考えたこと2

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音のない時間2
昨日書いた、「音のない時間」について、もうちょっと書く。

詩は不得意だが、詩の行間というのも、「音のない時間」だ。
一連の言葉があって、その次の言葉があるが、言葉と言葉のあいだに、感情が宿る空間が必要だ。

もう終わってしまったが、以前プロジェクトXで感激したのが南極越冬隊の話。

今はオーロラの専門家になっている人が、第一回の越冬隊の隊長に助けてもらった話をしているときに、急に思いがこみ上げてきて、無言になった。言葉を出そうとしても、その時の思いが胸いっぱいになって、言葉が出てこない。
テレビではめずらしいが、アナウンサーもじっとその人の顔を見つめていた。

どこまで続くんだろうという無言の後に、その人が嗚咽をはじめ、あの時あの隊長が助けてくれなかったら…という話を泣きながらし始めた。
思わず、もらい泣きしてしまった。

「音のない時間」が言葉にできない感動を表したと思う。

もう一つ、「音のない時間」がある。水の中だ。
以前、プールに通っていたが、泳いでいるときには人工的な音は聞こえない。
水の音だけだ。
水の音を聞きながら泳いでいると、気持ちが集中できる。
頭の中から余計な思いが去っていく。
20分くらい泳いでいると、気のせいか頭がスッキリしたような気になる。
これは、「音のない時間」の効用だと思う。

世の中には音が溢れているが、「音のない時間」は貴重なものだと思う。



| | 考えたこと | 18:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
音のない時間
ちょっと前、長男のバンド仲間が来て、ギター初心者に弾き方を教えてあげた。(そんなたいそうなものではないが)
リズム・ギターを、コードで弾くという、誰もがギターを始めたときに通る道だ。

コードの押さえ方は覚えているし、そこそこスムースに指は動くのだが、リズムギターはむずかしい。
なぜかというと、譜面を見ても、弾くところしか書いてないからだ。
もちろん、弾くところが書いてないと、リズムはわからない。
ジャン・ジャン・ジャン・ジャ・ジャと弾く…という風に書いてある。(四分音符が3つと八分音符が2つ)

でも、その通り弾いても、なかなかうまく聞こえない。

リズム・ギターは、音を出すことは大事だが、実は音を消すことができないと、うまく弾けない。

強弱のアクセントをつけて、音のない部分を作らないと、かっこよく聞こえないのだ。

その時に、「リズム・ギターは、音を弾くことよりも、音を消すことが大事」と言ったのだが、難しかったのかもしれない。

音のない瞬間が、リズムを作る。

落語の「間」みたいなものだ。
話す事も大事だが、話すことを止めて、音のない時間を作らないと、ウケない。

音を出すための楽器だが、音を止めることがリズムを作るコツ、というのは真実。

ホントですよ。
それがコツです。


| | 考えたこと | 23:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
タイムスリップ
昼から出張で、学生時代に下宿していたところの近所に行ったので、そのあたりをうろついてきた。

下宿のあった場所はパーキングになっていて、クルマが止まっていた。
かろうじて、大家さんの店(酒屋)は残っていた。
道を挟んで向かいにあった市場は消えて、大きなスーパーができていた。
通っていたお風呂屋さんはなくなっていた。
よく行った中華料理屋はパチンコ屋になっていた。

市電のレールが無くなって、すごく道が広くなって、架線が無くなった分、空が広くなっていた。

昔、お金をおろしに行った銀行は、第一勧銀からみずほ銀行に変わってキレイになっていたが、残っていた。

ほとんど、変わってしまったなあ、と思いながら細い道を歩いていると、そこにそれはあった。

道の脇に、ユニオンジャックの看板があって、RINGOと書いてある。
ちょうど僕らが卒業する少し前に開店した店だ。
道から階段を降りて、地下一階に小さいドアがある。
ビートルズしかかけない店だった。
向かいに先輩の下宿があったので、通った店だ。

思わず立ち止まって、階段を降りて、ドアをあけると、うす暗い店内にはビートルズのポスターやレコードジャケットが飾ってある。
カウンターにすわって、コーヒーを頼み、マスターと少し言葉を交わした。

