考えたこと2

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アメリカの大寒波
アメリカに今大寒波が来ている。BSニュースでやっていた。
主に中西部。シカゴ川は凍っているらしい。
シカゴはウィンドシティとも呼ばれて、寒風が有名だが、それで流れる川が凍るとは、スゴイ。

一部の地域では気温と体感温度の予報がマイナス40度とのこと。
日本で言えば、帯広あたりの真冬の朝がマイナス20度あたり。
日本とカナダで経験したが、いくら防寒着を着込んでも、顔が寒い。
息をすると、ちょっと苦しくなる感じだった。
そこから、まだ20度下がる。
これはもう命に関わると言っていいと思う。

そこで、中西部の警察は犯罪を「禁止」にしたということらしい。
犯罪は禁止されていることをやるから、犯罪だと思うのだが、それを「禁止」したということだ。
ニューズウィークの記事によると、

「中西部の一部の地域では今週、気温と体感温度予報が氷点下40度にもなりかねず、「命を脅かす」ほどの低温になるとされ、警察署や郡保安官事務所は「犯罪の休止」を宣言した。インディアナ州ノーブルズビルとイリノイ州ウェストチェスターの警察はネットで、不法行為をはたらくより「家で読書でもするか、ネットフリックスを見ているように」と呼び掛けたのだ。」

いくら警察が「犯罪の休止」を宣言しても、やる人はやると思うが、それくらい外に出るのは危ないということだ。
不法行為を働くよりも、家で読書でもしておけ、という警告は命が惜しかったら、ということだろう。
それにつきあわされる警察も大変なんだから…、ということも含んでいる。

そのうえ、犯罪は「無効」になる。

「ウェストチェスター警察署は1月26日、同署のフェイスブックページにこう書いた。「猛烈な寒さと風のため、わが警察署は、あらゆる軽犯罪および重犯罪活動を無効とする」。「犯罪者諸君、どうか気づいてほしい。いまは犯罪を犯すには寒すぎる。読書をしてもネットフリックスを見てもいい。FBIの銀行強盗犯情報サイトへ行って、容疑者逮捕に協力するのでも構わないが、外出して犯罪を犯すのだけはやめてくれ」」

「無効」の意味がわからないが、とにかく切迫しているのはよくわかる。
とにかく、寒すぎるのだ。
外出して犯罪を犯すのだけはやめてくれ、というのは真摯な声だろう。
なかには、これに違反したら、禁固刑に処す、という警察署もある。

日本の警察で、同じケースでこんな警告は出せるだろうか。
帯広警察が、今は犯罪をやるには寒すぎる、とか言ったら、文句を言う人が出てくるかもしれない。
でも、それくらい寒いというのが、マイナス40度。

冗談めかした警告だが、こういうのがアメリカらしい。
でも、犯罪者の方も負けてはいない。
シカゴでは拳銃でおどして、防寒着を盗む事件が起きているということだ。
何ともいえないイタチごっこ。

でも、それだけ寒いのは事実。
エライことだ。




| | 考えたこと | 21:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
もうすぐ春休み
大学は早いところではもう秋学期の試験も終わり、卒業式を待つシーズン。
だいたい、3月の中旬くらいに卒業式だから、下宿している学生たちはぼちぼち引き払う。
この季節は卒業する学生たちにとっては、別れのシーズンになる。

今行っている学校には、学生個人のロッカーがある。
一人ずつ、必要なものは学校に置いておける。
先週から、ロッカーの前に告知が出た。
赤い字で書いてある。
「卒業する学生は、1月末までにロッカーの私物は持ち帰ること」

それを見て、ユーミンの「最後の春休み」を思い出した。
この曲は、「春休みのロッカー室に 忘れたものを取りに行った」という歌い出し。
今の学校そのものだ。

今日は資料の印刷で、コピー室に何度も足を運んだのだが、ロッカーの前で立ったまま長いこと話し込んでいる女の子がいた。
きっと、この春に別れていくのだろう。

学校で仕事をしていると、卒業式が近づくにつれて、なんとなく切なくなる。
そういう場面を見ることが多くなるからだ。
会社時代はそんなことは全く考えなかったが、仕事柄だ。

自分の事を思い出すと、卒業式にそんなに重い気持ちはなかった。
小中高は、次の学校に一緒に行く友達もいたし、クラスの仲間と別れることにほとんど未練はなかった。
そんな高尚な気持ちはなかったのだと思う。

さすがに大学4回生の時は、これで自由な生活はなくなるのか、という思いや、住み慣れた下宿を離れるという別れの思いはあったが、それが主だった。
最後に落研の部室に行ったことは覚えている。
もう今は移転して別のところになったらしいが…。

さよなら寄席のあと、送別会はあったと思うのだが、覚えていない。
アルバムは置いてあるが、あれもそのうち燃やされてオシマイになるだろう。
なんのために、置いてあったのか、今となってはよくわからない。
まあ、思い出と称するものは、この年になればみんなそういうものだ。

若い頃は、きっと年をとって昔を懐かしむだろうから、置いておこう、などと思う。
写真を整理してアルバムを作る。
でも、実際年をとると、そんなものは見る気がしない。
よほどのナルシストでないと、見られないだろうと思う。
そのうち、捨てよう。

それでも、若い人たちの別れの時期に、切なくなるのは何故だろう。
彼らの気持ちを忖度しているのだと思う。
実際には、彼らもそれほどのことはないのだろう。

ユーミンの、「最後の春休み」がいいと思う人は、それが過ぎ去った人なのだろう…。





| | 考えたこと | 20:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
ぼくはコメが好きだ。
最近は控えているが、昔はご飯があればそれでOKだった。
そして、餅も好きだ。
昔は正月になると、子供は年の数だけ餅を食べようと祖母が言っていた。
小学校1年で6つ食べて、2年で7つ…と増えていく。
平気で食べていた。

うちの息子たちはそれほど餅が好きではない。
正月だから、雑煮はつきあいで食べるという感じ。
ということで、最近はたいがい餅が余る。

鏡餅も、最近は大きな餅を飾るのではなく、鏡餅の形をしたプラスチックの入れ物の中に、丸い餅がいくつか入っているものを買う。
それも、ぼく以外は食べない。
余った餅は一人で片付けることになる。

おかげで、1月、2月の土曜日の昼などは一人で餅を食う。
オーブントースターにクッキングホイルをひいて、その上に乗せて焼く。
上下から同時に熱を加えるので、焼けるのが早い。
だいたい冷蔵していた餅で、6分くらい。
ふくれてきたら、もうOKだ。

ぼくは雑煮も好きだが、焼いた餅を椀に入れて、醤油、塩、味の素、おぼろ昆布、塩昆布などで味をつけて、湯を注いで食べるのも好きだ。
実家ではよくそんな食べ方をしていた。
どうも世間では珍しいらしく、そのことを話すとたいがい驚かれる。

今はもうそのことは話さず、ただただ余った餅を食べる。
週に1回か2回食べるだけだから、2月いっぱいくらいは持つ。
これが隠れた楽しみ。

しかし、若い人たちは餅を食べなくなった。

子供の頃、年の数だけ食べようと言っていたのが嘘みたいだ。

これも豊かになったからだろうか…。



| | 考えたこと | 20:35 | comments(0) | trackbacks(0) |
ギターを習う
どこかに書いていたと思ったが、書いてなかったので、書いておこう。
2005年7月16日に、アロージャズミュージックスクールに入会して、月に2回ギターを習っている。
もうまる13年以上経つ。

2004年の4月に大学に転職して、そんなに夜遅くまで残業しなくてよくなった。
それで、一年ちょっと経って、習い始めた。
最初こそ、やる気満々だった。

ジャズの理論について知りたかったし、どうやってあのアドリブを弾いているのか知りたかった。
イオニアン、ドリアン、フリジアン…、というスケールの理屈は理解したし、代替コードや裏コードについてもわかったし、和音の再構成についてもわかった。

でも、「わかる」のと「できる」のは別だ。
極端な話、わからなくても、できたらそれでいいのだ。

同じ年の先生を見ていると、すごい努力をしている。
当たり前だが、ぼくらのように暇な時にギターを弾くというレベルではないのだ。
ギターを弾くのが「仕事」だということは、スゴイことなのだ。
それが一番大きな「わかったこと」かもしれない。

先生は週に1日、2日程度、ギターを教える仕事をして、あとはオファーにしたがって仕事というような状況。
顔の広さも大事だ。いろんなつながりで仕事が来る。
数年前に、一回り以上違う、歌手の母娘の娘の方と結婚されてからは、母親のやっているお店での仕事も増えたと思う。

大フィルからの依頼でエレキギターを弾いたり、いろんな店でのライブもある。
プロが仕事を受けるということは、おそらく8割の力で弾けるということだろう。
2割位は余裕を持たないとダメだ。
それは自分の仕事でも同じ。

若いときはアイドル歌手のバックもしたことがあるらしい。
今は大阪だけではなく、いろんなところにドサ回りにも行く。
言葉の少ない先生だが、長いこと習っているとそんなこともわかってきた。

