考えたこと2

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2012年
2012年がもうすぐ終わる。

今年はどんな年だっただろう。

一つは政治の年だった。
歴史的な政権交代があって、民主党が与党になり、ムチャクチャにして、今回自民党に大敗した。
だからといって、自民党を信任したわけではない。
他に入れるところがなかったのだろう。
ウチの選挙区などは民主党と公明党と田中康夫というワケのわからない組み合わせだった。
いずれにしても、2世議員や3世議員ばかりの若手と、年寄りが異常に多い自民党に未来があると思えない。
ご本人たちも、それがわかっているのか、早めに金をばらまこうとしている。
財政規律などどこかに行ってしまって、またまた借金まみれでやるようだ。
ちょうどインフラもやり直さないといけない状態らしいから、無駄な公共事業はせず、インフラの改修をやってくれたらいいかもしれない。
ただ、そんな借金を抱えて、国が信頼してもらえるのか…。

もう一つは、日本の家電が(今のところは)だめになった年だったろう。
パナソニック、シャープ、ソニーといった家電の会社が傾いた。
薄型テレビで失敗し、携帯電話で失敗し、タブレットやパソコンではスマートフォンでは蚊帳の外のようだ。
今や伸びざかりのスマートフォンでは、アップル、サムソンが2強。
日本のメーカーは出てこない。
スマート家電とか、白物への回帰とか言っているが、どうなることか。
何が悪かったのか、考えないといけないと思う。いや、きっと考えているだろうが…。
ぼくらは、日本の家電メーカーがどんどん力をつけて、世界の家電メーカーになるのを見て育ってきた。
今のところはとても残念だ。
救いは、アップルのiPhoneの中にはたくさんの日本製の部品が入っている、ということか。
インテルをはじめとして、21世紀は部品の時代、と言われていたがそういう目で見たらまだいいのかもしれないなあ。

外交ではアメリカとの関係も今ひとつ、中国・韓国との関係も今ひとつ。
まあ、これだけ総理大臣がころころ変わる国は、信じられないだろう。

ユーロ危機もあった。
ギリシャ、スペイン、イタリアあたりの経済が苦しいようだ。

自然現象では、温暖化が進んだように見える。
ハリケーンの被害が大きくなった。

悪いことばかりのように見えるが、いいこともあった。

ロンドンオリンピックの金メダル。若い人が頑張った。
キュリオシティが火星に着陸した。
山中教授がノーベル賞を受賞した。

しかし、これらをどう見たらいいのだろうか。
悪いことを悪いことと取るか、それとも当たり前のことと取るか…。
人口が減って、産業が衰退し、普通の国になると思えば、それも納得できるか…。
考え方の問題だろう。

一つ言えるのは、若い人のことを考えていないように見えるということ。

年を取った人は、もっと若い人のことを考えてあげないといけない。

年寄りへの利益誘導は断って、若い人のことを考えるべきだ。
年金や保険のシステムはもう破綻している。
いつまでもそれを続けて、若い人の負担を増やすのはやめよう。

少なくとも年寄りがそういうメッセージを出していかないと、この国はダメになるぞ。

| | 考えたこと | 01:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
有意味感
有意味感とは心理学の言葉。
英語でSense of Meaningfulnessという。

意味は「半歩でも一歩でも前に進もうという、モチベーション要因となる感覚を示した概念であり、人間の生きる力の源と考えられている」、とのこと。

「「困難は自分への挑戦で、これらに立ち向かっていくことに意味がある」と考え、前向きに対処できる。ストレスの雨に対峙する傘を引き出すためのモチベーション要因となるのが、有意味感という感覚」とも書いてある。

また、「仕事、という状況の中で、「自分の存在価値がある」と感じることができれば、有意味感は高まっていく。自分のやっていることに意味があるという感覚を持てれば、それに取り組んでいる自分自身に対しても意味を見いだすことができるのである」とも書かれている。

まさに、人間が物理的にではなく、社会の中で精神的に生きる上でのエネルギーのようなものが有意味感であろうと思う。

それは、「働く」というのはどういうことかを考えるときに、お金や経済的な裏付け以外に必要になってくるものだ。

これはその反対を考えてみれば、わかりやすい。
無意味感である。
自分が高い給料をもらって働いていても、それが意味がないとしか思えなかったらどうだろう。
河原で石を積んでは崩す。
石を片方の山から、他方の山に動かすのを繰り返す。
そんな仕事があって、高給が出るとしたら、やるだろうか。

もちろん、食うに困っている人はやる。
しかし、やり出したら、意味を求めてしまうのが人間だ。
そう簡単に「金のため」と割り切れない。
充分にお金が貯まったら、その人はその仕事は続けないだろう。
それが人間というものだ。

仕事というのは、誰か他の人のためにやるものだ。

それを支えているのが、有意味感。

だから、ちょっとくらいのサービス残業を気にして、やれブラックだとか、就業環境が悪いとか、文句を言ってはいけない。
それは誰かのためのサービスではない。
結局、その仕事が必要とされる誰かを満足させるための、自分にとってのサービスなのだ。

極論だが、仕事とはそういう側面を持っているのだと思う。




| | 考えたこと | 22:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
仕事納め2
一昨日は早い仕事納め。

世間に申し訳ないが、そういうところだから仕方がない。
昔は仕事納めというと、納会があった。
5時に仕事を終えて、食堂に行って、みんなでご苦労さんという飲み会がある。
役員が来るのを待って、挨拶を聞く、という習わしだったと思う。
たいがいの人は1時間前後で、三々五々帰る。

でも、時々酔っ払う強者がいる。
そんな人に捕まったら、大変だ。
ロッカーまで連れて行って、着替えさせて、帰らせないといけない。

時間によっては、納会の日の夜勤まで操業しているから、工場の夜勤の人が出てくる。
その夜勤の人とロッカーで鉢合わせすることになる。

一度、ベロベロに酔っ払った人を連れて行かないといけない羽目になった。
とにかく重い。
身体に力を入れようとしていない。
やっとの事でロッカーの入り口まで運んで、靴を脱がして、ロッカーの所まで連れて行った。
何度か殴られそうになって、危なかった。
ようやくの思いで着替えてつれて出たところで、夜勤の人に会った。

「あー、すいません、すいません」とロッカーに入ってくる人をかき分けて歩く。
歩くといっても、わけが分からない人を連れているから、なかなか進まない。
だいたいはあきれ顔で見てくれたが、中には「職場で酔っ払うな」という、しごくまっとうな意見の人もいた。

「すいません、すいません」と平謝りで出たことを覚えている。

昭和60年代の思い出。

そういう時代もあったなあ。


| | 考えたこと | 23:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
器ではない
自民党はなぜ安倍を総裁にしたのだろうか。

派閥の力学はわからないし、石破も目つきがオカシイのでいまいちだと思うが、それにしてもすでに1回ダメ出ししている人をなぜ選ぶのか。
これが政界の常識だとしたら、社会の常識から外れている。

トップに立つ人がストレスフルなのはいずこも同じ。
そのストレスに耐えて頑張るパワーが必要だ。
単にストレス耐性があるだけではいけないと思う。
それに耐えるだけの理論的なバックボーンがなければ耐えられない。

