考えたこと2

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尊厳死
脚本家の橋田寿賀子はもう92歳。
彼女が8月に「安楽死で死なせてください」という本を出して、話題になったらしい。
夏にそんなことがあったとは、知らなかった。

イギリスあたりでは、国会でも議論されているという尊厳死だが、日本でもようやく議論できるような感じになったのかと思う。
日本は高齢化社会がどんどん進んでいくんだから、そういう議論は必要だ。

アマゾンの本の紹介ページでは、こう書かれている。

「著者が「終活」を始めたのは89歳の時でした。きっかけは著者のことをママと呼んで親しくしている女優の泉ピン子さんから「ママはもう90なんだから、じゅうぶん歳を取ってるんだよ」と言われたことでした。夫に先立たれ、子供もなく、親しい友人もいない天涯孤独。仕事もやり尽くし、世界中の行きたい所へも行きました。やり残したことも、会いたい人もいない、もう十分に生きたと思いました。遺言は80歳の時に作っておいたので、まずは物の整理から始め、今までのドラマの原稿、ビデオテープ、手紙類などを大量に処分しました。あとは人に知られずにひっそりといなくなり、死んだことも公表せず、葬式や偲ぶ会もしないと決めたのです。
ただ、唯一気がかりなことは、病気になったり、認知症になったりして、人さまに迷惑をかけることです。それは著者の尊厳の問題でした。死ぬ時に痛いのや苦しいのも勘弁してほしい。いつどうやって死ぬのかはやはり自分で決めたいと思った時に考えたのが「安楽死」です。しかし、現在の日本の医療現場で安楽死は許されていません。ヨーロッパの国やアメリカの州のいくつかで合法化されていますが、日本人が安楽死を希望する場合はスイスのNPOを頼ることになります。そのため著者は、日本でも法を整備し、自らの死に方を選択する自由を与えてほしいと主張します。もちろん、あくまで本人が希望し、周りの人の理解が得られた場合です。
著者が2016年12月号の「文藝春秋」に寄稿した「私は安楽死で逝きたい」は大きな反響を呼び、第78回文藝春秋読者賞を受賞しました。読者の方からは「私も賛成です」「法制化の旗振り役になってください」など多くの賛同の声が寄せられました。本書には、病気で苦しむ妻に悩む男性や、進行性の難病を抱える男性と著者との手紙の対話も収録しています。」

これを巡って、尊厳死や安楽死を法制化すべきか、というところが話題になっている。
死ぬ権利を法制化までするかということだ。
そう言う人たちも、個人として納得した死を迎えることは認めている。
でも、それを法制化することには問題があると考えている。

たしかに、死という個人的なものに関して、政治や行政が介入していいのか、という思いはある。
法律でどう規定するかにもよるが、場合によってはより個人の選択を狭めかねない。
でも、意識もなく生かされるというのも個人的には嫌だと思う。

今の日本では毎日3000人以上が死んでいる。
3000人には3000通りの死に方があるんだろう。
死に対する思いはそれぞれだ。

自分が努力して手に入れたわけではない命は、自分の所有物ではないから、「死ぬ権利」というものはない、という生物学者もいる。
まあそれも一理あるが、何となく割り切れない。

2014年の厚労省の調査では、死ぬ時の医療に関して、法制化をしないほうがいいという回答が、国民は53.2%だったが、医師は71.3%だったという。
普段から死に立ち会っている職業だから、そういう意見になるのだろうか。

家族の意志が尊重されるケースもあると聞く。
テレビに出ていた医師は、家族から「とにかく生かしておいてくれ」と懇願されると言っていた。

一方で、2025年には団塊の世代が後期高齢者になり、わずか3.3人の現役で支えないといけなくなる。
ぼくらの若い頃は10人以上で一人を支えていたのに、そのままの制度を保っているから、若い人の社会保障の負担は消費税などよりよほど大きい。
その上、医療費や社会保障費の負担も増大する。

だから、孤独死が増えていく、という議論もある。
介護をしたり、看取ったりする若い人も減るからだ。
そういう時代があと10年もしないうちに来る。

今の社会でこういうことが議論しにくいのは、「命は尊い」という意見がすべてに優先するからだと思う。
みんな命は尊いと思っているのだが、死について話をすると、そう思っていないかのように思う人がいる。
「君は命が大切だと思っていないのか」と言われてしまうと、反論するのに疲れるのだ。

どうにかしてそういう風潮を乗り越えて、議論を進めないといけない。
長生き至上主義から脱することだ。

亡くなった哲学者の池田晶子は著書の中でこう書いている。

 「ただ生きることではなく、善く生きることだ。」ソクラテスが喝破したのは、二千五百年前のことである。民主政治の堕落した当時のアテナイにおいて、快楽や金銭を人生の価値と思いなし、それらのために生きている大衆に対し、説くには、もしもそれらが価値であるなら、君が生きていることに価値はないはずではないか。なぜなら、それらがなければ君には生きている価値はないのだから。そして、もしも君が、生きていることはそれ自体価値であると思うなら、それらのことは価値ではないのでなければおかしいではないか。なぜなら、君が生きていることそれ自体が善いことなのだから。
 留意してほしい。彼は、すべての人はただ生きているだけで善いことだと言っているのでは断じてない。善く生きている人にとってだけ、生きていることは善いことだと言っているのである。言うのもおかしなくらい、これは当たり前なことではないか。どうして、善く生きていない人にとって生きていることが善いことである道理があるだろうか!



| | 考えたこと | 23:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
市川市長選挙
市川市といえば、千葉県。
以前、伯父さんが住んでいた。
そこで市長選挙があり、5人が立候補したが、だれも法定得票数に達せず、再選挙になった。
法定得票数というのは、その選挙に投票した有効投票数の1/4のこと。
当選した、といえるためには1/4は取ってほしいということだ。

5人の得票は以下のようになっている。

28,109 村越祐民 無新=民共由社
27,725 坂下茂樹 無新=自
26,128 田中甲 無新
20,338 高橋亮平 無新
16,778 小泉文人 無新

投票率は30%。投票者数は119078人。
29,770票取っていたらOKだったらしい。

結局、5人とも泡沫候補だったということか。
上位2人は無所属とはいえ、政党の推薦も得てこの結果だから、政党も信頼をなくしたということだ。
民進党が潰れて希望の党や立憲民主党に集まった国会議員の有様を見たら、誰でも政党など信じられなくなる。
自民党もそれに比べたらマシだったという程度だろう。

どんどん無党派層、というより無関心な人が増えている。
投票所に行って、その時に名前を選んで投票したというような感じだ。
そう考えると、この結果もわかる。

そんなわけで、結果的に選挙が無駄になった。
50日以内にもう一度選挙をする。
いくらかかるんだろうか。

投票率もようやく30%だし、政治の貧困という感じ。
誰がなっても同じだと思うから、投票する気にもならないし、票がバラける。
争点もなかったんだろう。

今の市政に対して、ちゃんとした批判もなかったんだと思う。

だんだんと貧しくなっていく日本。
これではなあ…。


| | 考えたこと | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
エネルギーを貯める
熱エネルギーというのは、どちらかというと余分なものの場合が多い。
何かのついでに無駄になってしまう、というのは熱エネルギーの形をとるということだ。

何かを止めようとするときに、必要なのは摩擦のエネルギーだが、それとともに熱のエネルギーも出てしまう。
熱は効率よく放出するべきエネルギーという感じだ。
エンジンだって、エネルギー効率が悪いのは、無駄な熱を発生するからだ。
だから、モーターに負けてしまう。

家庭や工場で使われるエネルギーの3分の2が、無断な廃熱になっている、というページもあった。
一般的に150度以下の熱をエネルギーに変えるのは難しいと言われているらしい。
でも、この熱エネルギーを上手に貯めておければ、エネルギーが効率的に使えるのだ。

だから、いろんな会社が廃熱の利用でエネルギーを生み出そうと考えている。

しかし、今回グーグルは電気エネルギーを熱エネルギーに変えて貯めておこうとしているらしい。
自然由来の発電(風力や太陽光)の弱点は、発電量がばらつくこと。
風が吹かなかったり、曇ったりしたら電気は作れない。
それを補おうとすると、大規模な蓄電が必要になる。
そのために、タンクに入れた液体に、熱エネルギーの形で蓄えるということらしい。

ちょっと想像がつかない。
熱エネルギーの形で蓄えるということだから、熱くなるんだろうか。
いずれにせよ「壮大な構想」ということらしい。

グーグルはサービスをするために、世界中で電気を使っているから、電気が必要なんだろう。
Gメールや検索エンジン、カレンダー、ドキュメントなど、それらのサーバーを世界で何億人もの人が利用している。
それらを止めずに運用し続けることだけでも、スゴイことだ。

