考えたこと2

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2014年の10大ニュース
予断と偏見に満ちあふれた10大ニュース。

10位は御嶽山の噴火。
火山国である日本にいるということを再認識させられた。噴火は怖い。
地震と同じで、なかなか予知もできないだろう。

9位は中国の海洋進出。
東シナ海でサンゴを取るのを放置したり、南シナ海で領土を主張したり、どうもやっていることがむちゃくちゃだ。
中国との経済関係は深まっているが、やっぱり日米同盟は堅持すべきだと思う。
昔の日本人は知らないが、今は戦後の教育の効果もあって、アメリカにシンパシーがある。

8位はイスラム国の問題。
誰かが一神教が世界を滅ぼすと言っていたが、イスラム国を見ていると、ちょっと危ない。
中国にもイスラム教徒がいて、共産党とぶつかっている。
西欧では大きな問題になっているが、日本人はどうも宗教戦争がわからない。
古代から八百万の神がいて、神様も人間のように争ったりしていたからか。
でも、これは世界的には大きな問題だと思う。

7位はタカタのリコール。
シートベルトの会社だと思っていたら、エアバッグも作っていた。
もともと、使われない方がいい部品だけに、不具合がわかりにくい。
しかし、安全のために搭載しているのだから、いざというときにはちゃんと動作してほしい。
リコールが後手に回って、日本車の評判を落としてしまった。
いろいろと事情はあったのだろうが、残念。

6位は朝日新聞の慰安婦問題。
誤報とわかっていて、それを誤報と認めたのに、謝罪もなく、海外メディアへの現地語での訂正もしないという、マスコミとしては失格だと思う。
この報道がどれだけ世界で嘘を撒き散らかしたか、どれだけ日本人が蔑まれたか、わかっているのだろうか。

5位は青色LEDの開発者のノーベル賞受賞。
青色LEDはエジソン以来、世界の明かりを変える大発明。
それが認められての受賞。今まで実用的な発明はあまり対象にならなかったが、これで流れが変わるかもしれない。

4位は香港の民主化デモ。
香港の学生が中国本土に対してデモをした。
そのことだけでもエライと思う。

3位はロシアのクリミア併合。
これは今後の世界のロシアに対する態度によるが、後世に残る歴史かもしれない。

2位 野々村議員の号泣会見
これは日本国内では、すごいニュースだったと思う。
民主主義は地方自治からというが、これはもう痴呆自治だ。
立候補した議員も悪いが、選んだ県民も悪い。
戦争が終わって、70年。
民主主義がいかに日本に根付いていないかということを極限まで思い知らされた。
面白うてやがて悲しきニュースだった。

1位はSTAP騒動にしたい。
何度か書いたが、日本の高等教育がだいぶおかしくなっているという観点から、この騒動を1位にしたいと思う。
だれか何とかしてくれ。

ということで、本年度は終了。
読んでいただいた方、ありがとうございました。

来年もよろしくお願いします。







| | 考えたこと | 23:42 | comments(0) | trackbacks(0) |
オトナというもの
小林秀雄がずっと昔の講演の中で言っていたが、歳をとるということは、よくないことだというような感覚が現代(おそらく昭和40年代)にはあるという。
自分はそれはよくないと思う、ということだった。

「お若く見えます」というのは褒め言葉と思われているが、はたしてそうなのか、ということだ。
歳をとったら、歳をとったなりになればいい、というか、なるべきだ、ということになる。

小林は、今の世の中は、全て合理的になりすぎているともいう。
合理的な考えには、年齢はない。
若かろうが、歳をとっていようが、合理的なものは合理的だ。
しかし、世の中合理的だからいいというものではない。
というか、世の中は合理的でないものばかりだ。
だから、その世の中を渡っていくために、年寄りの知恵が必要になる。
そういうのを昔は隠居と言った。
残念ながら今の世の中、隠居は求められていない。

でも、本当は合理的ではない世界だから、うまくいかない。
この小林秀雄の意見は当たっていると思う。

特に平成になってから、オトナ不在がひどくなってきたような気がする。
戦前の世代である、昭和ヒトケタが、社会の第一線からいなくなってしまったからか。
ぼちぼちその頃の昭和ヒトケタに近づいてきたが、ぼく自身、まだまだコドモなのだと感じる。

アメリカから習って始めた戦後の教育は、主義としては正しいと思うが、その根本の精神を教えるところまでいかなかったのだろう。
そういう歴史をたどってこなかったからなあ。
だから、ぼくらを含めて戦後の日本はコドモばかりになったのかもしれない。

STAP騒動を見ても、あれはどう考えてもコドモのやったことだ。
それが理研という国の税金を投入した組織も巻き込んで、騒動を起こした。
理研も功に目がくらんだコドモだった。
ノーベル賞を取った理事長も大変だ。

野々村議員の号泣会見にしても、同じだ。
あれこそ、悪いことを見つかって怒られたら、泣いて謝ったら許してもらえるという、まことにコドモな出来事。
余談だが、野々村議員のおかげで、たくさんの地方議会のいい加減さがわかったことはよかったと思う。
国会議員もいい加減だが、地方議員はもっとひどい。
これではいくらお金をつぎ込んでも、地方創生などできないのではないか。

今必要とされるのは、横丁の隠居のような人だろう。
残念ながら、もうほとんどいないのだが…。




| | 考えたこと | 00:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
THE ART OF McCARTNEY
ポール・マッカトニーの曲を、多くのアーティストがカバーしているCDを買った。
”THE ART OF McCARTNEY”というやつ。

ビートルズ時代の曲と、解散してからの曲が半々くらい。

そうそうたる顔ぶれだ。
よく知っているところでは、ビリー・ジョエル、ボブ・ディラン、ウィリー・ネルソン、バリー・ギブ、スティーブ・ミラー、スモーキー・ロビンソン、アリス・クーパー、B.B.キングなどなど。
知らない人もいるが、きっとどのアーティストも大御所と言えるだろう。

おまけでDVDがついてくるのだが、ケチって英語版を安く買ったので何を言っているのかわからない。(ところどころはわかるのだが…)

2枚のCDに36曲入っている。
ほとんどが還暦を過ぎたアーティスト。
DVDを見るかぎり、例外なく元気だ。
中には80歳を過ぎた人もいる。
B.B.キングなどは、だいぶ太っていて、ずっと椅子に座ったままだろうと思う。
御年89歳。ギターを弾いていると、ボケないということを実践しているのか。
座ったままギターも弾くし、唄も歌う。

曲はBAND ON THE RUN, THE LONG AND WINDING ROAD, MY LOVE, YESTERDAY, WHEN I’M 64, VENUS AND MARS, HELLO GOODBYE, LIVE AND LET DIE, JET, HEY JUDE, LISTEN TO WHAT THE MAN SAID, DRIVE MY CAR, LADY MADONNA, LET ‘EM IN, NO MORE LONELY NIGHTS, ELENOR RIGBY, BIRTHDAYなどなど。
ぼくの知っている曲はこれくらいだ。

ビートルズでまだ生きているのはポールとリンゴの二人。
72歳と74歳だ。
ジョンは1980年にピストルで射殺され、ジョージは2001年に病気で亡くなった。

ビートルズ解散が1970年。もう44年経つ。
ぼくは中学2年だった。
だから、あまり彼らの現役の頃を知らない。
でも、解散してから、映画館でLET IT BEの映画を見て、赤と青のベストアルバムを買って、ホワイトアルバムを買って、持っていないアルバムは友だちに借りたりした。

ぼくらがビートルズの熱狂の時代をかろうじて知っている、最後の世代だと思う。
そして、それまでの音楽とは違うビートルズの音楽も、肌で感じることができた。
ビートルズがいたからこそ、西海岸でシンガーソングライターが出て来られたんだと思う。

彼らはレコード会社も作って、レコーディングまで、自分たちのやりたいようにやった。
音楽だけでなく、それまでの音楽ビジネスのカタチも変えた。

そういう意味でも、ビートルズはスゴイ存在だった。

その生き残りの一人である彼の曲をポップス界の大御所がカバーする。

こうして聞いてみると、ビートルズ以降もポールは頑張っていたんだなあと思う。
でも、あのビートルズ時代の、ジョン、ジョージ、リンゴと一緒にやっている時に書いた曲とはちょっと勢いが違う。

あの、奇跡の4人組は、やっぱり奇跡だった思う。





| | 考えたこと | 23:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
STAP騒動 2
STAP騒動について、産経新聞に小保方さんの記事があった。

「小保方氏「データ操作」認める趣旨の発言も… 理研調査委
 STAP論文の疑問点を調べた理化学研究所の調査委員会は26日の記者会見で、論文の図表1点について、作成に必要な作業をやっていなかったことを小保方晴子氏(31)が聞き取り調査に対して認めたことを明らかにした。
 さらに論文のデータの一つについて、小保方氏が「元のデータを(共著者に)持っていくと『これでは使えない』といわれたので、操作した」との趣旨の発言をしたとも明らかにした。
 理研の調査委に対し小保方氏は実験記録をほとんど提出しなかったといい、調査委員長の桂勲・国立遺伝学研究所所長は「記録がない可能性が高いと思っている。大変、苦労した」と述べた。」

と書いてあった。

普通に考えて、小保方さんがSTAP細胞を捏造したというのが順当な結論だと思う。
民間の研究所なら、責任者も所長も懲戒だったろう。
でも、理研のような組織にはそういう事はできない。
身内を守ろうとする。
組織としては失格だろう。
こんなところに税金を投入するのはマチガイだ。

小保方さんに悪意があったかどうかはわからない。
「みんなが喜んでくれるから、捏造した」ぐらいの意識だったのかもしれない。
そういう教育を受けてきたのだろう。
早稲田の博士論文のコピペも、結局回りの人もやっていたから、罪の意識もなく、みんなやってる、で通ってきたのだろう。
そんないい加減な審査で博士号を出した。早稲田の先端理工学部の罪は重い。
それだけ彼女への教育の成果は上がったということだが…。

それに、何度も書くが、理研の研究管理体制がムチャクチャだった。
結局小保方さん一人の秘密作業で、発表してしまった。
研究ノートの確認もせず、手順の文書化もせず、第三者による確認もなし。
そんな管理体制でちゃんとできるわけがない。

