考えたこと2

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昭和の日本映画
昭和の日本映画というと、東映のヤクザ映画が思い浮かぶ。
前にも書いたが、一世を風靡した。

あの頃は、今のように映画館で座席を予約したり、始まるまで待つというような入れ替え制ではなかった。
いつでも映画館に入って、いつでも出られた。
もちろん、途中から見るのが嫌な人は終わるまで待ったが、忙しい人は途中から見て、見たところまで見て帰っていた。
そんな時代だった。
みんな忙しかったんだろう。

あの時代のヤクザ映画というと、古くは鶴田浩二、高倉健、藤純子が出ていた任侠もの。
当時は今のヤクザではなく、任侠だった。
任侠道という道があった時代。

「堅気の衆に迷惑をかけてはいけない」というのが決まり文句。

網走番外地という網走刑務所にちなんだ映画もあった。

藤純子主演の緋牡丹博徒は、博打場が舞台。
着物でツボを振っていた。もちろん、緋牡丹の刺青が肩のところに彫られている。
「入ります」といってサイコロ2つを指で挟んでツボに入れる。
ツボといっても、瀬戸物の壺ではない。そんなものは片手で振り回せない。
竹で編んだ壺皿のことをいう。
サイコロ2つを空中でツボに入れて、振りおろし、丁か半かを決める。
サイコロ博打のディーラーみたいなものだ。

それらが昭和40年台に流行った。
藤純子も高倉健も、刺青を入れていた。
今ほど刺青がポピュラーではなかったころ。
刺青を入れるのはヤクザものと決まっていたから、よかったのだろう。

その後1970年代になって、実録物のヤクザ映画が流行った。
こちらは本物のヤクザが描かれた。
任侠からヤクザに変わったということだ。
ここで菅原文太が出てきた。

高倉健の追悼で晩年の山田洋次の作品などが放映されているが、ぼくはやっぱり高倉健といえば任侠映画だ。
中高年の世代の多くの人は、ヤクザ映画をやった高倉健を知っていて、その彼が「幸せの黄色いハンカチ」などの人情モノに出ているから、感動するのだと思う。
彼から任侠の影を取り去るのは難しい。

人に歴史あり、ということだ。

その高倉健も亡くなった。
菅原文太も亡くなった。

昭和はどんどん遠くなる。


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