「仕事で近くまで来たので、うろうろしたけど、このあたりは30年ほど前と全然変わってますね、でもここだけは残ってましたね。30年ほど前に通ってました。」

「そうですか。ありがとうございます。」

昔と同じく、暗い店内でもサングラスをかけたマスターがお礼を言ってくれた。
今でも、ビートルズしかかかっていない。

コーヒーを飲む20分間ほど、時間が止まっていた。

コーヒー代を払うときに、今でもビートルズしかかけないんですね、というと、そうですよ、という言葉が返ってきた。

20代の頃に、タイムスリップした。

今の自分からは、想像できないが、自分にも20代の頃があった、という事を実感した。
そんな実感を持つチャンスはなかなか無い。

あと10年たっても、RINGOは残っているのだろうか…。
その時にも、自分の20代の頃を実感できるんだろうか…。

そんなことを考えた。

マスター、がんばってお店を続けて下さい。


| | 考えたこと | 23:12 | comments(2) | trackbacks(0) |
地球人
英語にない日本語というものがある。

Earthというのは、地球のこと、と習った。
でも、Earthには大地という意味もある。

日本語の「地球」には、大地という意味はない。宇宙に浮かんでいる星としての意味だけだ。

どちらかというと、Earthというのは、「大地」の意味に近いのではないか。
宇宙空間にぽっかりと浮かんでいる地球、というイメージではないように思う。

だからなのか、ソフトの新英和中辞典で「地球人」とひいても、「見出し語がない」と出てくる。

アルクの英辞郎というWeb辞書で、「地球人」をひくと"Earthian"という言葉はあったが、何となく日本語で「地球人」というほどなじみのある言葉ではないような気がする。Earthianは、宇宙があまり意識されていない。大地の上のヒトというニュアンスだ。

でも、僕らにとっては、「地球」があって、「地球人」という言葉があるのは、すごく自然だと思う。

「地球人」というのは、地球という星に住んでいるヒトという意味であり、宇宙人に対応する言葉だ。
人類、という意味とも少し違う。

SFアニメをよく見ていたから、「地球人」という言葉になじみがあるのか…。
でも、日本人全般にとって、「地球人」というのはけっこう普通の言葉だと思う。

日本語には、すべてのヒトは地球に住んでいる「地球人」だという思いがあるのだ。

これはすごいことだと思う。民族も国境も関係ない。

これは、僕が勝手に思っている事なのか…。

一度、英語を話す人に聞いてみないといけない。


| | 考えたこと | 23:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
音は想像しにくい
テレビの通販の番組を見ていて、買ってしまったものがある。
ちょっと、失敗してしまった。

掃除道具が好きなので、今までもオレンジの洗剤や何でもきれいになるスポンジなど、通販番組を見て、スーパーの通販でおなじみコーナーで買った。

今回は充電式の掃除機。
掃除機といっても、空気で吸い込むものではなくて、回転するブラシが四方についていて、ゴミをかきいれる、という仕組み。
アメリカの製品だと思うが、掃除機のヘッドの部分が自在に回転し、さらに四方にブラシがついているので、ゴミを絨毯などから取り出す効率がいい。

「お〜、これはいい」と思わされた。

その商品を紹介しているあいだ、ずっとナレーションが入る。
「今までの掃除機は重くて、持って行けないでしょう」
「電気のコードがじゃまになります」
「これなら、らくらく掃除ができます」
「狭い隙間も大丈夫」…などなど

ず〜っと商品紹介の話がとぎれなく続く。

これは、買うしかない…と思い、インターネットで注文した。

来てみて、モノはその通りで、ゴミも取れるのだが…、動かしたときの音がすごい!
モーターがギーという音を立てて回る。
あたりまえだが、全く想像していなかったので、「え〜」という感じだった。
この音は、安っぽい…。

値段を考えたら、当然なのだが、番組の印象では、音もなく四方のブラシが回転し、ゴミをかきこんでいく、という感じだった。
考えたら、ずっとナレーションが入りっぱなしで、その場で実物を動かす、という部分はなかった。
実際に動く音を聞いていたら、買わなかっただろう。
ゴミは取れるし、便利は便利なのだが…。

いい教訓ができた。
実際に商品を動かす場面が出てこなくて、ずっとナレーションが入っている商品を見たら、「音」を想像しないとダメだ。

みなさん、動くモノは、音が出ますよ。
あたりまえですが、実際にやってみないと、「音」は想像しにくいですね。
気をつけましょう。


| | 考えたこと | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
身体がかたい
前に、方向音痴については書いたが、もう一つ情けない事がある。
自慢ではないが、身体がかたい。
前屈で床に手がつかないのはあたりまえ…。

あまりに身体がかたいので、以前、かかとの部分がなく、立つとふくらはぎの部分が伸びるというシューズを買って、仕事中に履いていたことがある。
一度、そのシューズを履いて、何かの発表をしていたら、足が震えてきて、ちょっと冷や汗状態になったので、やめた。

