考えたこと2

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新人類
子供の頃にてんかんで脳の切除手術を受けた人がいる。
もちろん、最後の手段で切除になるのだが、生後3ヶ月から11歳でそれを受けた人たちを研究した結果が載っていた。
驚いたことに、これらの人たちは普通に認知機能があり、不自由なく生活をしているという。

先天性で、脳の右半球と左半球が切れている人もいる。
まれに、MRI検査などを実施してそれがわかって驚かれたりする。
そういう人も、同じように普通に生活を送っている。

もちろん例外はあるのだろうが、脳は半分でも人間の機能は果たせるということになる。
腎臓は移植して一つになっても、生きていけるのだから、同じようなものかもしれない。

残った脳を研究した結果、通常の脳よりもネットワークの結合数が多かったということだ。
ネットワークの種類は同じだが、それぞれの数が多いということらしい。
その程度の差で、どちらかの半球がなくなっても、代替えできるということだから、脳のポテンシャルはかなり大きいということになる。
つまり、ぼくらは脳の能力の半分も使っていないのだ。

それがSFのテーマの「新人類」などで出てくる。
見た目は同じだが、すごい能力を持っている。
念力でものを動かすとか、人の心を読むとか…。

たしか、平井和正原作のエイトマンの最終回は「新人類」との戦いだった。
脳の潜在能力から言えば、これはあり得る話だ。
ぼくが最初に「新人類」という言葉を知ったのは、SFだった。

ところが、いつの頃からか「新人類」という言葉は意味が変わった。
80年代くらいから、当時の10代、20代の人達を新人類と呼ぶようになったと思う。
「今年の新入社員は新人類」というような使い方だった。
新人類の定義が変わって、SFのそういうジャンルは減ったのかもしれない。

最近「新人類」という言葉を聞く機会は減ったが、SFというジャンルもあまり認知されなくなって、消えてしまった感がある。

もしも今度また「新人類」という言葉が使われるとしたら、本当にすごい能力を持った人類が生まれる時かもしれない。

エイトマンの最終回は「新人類」の子どもが3人ほど出てきて、恐ろしかった。
後日、さすが平井和正と思ったものだ。

「新人類」はどうなっていくのか…。



| | 考えたこと | 20:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
MIはマテリアル・インフォマティクス
ほぼ30年の長期停滞の中で、日本の家電産業は凋落した。
80年代はたくさんのメーカーがあったが、潰れたり、撤退したり、買収されたりして、だいぶ縮小したと思う。
懐かしいのは、ステレオのブランド。
ソニーはソニーだったが、松下電器(現パナソニック)のテクニクス、東芝はオーレックス、三菱はダイヤトーン、日立はローディ、サンヨーのオットーなど。
その他にもトリオ(現ケンウッド)、サンスイなど小さくても光るメーカーもあった。
今から思えば、この頃が日本の家電の最盛期だった。

大きかったのはデジタルになったこと。
アナログレコードがデジタルのCDに変わり、今やデーターになった。
ネットの発達で、それがストリーミングで月額いくらで聴き放題という状況。
そうなると、音楽を聴くという行為が「特別な時間」から、「日常」になって、音楽がある生活が当たり前になる。
そして、パソコンやタブレット、スマホがステレオの代わりをするようになった。
今やヘッドフォンや安価なブルートゥーススピーカーが売れている。

それと同時に、日本のステレオのブランドも消えていったと思う。
最近テクニクスが復活したが、超高級路線になっている。
結局、成功体験にしがみついて、ネットとデジタルの変化に乗り遅れたんだろうなあ。

そういう風にして、消えてなくなったものもあるが、まだ強いものもある。
アナログの部品だ。
モーターやコンデンサーなどは強い。
それと素材関係。
ディスプレイの偏光フィルムや炭素繊維なども強い。

しかし、この手のものは大きなイノベーションがあると、陳腐化も早い。
そのために、MI(マテリアル・インフォマティクス)という分野が広がっている。
これは既存の素材を置き換える材料を探す技術。
過去の材料データーなどから、新たな材料になるべき素材を推定する技術だ。

既存の素材メーカーは、自社で過去のデーターを持っているが、それはMIのデーターとして強みになる。
MI自体は情報科学という分野。
コンピューターを使って効率的に新しい材料を考えるものだ。
こういう技術は中国が力を入れている分野だろう。

だんだんと数少なくなった日本の強み。
これは守っていかないといけない。

そのためにも、情報科学の分野の技術者を産み出さないといけない。

そういう思いは文科省や今の大学にあるんだろうか…。

| | 考えたこと | 01:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
カウボーイ家族
家の近所のロイヤルホストがカウボーイ家族に変わって数年経つ。
結構はやっていて、土日の夕方は子供連れの客が多くて、一杯だった。
ところが、こないだ前を通ったら張り紙がしてあって、10月30日で閉店したとのこと。
15%引きのクーポン券が2枚もあったのに、残念。

カウボーイ家族のホームページをみると、10月末近辺で10店舗も閉店している。
残っている店は18店。
4割程度が閉店だ。
ステーキとハンバーグ、サラダバー、ドリンクバーという構成で、店は合理化を図っていた。
タブレットも導入して、席で自分で注文し、広い店舗に人は少なかった。
サラダバーが充実していて、野菜も多く、デザートのソフトクリームも自分でサービスできるのが目玉だったと思う。

ロイヤルホストは大阪ガス系かと思っていたが、今は関係ないらしい。
ロイヤルグループはロイヤルホスト、天丼てんや、カウボーイ家族、シズラーなどの店舗を経営している。
ファミレスができた頃に関西ではロイホ(こう略される)が多かった。
その後、多角化したということだ。

ロイヤルホストは一時調子が悪かったが、高齢者を狙って店やメニューを高級化して、生き残りを図っている。
カウボーイ家族も、狙い通り家族連れで賑わっていたのだが…。

どの業界もそうだが、外食業界は長い目で見て、国内は縮小傾向だと思う。
高齢化社会ということは、多死社会でもある。
人工が減少すると食い扶持が減る。

そのために、どんどん海外に出ていっている。
日本の食は成長産業でもある。

ただ、国内は大変だ。
カウボーイ家族は客単価が下がって経営が苦しくなったのかもしれない。
セルフサービスで人は減らしていたのだが…。

知らぬ間に閉店していたのが悔やまれる。

次の店に期待しよう。

| | 考えたこと | 23:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
蘇東坡
ぼくは高校時代、漢文が好きだった。
1年から3年までやったような気がする。
教科書が3冊あるからだ。
それは未だに本棚に置いてある。

NHKでやっていた漢詩のビデオも持っている。
もうビデオは見られなくなったので、CD-ROMに焼き直しているが…。
杜甫、李白、陶淵明などの漢詩も出ていて、けっこうよかった。

今は古典や漢文は入試科目から外れるところも多くて、あまりやられていないようだ。
下位の私学では、国語イコール現代文のところが多い。
万葉集、古今和歌集、源氏物語や枕草子などの日本の古典や、論語や孟子といった中国の古典である漢文はやったほうがいいと思うのだが、社会系の科目が増えて、実質的にはやらないところも多いと思う。

たしかに、日常生活で使うことはないが、古文の知識は今の言葉を理解するのに役立つこともあるし、漢文だって、中国の事を理解するのに役立つこともある。
実際、香港に行ったとき、孔子のハナシで感心された。

蘇東坡という詩人がいる。
有名なのは春宵一刻値千金、というやつ。
春の夜は一刻が千金に値するほど素晴らしいというような意味。

でも、こないだラジオの講演会を聞いていて、蘇東坡の詩でこんな言葉が使われている、という紹介があった。
講演の内容は万葉集だったのだが、その中で紹介されている。

人生無離別  人生離別無くんば
誰知恩愛重  誰か恩愛の重さを知らん

現代のように、時間に管理された生活をしていなかった万葉の時代、人々は太陽や月を見て生活していた、というような話。
「朝」がテーマで、当時は男性が女性のところに訪ねていく「通い婚」だったから、朝の時間は別れの時間だったということだ。

その流れで、人間はずっと生きることができるなら、何も大事にしないし、「愛」などというものもなかっただろう、という話をしていた。
終りがあるからこそ、愛おしいということだ。
SNSなどで常につながっていると、こういう感覚が失われるとも言っていた。

ついこないだ、「死ぬ権利」でも同じようなことを書いた。
ああ、蘇東坡も同じようなことを言っていたのか、と思った次第。

「人生に別れというものがなければ、誰も恩や愛というものが大事だと思わない」

別れがあるからこそ、恩や愛というものが大事なのだ。


| | 考えたこと | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
辞めない会社
新入社員が早期退職することが問題になっている。
なぜかというと、採用難だからだ。
なかなか採れないのだから、定着率を上げることが大事になる。