功を急ぐ気持ちはわかる。
それなら、発表と併行して第三者の確認をするべきだった。
どのみち、発表したら、第三者が確認し始めるのは当然だ。
だから、理研内でさきがけてやればよかったと思う。

たとえ悪意がなかろうと、これは日本の科学史に残る恥だ。
悪意がないということほど、怖いことはない。
悪いことは、悪意を持ってやってくれないといけない。
そういう意味では、小保方さんはニュータイプだろう。
新人類よりも新しい。今までなかったタイプだ。

それに目をつけて、幸福の科学が小保方さんの守護霊に関する本を出している。
なるほど。教団に入ったら成功するかもしれないなあ。

しかし、理研と早稲田は今回の失態をかみしめて、組織をいったん潰してやりなおすべきだ。

これで世間は幕引きだろうが、理研と早稲田は幕を引いてはいけない。
でも、たぶん彼らの体質は変わらない。

ナントカは死ななきゃ治らないのだ。

| | 考えたこと | 23:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
シェールオイル
原油安が続いている。
ガソリンもビックリするほど安くなった。

石油を必要とする国の数は増えている。
需要と供給の法則からいったら、上がるはずなのに下がったのには理由がある。

数年前から、アメリカを中心にシェールオイルという資源が出てきた。
ただ、これは地層の中の石油のカスみたいなものを集めるというイメージで、地層の中に圧をかけて取り出すという仕組み。
必然的に採掘コストは高い。
中東やロシアでは石油は掘れば出てくるものだから、コストは安い。
だから、結局は原油の値段は下がらないと思っていたのだが…。

中東の最大の産油国、サウジアラビアが今回は値下げに動いたらしい。
OPECという石油輸出国機構の会議で、サウジアラビアはシェールオイルを抑えこむために値下げを決めた。
安い原油が出回れば、シェールオイルは売れないからだ。
シェールオイルのシェアが上がれば、採掘法の開発も進み、コストも下がると思ったのかもしれない。
開発を少しでも遅らせよう、ということだ。
それだけではない。
石油が高くなるということは、石油に変わる代替エネルギーの開発も促進する。
それも懸念材料になる。
サウジアラビアは、結局、石油の時代を一日でも長く持たせようとしている。

この戦略は、石油の採掘コストが上がって(残り少なくなると、なかなか出なくなるから、コストは上がるらしい)、シェールオイル並みになるまでは持つ。
あと何年あるのか、わからないが…。
石油というのは、限りある資源なのだ。
もうピークは過ぎているらしい。

その余波で、ロシアは苦しくなった。
ルーブルはドルに対して30ルーブルだったのが、60ルーブル近くまで下がった。
ウクライナの一件で経済制裁は続いている。
そこに泣き面にハチの原油安。
ロシアはエネルギーで経済を立て直したのだが、ここに来て苦しくなった。
今、ロシアは売り込みに走っているらしいが…。

一連のシェールオイルから、サウジを中心とした原油安。
何となく、CIAの陰謀ではないかと思ってしまう。

でも、日本経済にとってはラッキーだ。
これで一息つけるかもしれない。

しかし、長い目で見た時には地球にとって、いいことかどうか…。

これを猶予と思って、代替エネルギーの開発をしないといけないと思う。


| | 考えたこと | 23:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
この世はグレーだ
「この世はグレーだ」という言葉は、推理の天才シャーロック・ホームズがドラマの中で言った言葉。

このセリフに至る前に、ルールをいくら作ってもあまり意味はなくて、自分たちがちゃんとした倫理観を持っていることが重要であるという。そして、自分たちは捜査で少しばかり法を破ってもかまわない、というリクツを言う。

時にシャーロックは、ドアのカギをピッキングで開けて、勝手に入ったりする。
そして犯人を特定し、追いつめ、正しい法の裁きを受けさせる。
それを追求されて言った言葉。

これは真理だと思う。

いくら法律を整備しても、全てを網羅することはできない。
どうしたって、抜け道があるものだ。
人間がやることだから、法の運用の仕方にいろんな解釈が出てきたり、法律家のいうことですらまちまちだったりする。

だから、この世はグレーなのだ。
真っ白にはならないし、真っ黒にもならない。

もちろん、日本は法治国家だから、法を犯せば罰せられる。(厳密な意味で法治国家とは言えないような気もするが)
でも、時には法を犯してでもやらないといけないことに出くわす。
それどころか、法を守ったがゆえに、みんなから非難されたりすることもある。
また、逆に法を守ったのに、どうしてこんなことになったのか、ということもあるだろう。

しかし、自分に倫理的に正しいという自信があり、法を少々破ってもそれをやらないといけない、と思う時はそれをやったほうがいい、とぼくも思う。
当然、隠れてやれるときだけだ。

でも、この考えはとても危ない考えだろう。

テロや宗教戦争などは、こんな考えから起こってくる。
それを防ぐためには「法律は守らないといけない」という方がいい。

だから、そう思っても、ぼくら凡人は法の枠の中で生きている方がいい。

世の中はグレーだが、白だと思って生きていくということだ。

その方が楽だから。


| | 考えたこと | 22:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
少子化
少子化の現実がどんどん身にしみてくる。
というか、最近回りを見回してみると高齢者が多いのと、たしかに若い人が減ったような気がする。
日経の記事で、国立社会保障・人口問題研究所が2012年に実施した人口の将来推計のデーターを見てみると、こんなことになっている。

       総人口    年少人口   生産年齢人口  老年人口
             (0〜14歳) (15〜64歳)  (65歳以上)
2010年    12806万人  1684万人  8173万人    2948万人
2030年    11662万人  1204万人  6773万人    3685万人
2055年    9193万人   861万人   4706万人    3626万人
2060年    8674万人   791万人  4418万人    3464万人


2030年までは、65歳以上の老人が700万人ほど増える。老人の人口はそれで頭打ちだ。そこからあまり変わらないまま2055年までいく。
しかし、生産年齢人口は2010年の8173万人から2030年で1400万人ほど減り6773万人、2055年では2010年の57%、4706万人なってしまう。
つまり、2055年には生産年齢人口は約半分になってしまう、ということ。
その結果、総人口は2055年に1億人を下回るという予測だ。

明治5年の人口が3300万人だった。
そこから45年たった大正元年には5250万人。
昭和になった1926年に約6000万人で、それから約75年かけて2倍になった。
ここから減少のステージに入ってくる。

2055年が一区切りの年だろう。
総人口が1億を切り、生産年齢人口が最盛期の半分になる。

政府が少子化対策をやっているが、あまり増えるとは思えない。
このままいくと、あと40年でだんだんと人口が減り、高齢者が増える。
経済は縮小し、生産設備は海外に移り、右を見ても左を見ても年寄りばかりになり、国民皆保険などは雲散霧消し、社会保障は維持できなくなる。

こんなことは、こないだの選挙で話題にならない。

みんなして、年寄りの既得権を守ろうとしている。
代表なければ課税なし、というようなことを言っている人がいたが、今選挙権のない人たちに頼って、彼らの稼ぎを先取りするのはもうやめないといけないのではないか。

選挙が終わってから言うのも何なんだが…。 


| | 考えたこと | 00:27 | comments(0) | trackbacks(0) |
イヌかネコか
犬猫診断テストのページがある。

そのページによると、人間はイヌ型かネコ型かに分けられるという。
以下の6つの質問の答えるだけでいい。

犬猫属性チェックテスト
問1:集団行動が好き? それとも1人で行動するのが好き?
問2:のんびり屋? それとも神経質?
問3:内向的? それとも社交的?
問4:自分を貫くタイプ? それとも周囲に合わせるタイプ?
問5:はっきり物を言う? それとも回りくどい表現をつかう?
問6:他人はあなたを思慮深いと思っている? それとも、献身的だと思っている?

だいたいどちらがイヌでどちらがネコかというのは、推定がつく。
イヌは一般的に、集団行動をするし、のんびり屋で社交的、周囲に合わせ、フランクではっきりものをいい、献身的なイメージがある。
まさに、その通りの評価。

まあ、テストの内容はページを見てもらえばいいのだが、ぼくは年をとるとネコ型になりがちだと思う。
そんなことはないだろうか。

年をとると、一人で行動することが多くなり、神経質になりがちで、内向的になるし、頑固で自分を貫くようになり、思慮深くなるような気がする。
まあ、自分で望んでそうなるかどうかは別にして、実際にそういう傾向になる事が多いだろう。
そうなると、行動は考えを変えるということもあり、ネコ型の人間が増えてくるように思う。

アメリカのペットは頭数で言うとネコのほうが多い。
イヌは散歩に連れて行ったり、しつけをしないといけないし、手がかかるからだという。
ひょっとしたら、アメリカが個人主義の国だからということもあるかもしれない。
そういえば、主要な西欧の国もネコのほうが多い。

日本のペット数は、イヌが1200万匹、ネコが1000万匹でイヌが優位に立っている。
しかし、イヌとネコどっちが好きかで、ネットでアンケートをとると、ネコ好きが多くなるらしい。
これはネットを多用する人に、ネコ好きが多いという偏りがあるからだろう。

ウチは、小学校に上がるまで祖母の隣の家に住んでいたが、祖母の家ではネコを飼っており、ネコに馴染みがある。
黒い縞のトラ猫で、祖母は名前をつけてなかったと思う。
昔の人のペット観はそんなものだった。
自由に出歩いて、家に帰ってこないこともしばしばだった。

話が逸れたが、少子高齢化でそのうちイヌとネコの数が逆転するかもしれない。

そして、人間の言葉を話すようなペット型のセラピーロボットができたら、イヌ型よりもネコ型にしたほうがいいかもしれない。

そういうのを作ったら、きっと売れるぞ。

| | 考えたこと | 00:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
入試制度改革
中教審が新しい入試制度の提案を答申した。

ニュースによると、「現行の入試が知識偏重に陥っていると指摘。受験生の能力を多面的に評価する手法に抜本改革し、大学の個別試験も面接や小論文などによる選抜に変えることを求めた。」とある。

ぼくは大学で大学生を見てきたが、とても「知識偏重」とは思わない。

県の名前や河川、山脈の名前などの知識は、大幅に少ない。
世界地理などは、アラビアの国がアフリカにあったりする。
アメリカ人の英語の先生から、授業で世界地理の話題を出した時の学生の不正解率に驚き、「日本は大丈夫か?」といわれたこともある。
四文字熟語や漢字は携帯で調べるので、間違う学生も多い。
日本の政治のシステムが分かっていない学生もいた。
大学に入っても、小中学校で習う割合や確率の知識が全くない人もいる。
「分数ができない大学生」というのが話題になったことがあったが、そんなのはもう当たり前になった。