前回安倍が投げ出したのは施政方針演説の2日後。
2007年9月10日に「職責を全うする」と言っておきながら、9月12日に退陣を表明した。

普通の会社なら、このことだけでもうカムバックはない。
たとえ、カムバックしても、リーダーには選ばないし、選べない。
資質がないからだ。
彼の政策や思想信条など関係ない。
それ以前の問題だ。

こんな簡単なことがなぜ分からないのだろうか。

派閥の力学で安倍が力を持つのは仕方ない。
しかし、自分がもう一度総理に出るというのはオカシイ。
自分から「器ではない」と言わなければならない。

自分で「器ではない」と言えない人は最悪だ。
結局「器ではない」人を総理大臣にすることになる。

それでも、民主党よりマシということか。



| | 考えたこと | 02:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
缶コーヒー
缶コーヒーという飲み物は、海外にはないらしい。

これは冷たいコーヒー、つまりアイスコーヒーという飲み物が日本オリジナル、ということを表している。

確かに海外のドラマでは、熱いコーヒーをカップに入れてふたをしたまま飲む、という場面をよく見る。
日本でもスターバックスが数年前にやり始めた。
今はマクドナルドでもカップで持ち帰れる。
日本でも、ホットコーヒーを飲みながら歩くという文化ができてきたということだ。

日本では冷たいコーヒーを飲むという習慣がある。
夏には喫茶店で冷たいコーヒーを飲むのは当然だ。
関西ではコールコーヒーとかレイコと言ったりしたが、今はアイスコーヒーで統一された感がある。

アメリカなどでは、缶コーヒーは受け入れられない。
冷たいコーヒーを飲む習慣がないからだ。

アジアの諸国には、最近日本の飲料メーカーが進出している。

しかし、アジアが習慣的に冷たい缶コーヒーを飲む地域になるかどうかは、難しい。
アメリカのコーヒー文化が平行して入っているからだ。
ここ数年が勝負ではないか。

ジョージアやUCCといったブランドがどうなるか。

各社いろいろ戦略を練っているのだろう。

少子高齢化による人口減で国内市場は縮小しているから、大変だ。

日本のメーカーの知恵を出して、「アイスコーヒー」という日本の文化を輸出してほしい。

| | 考えたこと | 22:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
松田聖子ディナーショー
松田聖子のディナーショー、よかった。

値段は高いが、それだけのことはある。
最後のアイドルに会いに来るのは、リピーターが多い。
チケットを取るのに苦労するくらいだから、行きたい人はたくさんいる。
今回初めて行ったが、周りは家族連れや、友達同士という感じだった。

今はアイドル不在の時代。
AKB48という団体はいるが、あれはアイドルではない。
アイドルもどきの団体だろう。
あれだけ人数がいたら、カリスマも何もあったものではない。
あれが人気がある、というのは、自分もひょっとしたら…という女の子がたくさんいるからではないか。
どちらかというと、普通らしいところが売りだろう。

松田聖子も最初はぶりっこだとか、いろんな批判があったが、なんと言っても80年〜85年の黄金時代のヒットはすごかった。
当時は毎週フェリーに乗って移動することが多かったが、木曜日の9時といえばザ・ベストテンだった。
たいがいフェリーの中のテレビでみんなで見た。
そこでチャート1位の常連。
その時のオーラがショーでも出ていた。

人間というのは、同じ過去を過ごしたという経験を共有していると思うと、仲がよくなる。
最初はよそよそしかった人が、同じ歌手のファンだったりすると、急に近くに感じる。
それが団体で起こるのが、ディナーショーである。

席に着いたときは、何となくよそよそしいのだが、ショーが始まり、松田聖子がこっちを見てニッコリすると、昔に戻る。
40歳を過ぎたとおぼしきオッチャンが「聖子チャーン」と叫ぶ。

1年間で一日だけのお祭り騒ぎ。

「赤いスイトピー」はみんなで合唱。

一瞬会場の時間が戻る。

そんなショーだった。

よかった。

来年も行くぞ。

| | 考えたこと | 23:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
アイヌ語
弟子がかがむ、と書いて弟子屈。
これを「てしかが」と読む。

厚い岸と書いて、厚岸。
これを「あっけし」と読む。

花のほとり、と書いて花畔。
これを「ばんなぐろ」と読む。

昭和54年から数年間、冬になると北海道に長期出張に行っていた。
その時に耳になじんだ地名。
これらは、アイヌ語を日本語表記したもの。

弟子屈は「テシカ・カ(岩盤の上)」。
厚岸は「アッケウシ=オヒョウニレの皮をいつもはぐ所」。
花畔は「パナウンクル=川下の人(海の族)」。

それら以外でも、カムイという単語はわりと知られている。
白土三平のマンガにもあった。
これは神威という漢字をあてて、「神格を有する高位の霊的存在のこと」という意味。

日本は単一民族の国だと思っているが、北海道にはアイヌ民族がいた。
沖縄にも琉球民族がいた。

こんな小さな国でも、いろんな民族がいたということだ。
それほど、民族の単位は小さい。

ニュースで弟子屈が出てきて、思い出した。
アイヌ語の地名を漢字表記ででも残すのはいいことだと思う。

今はどんどん単一民族化しているが、そういう民族の歴史を残しておける。
| | 考えたこと | 23:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
クリスマス寒波
今年のクリスマスはホワイトクリスマスになるかもしれないとのこと。
雪がふるかもしれない。

いいネーミングだと思う。

寒波というのは人間の生活にはマイナスだ。
雪が降ってどこかが通行止めになったり、水道管が破裂したりする。
ひどいと、死者か出る。

しかし、この時期というか、今日明日だけは少しだけ雪が降ることを望む人が多いだろう。

White Christmasという曲がそう歌っている。
歌詞の最後の一節は And may all your Chiristmas be white。
全てのクリスマスがホワイトクリスマスであるように、という歌だ。

ウチは仏教で、そもそもクリスマスを祝う義理もないのだが、 今や日本ではクリスマスは宗教的な意味を離れて、季節の歳時になった。

だから、クリスマス寒波という言葉もありだ。
それにお寺や神社の団体が文句をいうこともない。
放送局すら、そんな問題意識がない。

ここまで定着したのには、きっと理由があるのだろう。
年末が近づいたこの時期、心が平穏になりやすい。
誰かに何かをあげたくなる。

そんな何か普遍的なものがこの季節にはある。

それがクリスマスの真実。

だからクリスマス寒波なんだろう。



| | 考えたこと | 01:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
松田聖子
松田聖子は1980年代を代表するアイドル歌手。

ぼくが就職した直後にデビューして、一躍アイドルになった。

青い珊瑚礁、風は秋色、チェリー・ブラッサム、夏の扉、白いパラソル、風立ちぬ、赤いスイトピー、渚のバルコニー、小麦色のマーメイド、野バラのエチュード、秘密の花園、天国のキッス、ガラスの林檎、SWEET MEMORIES、瞳はダイヤモンド、Rock'n Rouge、時間の国のアリス、ピンクのモーツァルト、天使のウインク…。