長い間、大卒新入社員の3年離職率は35%くらいでほぼ同じ。
規模が大きくなると低い傾向にある。
やはり、辞めても補充がなかなかできないということが問題なのだ。

もちろん、規模が小さい企業は給料が安い傾向にあるから、それが不満だということも考えられる。
でも、今の日本で、正社員として働いて、絶対的に食えないということはあまりないと思う。
やはり小さい企業は異動ができず、人間関係が固定するのがしんどいのだ。

ぼくは早期退職の大きな部分は「人間関係」だと思う。

いくら嫌な上司や周りの人がいても、何年かで環境が変わると思えれば我慢できる。
ところが、一生これが続くと思うと我慢できない。
早めに辞めて違うところに行こうと思うだろう。

それと、今のキャリアの風潮も良くないのだと思う。
やりたことは何かとか、採用面接で聞いたりする。
そのために、何がしたいのかを事前に考えないといけない。
入ってみたら、そんなことは出来なかったりする。
それでも、周りの人たちとうまくやれれば、そんなもんかと思えるが、人間関係が悪いとダメだ。
「こんなはずじゃなかった」となる。

中には「志望動機」を聞かない企業もある。
賢い会社だと思う。
本当にごく一部の即戦力になるような学生以外は、志望動機など関係ないのだ。

話がそれたが、新入社員をつなぎとめておこうと思うと、結局は社内の人間関係をよくすることだと思う。
有り体に言えば、新入社員に親切にするということか。
仕事の説明を丁寧にするとか、メンターをつけるとか…。
すでにいろんな会社でやっているが、効果はあるのだろうか。

俺らはそういうやり方でやっていたから、お前もやれ、というのは最悪。
そういうやり方は通じない。
どうしても、そういうやり方でやろうという会社は「体育会系」を採用する。
その価値観はもう通じないとは思うが…。

やっぱり、ちゃんと新入社員と向き合って、話し合いをしないとダメなんだろうけど。
ぼくは大学で勤めていたとき、頭でっかちの若い職員たちの考え方にはついていけなかった。
それでも、聞く努力はしたが、彼らがどう思っていたのかはわからない。
まあ、民間でなく学校法人だから、辞めもしなかったが…。

新入社員の側にも問題はあると思う。
それでも、人手不足なら、使っていかないと仕方がない。

「わからないままほっておく力」というのを書いた。
読み返してみて、これは本当にそうだと思う。

結局、長期停滞で会社に余裕がないとダメなのかもしれない。
衣食足って礼節を知る、ということか…。



| | 考えたこと | 20:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
新書がない
新聞に出ていた筒井康隆の新書「老人の美学」を買おうと思って、本屋に行った。
新潮新書の新刊。
筒井康隆も、もう85歳。
「笑うな」「東海道戦争」などを書いていた若い頃が懐かしい。

「青年、中年からやがて老年へ。人生百年時代にあっても、「老い」は誰にとっても最初にして最後の道行きなのだ。自分の居場所を見定めながら、社会の中でどう自らを律すればいいのか。周囲との付き合い方から、孤独との向き合い方、いつか訪れる最期を意識しての心の構えまで――85歳を迎えた巨匠・筒井康隆が書き下ろす、斬新にして痛快、リアルな知恵にあふれた最強の老年論!」

とアマゾンの書評に書いてあった。

今日読みたいと思って、本屋に行ったが、近所の未来屋書店には、驚くべきことに「新書」がない。
そんなアホな、と思って探し回ったが、「新書」が置いてある棚がないのだ。

仕方ないから、文庫の棚で、著者名「た行」のところを見て回った。
なんと、筒井康隆の本が一冊もない。
おお、ぼくがアマゾンのお世話になっている間に、「SF」のジャンルも、「新書」も、「筒井康隆」も存在しなくなっていた。
がっかりして、帰途についたのだが…。

本屋の中で、一番面積を締めているのはコミックだった。
以前からコミックはだんだんと増えていたが、店の奥の方は一面コミックだ。
さすがクールジャパン。

ライトノベルはコミックの棚の一部になっていた。
そういう分類になるのか。

新書もなければ、教養文庫もなく、ハウツー本はいろんなものが積まれていた。
お手軽な本が多い印象。
文庫の時代劇は増えていた。このジャンルは高齢化で売れる。

こないだの飲み会で、難しい本は65を過ぎたら読めなくなる、と言っていた。
そうなったら、時代劇小説となる。

ネットの影響か、雑誌も少なくなっていた。
まあ、大概の新製品の情報や、知りたいことはネット上にあるからなあ。

しかし、新書というのは一次資料にはならないことが多いが、ある項目について知りたい時にまず手に取るものだ。
そういうニーズもないのだろうか。

本屋の価値は、いろんな本の題名や著者が見られることだと思う。
何かを決めて探すのではなく、知りたいことの周辺を知ることができる、ということだ。
面白そうな本を見つけて、本や著者に出会うことができる。

ぼくもしばらくぶりに本を探しに行ったが、ちょっとショックだった。
新書がないとはなあ…。



| | 考えたこと | 21:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
佐渡連
1万人の第九で、指揮者の佐渡裕が直接指導する日が今日だった。
通称サドレンという。

佐渡裕は山本直純から引き継いで、もう今年で20回目。
毎年3クラスくらいが集まってやるから、だいたい1000人。
今日も梅田、京都、淀屋橋の3クラスが集まった。
全部で1万人だから、毎年10回佐渡裕自身がサドレンをやっている勘定。
ということは、20年で200回くらいやっているのだ。

最初のダイネツァウベルの部分はみんなで手をつないでニギニギしてリズムを合わせる練習をし、男性コーラスの部分は毎回みんなで肩を組んで歌う。
3年間同じことをやっている。

毎年思うが、本番になるとコーラスがめちゃくちゃに走る。
走るというのは、リズムが前のめりになるというか、早くなるということだ。
第3楽章までずっと聞いていて、いざ第4楽章になって、やっと出番、という体制になると本当にみんなが早くなるのだ。
最初の「フロイデ」など、「きたきた、出番が来た」という感じで、走りまくりだ。

佐渡裕も毎回のことで、タクトでリズムをとっても意味がない、ということがわかったとのこと。
それで、手をグーパーして、このリズムだとコーラス隊に伝える。
それをみんなに思い出させるために、手をつないでニギニギさせる。
これは彼が編み出した指導法だ。
ただ、そうやっても毎年早くなるのだが…。

しかし、今年のサドレンの男性の年齢は相当高い。
現役と思われる人が数人しかいなかった。
女性はけっこう幅広い感じで、中には若い人もいたが、男性の幅は狭い。
最前列の男性に佐渡裕が聞いていたが、50代が1人、10歳の子供が1人で、残りは60歳以上。
中には80代の人もいた。

今日は1000人で歌ったが、人数が増えると、だんだんと他のパートの音が聞こえなくなる。
もちろん歌う場所にもよるのだが、アリーナでパートでかたまっている中にいると、自分のパートは歌いやすいが、他のパートの声がわからない。
コーラスは他のパートの音を聞きながら歌うのが基本だと思うが、それが聞きづらくなる。
1年目のスタンド席のほうが、他のパートの音も聞けてよかったと思う。
今年はスタンドだから、期待しよう。
1万人のパワーを感じられるのは、アリーナよりもスタンドだ。

来週がいよいよ本番。

今年もやっとここまで来たか。



| | 考えたこと | 20:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
無言清掃
近所の人と学校の掃除当番の話をしていたら、中学生の息子がいるという。
その中学では、昼休みに掃除をするのだが、無言清掃だという。
無言って、何も話をしないということですか?と聞いたら、そうだという。
その人も、息子に「俺はここを掃除するわ」ということも言ってはいけないのか?と聞くと、そうだという。

ブラック校則というのが問題になっている。
学校というところは、いつから細かい規則で生徒を管理するところになってしまったのだろうか。
「無言清掃」という言葉も異様なら、それをやっている中学校も異様だし、それをやらせている先生も異様だ。

それが当たり前、と思った生徒はどういう大人になるんだろうか。
掃除のときは無言、というルールを当然と思うのだろうか。
それとも、それはおかしいと思ってやっているのだろうか。

こういう中学校を卒業した子どもは、どうなるんだろうか。

こないだ書いたが、ぼくらの時代は掃除は当番制で、放課後にやっていた。
人は自分の受けた教育以外は経験できない。
ぼくは、放課後の掃除当番の思い出もあるし、時にはもめたり、時には楽しかったりした。
それで良かったんだと思う。

無言清掃をしている生徒たちは、卒業したあと、どう思うんだろうか。
あれは、よかったとか、楽しかったとか思うんだろうか。

ああ、あんなアホなことやったなあ、と思ったり、なんであんなことやらされなあかんねん、と思ったりするのだろうか。

無言で働く、というのは楽しくない。
そういう職場もあるにはあるが、そんな働き方はしたくない。
そんなことも思わなくなるのだろうか。

わけのわからない校則はホントにやめるべきだと思う。
先生はそういうの、オカシイと思わないのだろうか。
尼崎の教育委員会は何をやってるんだろうか…。

もっと学校は社会に開かれたところになるべきだ。

「無言清掃」オカシイぞ。




| | 考えたこと | 13:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
死ぬ権利
大学の同級生はぼくより年上が多い。
ぼくは現役で、友達は一浪していて、4月や5月に生まれているので、ほぼ2年違う。
その彼らが、ぼくにあと2年したらガタっとくるという。