これらの事実を文科省はどう考えているのだろう。
知識が偏重しているというよりも、知識の量が少ない。
小学校では、考えることを大事にすると称して、くり返しの学習をあまりさせないと聞いた。
だいたい、小学校で習うことは初めてのことばかりだ。
そういうのは、くり返しやってみて、できるようになって、ある日「あ、そういうことか」とわかるものも多いと思う。
今のやり方では覚えた事が身につかないのだ。

人は自分が受けてきた教育しかわからないし、それを基準に教育を語りがちだとは思う。
でも、今の状態を「知識偏重」というのは、明らかに大学生の現場を知らない。
大学のエライ先生方もなぜ文句を言わないのだろうか。
教育学者と言われる人たちは、それを理解していないのだろうか。

また、「1点に泣く」のは問題だというが、入試で取る人数に限界がある限り、それは必然だろう。
ボーダーライン上の人はどうしたって1点に泣く。
それは選別する限り避けては通れない。
いくらボーダーラインを下げても、常に1点に泣く人は出てくるのだ。

それに、一般入試というのは全体の半分以下ではないか。
それ以外の人はもう既にAOや推薦で入っているのだから、1点など関係ないし、既に多様な入試になっている。

いくら内申書を重視したって、面接をしたって、論文を審査したって、その成績をどうやって評価するのか。
ABCで評価するにしても、同じBのものを全員とったら人数オーバーになる時、どうやってそこから人数を絞るのか。
点数化するしかないだろう。
それを話し合いで決める、というのなら、点数で決めるよりも恣意的になる。

「1点に泣く」ことの功罪はどうしたって避けられない。

これだけは、マチガイないと思う。


| | 考えたこと | 23:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
ブラックユーモア
アメリカのソニー・ピクチャーズ・エンタテイメントがハッカーの攻撃を受けたニュース。
エライコッチャなあと思う。
理由は「インタビュー」という映画にある。

この映画、北朝鮮のリーダーを暗殺するよう指令されたCIAの2人組の活躍?を描くコメディ。
かなりブラックなコメディ映画に仕上がっているようだ。
昨日の時点で、ソニー・ピクチャーズ・エンタテイメントは上映の中止を決めたとのこと。

どういう意図で北朝鮮のコメディを作ったかは問題ではない、というのが自由の国アメリカでの主張だろう。
実際、オバマ大統領もソニー・ピクチャーズ・エンタテイメントのサイバーテロ被害に同情を示しながらも、その措置は間違いだった、と言っている。
こうなったら、映画の質は問題ではない。
アメリカの企業が、北朝鮮のハッカーに屈したという事実が問題なのだ。
表現の自由を侵されたということだ。

一方で、アメリカの映画関係者で「インタビュー」という映画を見て、観客の質が落ち、映画の質も落ちてしまった、という批評家もいる。
実際の内容としては、けっこうレベルが低い、ということかな。

今となっては問題にはならないだろうが…。

日本なら、どうなっていただろうか。
そもそも、北朝鮮のリーダーをからかったコメディを作る、という発想自体がなかったような気がする。
そんなことをしたら、世間からヒンシュクを買うだろう、という経営判断はある。
そんな文化がないということだ。
ドキュメンタリーなら作るだろうが、ブラックユーモアで北朝鮮を描くというのは、選択肢にないと思う。

70年代、モンティ・パイソンというイギリスの番組があった。
これもすごく際どい、シュールなブラックユーモアを扱っていたと思う。
ブラックユーモアはイギリス発祥のものだと思う。
全ての権威を笑い飛ばす、風刺よりももっと強いものがブラックユーモア。
イギリスの皇室もネタにされていたと思う。 
日本ならおそらくバッシングものだったろう。

70年代にテレビで見たが、その後ブラックユーモアというものは日本に根づいたという感じはない。
ちょっと、わからんなあ、というリアクションが日本人の平均だと思う。
だから、「インタビュー」みたいな番組を作ろうという発想はない。
作ったら、悪ふざけもいい加減にしなさい、というようなことになって、放送中止になっていただろう。

今の子どもたちを見ていると、中国や韓国を嫌っている人が多い。(子どもだけではないが…)
こういう時こそ、ブラックユーモアを解する人を育てないといけないと思う。
正面から批判するだけではなくて、いろんな方向から風刺するということも必要だ。
風刺という、ちょっと心に余裕をもった、遊びの心も必要ということだろう。
この「心の余裕」というのが、批判する側にも、批判される側にも必要になる。
そうでないと、今の韓国や中国との関係のように、すぐに怒りになってしまう。

しかし、これは両刃の剣でもある。
それを風刺と思わない人たちにとっては、悪意としかとられない。

でも、日本がアメリカの影響を受けてここまで来てしまったら、このまま西洋のオトナの国になる方がいいと思う。

それが日本に与えられた、浮世を過ごす方策だと思うのだが…。 


| | 考えたこと | 09:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
シンガーソングライター
ぼくが高校のころ、シンガーソングライターという言葉ができた。

それは長い目で見た時に、音楽ビジネスのカタチを変えるものだったと思う。
既存の音楽の作られ方は、作曲家の先生がいて、作詞家の先生がいて、そして歌手がいる、というビジネスだった。
歌手はレコード会社に属していて、プロデューサーに認められたら初めて作曲家、作詞家の先生から曲をもらって、それをレコーディングして、やっとデビューという段取りだった。
ジャンルは主に演歌と歌謡曲があって、そのどちらかだった。
歌謡曲にはグループサウンズの残党が含まれたから、ちょっと新しい雰囲気の曲もあったかな。
いずれにせよ、歌手になるというのはそれらのハードルを越えていかないといけないことだったし、努力と運がものすごく必要なことだった。

でも、シンガーソングライターが出てきて、そのハードルが下がった。
もちろん、運は必要だが、実力があれば歌を作って少なくともどこかで歌えばいいのだと思えた。

シンガーソングライターは、もともとアメリカのジェイムス・テイラーやキャロル・キングからできてきた言葉だろうと思う。
日本でも、すでにフォークの人たちがやっていたが、メジャーにはならなかった。
岡林信康とか、高石ともや、遠藤賢司、高田渡、加川良…。
そこに吉田拓郎が出てきて、ようやくメジャーになった。

まだまだレコード会社の力は強かったが、この人たちは自分で歌を作って、自分で歌うというスタイルだった。
だいたい、1970年代の初めあたりからだ。
この時代から、音楽は、自分がやりたい曲をやって、世の中に問う、というカタチになったのだと思う。
商業ベースではなく、作り手のものになった、という感じだった。

もちろん、商業ベースでやるジャンルもあったが、新たに作り手が主張をはじめたということだ。
当時、そんな音楽ビジネスの仕組みは全くわからなかったが、でもシンガーソングライターという言葉はぼくらに夢を与えてくれた。

ぼくは中学2年の時からギターを弾き始めて、高校時代ジェイムス・テイラーに憧れていた。
今の彼は頭の禿げた、いいおじいちゃんになっているが、当時は思いつめた目をした、悩める青年という感じだったなあ。
そんな風に、若者が自分たちの言葉で、自分たちの歌いたい唄を作って歌う、という文化が70年代の初めに確立したのだと思う。

吉田拓郎に続いて、続々と若いシンガーソングライターたちが出てきた。
そのうち、それらはニューミュージックと呼ばれて、若者の音楽の当たり前のカタチになっていった。
オフコースやチューリップ、荒井由実、山下達郎などが70年代の後半に出てきた。
懐かしい。
今でもシンガーソングライターという言葉を聞くと、あの時代を思い出す。

ぼくもあこがれた一人。

今では音楽をビジネスにすることの敷居はもっと下がった。
誰もがコンピューターで音楽を作り、ちょっとした知識さえあれば、YouTubeにアップして発表できる時代。
音楽は、一部のプロのものではなく、みんなのものになった。

きっとそれはいいことなんだろう。
でも、昔のように、誰もが口ずさめる曲がなくなったのは、ちょっと寂しい。

シンガーソングライターが台頭して40年。
もう世代を超えて、みんなで歌うような曲は出てこないかもしれないなあ。


| | 考えたこと | 23:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
STAP騒動
理研でやっていた再現実験もようやく終わり、一連のSTAP細胞をめぐる騒動はほぼ終了したと思う。
結局、STAP細胞はなかったということだ。

どうしてこんな問題が起こったのか。
ぼくは10年間、大学で研究者という人種を見てきたが、その特性に原因の一端があるのではないかと思う。

ぼくが見た研究者という人種は、とにかく権威主義的かつ個人主義的だった。
採用の時には履歴書と研究業績をチェックするのだが、どこそこの大学で、どういう研究科(大学院のこと)を出て、カクカクシカジカの研究をしてこられたということであれば、それは書いてあるとおりに認める。
その人の研究というものに、興味を持つのが普通だと思うのだが、そんなことは思わない(ように見える)。
全員が全員、というわけではないが、どんな人であっても、研究者は一人前の研究者として認める傾向があった。
少々オカシイことがあっても、他人の研究には口を出さない。
とにかく、個人主義だった。

だから、大学院を出て、ハーバードで修行してきたというような人なら、文句なく、どんな変なことを言っても、そのままにしておくだろうと思う。

これはひとえに、他の研究者にいちゃもんをつけると、自分がしっぺ返しに会うのがイヤだ、ということから来ていると思う。
それが、組織で働いたことがない、研究者という人種なのだとぼくは理解した。

今回の理研の不始末は、一般企業の研究所などではまず起こらない。
間違っても、外部への発表する前に止まっているだろうと思う。
それがマトモな組織というものだ。

研究者というのは縛られるのを嫌う。
それは誰でも同じだが、金をもらってやっているのだから、文句をつけたり、内容を確認することは、普通の組織では当然のことでも、「親方日の丸」の理研というようなところでは当然ではなかったのだろう。

理研に必要なのは、組織の管理である。
それは研究者の仕事ではない。
研究者の仕事を評価し、監視し、外部に発表するかどうかという判断をするという、研究管理の仕事である。
そういうプロを入れないと、何度でも同じ問題は起こる。