1980年から1985年のこれらの曲は、この時代の音楽に関わって生きた人なら、誰でも口ずさめる曲だ。

この人の前にはピンクレディ、その前はキャンディーズ、山口百恵、桜田淳子などがいた。
この人の後には、アイドルはもういない。
中森明菜がアイドルらしいところはあるが、松田聖子ほどのビッグなアイドルはもういなかったと言っていいのではないか。
きっと松田聖子には最後のアイドルとして、いろいろな悩みがあっただろうと思う。

1980年代は歌番組からバラエティへの移行時期でもある。
「俺たちひょうきん族」が始まったのが1981年だし、夜のヒットスタジオが終わったのが1990年だ。
ひょうきん族が今のバラエティの元を作ったのだと思う。楽屋落ちを全国ネットに広げた。
1990年以降は、今のバラエティというカテゴリーが激増する時期でもあり、歌番組が減る時期でもある。
そんな中で、松田聖子は最後のアイドルとして活躍した。

1980年から88年にかけて24曲連続でオリコンシングルチャート1位を獲得した、というのはスゴイ。
本当にすごいアイドルだったのだ。

1990年以降は、アメリカに活躍の場所を求めて活動した時期もあった。
頑張って英語も覚え、海外のドラマにも出演したりしたが、それらを評価されることはなく、この道もダメだったようだ。
30代から40代をそれで潰した。

今年で50歳だが、40代以降は作詞・作曲など音楽プロデュース業に頑張っているらしい。

ソニーから出ている、デビュー25周年のDVDボックスを借りて見ているのだが、つくづく上手に年を取るのは難しいと思う。
特に、彼女を見ていると、若いときに大きな業績を残した人が、どうやって脱皮するか、というところに考えが行ってしまう。
ひょっとしたら、どこかで開き直って、当時のアイドルとしての自分を認めているのかもしれない。

ぼくにとっては松田聖子はやっぱり80年代のヒット曲が一番印象深い。
特に、赤いスイトピー、渚のバルコニー、小麦色のマーメイド、蒼いフォトグラフ、Rock'n Rouge、Bon Voyage、秘密の花園…、という一連の作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂(松任谷由実)の曲がいい。
当時の曲を歌う松田聖子がYoutubeにたくさんアップされているが、あの曲を聴くと時代を思い出す。
1990年代のコンサートで、当時の曲を歌っている場面でひときわ歓声が高まる。
みんな手拍子して、会場が一つになったような感じ。
複雑な心境で彼女は歌っているような気がする。

1980年代という時代を輝かせた一人。
その時代が彼女を輝かせたのではなく、彼女がいたから、あの時代が輝いたのだと思う。

そんな松田聖子のディナーショーを明日見に行く。

楽しみだ。

| | 考えたこと | 00:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
科学者は憧れ
iPS細胞でノーベル賞を取った山中教授が語っていた。

「日本が生きていく大きな道の1つは科学技術立国だと考えています。研究者や技術者はみな、科学技術立国たる日本を背負っているのだと自負しています。若くて柔軟な人が次々と研究に従事するようになれば、もっと伸びていくでしょう。」

これはぼくらの時代に教育を受けた人たちは、みんな聞かされたことがある。
日本には資源がない。
だから、知識が要るのだ、ということ。
もっともなことだ。

ぼくの小学生時代は、まだ科学者という人たちが尊敬を集めていた。アトムの天馬博士、お茶の水博士、サイボーグ009のギルモア博士、エイトマンの谷博士など、子どものマンガやアニメに科学者が活躍していた。
科学者はエライ人だったし、科学はぼくらを救うものだった。
だから、科学者は憧れだった、と言っていいと思う。

「米国は日本の逆です。医師よりも研究者の方が社会的地位が高い。ハードワークなのは日米同じですが、ちゃんとした家に住んで、ホームパーティーを開いて、楽しく暮らしている人が多い。給料そのものも高く、ベンチャー企業とのつながりも強い。
 ですから、米国では研究者が憧れの職業なのです。「私も一生懸命研究して、あんな先生になりたい」と子供が思い描いている。子供は憧れから将来の夢を見ます。」

現代のアメリカの話。
日本では職業欄に医師と書く方が、研究者と書くよりも通りがいいらしい。もちろん、収入も高いとのこと。
ところが、アメリカでは違うという。
これは、アメリカの研究者、あるいはアメリカの大学が日本のそれとは考え方が違うからだろう。

日本の研究者というと、タコツボの中で仕事をしている、というイメージがある。
外部とのつながりも薄く、いつの間にか「変人」というイメージさえある。
それを大学という組織が認めているという図式。
日本の企業社会では、「博士は使い物にならない」といわれている。
それはこの大学組織にも原因があるのだと思う。もっと社会的にならないといけないのだろう。

「大阪市立大学大学院に在籍中、助教授に言われた言葉が印象に残っています。それは、「阿倍野の犬実験をやるな」です。
 日本の研究の多くは、「米国の犬がワンと鳴いたという論文があるが、日本の犬もワンと鳴いた」というもの。さらに、日本の犬がワンと鳴いたという論文を見て、「阿倍野の犬もワンと鳴いた」と書く(編集部注:大阪市立大学医学部は大阪市阿倍野区にある)。
 研究者は油断すると、他人の方法論を真似て、阿倍野の犬のような論文を書いてしまう。こういう研究からは、イノベーションは生まれない。私は、本当に誰もやっていないことだったら、どんな研究でも価値があると思っています。だからこそ、若い研究者には、誰かのマネではないか、繰り返しではないか意識してもらいたい。本当のイノベーションは未知の領域でしか見つからないのですから。」

もちろん、これは正しいが、ちょっと異論がある。

誰もやっていない研究には、誰もやらない理由があるものもあると思う。
過去に誰もやっていない、ということだけで論文を書き、博士号を取る人がいるという。
もちろん、その論文を認める関係者たちが悪いのだが、「なぜ、今まで誰もやっていないのか」という事をよく考えないといけない。
そもそも、それを書く意味があるのか、ということだ。
そういう心性がタコツボという言葉を生み、実際にそれで博士号を取った人は使いものにならない、という事実が、現実の世界との乖離度を大きくしていく。
今や2万人弱の博士が職がなく漂っているという。

山中先生の言うことは正しい。
しかし、実際の現場で多くの先生方がやっていることはオカシイ。

| | 考えたこと | 08:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
ポインセチア
11月に小さな鉢植えのポインセチアを買った。
赤い葉っぱがとてもきれいだ。

長いこと育てていた草が一つ枯れた。
育ちすぎたのかもしれない。
小さな鉢なのに、育ちすぎると根が伸びすぎて、ダメなのかもしれない。
伸びた枝の端の方の葉っぱは元気だが、途中の葉がみんな枯れてしまって落ちた。

今回はもうちょっと大きな鉢のものを買った。
最初は水が足りなくて、葉っぱが元気がなかった。
霧吹きで水やりをしていたのだが、そんなのでは足りなかったようだ。
たくさんの水を直接鉢に入れると、元気になった。