先生ほど弾けたら、さぞ楽しいだろうと思う。
それでも、その裏にはスゴイ努力がある。
そう簡単には、楽しく弾けない。
何でも仕事にしたら、シンドイということだ。

ギターを弾くだけでなく、スコアもさっと書く。
音楽を伝える手段は、やっぱり楽譜。
書けるし、読める。
それも、わかったことの一つ。

一時は打ち込みの仕事もアルバイトでしていた由。
コンピューターにも強い。

きっとあの先生だから、続いているだろうと思う。

いつまで続くだろうか。




| | 考えたこと | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
朝のマクドナルド
日曜日の朝、歩いているとマクドナルドの前を通りかかった。
ガラス張りで、窓に沿ってお客さんが座って食事しているのが見える。
この十数年でその景色は様変わりした。

店内の半分くらいは高齢者だ。
夫婦で座って外を見ながら、仲良く食べている。
駅チカの店だ。

以前はマクドナルドといえば、子どもたちを連れたお母さんばかりだった。
今も時間や場所によっては、そうなんだろうが…。

店でテイクアウトして、歩いて持ち帰るお年寄りもいる。
そんなに大きな袋を持っていないから、連れ合いの分を持ち帰るのだろう。

ネットで見てみると、やはり朝は高齢者が多いということだ。
空いている時間を知っているのだろう。
日曜日の朝は、混まない時間帯なのだ。

一方で、アルバイトもシニア化しているらしい。
若い人たちが減って、アルバイトが足りない。
主婦層でも足りないところは65歳以上のシニアをターゲットにしているとのこと。
18歳を超えていたらいい、という募集内容。
週2時間だけでもOKになっているとのこと。

それが高齢者の認知症予防にもなるという。
若い人に混じって仕事をする、という刺激がいいらしい。

実際、マクドナルドのアルバイト募集のページを見ると、若い人たちに混じって65歳の人も紹介されている。
仕事の紹介動画では、73歳の人の仕事風景もある。
子供や孫の世代と一緒に働けるというのがいい、というコメントをしていた。

こういうのが、リアルな少子高齢化なのだろう。

マクドナルドはアルバイトの教育も厳しかった。
今は他の外食もあるが、10年ほど前はマクドナルドが一番だったと思う。
大学生たちは、マクドナルドでアルバイトをしていると、ちょっと自慢げだった。
当時話を聞くとマニュアルが完備されているだけでなく、研修などもあって、アルバイトでも仕事にプライドをもたせようとしていた。
今はどうか、わからないが…。

65歳を超えるとなかなか仕事がないのだが、こんなふうに雇用を拡大しているのは素晴らしい。

朝のマクドナルドを見て、いろいろ教えられた。



| | 考えたこと | 14:33 | comments(0) | trackbacks(0) |
生きる価値
自分の人生の最期について、考えなければならない時期になってきた。
どういう最期が望ましいだろうか。

一つあるのは、管をつないで意識もなく延命するのは嫌だということだ。
実際にそうなったときに、本当に意識がないのかどうかはわからないが、少なくとも何日もその状態でいても仕方ない。
多くの人はそう思うのではないか。

おまけに、そこには費用が発生するし、それは日本の経済、とりわけ若い人たちの生活を圧迫する。
そんなことを考えると、早く逝ったほうがいい。

西洋には寝たきり老人というのはいないという。
なぜなら、自分で食べられなくなったら、それは死ぬということだ、というコンセンサスがあるからだと聞いた。
日本で寝たきりになるのは、寝たまま食事介助したり、胃に直接栄養を送ったりしているからだろう。
そういうことが、日本の平均寿命を押し上げているとしたら、それはあまりいいことではない。
西洋ではそれは虐待とも言われるらしい。

ぼくも、西洋の考えに賛成だ。

哲学者の池田晶子は、ソクラテスを引用して「善く生きている人にとってだけ、生きていることは善いことだ」と言っている。
単に長く生きることは価値ではないのだ。

実際、2015年の調査によると、「自分は延命治療は希望しない」という人が81%に達したとのこと。
大事なのは、まともな判断力があるうちに、家族にそういう意思表示をしておくことだ。

それをしても、実際にはどうなるかはわからない。
医者は処置をする義務があるらしい。

その義務を超える法律はまだない。

医療費のことを考えるなら、早くそういう法律を作るべきだと思う。


| | 考えたこと | 20:09 | comments(0) | trackbacks(0) |
役所のIT化
さいたま市で、富士通がAIを使って、保育所の入所選考を効率化するソフトをテストした。
それによって、10日以上かかることもあった複雑な入所選考を、数秒で終わらせたということだ。

記事によると、すでに30以上の自治体で検証実験を行っており、いくつかの市に導入される予定。
まことに結構な話だと思う。

でも、こんな事例はきっとゴロゴロあるんだと思う。
前にも書いたが、90年代から2000年代にかけて、民間企業がIT化を進めた時代に、公務員はほとんど減っていない。

もともと10日もかかっている事自体が、おかしいのだ。
これから働く人が減るというのに、公的部門の仕事が非効率過ぎる。

民間企業を定年した友人が、再雇用で役所で働いているが、役所の人たちのPCリテラシーの低さ、データー共有などの意識の低さなど、呆れるものがあるという。
いたるところにローカルルールがあり、統合されていない。
同じ仕事をしているところが、そこに働く人のいいように運営されていて、やり方が違う。

あるところでは台帳を作っている仕事が、あるところではエクセルに入っている。
エクセルで送れば済むデーターを、なぜかPDFにして送ったりする。
同じ外郭団体で、全く同じ仕事なのだが、やり方はバラバラ。

友人は、実際にその姿を見て、いくら言っても無理だ、という。
何度かトライはしたという。
あの職場は、そこで働いたら「効率化」などという言葉は思いつかなくなるらしい。

その上、65歳まで定年を延長することになった。
ただでさえ非効率な働き方を身体で覚えた人が、居座ることになる。
役職をどうするとか、待遇をどうするとか、そんなことは勝手に決めてくれたらいい。
しかし、仕事をスリム化をしないといけない。

役所こそ、本気で職場の改革をやらないといけないのだ。

そうしないと、日本の生産性は上がらない。


| | 考えたこと | 23:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
マナーの違い
西洋と東洋ではだいぶマナーが違うのは知っているが、同じ東洋だとそんなに違わないと思っていた。
ところが、日本と中国や韓国でも違うらしい。

まずは麺類を食べる時に音を立てるということ。
日本人はそうやって食べるが、中国や韓国の若い人は驚くらしい。
中国ではそんな食べ方をすると、びっくりされるらしい。
これは知らなかった。

「いただきます」に当たる言葉も中国や韓国ではないらしい。
決まった挨拶なしに食べ始めるのだが、年長者が箸をつけるまで食べ始めないらしい。
日本では「年長者が食べるまで待つ」という習慣はほとんどない。
このあたりは、さすが儒教の国だ。

家に上がる時に、脱いだ靴を揃える方向は日本と韓国は逆らしい。
これも知らなかった。
韓国では、つま先を外に向けて揃えると、早く帰りたいという意味になるとのこと。
中国は細かいルールはない。

同じ東洋でも、いろいろと違うことがある。
中国と韓国はわりと似ているのかもしれない。
日本は海を隔てているし、江戸時代300年の鎖国もあるし、そのへんで変わったのだろう。

1988年に中国に出張したことがあるが、その時に「同じ漢字でも意味が違う」という旅行の注意があった。
特によくもめるのは「検討」という言葉だったと記憶している。
日本では、持ち帰って検討する、というと儀礼的に言うだけという感じだが、中国人にとってはもっと前向きで、ほぼ成功、という意味にもなる。
同じ漢字の国でも、大きく違うのには驚いた。

相手が西洋人なら、まあ仕方がないと思えることも、東洋人なら思えなかったりする。
このへんがややこしい。
顔が似ているだけに、そう思うのだろう。

国ごとに、違うのは当たり前だと思わないと…。


| | 考えたこと | 22:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
おかしな文科省
インターンシップが早期選考に使われるようになってきて、経団連も就活時期の取り決めの形骸化を認めて、取り決めを廃止した。
それは、新卒一括採用や年功序列、終身雇用制度などの崩壊の始まりの一つの事象だと思う。
日本の経済を取り巻く環境が変わり、時代は低成長、どうやって優秀な人材を採るか、そのためには人事制度をどうするべきか、どうやって生産性をなど上げていくかなどの課題を考えると、古い制度を破壊しないと仕方ない、という結論になるのだろう。

海外では広く実施されているインターンシップだが、ようやく日本でもやり始められた。
まだまだ1日だけの説明会の先出し、というものも多いが、ちゃんと何日か働いて見る、というようなものも増えている。
大手はこれからどんどん長期が増えるだろう。
誰が優秀か見極めるためにも、たかだか数十分の面接だけで学生を選ばないためにも、有効な手段だ。

ところが、文科省はインターンシップに関して、キャリア教育と位置づけ、「インターンで得た学生情報は採用選考活動には使用できない」と言っているらしい。

確かにキャリア教育という側面はあるが、インターンシップは就業体験だ。
実際に働いてみて、学生がその会社や仕事内容を評価するとともに、会社側も学生を評価する。
そんなことは当たり前だ。
1週間一緒に働いてみて、この学生は見どころがあるとか、この職場で続きそうだ、というようになれば、採用優先順位は上がるに決まっている。