研究者の持っている不要な権威主義を潰し、マトモな組織にするためには、エラくない普通の人が必要なのだろう。
そういう普通の人に対して、研究の内容を説明し、説得できないような研究者は去ればいいのだと思う。
そういう人はたいがい一流ではない。
要は、研究者による、研究者のための組織は日本では成り立たないと思ったほうがいい。

そうしないと第二、第三の理研や小保方さんが出てくるぞ。

だいぶ偏った見方だと思うが、ぼくはそう思う。


| | 考えたこと | 00:10 | comments(0) | trackbacks(0) |
HDD破壊
小渕優子といえば、前の前の経済産業大臣。
女性の起用を重視する安部首相が抜擢した人事だったが、残念ながら政治資金規正法違反で辞任した。

この人、かしこいんだかバカなんだかわからない。

元々小渕首相の娘で、地盤を引き継いで立候補している。
今日のライブドアニュースによると、

「その後東京地検特捜部による捜索が続く中、大きな批判を受けながらも第47回衆議院議員総選挙に群馬県第5区から立候補し、71%という圧倒的な得票率で当選を果たします。
そして本日報じられたのが東京地検特捜部が10月に小渕優子氏の関係先で、家宅捜索前に複数のパソコンのHDがドリルで破壊されていたという衝撃的なニュース。誰がどう好意的に見ても証拠隠しにしか見えないのですが、何より恐ろしいのはこのニュースが明らかになったのが、破壊が判明した10月時点から少なくとも1ヶ月半経った12月19日ということ。」

だそうだ。

誰がどう考えても、証拠隠しである。
おそらく、本人の取り巻きの人々が悪いんだろう。
だからといって、本人が免責になるとは言えないが。

取り巻きの人たちは観劇に行ったりして、よほどいい思いをしたのだろう。
それを何年も続けていて、そのまま報告していたようだから、罪がない。
罪がないからといって、免責はされないが。

結局何もコントロールしないまま、何年か違反状態が続いて、わけがわからなくなった事務所の人たちがパソコンのデーター(ハードディスク)を破壊するいう暴挙に出たのだろう。
普通なら、辻褄をあわせて書き換えるというような手も使うんだろうが、経緯がややこしかったり、長いこと続いたりしているので、やけくそになって潰したのだと思う。
ドタバタ小説のネタになりそうな顛末。

これで国会議員をやれるのだから、笑いが止まらない。

本人が悪いのか、それとも取り巻きが悪いのか、どちらかわからない。
でも、ちょっとバカが過ぎる。

本人も恥ずかしいだろう。

それにしても、群馬5区の人たちはよほど小渕さんが好きなんだろうなあ。

これで潔白を主張するのなら、検察も本気になって立件しないといけないぞ。

| | 考えたこと | 00:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
アニメは2次元
ドラえもんの今回の映画は3次元。
「STAND BY MEドラえもん」という題名で、予告編を見たが3次元になっていた。

これからのドラえもんの映画は3次元になるのかな。
藤子F不二雄が生きていたら、それをしただろうか。

手塚治虫が生きていたら、新しいものをトライするいうことで、3次元のアニメを作っていたと思う

でも、3次元で作り続けるだろうか。
あの、手塚の絵のタッチは3次元では表現できないと思う。
そんなことを言い出したら、どの漫画家の絵も3次元では表現できない。
3次元にすると、表現しすぎるのだ。

昔はモノを作るときに、2次元の図面で描いていた。
三角法とかいろんな方法で、3次元のものを2次元の図面にして描く。
できるだけ正確に描こうとしても、2次元の図面ではものの形を細部まで正確には描けない。
結局、3次元の物体を2次元で正確に描くというのは不可能に近いと思った。
だから、時代は3次元のモデリングになっているんだろう。
それもこれも、作るべきモノが3次元の物体だからだ。
正確さを追求すると、そうなるのは必然。

でも、アニメは違う。
アニメはもともと2次元なのだ。
ジブリのアニメを見ていると、本当にそう思う。
2次元のままで完成しているのだと思う。
それをわざわざ3次元にする意味がどこにあるのだろうか。

3次元にするメリットはある。
いったんモデリングしてしまえば、それを動かすのはわりとやさしいと思う。
色や形もモデルにひっついて決まってしまうから、離れたところで同じモデルを使うことができるだろう。
2次元のデジタルは、スケール(ものの寸法)が背景と動くもので違うから、やりにくいのだと思う。
3次元になれば、背景にもスケールを属性として持たせたりできるのだと思う。
だから、ひとつ作ってしまえば使い回しができるのだろう。

つきつめれば、これだけコンピューターや3DCGのソフトが発達してしまうと、3次元で作るほうが楽なのではないだろうか。
作ったモデルは使い回しできるから、次の映画でも使える。
だから、製作コストは2作、3作と作ると安くなるかもしれない。

でも、経済的な要因を除けば、3次元にメリットがあるとは思えない。
2次元のアニメの方が、よけいな情報がないだけ、情感がある。
ものを正確に表すためにアニメを作ってるのではない。
ストーリーを感動的に見せるためにアニメを作っているのだろう。
あの平面の絵の中に、よけいなものがないからこそ、感動できるのだと思う。
マンガの絵というのは、デフォルメ(誇張)しているからこそ、表せるものがあるのだと思う。
それを3次元にしてしまうと、リアルすぎるのだと思う。

ドラえもんはコストと製作時間を削減するために、3次元になってしまった。

ジブリも宮崎が引退して、今のアニメの制作の方法を変えるという。

そのうち、2次元のアニメは希少なものになるだろう。
手間と時間がかかるからだ。

「となりのトトロ」や「千と千尋の神隠し」が3次元だったら、あれだけ感動できただろうか。

ジブリは2次元にこだわってほしい。

2次元でないと、表せない感動があるのだから。

| | 考えたこと | 23:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
イヌの名前ベストテン
昔ぼくが子供の頃、イヌの名前といえば、ポチ、クロ、シロ、コロなどだった。
なぜかと聞かれても難しいが、そういう相場だったと思う。
見た目で名前を決めていた。
今のようにスーパーにドッグフードのコーナーなどなく、人間の残飯が主食だった。

ほとんど外で飼っていたし、数も少なかったと思う。
まだまだ日本は貧しかったから、血統書付きの洋犬などほとんどいなかった。
たいがい日本犬の雑種で中型犬だったなあ。
何となく茶色いイヌが多かったような気がする。

小学校の時に、スピッツが流行って、友達の家にスピッツが来た。
キャンキャンとうるさいイヌで、言うことを聞かないヤツだと思った。
あれは、家の中で飼うイヌの最初だった。

その後、日本は高度成長を遂げ、少子高齢化の時代になり、ペット事情も変わった。
河原などの遊歩道でイヌを散歩させている人も増えた。
家の中で飼うのが当たり前になってきた。
複数飼っている人も多い。
たいがい、小型〜中型犬で最近はトイプードルやミニチュアダックス、チワワなどが多い。

イヌの名前もだいぶ変わった。
アニム損害保険株式会社の調査で、「どうぶつ健保」に契約した8万7千頭を対象に行った名前の調査によると、1位コロ、2位チョコ、3位マロン、4位モモ、5位モコ、6位ハナ、7位ソラ、8位モカ、9位レオ、10位ココアとなっている。

1位のコロはよくある名前だが、チョコ、マロン、モモ、モカ、ココアは食べ物の名前。
かわいい系の名前が多くなった。
人間も同じか。

そういえば、タローというイヌも近所にいた。
おとなしいイヌで、飼い主を迎えに行って車にはねられて、後ろの足が一本不自由になった。
それでも、公園のそばで出歩いていた。
あれが典型的な飼い犬だったと思う。
忠犬ハチ公みたいなイヌだ。

「犬たちの明治維新」という本の書評のページを見つけたが、そこに明治43年の朝日新聞に掲載されたデータを元にした“犬の名前ランキング”があった。
それによると、1位ポチ、 2位ジョン、 3位マル、 4位クロ、 5位アカ、 6位ポーチ、 7位ボチ、チイ、 9位シロ、ハチ、チン、タマとなっている。

そういえばポチは多かった。ぼくらの世代では、ポチといえば、イヌを想像する。
イヌの名前もポチからコロへ、そして食べ物の名前にうつり変わってきたんだなあ。

食べ物系の名前が増えたということは、より人間にとって身近なものになったということか。

そうかもしれない。
イヌは昔に比べてどんどん人間に近づいてきた。
特に高齢者にとっては、コンパニオンアニマルという感じだ。
セラピードッグという仕事もある。

だんだんと役割が変わってきたんだろう。

イヌも世につれだなあ。


| | 考えたこと | 00:13 | comments(0) | trackbacks(0) |
おかしな文科省
文科省が小中学校の学習指導要綱を中教審に諮問するらしい。

新聞に書いてあった諮問の要点は、

・自ら課題を見つけて解決を図る、アクティブラーニングというような指導法を検討
・知識量の多寡によらない成績評価法の検討

要は、「従来の「知識偏重」型教育から脱却し、思考力や判断力、主体性を重視する方向に教育内容を変える。」らしい。

日本という国は最近は外から圧力がかからないと、うまくいかないことが多い。
役所のなかでも、文科省というところは外圧がかからないところだ。
山本七平の対談集にそう書いてあった。

たしかに、教育には関税がかかるわけでもなく、外国からどんどん参入してくるということもなく、どの国も文科省に相当するところはあまり外圧がない。
ただ、日本は戦前から戦後にかけて、それほど失敗はしなかったのではないか。
その当時、日本は早く西洋にキャッチアップしないと、植民地化されてしまう、という恐怖感が外圧になっていたのだと思う。
ゆとり教育あたりから、調子が悪くなったのではないか。
まあ、今でも比較すると日本の教育水準は悪くはないが…。

今回の諮問では小中学校の勉強のやり方を変えるという。
小中学校というと、勉強の基礎の時期だ。
その時期に、知識量の多寡によらない成績評価をするという。
何かオカシイ。
最低限覚えないといけないことを覚えないと、高校以降になっても論理的に考えることができないと思う。
知識を増やさないと、論理的に考えられないし、その知識を増やすのは小中学校の年齢だ。
記憶力が強い間に覚えるべきだろう。