どういうオペレーションをしているのか、想像がつかない。
たまにはトラブルが出たりするんだろうが、ちゃんとバックアップされるようになっているんだろう。

ひょっとしたら、グーグルが再生可能エネルギーをちゃんと使えるように、蓄電の仕組みも作ってしまうかもしれない。

グーグルは金はあるから、失敗するプロジェクトも多いらしいが、これは成功してほしい。

| | 考えたこと | 20:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
デスクトップPC
6年使ったデスクトップパソコンのハードディスクが壊れた。
CD-ROMからの起動や、取ってあったイメージファイルで書き換えたり、手をつくしたのだが…。
結局、一度も生き返ることはなかった。
日本ヒューレット・パッカードのパソコンだった。

パソコンのハードディスクというのは、本当に突然壊れる。
ヤバイ気配があれば、手を打てるのだが…。
バックアップは1年ちょっと前のものが最新。
気がついていれば、もっと頻繁にバックアップを取ったのだが、まさに後の祭り。

こういうことがあるから、バックアップはマジメにとっておくことが必要だ。
わかっちゃいるけど、面倒くさい。
機嫌よく動いているから大丈夫だと思う。
そういう時に、壊れるのだ。

パソコンと人間は似ている。
生まれたものは必ず死ぬということを覚えておかないといけないのだが、そういうことを忘れて生きている。
忘れているから、生きていけるのかもしれない。

人間の場合は、バックアップはとれない。
いつでもやり直せると思っているうちに、年をとる。

気がついたときには手遅れ、ということにはならないようにしたい。

パソコンなら買い替えがきくのだが…。



| | 考えたこと | 21:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
佐渡練 続き
昨日の佐渡練は、早く行ったから前の方に座った。
途中で佐渡裕が「初めて第九に参加する人は手を挙げて」という指示で手を挙げたが、前の方ではあまり上がらない。
どうも前の方は何度も出た人が集まっていたらしい。

そういえば、いつもと違って、みんな自信を持って声を出している。
こわごわ声を置きにいくのとはだいぶ違う。
どうりで歌いやすいと思った。
回りで大きな声で正しく歌ってくれるから、うろ覚えのところでも歌いやすい。
本当はこれではダメなんだけど、回りに引っ張られて、うまく歌えた。

最終的に難しいのはやっぱり歌詞だ。
ドイツ語の発音や歌詞がネックになる。
メロディーはまだましだ。

最後の方がやっぱり怪しい。
同じような歌詞が出てくるから、楽は楽なのだが、同じような歌詞というのが落とし穴だ。
なかなかちゃんと覚えられない。

佐渡裕の指導は歌う人のやる気を出させる。
心意気の部分に働きかけるような感じ。

自分たちが歌っている時は、それははっきりわからないが、一度ソプラノだけ歌い直しをさせた。
最初に歌った時は、ホントに声も出ていないし、ぼんやりした感じだったが、佐渡裕がひとこと言ってやり直しただけで、全く違った。(残念ながら何を言ったかは覚えていない)
同じ人たちが歌っているとは思えないくらい、大きく変わった。

こういうマジックがあるから、佐渡裕はスゴイ。

練習の締めくくりとして、値打ちがあった。


| | 考えたこと | 23:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
1万人の第九 佐渡練
今日は佐渡裕の練習だった。略して佐渡練という。
森ノ宮のクラス全部と、大津、西宮Aが西宮芸術会館のホールに集まって、なんと1300人。
座席表を見ると、アルトが一番多く、ソプラノ、バス、そしてテナーが一番少ない。
西宮Aと同じだ。
結局申込み者と声の出しやすさからいくと、そういう編成になるのだろう。

1300人がホールの客席に座る。
ぼくは30分前に行ったので、まだまだ前が空いていた。
前に座ってください、という指示にしたがって、前から7番目の席に座った。
前の方は初めての人は少なく、何度も出た人が座っていた。
いつものへっぽこテナーとは雰囲気が違う。

佐渡裕はちょっと遅れてスタート。
小玉先生は講師陣4人の一人として前に座っていた。
幕間つなぎにどこかの先生が発声練習をやった。
いつもの小玉先生ではなく、ちょっと調子が狂う。
教室ごとに、講師のカラーがあるんだろう。

佐渡裕が出てきて、客席は盛り上がる。
初めて見たが、なかなか上背があって、貫禄がある。

いつもの練習と違って、第九の歌詞の意味をずっと話す。
ここはこういう意味だから、こう歌わないといけない、というような指導。
さすがに有名な指揮者だけあって、指導がうまい。
短い時間だから、技術ではなく、ハートの方でうまく持っていく。

こだわったのは、ブリューダーという言葉。
英語で言うとブラザーだ。
佐渡裕は仲間と言っていた。
歓喜を分かち合う仲間という感じだ。

ベートーベンの曲についても言っていた。
歌詞の情景を話し、だからオーケストラはこういう音を奏でるという説明。
だから、歌はこう歌わないといけない、という。
なかなか説得力のある説明。

神の楽園の門番がなかなか扉を開けてくれない。
それをがようやく開いたときの喜びがクライマックス…らしい。
そういう内容の歌詞。

1万人の第九には1万通りのストーリーがある。
誰かについて歌ってはいけない。
自分で声をだす、ということが大事。
男声合唱は、最前列の真ん中に佐渡裕が入ってみんなで肩を組んで歌った。

さすがに、名指揮者。
話がうまい。
これが佐渡練。

いよいよ来週が本番だ。


| | 考えたこと | 00:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
最高の人生のはじめ方
モーガン・フリーマンの主演。2012年の作品。
ケーブルテレビでやっていた。

今はもう書いていない年老いた西部劇作家が、田舎に静養に来た夏の話。
彼は車椅子で左手も動かない。
酒が好きで、酒浸りの毎日。
甥が夏の間借りたから、ここに住めと言って連れてくる。
同居人は夏の間は主人がいない犬だけ。

アメリカのヒューマン・ドラマのパターンだ。
フリーマンがいい味を出している。

隣の三姉妹の真ん中の少女と仲良くなり、想像力について教える。
彼女に教えている間に、自分もだんだんと前向きになる。
9歳の女の子は、時々驚くほど真実を語ることがあるのだ。
子どもの力はスゴイ。

西部劇を70年代に書いてから、もう書いていない。
書く気もないのだ。

でも、子供と話していると、だんだんと書く気になってくる。
ロマンスもある。

そんな風にして、人生をもう一度取り戻すという感じのドラマ。

あり難いことではあるが、そういう場面も人生にはほしい。

見た後、ほっこりする映画だ。




| | 映画・舞台 | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
クーデター
ジンバブエというアフリカの国でクーデターが起こった。
国の場所はニュースで知った。
マダガスカル島の対岸の内陸部にある。

クーデターという言葉を久しぶりに聞いた。
若い人たちはこの言葉を知っているだろうか。
武力を用いて現政権を転覆させること、というような意味だ。

調べてみると、この言葉はフランス語らしい。
”coup d'État”と書く。

ジンバブエでは、ムガル大統領が政権を持っていた。
彼は93歳。独立以来、37年間政権の座についていたとのこと。
さすがに37年も同じ人が大統領をやれば、いろんな腐敗が起こるだろう。
実質上、ムガベ大統領による独裁体制だったとのこと。
それは容易に想像できる。

52歳の妻を後継者にしようとしていたらしい。
海外ブランドを買い漁る浪費家との噂だ。
どこかで聞いたことがあるような話。

BSの海外ニュースを見ていると、ジンバブエの人たちが喜んでいる姿が報道されていた。
ジンバブエは識字率も高く、能力がある若い人がいるのに、国内で仕事がなかったが、これからは新しい時代が来るなどと言っていた。
爆発的な喜び、という感じだった。

60年代、70年代にはこの「クーデター」という言葉をよく聞いたような気がする。
まだまだ世界で独立する国が増えていた。
冷戦のさなかでもあった。

でも、最近はあまり聞かない。
ちょっと前に、タイであったのが記憶にあるが…。

世界は豊かになっていっている。
これから人口が増えてくるのがアフリカという予想だ。
一方で、増えすぎて食料や水が足りなくなるとか、温暖化で陸地が減少するとか、いろんな懸念もある。

地球規模で起こっている問題は、ゆっくり進行しているから、わかりにくい。
平和な世界、などというが、地域紛争はいつまで経ってもなくならない。
文明は戦争で進む、という論すらある。
まあ、それは実質的には正しい気もするのだが…。