もう足腰も弱ってきたし、体力年齢は彼らに負けているのではないかと思うが、これから本番かと思うとげんなりする。
まだ仕事もしてるし、そう弱るわけにもいかないのだが…。

9月に、イギリスで自らの命を終わらせる決意をしたという記事があった。
もちろん、イギリスでは自殺幇助罪になるので、そういう施設があるスイスに行ったのだ。
彼はイギリスでも、死の幇助を受けられるように法律を整備してほしいというメッセージを残した。
不治の病にかかっても、ポジティブに生きるべく頑張ってきたが、もうこれ以上苦しみたくないということで、それを選んだということだ。

スイスの非営利団体で最期を迎えたのだが、これには「不治の病」であることを診断する必要があり、約1万ポンド(132万円)かかる。

イギリスでは、「尊厳死」について議論されていると聞いたが、道のりはまだ遠いらしい。
理由は障害を持った人など、弱い人たちを死に追いやるプレッシャーになるのではないか、ということだ。
そういう懸念があるのは理解できる。

それでも、安楽死はスイス以外にもオランダ、ベルギー、コロンビア、ルクセンブルグで合法になっている。

また幇助自殺は、オーストリア、ベルギー、スイス、ドイツ、韓国、ルクセンブルク、オランダ、カナダ、フィンランド、そして米国の7州で合法とのこと。
お隣の韓国でも合法化されているとは、知らなかった。
ただ、合法化した国や州でも、まだまだ議論はあるとのことだ。
いずれの場合も、不治の病で、余命半年以下でないといけないという。

欧米の国では、日本のように「胃ろう」をして生きるのは虐待だと思われると聞いた。
自分で食べることができなくなったら、それはもう死ぬ時期だ、という国民のコンセンサスもある。
日本のように、管を突っ込んで無理やり生きさせるということはしない。

「生きる」という事の定義が違うのだろう。
今の日本では、とにかく生きていることに価値があるとされている。
そんなはずはないと思う。
管を突っ込んだり、自分で食べることができなくなったりしても、生きていることに価値があるのだろうか。

人間はある時期が来たら死ぬからこそ、何かを大事にできるのだ、という。
死は忌むべき物ではなく、当然迎えるべきものなのだろう。

何度も引用した池田晶子の文章。

 「ただ生きることではなく、善く生きることだ。」ソクラテスが喝破したのは、二千五百年前のことである。民主政治の堕落した当時のアテナイにおいて、快楽や金銭を人生の価値と思いなし、それらのために生きている大衆に対し、説くには、もしもそれらが価値であるなら、君が生きていることに価値はないはずではないか。なぜなら、それらがなければ君には生きている価値はないのだから。そして、もしも君が、生きていることはそれ自体価値であると思うなら、それらのことは価値ではないのでなければおかしいではないか。なぜなら、君が生きていることそれ自体が善いことなのだから。
 留意してほしい。彼は、すべての人はただ生きているだけで善いことだと言っているのでは断じてない。善く生きている人にとってだけ、生きていることは善いことだと言っているのである。言うのもおかしなくらい、これは当たり前なことではないか。どうして、善く生きていない人にとって生きていることが善いことである道理があるだろうか!

日本でも尊厳死を議論してほしいと切に思う。






| | 考えたこと | 22:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
1万人の第九練習12回目 toi toi toi
今週の火曜日が最終練習だった。

最初にセロリをやったが、これはノリでがんばれ、という感じ。
ほとんどがユニゾンか2声のコーラスだが、練習不足は否めない。
ユニゾンのところでハモっていたりするが、ご愛嬌だ。

第九の方は暗譜をして、ほとんど譜面を見ずに歌ったが、やはり最後の方はまだあやふや。
まだまだ家で復習して本番に臨まないといけない。
声を出すのに、骨盤底筋を意識して踏ん張っていたら、夜中に足がつった。
情けない…。

最後に小学生の参加者4名が声楽の加藤先生、ピアノのとやま先生に花束を渡して終了。
梅田教室は仕事帰りのOLが多くて、子供は少なかった。

風邪をひかないようにとか、靴は本番のものでリハをしたほうがいいとか、注意があって終わった。
毎日放送の人によると、今年の12月1日は大阪マラソンと重なっており、朝コンビニに行っても商品が売り切れている可能性が大きいとのこと。
今年の12月1日はマラソンで3万2千人、第九で1万人(観客を入れて、1万4千人)集まるから、大変だ。大阪城周辺のコンビニは朝から商品がなくなると予想されていて、弁当は自宅周辺で買ったほうがいいという注意もあった。

一緒に行っている人が、休憩時間に加藤先生のサインをもらいに行っていた。
去年ももらっていたので、2人目の講師のサインになる。
サインを見せてもらうと、名前に添えて「toi toi toi」と書いてあった。

何のことだろうと、その場でスマホで調べたら、「大丈夫、うまくいくよ」という意味らしい。
元はドイツ語と書いてあったので、家で調べてみた。

「toi toi toi トイトイトイ」は、幸運・成功を祈るドイツのおまじないの言葉。 言葉に合わせて、テーブルや扉を3回トントントンと指で叩いて表現される。

とのこと。

特に舞台開始前などに言うことが多いらしい。
ドイツのまじないだが、世界的に広まっているとのこと。
身近なドイツ語というと、人名やドイツ車など固有名詞しか思い当たらないが、こういうのもあるのか。

ドイツでの由来は「魔除けのつば吐きの代わり」ということだ。
昔々、めでたい話や幸運に関係する話をそのまま話すと、悪魔が嫉妬して災いをもたらす、ということから、話したあと「ペッペッペッ」とツバを吐いたらしい。
そこから、ツバを吐く代わりに「toi toi toi」となったとのこと。
「toi」は「悪魔」の意味で、「Teufel(トイフェル)」の省略語。
劇場やコンサートでは、出演者が公演で成功することを願って、このフレーズを言う習わしもあるらしい。

さすが声楽の先生。
今週末は佐渡裕の指導練習。
toi toi toiでいこう。

| | 考えたこと | 19:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
香港
一度出張で香港に行ったことがある。
まだ返還前で、イギリス領だった。

一度ここにも書いたが、行ったのは1987年。
初代レクサスの発売前だった。バブルの絶頂期あたりだ。
ぼくらメーカー勤めはそんなに給料も上がらず、ただただ仕事が忙しいだけの日々だった。
年配の先輩の娘が証券会社に入って、めちゃくちゃいい給料をもらったというような話は聞いて、エライ時代になったものだと思った。
あとから思えば、何となく世の中が浮かれていて、地に足についていないような感じだったなあ。

その当時の香港は、まだ何となくいかがわしい所だった。
バッタモンの時計は有名だった。
ぼくは海外サービスの先輩に連れられて行ったのだが、あっけらかんとした明るさがあった。
夜歩いていたら、ワゴンにたくさんの高級ブランドの腕時計をのせて売りに来たりしていた。
みんな、偽物とわかっていて、買っていた時代だ。

その香港が中国に返還され、今市民と警察が戦っている。
中国が一国二制度を守ろうとせず、市民の自由を制約しようとしている、というのが元だろう。
一昨日あたりから、大学に強硬派の学生が立てこもって、逃げ出しては逮捕されている。

経済発展を遂げた中国共産党は、強気だ。
そうは言っても、香港の機能は残したいので、天安門のようなやり方はできない。
アメリカ議会は香港の自由を守ろうという法律を作ったりしているが、日本にはそんな動きはない。
やっぱり経済で依存しているから、あまり関係を悪化させたくないのだろう。
もうすぐ習近平を国賓として迎える、という計画もある。
自民党の一部が、反対の声を上げたらしいが…。

香港の学生たちを見ていて、すごいなあと思う。
マスクをして、命がけで戦っている。
実際、活動家がヤミで葬られている、というページもあった。

香港市民の声にしても、これだけデモや暴動があっても、警察に対する不信感の方が大きいとも聞く。
ウィグル自治区やチベットでの、中国共産党の人権を無視したような活動もある。
もう話し合いでは解決しないと考えているから、学生たちは暴力行為も辞さない。

そう思うと、一部の自民党の「国賓で迎えていいのか」という声は正しいと思う。
政治的に中国といい関係を持つことは必要だと思うが、今の状況を黙ってみているのはいけない。

今中国と関係を悪化するのを避けたい気持ちはわかるが、本当にそれでいいのだろうか。




| | 考えたこと | 19:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
大企業の病理
スタートアップとは「短期間で、イノベーションや新たなビジネスモデルの構築、新たな市場の開拓を目指す企業」のことだ。
東大のトップ層は今や大企業よりもスタートアップに就職するほうが圧倒的に多いらしい。
その理由を、経営共創基盤CEOの冨山和彦氏が記事で語っていた。
冨山和彦氏というと、「日本には、Gの世界、Lの世界がある」という事を言っていた人。
G型大学、L型大学という言葉も作っていた。