知識量がないと、自ら課題を見つけて解決を図ることなどできない。
知識の量が問題意識を育てるのだと思う。

第一、そんな指導ができる先生がいるのだろうか。
小学校、中学校の指導など、簡単にできると思っているのではないか。
ある意味では、教えるというのは年齢が低いほど難しいと思う。
教える内容が簡単だから、大丈夫だろうなどと思ってはいけない。

教育の方針を変えるのなら、先生を変えないといけない。
少なくとも、現在の教員養成課程が現在の先生を育成するものだとすると、それを変えないといけない。
そんな当たり前の事がわからないのだろうか。

今の教員養成課程ではダメだと思う。
そこを触らないで、何をやっても苦しいと思うのだが…。
教育を変えるためには先生を変える必要がある。

小中学校がダメなら、それ以降でいくら頑張っても取り返すことは難しい。
それが教育学者が重視する発達というものだ。

だからこそ、小中学校にもっと力を入れないといけない。
やるべきなのは、教員養成課程と採用試験のやり方を変えることだ。

文科省は高等教育に金をかけている場合ではないのだと思う。

| | 考えたこと | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
Chromebook2
こないだ梅田のヨドバシカメラで実際にChromebookを見てきた。

DELLとAsusの2機種が置いてあったが、値段は3万円〜3万5000円程度。
ヨドバシならポイントがつくので、1割引きになる。

実際にキーボード上のスイッチを押して、立ち上がるまで10秒かからない。
シャットダウンは数秒でOKだった。
とにかく動作が早い。
また、ウィルスチェックのソフトも必要ないから、更新などに時間がかからない。
デスクトップを持っていて、セカンドマシンに使うとか、クラウド上に置いてあるファイルを使うとかいう時には持っていて便利だろう。
何より安くて、動作が軽い。

以前、AtomというCPUでネットブックという安価なノートパソコンが出てきたが、動作が遅くて人気がもう一つ出なかった。
しかし、Chromebookは速いし、十分に使えると思う。

ただし、制約がある。
インターネットで全てが完結しないとダメだ。
つまり、無線LANがなければタダの箱ということだ。

数年前、グーグルがグーグルドライブというアプリを出して、スプレッドシートやプレゼンなどがそれに統一されて来た時、将来はブラウザ(この場合はChromeだが)だけで使えるパソコンが出てきてもおかしくないと思っていたが、それが現実になった。

ここ数年のネット環境の進歩や、ネット上のプログラミング技術、そして安価なハードの進歩などの全てがこのChromebookを実現したのだと思う。

前に書いたように、アメリカのようなインターネット環境が進んでいるところでは、もうノートPCの20%のシェアを占めているという。
学校でもセキュリティの心配をしなくていいこと、キーボードがついていることなどから、iPadを抜いたと報じられている。
これから教育用のアプリが増えてくると、どんどんシェアは増えていくだろう。

インターネットが身近になって、パソコンの質も変わってきたということだ。

ネットワークにつながって、初めて使うことができるパソコン。
逆に言うと、ネットワークにつながらなければ、全く役に立たないパソコン。
これが今の時点での究極のパソコンではないか。

そういうと、グーグルが潰れたら、どうするのか?という声が出てくる。
全てをグーグルのサービスに負っているから、たしかにそうだ。

でもマイクロソフトからグーグルに変わっただけ、と思えないこともない。
マイクロソフトはChromebookに脅威を感じて、Windows8.1 with BingというOSを無料で売りだした。
それでChromebookの進撃が止まるとは思えないが…。

そして、グーグルは多くの物事をオープンにしている。
アップルとは対照的だ。

インターネット接続を前提としたChromebookのコンセプト、まだまだ増えていくと思う。



| | 考えたこと | 23:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
ステレオ
ステレオを買い換えたいと思う。
おそらく、これが最後だろうなあ。

この前買ったのが、もう30年前になる。
だいぶ前だ。
しかし、色々とネット上で調べてみたが、その頃とはだいぶ事情が違う。

30年前というと、日本の家電メーカーがまだ元気だった。
当時はビデオが出てきた頃だったので、AVアンプを買った。
ヤマハのAVアンプにパイオニアのレコードプレイヤー、ソニーのCDプレイヤーにした。
スピーカーはボーズの小さいもの。
置き場所がなかったから、ボーズになった。

今日は梅田のヨドバシに行ってみたが、やっぱりだいぶ様変わりしていた。

レコードプレイヤーはデノンのものくらいしか置いていない。
まあ、レコード自体がもうほとんど流通していないから、仕方ない。
アメリカではまた流行っているというが、量はしれているんだろう。

単体のアンプは日本の家電メーカーのブランドはほとんど消えた。
あるのはソニーとヤマハ、オンキョーあたり。
コンポはあるのだが、単体になると日本製は減る。
あるのはマランツ、ラックスマン、それと知らない海外ブランドだ。

スピーカーはもっと悲惨だ。ほとんど日本のブランドはない。
あるのはフォステクスくらいだった。
昔から有名なJBL、タンノイ、ボーズあたりは健在だったが、ヨーロッパのブランドが増えた。
B&W(イギリス)、ロジャーズ(イギリス)、エラック(ドイツ)、ダリ(デンマーク)というようなメーカーのスピーカーが大小取り混ぜて並んでいた。

視聴していた老人は、なんとペアで100万ほどのタンノイのスピーカーでクラシックを聞かせてもらっていた。あれ、買ったんだろうか。店員は走っていたが…。
素人のぼくが聞いても、繊細なバイオリンの弦の音がみずみずしく再生されていて、そこにいるような感じだった。さすがタンノイ。

さすがに大きなリスニングルームでもないと、そのクラスのスピーカーは置けない。
置いても音が出せないからもったいない。

ジャズやポップスなら、JBLというのがぼくらの頃の常識だが、確かにいい音していた。
友達の下宿で見た覚えのあるスピーカーがまだある。
品番は変わっているのかもしれないが…。

日本のスピーカーはAVコーナーに置いてあった。
ホームシアターのシステムとか、ジャンルとしては新しいものだ。
流行を追って売ろうという戦略だろうが、ちょっと情けない。
バータイプの横長のスピーカーがメイン。
確かに時代はAVだから、薄型テレビのところに置くスピーカーとしてはいいんだろうが…。

CDプレイヤーも単品のものは少ない。
このジャンルにお金を出して、単品でセットを揃えようというような客はほとんどいないからだろう。
実際、単品を買うくらいなら、ミニコンポを買うという気持ちもわかる。
ミニコンポの音も良くなった。

日本の家電メーカーは横並びでオーディオに取り組み、バブルが崩壊して横並びでやめたのだろう。
フォステクスやオンキョー、ティアック、ソニー、ヤマハなど、ごくごく少数のメーカーが残っている。
パナソニックのテクニクスは復活したというカタログは置いてあったが…。

しかし、その間もずっとヨーロッパやアメリカの専業メーカーはシコシコとスピーカーなどのアナログ機器を作っていたということだ。
アナログの機器は作るノウハウが大事だから、作り続けているところに簡単に勝てない。
それに、高級品だから、そもそもそんなに大きな市場があるわけでもない。
単品を集めてステレオセットを組むなどというのは、マニアックな客だけだから…。

結局日本の家電メーカーは、日立も、東芝も、三菱も、松下も、シャープも、みんな手を出して、そしてやめてしまった。
お金はあったのだから、頑張っておいたらよかったのに、あとかたもない。
残っているのは、アメリカやヨーロッパの専業メーカー。
しぶとく残っていた山水やパイオニアも潰れたり撤退したりした。

ソニーもいつ撤退するかわからない。
ヤマハは頑張ってほしいなあ。

単品オーディオの世界は難しい。

| | 考えたこと | 00:31 | comments(0) | trackbacks(0) |
学校がピンチ
財務省が公立小学校の1年生の「35人学級」を「40人学級」に戻すという方針を示したらしい。
当然、財源が問題だということだろう。

でも、文科省側からは反対が出ている。
今、学校はピンチだそうだ。
新聞によると、こうある。

「学校教員向けサイト「EDUPEDIA」が去年12月に行ったアンケート調査では、公立小中学校教員342人のうち6割が月51時間以上残業しており、9割以上が「教員数が少ない」と感じているという結果が出ています。また文科省の調査によると、教員の精神疾患による休職者はこの10年で約3倍となっています。」

残業をちゃんとカウントしているとすると、51時間はだいたい一日あたり、2時間ちょっととなり、帰るのは7時過ぎということだろう。
ちゃんと残業がついているのなら、そんな職場はたくさんあると思う。
あまり褒められたことではないと思うが…。

精神疾患による求職者が3年で10倍になっているのは、大変なことだ。
これは、教師になりたい、という人を選別するのに、考慮しないといけない。
性格検査をするとか、メンタルに強い人を選ぶとか…。

それと、過労によるものもあるだろうから、人を増やさないといけないと思う。
しかし、教員を増やすよりも、事務員を増やしたほうがいいというのがぼくの意見。
学校には先生と生徒しかいないという状態が、よくない状況を作っていると思う。
事務能力に長けた人、企業経験がある人を学校にもっと入れていかないといけない。
実際に生徒たちが出て行くのは、実社会であって、学校組織ではないからだ。

給食費を集めたり、何かの費用を集めたり、保護者宛の文書を回収したり、学校から保護者への連絡など、一元的に事務組織からやればいい。そうすれば40人学級に戻しても大丈夫だと思う。

現場が疲弊しているのは、今の学校がいじめを隠したり、休職が多かったりすることでわかる。

そういう時こそ、人心を改めないといけない。

今のような人材ばかりいくら入れてもダメなものはダメだろう。

違った人材を入れていかないといけないと思う。

そうではないだろうか。


| | 考えたこと | 01:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
音楽の未来
昨日はシングルCDの売り上げだったが、それとは別に10代がカラオケで歌う歌というのが、Joysoundから発表されている。(2013年)

1位千本桜、2位脳漿炸裂ガール、3位女々しくて、4位紅連の弓矢、5位残酷な天使のテーゼ、6位六兆年と一夜物語、7位天ノ弱、8位only my railgun、9位君の知らない物語、10位いーあるふぁんくらぶという状況。

その中でボーカロイドが歌っている曲が、5曲。
1,2,6,7,10位がそうだ。

ボーカロイド、通称ボカロというのは、2007年に出た「初音ミク」という合成音声での歌作りソフトで歌わせた曲、ということだ。(他のソフトで歌うのもあるかもしれないが)
もちろん、ぼくは1曲も知らない。

