考えたこと2

2024.9.24から、今までhttp:で始まっていたリンクが、https:に変わります。申し訳ありませんが、リンクが見られないときは、httpsに変えてみてください。
CALENDAR
<< November 2022 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
+SELECTED ENTRIES
+RECENT COMMENTS
+CATEGORIES
+ARCHIVES
+PROFILE
+OTHERS
離見の見
ぼくが落研で落語をやっていてよかったと思ったことの一つは、人前で話すコツがわかったことだ。
前にも書いたが、自分を離れて客席から見る、ということだ。

これは世阿弥の「風姿花伝」にも書かれているらしい。
ぼくは読んだことはないが、「離見の見」という。
自分で自分を見ることは「我見」で、自分を離れて客席から見ることが「離見」。
能の世界では、「離見」して客と一体になって見ることが大事。

まさに、落語をやっていて調子のいい時は「離見の見」だった。
落語をしている自分から、抜け出している自分がいる。
お客さんを見渡して、このあたりは笑ってないなあとか、この客は聞き入ってるなあとか、思う余裕がある。
余裕がなければ、「離見の見」にはならない。

そのためには、落語を話している自分が100%になったらダメだ。
余裕がないから、「離見」などできない。
これが「我見」だろう。

上手な落語家になるほど、話している自分の比率が下がってくるのだろう。
理想的には話している自分と完全に分離することだが、それは名人の境地だと思う。

亡くなった枝雀が言っていたが、理想は口座にいるだけで客も自分も笑うこと。
これも自分を離れて、客席と一体になって笑うということだろう。
自分と客席が分かれていては、一緒になって笑えない。

舞台や人前で何かパフォーマンスをする時は、「離見の見」が大事。
これは意外とみんな意識していない。

一度そういう経験をすれば、わかるのだが…。
世阿弥がそういうことを言っている、というのが面白い。

自分を離れる、という感覚。

これはある種の極意かもしれない。




| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:10 | comments(0) | trackbacks(0) |