それでも、ベルリンの壁が崩れ、冷戦が終わり、世界は自由な資本主義の方向に行くのだろうと思った、あの時は高揚感を感じたものだったが…。

ジンバブエがどうなっていくのか、わからないが、あの若い人たちの喜ぶ姿を見ると、希望は大事だと思う。



| | 考えたこと | 23:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
感心すること
人の相談に乗るという仕事をしていると、教えられることも多い。
それが学生であっても同じこと。
時々、感心することがある。

親の姿が見える場合もある。
きっと親からこういうことを言われているんだろうなあというやつだ。
これは意外に感心することがある。
親の立場になったから、わかるのだろう。

態度一つ一つで見えることもある。
さりげなくメモをしているとか、上手に目を見て話すとか、大事なところに線を引いているとか、付箋をつけているとか…。
そんな当たり前のことが、さりげなくできることだけでも感心することがある。

いずれの場合も、本人はごく普通にやっていることだ。
そういうことが、見ていて「なるほどなあ」、と思わせる。
逆に、何かを作為的にやって、感心するということはほとんどない。

これからの社会は、ぼくらの若いころよりも豊かだが、いろんな意味で大変だと思う。
そういう世の中を渡っていくのだ。

ぼくは、若い頃は社会の事など考えていなかった。
目の前の仕事をやって時間が過ぎていった。
高度成長の波に乗って、忙しい忙しいと言いながら、時間が過ぎていった。

これからの日本はだんだんと大変になる。
自分に出来る限りのことはしようとは思う。
でも、きっと年配者は何をやってきたのか、と思うときも来るだろう。
まあ、それは仕方なかったのだ、と許してほしい。

君たちもきっと後から来る若い人からはそう思われるに違いないのだから。


| | 考えたこと | 22:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
新しい仕事
年をとって、新しい仕事を始めるのは大変だ。
一から環境に適応しないといけないし、新しい人と知り合いにならなければいけない。
そのあたりのことがあるから、年をとって新しい仕事を始めることが難しくなっているのだろう。

会社勤めをしていて、再雇用など形態はどうあれ、同じところで勤めてしまうと、いまさら別のところで働こうとはなかなか思えない。
「ここで勤めあげた」という感じだろう。
しかし、65歳というのは、平均寿命が80歳を超えているのだから、あと15年も残っている。

15年というと、かなり長い。
経済的には年金で生きられるとしても、やっぱり長い。(年金も、どうなるかわからないが…)
できれば、何か社会的な活動をして、世の中のために役立っているという感じがほしいと思う。

昭和生まれの価値観では、何もせずに(結果的には何かをするだろうが)生きているというのは不本意だろうと思う。
何となく「戦力外通告」を受けた感じなのだ。
きっと、そういう人たちは「まだやれる」という感じは持っていると思う。
実際、元気だし、まだまだ動けると思う。
中には中国や東南アジアで、培った経験を使う人もいるにはいるのだが、少ない。

また、サラリーマン上りは地域でのつながりがない人も多い。
仕事一本で生きてきたら、なかなかそういう機会がない。
そこで急に暇になっても、地域のコミュニティに入っていきにくいと思う。

どうすればいいのだろうか。
まずは、定年後再雇用の年齢を引き上げることだろう。
年金制度の面からも、働ける人や、企業側が働いてほしいと思う人は、できれば70歳までは働くことが望ましい。

そうでない人はどうしたらいいのか。
一つは、地域のボランティアだろうなあ。
地域のボランティア仕事と、退職後のサラリーマンをマッチングする仕組みを作らないといけない。
退職者は、まだまだパソコンやスマホを駆使できない人も多い。
それをどうやって構築するかが課題だろう。

介護など、親がいて実際にやっている人も多いと思うが、そういうボランティアなら取っつきやすいだろう。
また、企業経験が活かせたりできると、うれしいだろう。
やっぱり、長い人生をかけてやってきたことは、続けたいものだ。
人材バンクは作れないものか。
今ないところをみると、きっとうまくいかないのだろうなあ。
年配の人は敬遠されるから…。

ペットを飼うのはいいと思う。
自分が世話をするというところがいい。
ペットの方も慕ってくれる。
お金がかかるのが難点だが…。

結局、人生80年という時代を迎えて、なかなか社会の受け皿が整備されていないというのが問題だろう。
自営業の人には、あまり関係ない悩み。

高度成長時代を経て、低成長・人口減少の時代にさしかかって、どう生きていくのか。
たぶん、多くのサラリーマン退職者が悩んでいるのではないかと思う。

| | 考えたこと | 20:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
勤労感謝の日
今週の木曜日は勤労感謝の日だ。
この日の由来は、Wikipediaにこう書かれている。

「農業国家である日本は、古くから神々に五穀の収穫を祝う風習があった。また、その年の収穫物は国家としてもそれからの一年を養う大切な蓄えとなることから、収穫物に感謝する大事な行事として飛鳥時代の皇極天皇の時代に始まった新嘗祭(にいなめさい、しんじょうさい)の日が第二次世界大戦後のGHQの占領政策によって天皇行事・国事行為から切り離される形で改められたものが「勤労感謝の日」である。」

60年間知らなかったが、「勤労感謝の日」は「秋の収穫祭」だったのか。
天皇が収穫を祝って、神に感謝をする日ということで、飛鳥時代からやっているらしい。
今から1500年ほど前だ。
今でも宮中では天皇が五穀(稲、麦、栗、大豆、小豆)をお供えしているとのこと。
要するに、日本のハロウィンの事だ。

日本にはそういう歴史があった。
戦後、GHQが民主化をして、天皇と結びついたものの名前を変える一環で「勤労感謝の日」になった。
無謀な戦争をやって、周りの国に迷惑をかけ、たくさんの死者を出した。
だから、それにつながる歴史は断ち切られたのだろう。

ちょっとさびしい気もするが、本来なら「勤労に感謝して、その結果である収穫物を祝う」というような日だった。
昔は勤労というのは、農作業のことだったのだ。
毎年ハロウィンの仮装は派手になっていくが、日本人なら11月23日にそれをするべきなのかもしれない。

しかし、勤労感謝の日というと、大学祭だった。
たった4年間のことだが、思い出深い。

ぼくらの時に、教室を大きな教室から普通サイズに変えて、名前も変えたはず。
寄席だから、「亭」のつく名前を考えて、みんなで「なんやら亭」の「なんやら」を何にしようかと考え、結局は「なんやら亭」に落ち着いたというお粗末。
一日中寄席をやっていた。
学園祭はウケるので、出るのが楽しかった。

ここにも書いたことがあるが、歌謡ショーをやったり、漫才をやったりした。
夜は下宿の仲間がやっている怪しげな模擬店(スナック)で遊んだ。

何にも考えてなかった。
1500年も続く由緒正しい日だったとはなあ…。


| | 考えたこと | 21:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
AIと雇用2
昨日は人材育成のことを書いたが、その続き。
人材育成以外の課題も書いてあった。

まずは、人間でなければできない仕事を担う人材への積極的な投資とのこと。
これまでの分析結果では、機械による代替えは中スキル業務で進行し、代替えされるレベルが上がっているらしい。
中スキル、というとやっぱり事務一般というところだろう。
転記業務や集計業務、一部の調査や分析、報告書の作成などがそれらにあたるところ。
結局は身体をあまり使わない仕事で、人間との折衝がなく、数字や文字を扱うものであり、簡単な判断が必要なもの、という感じだ。
膨大な資料から、相手の欲している内容を見つける仕事はAI化されても、その情報を顧客に伝えるところは主に人間が受け持つということだ。
身体を使ったり、人と接したりする仕事は置き換えがまだまだ難しいということだろう。

となると、高スキルと低スキルの仕事を担う人材への投資ということになる。
それこそ、昨日書いたデーターサイエンティストなどの育成は急務だろう。
それ以外にも、人と接する技術を上げるとか、身体を使う仕事を高齢者でもできるようにする(ロボットスーツなど)とか、いろいろありそうだ。
しかし、人と接する技術を上げる、というのは書いたら簡単だが、やるのは難しいだろうなあ。
何をどう上げるのか、というところが難しい。
でも、そういうことの理解も含めて投資する、ということだ。

次に書かれていたのは、古い技術の下で働いていた労働者の再教育・再訓練、企業を超えた円滑な労働移動を可能とする環境の整備だ。
この問題は大きい。
既存の企業は年功序列、終身雇用からなかなか抜けられない。
それが古い労働者の再教育・再訓練を妨げている面がある。
また、その人たちが正社員であると、労働生産性の割に給料が高い、という問題もある。
しかし、それらをセットにして、年金制度などが設計されているから、なかなか身動きが取れないのだろう。
守られて当たり前という環境から、仕事はなくなっても、すぐに次に移れる、という仕組みを作る必要がある。
そうでないと、100歳まで生きるというのに、終身雇用といっても定年までしか働けない。
若い人たちで高いスキルを持った人が、給料の安さから外資系の企業に就職したり、海外に流出したりするのも根っこは同じ問題だろう。
雇用の流動化は今こそ必要だと思う。

