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2022.11.10 Thursday
離見の見
ぼくが落研で落語をやっていてよかったと思ったことの一つは、人前で話すコツがわかったことだ。
前にも書いたが、自分を離れて客席から見る、ということだ。 これは世阿弥の「風姿花伝」にも書かれているらしい。 ぼくは読んだことはないが、「離見の見」という。 自分で自分を見ることは「我見」で、自分を離れて客席から見ることが「離見」。 能の世界では、「離見」して客と一体になって見ることが大事。 まさに、落語をやっていて調子のいい時は「離見の見」だった。 落語をしている自分から、抜け出している自分がいる。 お客さんを見渡して、このあたりは笑ってないなあとか、この客は聞き入ってるなあとか、思う余裕がある。 余裕がなければ、「離見の見」にはならない。 そのためには、落語を話している自分が100%になったらダメだ。 余裕がないから、「離見」などできない。 これが「我見」だろう。 上手な落語家になるほど、話している自分の比率が下がってくるのだろう。 理想的には話している自分と完全に分離することだが、それは名人の境地だと思う。 亡くなった枝雀が言っていたが、理想は口座にいるだけで客も自分も笑うこと。 これも自分を離れて、客席と一体になって笑うということだろう。 自分と客席が分かれていては、一緒になって笑えない。 舞台や人前で何かパフォーマンスをする時は、「離見の見」が大事。 これは意外とみんな意識していない。 一度そういう経験をすれば、わかるのだが…。 世阿弥がそういうことを言っている、というのが面白い。 自分を離れる、という感覚。 これはある種の極意かもしれない。 |
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