それでも、やっぱり何かしないと…と思い、通販生活でストレッチャーを買った。(ななめになっている板の上に立って、ふくらはぎの部分を伸ばすものです。知っている人は知っているでしょう。)
お風呂からあがってから、1分程度は立つようにしている。

でも、なかなか効果を実感できないので、洗面所にも置いて、歯磨きをするときにストレッチャーの上に立つことにしようと思い、別のを置くことにした。(ちょうど、ギフトカタログのもらい物があって、それで頼んだ。)

今度のストレッチャーは通販生活の分よりもちょっとヤワだが、角度の調整幅は大きくて、30度くらいまで調整できる。
今日、30度でやってみたら、立つことすらできない。腰を曲げないと、乗ることもつらい。
やっぱり15度程度でないとダメだった。

これには、前屈したときにどこまで曲がったかが計れるように、メジャーがついている。
前屈して、そのメジャーを指先で下に押して、目盛りを読む、という仕組みだ。

ところが、角度を最低にしても、そのメジャーに指が届かない…。
この機械を設計した人の想定外の身体のかたさ、ということなのだろうか…。

家族はみんな床まで手が届くので、メジャーは必要ない。

どないなってんねん。

いつかは、普通に前屈して床に指がつきたい、とは思っている。

小さな望みだが、二つのストレッチャーで、頑張ろうと思う。

身体のかたい人、いますよね…。

| | 考えたこと | 22:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
雪の女王 最終回
NHKで日曜日にやっていたアンデルセンのアニメ「雪の女王」が終わってしまった。
先週の日曜日が最終回だったが、仕事で見られなかったので、今日録画を見た。

この話は、ゲルダという女の子が、雪の女王が住む氷の城の鏡が割れてしまった事で、離ればなれになってしまった仲良しのカイという男の子を探し求めて旅をする、という物語。

氷の城の割れた鏡の破片がカイの目に入り、カイの心が魔王に犯されてしまい、人が変わってしまったカイは雪の女王に連れて行かれてしまう。そのカイを追いかけて、ゲルダは旅を始める。

旅の途中で、雪の女王と関係のある吟遊詩人、ラギと出会う。ラギはゲルダを助け、氷の城を目指すが、最後の難所である大氷河でクレバスに落ち、自らゲルダと自分をつなぐ命綱を切って、死んでしまう。
しかし、ラギは雪の女王に助けられ、復活して氷の城に来る。

吟遊詩人のラギと雪の女王が、最後に和解をする。

ラギは、元軍人で、雪山で部下と遭難し、一人だけ雪の女王に助けられ、残りの部下を見捨てられたと思っていたが、実は雪の女王はみんなを助けようとしたが、ラギ以外は既に亡くなっていたということがわかる。
ラギと雪の女王の別れのシーンがせつない。

ラギは、雪の女王に言う。

「どうして二度まで自分を生かした?もしそんな力があるならなぜ、私の部下を救ってくれなかったのだ?」

「あなたの部下たちは、もう手遅れでした。私が気づいて駆けつけたときは、もうみんな神に召された後だったのです。息があったのは、ラギ、あなた一人でした。でも、あなただけを助けたことで、私はあなたに苦しみを与えてしまったのですね。」

「そうか、そうだったのか…部下たちを助けようとしてくれたのか…。私が、私が勝手に誤解していただけだったんだ。」

「二度まで生かしたとあなたは言いましたが、私がしたことなど、たいして重要なことではありません。重要なのは、もっと大切なのは、生を受けたものがどう生きるのか、ということです。良い旅を、ラギ。」

そして、故郷に近づいたゲルダは、別れの前に雪の女王に、なぜ、カイを氷の城に連れて行くことを選んだのか?と聞いた時のことをカイに話す。

雪の女王はこう言った。

「カイがいい友達を持っていたからです。いい友達を持っている子は、どんなときにもがんばれるのです。その友達の暖かい心に見守られて、励まされて…。ゲルダ、私が選んだのはカイだけじゃなかったの…。二人を選んだのよ。」

ゲルダは言う。

「よくわからなかったけど…。なんか…なんかとてもうれしかった。」

故郷に帰った二人は、仲良く暮らし、年月が経って、結ばれる…。
結婚式は6月だったが、雪が降る。

その雪は、きっと雪の女王からの祝福の雪だったんだろう…。ラギのナレーションで番組は終わる。

こんなにいい番組、NHKにお金を払う価値がある。


| | 考えたこと | 18:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
ロマンチック
ロマンチックとは、どういうことだろう?