最後にあるのは、税による再配分の検討。

「イノベーションは経済格差を生じさせるもっとも大きな要因だが、それを止めると経済が発展しない。
イノベーションを推進し、そこから生じる格差を縮小するには、再配分の検討が必要。」

そういうことだ。
これは税のシステムを考え直すということだ。
今の財政を考えると、こちらも早く手をつけた方がいい。
AIが働いた分の税金を再配分するという案もある。

とにかく、今の硬直した体制を、若い人たちにとって少しでも魅力的な未来にしていかないといけないと思う。

それがぼくらも含めた世代の役目だろう。

| | 考えたこと | 23:29 | comments(0) | trackbacks(0) |
AIと雇用
日経でここ数日「AIの雇用への影響を考える」という特集をやっていた。
そのまとめを読むと、日本のAI活用への方針やこれからの問題点が出ている。

調査結果では、今のところルーチンワークの事務職を削減する方向で、技術を導入しつつあるらしい。
2000年代のパソコン化で一番減ったのは、転記業務や単なる計算業務だったから、その延長上だろう。
これまでは単なる作業の置き換えだったが、そこにある程度の判断業務が入っても、AIが自動でやってくれる、ということだ。
さらに、センサーが発達して、AIにいろんなものが見え、判断できるようになったことで、目視検査みたいな仕事も自動化できるようになってくるだろう。
顔や表情を識別できるようになったことで、サービス業の接客なども視野に入ってきたのではないか。

しかし、課題もたくさん上がっている。人材の養成だ。

「アメリカにはデーターサイエンティストを養成する修士課程がある大学が70を超え、インターンシップに力を入れたり、社会人向けのオンライン授業を充実させたり、大学ごとに特色がある。
グーグルなどの先進企業で長期間、実践的なインターンシップを経験できる大学もある。
日本の大学が今から養成コースを作っても、到底追いつけそうにない。」

ということらしい。

確かにデーターサイエンティスト養成の大学院など、聞いたことがない。
許認可制度が壁になってすぐには新しい学部を作れないのか、それともやっている人がいないのか。
民間に研究者や実践者はいても、その人たちを大学に入れて教育しよう、というのは難しい。
日本の大学では、実務家教員というのはいるが、あくまでも少数だ。
データーサイエンティストのように、学問になっていない分野(定義ができていない新しいもの)は、社会に必要とされていてもなかなか対応できない。
教授会の壁もあるんだろう。
少子化の時代、新しいものを作ろうとすると、既存のものを減らさないといけない。
減らすということは、既得権を取り上げるということだ。
そこに反対の動きが出てくる。

高度成長期なら、人口も増えていたし、新しいものを作るときには今までに加えるということでよかった。
今の年寄りはそういう時代しか知らない。
だから、何かを切り捨てて、新しいものを作ることが難しい。
「切り捨てる」ということがなかなかできない。
それに対する抵抗勢力もある。

ぼくらが大学で新しい学部を作った時も、本当なら今までの先生のうち半分以上は要らなかった。
それでも、「教授の首を切る」ということができず、泣く泣く既存のメンバーに数人の先生を付け加えることで対応した。
既存の先生方には「こういうことをやってほしい」とお願いしたが、結局は看板だけかけかえて、授業内容はほとんど変わらないという状態だった。
数十年にわたってやってきたことは、なかなか変えられない。
外見だけ変えて、あたかも中身を新しくしたように見せたということだ。
そんな状態だから、少子化で大学自体の拡大は望めない今、新しい分野の人材の養成課程を作るのは難しい。

でも、そんなことは言っていられない。
この分野で後れを取ることは、日本の技術や経済が後れを取るということだからだ。
文科省の役人は、自分たちの天下り先の確保しか興味がないように見える。
大学が潰れずに、国が潰れるということになってもいいのだろうか。

大学という形でなくても構わない。
でも、養成機関を作らないと、人材は輩出できない。

これは大問題だ。

| | 考えたこと | 23:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
キレる高齢男性
今朝のニュースで「キレる老人」について話していた。
その中で、キレたことのある老人へのインタビューがあった。

ある男性は、会社で65歳まで働いて、その後世の中に出たら「会社の年配者」ではなく、「単なる老人」として扱われる、ということがストレスになった、というような事を言っていた。
その気持はわかる。
会社にいたら、役職はどうあれ、若い人たちは普通の老人ではなく、会社に長いこといる人としての接し方をしてくれる。
でも、会社を離れたらそんな扱いはしてくれない。
当たり前のことなのだが、それがガマンできなかったりするのだろう。

それ以外にも、会社にいたら、そのことをぼやく仲間がいる。
一緒に怒ってくれたり、なだめてくれる会社の友人がいるのだ。
そちらの方が大きいかもしれない。

男性の退職後は社会から切り離されることが多い。
それまで会社勤め1本で、近所や趣味などの社外のつながり(要は退職しなくていいところ)がない。
だから、いきなり孤独になる。
孤独に慣れていたり、好きな人はいいのだろうが、それまで常に周りに人がいるという環境で過ごしてきて、それが当たり前だと思っていると、エライことになる。
そういう状態で、ストレスをためている時に、「普通に」対応されてキレたりするのだ。

所詮、人間は一人で生まれ、死んでいくものなのだが、人生の終盤にそういうことになる、という覚悟がないといけないんだろう。

生産性という観点でみると、普通は高齢になると落ちてくる。
いずれは戦力外通告を受けないといけないのだ。
おまけに、世間はどんどんIT化が進んでいる。
自分たちの若いころにはなかったような機器が出てきて、若い人たちはそれを使いこなし、効率よく生活している。
スマホをかざして、コンビニでモノを買う時代。
その進歩がどんどん早くなっている。

レジや券売機で現金を出して、手間がかかると、周りの人はストレスがたまるのだ。
でも、そうしている本人だって、後ろの人からストレスを感じているんだろう。
店員のポイントカードなどの説明を聞いて、「なんや、わけのわからない事を言いやがって…」などと思っているのだ。

一番の問題は、その状態がいつまで続くかわからないことだ。
人生100年時代、などという本も出ている。
そうやって、どんどんストレスがたまっていく。

日本人はマジメだから、世の中のお荷物になる、という感覚にも耐えられないんだろう。
自分ではお荷物だ分かっているから、そういう扱いをされたと思い込んで、腹を立てる。

2025年には団塊の世代が後期高齢者になって、医療費はパンクし、年金会計もそのままでは立ちいかないかもしれない。

その時までに、もう少し対策をしておかないと、不良老人ばかりになってしまうぞ。


| | 考えたこと | 22:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
一万人の第九 12回目練習
昨日は最終日。8月から12回の練習の最後を飾った。
へっぽこテナーのパートはやっぱりへっぽこだったが、さすがに最後になるほど良くなったと思う。
声も出るようになったし、何となく結束感もできたような気がする。

最後の練習は、いつもの発声練習と終わりの方のコーラスの確認、そして通しの練習だった。
コダマ先生はいつもソプラノとテナーが高い音が出てないことを気にしていた。
だから、こうやれば音は出るということを伝えたかったんだと思う。

喉で出そうとして無理をするから声が出ない。
喉を楽に開いて、頭の上で音を考え、力を入れて息を出すのではなく鼻の位置にある息で話すように歌うと声も響くし、音は出るということだ。
実際、発声練習で結果的に3オクターブの音域をやった。
高い方も低い方も、しんどかったが、何となく声楽ではこうやって声を出しているんだろうなあ、という感じはわかった。

尾てい骨からお尻の方に力を入れて息を吐く。
吐くと同時に、肩甲骨を開いて胸を狭める。
身体が前のめりになる感じだ。
ただし、目線は変えず、喉から声をだすのではなく、鼻の位置に溜まっている息で歌う。
息を勢い良く吐き出すのではなく、ため息の感じで吐く。
音程は頭の上の方で考える。
そうすれば、無理なく声が出せる、ということを教えたかったのだと思う。
西宮のクラスで習って、よかったと思った。

テナーは人数も少なく、ベテランもあまり見当たらず、自信を持って歌っていなかった。
「臆病者め」と言われた回数は一番多かったと思う。
その次はソプラノだった。
前回あたりから、諦めもあってあまり言わなくなったんだろうと思うが、メンバーがそれに奮起して家での自習を少しは頑張ったんだろう。

