考えたこと2

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子どもの貧困率
先週、厚労省が国民生活基礎調査の結果を発表した(らしい)。

前にも書いたが、河合薫という人の記事に出ていた。
この人の記事はときどき見るが、鋭いところをついていることが多い。

今回の記事のなかで、河合さんは

・100万ドル(約1億円)以上の資産を保有する、日本の富裕世帯数は124万世帯となり、米国、中国に次いで世界3位。
・「子どもの貧困率」が16.3%と過去最悪を更新し、これは先進国でもトップレベル。
・グローバル化とは、デキる人“だけ”しか生き残れない社会に拍車をかけるモノ。一部の人と企業にしか利益をもたらさない。 そして、その戦いに敗れた人たちの子どもが、貧困になる。
・親が働いているにもかかわらず、子どもが貧困であるという現象は、世界的に極めて珍しい現象で、2008年のOECDのデータでは、働いている1人世帯の子どもの貧困率は、OECD加盟国中で最も高かった。つまり、働けど働けど生活は楽にならない、「努力するだけ無駄」な社会が、今の日本の姿。
・4月に文部科学省が全国学力テストの結果と保護者の所得や学歴を分析したところ、所得などが高いほど、子どもの正答率も高くなる傾向。

というようにまとめた上で、こう言っている。

「 完全なる負の連鎖――。「日本の貧困は生きていけないほど貧しくない」などと平気で口にする人たちは、この実態をどう受け止めるのだろうか。
 ブランド服に身をまとい、夏休みを海外で過ごす子どもたちがいる一方で、貧困の負のスパイラルに引きずりこまれる子どもたちがいる。書いているだけで、暗澹たる気持ちになってしまうのだが、子どもたちの6人に1人がこういった状況に置かれている。6人に1人。そう、6人に1人だ。
 政府は「子供の貧困対策」の大綱案をまとめ、月内にも閣議決定するが、その内容は「6人に1人」という危機感を、どこまで感じているのか少々疑問を抱くものとなっている。
 困窮家庭で育つ子どもの大学進学率、学校に配置するソーシャルワーカーの数などを指標とし、政策効果を検証することを提言し、無利子奨学金など学費支援の拡充や、児童扶養手当の支給年齢延長や増額などを盛り込んでいるが、具体的な期限や数値目標は記されていない。その財源の裏付けも曖昧である。」

アベノミクスで景気はよくなったというが、これは株を持っていたり、輸出企業に関係した人がメインだろう。
一方で、電気代やガス代、ガソリン代は上がる一方。
エネルギーコストはすべての生産活動や消費活動に効くので、もろに厳しくなる。
石油が上がるのは仕方ないとは思うが…。

先進国すべての傾向らしいが、二極化が進んでいる。
子どもの貧困率は1985年に10.9%だった。
それが2012年には16.1%になっている。
もちろん、子どもだけでなく、貧困世帯も増えているのだが、6人に1人の子どもが、年収122万という「貧困ライン」の下にいるということだ。

ぼくは昭和40年代に小学校の高学年だった。
小学校6年の時、先生は、「日本は資源も何もないから、人を育てないといけない。アメリカ人はお釣りの計算を足し算でやる。引き算ができないからだ。日本人は引き算でやれる。」「アメリカ人はソニーをアメリカの会社だと思っているらしい」と誇らしげに言っていた。

ぼくはそれを聞いて、子ども心に、何となくうれしくなったのを覚えている。

時を隔てて、昭和が終わり、平成も20数年を経た。
子どもの貧困率は上がり、「どうやって努力したらいいかわからない」という若い人が増えているという。

小学校の先生は忙しく、消耗する職業らしい。
燃え尽き症候群も多いと聞く。
学校の中は、非常勤の講師など、採用試験に通っていない教師も多いというのも聞いた。
教育委員会は無責任体制で、現場との慣れ合いが続いているとも言われている。

もういい加減に公教育を何とかしないといけないのではないか。
少子化で、少ない子供たちをどうやって育てるか、という議論が必要なのに、実態は全く逆だ。
問題は山積みだが、どこにも答えはない。

社会保障の問題にしても、子どもたちを育てないと、解決しない。
少ない人数で、多くの人を支えるためには、生産性を上げないといけない。
ホワイトカラーの生産性は日本が低いとも聞いた。

塾に行かなければ、勉強ができないとか、学校ではそこまで教えられないとか、そういう「言い訳」をやめて、真剣に公教育のレベルを上げないと、本当にエライことになるぞ。

そのためには、まず教員養成課程を何とかしないと…。
教える方を教えないと、教えられる方は変わらない。
教育システムをいくらいじっても、教える人を変えないと、何も変わらないと思う。
6.3.3を4.4.4にしても、一緒だ。
中高一貫や小中一貫などやっても、教師が変わらないと何も変わらない。
いろいろやることはあるが、まずは義務教育の教員養成課程を変えないと…、とぼくは思う。

何かと出てくる池田晶子だが、今回も最後に抜粋する。

「41歳からの哲学」より 請われて田舎の中学校の純朴な学生に対して、話をしに行った時に書いたもの。

「言うには、我が校の生徒はこんなふうだから、町の学校へ行くと、感化されて、たちまちに悪くなる。そうでなければ、外の風に耐えきれずに引きこもる。高校側は、免疫をつけてきてくれと言う。馬鹿を言うな。悪く教育しろと言うのか。
 悩みは深い。この世の中である。あの子供たちに未来はない。それで、「哲学を」ということだったらしい。私は納得した。つまり、外的状況に動じない、強い精神に鍛えたいと。
 その通りです、それこそが哲学の身上です。私は同意した。昨今の教育現場の風潮、何を勘違いしているのか、「よのなか科」?商売の仕方や金のもうけ方を、早いうちから教えることが子のためだなど、驚くべき勘違いである。世の中のことは、世の中に出てから覚えればよろしい。世に出る前には、世に出る前にしかできないことがある。それが、考えることである。徹底的に考えて、自分の精神を鍛えておくことである。その過程を経ることなく、世に出てしまった大人たちを見よ。世の状況に左右され、フラフラと動じてやまないではないか。それが見事な証左ではないか。・・」


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