1位の千本桜という曲の歌詞はスゴイものだ。

大胆不敵にハイカラ革命  磊々落々(らいらいらくらく)反戦国家  日の丸印の二輪車転がし  悪霊退散 ICBM
環状線を走り抜けて 東奔西走なんのその  少年少女戦国無双 浮世の随(まにま)に
千本桜 夜ニ紛レ 君ノ声モ届カナイヨ  此処は宴 鋼の檻 その断頭台で見下ろして
三千世界 常世之闇(とこよのやみ) 嘆ク唄モ聞コエナイヨ  青藍(せいらん)の空 遥か彼方 その光線銃で打ち抜いて

1番だけだが、歌詞に反戦国家と出てくる。でも、えらい物騒な歌詞。
ICBMは大陸間弾道弾だが、意味は知っているのかな。
ぼくらの時代にも反戦歌はあった。
アメリカのフォークソングなら「花はどこに行った」とか、「風に吹かれて」とか。
日本なら、「さとうきび畑」とか、「教訓I」とか。
こんな過激な歌詞ではなかった。
これを10代の人たちが、意味をわかって歌っているのかと思うと、ちょっと心配になる。

この曲は小説やミュージカルにもなっているらしい。
よほど人気があるんだろう。
曲を聞いてみると、なるほどリズミカルで調子のいい歌だ。

しかし、カラオケで歌われる曲の1位になるとは…。

ということは、シングルCDでAKBやジャニーズが流行っているというものの、実際には10代は冷めているのかもしれない。
掲示板を見ていたら、「10代のやつに「どんな曲聞いてるの?」って質問したらみんな口をそろえて「ニコ動でボカロを〜」だってよ」という発言もあった。
20代以上の世代は、10代ほどボカロに夢中になっているわけではないらしい。

10代の中に、ボカロ文化と言っていいものが生まれようとしている。
作っているのはまだまだ10代以上が多いと思うが、聞いていたり、実際に歌っていたりするのは圧倒的に10代らしい。

クールジャパンと呼ばれているものの中に、ボカロも入っている。
これからボーカロイドはどうなっていくのだろう。
音楽の未来はどうなっていくのだろう。

ぼくにはほとんどわからない。



| | 考えたこと | 22:07 | comments(0) | trackbacks(0) |
2014年シングルCD 売り上げトップ50
今年のシングルCDの売上の順位を見た。
こんなことになっていたのかと思う。

1位から4位はAKB48が独占。
5,6,10位は嵐。
7位から9位は乃木坂46。
つまり、AKBと乃木坂と嵐で10位までが占められている。

11位以降に出てくるのは、SKE48、EXILE、NMB48、関ジャニ∞、HKT48、ジャニーズWESTという顔ぶれ。
つまり、EXILEの12位を除いて、秋元ファミリーのナントカ48(46)とジャニーズで占めているという、驚くべき状況。
このナントカ48(46)というのは、シングルCDを買うと、握手券が入っていたり、総選挙に参加できたりするという特典があるから、それで売れているのだろう。
実際にCDを買った人でいうと、どれくらいの比率になるんだろうか。

21位以降30位はジャニーズの天下。
関ジャニ∞、Kis-My-Ft2、SMAP、エイトレンジャー、Hey!Say!Jump、舞祭組とEXILE。
なんと10曲中9曲がジャニーズ。

ぼくの知っているグループではサザンが47位にやっと出てくる。
日本の歌謡界は、ぼくが知らない間に猛烈な寡占化が進んでいたということだ。

昔はどうだったのかと思って、ぼくが18歳だった1975年の顔ぶれを調べてみた。
さくらと一郎、布施明、小坂恭子、沢田研二、ダウン・タウン・ブギウギ・バンド、岩崎宏美、風、細川たかし、かまやつひろし、山口百恵、桜田淳子、バンバン、野口五郎、八代亜紀、中村雅俊、西川峰子、アグネス・チャン、西崎みどりという状況。
懐かしい名前が並んでいる。
演歌と歌謡曲の中にちょっとフォークが入っているという感じ。
この頃はまだニューミュージックというジャンルはなかったと思う。
事務所がどうなっているのかはわからないが、まあバラエティに富んでいると言っていい。

今の人が見ると、今年の上位20位もバラエティに富んでいるということかもしれないが、とにかく今は年齢層が狭くなっているというのは言えるだろう。
1975年は中高年もシングル盤を買っていた。もちろんレコードだ。
今はシングルCDは若い人しか買っていないのではないか。

年寄りは、テレビで演歌や歌謡曲を聞いたり、コンサートに行ったりしている。
中年はニューミュージック時代のアーティストのライブに行ったり、その当時の古いレコードをCDで再販されたものを買ったりしている。
若い人はジャニーズやナントカ48を聞いている。
そんな感じではないか。

団塊の世代以降、昭和40年台にティーンエージャーだった人たちは、洋楽も聞いていた。
エルビス・ブレスリー、ビートルズ、S&G(サイモンとガーファンクル)、ビーチボーイズ、ローリング・ストーンズなどが当時のビッグネーム。
もうちょっと古いと、ペリー・コモとか、ドリス・ディ、フランク・シナトラなどかな。
復刻版のCDにはそういうニーズもあるだろう。

そういう音楽の多様性が、今のシングルCDを見ていると全くなくなったように見える。

ちょっとさびしい。
もっといろいろ聞けばいいのに。(聞いているのかもしれないが…)


| | 考えたこと | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
清潔だからいいというわけではない
子供の頃にあまり清潔だと、アレルギーにはよくない、というのは時々聞くが、アメリカのジョン・ホプキンス児童センターが、新たにこの説を裏付ける研究結果をアレルギー臨床免疫学ジャーナルに発表したとのこと。

それはそうだろう。
そうでないと、今アレルギーの子供が増えていることが説明できないと思う。
昔は給食や冷凍食品にいちいち何が入っているなどと書いてなかったし、それでもみんな生きていけた。
アレルギーを起こす食物も増えているし、少子化であるにもかかわらず、アレルギーを起こす子供も増えている。
それを起こした環境の変化というと、世の中が清潔になったということだろう。

研究によると、「ホコリやチリ、ダニ、猫のフケやゴキブリの糞などの複数のアレルゲンやバクテリアにさらされていた方が、喘息やアレルギーになりづらくなるという。その効果は生後1歳未満の方が顕著に表れる」とのこと。

やっぱりなあ、というのが感想。

清潔になるのはいいことだとは思うが、あまりに何でも清潔に、というのも考えものだ。
適度に汚くして、汚さと共存することも必要なのだろう。
汚さというと言葉が悪いか。
自然に生きると言ってもいいかもしれない。

もともと、人間は自然の中で生きてきた。
自然の中で暮らすと、寿命はもっと短い。
自然は厳しいからだ。寒い日もあれば、暑い日もある。
雨が続くときもあれば、全く降らない日が続くこともある。
そんな中で暮らしていると、汚いこともある。

今は人工的な環境の中で、清潔に子供を育てようとする。
それが行き過ぎるとよくないのだ。
子供が1歳になる前に、アレルゲンやバクテリアも一緒にいたほうが、強くなるらしい。

しかし、この研究が進むと、人工的な状態で、そういうアレルゲンやバクテリアを適量摂取する、というような状態になるかもしれない。
ホコリやチリを人工的に作り、その中に子供の状態に応じてネコやイヌのアレルゲン、ゴキブリの糞のアレルゲン、ノミやダニのアレルゲンなどを混ぜて、最適な状態を作るということもできるようになるだろう。

はたして、その状態はいいことなのか…。

| | 考えたこと | 22:22 | comments(0) | trackbacks(0) |
脳指紋
こないだ日経を見ていると、脳指紋という記事があった。

脳は正直だという話だ。
実際に見たものは脳の中に記憶として残り、その写真を見せられると脳波に特徴的な波形が現れるという。
これが何年も前のことでも、脳は覚えているらしい。
記事はこう書く。

「脳指紋の正体は「P300」と呼ぶ脳波だ。その人にとって意味のある写真や音などの刺激を受けると、谷のような波形になる。Pは刺激に反応する陽性の意味のポジティブ(Positive)の頭文字で、約300ミリ秒(0.3秒)後に現れることから、こう名づけられた。
 犯行現場や凶器の写真を見たり、犯行時の周辺の騒音などを聞いたりすると、犯人ならP300が出る。無実なら反応は起こらず、脳波は普段通りで変わらない。これで犯罪に関与していたかどうかがわかる。」

記憶に残っている物を見た0.3秒後に波形が変化すると、それは真実だ、ということになる。
嘘発見器よりも精度がちょっと高いとのこと。
これからまだ研究が進めば、もっと正確になるかもしれない。

また、この技術を話せない病人とのコミュニケーションに使っていくということも考えられているらしい。
たしかに、トイレに行きたい、と思っている時にトイレの写真を見せたら反応するのなら、これはいける。
そういう用途もP300にはあるらしい。

脳の科学はどんどん進んでいる。
その成果を使って、ディープ・ニューラル・ネットワークなるものを作り、コンピューターに人間の知性のようなものを持たせるというようなこともやっている。

そのうち、何が売れそうかとか、ファッションの流行はどうなるかとか、そんなものも誰かの脳の動きでわかるようになるかもしれない。

そう考えると、脳科学の進歩は危ないにおいがする。
人間の存在そのものをおびやかすかもしれない。

まあ、ぼくの生きている間はまだ大丈夫だろうが…。

| | 考えたこと | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) |
スマホネイティブ
今の10代はパソコンをあまり使わないらしい。
使わないというより、使う必要がないというべきか。
何でもスマートフォンのアプリでできてしまうからだ。

いつでも、どこでも、何でもできる、というのはネットワークと端末の技術でできるようにはなったが、どうなんだろうか。
あの小さな画面で、画面を触る入力で、検索もできるし、書こうと思えばレポートを書くこともできる。
でも、あの小ささが、やっぱり制約になる。
ある程度の大きさと、入力のしやすさは必要になると思う。
だから、仕事ではスマホはムリだろう。
いくら技術が進歩しても、物理的な大きさはどうしようもない。
人間のサイズが小さくなれば別だが…。

ジャストシステムの調査によると15〜19歳のスマホ利用者がパソコンに接する時間は調査によると88分。
メインはスマホになっている。
20歳から上の全ての世代が150分程度あるにもかかわらず、だ。
確実にパソコン離れが起こっている。