今年、すでにインターンシップから採用が決まった学生が数%いるという。
それは当然だろう。

アメリカには新卒一括採用というのはない。
採用の仕事をする人事部というのもない。
事業部が職種を決めて募集して採用する、という形が一般的らしい。

出張で行ったイギリスの会社も、社内で募集があって、そこで社員が面接して異動が決まるということもあった。
要は何ができるかを評価して、それで仕事が決まるということだ。
日本のように、潜在能力に期待して一斉に採用するというようなことはない。

学生はインターンシップを経験して、仕事を覚え、面接や試験でそれを伝えて採用される。
中途と新卒の区別はない。
もちろん、就職するのは卒業してからだ。

こういう形になると、大学も理系はともかく文系は厳しい。
今まで以上に、何ができるか、できるようになるかを学校側は明らかにしないといけない。
少なくとも、文系の学部教育は、もう少し実社会で実用的なものに変わらないといけない。
また、実用から遠い学問は学部を廃して大学院だけにするとか、改組が必要になる。

大学がそういう痛みを経験することで、初等、中等教育にもメスが入るはず。
今までのように、小学校の算数ができない学生を、できれば大学は入学させたくないからだ。
大学は今まで以上に、実質的に質の保証をしないといけなくなる。

そういうプロセスで、世界に間に合うかどうかわからないが…。


| | 考えたこと | 22:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
WHOの文書
つい先日、WHO(世界保健機構)がTen treats to global health in 2109という文書を出した。
2019年の世界の健康に対する10の脅威、という意味だ。

その中の一つに、Vaccine hesitancyというのがある。
中に書いてあることの意味は、ワクチンが利用可能であるにもかかわらず、ワクチン接種を拒否する、ということだ。

ワクチンによる予防接種は、最も費用対効果の高い病気を回避する方法の一つであり、現在年間200〜300万人の死亡を予防している。
それにもかかわらず、人々が予防接種をしないことを選んでいる。
2019年にはWHOはHPVワクチンの適用範囲を拡大することによって、子宮頸がんを世界的に排除するための取り組みを強化するとのこと。

日本でも子宮頸がんのワクチンを拒否する人たちがいる。
そのことをめぐって、賛否両論が展開されているが、世界保健機構がHPVワクチンを広め、子宮頸がんを世界的に排除するという。

どうみても、世界保健機構はHPVワクチンの接種に賛成の立場だ。

日本はどうするのか。
世界保健機構の決めごとなど間違っていると言うのか。

医療関係者はもっと議論をして、ちゃんとした結論を出すべきだと思う。
もっと科学的な議論をしてほしい。

ツイッターでも誰かが書いていたが、「WHOがHPVワクチンの適用範囲を拡大することによって、子宮頸がんを世界的に排除するための取り組みを強化する」ということを、ちゃんと報道しないマスコミはおかしいと思う。

さて、どういうニュースが載るか、それとも載らないか…。

| | 考えたこと | 19:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
追悼 横田順彌
今朝の新聞で、横田順彌が亡くなったという記事を見た。
そんなにたくさん読んだわけではないが、若い頃に、数冊の文庫を読んだ。
まだSFというジャンルが、文庫本のジャンルとして成立したいた頃。
1990年代くらいまでだろうか。

当時はSF作家がたくさんいた。
ぼくが読んだのは、小松左京、星新一、筒井康隆、光瀬龍、眉村卓、豊田有恒など。
その最後の方に、横田順彌がいた。

ドタバタのSF小説(それはそれで、細かい構成力は必要だが)を書いていたとおぼえているが、新聞によると後年は明治時代の事を書いていたらしい。
SFで食えなくなったということもあったかもしれない。

もう亡くなった人もいるが、たくさんのSF作家たちは今はジャンルを変えて生活しているのだろう。
横田順彌もその中の一人だったということだ。

思えば、SFのブームはちょうど高度成長からバブルの頃だった。
未来に夢があった。
明日は今日より必ず豊かになるし、科学はどんどん進歩して、人間を助けるものという意識だった。
そういう時代の中で、SFがもてはやされた。

ウィキペディアにはSF作家と並んで、明治文化史研究家と書かれている。

伊達や酔狂ではドタバタSFは書けない。
その才能や興味を、明治の文化研究で開花されたのだろう。

横田順彌は比較的若かったSF作家だと思っていた。
その彼が73歳で亡くなった。

合掌。





| | 考えたこと | 21:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
禁煙とティータイム
ぼくは2008年に脳梗塞をやって、禁煙した。
当時はまだオフィスの中にも喫煙ルームがあったりして、仕事場で吸えた時代。
その後10年経って、どんどん厳しくなった。
学校でも構内は禁煙、というのが当たり前になりつつある。
喫煙者の先生は研究室でこっそり吸う、という感じだ。
オフィスビルでも、室内で吸えず、階段の踊り場などで吸うとかいう有り様。
そもそも若い人の喫煙率は下がっているから、どんどん吸う場所も減っていく。
電子タバコもだいぶ普及したが、それでも何となく人のいるところでは吸えない、という風潮だ。

禁煙してみたら、タバコを吸うと部屋が汚れるとか、灰がいろんな所に落ちるとか、匂いがするとか、デメリットが見えるようになる。
でも、一つ喫煙の良さがあるとしたら、仕事中に違う部署の人とコミュニケーションが取れる、ということだ。
ぼくが経験した職場では、他にそういう機会がなかったから、結果的にこれは良かった。
当然、喫煙者だけだが、それでも仕事のことで、いろんな情報を交換したり、知恵をもらったりした。
そして喫煙者がそれを持ち帰り、部署の中で情報交換する。
これが結果的に組織の垣根をだいぶ下げていたのだと思う。

全面禁煙にしたときに、こういう場をどうやって作るかは難しいと思う。
それまでは何の不自由もなく、自然にできていたからだ。

ぼくが新入社員のころ、もっと古い人たちには、麻雀というコミュニティもあった。
夕方4時過ぎに電話があって、課長に取り次ぐとひそひそ話をして、5時過ぎに帰る。
そういうときは、たいがい会社のそばの雀荘にいる、と先輩社員に教えてもらった。
会社が忙しくなり、雀荘も潰れてしまったが…。

今の会社は組織も大きくなり、人も増えて仕事は細分化したのだと思う。
そのうえ、全面禁煙が当たり前になっている。
おまけに、どんどん中途入社での人も雇っている。
そうなると、どうやって部署間のコミュニケーションを取るのだろう、と思う。

公式には会議体があったりして、部署の情報はシェアされるのだろうが、そんなところで話せる情報はしれている。
非公式のコミュニケーションの場がどれだけあるか、だと思う。

80年代にイギリスのオフィスで何日か働いたことがあるが、あのときはイギリスには本当にティータイムというのがあるのを知った。
古い会社だったから、それがあったのか、それともイギリスでは当たり前だったのか、そこまではわからない。
それでも、そのフロアのいろんな部署が集まって、午前と午後の2回、ティータイムをやっていた。
当時、イギリスは経済的には苦しんでいたが、それでも余裕があって、豊かな国だと思ったものだ。
今はどうなっているかは知らないが、あれはいい制度だと思う。
部署間の情報交換を非公式に進められる。
他部署の人のアイデアをもらえたりもできる。

今から思えば、脳梗塞をやってから、ほとんど他部署の人と話す機会はなかった。
週に1回の会議だけ。
もっとコミュニケーションが取れていれば、辞める時期は遅くなったかもしれないとは思う。

それほど、非公式な部署をまたいだメンバーとのコミュニケーションは大事だ。
タバコはもうだめだとしても、ティータイムならやれるのではないか。

一見、生産性が下がりそうだが、きっとこういう取り組みは生産性を上げると思う。
| | 考えたこと | 22:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
テレビCM
去年の春に関東圏のテレビCMの取引指標が変わったという。
原因は、大手の広告主へのアンケート結果。
103社中37社から「社内でテレビ媒体の利用をやめてみてはどうかという意見が挙がったことがある」との回答が寄せられたらしい。

民放はテレビCMの広告収入で成り立っている。
そのCMを止めよう、という動きが広告主の間に出ているということだ。
古いメディアの筆頭であるテレビ。
新聞や雑誌と並んで、存亡の危機にある。

インターネットの広告を出せば、いろんな情報が得られる。
大手のSNSなどが、検索の情報や個人の属性などを取っていて、それと広告のバナーをクリックした回数やどんな広告をクリックしたかなどの情報を合わせて分析できるようになっている。
値段も圧倒的に安い。
得られる情報量が圧倒的に多いのだ。
そういうわけで、テレビCMを止めようという声になる。

実際、若い人たちはテレビをほとんど見ない。
テレビよりもネットのほうが楽しいからだ。
これが進めば、確実にテレビの広告は減るだろう。
古いメディアを見る人たちはどんどん亡くなっていくからだ。