彼が言うには、今の日本企業は”上から目線”という深刻な病気にかかっているらしい。
ホームページの「役員一覧」が、60代、70代の「ザ・日本人」といったおじさんたちばかりの会社はダメだという。
グローバルに活躍する優秀な学生には「わが社は女性、外国人、若者を差別します」と全力でアピールしている、と映るからだ。

これは大谷翔平に「野球がうまいのはわかるけど、まずは球拾いとバット片づけからやって」というようなもので「日本の大企業に就職したら悲惨なことになる」ということだ。
いくら大学院で人工知能のすごい論文などを書いていても、上司に報連相をたたき込まれ、品質管理などの基礎知識を学ばされる。
これでは、スゴイ人材が行くわけがない、というわけだ。

そして、海外からも優秀な人材を確保しようと思えば、「日本語を話せること」という条件はナンセンスになる。
それはそうだろう。
今やそういう人材は日本企業でも、海外法人で雇っているはずだ。
日本の企業では、給与体系に合わないからだ。
最近、日本でも新卒1000万円を技術を持った人に払う、というような制度ができたらしいが、それがニュースになるくらいだからまだまだだ。

「企業は人なり」とか言っても、日本の大手企業にはいまだに「採用してやる」という「上から目線」があるという。
ぼくもそう思う。
新卒一括採用、年功序列、終身雇用というシステムではもう対応できないのだ。
学生の側から見れば、AIのエンジニアは20代で1000万円、2000万円を稼ぐのは当たり前で、GAFAや中国企業のグローバル水準だという。

「この若者たちは「大きな組織はとにかく面倒くさい」と考えています。ムダな会議が繰り返される。稟議書にハンコが多い。何かはじめようと計画すれば「それはいかがなものか」と横やりが入る。ちょっと炎上すれば、責任問題だと大騒ぎになる。出張規定なども細かくて融通がきかない。それらがものすごいストレスを生むことが、大企業のほうはわかっていません。」

記事にある通りだ。

日本企業のトップは仕事もしていないという。
重要な話し合いの場には出ず、部長あたりが交渉し、本社に持ち帰り、稟議して…、というプロセス。
海外の企業なら、社長が出てきて即断即決という場面でもそんな状態。
海外の企業との提携などの場面では、そういう状態なら敬遠される。
ここでも「上から目線」なのだ。

冨山市は35年前にビジネスの勉強をするために、ボストンコンサルティンググループに就職した。
今なら人工知能や生命科学を勉強していたはず、という。
そこで、世界のエリートたちは巨大サラリーマン企業に自分の人生を委ねる、という生き方は選択しないということを知った。
日本のように、一社で勤め上げるのは特殊な働き方だという。

そこで当時から「学卒一括採用、終身雇用、年功序列、企業別組合などで維持された“閉じた企業”のモデルが、このまま世界を席巻しつづけるはずはない」と予想できたという。

「実際、日本企業をコンサルティングすると、すぐに撤退すべき事業を抱えているのに、事業の撤退や売却、リストラは一切できない。合理的な意思決定からほど遠く、選択肢がものすごく狭い。完全に身動きがとれなくなっていました。

そこでやむを得ず、ドラスティックな改革を避けて戦略シナリオを描きます。効果は小さいとわかりながらも、合理的に戦略を組み立てる。しかし、それさえも実行されない。この業界に入って数年で「これはもたない」と確信しました。

当時は、NHKスペシャルで「電子立国 日本の自叙伝」が放送され、半導体では日本は負けないとみんなが思っていた頃です。しかし産業の歴史を冷静に振り返れば、20年から30年でパラダイム転換が起きなかったことはありません。同じビジネスが40年も50年もつづくことはないのです。」

その後彼は携帯事業に関わる仕事をする。
そこで、大企業の人たちを見て、あまりの生産性の低さに驚いたという。

「なにしろ部課長以上は、目を疑うほど生産性が低い。朝から会議を開き、1日かけて何も決まらない。やっとプランニングしたと思ったら、こんどは誰も営業に出かけない。みんな大企業から出向してきた高学歴のエリートサラリーマンたちです。」

「この経験があるから、のちに産業再生機構で手がけた大企業の経営再建では、管理部門の大胆なリストラが実施できました。大企業の管理者は半分に減らしても、事業にまったく支障がないと確信していたからです。むしろ人数が多いほど、調整業務が増えていく。企業の根回し文化が変わらないとすれば、根回しの相手を減らしたほうがいいということです。」

日本がこの20年成長できないのは、過去の成功体験を捨てられないからだろう。
ちょうど、過去の栄光である大艦巨砲主義を信奉して負けた日本海軍と同じだ。

早くそれに気づいて、変わらないといけない。



| | 考えたこと | 23:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
旅猫リポート
2018年の映画。
知らずにWOWOWで見たが、わりと新しい映画だったのか。
全く予備知識もなく、ただ「猫」という文字が入ってたので見た。
猫ムービーは好きだ。

小学校の時にネコを拾った友だちが出てくるところから始まる。
その友だちの家では飼えず、結局主人公の家で飼うことに。
そのエピソードから始まり、主人公の歴史をたどるロードムービーだ。
実際にFiatのPandaに乗って、全国を旅する。

自分が現在飼っているネコをもらってほしい、と友だちを訪ねていく。
なぜ、そういう事をしているのかは最後近くになって明かされる。
ネタバレするからこれ以上は書かないが、いい話だった。

原作は有川浩という作家。
読んだことはないが、調べてみると「三匹のおっさん」はテレビシリーズでやっていた。
このシリーズもなかなかいいドラマだったと思う。

「植物図鑑」も映画化されていたし、「阪急電車」もこの人の作品。
ほのぼの系の作品が多い。

この映画も、ネコが魅力的だった。
よくあんな絵が撮れたなあと思うようなカットがあった。
だいぶ苦労したんだろうと思う。

ホームページで予告編を見たら、観客は女性しか写っていない。
どういうわけか、「ネコ=女性」という先入観があるのだろう。
でも、この映画の主人公はネコ好きの男性。
どうも納得がいかない。

出てくる役者の名前はほとんどわからない。

でも、猫ムービーとしてはまずまずの出来だった。



| | 考えたこと | 20:05 | comments(0) | trackbacks(0) |
不要なメンバー
大阪府議会で不要なメンバーの出席を止めて、出席者の4割以上が削減されたというニュースがあった。
なるほど、そうなるだろうなあ。
どういう意味で不要か、ということは問題だが…。

役所も大学も同じようなものだと思う。
大学で一番人数が多い会議が教授会だろう。
ぼくは2004年の4月に学校法人に行き、その年に1回出て、バカバカしくて出るのをやめた。
職員の立場だから、出る義務はないからだ。
総務や教務の人たちは出ないと仕事にならなかったのが気の毒だったが…。

ぼくのいた大学の教授会は事前に「議題整理」というものがあった。
教務と学部長、学科長あたりが事前に「報告事項」と「協議事項」に分けて議題を決めて進行を確認する、という儀式。
その時に、だいたいの結論を確認する。
ということは、もともと話し合おうなどとは思っていないということだ。

「報告事項」は「報告」なので議論してはいけない。
なんだかよくわからないが、もしも「報告事項」でオカシイと思っても黙っていないといけない。

「協議事項」は文字通りどうするか決めるもの。
たいがいの教員は会議中内職をしたり、大学で決めることなどどうでもいいと思っているので、単に座っているだけだ。
数人の教員が実際に協議に参加する。なかには何にでも文句をつける教員もいる。
おそらく40人くらいいても、30人くらいは義務として出ているだけだ。
一言も話さない。
明らかに、後日議事録を回して確認すればいいだけだ。
あくまでぼくがいた大学がそういう状態だったというだけだが、きっと似たようなものだ、と思っている大学関係者は多いと思う。

なぜなら、教授会の主たる出席者の教員たちは、上位の大学はともかく中位以下の大学では、帰属意識が薄いからだ。
大学教員というのは、ある種個人事業主みたいなもので、できれば他の大学で仕事があれば移りたいと思っている人が多い。
毎年、公募に応募する人もいれば、知り合いに頼んでオファーを待っている人もいる。

変わりたい理由の一つは、学部を変わるとより自分のやりたい研究領域ができるということ。
もう一つは、上位の大学に行けば、教えるのが楽だ、ということ。
よほどやる気のある教員を除いて、多くのFランクの大学の教員は、変わりたいと思っているだろう。
Fランク大では2番めの理由が有力だ。
大学教員はその他の教員みたいに「教え方」を習ってなるわけではないので、教えることに関しては素人。
実際ひどい教員もいる。