植物の生命力は素晴らしい。
水と二酸化炭素があれば、葉緑素が光合成をして、エネルギーを得ることができる。
究極のエコシステムだ。
地球を今のように緑の惑星にしたのも、植物のおかげ。
もちろん、動物が住めるようになったのも、植物のおかげだ。

植物も、進化をしている。
昔は風に乗せて種子を運ばせていたが、果実や蜜で動物を引き寄せ、彼らを使って花粉や種子を運ばせるようになった。
まるで、植物に意志があって、戦略を立てているようだ。
ポインセチアは被子植物のひとつで、比較的新しい植物になる。

花がない植物であり、珍しい。
葉が真っ赤だというのも珍しい。
いったいどういう戦略があって、そんな形になったのか。

さて、今年の冬を越せるかどうか、これが問題。
日が当たる窓辺においているのだが…。


| | 考えたこと | 23:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
アメリカ海兵隊
Wikipediaによると、「アメリカ海兵隊は 『陸海空軍の全機能を備え、アメリカ軍が参加する主な戦いには一番最初に、上陸・空挺作戦などの任務で前線に投入され、その自己完結性と高い機動性から脚光を浴びている緊急展開部隊』 と認識されている。」と記載がある。

海外のドラマにはよく「元」海兵隊員が出てくる。

警察やSWAT、FBI捜査官などの仕事をしている人に多いようだ。
もちろん、犯人側にも多い。
とにかく、元海兵隊員というと、良い方も悪い方も手強い、という感じ。

FBIの捜査官が、立ち入り禁止の区域に緊急で入りたい時に、その場にいるCIAとおぼしき局員に入れてくれと頼む場面があった。
当然、CIAの警備員は、規則でここには入れないという。
仲間の命がかかっているんだ、と捜査官は言う。
そこで出てきた会話が以下のようなもの。

「おまえは海兵隊員だったか?」
「そうだ」
「俺もだ。ならわかるだろう。海兵隊員は仲間を見捨てない」
「わかった。行っていい」

海外で何かが起こると、最初に派遣されるのが海兵隊。
組織は小さいが、テレビに出てくる海兵隊のイメージは、すごく強い。
イメージが強力だという意味もあるが、文字通り「強い」ということ。
ドラマの中の海兵隊員は、常に仲間を見捨てず、どんな困難にも立ち向かい、そして任務を遂行する。
きっと国策でそういうイメージ作りを行っているのだろう。

実際のところは、全員がテレビに出てくるようなキャラクターではないだろう。

でも、海兵隊を敵に回したら、勝てないぞと思わせる効果はある。
そんな戦略もあるのかもしれない。

そういうメディアの使い方もあるなあ。

| | 考えたこと | 00:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
もうすぐ年末
年末という季節は、寅さんがふられて旅に出る時期。

正月を柴又で過ごしたことがない。
いつも、もうすぐ正月という時期にふられ、旅に出る。
今週土曜日のWOWWOWでは、マドンナに栗原小巻がでていた。

例によって、寅次郎はふられるのだが…。

いつも、正月というと、一枚の年賀状が出てくる。
汚い字で、「寅屋のご一同様、明けましておめでとうございます。」「思い起こせば恥ずかしきことの数々、今はただ後悔と反省の日々を過ごしております。」などと書いてある。

この、「思い起こせば恥ずかしきことの数々」というのは、いつも出てくる言葉。

そうなのだ。
いつも寅次郎はふられ、そこに至るまでにいろいろと寅屋の人々を振り回し、迷惑をかけてしまう。
でも、寅屋の人たちはそんなことは過ぎたことで、何とも思っていない。

当の寅次郎だって、そんなに後悔と反省の日々など送っていない。
いつもの事なのだ。

そして、快晴に揚がった凧や、着物姿の女性などが映り、初春の縁日で商売をする寅次郎の姿が映る。

何度ふられても、元気で元の生活に戻っていく。

寅屋の人たちだって、今度はどんな美人を連れてくるかな、などと楽しみにしているフシもある。

あんな兄弟や息子がいたら、きっと大変だが、それでも楽しいと思う。

「男はつらいよ」はそういう映画なのだ。


| | 考えたこと | 22:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
モダンタイムス
スーパーのレジ打ちのアルバイトは、チャップリンのモダンタイムスの映画の中で、彼が批判した工場の仕事のようだ。

チャップリンは近代社会を風刺して、「機械に使われる人間」というものを描いた。
それは今まで便利に使ってきた機械に囲まれ、逆にそれらに使われることになってしまった人間の悲惨さを訴えたのだと思う。

時は進んで現代。
スーパーのレジうちの仕事はそれに近いものがある。
「え、たくさんの人に会っているではないか」という声があるだろう。
「バーコードリーダーや、最新のレジが、あのつらい仕事を楽にしたのではないか」という声もあるだろう。

たしかに、指でテンキーを打たなくても、ピッと通すだけで値段がわかるし、面倒なお釣りの計算も自動でできるし、下手をするとお釣りの小銭と札も出たりする。
人間でなければできない仕事は、すべて機械がするから、人間は解放されて人間的な仕事に集中することができる、といえばその通りかもしれない。

しかし、あのスーパーのレジ打ちのアルバイトは、人間の形をした非人間を扱う仕事になってしまった。
毎日たくさんの人がレジの前を通り過ぎる。
でも何かを話す人はほとんどいない。

「いらっしゃいませ」
「ありがとうございました」

そういう声は必ずかける。
店のマニュアルにあるからだ。

それに応える人はほとんどいない。
いなくても、声はかけ続ける。

これは、モダンタイムスの世界だ。

何とかしないといけない。

チャップリンは、人間が非人間的になるということは想定していなかったのだ。



| | 考えたこと | 23:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
スゥイング
次男が入っているスゥイングサークルの定期演奏会に行ってきた。

さすが大学生だけあって、上手である。
それにしても、女子が多い。
1,2年生だけで編成されたスゥイングのバンドが2組あるが、どちらも管楽器は女性が圧倒的に多い。
ピアノも女性ばかり。
ベースは男性が多いが、女性もいる。
さすがにドラムスとギターは男性メイン。

スゥイングガールズという映画があったが、あの映画そのものだった。
もちろん、ソロもやる。
女性パワーの時代だ。
よほど家庭でお母さんの力が強いのだろう。

中高の吹奏楽部は女子ばかりというのは本当らしい。

しかし、男女とも、ノリのいいやつとノリの悪いやつがいる。
この「ノリ」はお笑いのノリではなく、ビートのノリだ。
せっかくスゥイングジャズをやるのだから、身体でリズムを刻んで、楽しげにやってほしい。
今日たくさんの学生を見たが、合格は1人だけ。
一人の女子学生は、とても楽しげにやっていた。
みんながああいう風になれば、もっといいコンサートになったと思う。

しかし、2年生で引退とは時代も変わったものだ。
2年の12月でもう引退。

4年で引退するのが、ぼくらの時代だったが、最近は就活の影響で早まった。
これは気の毒だ。
せっかく4年間大学生活があるのに、3年になると部員の数は激減する。
3年以降残る学生は、1軍バンドのメンバーになるのが通例らしい。

