考えたこと2

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マイク・ロイコ 男のコラム2 河出書房
マイク・ロイコのコラム集の2冊め。
この人のコラムは本当にキレが良くて、面白い。
13歳からバーテンダーとして働いて、16歳で高校中退、以後教育らしい教育は受けていないとのこと。
文章を空軍にいるときに書き始め、基地の新聞に書くことで技術を学んだ、とカバーの裏に書いてある。

この人の皮肉とユーモアは本当に面白い。
コラムで料理されている本人以外はつい笑ってしまうだろう。
いや、本人も、ものによっては気づかずに笑ってしまうと思う。

こういう人は本当に足が地についているんだろう。
ある意味、偏見の塊と言っていいと思う。
本の中では、ヤッピーとかニューヨーカー、携帯電話などがやり玉に上がっている。
ロイコの好みに合わないと、容赦ない。
でも彼の書き方は、適度な皮肉を含んで、本人をも笑わせるのかもしれない。

理屈っぽいニューヨーカーを皮肉った「ニューヨーカー気質」では、ウッディ・アレンのコメディ映画がとても面白かったのだが、その面白い映画を「いい映画ではない」と言っている映画評論家のことを書いている。

「このポーリン・ケールの評を読んでみろよ」彼は、同誌の映画評論家ー多くの人間がその分野ではもっとも深い洞察力を備えていると考えている映画評論家ーの名前を口にして、どことなく気取った口ぶりで言った。たしかに彼女は深い洞察力を備えている、と私も思う。私はこれまでに何度か彼女の書いたものを読んでみたが、ほとんど一度として理解できたことがなかった。
 だが今回は、曲がりなりにではあるが、私にも彼女のいうことが理解できたような気がした。どうやら彼女は、アレンの新作が気に入らないらしく、その作品を「鼻につく」映画だといって酷評していた。
 そして、驚くべきことに彼女は、その理由を、ウッディ・アレンが観客を笑わせようとしているから、と述べていたのである。ケール自身の言葉を引用しよう。
「一九七〇年代、ポスト・フロイト派のコメディアンとして映画会にデビューしたウッディ・アレンは、みずからの不安を彼一流の道化に昇華して表現してみせた。彼は、みずからの性格不安の意識をユーモアのベースとして使った最初の表現者であり、彼が人間の心のドラマをコメディに仕立て上げてみせたとき、アレンは、すべての人間に向かって語りかけているように、もしくはジョークを発しているように思われた。映画ファンは、自分たちのもっている自己防衛本能や劣等感や始末に負えない野心をありのままに映し出している神経症的な傾向のあるウッディ・アレンの映画の主人公に同病者として親近感を覚えることができた。だが、文化状況が変化したいま、ウッディ・アレンはもはや、私たちが自分たちについて考えていることを私たちに教えてはくれない。彼と私たちのあいだにはいまや壁ができてしまっている。とくにこの『ブロードウェイのダニー・ローズ』では…彼は他のコメディのスペシャリストたちと同じように、壁の向こう側にいて、その壁をドンドンたたいて私たちを笑わせようとしている」
 ニューヨーカーの気むずかしさという言葉で私がいおうとしたことがこれでおわかりいただけたろうか?ここに、観客を笑わそうとして映画を作っている一人のコメディアンがいる。そして、人を笑わせることはコメディアンの使命である。もしコメディアンが人を笑わせられなくなったら、彼はすぐにコーンビーフをスライスする仕事に就いて生活の糧を稼がなければならなくなるだろう。
 だが、そうした考え方はニューヨーカーには通用しない。ニューヨーカーの観点からいうと、ウッディ・アレンは、もはや私たちが自分自身について考えていることを教えてくれなくなったから、堕落したということになる。
 ということは取りも直さず、彼らは長いあいだ、自分自身について考えていることを神経症的なコメディアンに教えてもらおうとしていたということになるが、もしそれが本当だとすれば、なるほどニューヨーカーという人種は並はずれて風変わりな人間の集団である。
 考えてもみるがいい。お互いに会ったこともないというのに、私が自分について考えていることをうウッディ・アレンが教えてくれるなどということがどうしてあり得るだろう?
 これまで私は長年にわたって彼の映画を見つづけてきたが、自分が無意識のうちに自分自身について考えていることを彼から学ぼうと考えたことは一度もなかった。もし私が、自分について考えていることを誰かから学びたいと思えば、私は自分自身に問いかけを発するだろうし、夜遅い時間であれば、もしかしたらバーテンダーにたずねるかもしれない。」

ロイコの痛烈な皮肉の見せ場だと思う。
面白いものは面白い、という正直さが彼の「足が地についている」ところなのだろう。
ヘンな理屈をこねくり回す批評家のことを笑い飛ばす。
自分に正直、というところが彼の強さであり、面白さだ。