そんなわけで、関東圏のスポットCMの取引指標が、去年の4月に「リアルタイム世帯視聴率」から「リアルタイム個人視聴率」と「放送後7日以内のテレビCMの平均視聴率」というものに変わった。
遅まきながら、視聴率の取り方を個人ベースに変えて、録画への対応をしたということだ。
広告主にとっては、ちょっと情報量が増えたということになる。

ぼくは地上波はNHKとリアルタイムの中継以外ほとんど見ないが、そんな人も増えているんだと思う。
実際、広告主へのアンケートでは「5年後にテレビ媒体への出稿比率は?」という質問に「やや減っている」が45.6%、「大幅に減っている」は13.6%、合計で59.2%がテレビの出稿を減らす意向を示したとのこと。

それを食い止めようとすると、広告の値段を下げてもっと多くの広告を入れることくらいしかない。
実際、制作予算も減少していて、各局ともに安価なワイドショーやバラエティが増えている。
ひどいのは、出演者がみんなでYoutubeの動画を見たりするものや、新聞を見るもの。安く作れるんだろうが、ああいうのを流していて疑問を感じないのだろうか。

ドラマもロケが少なく、スタジオの場面が多かったりするし、昔の番組の再放送に比べて明らかにエキストラも少ない。
素人が見ても、手を抜いているのがわかる。
また、長期になるとギャラが上がるので、たいがい3か月で終了。
何年もにわたって作られる海外のドラマとは、質が違いすぎる。

遅きに失した感はあるが、テレビCMの取引指標が見直されようとしているのはいいことだとは思う。
しかし、民放という広告に頼った従来のビジネスモデルが苦しいのは変わらない。

どうなっていくのか、楽しみではある。



| | 考えたこと | 00:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
三角関数
松浦晋也というライターがいる。
「国産ロケットはなぜ落ちるのか」という本を読んだ。
よく取材されていて、いい本だった。

その縁で、彼のツイッターをフォローしている。
こないだの彼のつぶやきが以下のもの。

「経済が弱体化して日本技術者が中国に出稼ぎに行くというのは手始めでしかない。日本は食料輸入国なので、経済が弱体化すると食糧輸入ができなくなって食い詰める。経済の衰退の最後には飢餓が待っていると考えねばならない。

未来に向けて持続的に、日本という島国がこの星の上で食っていきたければ実体の伴う強い経済を維持するしかない。科学技術立国や高等教育システムの普及と維持はそのための方法論なのだ。

昭和一桁以前生まれが、魂の奥底に刻み込んだはずの飢餓への恐怖が、70余年を経てここまで薄れるというのは、ちょっとびっくりだと思っている。食べるものがないって、本当に悲惨で怖いことなんだよ。」

うちの父は昭和2年生まれだったが、たしかに食べ物がない時を知っていた。
毎年8月15日には、家族揃って芋粥を食べた。
その時に、戦後の食べ物のない時期の話を毎年聞いた。
芋の蔓まで食べたという話だった。
いつ頃までそんなことをしただろうか…。

「うちもそんなことをしていた」という話も聞いたことがある。
でも、そんなことをしている家庭ももうなくなった。
そのことを危惧して、彼はつぶやいたんだと思う。

小学校の先生は、日本には資源もなく、人が国を支えるという事を言っていた。
あの頃の先生も、昭和一桁生まれだったんだろう。

ぼくは橋下さんのファンだが、彼が三角関数を教えることに否定的なのは、手放しに同意できない。
確かに、三角関数など知らなくても生きていけるし、人生で成功もできる。
学校を出て、一生使わない人の方が圧倒的に多いというのもそのとおりだと思う。
それなら、三角関数を習わなくて、何を習うのか。

ことは三角関数のことではなく、役に立たないものを習うということについてになる。
人によってどういう人生を選択するか、バラバラだし、人生に役立つものを特定することは難しい。
だからこそ、こういうものを習おう、ということを誰かが決めないと仕方ない。

ぼくも三角関数は文系には不要だとは思う。
でも、その代わりに誰が何を選ぶのかということだ。

「科学技術立国や高等教育システムの普及と維持」ということを考えた時に、誰かが何かを選ばないといけない。

それはそんなに簡単なことではないと思う。



| | 考えたこと | 22:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
CD823枚
全米のアルバムチャート1位になった、ラッパーのセカンド・アルバムのCD実売がたった823枚とのこと。
一方で、ストリーミング等による合計は5万6000ユニットだったとのこと。
これらの合計でチャートの順位が決まる。
要は、アメリカではもはやCDを買って音楽を聞くということはなくなりつつある、ということだ。

もちろん、古い客層はまだまだCDを買っているのだろうが、流行りの音楽を聞く層については、もうCDプレーヤーも持たないし、聞くときは月額いくらのストリーミングで聞くか、ダウンロードして聞く、ということになる。

それにしても、全米のヒットチャートでトップの楽曲のCD販売がたった823枚とは…。
アルバムチャートだから、きっとアルバム単位でのストリーミングやダウンロードだと思う。

ミュージシャンに入るお金はどうなるのだろう。
CDが売れなくなって、ライブが増えて、それで食べていく、という図式になっているから、やっぱりCDが売れないとミュージシャンの実入りも減るのだろう。
このアルバムは全米1位のアルバムとして、実売が過去最低記録になったとのこと。
そういう時代なのだ。

このヒップホップというジャンルは特にストリーミングで聞く、という人が多いらしい。
だから、こういう記録になったのだろうが、いずれ全てのジャンルでそういう時代になる。
ここでも、必要なものを必要なときに、というサブスクリプションのモデルが生きている。

ぼくは未だにレコードを持っているが、聞く機会はない。
年をとって時間ができたら…とか考えていたが、めんどくさいのだ。
さらに、古い曲がどんどんデジタル化されている。
マイナーなものはレコードでしか聞けないだろうが、ユーミンはこないだ全部の曲をデジタルで聞けるようにした。
もうお金もたくさんあるし、曲が残ることの方が価値があると思ったのかもしれない。

若いミュージシャンの曲は、最初からデジタル化されている。

ということは、あと50年ほどしたら、古い曲を知っている人もどんどん減り、全てがデジタルの世界で残ることになる。
ぼくらの子どもの世代は、最初こそCDやカセット、MDだったが、今はごく一部の気に入ったミュージシャンのCDだけ買っている。

平成生まれの彼らが、最後の物理メディア世代になるのかもしれない。

新しい年号の世代は、もうデジタルキッズだ。
最初からスマホに入ったプレーヤーで、ストリーミングやダウンロードした曲を聞く。
それが当たり前になるのだろう。

老兵は去りゆくのみ。

| | 考えたこと | 21:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
EUはどうなる?
ヨーロッパはアメリカと違って歴史もあるし、民主主義の伝統もある。
その割には戦争ばかりしていたが、それを二度としないために共同体を作る知恵もあった。
アメリカの人口が2億人の頃、EUが結束して2億人のマーケットを作り、アメリカに対抗していこう、という意図もあったと思う。

しかし、イギリスがEU離脱を国民投票で決めてから雲行きが怪しくなっている。
メイ首相は孤立無援状態でも頑張っているが、離脱案が議会に大差で否決され、どうなるのかわからない。
ニュースでしか知らないが、彼女の粘り強さには感心する。

前首相のキャメロンが、EU離脱の国民投票をやったことが間違いだ、という人もいた。
彼は投票結果を見て、辞めてしまったが、国民投票の実施を公約して選挙に勝ってしまったから、仕方がない。

フランスのマクロン大統領は、毎週末行われる黄色いベスト運動のデモで大変だ。
極右のルペンを破って若い大統領になったが、格差の拡大などで批判されている。
どこの国でも、年寄りの年金を減らしたりすると、調子が悪い。

ドイツのメルケル首相はまだ64歳だが、2021年の任期で降板するという。
こちらは難民の受け入れが結果的に評判を落とし、政権は維持したが21年までということになった。
フランスと同じく、極右の政党が台頭してきている。

ヨーロッパの主要3国の首脳が、いずれも調子が悪い。

一方、アメリカはトランプ大統領がどんどん側近をクビにしている。
彼が言っている「アメリカ・ファースト」というスローガンは支持が強く、民主党は批判しているが、勢いは続いている。
いろんなスキャンダルは全てフェイクだと決めつけ、ツイッターでたたく。
フェイクでない部分もあるのだろう。
それでも、たくさんのアメリカ人の支持を得ている。

いろんな国で、国際協調よりも内向きの方が人気があるという感じだ。

日本も年寄りが増えて、内向きの政治になっていくんだろうか。
いや、もうなっているから、生産性が低く、低成長になっているのか。

21世紀が始まって20年。
第二次大戦が終わって、20世紀から続いた平和が70年近い。
一方で、人類の歴史は戦争の歴史だとも言う。

この世紀はどうなっていくのだろう。


| | 考えたこと | 22:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
ペットの葬儀
2010年前後がペットブームの最盛期だそうだ。
その頃にペットが急増したらしい。