まあ、ビッグバンドといっても、カウント・ベイシースタイルだから、トランペット、トロンボーン、サックスが数人ずつと、ピアノ、ベース、ドラムスが1名いたら足りる。
ビッグバンドでは、ギターは影が薄い。

しかし、4時間ほど聞いても、そんなに疲れなかった。
演奏がよかったからだろう。

音楽以外でも楽しませようという工夫があったのだが、こちらの評価は難しい。

観客にアンケートをとればよかったと思う。

まあ、無料の定期演奏会だし、好きにやればいいのだが…。



| | 考えたこと | 21:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハイエク
オーストリアの経済学者。
ノーベル経済学賞をもらった人だ。
ケインズに続いて、BBCで番組をやっていた。

自由な市場経済を信じ、政府の介入は間違いだという。
完全に解放された、自由市場こそが、「神の手」によってコントロールされる。
よけいな介入をすることが、市場経済をダメにする。

ハイエクの一家は科学者の一家だった。
最初は植物学や動物学に興味を持っていたが、長じて人間に興味を持ち始め、経済学に入っていったらしい。

そして、自由市場にいきついた。
ケインズと違って、政府の介入などするから、いろんな問題が起こるという。

第一次大戦の戦費調達のために、借金ができたオーストリア政府が、お金を刷って、インフレを起こすところを目の当たりにした。
アメリカの株式市場の暴落を予想し、当てた。
アメリカに中央銀行が作られ、金利を設定し、経済をコントロールしようとしていたからだ。
人間の恣意が入ると、ぜったいにうまくいかない、というのがハイエクの説。
人間はそんなに賢くない。
安い信用で、好景気を作ったら、それは崩壊するというリクツだ。

よけいな市場介入は、火に油を注ぐことになる、という。

これを政府は聞かない。
政治家はそれをコントロールできると言いがちだし、実際には少しできる。
しかし、1930年代でさえ、世界は複雑すぎて、中央で経済をコントロールすることは無理だった。
一時的には効果があっても、それは問題を大きくするだけになる。
それが大恐慌を引き起こし、結果的に第二次大戦を起こした。

政府が経済をコントロールすると、結果的に人々は奴隷になる、とハイエクは言う。
いつの間にかそうなっているのだ。

そして1970年にハイエクはノーベル賞を受ける。
サッチャーという味方を得て、イギリスは国家のコントロールをどんどん小さくしていく。
民営化を進め、それは成功したように見えた。

しかし、サッチャーといえども、政府のコントロールを全て手放さなかった。
大きな銀行は潰せない。
だから国家介入した。

番組の最後で、今後もハイエクの理想を実現するような政府は出てこないだろうと言っていた。

政治家は経済をコントロールできると思っている。
一部の経済学者も、それは可能だと思っている。
それは国家という形がある限り、続くのだろう。

一方でハイエクの考えを信奉する人は多い。
きっと真実はハイエクの方にあるのだろうと思う。

シリーズはあと1回。マルクスだ。




| | 考えたこと | 20:23 | comments(0) | trackbacks(0) |
N One
ホンダのディーラーにオイル交換に行ったら、N Oneが置いてあった。

今年のホンダは国内向け軽自動車の年だった。
N Boxに始まり、N Oneで終わろうとしている。

ディーラーのSさんに、「免許を取って最初のクルマがN360だったんですよ」という話に始まって、試乗することになった。

前にも書いたがエヌサンというやつだ。
ホンダが出した最初の4輪車がN360、通称エヌサンだった。
3人で5万円で友達から買い、共同オーナーになった。
結局ぼくが3人の中では一番よく走った。

当然マニュアルミッションで、EFIなどなく、キャブレターだった。
冬の朝はチョークを引っ張ってセルモーターを回してアクセルを踏み、エンジンをかけた。
アクセルの踏み加減と、チョークレバーの引き加減が微妙で、失敗すると、プラグが乾くまで待たないといけなかった。
ダブルクラッチを踏まないと、むちゃくちゃエンジンブレーキが効いて、どうしようもなかった。

この内容がわかる人は、おそらく40代前半にはいないと思う。
それだけ、クルマの進歩は早かったから、もう通じない。
でも、何となく自分のクルマという愛着があった。

あれから、34年。N Oneが出た。
当時のエヌサンとは全く違う。
軽の規格も変わって、エンジンは660ccになった。
本当なら、N660と言ってほしいところ。

何となくエヌサンの面影があると思うのは、ぼくだけだろうか。

試乗したのはN Oneプレミアムのターボ仕様という一番上のグレード。
エコモードで走っても、すごい加速。通常モードではリッターカー以上のレベルだという。
確かに、アクセルをちょっと踏むだけで、グンと伸びる。
メーターのイルミネーションもきれいだし、内装もチャチではない。
ベンチシートもなかなか気に入った。
これで、燃費が22km/L。
第三のエコカーの30km/Lにはかなわないが、ターボなしなら27km/Lはいく。
燃費だけではなく、走る楽しみみたいなものを割り切らない、ホンダらしさがある。

実際、乗ってみると本当にしっかりした作りだと思う。
さすがに、加速の時のエンジン音はもろに入ってくる感じだが、定常走行に入るとほとんど気にならない。
軽独特の安っぽさがない。

Sさんに聞くと、昔のエヌサン(エヌコロとも言った)のファンが団塊の世代に多く、そこを狙ってこのグレードは出しているらしい。
たしかに、あまり遠出はせず、近所の買い物程度ならこれで十分おつりが来る。
イニシャルコストは高くても、維持費は安いし、リセールバリューも高い。

N Boxにはもう一つ興味がわかなかったが、N Oneにはちょっと惹かれた。

どれくらい売れるのだろうか。
スズキ、ダイハツの牙城に迫るのだろうか。

売れ行きが楽しみである。

| | 考えたこと | 02:52 | comments(2) | trackbacks(0) |
選挙
うちの選挙区は入れる人がいない。
ぼくは維新の会に期待している。
でも、選挙区には維新の会がいないのだ。

常識で考えて、総理の座を突然ほっぽりだした党首など信用できないから、○民党はダメ。

○主党は外交をむちゃくちゃにして、労働組合という正規社員の利権団体の意向を尊重して若い人の雇用を考えないからダメ。
最後の野田総理はかっこよかったが、あれは最後のパフォーマンスだろう。

みんなの○や未来の○はどうも信用できない。
あの滋賀県知事は何しに出てきたのか。
何がしたいのか。
かいもくわからない。

エネルギー問題を真剣に考え、経済状況を考えると、原発はしばらくの間、必要だと思う。

○産党や○民党は何でも反対で、そもそも政策と呼べるようなものなどない。

立ち枯れ○本とか、○民の生活が第一とか、あるのかないのかわからない。
だいたい、小選挙区にしたら、二大政党制になると言っていたが、政党は増えるばかり。
わけがわからない。