話がそれたが、教授会は会議が滞りなく終わる、ということが目的になる。
本来の「会議」というものは、特定の課題について話し合うことが目的だろうが、教授会などはそうではない。
「会議を開いた」という事実と、そこで「決まった」ということが大事。
そのためには、滞りなく会議が終わらないといけない。
学内規定で定足数も決まっているくらいだ。
だから、その場に「いる」ことが大事なのだ。
おそらく、多くの教員は委任状を出してOKということにすれば、喜んで出すだろう。
時間の無駄なのだ。

職員の方はちょっと違う。
万が一もめたら困るから、その「万が一」のために会議に呼ぶ人が増える。
今の国会で役人がたくさん待機しているのも、おそらくそうだろう。
場合によっては、席で待機ということもある。
出席者を限定していたりするからだ。

こんな風に、小は学校法人の会議から、大は公務員の会議や国会まで、そういう風になっていると思う。
そういうムダをなくすことが、「生産性の向上」につながるのだ。

ぜひ大阪府議会の取り組みを見習うべきだと思う。



| | 考えたこと | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
スマート家電
スマート家電というものがある。
「スマート」というのは、「賢い」という意味だから、人間が指示しなくても何かできる家電、というような意味合いだ。
まずは、センサーなどを搭載しているエアコンで、人のいる場所の温度をコントロールするというようなものがある。
これは普通の家電だが、もう少し賢くなるとIoTというようなものになる。

今の言い方では、インターネットとつながることで、スマホで外部からでもコントロールできる家電。
外出先から予約できる録画機とか、エアコンとか、この種類の製品は増えている。
まさに、スマホがあるのを前提で、アプリを入れてコントロールを可能にする、というものだ。

さらに、スマート冷蔵庫では、スマホで扉の開閉回数をグラフ化してくれたり、食材に応じてレシピを提案してくれたりする。
サムスンの製品では、冷蔵庫を閉める時に写真を撮って、スマホで買い物する時に冷蔵庫の中身を確認できる。
「あれ、あったかな」という心配を解消できるのだ。

しかし、そういう家電が増えてくると、セキュリティの問題も増えてくる。
パソコンにはウィルス対策のソフトがあるが、スマート家電にはそういうものがない。

必ずユーザー登録をして、その製品のファームウェアなどがアップデートされたら、ちゃんとそれを適用しないといけない。
たいがい、脆弱性が見つかったから、ファームウェアをアップデートするからだ。
「脆弱性」というのは、何らかの弱点があって、そこを攻められたらハッカーに乗っ取られる、というもの。

スマート家電を使おうと思えば、そういう知識がなければ危険でもある。

一度テレビドラマで、スマートハウスに住んでいる金持ちが、家ごとハッカーに乗っ取られ、何もできなくなった、というのを見たことがある。
電気はつかないし、電話もできないし、家から出ることもできない、という感じ。
便利の裏側には危険がある、ということだ。

世の中、どんどん便利になるが、その裏側には危険もあると意識したほうがいい。

どこまでが本当に「便利」で、どこからが「余計なおせっかい」なのか、今から考えておいたほうがいいぞ。




| | 考えたこと | 21:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
調査書重視
ツイッターを見ていたら、文科省の「調査書重視」ということに対する批判があった。
今後の大学入試は「調査書重視」の方針だとも書いてあった。
これは入試が客観評価から主観評価を重視する方向に舵を切ったと考えられる。
具体的にはAO入試が想定されている。

AO入試は本気で真面目にやれば、いい入試制度だと思う。
日本で最初にAO入試を始めたのは慶応大。
これは「本気で真面目に」やって、成功したと言われている。
ぼくもいい制度だと思う。
ただ、「本気で、真面目に」ということを担保するのは大変難しい。

慶応が導入した後、どんどんAO入試が広がった。
残念ながら、今の多くのAO入試は、受験生を合法的に取るための手段になってしまった。
実質的に、面接で決める入試だから、恣意的に運用できる。
面接をするのは大学のセンセイだから、自分の生活がかかっていると思うと、マトモな判断はできない。
上位の大学はともかく、中下位の大学では、受験生の確保が至上命題になっている。
そのミッションは大学経営者だけでなく、センセイも忖度する。
定員割れを起こすと、研究費が減らされたり、自分の学部がなくなったりするからだ。
そこではどのレベルの学生を取るのか、などの理念はきれいさっぱり消えてなくなる。

もともと、AO入試が広がったのは、一発勝負の入試に対する批判からだ。
偶然、その日の調子が悪かったとか、0.1点差で落ちたりするのは妥当か?ということだろう。
それよりも、ずっと継続してきた成績や評価を見よう、というのが「AO=人物重視」の考え方。
それはそれで正しい。
ただ、さっきも言ったように、あくまで評価者がちゃんと評価している、という前提だ。
今の教育界を見ていると、それは非常に難しいと思う。

この制度が誤用されると、生徒に言うことを聞かせるために、調査書が利用される。
反抗的な生徒には「調査書の点を下げる」と言えば、効果は抜群だろう。
神戸市の教員いじめの対応を見ていると、残念ながら今の教員がそんなに崇高な精神を持っているとは思えない。
そう思うぼくも、エラそうなことは言えない。
人間とはそういうものなのだ。
世の中にイエスマンが増えたのも、この弊害がすでに出ているのかもしれない。

ツイッターの調査書重視への批判は「高校卒業認定取得者や通信制高校出身者、学校をドロップアウトした若者がが不利になる」というもの。
つまり、一度レールを踏み外すと、もう戻れないというものだ。
文科省は、自分たちが敷いたレールだけをいいものだと考えている。
それこそ、多様性を認めていない。

これは人生のやり直しを不可にして、格差を固定する方向になる。
格差拡大をさせないためには、今の一発勝負型の受験には意味がある。
ツイッターに出ていたが、18歳で暴走族のパシリだった人が、大学に行けたのもこの制度のおかげ。
この若者は18歳の時に勉強をやり直そうと思い、毎日13時間2年間勉強したらしい。
当然、英語の民間試験を何度も受ける財力もなかったという。

そういう人が報われるためには、今の受験制度を残すべきだと思う。

| | 考えたこと | 23:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
課題曲
会社の先輩2人とギターを持って集まろうということになった。
どちらも、再雇用の期間を過ぎている。
一人はまだ週に2日ほど会社に行っているらしい。

大学時代にフォークソングクラブをやっていた人が一番年上。
その人が完全に定年して(ボランティアで1日何かやってるらしい)、暇になって集まろうということになった。
とりあえず、12月に1回目の集まりがある。
そのためにスタジオを予約した。

アコギだけなら、アンプも要らないし、一番安いスタジオが使える。
一人1時間900円という勘定。
一応2時間確保した。

課題曲を決めよう、ということでメールのやり取りがあった。
そこで出てきたのがPPMの500milesという曲。
知らなかったが、以前ドラマの主題歌にも使われたらしい。
Youtubeに日本語の歌詞のものが出ていた。

わりと簡単な曲なので、それでいこう、ということになった。
今はYoutubeで「この人がやっているこの曲」ということで情報交換できるから楽だ。

でも、コーラスの譜面がない。
PPM(Peter, Pole and Mary)が有名だが、ブラザーズフォアもやってるし、ドラマで歌われたのは日本語の訳詩バージョン。
おそらく、先輩たちには日本語という選択肢はないだろうから、英語でやることになるのだろう。

ぼくも課題曲を考えないといけないのだが、ちょっと先輩二人とは感じが違う。
ぼくらのちょっと上の人たちは、洋楽のフォークソングから入った人たち。
ブラザーズフォアとか、サイモン&ガーファンクルとか…。
ぼくの世代はそこにもちょっと引っかかっているが、その後の時代。
もちろん洋楽もあったが、邦楽もあった。
何を選ぶか、難しい。

さらに、ギター3台でどういうアンサンブルにするか。
同じアコギ3台で、同じことをやっても芸がない。
まあ、きっと一番年上の先輩が決めてくれるんだろう。
カポタストは持って行かないといけない。

60歳を過ぎたおっさんが3人、アコギを持って集まる。
課題曲、早く決めないと…。

楽しみだ。



| | 考えたこと | 20:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
第九練習8,9,10,11回目
1ヶ月のご無沙汰。
もう練習も3年目で、ちょっとダレていた。
一応歌詞はもう覚えたし、だいたいは歌える。
それでも、いくつかはあやふやなところもあり、8,9,10回目の練習時には、いつかはちゃんとやらないといけないとは思っていた。

さすがに、昨日はもう11回目の練習になり、残りは1回のみ。
ちょっと心を入れ替えて、1万人の第九のアプリを聞き直して行った。
加藤先生は発表会があり、今回はお休み。
神戸教室のバリトンの青木先生が代行でやってきた。

もう寒いのに、半袖のTシャツにスリムのカラージーンズというスタイル。
ぼくらとそう年は変わらないと思うが、痩せていてかっこいい先生だった。
タクトを持って、指揮をしながら指導する。
一見優しそうに見えるが、結構厳しい先生だった。