2015年の内閣府の調査によると、ペットを飼っている人の世代別割合は、50代の44.5%、60代の36.4%、70代の24.1%となっている。
50代が一番多かったが、この人たちがもう60代に入ってくる。
住んでいるところや経済的な環境が許せば、ペットを飼いはじめたいという人も、いくらかはいると思う。

ペット産業の全体の売上は右肩上がり。
全体で、1兆5000億円を超えている。
でも、飼育頭数でネコがイヌを抜いたりしているところを見ると、ペットにかけるお金は減ってきているのだろう。
近所の人でも、もう自分が生きている間に看取ることができないから、ということで新たなペットを飼わない人も増えてきた。

これから2010年頃に増えたペットが死に始める。
ペットの葬儀は人間の葬儀と同じく増えてくるということだ。
しかし、総人口が減ると同時に、ペットの数も減るのだろう。
国内市場の縮小というのは、日本の全産業の課題だが、ペット産業も免れない。
ペットは人間に比べて寿命が短く、回転が速いということも、どう出るかわからないところ。

これから増えてくるペットの葬儀だが、今は「移動火葬車」というのもあるらしい。
でも、骨上げをちゃんとやりたいという飼い主には、ちゃんとした?斎場がある。
そういうサービスを行う会社もある。
ペット保険会社、動物病院などと提携して、葬儀までという流れだ。

お金を出せば、永代供養もしてくれる。
イオンペットでは3万円の永代供養料で、東京の慈恵院の僧侶が毎月の定例法要で読経供養をし続けてくれるらしい。
いかにも東京らしいサービス。

聞いた話では、ペットの葬儀は僧侶は関わらず、宗派のテープを流すというところがあるとのこと。
仏教では、人間以外の動物の扱いは難しい。
人間として生まれ変われなかった人は畜生(動物)になる、とも聞いたことがある。
今の日本の葬式仏教なら、お金さえ払ってもらえば、いくらでもお経くらいはあげるだろう。
何でも人間と同じようにしたい、という飼い主のわがままかもしれないが…。

調べてみると、慈恵院というところは禅宗のお寺。
したがって、永代供養のお経は禅宗のものになるのだろう。
まあ、ペットに関しては宗旨は別にかまわないのかもしれない。
13個の最新の火葬設備完備で、ペット仏具もたくさんある。
宗教的な教義はさておき、立派なものだ。

しかし、どの宗教もペットと人間を同列には見ていないと思うし、ペットの葬儀というものについての見解も出ていないのではないか。
そのへんを、なし崩しにやってしまうのは日本人の得意技ではあるのだが…。


| | 考えたこと | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
今日は成人式
昼頃外を歩いていたら、スーツ姿で自転車に乗っている若い人たちがいた。
そうか、今日は成人式だと思いだした。
どこか近所で式典があって、その帰りだったのだろう。

今日は、成人式に書いたわけではないが、「いちご白書をもう一度」(2012.2.25)を再掲する。
7年ほど前にはこんなことを考えていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
いちご白書をもう一度

子どもと大人の違いは何だろう。

酒が飲めるとか、タバコが吸えるとか、参政権があるとか、外面的なものはいくつかある。
しかし、問題は内面的なものだ。

ぼくの年になって、最近の若い大人を見ていると、何となく子供っぽく見えてしまう。
それは、自分が年をとったということもあるが、それを差し引いても子供っぽく見えるような気がする。
というか、一部の人は大人になろうとしていないような気がするし、それが大人になることを拒否しているわけでもなく、単に子どもの延長でいるような気がするのだ。

エラそうな事を言っているような気もするが、まあ、55歳といえば充分にオッサンだし、それくらいのことは言わせてもらってもいいと思う。

もちろん、ぼくらの時代よりももっと真面目に考えている若者もいるし、時代が生きにくくなっているという外部要因もあるし、単純に比較はできない事を断っておきたい。
要は立派な若い人はいるということだ。

一方で、ぼくが思うのは、大人になる、ということの意味だ。

大人になる、という事について、青春時代は考えていない。
自分の問題で手一杯だから。
でも、いざ社会に出るときになって、というか、社会に出る、ということは前提としてあって、その上で大人になることの意味があったと思う。
つまり、ある年齢になったら、社会に出る、ということは自明のことであり、それについては疑問を持たなかった。要は当たり前だったのだ。
それは、青春と別れることであり、自由気ままな生活は終わるということであり、もっと言えば税金を納めて大人になる、ということだったと思う。
もちろん、そんなことは具体的には考えなかったが、要はそんな全てをひっくるめて、社会に出て大人になる、というイベントがあった。

だから、ユーミンが書いた「いちご白書をもう一度」という歌が流行った。

 ぼくは無精髭と髪を伸ばして
 学生集会へも時々でかけた
 就職が決まって髪を切ってきたとき
 もう若くないさと君にいいわけしたね

ちょうどぼくらが社会人になるときに、この歌が出て、ヒットした。
バンバンの唯一といっていい全国ヒット。

この歌の感覚はもう今の若い人にはわからない。
まず、学生集会の意味がわからないだろう。
学生運動というと、中間体操のことを思う世代だから。

そして、就職が決まって髪を切ってきたとき、「もう若くないさ」、と君に「いいわけ」をする。
なんで「いいわけ」をするのか、それがわからないだろう。

大人になることは、一種の「負け戦」だった。
学生集会に時々出かけていた若者はそんなに多くない。
でも、心情的にはそういう思いを持った若者は多かった。
そして、この歌に歌われている「ぼく」は、そういう若者も含んでいる。
そういう若者だから、「いいわけ」したのだ。

もう時が来たから、社会に出て大人になる、それは仕方のないことだ、という気持ちがあった。
それは、会社の歯車の一つになって、上の言うことを聞いて、一生懸命働く、ということをぼくはしてしまう、ということだ。それを「君」に「いいわけ」したのだ。

大人になることの意味、はこの「負け戦」をすることだった。

負け戦をして、あきらめて大人になる。
そういう感覚があった。

それがいいことか、悪いことかはわからない。

でも、時は過ぎて、そういう時代は終わった。
今は「世界で一つだけの花」の時代になった。
社会に出ても、自分は「世界に一つだけの花」だ。

 そうさぼくらは世界に一つだけの花
 一人ひとり違う種を持つ
 その花を咲かせることに
 一生懸命になればいい

だから、「負け戦」をする必要がない。

それがいいことか、悪いことかはわからない。

でも、そんなふうに大人になろうとする人は、「負け戦」をしないから、大人になることを拒否するわけでもなく、単に子どもの延長で大人になってしまう。

どこの文化でも、社会に出るときには心理的な葛藤はあるはずだ。
それを何らかの儀式で乗り越えていく。
でも、今の日本にはそれが見当たらないような気がする。
成人式もだいぶ変わってしまった。(ぼくは出なかったが)
成人の日の、「青年の主張」という番組もあるのかないのかわからない。(毎年見ていた)
そんな社会を作ってきたのはぼくらだから、それが悪いとすると、責められるべきはぼくらだろう。

その答えは簡単にはわからない。

でも、ぼくは何となく若いころの自分たちが「いちご白書をもう一度」で感じた思いは正しかったとしか思えないし、今の「世界に一つだけの花」は間違っているとしか思えない。

これが年をとるということか。



| | 考えたこと | 15:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
目玉焼き
笑福亭仁智が上方落語協会の会長になったということで、Youtubeで彼の落語を聞いている。
昔から、野球ネタで新作をやっていて、それがやたらと面白かったのが印象的。
何となく師匠の仁鶴の話し方に似てきた。
以前から新作をメインにやっている。
これからは、新作落語の時代なんだろう。

仁智の「多事争論」という新作落語があって、枕がやたら面白い。
枕というのは導入部。
東京と大阪の比較の話。
関西では鉄板ネタだ。
やすよともこなど、この1本でやっているくらい。

それはともかく「多事争論」という噺、目玉焼きにかけるものは何か?というのが話題。
ソースか、醬油かということだ。
噺の中では、大阪がソース、東京が醤油となっているのだが…。
他にも、塩とか、ケチャップ、マヨネーズなどが出てくる。

たしかにウスターソースは関西のものだと思う。
以前(といっても15年ほど前だが)出張で東京の食堂に行ったとき、関西で言うとんかつソースしか置いてなかった。
そのとき、東京支社の人に聞いたら、東京はそんな店が多いとのこと。
今はわからないが…。

観客にも何をかけるか聞いている。
その拍手によると、ソースと醤油と塩がだいたい同数という感じ。
仁智の言い方では、ゆで卵(煮抜き)には塩だが、目玉焼きは塩ではないという。
彼もソース派なのだろう。

ぼくは塩だ。
醤油をかける人も見たことはあるが、ソースはあまり見ない。
まあ、だいたい外で目玉焼きを食べることが少ないので、そんなに見たことはないのだが。
だからこそ、定番というのがないのかもしれない。

おまけに、半熟を良しとするのが常のようだが、ぼくはどちらかというとかたいのが好み。
両面焼いてもいいくらいだ。
ネットで調べると、目玉焼きにかけるもので殴り合いの喧嘩をした人もいるという。
それほどまでに、目玉焼きの好みは人それぞれ。