選挙制度を変えないといけないのではないか。

今回はややこしい話題だから、○で書いた。

気に障ったらすいません。



| | 考えたこと | 02:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
インフラ問題
インフラという言葉、いつ頃から聞くようになったのだろうか。
1990年代くらいだと思う。
それ以前にはあまり聞いた覚えがない。
少なくとも、就職してからだった。

インフラというのはインフラストラクチャーの略で、社会基盤という意味だ。
生活を支えている、水道管やガス管、高速道路、鉄道、今では携帯電話の基地局などの設備がそれにあたる。

今週崩落した笹子トンネルなども社会基盤に当たるだろう。

ぼくらが生まれた頃から整備が始まり、東京オリンピックで高速道路や新幹線ができ、それ以降、田中角栄の日本列島改造で飛躍的に進んだと思う。

その水道管やガス管がもう耐用年数を迎え、壊れたりする。
トンネルも屋根が落ちる。

この整備にかかるお金が570兆円らしい。
国家予算の約6年分。
高度成長期はお金がふんだんにあった。
だから、お金をかけて整備ができた。
公共投資というヤツだ。

でも、今はお金がない。
それでなくても、国家予算の10年分の借金がある。
そんなに公共投資にかけるお金がない。

1980年代の中国の車両メーカーの工場では、しょっちゅう停電があったという話を聞いた。
やっぱりインフラは大事だと思った記憶がある。
しかし、日本もそういう国になる可能性があるということだ。

今のインフラは老朽化している。
570兆円はかなりサバを読んだ数字だろうが、それでも300兆円くらいはかかるのかもしれない。

問題山積である。

まあ、今までが恵まれすぎていたと思えば、普通に戻るということでガマンもできるかもしれない。

でも、今までが恵まれすぎていたということを知らない世代には大変だろう。
世界の中で、自分の位置を相対化しないといけない。
そういう知識を今の学校は与えているだろうか。

それは、極めて不安だ。

世界史は覚えることが多くて、入試に不利だから履修しないというような学校がたくさんあったくらいだから…。

| | 考えたこと | 01:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
Bee Gees
ビージーズといえば、60年代後半の人気グループだった。
まだ若者の間で、洋楽が一般的だった頃。
オーストラリアのバリー・ギブ、ロビン・ギブ、モーリス・ギブというギブ3兄弟のグループ。

マサチューセッツという歌が最初に流行った。

“Feel I'm going back to Massachusetts” という歌い出しで始まるこの歌は、何だかわからないが、とにかくマサチューセッツに帰れるんだ、という思いが伝わってくる。
これが1967年。

71年にはMelody Fairが「小さな恋のメロディ」の邦題でヒットした。
映画の主題歌。
マーク・レスターは今はどこに行ったのか…。

78年にはサタデー・ナイト・フィーバーで一世を風靡した。
ジョン・トラボルタの出世作。
この頃は、ダンスミュージックをやっていた。

でも、ぼくがビージーズのベストワンを選べと言われたら、1977年の”How deep is your love”を挙げる。
この曲のコーラスは素晴らしい。
ミディアムテンポのファルセットボイスの魅力がいっぱいだ。
エレピのイントロもきれいだし、ユニゾンのパートでオクターブ下のコーラスも渋い。
ストリングスも、この手の音楽のお手本のような使い方。

どういうわけか、ビージーズのコーラスはパステルカラーのコーラスと言われていた。
そういえば、そんな気もする。
なかなかうまい表現だ。

そのビージーズも2003年にモーリスが、今年5月にロビンが亡くなった。
知らなかったが、この二人は二卵性双生児。

一人、長男バリーが残されている。
弟2人に先立たれて、複雑な心境だろうなあ。

来年2月8日にシドニーで、バリー・ギブがコンサートツアーを開始するらしい。
日本にも来るのかな…。

Bee Geesのホームページには、50周年記念の3人のサングラス姿が載っている。
なかなか渋い。

いいコーラス・グループだ。
| | 考えたこと | 01:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロールモデル不在の世代
年をとると、ロールモデルが見つかりにくい。
こないだ書いた、館ひろしなど、めずらしい部類だ。
60を迎えようとすると、誰をお手本にしたらいいのか。

だいたい俳優などは、実年齢よりも若作りだから、実年齢+10くらいの人を選ばないといけない。
だからと言って、高倉健などは個性がきつすぎてロールモデルにはなりにくい。
ちょっと神格化されすぎた感がある。
ロールモデルというのはひょっとしたら自分もあんなふうになれる、という身近さも必要だ。

今、中年から老年になろうとしている俳優に、適当なのがいるだろうか。

渥美清は好きだったが、ちょっと色が濃すぎてダメだ。
渡哲也はサラリーマンは無理だろう。
バラエティ番組にでている芸人はだめだし、クイズ番組のレベルも下がったからNG。

そういう風に考えると、今は難しい時代。

いろんなところで2極化が起こっているが、俳優については1極化の感じだ。
昔の俳優は憧れの対象で、ミステリアスな部分を大事にしていた。
クイズ番組やバラエティ、コメンテーターなどの仕事はやらなかった。
スター千一夜という番組に出たくらいだ。
あとは作品で勝負する。
それがプロという感じがする。

でも今はみんな笑っていいともに出る。
私生活をある程度さらけだして、等身大の自分を見せようとしている。
そんな、夢のない…と思うのはぼくだけか…。

これが時代なんだろう。

みんなが共通のイメージを持てるスターがいなくなった。
そんな人より普通の人が求められる。
大げさに言えば、みんな同じ人間で、「世界に一つだけの花」だから、逆に個性を出すことが禁じられる。
そんなバカなことがあるか…。
個性を尊重すると言って、結局は潰しているように見える。

だから、ロールモデルが見つからない。
わざわざ普通の人をロールモデルにする必要などないからだ。

大げさに書いたが、そういう時代だと思う。

そんな中で館ひろしは貴重な存在だ。


| | 考えたこと | 23:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
館ひろし
舘ひろしは今の朝のドラマに、ホテルの社長役で出ているが、なかなかいい味を出している。

この人、数年前から二枚目半の路線でいっている。
娘と人格が入れ替わるという役をやっていた。
コミカルな演技をうまくこなした。

そこから、どうもこういう路線もありだ、ということになったようだ。

もう61歳。
往年のアクションスターも、スマートなロマンスグレーになった。
上手に路線変更した。ちょうどいいタイミングだと思う。

ちょっととぼけた味、適度な押しと貫禄。
こういう役者はいない。

こういうのをさわやかな中年(というには年をとっているが)というのだろう。

実際には身体のメンテナンスや運動、食事の注意など行っているに違いない。
それがプロだ。

しかし、それを感じさせず、自然体でやっている。

こういう人になりたいものだ…。

| | 考えたこと | 23:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
John Lennon
昨日はジョンの命日だった。
1980年の12月8日、凶弾に倒れた。

ニュースを聞いたとき、ビックリしたのを覚えている。
自宅付近で撃たれた。
なんでジョンが…という気持ちと同時に、もうこれでビートルズのメンバーが集まってプレイすることは、永遠になくなった、という思いが反射的に浮かんだ。
当時ぼくは、もしも神様が一つ願いを叶えてくれると言ったら、「ビートルズのメンバーがみんな集まって自分のために演奏してくれること」をお願いする、ということに執着を持っていた。