西宮のコダマ先生、梅田の加藤先生、今回の神戸の青木先生と3人の声楽家を見て、本当に三人三様だと思う。
さすが芸術家だ。
1回だけの代行指導でも、自分のやり方を貫く。
レギュラーの先生のやり方など、一切聞かれない。
自分のやり方で発声練習をする。

一応、1万人の第九、という共通プロジェクトで雇われている講師だが、そこに共通性はない。
今回の発声練習は子音のトレーニングから始まった。
いつもとは全然違う。

講師が全員集まって、打ち合わせもするんだろうが、そこでは共通した指導などという項目はないのだろう。
これが芸術家の集団という感じ。
そういう問題意識も持たないのが芸術家なのかもしれない。

帰りの階段で、「やり方が全然違うなあ」という声も出ていた。
普通の参加者なら、そう思うのが当然。
きっとそういう声も事務局には届いているんだと思う。
それでも、変わらないのだ。

今週はチケットをもらった。
今年はアリーナではなくスタンド席。
指揮者からは遠いが、ぼくはこっちのほうがいいと思う。
観客の立場でも見られるからだ。

来週が12回目、最後の練習。
心して行こう。


| | 考えたこと | 19:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
給食の思い出
今日の昼は給食の話で盛り上がった。
下は40代から、一番上はぼくの62歳まで。

ぼくの給食の思い出は、とにかくクジラが多かったこと。
その当時は貴重なタンパク源だったのだろう。
クジラの生姜煮みたいなものがよく出た。

どういうワケか「絶対に残したらダメ」などとは言われなかった。
パンを持って帰っている人もいた。
そんなブラックなことはなかったのがぼくらの年代。

ぼくの学校が緩かったのか、あるいはぼくがそんなことは気にしていなかったのか、それはわからない。
50代のOさんは、自分は低学年の時にパンを全部食べられなかったので、みんなが掃除をしている時も給食を食べていた、という。
とても嫌な思い出だということだ。
時には、残ったパンをこっそり誰かの机に入れて、その人が見つかって怒られ、言い出せなかったとも言っていた。
ぼくの小学校では、給食にはそんな緊張感はなかった。

Oさんは大阪で3つの小学校を変わったが、どこに行っても「給食は絶対残したらダメ」という体制だったという。
10年ほどの違いで、そんな差があるのだろうか。

40代のHさんも、Sさんも、「絶対残したらダメ」だった。
Sさんは、ブドウパンのブドウが嫌いで、それだけ除けておいて、牛乳で流し込むという技も言っていた。
一番若いHさんも、給食にはあまりいい思い出がないという。

40代になると、週に2日ほどご飯の日があったということだ。
その頃から、ご飯給食が始まっていたのか。

ぼくのちょっと下の2人は、ぼくと概略同じようなものだった。
ということは、1970年代の途中くらいから、「給食は絶対残したらダメ」になったのだろう。

ぼくの時代は掃除は放課後、当番制でやっていたが、Oさんの話では掃除は昼休みにみんなでやるということになっていたらしい。
つまり、ぼくらの時代は、小学生にも自主性を持たせ、放課後掃除当番が掃除をする、という役目も与えられてやっていたのだ。

それが当然だったと思っていたら、ぼくの息子たちは昼に掃除をするという。
学校に残ってやるのが管理上問題という側面はあるのだが、なんで毎日みんなで掃除をしないといけないのか、と思ったものだ。

きっと役目を与えて、自分たちで残って掃除をするというように、子供を大人扱いしていた小学校が、そうではなくなった時期が「給食はぜったい残したらダメ」という時期なのだ。

放課後の掃除当番など、先生はほとんど見に来なかった。
それでも、問題があれば職員室に言いに行ったし、残ってやる掃除も楽しかったという思い出もある。
もっと子どもを信用して、任せたらいいのだ。
それをせず、管理をどんどん厳しくしていった結果が今なのではないか。

給食の思い出を語っていたら、そんなことを考えた。


| | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
手書き
10月の半ばから日記をつけ始めた。
道具に凝るたちなので、日記帳を文房具店に買いに行ったが、あまり気に入ったものがなく、ソフトリングノートというのを買った。

もともと、リングノートが好きなのだが、ノートの端まで書こうとするとリングがジャマになることに気がついて、ちょっとなあ、と思っていた。
しかし、さすが文房具大国日本だけあって、コクヨがその改良版を出している。
これがソフトリングノート。
リング部分が柔らかくしなり、書く時にジャマにならない。
よくできているのに感心して、即買いした。

B6サイズという変わった大きさだが、A5よりちょっと小さめで持ち歩くのにはちょうどいい。
日記を書くといっても、昼間仕事中にちょっとした時間を使って書く予定なので、今回は持ち歩きが必須。
5mm方眼で紙質も裏写りがほとんど泣く、使い勝手もいい。

ずっと以前は夜に日記を書いていた。
一日の終りということで、それが普通かと思う。
それが電子手帳になって、帰りの電車で書けるようになった。
当時はソニーのクリエというのを使っていた。
学校法人に変わったときも、持っていっていたなあ。

転職して1年ほどたって、ブログを始めて日記は書かなくなった。
その頃は仕事でも、ほとんど字を書くことはなくなっていた。
会社での書類の主体がワードになって数年、切り替えは早かった。
もうブラインドタッチは覚えていたので、書くよりも打つ方が速くなったからだ。

字を書かなくなると、本当に字が書けなくなる。
自分でも読めなかったり、読めるけど書けない字が増えたりする。
ここ3年ほど、10月から1月の期間は講座をしているので、板書をする。
自分でも番所の字が汚いと思って、日記をつけることにしたのだ。

手先を動かしていると、ボケないというのも聞いたことがある。
そのためにも、字を書くのは必要だ。

日記は毎日ではないが、ほぼ毎日続いている。
1日に書く文字数は5行程度だが、それでも書かないよりは書いたほうがマシ。

続けていきたいと思う。


| | 考えたこと | 00:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
変なおばさん
こないだの朝、通勤で環状線に乗っていたら、変なおばさんがいた。
天満あたりから乗ってきたのだが、朝の10時に開いた発泡酒の缶を持って乗ってきた。

ピンクの毛糸の帽子をかぶり、サングラスをかけて、セーターにチェックのスカートで、スニーカーを履いている。
どう見ても、通勤ではない格好。
年はよくわからないが、おそらく60歳代か。

ぼくはウォークマンを聞いていたのでわからなかったが、何やらブツブツ口が動いている。
そのうちに、バレエのようなものを踊りだした。
手を頭の上に上げて、クルクルその場で回る。

周りの人達に危害を加えるという感じではない。
みんなは、ちょっと困ったなあという感じで、極力目を合わせないようにしていた。
ぼくが降りるときには、ちゃんとドアの脇に寄って、空けてくれた。

最近はちょっと通勤が遅いので、変な人に会うことが増えた。
以前、通勤時間帯に電車に乗っている時には、そんな人は見なかった。
帰りは遅くなって酔っ払いは見たが、あんな変なおばさんは初めてだ。

だいたい、おかしな人は男性なのだが、女性は珍しい。
高齢化で年寄りで暇な人が増えている。
これから団塊の世代が高齢化し、もっと増えるだろう。

そのうち、高齢者専用車両というのもできるかもしれない。
いや、できるのは、若者専用車両か…。

実働している人にとっては、困った人だからなあ。



| | 考えたこと | 21:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
死ぬまでにやりたいこと2
2011年の5月に「死ぬまでにやりたこと」を10個書いた。
その時は54歳だった。
そのリストがこれ。

・ 2シーターのオープンカーに乗りたい
・ イギリスとハワイとアラスカへ行きたい
・ カラオケのオールナイトをやりたい
・ 岸本加世子に会いたい
・ 本物のフカヒレスープを食べたい
・ 軽く1000m泳げるようになりたい
・ いろんなコードを使って、ギターのアドリブができるようになりたい
・ 英語がうまくなって、字幕なしで見られるようになりたい
・ 文章がうまくなって、考えたことがすらすら書けるようになりたい
・ 何のために生きているのか、という問いに答えを出したい

あれから8年。
この中でできたことはあまりない。
かろうじて、イギリスには行ったし、1000mは2014年に週4日泳いで、まあ泳げるようになった。
でも、続けてないから、今はまた無理。
2シーターのオープンカーには乗ってないし、カラオケのオールナイトは寝てしまうかもしれない。
やるなら早いうちだ。
岸本加世子には会っていない。だんだん会いたいとも思わなくなった。
時間は残酷だ。
本物のかたまりのフカヒレスープは高くて食べていない。
いろんなコードを使ってアドリブするのはまだまだ無理だ。
字幕無しで海外ドラマはわからないままだし、考えたことはスラスラは書けない。
最後の何のために生きているのかという問いには、答えがないと思い至った。
エライ哲学者も人生は暇つぶしだと言っている。