簡単な料理だが、奥が深い。


| | 考えたこと | 21:48 | comments(0) | trackbacks(0) |
カーナビ
日本ではまだまだクルマにはカーナビ専用機という感じだが、海外ではナビ専用機は主流ではない。
アメリカではBluetoothでスマホのナビ画面を映す装置がナビの代わりになっているらしい。

カーナビは日本で生まれて、日本で進化したものだ。
日本メーカーがいち早く実用化したこともあったし、さらに道路インフラが貧弱で、渋滞が多く、高い金を出して買う価値があったから、とナビのプログラマは言っている。
しかし、スマホの性能が上がったことと、より多くの個人情報を持ったこと、付帯するサービスのアプリが開発されていることなどで、日本でもスマホの優位性が出てきた。

デジカメやカムコーダー、携帯プレーヤーが、スマホにとってかわられつつあるのと同じようなものだ。
スマホというデバイスが、他のものを食っていこうとしている。

「つながるクルマ」などと言っているが、その主役はスマホとインターネットが持っていくことになるかもしれない。
Uberという、時間とクルマが空いているドライバーと、どこかに行きたい客を結びつける仕組みは、スマホを端末として実現している。
それに類したサービスもこれから増えていくだろう。
スマホにGPSと地図ソフトが提供されているのだから、これからもいろんな仕組みが考えられる。

日本でのカーシェアリングは、すでにインターネットの仕組みを使っているし、駐車場をシェアする仕組みだってインターネットだ。
そのネットと個人を結びつけるのは、スマホなのだ。
もちろん、パソコンでも同じことだが、持ち運べるというのは大きな強みだ。

日本のカーナビの大手はパナソニック、パイオニア、JVCケンウッド、富士通テン、アルパインが上位5社(2016年度シェア)。
それらの会社は苦しいだろう。
実際、若い人たちはクルマは中古の軽でいいし、カーナビはもちろんスマホだ。
余分な出費はカットされる。
ただでさえクルマのカリスマ性は無くなっているが、そうでなくてもどんどん増える社会保障費が、彼らの財布を圧迫している。

携帯電話と同じく、カーナビもガラパゴス化しつつある。
今使っているホンダのナビは、渋滞している道を通るとき、時間が最短になるように案内してくれるという機能がある。
これは便利だと思うが、しかし、使用頻度とナビの価格を考えると、スマホで十分という気もする。

これから、だんだんと日本のカーナビもスマホ連携型に置き換わってくのだろう。
もうすでにスマホと接続して使うというモニターや、一部の機能をスマホで供給できるナビなどが販売されている。

こうやって、グーグルは強くなっていくのだろう。

また一つ、日本の得意な製品が消えていく。


| | 考えたこと | 00:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
教員は終身雇用
何度か引用させてもらったが、また中沢さんという元小学校教員の人のブログ記事を読んで、なるほどと思った。

記事には、「なぜ学校教育の現場は子供や保護者の想いと乖離していくのか」ということが書いてある。
理由は単純だ。

「教員は終身雇用です。ゆえに、お客さん(子供や保護者)の要望を聞くより、内輪の評価を気にしたり、なにがなんでも居座ったほうが合理的です。」

「管理職に関しても、部下に嫌われるより、のらりくらり保護者の要望をかわしたほうが無難です。なんせつぶれませんし、リストラもありませんから。いくら子供のために職員や教委を敵に回しても、その年限りの感謝で終わってしまいます。教員たちは、それなりに合理的に行動しているんですね。」

教育委員会も同じこと。
だから、身内の理屈をこねて、いくら社会から批判されても変わらない。
研修をしても、教育委員会がやるのだから、的はずれな研修になってしまって、世間の要望とはマッチしないという。

そもそも学校の存在の目的があいまいだ、というのが筆者の意見。
学校の目的は教育だが、教育の目的とはと言われると、難しい。
教育基本法18条の第一項にによると、

「学校内外の社会生活の経験に基き、人間相互の関係について、正しい理解と協同、自主及び自    律の精神を養うこと。」

とある。

今の教員に、「学校内外の社会生活の経験」に社会人としての経験があるのだろうか。
社会人の大多数は民間企業で働いたり、自営をしたりしている。
その人たちの常識が学校で通用するのだろうか。

そんなことも考えてしまう。

日本の教育を刷新するには、今の教員養成制度を変えないといけないと思う。





| | 考えたこと | 22:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
現金を知らない子どもたち
1970年の万博の年、「戦争を知らない子供たち」という歌が流行った。
ジローズがお祭り広場で歌った。
あの当時、お祭り広場の真ん中あたりに太陽の塔が建っていたはず。
もちろん、ぼくらの子供の世代はそんな歌も知らなければ、お祭り広場も知らない。

あの当時、ぼくは中学生だったが、その時の大学生からちょっと上の人たちは、戦後生まれで戦争を知らない最初の世代だった。
北山修がこの歌を作ったとき、加藤和彦に作曲を頼んだら、鼻で笑って突き返されたという曰くがある。
加藤はちょっとシニカルなキャラだったから、こんな曲を作りたくなかったのだろう。
特に3番の歌詞「青空が好きで 花びらが好きで いつでも笑顔の すてきな人なら…」あたりは気持ちが悪い、という感じはなんとなくわかる。
だから、北山は杉田二郎のところに持っていった。
彼が喜んで曲をつけたのは、ロマンチストだったからだろう。

それが「戦争を知らない子どもたち」の裏話。
結果的に大ヒットしたが、きっと加藤は後悔などしなかったと思う。

時代は下って、現代になる。
中国では現金を使って決済する人がどんどん減っているという。
カードすら持たず、スマホで決済らしい。
今や中国のホテルでも、現金決済は釣り銭がないからと言って、スマホでやってくれと言われるようだ。

レストランでも、席についてじっとしていたら、何も注文を取りに来ないらしい。
テーブルに置いてあるQRコードを読んで、店のサイトに移動し、そこから料理を選んで注文するという。
ファストフード店でも、まず席に座って、それからスマホで注文すればいい、ということらしい。

そういえば、スピード違反をしても、すぐにスマホに罰金の請求があって、それを払わなければ免許の更新ができない、という仕組という。
すごい合理化だ。
日本なら、間にたくさんの人が挟まっているが、向こうは電子でやってしまう。
日本の生産性が低いというのも、頷ける。

中国では携帯番号と国内銀行の口座番号が紐付いているとのこと。
なるほど。
それが爆発的なスマホ決済を進めた。
それが規則だから、ということでやれてしまう。
すごい国だ。

日本なら、個人情報がどうたらこうたら、ということになるだろう。

現金レスの最先端を行く中国。

どこかの記事にあったが、そのうち「現金を知らない子供たち」という歌が歌われるかもしれない。







| | 考えたこと | 21:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
YouTuberの稼ぎ方
少し前に大阪の小学生に将来なりたい職業を聞いたら、Youtuberが2位に入ったというニュースがあった。
小学生にも、Youtuberは有名だった。
そういう商売があるのを知らない大人もいるにも関わらずだ。

その後Youtuberは一般的になって、中年層にも認知されている。
今は聞いたことがない、という人のほうが少ないだろう。
それでも、Youtuberで食っていくのは大変らしい。
体験談が出ていた。

Youtuberで儲けるためには、自分のチャンネルを作り、そこに登録してもらわないといけない。
それが第一歩なのだが、チャンネル登録数が6万人いても、5000円程度しか稼げないという例もある。
基本的に報酬は、Youtubeの画面に表示される動画や静止画の広告収入がメインらしい。
それをうまくやると、登録数が少なくても月に100万円稼ぐこともできる。

テレフォンショッピングの商品宣伝のような動画を作ると、もろに広告になるから、そんなものではダメなんだろう。
どうやって、誘導リンクをクリックさせるか、ということだ。

ここ数日、よしもと新喜劇の定番ギャグ集などの動画を見ているが、あれをアップした人は「この動画を見たい人がたくさんいる」とわかっているからだ。(著作権の問題はあるが…)
ボランティアでやっている人もいるだろうが、編集などの労力を考えると、儲けになってくれると嬉しいだろう。
Youtuberが儲かる仕組みは、みんなが見たい映像を集めるという目的にもかなっている。

そういうこともあって、毎日どんどん動画がアップロードされている。
だから、Youtuberも職業としてはあながち間違いではないと思うのだが…。
所詮は広告収入がメインなんだから、人をたくさん呼ぶか、リンクをクリックさせないといけない。

難しいだろうと思う。
食えるYoutuberになるには、それなりの戦略と計算がないといけない。
テーマの選び方、どういうパフォーマンスをするか…。

今までは広告というと、テレビ、ラジオ、雑誌、新聞というようなメディアを通じないとできなかったが、その広告がインターネットという媒体を得て、Youtuberという職業を生んだということだ。
企業の広告費がどんどんそちらの方に流れている。
一番わりを食っているのは、今まで一番お金を儲けていたテレビ局、つまり民放だ。

これからまだまだインターネットの広告は増える。
Youtubeの広告も増えるだろう。

そうなると、動く金が多くなるから、個人ではないYoutuberが増えてくると思う。
要はテレビのコンテンツがYoutubeに入り込んでくるようなもの。
そんな予感がする。