なぜジョンが撃たれたのかは不明な部分が多い。
個人的にはCIAの陰謀説を密かに信じている。

1979年にイラン革命が起きる。そしてソ連がアフガニスタンに侵攻した。
1980年、モスクワオリンピックがあったが、ソ連のアフガニスタン侵攻でアメリカは不参加。
そしてイラン・イラク戦争が始まった。

これらは9.11につながる事件だろう。
それだけ、根が深い。

ジョンが発表した1971年の曲、Happy Xmas。
クリスマスになると、どこかで流れる。
これはクリスマスソングであり、反戦歌でもある。

ジョンは当時反戦のアイコンだった。
ジョンが声をかければ、たくさんの若者が動いたと思う。
それだけの影響力があった。

だから、中東でいろいろな駆け引きをやっていたCIAにとっては、邪魔な存在だったに違いない。

これはぼくの妄想だ。

だが、ジョンが死んだのは事実。
もしも生きていたら、きっとビートルズのメンバーが揃って演奏する場面があったはずだ。

改めて冥福を祈る。



| | 考えたこと | 07:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
高齢者向けのクルマ
ウォール・ストリート・ジャーナルに記事が出ていた。
見出しは「運転者の脈など健康状態を監視する自動車−数年で実現する機能も」である。

要はクルマに「安全に運転する」という、アクティブ・セーフティの機能を付加することになる。
これが新しい安全思想。

「多くの大手自動車メーカーは、車にいわゆるバイオメトリックセンサーを搭載する研究を加速している。つまり、運転者の脈拍、呼吸、皮膚コンダクタンス(手のひらが汗をかいているかを示す)といったバイタルサイン(生命兆候)を監視するセンサー装置だ。車の安全システムを制御するコンピューターにこういった情報が与えられれば、走行中に遭遇する障害への反応を改善できるかもしれない。」

これはスゴイ。
こういうのは大事だろう。
多くの先進国がこれから高齢化のサイクルに入る。
だから、こういう技術を確立しておかないとイケナイ。

この手の技術は日本が強い。
国内に必要なパートナー企業がいるからだ

そして若い人がクルマ離れをしている。みんなクルマに乗らない。
クルマは、直感的に操ることができるほど洗練されてもいないし、道路法規も覚えないといけないから、人気がないのだ。

だから、必然的にドライバーには高齢者が増えていく。

これからの高齢化社会に必須の技術だ。

ぼくもそろそろお世話にならないといけない。



| | 考えたこと | 01:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
忠臣蔵
もうすぐ12月14日

14日は討ち入りの日。
昔から、景気が悪くて芝居の入りが悪いと、忠臣蔵をやればいい、と言われている。
それほど日本人は忠臣蔵が好きだ。

しかし、この頃はもうその神通力も切れた。

大石内蔵助といっても、たぶん通じない。
吉良上野介といっても、たぶん通じないだろう。
広沢虎三や京山幸子若といっても通じない。
昭和は遠くなりにけりだ。
まあ、浪曲は仕方ないとしても、五代目将軍綱吉といっても、通じないかもしれない。
あの、犬で有名な将軍だ。
この将軍の時に、討ち入りがあった。
八代将軍吉宗は有名だ。
暴れん坊将軍でおなじみ。
でも、実際に暴れていたわけではない。


昭和50年代前半、ぼくは毎日夜更かししていた。
わけがあって夜更かししていたのではない。
わけもなく夜更かししていたのだ。
毎日、昼過ぎに起きたらクラブのボックス(部室をボックスと言っていた)に行って、みんなでダベリ、飲みに行って、くだらない話で盛り上がり、そしてそのあと友人の下宿に行ってダベリ、自分の下宿に帰るともう朝方だった。

ちょうど寝るのが朝5時くらいになる。
そのときに聞いていたのが、おはよう浪曲。

もう11月の後半くらいからは、忠臣蔵のシリーズである。
松の廊下から始まり、いろんなエピソードがあって、そして14日の討ち入りへと続く。
どんな話があったかは、よく覚えていない。
しかし、日本人の琴線に響くストーリーだと思う。

これが通じないのはちょっと寂しい。


| | 考えたこと | 00:44 | comments(2) | trackbacks(0) |
人生に答えはない だから…
また、ドラマの中の会話。

海外のドラマには、時々はっとするようなセリフがある。

ずっと離れていた父親を亡くした刑事に、育ての父が言う。
その生みの父親の遺品を持ってきたのだ。
息子は、要らないというのに、自分は渡してくれと頼まれたから置いていくという。

そして、話したのが、「人生に答えはない、だから笑え」というセリフ。
どういう脈絡でそうなったのかはわからない。
しかし、「笑え」というのにはちょっとびっくりした。

いろんな不満があるだろうが、いいことを思い出して、そして笑え、と言ったと思う。
人は楽しいから笑うのではない、笑うから楽しくなるのだ、という心理学者もいた。
くよくよ考えていても前に進まない。

とにかく、笑え、という。
笑えば楽しくなれるだろう。

くよくよ悩んで生きても人生。
笑って前向きに生きても人生。

それなら笑え、というのがドラマの中の言葉。

時には笑うしかないときが、人生にはある。

その通りだなあ。

| | 考えたこと | 00:19 | comments(0) | trackbacks(0) |
ケインズ
BBCでケインズの特集番組をやっていた。
同時通訳の番組だったので、ちょっとわかりにくかったが、1930年代のケインズの主張を話していた。

世界中の経済が悪化した1930年代。
人口の多くが失業状態という状態だった。
しかし、政府の投資でそれは解決されたと言われている。
それは、ひょっとしたら第二次大戦が解決の原因だったのかもしれない。

2008年の終わりのリーマンショックの時の政府の対応は、ケインズに戻ったとも。
個人の自由に任せていてはいけない。
政府の介入が必要だ。

一方で大きな国の借金はどうしたらいいのか。
ケインズさえ想像もできないような借金。
それは今まで誰も向き合っていない。

これ以上の債務の増大は、もう現代では通用しない。

1946年にケインズは死去した。
彼の最も大きな功績は、「経済というものは予想ができない」ということをわからせたことにある。
そして、時には政府が役に立つこともできる。

肝心なのは人々の意思だ。
諦めずに「よりよい世界を作ろうとする意思」がよりよい経済学を作る。

それがケインズのメッセージだと締めくくっていた。

あと、ハイエクとマルクスをやる予定。

英語がわかればもっと面白かったのに…。

| | 考えたこと | 22:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
死んだものが生けるものに教えを与える場所
検死官のドラマを見ていたら、検視の部屋に掲げてある言葉を若いドクターが読まされていた。

"HIC LOCUS EST UBI MORS GAUDET SUCCURRERE VITAE"

そこには「死んだものが生けるものに教えを与える場所」と書いてあるらしい。
検死官は、だから死んだものに偏見を持ってみてはいけない、という。
我々は、死んだものから教えを乞うのだ。
だから、どんな死体であっても、死体を丁寧に扱い、真摯に向き合って、死体の語ることに耳を傾けないとイケナイ。