最後に通しで歌って、ちょうど8時57分。
いい感じで締めくくれた。

コダマ先生のいいところは、素人だからといって、諦めた指導をしなかったことだと思う。
声楽とはどういうものか、というエッセンスを伝えてくれた。
最後の練習でも、発声練習をみっちりやる教室だった。
その熱心さがこの教室をまとめたんだと思う。


終わって帰る時に、今まで話したこともなかった隣の人と目が合うと「本番もよろしくお願いします」と言った。
「こちらこそ、よろしくお願いします」と返事した。

こういうのが、「1万人の第九」の良さなんだろう。

今年のもう1曲は、ジョン・レノンの「Happy Christmas」。
そのコーラスも2回ほど練習した。
原曲では、たしか子どもが歌っているところを1万人がコーラスする。

来週の土曜日は佐渡裕の練習。
1000人近い人が来るんだろう。
どうやって、それをまとめて練習するのか、楽しみだ。

その次は12月2日のリハーサルと3日の本番。

去年1万人の第九に参加した人が言っていたが、終わったときには感激するとのこと。
そんなことないだろう、と思っていたが、たしかにそうかもしれない、と思った。

でも、それはなってみないとわからない。

そう思っていたら、ファイスブックにコダマ先生のメッセージが出ていた。

『音符の音を一つ一つ一所懸命歌うと直ぐに力みが生まれます。音符に向かわず、たっぷり音楽(息)を取り入れて、音楽を感じ、身をゆだねましょう。』

コダマ先生に感謝。


| | 考えたこと | 22:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギターのコード2
ギターのコードの話の続き。

ジャズでは3つだけの音のコードをよく使う。
息子が入っていた、ジャズのスゥイングのビッグバンドの伴奏などはそういう形のものばかり。
ルート、3度、7度の組み合わせでおさえるパターンが一般的。
ぼくはコードというのはどんどん和音を上に積み重ねていくものだから、音は多いほうがいいと思っていた。
でも、そうでもないのだ。
その和音の特徴を表す音を、シンプルに重ねる方が効果的な場合がある。

ルートというのはその和音の一番基本の音。
ドミソのコードなら、ドの音がルートだ。
メンバーにベースがいれば、省略してもいいが、いなければ省略してはいけない、という音。
これは大事。
予定調和のコードの裏コード(ハッとするコード)を使うときは、このベースの音が特徴的になる。

3度の音は、そのコードがメジャーか、マイナーかを表す音。
コードの性格を決める音と言っていい。
長3度ならメジャーコード(明るい響き)だし、短3度ならマイナーコード(暗い響き)になる。
だから、3度の音は省けない。
ただし、わざとコード感をなくすために、3度を抜いてルートと5度の音だけで弾く場合もある。
これはパワーコードといって、ロックで多用される。
力強い感じの伴奏になる。

7度の音は、セブンスと言って、ジャズでは一番大事な音。
他のコードに行きやすい、ちょっと浮いた感じを出す音だ。
セブンスコードはいろんな他のコードで代替えができたりする。
そういう意味でも、7度の音は大事。

ジャズでは、他の演奏者の迷惑にならないように伴奏しようとすると、こういう形態になるとのこと。
ルート、3度、7度という組み合わせだ。最小限の音のセットという感じ。
たしかに、このシンプルな組み合わせで弾くと、音のつながりがわかりやすい。

できるだけ、近いポジションで弾こうとすると、音のつながりが見えてくる。
あ、このコード進行は、実際にはこの音が半音で下降しているのか、というようなことがわかったりする。

昔からなじんでいた、CとかAmとかいうコードとは違う。
ギターという楽器は、ジャズができる前からあったのに、うまいことやるなあと思う。

コードは奥が深いのだ。


| | 考えたこと | 00:21 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギターのコード
ギターという楽器は、まずコードを覚える人が多いと思う。
音楽の3要素はメロディー、リズム、ハーモニーだが、そのハーモニーを表すのが、ギターのコード。
伴奏楽器としてのギターという側面だ。
メロディーは自分で歌うから、リズムに合わせてコードを弾くことで、3つの要素がそろう。

親がクラシックをやっていたから、ぼくはメロディーから入った。
ガットギターで「白い色は恋人の色」のメロディーを単音で弾いたのが、ギターを触った最初だった。
うちの両親には、コードという概念はなかったと思う。
カルカッシというクラシックギターの練習曲集を弾いていた。

ギターを始めたのは、1970年。もう47年前だ。
そのころ、友達からフォークソングのエアチェックのカセットをもらった。(注:エアチェックというのは、ラジオ番組の曲を録音すること)
中には岡林信康や高石ともや、遠藤賢二などが入っていた。
いっちょうまえに、新譜ジャーナルなどという雑誌を買ったりして、ドナドナをアルペジオで弾いたりした。

高校に入って、モーリスのフォークギターを買ってもらった。
ナイロン弦からスチール弦に変わり、弦をおさえるのに力が必要になった。
そのころにガロを知り、レコードを聴いてマーチンのD-45というのはいい音がするなあと思った。
あとでガロの楽譜を見たら、それは解放弦を多用した弾き方で、そのせいでいい音に聴こえていたことがわかった。
「一人でゆくさ」という曲。あのコーラスも印象的だった。
当時男性3人組のグループで、3声でコーラスをしているグループは珍しかった。
メロディーと上下3度、5度という近い音のハーモニーで、印象的な音だったなあ。

この曲を知って、ギターのコードの面白さを知ったような気がする。
一応、歌本にコードは書いてあったが、その通り弾くと全く感じが出ない。
よくポップスで使われる順次進行E−F#m7−G#m7−F#m7−Eというやつだ。
これを1,2,6弦を解放のままで弾く。
初めてこれがわかったときは、本当に感激して何度も弾いた。

その時はもうビートルズを聞いていて、ジョンとポールのコーラスが好きだった。
それまで聞いていたポップスはどちらかというと3コードだったが、ビートルズはジャズのツー・ファイブというコード展開をよく使った。
キャロル・キングもそうだった。
そのコードの取り回しがとてもきれいで、そういうのを弾いていた。

もちろん、速弾きのソロもかっこよかったし、そういうのに憧れもしたけれど、ぼくはどちらかというとハーモニーが好きだ。
どこで、どんなコードを弾くのか、ということに興味がある。
下手の横好きでジャズギターを習っているが、あまりいい生徒ではない。
そんなに練習もしていかないし、課題もいい加減だ。
先生も、まあ、それでいいと思っている(と思う)。

ぼくは曲の中で、「ハッ」とするようなコードが弾きたい。
ほとんどの曲は、予定調和的にコードがついている。
でも、そのコードがなったとたん、寝ている人も目が覚めるというか、「ほー、こんな曲やったんや」というようなコードが弾きたいのだ。

最近はレッスンに行っても、もっぱらコードの話が多い。

いつか縦横無尽に、ハッとするコードが弾けるようになるだろうか…。

| | 考えたこと | 22:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
自分らしい仕事
自分らしい仕事というものを考えたのは、最近だ。
25年働いた会社に入社するときは、ここで頑張ろうと思っただけ。
ここが果たして自分らしい仕事ができる会社かどうかなど、考えたこともなかった。

25年働いて、ちょっと自分のやりたいことと違ってきたと思って、転職した。
でも、転職した先が自分らしい仕事ができる、というようなことは考えなかった。
もともと、そんなものがあるとも思えない。

最近そういうことを考えるようになったのは、暇になったからだ。
一応、時間通りに終わる仕事になったから、帰るのが早くなった。
だから、考える時間がたくさんある。
小人閑居して不善をなす、ということかもしれない

ただ、転職の時に、こういうことがやりたい、と思ったことはある。
それが自分らしい仕事だとか、そういうことは考えなかった。
そんなことは考えても、意味がないと思う。

自分らしい仕事というものが、最初からあるみたいに考えているのは、間違いだと思う。
仕事というのはやってみないと分からないし、多分に運や縁が作用している。
ある意味、いい加減なものなのだ。

自分らしさというのは、どこででも発揮できるものだろう。
仕事に自分らしさというのを求めなくてもいいと思う。

でも、最近の就職活動を見ていると、自分らしい仕事とかいうものを勧めている。
自分らしい仕事を見つけよう、とかいう類だ。
そういうことを煽っているから、転職者の数も増える。
転職自体は悪いことだとは思わないが、軽はずみな転職はやめた方がいいと思う。

自分とは何者か、と考えることが就職にあたって必要だと言われている。
ぼくらの時代はそんなものはなかったが、理屈の上では、自分はどんな人間で、どういうことが得意で、どういう事をしてきたから、こういう仕事をしたい、と考えるのは理にかなっている。
そう思うから、そういう指導をしているのだが…。

ただ、仕事はやってみないと分からないし、いくらそういうことを考えたって、それが自分の全部とは限らない。
だから、まずは決まったところで、頑張ってみようということになる。