英和辞典でロマンチックをひくと、「〈人が〉空想にふける, 空想的な」と書いてある。
今ひとつ、意味がわかりにくい。

Wikipediaでロマン主義をひくと、「ロマン主義の底流に流れているものは、自由主義、内面性の重視、感情の尊重、想像性の開放といった特性であり、好まれる主題としては、異国的なもの、未知のもの、隠れたもの、はるかなるもの(特に、自分たちの文化の精神的な故郷、古代文化)、神秘的なもの(言葉で語れないもの)、夢と現実の混交、更には、憂鬱、不安、動揺、苦悩、自然愛などを挙げることができる。」と書いてある。

僕は、ロマンチックとは、「カタチのないものを信じる心」だと思う。

Wikipediaに出ている、内面性とか、感情とか、想像性とかいうものは、みんなカタチのないものだ。
はるかなものとか、神秘的なもの(言葉で語れないもの)、未知のものというのも、カタチのないものだ。

もちろん、愛や恋というものも、カタチのないものであり、それを信じることはロマンチックだろう。

でも、自分が大事だと思うもの、信念や信条みたいなものを信じる気持ちも、「ロマンチック」という表現になると思う。

「ロマンがある」というのは、自分が信じる「カタチのないもの」に自分の行動を託すというようなことではないか。

真実は、現実の中よりも、物語の中にある・・・というような気持ちも、ロマンチックだと思う。

すこし硬くなるが、「私はこうなんだ」というような姿勢も、ロマンチックだと思う。

人それぞれ、ロマンチックになる対象は違うだろうが、たくさんの「カタチのないもの」を信じられる人は、ロマンチックな人であって、すごく人間的な人だと思う。

なぜなら、人間以外の動物は「カタチのないもの」をそんなにたくさん信じられないからだ。
(親子の愛情などの気持ちは、哺乳類にはあるから、それはロマンチックだろうけど)

現実を見つめることは大事だが、その現実に対応する行動がロマンチックであることはもっと大事だと思う。

ロマンチスト(これは和製英語で、正確にはロマンチシスト)は今の世の中にすごく必要とされているのだ。

ロマンチストのみなさん、自信を持ちましょう。



| | 考えたこと | 02:17 | comments(0) | trackbacks(0) |
自分の字
2000年頃に会社で書いていたノートがタンスの隙間から出てきた。
紙袋に入れて、置いてあったもの。

懐かしい。
大学ノート5冊と、A4のルーズリーフが100枚ほど。
前にも書いたが、不思議なもので、自分の書いたものを見たら、何となく書いたときのことを思い出せる。
出張のこと、会議のこと、プロジェクトのこと…。

あの頃は、まだ字がきれいだったんだ、と自分で感心した。

最近は字がきたなくなった。
丁寧に書けない。速く書こうとするから、よけいにきたなくなる。
無意識に、ワープロで打つ速さで書こうとするからだ。
時々、自分の字が情けなくなるが、頭で書こうと考えることと手は同期してしまうので、ふだんタイプしていると、どうしてもその速さで書きたくなりミミズが這ったような字になる。

中学や高校の頃に書いていた日記を見ると、やっぱり字が幼いと思う。
でも、基本的には大人になっても同じような字を書いているとも思う。

いつ頃、字の形は決まるんだろうか。
自分の過去の字を見るかぎり、中学生の頃には、だいたいの字の形は決まっていると思う。
それ以降は、書くときのクセなどは直らないのだろう。

昔、手書きしかなかった頃は、レポートの字を見たら誰が書いたのか、わかったものだ。
丸みがある人、角張っている人、傾斜がきつい人、しっかりとはねたり、はらったりする人…。

僕がよく言われたのは、女の子風の字だということ。
だいたい、丸い感じの字だ。

今はほとんど書かないので、書けなくなった。

昔の速度に戻って、しばらく書いたら、また同じような字が書けるのだろうか…。

昔のノートを見ていたら、自分の字がいとおしくなった。

字も自分の分身なのかもしれない。


| | 考えたこと | 23:53 | comments(2) | trackbacks(0) |
バリ
バリ、といっても、リゾート地のことではない。

ここ数年の子どもたちが使う言葉だ。

すごくおいしい、ということを、バリうまい、という。
すごくしんどい、ということを、バリしんどい、という。
すごく遠い、ということを、バリ遠い、という。

この、「バリ」はいつ頃から使われているのだろうか?
この近所だけなのだろうか?
とにかく、新しい言葉だ。

こないだ書いた、スゲー・ムリ・ビミョーは、まだ存在する言葉だったが、この、「バリ」は聞いたことがない言葉だ。
関西弁なのか・・・。

この新語は気になる。
今までなかった言葉が出てきたのだ。
これも、いつかは普通の言葉になって、市民権を得るのだろうか?