もう一つ、「独身男性のための食品購入法」というコラムでは、友人が家に遊びに来て、冷蔵庫が空であることに驚いてなぜか、とロイコに聞くところから始まる。

「おそらく、理解できないのは彼の責任ではないだろう。そこで私は彼に、「マイク・ロイコ流独身男性のための食品購入法」を説いて聞かせることにした。
 このシステムは誰にでもわかる原則にもとづいている。つまり、私はときどき食料品を買い込むがーそれも大量に買い込むがー一度買ったら、買ったものが全部なくなるまで絶対に買い物はしないのである。
 つまり、運の悪い友人は、折り悪しくたまたま私が、キッチンに残っていた最後の食べ物ーツナの缶詰と冷凍のワッフルーを食べてしまった翌日に訪ねてきたということになる。
「君のそのシステムの利点はどういうところにあるんだい?」と友人がたずねた。
 ひと口にはいえないが、この原則に従えば、まず第一に、年がら年中、買い物の煩わしさに悩まされることがない。多くても、私は月に一度しか買い物をしない。ときには、二か月近く買い物をしないこともある。
 第二に、多くの家のキッチンにはいつの間にかいろんなものがたまっていくものだが、わが家にはそういうことがまったくない。トマト・シチューやスープの缶詰の買い置きがキャビネットのなかでほこりをかぶっていることもなければ、朝鮮産のスモーク・オイスターが残っていることもない。冷凍チキンのバッケージがフリーザーの奥に入ったまま忘れ去られることもなければ、半分しか食べていないウェルチのグレープ・ジェリーの瓶が冷蔵庫に並んでいることもない。
 私のやり方に従えば、買ったものをすべて食べてしまわないかぎり、ふたたび買い物をすることはできないのだから、トマト・シチューの缶詰がたまることはあり得ないのである。
「きっとさぞ風変わりな食事をとっているんだろうな」と友人がいった。
 彼のいう通り、たしかにこれまで何度か、普通ではあまりお目にかかれない食事をとったことはある。もういつのことだったか忘れてしまったが、ある晩、キッチンへ行ってみると、残っている食材が、卵三つとマーガリン半分とたまねぎと小麦粉しかなかったことがあった。
 もちろん、それで、ごく単純にエッグ・フライを三つ作ることもできたのだが、私は、せっかくの機会なので、もう少し創造力を働かせてみることにしたのである。
 具体的にいえば、私は、小麦粉に卵とマーガリンと水と刻んだたまねぎを入れて混ぜ合わせれば、なにかできるのではないだろうかと考えて、それを実行に移し、出来上がった柔らかい塊を鉄板の上で伸ばして、なんらかのパンができることを期待しつつ、オーヴンのなかに入れたのである。
 しばらくすると、私の創造した食べ物は、オニオン・パンケーキに似た形をして、その姿を現した。そこで私は、残った二つの卵を焼き、それを、干からびた、厚い板のような、パンケーキに似た食べ物の上に載せた。
「なんだかグロテスクな食べ物だな」友人が気味悪そうにいった。
 そりゃあまあ、料理研究家のジュリア・チャイルドがディナー・パーティのメニューとして勧めることはないかもしれないが、それでひと晩空腹を感ぜすに過ごすことができたことだけはまちがいない。
 これで私のシステムの特長がおわかりいただけたのではないだろうか。このシステムは経済的であると同時にー食べずに終わるものはいっさい買わないのだから、このことに疑問の余地はないー革新的であることをも要求するのである。オニオン・パンケーキに似た食べ物のほかにも、私は、ある晩キッチンに、冷凍のほうれん草のクリーム煮ふた袋とプチ・トマトが三つと冷凍の鶏のもも肉しか残っていなかったときに、それでシチューを作ったことがある。それがどんなものになったかは残念ながらもう覚えていないが、ある種のヴィタミン価の高い食べ物になったことだけはいまでも自信をもっていえる。
「だけど、子供たちはどうするんだよ?子供にはそれじゃあ、あんまりなんじゃないか」
 友人はそういったが、じつをいうと、私がこの食品購入システムを採用することになった原因のひとつは息子たちにあるのである。
 こんなふうにいうとなんだか大袈裟に聞こえるかもしれないが、早い話が、私はある日、人間が物を食べるときの法則を発見したのである。(私はこれをロイコの法則と呼んでいる)。その法則とは、要するに、若い連中は、手間をかけずに食べられるものしか食べないということである。そしてその手のものをみんな食べてしまうと、また誰かが手間をかけずに食べられるものを買ってくるのを待って、それを食べつづけるということである。
 具体的にいうと、たとえば私が毎週買い物に行って、鶏肉五ポンドとスパゲッティ五袋とミート・ソース五缶と冷凍ピザ十個を買ってくるとする。そうすると、彼らは冷凍ピザ十個だけを食べて、あとのものはみんな残しておくのである。もちろん彼らは翌週も同じことを繰り返す。その結果、私は大量の鶏肉と大量のスパゲッティと大量のミート・ソースを食べることになり、彼らはいつまでたっても冷凍ピザばかりを食べつづけることになるのである。
 しかし、私のシステムを採用すれば、冷凍ピザを食べてしまったら、ほかの残っているものを食べるか、何も食べないかのどちらかの道を選択するしかない。
「それじゃあ、まるでサディストみたいに子供たちを痛めつけているようなもんじゃないか?」
 そう、まさしく友人のいうとおりだが、ほかに子供たちがなにかの役に立つだろうか。私はいまでも、ある晩、いちばん下の息子が帰ってきて、膝に皿を置いてテレビの前に座っている私を見つけた時のことを思い出して、思わずほくそ笑むことがある。

なんというのか、この本が「男のコラム2」という題名をつけられている(これは日本の企画だろうと思うが)面目躍如の文章だと思う。
自分でルールを作り、それを崩さない。
一度買い物をしたら、それがなくなるまで買い物をしない、というただひとつの原則。
ロイコのシステムは経済的(効率的)で、革新的である、という効果。
これが大事なのだ。
そして、それは息子たちの行動から導き出されたということだ。
原則どおりに実行し、それを崩さない。
そうすると、子供たちにもいいことがある、ということだ。

もちろん、ビールは別だ。切れたら買いに行く。

こういうコラムが38本入った古本だった。

日本ではほとんど翻訳本がない。
アメリカの一番面白い部分だが、何でないのだろうか。
もったいない。
こういうのを面白いと思う人が日本人に少ないのか。

頭がまだ使えるうちに、原書で読もうかと思う。




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