転職が増えていると聞くが、頑張って働き、その仕事がおぼろげながらもわかる、というところまでやって判断するのならそれはいいと思う。
でも、そこまでやらずに、「自分には合ってない」と思って転職している人も多いのかもしれない。

もちろん、法的に問題がある雇用形態だとか、相手をだますような仕事はやめた方がいい。
それでも、安易に転職するのはもったいないとも思う。

今の「自分らしい仕事」という考え方には合わないのだが…。


| | 考えたこと | 23:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
マクド復活
関西ではマクド、関東ではマックという。
マクドナルドは一時は不調だったが、復活したらしい。

今年の9月の時点で、既存店の増収が20か月連続。
マクドというと、学生アルバイトだったが、最近は主婦らしい人をよく見る。
主婦の短時間のパートを増やしているとのこと。

注文を受けて55秒以内に商品を出すというのがマクドの鉄則らしい。
それができるように、人を確保しているとのこと。
成長するためには、人が必要ということだ。

試練の時を超えて、2017年の12月には過去最高の200億円の純利益を見込む。
さすがマクドだ。

子どもが小学生の時、マクドの前を通って、ポテトの匂いを嗅ぐと、誘われるように店に入りたがったものだ。
小学校の回りには、マクドが何店かあった。
今も残っている。
子どもが欲しがる最初の外食といえば、マクドだった。

今でも時々無性にマクドが食べたくなる時はある。
シェイクが飲みたくなったり、あのポテトが食べたくなったりする。
ぼくらの年代は、子どもの頃にはマクドはなかった。
71年に1号店が東京にできたらしいが、よく見るようになったのはいつごろからだろうか。
80年代の半ばくらいだったかと思う。

90年代以降は、たいがいの所にマクドがあったと思う。
街の中の風景になった。

数年前にマクドでアルバイトをしている学生が、バイトの研修を受けて、就活のときにそれを生かしているという話を聞いた。
マクドナルドは、アルバイトにもいいことを伝えていた。
外資系の企業は、アルバイトにも研修をして、リーダーというような職位を与え、それなりの自覚を持たせるのが上手だ。

これからは、それが主婦のパートにも及ぶんだろう。
働き方改革の助けにもなるかもしれない。

今の日本にはマクドナルドのような企業がもっと必要なのかもしれないなあ。

| | 考えたこと | 23:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
野球の将来
少子高齢化の影響を受けるのは、社会のすべての分野。
スポーツとて、例外ではない。

何度か書いたが、野球は苦しいだろうと思う。
サッカーに比べると、必要な道具が多いし、ハードルが高い。
世界的にもサッカーの方が人口が多いのは、そういうことだろう。

今は全国規模で高校野球の大会が行われているが、いろんなところでほころびが出てきているらしい。
しかし、プロのスカウトが全国を回って「日本に野球があって当たり前だと思う感覚を早く捨て去らないといけない」と書いているのにはビックリした。
そんな感じを持つほど、ひどくなっているのか、ということだ。

実際、2007年から2016年で、子どもの野球人口が66万人から49万人に26%減少したのに対して、サッカー人口は52万人から55万人に6%ほど増えている。
同時期に子どもの人口は、1738万人から1605万人に7%ほど減っているのにもかかわらずだ。
それほど、野球の減少は著しい。

ぼくらが小学校の頃は、野球しかなかった。
サッカーは体育の授業ではやったが、遊ぶのはたいがい野球だった。
三角ベースで空気の入ったやわらかいボールで、手打ちの野球をしたりした。
中学に入ると、部活の野球とサッカーは同じくらいだったか。
クラス対抗の野球大会はなかったが、サッカー大会はあったと思う。
それだけ、野球はハードルが高いスポーツだったのだろう。

それでも、プロ野球の全盛期だったし、アニメ「巨人の星」もやっていたし、スポーツのマンガというと、男子はほとんど野球だった(女子はバレーとか、テニスがあった)。
スポ根アニメ、というと圧倒的に野球だったなあ。
その頃に野球をやった人たちが、今は少年野球の指導などをやっている。
実はそれが問題だったりする、という事を書いているサイトもあった。

子どもに野球をやらせようとして、少年野球チームに入れると、野球を楽しむ前に年配のコーチが厳しい指導をしてしまう、というのだ。
野球をやろうと思って入っても、ちゃんと整列をするところから始まる。
それができないと、バットもボールも握れない。

一方サッカーは、動物の着ぐるみを着たコーチが子どものチームに入り、ドリブルを教えたりするらしい。
サッカーは後発だったから、どうやって子どもたちに興味を持ってもらうかという事を試行錯誤してきたらしい。
その差は大きい。

「巨人の星」などのスポーツ根性もののアニメを見てきた指導者が、子どもは「野球をやりたくて当たり前」と思っていることが、逆に子どものやる気をなくしている。
礼儀作法などは後でいいのに、そこから入ろうとする。
まさに昭和の価値観だろう。
それもあって、野球は衰退しているということらしい。

少年野球の試合では、大人の罵声ばかり聞こえる、とも書いてあった。
スポーツは楽しむものではなく、その人を鍛えるもの、という価値観なんだろう。
若い野球の指導者は、年配の指導者がやり方を変えない、とぼやいているらしい。
これではダメだろうなあ。

子どもを怒鳴り散らしている指導者ばかりでは、やりたい子どもが増えるわけがない。
勝負事は勝たないと意味がないと思っているんだろう。
それではダメだ。

少子化ではないとはいえ、アメリカでは野球はまだまだ盛んだ。
バスケットボールやホッケー、アメリカンフットボールなどいろいろスポーツはあるが、やっぱり野球はアメリカの国技という感じがある。

たしかに、アメリカの少年野球の小説など、読むと「いいなあ」と思わされる。
少年野球でも投球制限もあるし、肩を守って楽しむという感じがある。
もちろん、勝ち負けも大事だし、それにこだわるのも必要なのだが、それだけではない。
まず、楽しむところからやらないと…。

そういうわけで、野球が衰退している。
でも、そういう事を声高に言っているサイトもある。
今からでも遅くない。
早く指導者の価値観を変えないとダメだ。

個人的には、サッカーよりも野球が好きだ。
子どものころからの刷り込みもある。
だから、高野連をはじめとする野球連盟がちゃんと現状分析して、取り組みを変えないといけない。

野球を潰しているのは、野球関係者なのかもしれないぞ。

| | 考えたこと | 01:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
若いギタリスト
今週の月曜日はギターのレッスンだった。
いつもの時間に行くと、ぼくの前の時間は空いているのだが、レッスンに来ているとのこと。
へー、新しい人が入ったのかと思って待っていたら、レッスン室から出てきたのは若い女性だった。
びっくりしたのは、マーチンのソフトケースを持ってでてきたこと。
あんなケースがあるんだと思って、見ていた。

部屋に入って、先生に聞くと、体験レッスンとのこと。
へー、体験ですかと話す。ビギナーですか?と聞くと、まあそんな感じとのこと。
そこで先生が、でもギターはマーチンですよと言った。
いや、私もソフトケースがマーチンだったから、ビックリして見てたんです!と思わず同意した。

ただ、マーチンにしてはかなり小さなギターだったとのこと。
ぼくもケースがえらい小さいなあと思っていたのだ。

生徒は、家にあったから持ってきた、と言っていた由。
マーチンのギターといっても、あまり感慨がなかったらしい。
ひぇー、そうなんですかとまたビックリ。

いろいろと曰くがあるギターなのかもしれない。
スティック状のトラベルギターも出していたが、それではなく、普通のギターの小さいやつだ。
ふーん、と思わず先生と黙ってしまった。

ぼくもギターを弾きだしたきっかけは、家に親のガットギターがあったからだった。
当時のマーチンはガロが持っていたD-45 が80万ほどしたはず。
だいたい、あんまり日本に入ってきていなかったと思う。

それから40年ちょっと経って、日本も豊かになった。
マーチンのギターを無造作に持ってくる時代になったのだ。

あの若い女性ギタリストは体験レッスンを経て、本気でやるんだろうか。

いいギタリストになってほしい…。


| | 考えたこと | 00:44 | comments(0) | trackbacks(0) |
1万人の第九 11回目練習
今週の水曜で11回目の練習が終わった。
さすがに夏からやっていると、だいぶ覚える。

第九のコーラスの歌詞は、最後の方は今まで出てきた歌詞の繰り返しになる。
メロディーも今までのものの変形みたいな格好だから、最後になるほど覚えやすくなる。
うまいことできている。
練習の最後の方になると、加速度的に覚えられるのだ。
だから、あと1回の練習でも何とかなると思える。

