会で取り上げたら如何か。

本気でそう思う。

| | 考えたこと | 22:01 | comments(0) | trackbacks(0) |