数十年後に、小学校1年生の教科書をあけたら、

「さくら さくら ばりきれい」

などと書かれていたら、どうしよう・・・。


| | 考えたこと | 23:41 | comments(6) | trackbacks(0) |
申し訳なさすぎ
このブログには、時事ネタは書かないことにしようと思っていたが、今日は書いてしまう。

冬季オリンピックのジャンプ。
規程の体重に200グラム足りずに、失格・・。
規程体重を勘違いしていたとのこと。
200グラムなら、牛乳瓶一本ちょっとの水を飲めばよかったのに・・・。

選手は責めるべきではないと思う。
4年間、飛ぶことだけに集中してやってきたんだろう。

トリノに何人行っていると思います?
選手112人、役員126人らしい。総勢238人・・・。

コーチもいたでしょう。監督もいたでしょう。選手より役員の方が多いんですから。
当日、選手の体重をチェックしなかったのか…。
規程の体重を教えてなかったのか…。

新聞には、「体重200グラムの悲劇」と書いてあったが、思わず笑った後、怒ってしまった。

申し訳ない、と書いてあったが、申し訳なさすぎだと思う。
コーチ、監督、お願いしますよ。
みんなのお金で行っているんでしょう。


| | 考えたこと | 23:45 | comments(2) | trackbacks(0) |
不協和音
音楽というのは、奥が深いと思う。
ギターを習い始めてから、今まで聞いたことがなかったような和音を教えてもらった。

和音というのは、元になる音(ドミソの和音なら、ドの音)に別の音を積み上げていくものだ。。
一番馴染みのある和音はドミソであり、これは元の音のドに3つ上のミと5つ上のソを積み上げたもの。
これは、ふつうはCという和音(コード)になる。
何でCというかというと、ドレミファ・・がアルファベットのCDEF・・に対応していて、ドの音がCだから、元の音を基準にして和音を表わすと、Cという表記になる。

C(ドミソ)に、シbをのせると(ドミソシb)C7という和音になる。シbが7番目の音だから、Cに7番目の音をのせたので、C7ということだ。(何で7番目はシbかはややこしいので省略)
ドミソレになると、C9になるし、ドミソラなら、C6になる。

このくらいの和音なら、知っていたが、C7-9とか、C7+11とかなると、全くお手上げの世界だ。
-9というのは、9番目の音の半音下だし、+11というと、11番目の音の半音上という意味になる。

どこで、どのように、どの和音を使うのか・・・先生はスラスラと楽譜を書く。

でも、考えてみて下さい。
C7-9というのは、ドミソシbレbになる。
音楽をやっている人ならわかると思うが、ドの音とレbが一緒に鳴る、というのは心地よいハズがないと思うような組み合わせだ。

それが、メロディと組み合わさると、ハッとするような響きになる。
ここ、というところで、ちょっとだけ出てくるのだ。

…不協和音という言葉がある。
きれいに響かない、という事で、人間関係にたとえて使われたりする言葉だ。

メロディを仕事だとすると、時には不協和音が必要になる時がある、という事だと思う。
どうも、馬が合わない、という人でも、ある場面ではすごくいい組み合わせになったりするんだろう。

誰しも、不協和音にあたる人はいますよね。
ほとんどの場合、不協和音になる人とは、一緒に仕事はしたくないけど、時にはその不協和音がどうしても必要になるような時があると思う。自分の気持ちにかかわらず…。

人間関係も、音楽に負けず劣らず、奥が深いと思う。


| | 考えたこと | 00:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
食あたり
牡蠣を食べた。
毎年、牡蠣を食べると、食あたりを思い出す。

牡蠣にあたっても、すぐには症状が出ない。
ちょうど24時間後に出てくる。(これは、ノロウィルスというのが原因らしい。)
あたったときは、すごくひどくて、下痢・嘔吐・発熱が一気に出た。

10人くらいで同じ店で食べたが、一人を除いてみんな発症した。

一番ひどかった人は、1週間イオン飲料で過ごしたようだ。
その人は、不幸にも牡蠣がきらいで、食べたくなかったのだが、こんなにおいしいものを食べない法はない・・とみんなに説得されて食べた。
かわいそうだった。

ある人によると、あたったと思ったらすぐに牛乳をたくさん飲んで、それを吐くという療法をすると、軽く済むらしい。
ちょっと荒療治かもしれません。(真偽のほどは不明)