8年経つと、だいぶ望みは変わる。
体力的にもしんどくなるし、諦めが先に立つ部分もある。
以前、「最高の人生の見つけ方」という映画で、ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンがバケットリスト(死ぬまでにやりたいことの通称)を一つずつやっていく、というのがあったが、彼らの体力はスゴイ。
自家用ジェットで世界中を飛び回っていた。
さすが映画だ。
あの映画に比べると、ぼくの望みなど安いものだ。

基本的に、金で解決できるものをやっていないということは、本気でやりたいとは思っていないということだろう。
レンタカーや旅行、カラオケのオールナイト、フカヒレスープなど。

能力に関わるものは、あまり伸びが見込めない。
ギターや、英語、文章など、難しい。

死ぬまでにやりたいことって、結局はまだまだ元気なうちにやらないといけないのだろう。
死ぬ直前になってやろうとしても、できないのは当たり前。
今くらいがぼちぼち限界だ。

もうちょっと真剣に考えないといけない。




| | 考えたこと | 21:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
なるほどですね
こないだ会議室での話を聞いていたら、「なるほどですね」という言葉が聞こえてきた。
そういえば、「なるほどですね」に遭遇したことは今までもあった。

いつものようにWebで検索してみたら、どうも九州で使われていた方言が広まったらしい。
2011年あたりから使われ始めたとのこと。
本当かどうか定かではないが、福岡では「ですね」を使うことが多いらしく、「なるほど」にも「ですね」を付けたということだ。
ドラマから広がったというサイトもあった。

京阪神でも営業トークなどで時々耳にする。
ぼくはそれほど気にならないが、敬語としては認められていないようだ。
「おっしゃるとおりですね」などと言い換えを勧めているサイトもあった。

そもそも「なるほど」という言葉は、目上の人に向かって使うべきではない、という感じだ。
そうなのかもしれない。
でも、「なるほど、そうなんですね」ならOKのような気もする。
ぼく自身は若い人に「なるほど」と言われても、全く気にはしないが、中には気にする人もいるかもしれない。

この「なるほどですね」は生き残るか、死語になるか微妙なところにいると思う。
単なる一時の流行語になって死語になるのか、それともそのまま生き残るのか、どう決まるのだろうか。

話す人が多ければ、生き残る可能性は上がるだろうが、必ずしもそうとも言えない。
世代を超えて使う人が増えれば、生き残るだろうが…。

「めっちゃ」などは、関西では完全に生き残りそうな話し言葉になった。
それこそ、「めっちゃよく使われる言葉」だ。
こんな言葉は、昔はなかった。
会社にいた頃から使っていたと思うので、もう20年くらいにはなる。
今ではかなり年配の人でも使っている。

関東では「超」があるが、これも残るんだろうか。
「超ウケる」とか、「超むかつく」とか言われるらしい。
関西で聞くことはほとんどないと思う。

何が生き残り、何がなくなるのか、これは難しい。

なるほどですね〜。






| | 考えたこと | 22:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
死語リスト
時々、死語について書いてきたが、「死語」を含む記事が60を超えた。
明確にネットに「死語」と書いてあるものもあるし、ぼくが死語だと思っているだけのものもあるが、塵も積もればというやつだ。
いずれまとめてみようと思う。

最近、年配(ぼくから見て)の人とやり取りしていて、使われたのが「合点承知之助」。
NHKに「ためしてガッテン」という番組があるが、そのガッテンが「合点」。
主に時代劇で使われていた言葉だ。
「合点承知」、つまり「了解した」という意味。
それに人名で使われる「之助」がついて、「合点承知之助」。

ネットで調べると、江戸っ子言葉で「心得た、任せておけ」という意味と書いてあった。
しかし、現代の江戸っ子が「合点承知之助」を使っているとは思えない。
これも分かる人は40代以上ではないか。

「呼び出し電話」は何度か書いたが、小学校高学年くらいまでは残っていた。
高度成長が始まる頃に、今で言う固定電話が普及して「呼び出し」は減っていった。
あの当時、呼び出せていたということは、それなりに地域のコミュニティがあったということだ。
「向こう三軒両隣」という言葉もあった。
これは完全に死語だ。

最近ぼくが死語に追加したのが「定価」。
値引き合戦が激しくなって、定価というものがなくなった。
世の中がオープン価格化したのだ。
基準になる価格など、決めていても仕方がない。
まだメーカー希望小売価格、というのは残っているが…。
定価がないからこそ、以前書いたダイナミックプライシングができる。

言葉の移り変わりは加速している。
2000年に生まれた人が、もう20歳になろうとしている現代。
完全にネット世代だ。
今のネット民たちはいろんなスラングを使っている。
そんな言葉はぼくらの世代にはほとんど通じない。
こないだ書いた「あるくない」というような表現もある。

ネットは言葉の変化を加速する。

どんどん死語と新語が増えていくなあ。



| | 考えたこと | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
暗記すること
ネットを見ていたら、面白いことが書いてあった。
「暗記の必要性」に関するもの。
以前から、「今は検索すれば答えは出てくるのに、どうして覚えるのか」とか「これからは覚えることはコンピューターに任せて、人間は考えることをやらないと」とかいう話がある。
その延長上に「アクティブラーニング」という言葉があって、文科省はこれにご執心だ。
そのせいで、教育界では「アクティブラーニング」が大流行。

ぼくの邪推だが、これをやると先生は楽になる。
授業の大部分が「話し合い」になるからだ。
小学生や中学生に課題を示して、いきなり「話し合い」をしても何も出てこない。

Fランクの大学でも同じこと。
以前読んだ「Fランク化する大学」という本にも、こう書いてあった。

「学生から聞いた2つの例を紹介する。1つは「講義をしない講義」として有名なものらしい。50人程度の履修者の授業だが、まず教員がはじめに簡単に今日のテーマを話し、その解説を行う。次に50人の学生をいくつかのグループに分け、そのテーマについてディスカッションをさせる。次に各グループから出た意見を発表させる。教員が最後に意見を述べて、講義は終了となる。
 グループによるディスカッションがムダであるとは思わないし、学生に意見を発表させることも大切かもしれない。しかし、それは、ある程度の基本的な講義を行い、学生に基礎的な知識や情報を提供したうえでの話だろう。たとえば3回程度の講義を経たうえで、4回目にディスカッションをするということであれば理解もできる。
 大学で講義を行ったことのある経験者として言わせてもらえば、知識がないままで学生が議論をしても、ほとんど何も出てこない。学生がもとから持っている少ない知識や感覚だけで議論をし、抽象的な空論に終始することになってしまう。
 ちなみに、この講義を受けていた学生に感想を聞いてみたところ「役に立っているとは思わない。だけど、友だちと話してそれで終わりだから、ラクに単位が取れていい」そうである。」

どれだけの先生が「アクティブラーニング」の危険性に気がついているのだろうか。
あの東須磨小学校の体たらくを見ていると、教員は「楽でいい」くらいに思っているような気がする。
本当に実力のある教員にしか「アクティブラーニング」はできない。
ハーバードの「サンデル先生の白熱教室」のやり取りを見ているとよくわかる。
教員の問題意識の量が圧倒的でないとあんな講義はできない。

大学生から「ネット検索で済むのに、なぜ暗記するのか?」と聞かれた教授はこう答えたらしい。

「お前は教習所の教科書を見ながら車を運転するつもりか。歩く速度ならそれで問題ないが、変化が速い時代に知識がないなど論外だ」

素晴らしい回答だ。

検索して初めて分かるのと、最初からそれを理解して覚えているのでは天と地ほど違う。
だいたい、検索をするにしても、効率的な検索ワードを入れるためには周辺の知識が必要だし、「検索したらわかる」という言い方自体が無茶なのだ。

実際、認知心理学の研究者がいろんな国で「話し合い」の効果を確認したところ「みんなで話し合うと無能な者に引きずれられる」とい効果が確認されたとのこと。

だから、「すべての授業でアクティブ・ラーニングを取り入れて、議論をさせています」というような学校には行かないほうがいい。





| | 考えたこと | 21:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
コーヒーはブラック?
こないだUさんが用事で家に来て、コーヒーを出した。
そのときに、ブラックですか?と聞いて、「ミルク」というので、牛乳を出した。
ぼくもミルクだったし、ちょうどよかった。

その数日あとにUさんと喫茶店に行って、コーヒーを注文したら、ミルクと砂糖を入れていた。

「砂糖も入れるんですか?」

と聞くと、そうだという。

こないだはミルクだけだったが…と言うと、笑いながら「見栄」と言った。
砂糖を出さなかったことを反省した。
好みは難しい。

ぼくは若い頃、コーヒーを飲む習慣がなかったが、ここ数年飲み始めた。
若い頃はは砂糖とミルクを入れていたが、今はミルクだけになった。
別に砂糖を入れてもいいのだが、コーヒーをミルクで薄めて飲んでいるという感じ。