今の大学生は携帯・スマホ世代なので、レポートもキーボードで打つより携帯・スマホで打ったほうが早いという人がいる。
中には卒論もそれで打つというひともいるらしい。

こないだ書いたが、アメリカでもそれが問題になって、キーボードがついたものを学校から与えるという事になったのだろう。
やっぱり物理的な大きさとか、実際の入力とかを考えると、ノートパソコンくらいの大きさは必要だと思う。

だから、どこかでパソコンを触る習慣をつけないといけないと思う。
キーボードがベストとは言わないが、現状ではやっぱりキーボードを使わざるを得ない。

これからの会社は、自社のアプリケーションなどが減り、どんどん汎用のアプリケーションをWebから使うようになると思う。
クラウドデーターというようなものもそれを助けるだろう。
そうなると、使い方はそんなに難しくない。
だれでもが使えるようなソフトになるはずだ。
だから、そんな難しいパソコンの使い方などは必要ない。
あるとしても、仕事を始めてから覚えたらいい。

とにかく、キーボードに慣れることが第一だ。
そして、ネットワークの仕組みを知っておくこと。
その2つくらいが社会にでる前に最低限必要になるだろう。

スマホの時代は来ているが、それでもパソコン(キーボード)はなくならないと思う。

| | 考えたこと | 22:50 | comments(0) | trackbacks(0) |
MacBook
今日は用事があって大阪の本町に行った。

地下鉄の本町の駅を上がったところにスターバックスがある。
オフィス街なので土日は空いている。
今日の昼はスタバで食べることにした。

中に入って席を見渡すと、さすがに大阪の中心だけあってノートパソコンを広げている客が何人かいる。
座って観察すると、リンゴマークのMacBookが3台。
パナソニックのLet'sNoteが2台。
レノボの普通のノートが1台。

やっぱりリンゴマークのパソコンを持っている人は、真ん中のテーブルに陣取って、ドヤ顔をしている(ように見える)。
Let'sNoteの人は、隅の方のテーブルで、膝の上に置いて使っている。
値段はおそらくLet'sNoteの方が上だと思うが、Let'sNoteはつつましやかである。

レノボのノートパソコンを使っていたのは、外国人だった。
キンドルで洋書を読みながら、レポートを書いていた。

アップルの、ノートのディスプレイの背面におおきなリンゴマークをつけて光らせたのは、正解だと思う。
パソコンに詳しくない人でも、向かい側から見てアップルだとわかる。
また、アップルは比較的値段が高く、熱狂的な信者が多い。
別にアップルが何もしなくても、信者を増やそうとしてくれる。
ユーザーが広告塔になってくれるのだ。

一時はどうなるかと思われたMacだが、完全に復活した。
アップルのような会社は、一つヒットが出ると強い。
ハードとソフトを一緒に作っている会社だから、連携ができる。
iPod 、iTunesが流行ったのが大きかった。

しかし、今日のスタバは印象的だった。
ホントに座って、机の上にパソコンを出し、パタッと開く。
そこに白いリンゴマークが光っている。
まるでそうすることが当たり前のようだった。

噂には聞いていたが、実際に見たのは初めてだ。

恐るべし。スタバのMacBook。



| | 考えたこと | 01:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
兵庫8区 その2
兵庫8区の候補者2人のホームページを見てみたが、ほとんど今回の選挙に関する文章がない。

写真や機関紙のコピーばかり。
ネットの選挙の時代だというのに、どうなっているのか。
ホームページで自分の政見を訴えたりしないんだろうか。

選挙民はホームページは見ないのだろうか。
まあ、見ても仕方ないわなあ。
選挙区には2人しかいないし、どっちも党の公約からそんなに離れられないんだから。

いくら準備不足だからといっても手抜きせず、もうちょっとやる気でページを作ってほしいものだ。

それとも、党首の言うとおりにするから、自分の意見などないのだろうか。

国政選挙に出るのだから、自分の思いはあるはずだ。
それがないなら、でなくてもよいと思う。

選挙に出る人はどういう人だろう。
まずは、政治のことを考え、みんなのために、という思いを持っている人であってほしい。

でも、今は二世議員が多い。
地盤があるから、継いでいるということだろう。
回りに取り巻いている人もいる。
その人たちは、既得権があったり、自分たちに有利になるように二世議員にたかっている人もいるだろう。

二世議員が悪いというわけではないが、どうしても、みんなために自分が政治をやる、という気が薄いと思う。
だから小渕ジュニアのように、観劇会でお金を使ったりする。
それは仕方のない事だ。

いっそ、二世議員は禁止してはどうか。
安倍晋三などは三代続いての政治家だ。

今の衆議院の二世議員の数を調べているサイトがあった。

    全議員数 世襲議員数 世襲率
自民党 304人 124人 40.8%  
公明党  31人  2人  6.5%
民主党 113人  26人 23.0%
共産党  9人  1人 11.1%
社民党  7人  0人  0.0%
その他  16人  9人 56.3%
総合計 480人 162人 33.8%

自民党に4割の二世議員がいて、全体で33.8%という数字が出ている。

自由な民主主義国家にしては、ちょっと多いのではないだろうか。

だから、兵庫8区が何とかなるというわけではないが…。


| | 考えたこと | 22:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
大学の先生のドレスコード
ニュースで、ノーベル賞をもらった名大の天野さんが授賞式に行く様子が映っていた。

スーツにリュックという格好。
だれか注意する人はいなかったのだろうか。
ぼくが古いのか…。

奥さんもロシアで先生だというから、あんな格好が当たり前なのかもしれない。

もうスーツでリュックというのは、市民権を得ているのか。
ぼくはどう見てもオカシイと思ってしまう。

片方だけ肩にかけるのならまだしも、両方とも肩にかけて、完全に登山スタイルである。
やっぱり、あれはオカシイぞ。

みんなオカシイと思っているが、ノーベル賞を貰う人はオカシイ人だからまあいいか、と思っているのか、それともそんなにおかしくないのか、よくわからない。

少なくとも、営業であんな格好で来た人はいなかったのは事実。

でも、ネット上でそういう質問が出ているのを見たら、半々くらいになっている。

ニューヨーカーなど、かっこいい人もいるという意見もある。
まあ、それもそうだが…。

皮のリュックとか、かっこいいものもあるのは確か。

若い人たちの間では、通勤時はOKというような感じだった。

となると、空港から移動するときにはスーツにリュックもありということだろう。

だいぶドレスコードも変わってきたなあ。

ぼくの普通ならダメだと思うのだが…。

| | 考えたこと | 21:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
Chromebook
アメリカではクロームブックが売れているという。

クロームブックは、ぶっちゃけて言うと、GoogleのWebブラウザであるクローム(マイクロソフトのインターネット・エクスプローラーのGoogle版)だけしか使えないノートPCである。
基本的にはWebブラウザで使えるアプリケーションを使う。
昔はワープロや表計算、写真のレタッチ、パワポのようなプレゼンソフト、イラスト用のソフトなどは專門の会社が作って、パソコン用のソフトとして売っていた。
それを買って、パソコンにインストールして使う、という使い方だった。

ところが、パソコンの性能が上がると同時に、ネットワークの速度も上がり、Webの技術も発達し、いろんなことがWeb上でできるようになってきた。
実際、この文章はGoogle Documentで書いている。
普通に文章を書くだけなら、それで十分。
もちろん、Googleが勝手にバージョンアップしていっており、リンクを入れるとか、コメントを挿入するとか、行間を変えるとか、箇条書きとか、表を挿入するとか、図や写真を挿入するとか、そんなことも簡単にできる。
表計算のソフトも同様だし、プレゼンソフトも同じような感じだ。

要は、素人が使える機能はだいたいWeb上のアプリでも揃っている。
そして、インターネットが使えれば、どのパソコンでも、どこからでも使うことができる。
ファイルはWeb上に置くので、保存の心配がない。
ウィルスなどの心配もしなくていい。

カレンダーなどのスケジュールソフトは、みんなで共有できるし、スマホでも見ることができるので、Web上のアプリの方がいいだろう。

写真の修正もPicasaというサイトでできるし、そこに写真を置いておくこともできる。
もちろん、Google以外のFacebookとかTwitterとかのソーシャル・ネットワーキングサービスも使える。
メールはWeb上のメールで十分だし、その方がどこからでも使えるので便利だ。

よく考えたら、昔のパソコンは自分用のソフトを使って、自分で保存していたが、今になってみると自分用のものはだいぶ減った。
ぼくの場合、音楽のソフトくらいだ。
もちろん、過去の遺産を見たり、使うために立ち上げるソフトはある。
でも、それもだんだん減ってくる。
いっそのこと、全てをWeb上に置いておくというのもアリだなあ、と思っていた時にクロームブックが出てきた。

とは言っても、Web上に置いておくのは危ないという気もする。
そういうファイルはやっぱり、自分のパソコンに置いておきたい。
でも、普段使うのはWebでいいだろう。
実際、パソコンを立ち上げても、使うのはWebばかりになっているのが事実。

だから、自分のデスクトップは持っておいて、サブでWeb専用のノートパソコンを使うというのは選択肢になる。
保存も全てWeb上になるので、大きなハードディスクも要らない。
必要なら、デスクトップでWebから自分のパソコンに作ったファイルを持ってくれば、従来の使い方もできる。

特に会社など、Web上のアプリケーションを社員が使うというようなところは、Web専用のノートパソコンの方がいい。
一人ひとりのパソコンの、ウィルス等のセキュリティの心配をしなくていいからだ。
ファイルがなくなるということもない。
立ち上がりも7秒ほどでOK。
そして、何より安い。
2〜3万円で買える。

そんなわけで、実際アメリカでは2013年にクロームブックがブレイクして、今やノートパソコンのうちの20%のシェアを取った。
そして、教育機関でもiPadを抜いてトップに立った。
価格がiPadの半分というのも大きいが、キーボードが付いているというのも大きいという。

ぼくも、タブレットはインプットにはいいが、学習のアウトプットには向いていないと思う。
だから、キーボードは必要なのだろう。

こうなってくると、Googleの影響は大きい。
たしかに、Googleはスゴイ会社だと思う。
力を持ちすぎたが故に、欧州ではGoogleを分割すべきという声も出ている。