今回は高校生以下の子ども(26名いた)だけで、ステージで第九のメインテーマを歌ったり、男性の3部合唱を前に出てやったり、変化のあるレッスンだった。
聞くと、去年もやったとのことで、西宮恒例の行事らしい。

さらに、まぜまぜ第九というのもやった。
アルトから順に全体に散って立ち、テノール、バス、ソプラノの順にそのまた間にバラバラに立って、それで練習するというもの。
となりに違うパートの人が来て歌うということで、ちゃんと覚えていないパートは歌えないという状況を作り、歌ってみるという練習だ。
これで4楽章のコーラスを全部通しでやった。

意外と覚えているものだ。
実際にそういう状態になって、楽譜も持たずに歌えるかなと思ったが、まずまず歌えた。
最後の方はグダグダだったが、前半、中盤はほぼOKだと思う。

全部を通して歌うと、汗をかく。
心地よい汗だった。
カラオケで歌っても、汗をかくことはなかった。
やっぱり、大きな声で歌うというのは気持ちがいい。

クラスのみんなに拍手をして、まぜまぜ第九を終えた。

来週は通しで練習を2回やるとのこと。
それで西宮Aのクラスは終了。

12回は意外と短かった。
初回は夏で、まだ半袖を着ていたが、もうスーツでネクタイをする季節。
時間が経つのは早い。

でもこの3ヶ月、しんどかったが、今日の汗で報われた気分。

歌を歌って、汗をかくのはいいことだ。

あと1回、頑張ろう。


| | 考えたこと | 23:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
仕事の自動化
AI(人工知能)が発達すると、いろんな仕事が変わると予測されている。
実際、銀行などではもう現実になりつつある。
その証拠に、こんなニュースがあった。

「10月28日、みずほフィナンシャルグループ(FG)が今後10年で1万9000人分の業務量削減を検討していることが報道されると、三菱東京UFJ銀行が約9500人、三井住友FGは約4000人相当の業務量を減らす方針」ということらしい。

今の低金利の状態で、ビットコインなどの中央銀行が発行しない電子通貨などが増えてくると、銀行自体が大幅にビジネスモデルを変えないといけなくなる。
これもインターネットに付随する技術の影響だ。
最終的には、テクノロジーが通貨の壁も超える可能性がある。
インターネットは個人と事業主をつなぎつつあり、融資の仕事もネットになるかもしれない。
そうなると、今の銀行はどうなるんだろうか。

アメリカでも、いろんな職業がAIに代替えされる可能性を調査しているとのこと。
従来は突発的な事に対応するような臨機応変の仕事は、人間の専売特許だったが、これもAIが取って代われるようになってきた。
その結果、推定値として、「アメリカの職業のうち47%が、今後10~20年のうちに機械に代替えされる可能性が70%以上」という結果が出た。

一方、ドイツではもっと細かな調査をして、仕事の一部分が自動化されても依然として人間は必要だ、という結果になった。
ここでは、アメリカの完全に自動化される仕事は9%程度となっている。
ただ、仕事の一部分はAIに自動化されていくんだろう。

でも、AIによる自動化によって売り上げが上がり、雇用者も増えるという予測もある。
ドイツのボストン・コンサルティング・グループだ。
ドイツで35万人増えるという予測。
増える職種は、IT、データサイエンスという分野で、減るのは製造、物流、品質管理などらしい。

たしかに、パソコンが業務を変え単純計算やファイリング、伝達といった仕事がなくなったが、その分IT分野で雇用は増えた。
だから、そう心配しなくてもいいのかもしれない。

でも、ジョブマッチングの面から見たら、これからなくなる仕事は避けたほうがいいということになる。
あと10年でも大きな変化があるだろう。
今50代以降の人たちは、この大きな変化を逃げ切れるだろう。
40代の人たちは、ちょっと難しい。
年を取ってから、変化が来るからだ。
昔も今も、年を取ると変化についていきにくくなる。
今からそうなった時のことを考えておく必要がある。

30代以下の人たちは、自分の仕事について良く考えたほうがいい。
AIによる自動化で、どんな変化が起こるのかということだ。
そのためには、AIで何ができて、何ができないか、アンテナを立てて情報収集する必要がある。

ぼくらは知らぬ間にパソコン、ネットワーク、インターネットというようなうねりの中で、仕事人生を送ってきた。
なくなった仕事もあれば、増えた仕事もある。

今ならそれを意識できるが、若いころはそんなことは考えなかった。

でも、これからの若い人は考えたほうがいいと思う。

これも年寄りの繰り言になるか…。


| | 考えたこと | 23:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
かがりさん2
「男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋」をテレビでやっていた。
録画して見たが、いしだあゆみ演じるマドンナの「かがりさん」は切ない。
5年ほど前にも書いたが、もう一度書く。

この「あじさいの恋」は「男はつらいよ」のシリーズで、一番悲しいストーリーだと思う。
かがりさんというマドンナが、いかにも薄幸の女性らしい。
いつもは、柴又のとらやでマドンナと一家の談笑シーンがあるのだが、今回はない。
それを楽しみに見ていると、ちょっとがっかりする。

でも、悲しいのはそれだからではない。

かがりさんが東京に来て、友人と一緒にとらやに寄った時、寅にそっと手紙を渡す。
日曜日に鎌倉のあじさい寺で待っています、と書いてある。
寅はそこに行くのだが、おいの満男を連れて行く。
いつもの寅とは違うことに、かがりさんは気がつき、「話したいことがたくさんあったのに、話せない」と寅に伝えて別れる。
旅先の寅は、家に帰った時の寅とは違うのだ。
「いつもの寅さんじゃないから…」

そして、東京駅から、さくらに電話をかけて「私は寅さんにとっても失礼なことをしてしまった」と話すシーン。
新幹線の発車のベルが鳴り、かがりさんは去っていく。

これがいつものフラれる寅次郎とは違っている。

寅次郎の失恋は、ある意味マドンナの失恋である場合もあるのだが、かがりさんのケースは何とも言えない悲しさがある。

何でと聞かれても、わからない。

見るしかないのだ。

語彙と感性の不足を嘆きつつ…。



| | 考えたこと | 20:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
先生の教育
ゆとり教育は悪しざまに言われているが、あれ自体が悪かったのでないという意見もある。
教える方の力量が足りなかったということだ。
それは取りも直さず、先生たちが学ぼうとしなかったということだろう。

新しい指導要領が発表されようとしているが、今取り沙汰されているアクティブ・ラーニング(AL)は、総合学習と呼ばれていたものの名前を変えたようなものだろう。
文科省は、それを実現するためには先生を増やしたり、情報機器を揃えたりするという条件整備が必要だと考えているようだ。

ぼくは「ゆとり教育」の二の舞いをしそうな気がして仕方がない。
高邁な理想は結構だが、それを実現するための方法をちゃんと考えているのだろうか。
先生は学ぶのが下手だ。
おそらく、先生の情報機器に対するリテラシーはかなり低いと思う。

一番大事なのは、教育する側の教育だと思う。
それができなかったから、ゆとり教育は失敗した。
いろんな科目を有機的に学ぶというコンセプトは、それをどうやって実現するかという先生の指導の側に問題があった。
実際、そういう指導ができず、何をやっている時間かわからないということになったのだと思う。

いい加減に文科省も、教育関係者も、学習すべきだ。
建前だけでなく、目標を実現するためには先生の教育が必要だ、ということだ。
学び続ける姿勢がない先生は去るべきだと思う。
そして、先生の教育計画を立てないといけない。

単に人を増やすことや情報機器を増やすことではない。
情報機器を入れても、使える先生がいなければ仕方ない。
アクティブ・ラーニングもそれを指導できる先生がいないと、単なる遊び時間になってしまう。
みんなでわちゃわちゃ言って、それでオシマイになる。

先生の教育計画を立て、どんな素養が必要となるのか、どんなテクニックが必要となるのかを示さないといけない。

自分が教えられてきたことは教えられるが、それでないことは教えられないのは当たり前だ。

そんなリクツがわからないのだろうか。

このままいくと、また失敗するぞ。


| | 考えたこと | 22:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
駐車場のシェアリングサービス
アキッパというサービスが出てきた。
コインパーキングと違って、自分の持っている駐車スペースを貸すというもの。

貸す方は、自分の情報と駐車場の情報、写真を送るだけということだ。
借りる方はアキッパというサイトで登録して、割安で借りられる。
見てみたら、関西では京セラドームや伊丹空港など、スポットごとに駐車場が出ていた。
シアター・ドラマシティや西宮ガーデンズなどもあった。