コーヒーを飲む時に、「ブラックで」というと「かっこいい」というイメージはある。
あれは何なんだろう。
何となく大人っぽいイメージがあるんだろう。
コーヒーの文化に染み付いたものだろうか。
アメリカでもそうなんだろうか。

紅茶についてはそんなことはない。
イギリス人が飲むところを見たが、なんのてらいもなく砂糖を要求する。
「ぼくはたくさん入れる」というヤツもいた。

紅茶はストレートで飲むほうが、どちらかというと珍しいし、「ストレートで」と言っても、大人っぽくはない。
単なる好みの問題だ。
砂糖とミルクをとか、砂糖とレモンをとか言っても、何ともない。

小さい頃、コーヒーはカフェイン含有量が多く、子どもの飲み物ではない、と言われた。
今でもそう言うのかどうかは知らない。
まあ、紅茶に比べて、オトナの飲み物という感じはある。
子どもがおいしいとは思わないだろう。

結局世界ではどうなんだろうと思ってネットを調べたら、ブラックで飲む国はあまりないらしい。
アメリカでも人気があるのはカフェラテなどとあった。
「ブラック=オトナ」というのは、日本人が作ったものらしい。

でも、アメリカのドラマを見ていると、ポットからコーヒーを注いでそのまま飲むシーンが多いような気がする。
だからといって、ブラックがオトナという感じではないのだろう。
薄いコーヒーをがぶ飲みするという感じだ。

ブラックはオトナというのは、日本人が作ったイメージだった。


| | 考えたこと | 00:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
暗号解読
こないだ、グーグルが量子コンピューターの開発で成果を上げたというニュースが出ていた。
一般的には、技術が進歩するのはいいことだ。
従来のコンピューターが1万年かかる計算を、数分でできたら、人類はだいぶ賢くなるだろう。
今はできない、交通渋滞の回避などの計算ができるようになるらしい。

しかし、手放しで喜んでいられるわけではない。
今は、コンピューターがいくら頑張っても計算出来ないことを利用して、通信の「暗号化」ができている。
それが量子コンピューターができると、すぐに解けてしまう。
それこそ、1万年かかる計算が、数分で終わるということだ。

今のクレジットカードの決済ができるのも、インターネットで通信の秘密が守られるのも、その暗号化のおかげだ。
この暗号を支えているのは「数字」。
暗号化を選択する時に、64ビットとか、128ビットとかを選ぶことができるが、この64ビットの暗号鍵は2の64乗=18,446,744,073,709,551,616(1844京6744兆737億955万1616)種類にもなる。
暗号を解読する側は、それだけの場合の数が増えると解読が大変になるということだ。

だからこそ、グーグルは量子コンピューターの開発状況をオープンにするのだろう。
良心的だと言える。
まだまだ、実用的な暗号が解けるような状況ではないが、それが危なくなる、ということを事前に知らせているのだ。

一方中国も2016年に量子通信衛星を軌道にのせている。
これは、解読されない量子暗号を開発するという目的がミッションだろう。
今の暗号化技術は欧米が開発したものであり、これを一歩先んじたいということだ。
投じているお金もすごいらしい。
欧米を合わせても、勝てないくらいの予算が使われているという記事もある。

一番怖いのは、開発できてもそれを秘密にすることだろう。
そうすれば、ネットに飛び交う通信を解読することができる。
第二次大戦中、イギリスがドイツの暗号を解読したとき、それを秘密にするために、その日の味方の艦隊を見殺しにしたようなものだ。

しかし、ネットの暗号が使えなくなると、今や日常生活が危うくなる。
それほど、革命的な発明になる。

国家レベルでは、大国は今の技術に変わる暗号化の方法を開発しようとしているらしい。
数字を使わず、これまた量子をつかう暗号。
盗聴されたら量子の状態が変わるので、安全になるという。

いずれにせよ、今後20年から30年位は今の暗号技術が破られないだろうとのこと。
それでも、技術の進歩はどうなるかわからない。

量子コンピューターと量子暗号、どちらが早いのか…。





| | 考えたこと | 19:25 | comments(0) | trackbacks(0) |
大学の非常勤講師2
前にも書いたが、ぼくのいた学校の古い職員の人が「非常勤講師は大学の恥部」と言っていた。
たしかに、待遇はかなりひどい。
そして、それに多くの大学が頼っているのが実態だ。
文系の私学なら、半分以上が非常勤の授業になるらしい。

今回調べてわかったのだが、専門学校の講師料は、経験に応じて変わるという。
専門的なキャリアを積んだ人なら、大学の非常勤講師の4コマ分の給料が1コマで稼げる。
エライ違いである。

まあ普通の仕事なら、キャリアを積めば給料が上がるのは当然だろう。
それだけの経験知がつくし、スキルも上がるはず。
それがどんな内容であろうと、「1コマいくら」の世界なのだ。
よくえらい先生が「もっと国は大学に補助金を」と言っているが、それは第一に非常勤の給料を上げるために使うべきだろう。

大学の非常勤講師の相場は90分授業で月給25000円という。
ちょっと上がったり、下がったりするが、それは学校の事情であって、その学校では一律だ。
ぼくが去年やった時も、そんなものだった。

一方、専任教員は教授になると年収1000万クラス。
勤めていた大学で、総務の担当が「バカバカしくなるから知らないほうがいい」と言っていたのもわかる。
専任なら4コマ程度は持たされるから、非常勤講師の月給でいうと10万。つまり年収120万というところ。
もちろん、専任は各種保険も込みだから、実質の差はもっと大きい。

よくこんな給料でやっていけるなあと思ったら、非常に苦しいらしい。
2009年のデーターだが、非常勤の組合に入っている人の平均掛け持ち学校数は3.1校。
平均年齢は45.3歳で、年収306万。
そのうち44%が250万円未満で、100万台もかなりいるとのこと。
男性だとまず結婚できないし、ローンを組むのも断られるという。

ぼくは非常勤の仕事をするのに、給料や条件のことを聞いたが、普通はそういう勤務条件の質問もできないという。
これは昔の名残で、非常勤講師は下働きの「やらせて頂く」徒弟制度の仕事らしい。
しかし、ぼくが学校法人で勤め始めた2004年当時でも、非常勤から講師になるということはなかった。

中には専任の教員でも非常勤の仕事をしている人がいたが、あれは他学の教員と仲良くなって、共同研究や働き口を回してもらおう、ということだったのか…。

まあ、専任の教員は大学の雑務(当然の仕事なのだが、多くの教員は雑務と思っている)や教授会への出席もあったりするから、授業だけではないが、この差は大きいのではないかと思う。
専任教員の仕事をざっと推定すると、授業:研究活動:大学の雑務:学部の義務=4:4:1:1というところか。
教育と研究が教員の仕事の中心だから、こんなものかと思う。

授業だけでも年収1000万とすると、年に400万円。
月に4コマで年収400万だとすると、月収30万ちょっとになる勘定。
まあ、それくらいもらえば、非常勤でも食える。
なかには、学生アンケートで「ベストティーチャー」に選ばれるたりする人もいるのだから。

本来なら、それくらい払うべきなんだろう。
働き方改革で「同一労働同一賃金」というなら、今の給料は変えないといけない。
大学の「専門家」が大学の働き方改革についてあまりコメントしないのも、そのせいかもしれない。

しかし、そうなると、多くの大学で科目が減って、非常勤の仕事は減るだろうなあ。
授業料を上げる大学も出てくるだろう。

まあ、それで大学が淘汰されるのなら、いいことだと思う。
ただ、いつまで経っても、アカデミックルートに乗りたい人がたくさんいるから、なかなかそうはならないのだが…。


| | 考えたこと | 22:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハモンドB3 再び
今日はハモンドオルガンを聞きに行った。
ギターの先生も出る。

正確にはハモンドB3という。
当然、もう生産中止になっていて、壊れたら部品を注文するのに海外を頼らないといけないこともあるという。
前にも書いたが、モーターでトーンホイールという円盤を回して音を出す。
スピーカーも回転させて、音の位相差を出す。
中にはたくさんの真空管が入っている、というアナログな電気楽器。

これが本当にいい音がする。
今日もリクエストでやった「ジョージア・オン・マイ・マインド」。
オルガンの音が映える。
ソロは圧巻。
あの下の方からせり上げる音がなんともいえず心地いい。

こういう音楽を聞くと、人生も捨てたものではないと思う。

表現の自由が取り沙汰されている。
ニュースを見ていたら、京都造形芸術大学の教授が「誰も傷つけない表現にはほとんど意味がない」と言ったと書いてあった。
なんか、背筋が寒くなるような考え方だ。

今日のハモンドB3は人間が人工的に作った、アナログ電気楽器の芸術品だ。
あれが奏でる音楽は、それこそ誰もを感動させる音楽だ。

きっと教授は音楽を聞いたことがないのだろう。

そんな人に「表現」を語ってほしくないと思う。

ハモンド最高!



| | 考えたこと | 22:53 | comments(3) | trackbacks(0) |