学生時代に下宿している頃、冷蔵庫に入れてあったアルミの鍋型容器に入った鍋焼きうどんの古いのを食べて、当たったこともある。
たぶん、うどんの上に載っていた天ぷらが悪かったんだと思う。
このときは食べて数時間で下痢と発熱だった。
お金と常識がない、というのは怖いことだ。
それを食べている時に、ちょうど下宿に遊びに来たT君に、うどん数本をあげたが、彼もおなかを壊したくらいだから、よほど傷んでいたんだと思う。

ひどい食あたりは、この2回だけ。

でも、そういう目にあってみると、人間の身体は弱いものだと思う。
ほんのちょっとしたことで、エライ目にあう。
キノコなんて、毒をもったものがたくさんあるが、きっと何人もの人が過去にそれを食べて死んでいるのだろう。

フグもそうだし、他にも毒のある食べ物(食べられそうにみえるもの)は、いっぱいあるだろう。

安心して食べ物を食べて、毎日生きているということは、それだけで、すごいことなのかもしれない。

危険を冒して安全な食べ物を選んできた先祖に感謝。
| | 考えたこと | 23:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
不思議な世界
昨日の「世界の言語の数体系」のページを眺めていたら、色々面白い言葉があった。

http://www.sf.airnet.ne.jp/ts/language/numberj.html  ←ここです。

パプア・ニューギニアのアランブラック語という言葉があるらしい。
この言語の数の数え方にはびっくりした。

数を表す単語は1と2と5と20の4つしかないとのこと。
1は1だし、2は2になる。3は(1 と 2)、4は(2 と 2)、5は5、6は(5 と 1)、7は(5 と 2)、8は(5 と 2 と 1)、9は(5 と 2 と 2)、10は(5 X 2)・・となる。

この調子でいくと、99はどうなると思います?
なんと、「(20×(2 と 2)) と (5 × (2 と 1)) と (2 と 2)」となるらしい。ひぇー!という感じです。

これでは、大きな数をあらわすのは大変だ。
生活していく上で、そんなに大きな数が必要ないという事なのだろうが…。

複雑度ナンバーワンの言語は「グワンダラ語ニンビア方言」というものらしい。
これは、完全に12進数になっている。

10進法、20進法というのは、人間の指の数という事で納得がいくが、12進法というのはどこから来たんだろうか。

僕の想像では、指を一つも開かない、グーの状態を1にしたのではないかと思う。
グーが1、指を1本立てて2・・・というふうに数えていくと、ちょうど両手で12になる。

・・・と思ったら、これはメソポタミアで、新月から満月までの繰り返しが12回で1年、というところから来ているらしい。
残念、新説ならず。

でも、数の数え方一つでこれだけ違うという・・・人間は面白い。


| | 考えたこと | 23:36 | comments(2) | trackbacks(0) |
フランス語の数字
知っていますか?フランス語の数字のこと。
キャンディーズの歌にあった、「アン、ドゥ、トロワ」というのが1,2,3になる。
英語と同じように、10,11,12…と進んで、20のことを「ヴァン」という。
ヴァンサンカンという雑誌があったが、あれはフランス語で25のことだ。

そこから、21,22,23…と順調に進む。30が来て、40,50,60まではよろしい。
70という数字がなんと、「ソワサン・ディス」=60と10ということになる。
ここで急に足し算が出てくる。

続いて71,72,73…と進み80がびっくり。「カトル・ヴァン」という。
これは日本語で言うと、「四・二十」という意味。4X20のことのようだ。
今度はかけ算。

そしたら、90はどうするかというと、「カトル・ヴァン・ディス」=4X20と10というかけ算と足し算になる。
ここからがまたすごい。
91は80と11、92は80と12、93は80と13というふうに増えていく。(わかります?80と10と1ではなくて、80と11です。)

詳しくは、このページを見てみて下さい。

http://www.sf.airnet.ne.jp/ts/language/number/frenchj.html

初めてこれを理解したときに、10進法と20進法が入り交じっているのにびっくりした。
それをフランス人に指摘すると、「すごく合理的だ」という。

現代人は、10進法に基づいて生活している。だから、80は8X10だし、90は9X10になるのが合理的ではないか?英語も日本語もそうなっている、ときいても、フランス語の数字はおかしくないの一点張りだ。

せめて、何かおかしいなあ、くらいのことは言うかな?と思ったが、頑として言わないので、ひょっとしたら、フランス人は靴をはくのが遅かったのではないか?と言った。

「何のこと?」

言われたフランス人は全く意味が取れなかったようなので、「きっと靴をはいてなかったので、指が20本使えたんだろう。」と言うと、だいぶムッとした顔になった。
フランス人は、フランス語にすごい誇りを持っているので、そんなことを言ってはいけません。