でも、ぼくは長いものには巻かれることにした。
今のところ、Googleは少なくともGoogle以外よりはいいと思う。
Googleがない世界よりはGoogleがある世界を選ぶ。

十数年前、一緒に働いていた人から、「こんなんあるよ」と言われて検索サイトを見て以来、感心してしまった。
どうしたら、信頼のおけるサイトが検索されるか、ということを自動でやった会社。
基本的には自由でオープンなインターネットを支持している。
その中で、いいものを早く見つけるという仕組みを作った。
少なくとも、人の善意を信じている会社だ。

Googleがオープンである限り、ぼくはいいと思っている。

この秋から、日本でも個人向けに販売している。

日本ではどうだろうか…。


| | 考えたこと | 00:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
兵庫8区
ウチは兵庫8区である。

今回の解散総選挙で立っているのは2人だけ。
公明党と共産党である。

一方、ニュースでは9党の党首会談が報じられている。
比例区はあるが、小選挙区はたった2人だ。小選挙区だから当たり前なのかもしれない。
小選挙区制度で、9党の政策を聞かされても仕方がない。
ほとんどの選挙区は9党の一部の何人かが立っているだけ。
この制度は破綻しているのではないか。

小選挙区制度で、野党協力などやってはいけない。
そんなことをしたら、政策がどう協力されているのか、わけがわからなくなる。
あくまでも自分たちの主張をして、ダメだったら退場しないといけないと思う。
そうしないといつまでもたくさんの党が林立して、2大政党にならない。

大体の2大政党制というのは、大きな政府か、小さな政府か、高福祉高負担か、低福祉低負担かという選択になるのだと思う。
しかし、今の日本ではどうなっているのかわからない。
無責任な野党は高福祉低負担と言っているが、そんなことはできないのが当たり前。
でも、そういう大衆に迎合した党にも一定の票は入る。

数年前に民主党が政権をとったが、鳩山、菅という二人の党首、総理大臣は最悪だった。
いまだにその後遺症を引っ張っている。
それに変わる受け皿はまだ出てこない。

こんな状態で、小選挙区をやってもダメだと思う。
入れる人がいない。
だからといって、国政選挙だから行かないと仕方がない。

こんなことをやっているから、政治に関心がなくなる。
当然の帰結だ。

たくさんの党がいていいなら、中選挙区制に戻すべきだ。
そうすれば、もう少し選挙に興味も持てる。

小選挙区制を続けるなら、入れる人がいない、ということで白票を入れた人の票を何らかのカタチで評価すべきだ。
白票が過半数になったら、その選挙区は当選なしにするというのもいいアイデアだ。
そうしたら、国会議員も減ってちょうどいいだろう。
投票率も上がるはずだ。

ぜひ、そうしてほしい。

| | 考えたこと | 22:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
昭和の日本映画
昭和の日本映画というと、東映のヤクザ映画が思い浮かぶ。
前にも書いたが、一世を風靡した。

あの頃は、今のように映画館で座席を予約したり、始まるまで待つというような入れ替え制ではなかった。
いつでも映画館に入って、いつでも出られた。
もちろん、途中から見るのが嫌な人は終わるまで待ったが、忙しい人は途中から見て、見たところまで見て帰っていた。
そんな時代だった。
みんな忙しかったんだろう。

あの時代のヤクザ映画というと、古くは鶴田浩二、高倉健、藤純子が出ていた任侠もの。
当時は今のヤクザではなく、任侠だった。
任侠道という道があった時代。

「堅気の衆に迷惑をかけてはいけない」というのが決まり文句。

網走番外地という網走刑務所にちなんだ映画もあった。

藤純子主演の緋牡丹博徒は、博打場が舞台。
着物でツボを振っていた。もちろん、緋牡丹の刺青が肩のところに彫られている。
「入ります」といってサイコロ2つを指で挟んでツボに入れる。
ツボといっても、瀬戸物の壺ではない。そんなものは片手で振り回せない。
竹で編んだ壺皿のことをいう。
サイコロ2つを空中でツボに入れて、振りおろし、丁か半かを決める。
サイコロ博打のディーラーみたいなものだ。

それらが昭和40年台に流行った。
藤純子も高倉健も、刺青を入れていた。
今ほど刺青がポピュラーではなかったころ。
刺青を入れるのはヤクザものと決まっていたから、よかったのだろう。

その後1970年代になって、実録物のヤクザ映画が流行った。
こちらは本物のヤクザが描かれた。
任侠からヤクザに変わったということだ。
ここで菅原文太が出てきた。

高倉健の追悼で晩年の山田洋次の作品などが放映されているが、ぼくはやっぱり高倉健といえば任侠映画だ。
中高年の世代の多くの人は、ヤクザ映画をやった高倉健を知っていて、その彼が「幸せの黄色いハンカチ」などの人情モノに出ているから、感動するのだと思う。
彼から任侠の影を取り去るのは難しい。

人に歴史あり、ということだ。

その高倉健も亡くなった。
菅原文太も亡くなった。

昭和はどんどん遠くなる。


| | 考えたこと | 23:56 | comments(0) | trackbacks(0) |
なくなる仕事
現代メディアというサイトに、オックスフォード大学の教授がコンピューターが進化して、人間に取って代わる仕事というのを発表したと書いてあった。

記事はこう書く。

「コンピューターの技術革新がすさまじい勢いで進む中で、これまで人間にしかできないと思われていた仕事がロボットなどの機械に代わられようとしています。たとえば、『Google Car』に代表されるような無人で走る自動運転車は、これから世界中に行き渡ります。そうなれば、タクシーやトラックの運転手は仕事を失うのです。
これはほんの一例で、機械によって代わられる人間の仕事は非常に多岐にわたります。私は、米国労働省のデータに基づいて、702の職種が今後どれだけコンピューター技術によって自動化されるかを分析しました。その結果、今後10~20年程度で、米国の総雇用者の約47%の仕事が自動化されるリスクが高いという結論に至ったのです」

その記事でなくなると思われる職業は以下の通り。

銀行の融資担当者、スポーツの審判、不動産ブローカー、レストランの案内係、保険の審査担当者、動物のブリーダー、電話オペレーター、給与・福利厚生担当者、レジ係、娯楽施設の案内係・チケットもぎり係、カジノのディーラー、ネイリスト、クレジットカードの申込者の承認・調査を行う作業員、集金人、パラリーガル・弁護士助手、ホテルの受付係、電話販売員、仕立屋(手縫い)、時計修理工、税申告書代行者、図書館員の補助員、データー入力作業員、彫刻師、苦情の処理・調査担当者、簿記・会計・監査の事務員、検査・分類・見本採取・測定を行う作業員、映写技師、カメラ・撮影機器の修理工、金融機関のクレジットアナリスト、メガネ・コンタクトレンズの技術者、殺虫剤の混合散布の技術者、義歯制作技術者、測量技術者・地図作成技術者、造園・用地管理の作業員、建設機器のオペレーター、訪問販売員、路上新聞売り・露天商人、塗装工・壁紙貼り職人

当然なくなると思われる職業は、銀行の融資担当者などが代表的だろう。
融資先のデーターからリスクを判断して、結論を出すところまではコンピューターがやりそうだ。
もちろん、融資するかどうかの決定は別だろうが…。

スポーツの審判もある程度は、ビデオ+コンピューターなどで置き換えられそうだ。
ただ、審判もエンターテインメントの要因だとすると、これは難しい。

電話のオペレーターなども、コンピューターで対応が増えてくるだろう。
給与や福利厚生の仕事は決まりきった仕事が多いので、今でも外注されているが、これがコンピューターに置き換えられるということだろう。
データー入力作業員などは当然置き換えられる。

レジなどは、海外ではセルフでやっているところもあるくらいだから、機械になるだろう。
パラリーガル・弁護士助手というのは、弁護の資料を作ったりする仕事だろうが、これも判例データーなどをコンピューターが集めるのかな。

動物のブリーダーがなぜなくなるのか、これは疑問。
カジノのディーラーやネイリストなどは接客の部分があるから、難しいと思う。

まあ、これはアメリカの職業だから、日本ではどうなるかわからない。

でも、10年や20年のオーダーで、相当数の職業がコンピューターに置き換わるとは思う。
完全に置き換わらないまでも、コンピューターの指示にしたがって動くというような仕事は増えてくるだろう。
それほど、コンピューターの人工知能は進んでいる。

ただ、人と人とがコミュニケーションする仕事はなくならないと思う。
まだまだコンピューターはそこまで臨機応変にはできないだろう。

そんなことを考えると、人口が減るのもいいことだと思える。

20年後、はたしてどうなっていることか。




| | 考えたこと | 23:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
42
「42」という映画、WOWOWでやっていた。
何の番号かというと、野球の背番号だ。

1947年に初めてメジャーリーガーになった、ジャッキー・ロビンソンという黒人選手のことを描いた映画。
2013年の作品。

ドジャーズの会長を演じているのが、ハリソン・フォードだ。
これがいい味を出している。
いつも葉巻を持っている、ヘビースモーカー。
この人が、黒人を入れなかったメジャーリーグに初めてロビンソンを招き入れた。

1947年というと、第二次大戦が終わって2年目。
アメリカの黄金時代の幕開けの時代だ。
人種差別がまだまだ激しく残っていて、大リーグには黒人選手がいない。
でも、才能がある黒人選手はたくさんいたらしい。

いつの世も、最初の一人というのは大変だ。
フロンティア・スピリットで飛び込んでいかないといけない。

会長役のハリソン・フォードが言う。
「必要なのは、やり返さない勇気を持つことだ」
ロビンソンは最初はチーム内からの差別にあって、それから回りのチームからの差別にあう。
まだまだ女子トイレに”White Only"と書いてあった時代。
南部に行ったら、もっとひどい差別が残っていた時代だ。

それでも、だんだんとチームメイトがロビンソンの気持ちを理解して、一緒に野球をやろう、という気持ちになる。

不名誉な歴史だが、それをちゃんと映画にして残すところがアメリカらしい。

今でも、4月15日にはメジャーリーガーがみんな背番号42をつける。
ロビンソンの栄誉をたたえるためだ。

そして、42は唯一のリーグ全体の永久欠番になっているという。
こういうはからいが、アメリカの野球を国民のスポーツにしているのだろう。

そんな歴史があったことを伝えてくれる映画だった。

| | 考えたこと | 00:31 | comments(0) | trackbacks(0) |