この言葉は見ての通り、英語ではない。
ラテン語か何かだ。

きっと、常にこの意味は何だろう、という疑問を持つためだろうと思う。

こういう言葉を掲げているところが、西洋の偉いところ。

日本でも、校長室や学校の講堂などに校訓などを掲げているところがある。
「質実剛健」「文武両道」というのがウチの高校の校訓だった。

しかし、職場にそういうものを掲げているところはあまり知らない。
特に、税金で運営されているところには、そういうものはあるのだろうか。

精神の問題だ。

そういう精神を書いて掲げるという行為は大事だと思う。

門前の小僧習わぬ経を読むというではないか。


| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
若い頃
若い頃というのは、いつ頃のことだと思っているだろう。
若い頃という言葉を使い始めたのはいつ頃だろう。

最初にこの言葉を使った時期を覚えていない。

いくつ離れたら、若い、というのだろうか。

30代の時は、10代は若いと言っていたような気がする。
40代の時は、20代は若いと言っていたような気がする。
今、55歳になって、30代は若い。もちろん、10代も20代も若い。

そうなると、20歳以上離れるというのが若いということになる。
まあ、自分が成人した頃に生まれているのだから、それは若い。

それでは、若いほうがいいのだろうか?
最近まではそんなことは思っていなかった。
せっかくここまで積み上げたのだから、若い頃に戻ってリセットするのはイヤだと思っていたからだ。
しかし、55歳という微妙な年齢になると、否応なく体力が落ちてくる。

まず、目が見えない。
近くを見るためには、老眼鏡が要る。
そして、夜眠たい。
2時、3時まで起きていられない。
昔はどうということはなかったのだが…。
こんな事が起こってくると、いくら未熟でも、若いときがよかったと思う。

そして、経験についても、ひょっとしたら頑固になっているだけで、若い頃に戻ったら、もっといい経験ができていたかも…とも思うようになってきた。

なるほど。
だから、世間では若いほうがいい、といっているのか?

これは、そうでもない。
外見で言っている部分もわりと多いと思う。
やっぱり、年をとると若さが欲しくなるものなのだろう。

話がそれたが、若い頃というのは年をとって憧れるものではある。

でも、物理的には戻ることはできない。
だから、どうしても嫉妬をする。

あんまりあがいても仕方がない。
その年齢なりのものを目指すのが、かしこい生き方だろう。
論語でも、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳従う、七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えずとある。

これは、孔子があんまり若い人のことを羨ましがるな、という気持ちを書いているとしたら、あまりにもうがった見方だろうか…。
| | 考えたこと | 21:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
落語
落語研究会に入って、4年間落語をした。

中学から落語が好きで、仁鶴がきっかけだった。
ちょうどヤング・オー・オーという番組が毎日放送で始まり、上方落語がブームになった。

仁鶴の落語を聞きあさり、米朝や松鶴、春団治、小文枝という当時の四天王の落語も聞いた。
でも、ぼくはとにかく面白い落語が好きだった。
演出や細かいことより、とにかく笑えることが大事だった。

高校の頃にはいくらか録音した落語もあって、毎晩寝る前に聞いて寝るのが常だった。
それが、いまでも形を変えて続いているが…。

実際に演じたのは、18から22歳の4年だけ。
最初は仁鶴のネタばかりだった。
そのころのテープを聞くと、恥ずかしい限り。本当に下手だ。
仁鶴の出囃子を先輩からもらって、いつも派手な「 だんじり 」 というのを使っていた。
出囃子というのは、落語家のテーマソングみたいなもので、口座に上がるときにかかるお囃子のこと。
自己満足の世界だった。

3年目くらいからは、当時襲名した枝雀のファンになった。
優れたエンターティナーの定めか、自殺してしまったが、笑いの構造や哲学的なことにも造詣が深かった。
彼の最終目標は、口座に出て、何もせず、そこにいるだけで客が笑うという状態だと言っていた。
面白い芸人だった。

落語は4年やって、演じるのはやめた。
自分に才能がないのもわかったし、落語を研究するのも性に合わなかった。

ただ、笑いを取るのは難しい、ということだけは本当によくわかった。
それは、落研をやめても財産として残っている。
話の持っていきかた、声のトーン、目線の使い方、イメージトレーニングの仕方…、それらを落研で学んだ。

そういうことを自然と身に付けている人も多い。
羨ましいと思う。

でも、ぼくはそういうことが不得意だった。
今でも先輩の言葉が耳に残っている。
「おまえは落研に入ってなかったら、単なるしょうもない事言いで終わっとったやろな」

その通りだと思う。
今でも自分では不得意だと思う。

だからこそ、落研で学んだことは財産だと思っている。


| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
日本の教育
いじめの問題も見ても、学力の問題を見ても、今の学校の状況は諸手を挙げてヨロシイ、という状況ではないのは事実だろう。

何に問題があるのか。
社会が個に分解され、地域のコミュニティの教育力がなくなったとか、少子化であらゆる学校が過当競争になり、経営重視になったとか、そもそも子供が減っているので、彼らは競争をしなくても良くなったとか、いろんなことが言われている。
どれも、それなりに正しいのだと思う。

では、一番手っ取り早い処方箋は何なのか、ということになる。

これはやはり教育を専らやっている部門の体制を変えることになるだろう。
それが仕事なのだ。
社会はそう簡単に変えられないが、教育の仕組みは比較的簡単に変えられる。

たとえば、教員の養成方法を変えてみるとか、学校の仕組みを変えてみるとか…。

その一環が教育委員会の改革というものだろう。
先生しかしたことがない人が、教育界には多すぎる。
生徒たちは学校を出て、社会に出る。
社会で評価されるのだ。
それなら、社会人経験を持っている人がもっと関わるべきだろう。

今の教育委員会を見ていると、自分たちの仲間を守ろうとしすぎる。
大津のいじめの問題をみても、それはあきらかだ。
なぜか。
みんな学校の先生だからだろう。

ぼくは、もっと教育に、実社会に出た人が関わらないとイケナイと思う。
先生が社会に出ていないとは言わないが、学校という閉鎖的なところで、生きている。
おまけに、自分の子供たちが小学校でやってきたことを見ていると、どうもオカシイと思わざるを得ない。

橋下市長が、教育長の選出方法について、「人が死ぬわけでもないし、一度変えてみたらどうか」というようなことを言っていた。
全くそう思う。
今の状態がよくないのは明らかだし、それなら変えてみたらいいのだ。
今のままを継続するのはヨクナイ。
どうして、そういうことを考えられないのだろう。

普通なら、一刻も早く何かを変えないといけないと思う、と思うのだが…。

何が恐くて変えられないのだろうか。
不思議で仕方がない。
こんな大変な状態なのに、ほとんど放置して、誰も何も思わないのだろうか。

事は急を要するのだ。
すぐに手をつけても、その効果が現れるのに、何十年もかかるのに。



| | 考えたこと | 01:27 | comments(0) | trackbacks(0) |