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2022.11.03 Thursday
どう生きたいか
また、内科医の端くれアカウントのツイート。
「感染リスクだ感染対策だという話はキリがなくて、結局は医学的な問題ではなく、社会が感染リスクをどれだけ許容するかということ。 人間らしい生活は、あらゆる病原体の感染リスクに満ちている。 その一方でリスクを避けたり対策したりするとルールや規制まみれになり、人間らしい生活は失われる。」 まさにその通り。 欧米では感染リスクを許容して、感染対策のいろんなルールの撤廃をしているのが実情。 というか、感染のリスクよりも、完成対策の社会に対する「害」の方が大きい、という決断だろうと思う。 コロナ初期は感染リスクがわからないから、それを大きく見積もって対策をしたのが事実。 これはどこの国も同じだ。 ただ、欧米は単なる「お願い」や「要請」ではなく、法的に定めているところも多い。 だから、その法律を執行停止する、と政府が決めれば自動的に解除される。 それが今の欧米の状態だ。 ところが、日本は感染対策は全てお願いベース。 罰則はない。 なくても、勝手にマスク警察や「子どもが公園で遊んでる」など言いつける人もいて、「同調圧力」があるからいいのだろう。 日本の「同調圧力」は戦前と変わらない。 ずっと変わらない、日本の伝統なのだろう。 被害数を死者数でみると、日本は最も少ない国の一つ。 おしなべて、アジアの諸国は少ない。 それらの諸国でさえ、対策を止めている。 それでも、日本は感染対策をいまだにやめられない。 「社会全体でどこまでリスクを許容し、どこまで人間らしく生きていくか。今は「ただコロナを恐れよ」「常にコロナを気にせよ」のイデオロギーに国全体が染まり、極端にリスクを許容できない社会。「感染リスクがあるなら避けよ、対策せよ」これはもう純粋な科学の問題ではなく、イデオロギーの問題。果たしてこれをいつまで続けるか。その過程で何を得てどれだけのものが失われるか。広い視野で、長い目で考えないといけない。そしてどう生きたいか、何を大切にしたいか、どんな社会にしたいか。哲学レベルで考えないといけない。」 そういう哲学の問題になってきたのかもしれない。 |
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