貸す方に関しては、空いているところを貸して、小遣い稼ぎができる、ということだ。
インターネットのマッチングの仕組みを、うまく使っている。
位置情報はグーグルマップが使えるし、クレジットの決済があるから、お金のやり取りも簡単だ。
そういう仕組みを使えば、何かをしたい人と、それを貸せる人をつなぐことができる。
宣伝もネットでできる。
アメリカで流行っているウーバー(自家用車でタクシーをする)と同じこと。

こういうのが、インターネットの強さだろう。
何かをしようとすると、いろんなものが必要になったものだが、インターネットではソフト上で仕組みさえ作れば、ハードは要らない。
このアキッパという会社も、空き駐車場を貸したい人と、借りたい人を結びつける仕組みを作った。

空き駐車場を探して契約して回る営業も要らないし、空いている駐車場を探し回っている客を見つける営業も要らない。
最低限の宣伝さえすれば、あとはネット上で個人がマッチングをしてくれる。
仕組みだけ提供すればいい。

そういうのが、新しい形の商売だ。
インターネットがそれを可能にした。

21世紀はこういう形のサービス業が伸びるんだと思う。


| | 考えたこと | 08:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
イチローの去就
ニュースによると、来季はマーリンズがイチローとの契約を更改しないとのこと。
イチローは44歳。
大リーグの現役最年長外野手だ。

今の成績はメジャー通算安打数が22位の3080本。
日本の安打数を入れると、4300を超えて世界一だ。
でも、これはあくまで参考記録。正式には22位になっている。

今年は主に代打でホームラン3本を含む50安打を放った。

イチローの野球を見ていると、日本の「道」という感じがする。
年をとって、風貌も含めどんどんそういう感じになってきた。
イチローの野球道は、どちらかというと「修行」のように見える。

常にストレッチ、筋トレを怠らず、いつも最高の状態でプレーできるようにしている。

「『できなくてもしょうがない』は、終わってから思うことであって、途中にそれを思ったら絶対に達成できません」

「どんなに気持ちが揺れていても、いつもどおりの作業をすることで、自然にバッティングの気持ちに切り替えることができるんです。僕にとってはいつもどおりにすることがプレッシャーに対処するための唯一の方法ですね」

「一日の反省はグラブを磨きながら、昨日は何を食べたか、よく眠れたか、というところから、実際にゲームが終わるまでに起こったすべてのことをよく振り返って考えてみる」

こんな言葉が、「イチローに学ぶ」というページに出ているが、陽気なヤンキー気質が多い大リーグではあまり聞けない言葉だろう。
5分単位で毎日の生活をこなしているとも聞く。
球場に向けて出発する時間、そこから遡って食事の時間など、それを管理する妻の理解がなければできないことだろう。

何となく昔の剣豪が、刀をバットに持ち替えたという感じだ。
そういう求道者的な思いがアメリカ人にもあるんだろうか。
それこそ、日本のミステリアスな部分だと思っているんだろうか。

44歳とはいえ、レギュラーでも使える選手のような気がする。
守備も、打撃も、足も、衰えたとはいえ、まだまだ現役だと思う。

イチローはフリーエージェントになって、全球団と交渉できることになった。

来年は、いったいどうなるんだろう。

まだ現役をつづけてほしいと切に願う。




| | 考えたこと | 00:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
モトロイド
東京モーターショーでヤマハが電動二輪車を展示している。
モトロイド、というネーミング。アンドロイドを連想させる名前。
名前からして近未来の感じだが、このバイクはライダーが手招きしたら自律して動いてそこまで来るらしい。

ホンダのようにジャイロを使っているのかと思ったら、バッテリーを左右に配置して、それでバランスを取るとのこと。
なるほど、だから電動バイクなのか。
重いバッテリーを左右に配置して動かし、傾きをコントロールできるからだ。
ジャイロ制御はホンダが特許を取っているのかもしれない。

バランス制御には人工知能が使われているとのこと。
どういう意味で人工知能なのか、わからないが…。
単にセンサーで傾きを測って、フィードバックをかけて左右のバッテリーを動かしているだけではないということか。
たしかに、無人で曲がろうとするときなどは高度な制御が必要になるのかもしれない。

カメラがあって、オーナーを顔認証するから、キーは要らない。
呼んでいる人もカメラで識別する。
バイクのような、パーソナルな乗り物はこういうスマホのような技術がよく合う。

ぼくが小学校4年の時、スーパージェッターというSFマンガが始まった。
未来から来たタイムパトロールが主人公。
彼が腕時計型の通信機に「流星号、応答せよ」と話すと、無人の流星号が反応して飛んでくる。
そのマンガの世界が、バイクでもぼちぼち実現しそうだ。

もちろん、乗用車でもスマホと自動運転、GPSを使えば、技術的には可能だろう。

クルマもバイクも、電動化の時代になりつつある。
エンジンでは無理なことも、電気ならできるということだ。

たしか、スーパージェッターが来た未来は30世紀だったと思う。
まだ21世紀になったところだが、ここまで進んでしまった。

モビリティの未来を考えると、どこまでいくのか、わくわくすると同時にちょっと寂しくなる。

チョークを引いて、アクセルに気をつけてエンジンをかけ、マニュアルミッションでダブルクラッチを踏んで運転していた頃が懐かしい。

もう年寄りだ。

| | 考えたこと | 23:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
1万人の第九 10回目練習
12回の練習は長いと思っていたが、もう10回目。
今回でようやく最後まで一応練習できた。
しかし、あと2回しか残っていない。
これで本番を迎えて大丈夫か、というのが正直なところ。

へっぽこテナーはパートの練習時間も長くなる。
だいぶ暗譜をして、指揮者を見る人も増えたし、歌い出しの声も大きくなってきた。
それでも、他のパートに比べると、まだまだだ。
いつも最初に発声練習をするのだが、実戦になるとそういうふうには歌えない。
ノドで無理して声を出そうとするから、大きな声が出ない。

それにしても、難しい音程の音が続く。
一番厳しいのは、上のソから、1オクターブ下のソにいくのではなく、その半音上にいくもの。
あんなのは、楽器でないと無理だ。

とまあ文句ばかり言っていても前に進まない。
次までに大方は暗譜しようと思う。
というか、だいぶ覚えてきたのは事実。
継続は力なりだ。

次回は本番の座席券を渡されるとのこと。
いよいよ大阪城ホールが見えてきた。

でも、オケが入るとだいぶ雰囲気も変わるんだろうなあ。
6拍子を3拍ずつの音符で歌っているところなど、マーチのようだが、オケは6拍子の音をだすのだろう。
そういうのが入ると、交響曲という感じになるんだと思う。

しかし、まだ第九を通しで聞いたことがない。
ぼくはどうもクラシックが苦手で、いつも寝るのだが、今回は大丈夫だろうか。
さすがに4楽章はコーラスがあるから起きると思うのだが…。

12月が楽しみだ。


| | 考えたこと | 00:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
東京モーターショー
今年の東京モーターショーの記事を読んでいたら、今や東京はローカルメーカーのショーになっている、ということだった。
もう数年前からそういう状態だったという。
ぼくが会社を辞めてもう14年経つが、この間の変化は大きかった。
2000年当時は世界各国のメーカーが展示していたと思う。

輸入車ブランド関係者は、「バルセロナモーターショーと同じ位置づけ」だという。
まだまだ日本が世界のモータリゼーションを引っ張っていた時は、東京、ロス・アンジェルス、フランクフルトあたりが、3大モーターショーだった。
今や日本から中国にシフトしたということだ。
潜在ユーザーの数は違うし、インフラは整ってきたし、世界の目は中国に向いているということだろう。

今やエンターテインメントの要素はなくなり、純粋な国産メーカーの展示になった。
それはそれで、華美を排して実際的になったということでもある。
金がかけられなくなった、ということもあるのだろう。

この十数年で、だんだんと世の中が変わってきたのがよくわかる。
少子高齢化、社会保障など、問題は山積みだ。
高度成長が全てを覆い隠してきたが、それが終わってもう20年という感じ。

自動車業界も100年に一度の変革とか言われて、大変なんだろうと思う。
EV化の波にのまれ、自動運転の波にのまれ、挙げ句の果てにはシェアリングエコノミーで自家用車はなくなるという未来も予測されている。

それでも、毎日生産は続くし、改良も続けていかないといけない。
自動車産業は日本の基幹産業だけに、舵取りの失敗は許されない。
というより、各メーカーが生き残っていくためには、痛みはあっても乗り越えていくしかない。
自動車関連企業はこれから大変だ。

昨日書いた「みをつくし料理帖」ではないが、日本メーカーは「どういう道を目指すのか」ということを考えないといけないのだと思う。

そんなことを言われなくても、考えているのだろうが…。

でも、その道をモーターショーで示せるようにしてほしいと切に思う。


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