Youtuberはまだまだ流行るだろうが、どの程度金が稼げるかは難しい。




| | 考えたこと | 22:37 | comments(0) | trackbacks(0) |
ハエのビジネス
地球上の生物で、最も多様で成功しているのが昆虫。
100万種類が生息していて、地球上の生物の7割を占めている。
もっと小さいバクテリアなどを除いての話だが…。
哺乳類が5500種くらいしかいないのと比べると、その多さがよくわかる。

だからこそ、人類の人口が増え続ける時に問題となる飢餓を救うために、「昆虫食」ということも現実味がある。
一度イナゴの佃煮を食べたが、甲殻類みたいな味だった。

それに関連して、福岡の会社がソ連から引き継いだ事業で、ストレスに強く太りやすいハエをずっと交配し続けていて、それに注目が集まっているという記事があった。

45年かけて交配し続け、今では1100代目になる。
そのハエの幼虫を飼料にすると、魚などが大きく育つし、肥料も作ることができるという。
動物の排泄物を食べて幼虫が育ち、それが飼料になる。
さらに、その幼虫の排泄物が肥料になる。
不要なゴミが、1週間で肥料と飼料に化ける。
写真では気持ち悪いが、すごいビジネスだ。

人間はもともと狩猟採集社会で生きてきて、この数万年で農耕社会で定住することを覚えた。
定住して、集団が大きくなると、一番の問題は排泄だという。
それを下水道を作ったり、肥料にしたりして人類は定住化した。
そういう文明を発達させた種族しか、生き残れなかったということだろう。

しかし、この問題を根本から解決できるかもしれないのが、こういうバイオの力。

人間がなにか食べる→排泄する→ハエの幼虫が排泄物を食べて育つ→それを飼料や肥料にする→動植物が育つ→それを人間が食べる

という究極のエコシステムも理論的には可能だ。

昆虫食に行く前に、昆虫を飼料や肥料にする、というビジネス。
感情を抜きにしていえば、将来は有望だ。

将来火星に行くとき、人類と一緒に行くのはハエかもしれない。

やっているのはムスカという福岡の会社。
調べてみると、いろんなところで注目されている。

ハエが世界を救う、かもしれない。



| | 考えたこと | 19:40 | comments(0) | trackbacks(0) |
高校駅伝
高校駅伝のダイジェストを見た。
びっくりしたのは、アフリカ勢の留学生の走りだ。
高いレベルで戦うとか、グローバル化というようないい面もあるのだろうが…。
男子も女子も同じこと。
レベルが違いすぎる。

極端な話、学校がお金をかけて寮を完備して、陸上で選出した留学生をたくさん招いて、ルールの許す限り留学生を使えば、優勝できる。

今年の男子など、まるで大人と子供の違いだった。
高校生にして、世界レベルの留学生。
彼が一人いれば、他の選手は並以下でも勝てる。

ネットを見ても、留学生と称するアフリカ勢の高校生(彼らが悪いわけではない)の使われ方には、批判的な声が多い。
それはそうだろう。
高校駅伝はプロではないのだ。

高校駅伝は、あくまで高校の部活。
それこそ、速ければいいのかという問題。
留学生を入れている学校は、駅伝ビジネスをやっている。
スポーツだから勝つのは大事だが、プロならそれが金で決まってかまわない。
しかし、アマチュアの中でも高校の部活だ。
正常な競争の範囲だとは思えない。

ここにも、学校法人の売名行為がある。
正月の駅伝で名前を売ろうという作戦。
高校野球も今や同じこと。
要はお金があれば、強くなれるのだ。

一部の学校法人が、いかに「教育」を考えていないか、よくわかる。
いっそのこと、全ての高校対抗の全国大会を止めたらどうかとさえ思う。

その方が生徒のためだと思う。





| | 考えたこと | 19:30 | comments(0) | trackbacks(0) |
ラジオのルーティーン
毎週パソコンでラジオを録音している。
番組もだいたい決まって、毎週のルーティーンになった。

まずは土曜日の10時からNHKFMやっている、FMシアターという番組。
もう何年も聞いている。
今年から時間が短くなり、ちょっとドラマの内容も変わった。
それまでは、わりと明るいテーマで面白い番組が多かったのだが、ちょっと重くなった。
実験的なドラマもあって、ぼくは好みではないことが多いが、時々当たりがある。

その次が、日曜日の朝、ABCでやっているなみはや亭という落語の番組。
上方落語のレギュラー番組はこれだけになった。
時々、落語ライブラリーから、昔の録音をやったりするのがいい。
それと、若手の落語家の新作などもある。
これを聞いていると、これからの落語は新作だということがよくわかる。

続いて、日曜日夕方にNHK第一でやっている上方演芸会。
これは全国各地での収録。
上方の漫才をやる。落語はほとんどない。
吉本と松竹が出るので、わりと幅広く聞ける。
若手の、早口で何を言っているのかわからないような漫才はやらない。
松竹の大御所、たかしひろしとか、くにおとおる、シンデレラエキスプレスなどが聞けたりする。

さらに、日曜日7時過ぎの新日曜名作座。
西田敏行と竹下景子でラジオドラマをやる。
昔は森繁と加藤治子がやっていた。
芸達者の2人が、いろんな声色でドラマをやるところが聞き所になる。

次は、夜10時の文化講演会。
これも、昔はわりと有名な人が出ていたのだが、最近は予算が削られたのか、わけのわからない大学教授が多い。
さらに、スライドを映しながらやっているのを録音しているようなので、わかりにくいし、喋りも下手な人が多い。
これは何とかしてほしいと思う。
最近は最初の5分ほど聞いて、判断するのだが、聞くのをやめることも多くなった。
それでも、たまに当たりがある。

最後は日曜日のNHKのラジオ深夜便。
その番組中にやっている、夜中の1時からのラジオ文芸館だ。
これは短編小説を毎回アナウンサーが朗読する、というもの。
わりとハズレが少ない。

この6つを、通勤時に月曜日からウォークマンで聞く。

これがぼくのルーティーン。



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松坂慶子
今回の朝ドラを締めているのが松坂慶子。
ヒロインのお母さん役で、源氏の末裔の武士の娘というふれこみ。
何かというと、保守的な発言をして、ちゃちゃをいれる。

口癖は「私は武士の娘です」。
その割に、簡単に前言を翻す。
権威好きの機会主義者といった感じ。

だいたいは、やろうと思ったことに反対したり、一旦やり始めたことをやめようとしたら反対したりする。
シンドい仕事にはぼやき、お金がなくなると文句を言う。
極めて日本的な前例主義のいやなやつ。
これが男だったら、メチャ感じ悪い。

しかし、松坂慶子の演じる母親には、嫌味がない。
これがスゴイところ。
このドラマ、松坂慶子がいなかったら面白くなかっただろう。

「男はつらいよ」でマドンナをやった女優も半分以上は見なくなった。
朝ドラにレギュラーで出演するような人は、他には竹下景子くらいだろう。
マドンナ役で出たような女優は、年をとるとどういう役どころで出るかが難しい。

吉永小百合や浅丘ルリ子は年をとってもきれいな役だ。
だから、だんだんと出る幕がなくなる。
松坂慶子は、上手に役を選んでいると思う。
大したものだ。

彼女ももう66歳。
日本の年寄りは本当に元気だ。

いつまで頑張ってほしい。



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マツダの哲学
マツダの社長が、自動運転に否定的なコメントをしている記事があった。

クルマには運転する喜びがある、ということだ。
本当のクルマ好きは自動運転など望んでいない。単なる移動手段だと思っていない。
乗ること自体が喜びなんだ、という哲学。

「だから、マツダは便利ばかりの車を作ってはいけないのよ。」という。
「事故が想定される時だけ自動運転の役割が発揮されるのが、究極だ」ともいう。

そういう思いをぼくは共有する。
人間が犯すミスをクルマが防げれば、それがベストだと思う。
やっぱり、クルマを操って走る喜びはあると思う。

しかし、それでもマツダは大丈夫?だろうかと思う。
ぼくらは、クルマにカリスマを感じているが、これから死んでいく存在だ。
今を生きている若い人たちとは価値観が違う。
圧倒的に、クルマは道具であって、動けばいいと思っている若い人は多い。
今の大学生など、欲しい車はない。
強いて言えば、中古の1Boxだったり、軽だったりする。
そんな時代にクルマのカリスマ性が売れるのだろうか。

さらに、シェアリングの問題もある。
自家用車が無駄な資源になっているのは事実。
稼働時間は数パーセントしかない。
クルマを所有する喜びや、運転する喜び、メカに感動する喜びなどの移り変わりを考えているか、ということだ。

マツダが、比較的小さなメーカーであり、逆に生き残ろうとすると、そういう特徴を前面に押し出していく、という戦略もわかる。
でも、そこにどれだけの顧客がいるのだろうか。

今、クルマの未来はCASEと言われている。
CASEとは、コネクティビティのC、オートノマスのA、シェアードのS、エレクトリックのEをつなげたもの。
要するに、クルマがいろんなものにつながり、自動で走り、みんなにシェアされ、電動化する、ということになる。
そこに、どう運転の楽しみを入れていくかということだ。