でも、今回ネットで調べると、やはり古代のフランスのゴール人(何のことか不明)は20進法を使っていた、と書いてあった。
そのなごりが数字の読み方に残っているらしい。

世界は広い…。知らないことだらけの世の中です。


| | 考えたこと | 23:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
2次元か、3次元か…
宮崎アニメは素晴らしいと思う。
千と千尋の神隠しもよかったし、となりのトトロも、魔女の宅急便も、紅の豚もよかった。

今やディズニーのアニメをしのぐ勢いだ。

そのディズニーは、3次元のコンピューターグラフィックス制作会社のPixer社を買収したという。
最近の作品ではMr.Incredibleを見たが、これはこれですごい。
景色や質感など、すべてコンピューターグラフィックスで作ったとは思えないほど、リアルな部分がある。

宮崎アニメは、細かい色の指示などはコンピューターを使っているだろうが、2次元の絵である。

どちらを作るのが、より大変なのかはわからない。
でも、単純に2次元の次は3次元…というものではないと思う。

一昨年の名探偵コナンの映画では、無理に3次元のコンピューターグラフィックスを使った部分があり、ちょっと興ざめした。

2次元には2次元の良さがあり、3次元には3次元の良さがある。
特に、宮崎アニメの世界は、2次元の方が表しやすいのではないか…という話を風呂で子どもとしていたら、たしかに、千と千尋のユバーバが3次元のコンピューターグラフィックスやったら、ちょっと気色悪い…という話になり、納得した。

現実から離れたものは、3次元にはしにくいのではないか。
それを無理なく見せられて、ファンタジックに表せるのは、2次元のアニメなのかもしれない。

まだまだ、2次元のアニメの世界は広がっていると思う。
そして、その部分は日本の強いところだと思う。

紙の上に描かれた絵の強さは、まだまだ衰えないだろう。


| | 考えたこと | 22:32 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハードボイルド
昨日から風邪で二日間寝ていた。
今朝はちょっとマシになったので、寝ながら本を読むことにした。しんどいときには、楽しい小説を読む。

アメリカの女性作家のハードボイルドの探偵ものが好きだ。
前にも書いたが、サラ・パレツキーが書いたヴィクトリア・ウォーショースキー、スー・グラフトンが書いたキンジー・ミルホーン、ジャネット・イヴァノヴィッチが書いたステファニー・プラム、いずれのシリーズもすごく面白い。

一番ハードなのがヴィクトリア・ウォーショースキー。自らを厳しく律していて、孤独に耐えていくという感じ。冬のイメージの探偵である。シカゴという土地柄もあるのか。
キンジー・ミルホーンはもう少し暖かい。カリフォルニアらしい。
ステファニー・プラムは探偵ではないが、二人と同じく、いつも金欠であり、自分にはけっこう厳しい。この人には家族がある。上の二人と比べると、かなりソフト。
3人に共通するのは、いずれもジョギングするということ。

ハードボイルドとは、どういう事か、wikipediaでひいてみると、

「内容が、犯罪や謎を解決するものが主であることから、ミステリーの1ジャンルとして分類されることが多いが、謎の論理的な解決の過程を描くことを主眼とする本格推理に対し、探偵役である主人公の行動を描くことを主眼とする傾向が強いのが特徴。主人公のタイプは、軟弱な生き方を拒否することが多いため、冒険小説にも分類されることが多い。最も典型的な主人公像は、トレンチコートに身を包みソフト帽を被ったタフガイというものである。」

男性のハードボイルド探偵は、フィリップ・マーロウとか、マイク・ハマーとか、サム・スペードとか、10年以上前に何冊か読んだが、最近は女性の探偵ものの方が元気が良くて面白い。

今日は、ずっと昔に1冊だけ読んだ、リンダ・バーンズという人が書いた、「赤毛のカーロッタ」という探偵のシリーズを読むことにした。このシリーズが読みたかったのだが、本屋で見つからず、こないだアマゾンで探し、邦訳されている2冊を古本屋で買った。

カーロッタはジョギングをしない。バレーボールのチームに入っていて、ブルース・ギターを弾く。
ネコとインコと同居している。元警官でタクシーの運転手もしている。

人は無いものにあこがれるのか、ハードボイルドはいい。

本の中でやってる方は大変だろうが、読んでいるとスッキリする。

それがハードボイルドの良さか…。


| | 考えたこと | 23:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
生きているか、死んでいるか…
今日、本屋で前から気になっていた本を買ってしまった。

