考えたこと2

2024.9.24から、今までhttp:で始まっていたリンクが、https:に変わります。申し訳ありませんが、リンクが見られないときは、httpsに変えてみてください。
CALENDAR
<< November 2022 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
+SELECTED ENTRIES
+RECENT COMMENTS
+CATEGORIES
+ARCHIVES
+PROFILE
+OTHERS
認知症の予防
介護のプロが書いている記事を見た。

それによると、同じものを何度も買うとか、小銭が溜まって財布がパンパンになるとかいうのは、認知症になった証拠らしい。
たしかに、認知症の母も、一人暮らしの頃、そういうことになっていた。
もう買い物に行けなくなって、生協の宅配で頼んでいたのだが、自分で同じものを何度も頼んでしまって冷蔵庫が一杯になると言っていた。

ぼくが親の認知症になる過程を見てきて、本当に思うのは、「脳が現状に過度に適応すること」だと思う。
要するに、考えても仕方ないから、考えるのを止めるのだ。

認知症に唯一優位な対策は運動することだという。
それは運動することで、脳が活性化するからだろう。
外を歩くだけで、脳の機能をかなり使う。

障害物を避けないといけないし、今どこにいるかを意識しなければいけないし、人が歩いてきたらそれが知り合いかどうかをチェックしないといけないし、自動車や自転車は避けないといけない。
目線を動かすのも脳の働きだ。

それだけで、一日家にいてボーっとテレビを見ているよりも使う領域は格段に広い。
運動する、ということで使う脳の領域がどれだけあるか、を考えればわかる。

結局、使わなければ、その状態に脳は適応するということだろう。

介護付きの老人ホームに入ると、一人暮らしの時よりも格段に考えることは減る。
おまけに、骨折や大病をすると、それで行動が制約されて余計に脳を使わなくなる。

人は生きている間に脳の能力の半分も使わないという。
脳の能力はまだまだ拡大できるということは、使わなければ縮小するということだ。
もともと脳は使うためにある。
それを使わないとその状況に適応して、脳が考えなくなるのだと思う。

統計的に85歳以上の2人に1人が認知症を発症するとのこと。
65歳以上の15%が認知症だというが、65歳〜75歳の認知症は3%だけ。
結局年寄りが増えていくから、認知症が増えていくのが今の日本らしい。

認知症になりたくない、というなら75歳までに死ぬべきということだ。
そうすれが97%の確率で認知症にならないという希望は叶う。
長生きしないことが認知症の最大の予防策。

スマホ1台あればいろんなことが手軽にわかる時代になったから、人は考えなくなり、そのために認知症は増えていく。

これからもっとひどくなっていくだろう。

尊厳死についても、議論しないといけない。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
どう生きたいか
また、内科医の端くれアカウントのツイート。

「感染リスクだ感染対策だという話はキリがなくて、結局は医学的な問題ではなく、社会が感染リスクをどれだけ許容するかということ。
人間らしい生活は、あらゆる病原体の感染リスクに満ちている。
その一方でリスクを避けたり対策したりするとルールや規制まみれになり、人間らしい生活は失われる。」

まさにその通り。
欧米では感染リスクを許容して、感染対策のいろんなルールの撤廃をしているのが実情。
というか、感染のリスクよりも、完成対策の社会に対する「害」の方が大きい、という決断だろうと思う。

コロナ初期は感染リスクがわからないから、それを大きく見積もって対策をしたのが事実。
これはどこの国も同じだ。
ただ、欧米は単なる「お願い」や「要請」ではなく、法的に定めているところも多い。
だから、その法律を執行停止する、と政府が決めれば自動的に解除される。
それが今の欧米の状態だ。

ところが、日本は感染対策は全てお願いベース。
罰則はない。
なくても、勝手にマスク警察や「子どもが公園で遊んでる」など言いつける人もいて、「同調圧力」があるからいいのだろう。
日本の「同調圧力」は戦前と変わらない。
ずっと変わらない、日本の伝統なのだろう。

被害数を死者数でみると、日本は最も少ない国の一つ。
おしなべて、アジアの諸国は少ない。
それらの諸国でさえ、対策を止めている。
それでも、日本は感染対策をいまだにやめられない。

「社会全体でどこまでリスクを許容し、どこまで人間らしく生きていくか。今は「ただコロナを恐れよ」「常にコロナを気にせよ」のイデオロギーに国全体が染まり、極端にリスクを許容できない社会。「感染リスクがあるなら避けよ、対策せよ」これはもう純粋な科学の問題ではなく、イデオロギーの問題。果たしてこれをいつまで続けるか。その過程で何を得てどれだけのものが失われるか。広い視野で、長い目で考えないといけない。そしてどう生きたいか、何を大切にしたいか、どんな社会にしたいか。哲学レベルで考えないといけない。」

そういう哲学の問題になってきたのかもしれない。



| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 21:21 | comments(0) | trackbacks(0) |