ドイツのメーカーはそちらの方に動き出しているようだ。
トヨタはいろんなところと提携して、そちらに舵を切りそうだが…。

ぼくはマツダの価値観はすばらしいと思う。
どこまで本気かわからないが、それで生き残れたら、いい会社だ。

それで潰れても、ぼくらにとっては素晴らしい会社だとは思うのだが…。



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超高齢化
今の日本は4人に一人が65歳以上。
2025年にはそれが3人に一人になる。
もちろん、そのときにはぼくも高齢者だ。

世界に目を向けると、2050年には世界の人口の3人に一人が50歳以上とのこと。
2000年には18%だったものが、25年で倍近くに増えた。
日本はトップランナーだが、世界もだんだんと高齢化していくということだ。
3人に一人が50歳以上なんて、60年代、70年代には想像もできなかった。
寿命も今より短かったし、街には若い人が溢れていた。
今でも途上国ではそういう状態だが…。

そういうわけで、主な先進国では2000年以前に作られた制度が、ヒトの寿命が伸びたことにしたがって、作り直しを迫られている。
主に社会保障だ。

欧州やアメリカで移民が問題になっているが、そもそもなぜ移民が必要なのかというと(人道的、政治的側面もあるが)働く人を増やして、高齢化に対応するという目的も確実にあったと思う。
人口ピラミッドが寿命が伸びて、上が重くなっていくのは仕方がない。
民主化が進み、人々が自由に生きられるようになると「子供を産まない自由」も大きくなる。
だから、だいたいの民主化が進んだ国は、出生率は下がる。
そうなると、自国民の若い人たちは減るから、それを維持しようとすると移民を受け入れざるを得ない。

まだ会社にいる頃、ドイツの工場現場では3ヶ国語を話せないといけない、と聞いた。
ドイツ語に加えて、トルコ語が入っていたと思う。
何でトルコなのかと思ったら、出稼ぎの人たちがたくさん来ているということだった。
その流れも、メルケル首相の勢いがなくなったところを見ると、落ちてきているのだろう。
急激に増えたアラブやアフリカからの移民が、社会で問題視され始めた。
極右とか、ポピュリストとか言われる人たちの意見には、必ず移民を減らすことが入っている。

それに対抗して、頑張っていたのがフランスのマクロン大統領とドイツのメルケル首相だった。
そのどちらもが、調子が悪い。
結局、社会の不安をかき消すことができなかった。
どちらかというと、理想主義が劣勢に入ってきたという感じだ。

トランプ氏に始まって、どんどんそういう流れが広がっている。

日本の場合は、移民の絶対数が少なくそこまで問題になっていないが、社会保障の歪は大きい。
どんどん若い人の社会保障の負担が大きくなっている。
特に60年代から80年代までの高度成長の時代には、お金があったから、無茶な仕組みを作ってしまった。
これをどうにかしないといけない。

これからの時代、超高齢化に伴うこれらの問題が、世界の課題なんだろう。

とりあえず、自分にできることは、健康を保って働ける間は働くことくらいか…。



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ミニ四駆
年末に工具箱を整理した。
ミニ四駆が流行った頃、子供と一緒に買ったものだ。
中にはギアやワッシャ、スペアタイヤ、ホイール、その他のパーツやシール、マスキングテープ、ダンパーオイル、ドリル、プラモ用ののこぎりなどが入っていた。
懐かしい。

うちの長男が小学生の頃がブームだった。
いろんなところで、イベントもあった。
神戸市の北区あたりまで、子供を連れて行ったこともあった。
あのブームはアニメの影響もあったが、昔プラモデルに熱中した世代が、ちょうど親になっていたのも大きかったと思う。

ぼくが小学校の頃、学校の前に文房具屋兼プラモ屋があった。
ちょっと離れたところには、プラモ専門店がいくつかあった。
今では考えられないが、プラモデルだけを売って食っていけた時代だったということだ。

ショーウィンドウには、店主が作ったプラモデルがディスプレイされていた。
主には戦闘機や戦車が多かったと思う。
ユンカースやムスタング、紫電改というような第二次大戦中の戦闘機の名前は、そのディスプレイで覚えた。
あれは、1965年くらいだったか。
第二次大戦が終わって20年。そういうおもちゃも、普通に作っていたという時代だ。

もちろん、ディスプレイされているプラモデルは単に組み立てただけではない。
非常に凝った色付けをされていた。
そこが店主の見せ所だったのだろう。

それらが廃れるのと同時に、マンガやアニメのプラモデルに切り替わっていった。
鉄人28号もあったし、サンダーバードもあった。
小遣いをもらうと、それらを買いに走ったものだ。

そういう世代が親になった頃、ミニ4駆は出てきた。
部品はすべてはめ込み式。
金型が精度良く作れるようになって、セメダインを使わずに組み立てられる。
あれは衝撃的だった。

早く走らせるために、モーターをならし運転したり、バンパーの横についているローラーの角度をつけたり、衝撃で変形しないファイバー製を使ったりしていた。
子供というより、大人の遊びだったと思う。

その世代がおじいちゃんになりはじめる頃、2012年あたりから3回目のブームが盛り上がっているという。
ジャパンカップも階級別に実施されている由。

そのミニ四駆の工具箱。
ずっと戸棚の中に眠っていたが、もう断捨離することにした。
工具類は残して、昔のパーツ関係を捨てた。

もう1台、今のミニ四駆を作ってみようかなと思うが…。


| | 考えたこと | 23:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
新しいこと
年をとると、新しいことに巡りあうことが減る。
もちろん、どんな生活をしているかによるのだが…。

この年になると、仕事で出会うことは、たいがい一度は経験したことだ。
もちろん、個別のケースは違うことだが、やっている内容は過去に経験したものが多い。
そういう仕事が主になってくる。

なかには、プロジェクトの一員として新しいことに…、という人もいるだろうが、そこでやることは過去の経験の延長であることが多いだろう。
そういう経験を積ませるために、会社も雇っているのだ。

ぼくの場合は、人生の終盤に入っているのだから、当然といえば当然。
逆に、今までの経験を生かさないと、もったいないとも言える。
年をとって、チャレンジングな仕事ができている人は、幸せな人だろう。

となると、今からでも何か新しいことにトライしないと、新しいことには出会えない。
一昨年「一万人の第九」に応募したのも、そういう気持ちがあったからだ。
カラオケで歌うことはあっても、コーラスというのは学校以来初めてだったから。

考えたら、ぼくはあまり新しいことをやるのが好きではなかった。
大学生の時に、落語研究会に入って落語をしたのが最後。
高校の部活も落語がなかったからやらなかったし、大学でみんながやるスキーも別にやりたくなかったし、その時点でいままでやった事を続ける方がいい、と思ってきた。

ぶっちゃけた話、無精者なのだ。
よく「第九」を2回もやったと思う。
12回のレッスンは結構面倒くさかったが、よく頑張ったものだ。
それは音楽が好きだったということ。
ギターもその延長で続けている。

今日は1月1日。
これからまだ新しいものに会えるだろうか。



| | 考えたこと | 00:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
大晦日雑感
今年も大晦日。
昨日のレコード大賞は知らなかったが、乃木坂46が大賞とのこと。
曲名も知らなければ、聴いたこともない。

去年も書いたが、ジャニーズとエグザイルと、AKB系の争いだったのだろう。
でも、紅白歌合戦を見ていると、英語の歌のカバーがあったり、いろんな新しい若いグループが出てくる。
しかし、最近はピンで歌うことがほとんどない。
だいたいソロシンガーでも広いステージで、ダンサーを連れている。
演歌の人たちも同じだ。
まあ、賑やかでいいのだが…。

今年はサザンが40周年ということで出ている。
カウントダウン・コンサートはもうメンバーがシンドイということなんだろうか。
40年前にサザンがデビューした時、こんなに長く続くとは思わなかった。
どちらかというと、同時にデビューしたツイストの方が本格的だと思ったのだが、あっけなく消えてしまった。
「勝手にシンドバッド」と「あんたのバラード」だった。
どっちが残るか、わからないものだ。

松田聖子の80年代メドレーに出てきた大滝詠一の「風立ちぬ」、惜しい人を亡くした。
あの頃の松田聖子はよかった。
「渚のバルコニー」だけでなく、「赤いスイトピー」もやってほしかった。

ユーミンも出てきた。
貫禄だった。
67歳の鈴木茂がステージでギター。あれはびっくりした。
現役の姿を見られてよかった。
まだまだ元気だ。

ミーシャの声はすごかったし、石川さゆりの天城越えの布袋のギターもよかった。

毎年紅白歌合戦が終わったあとの「ゆく年くる年」でお寺の鐘が鳴ると、もう今年も終わりという感じになる。
この風習もいつまで続くんだろうか。

講義をしている女子大生に大晦日はテレビを見るかと聞いたら、見るけどNHKは見ないという返事が多かった。
見ないという人もいた。

どんどん世の中は変わっていく。

良いお年を。

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