P.F.ドラッカーの「ドラッカー365の金言」という本である。
2800円、という値段がちょっとひっかかっていたのだが、装丁がきれいだし、本文も二色のカラーで、充分に2800円の価値があると思えた。あまりにきれいで、鉛筆で書き込みするのに気が引ける、というのが難点だが…。

時々、新聞などでP.F.ドラッカーという名前は目にしていたが、昨年の11月に亡くなったというニュースを見て、何となく気になりだした。
どういうわけなのか…、生きている間に、読んでおいたらよかったという感傷かもしれない。

どう考えても、本の作者に会えることなどないが、その人がこの世に生きているのか、もういないのかは、本を読むときに何となく気にかかる事柄だ。

書いたことはないが、生きていたら、ファンレターが出せるし、ひょっとしたら返事も来るかもしれない。
何より、本を読みながら、同じ空気を今も呼吸しているという無意識の連帯感みたいなものがあるだろう。

死んでしまったら、もう新刊は出ないし、読んでいて疑問があっても、こたえをもらうことはあり得ない。

疑問があっても、聞くことはないのだが、でも、聞こうと思ったら聞ける可能性がゼロではない、というのは気になることだ。

自分の読書習慣からみて、どうも、若い人が書いた本を読むことが少ない。
若い、若くないは自分の歳が基準だから、要は自分よりずいぶん年齢が下の作者の本はあまり読まない、という事だ。

本屋で本を手にとって、著者紹介のところを見て、年齢につい目がいきませんか…。

いずれにせよ、本を読むということについては、これからどんどん死んだ人とのつき合いが増えてくる、ということだろう。

どんどん、死んだ人とのつき合いが増えてきて、最後には自分の番…となる。

作者が生きているか、死んでいるか…、気になりませんか?


| | 考えたこと | 22:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
巻きずし
いつから節分の日に巻きずしをかぶる、という習慣ができたのか・・・。
お寿司屋さんが、バレンタインデーのチョコレートを横目で見て、うちもやろう、ということでやったのか、と思う。
年々、さかんになってきたような気がする。

今日は巻きずしを買って帰って、食べてしまった。
ちゃんと巻きずしのセットの中に、豆まきの豆も入っている。
まるかぶり、ということで、巻きずしは切っていない。

巻きずし自身はおいしかったが、本来は、2月3日に南南東を向いて、黙ってかぶらないといけないらしい。
誰が決めたのか・・・。
方角は毎年変わるらしく、その年の縁起のいい方角を向くことになっているとのこと。

関西にそういう風習があったのは事実らしい。
少なくとも、神戸のウチの近所では聞いたことがない。

大阪では、やっていたのだろうか。

最近では関東でも宣伝されて、節分の日には巻きずしを売っているらしい。

アメリカのテレビドラマを見ていると、バレンタインデーのエピソードはよくあるが、チョコレートの話は出てきたことがない。
これは、きっと、日本のチョコレート業界が大成功をおさめたキャンペーンだろう。

それに比べると巻きずしの方は、根も葉もない風習ではない、というのはちょっとマシか。

みなさん、3日は巻きずしをかぶるんですか?

| | 考えたこと | 00:13 | comments(4) | trackbacks(0) |
僕はラジオ RADIO
久しぶりに、感動する映画を見た。

2003年のアメリカ映画。最初に「実話にもとづいたストーリー」と出てくる。
アメリカン・フットボールが題材になった映画は多いが、どれも面白いと思う。
さすが、アメリカの国技と言っていい。

この映画も高校のアメリカン・フットボール部のコーチが主人公。厳しいコーチだ。
もう一人の主人公が、知的障害を持つ黒人青年。

コーチの役はエド・ハリスという俳優だが、この人が渋い。
こんな50代になれたらいいなあ、と思わせる。

黒人青年役の俳優もすごくうまい。
タイトルのラジオというのは、この青年がラジオが大好きで、自分のことをラジオ、というところからついている。

この、ラジオがコーチに頼まれて、アメフト部の練習を手伝い、だんだんと心を開き、苦難を乗り越えて・・というおはなし。

淡々とストーリーは進む。

このコーチが、娘に、なぜ自分がラジオの世話をするのか、という場面は良かった。
盛り上げて、感動的にしている映画ではないが、淡々と進む中に、じんわりと心打たれるシーンが出てくる。

最後のタイトルバックに、実際に今も高校のフットボール部にいる、ラジオの映像が出てくる。
この映像を見たら、この映画を見て良かった・・と本当に思う。

すごくいい映画だと思います。

| | 映画・舞台 | 23:56 | comments(0) | trackbacks(0) |