インターネットで調べてみると、イギリスをはじめとする西欧の国々では、寝たきり老人というのは存在しないらしい。
そうなる前に、亡くなるからだという。
Webの記事を見ていると、そんな情報ばかりだった。
寝たきりになるような老人には延命措置をしない。
例えばイギリスでは、自力で食事できなくなった老人は治療しない。
スウェーデンやデンマークでも同じだという。
それが国民のコンセンサスに基づくものか、それとも社会保障費が足りないからか、それ以前の死生観によるものか、それはよくわからない。
Webページでは、どちらかというと国民のコンセンサスという論調が多い。
日本では高齢で口から食べられなくなった老人は、直接胃に穴を開けて直接栄養を流し込む例が多い。
これを胃ろうという。
2010年の予測では胃ろうの人が40万人いるとのこと。
療養型の施設とはいえ、ベッドが40万床埋まっているということになる。
参考までに、読売新聞の医療サイトの
ページを示しておく。
日本の国民皆保険の仕組みは、すでに経済的に苦しい。
もう社会保障費をそんなに贅沢に使っていられないと思う。
これは一つ大きな問題だろう。
若い人のカネを奪って、社会保障をしているという側面もある。
そして、介護の問題がある。
老々介護はまだしも、介護によって若い人の未来を奪うこともある。
それこそ、社会保障でやるべきだと思うが、そこまではお金が回らない。
最後に、一番大きな問題だ。
自分の最期をどうするのか、ということだ。
日本では国民皆保険の制度があり、判例もあって、殺人罪になるから、医師は患者を死なせられない。
だから、基本的に生かす処置をする。
穿った見方をすれば、手がかからずに金儲けができるから、胃ろうをするというケースもあると思う。
「胃ろうビジネス」と書いてあるページもあった。
一方で、「(欧米では)本人の意志に反して(あるいは確認できないのに)胃ろうを造ることは「人間の尊厳」を傷つけることになると認識されているそうです。」と書かれているページもある。
それは、一旦管を入れたら、抜けないだろう。
医師が入れた管を抜くのは殺人行為になる。
だから、そもそも胃ろうが「人間の尊厳」に反するのかという議論が必要だ。
日本ではとにかく「生かす」というのが最善の措置だというのが、今のコンセンサスかもしれない。
でも、そこで国民皆保険という制度を悪用し、金儲けの手段にしている輩もいるらしい。
患者本人の意志が明確で、もう自力で食べられないから胃ろうをしてくれ、というケースもあるにはあるだろう。
それはそれで選択だ。
75歳を過ぎたら、積極的に治療をしないという国もあると書いているページもある。
新聞の特集記事もあるし、問題意識を持った医者もいるし、記者もいる。
個人的に胃ろうはしないという確認をしている人もいるだろう。
でも、それがもっと表に出ないといけないのではないか。
今までは豊かだったから、医療の発達に伴って、誰でも生かすことができた。
でも、世界的にみれば、日本はおかしな国になっている。
日本の平均寿命が長いというのも、そのおかしなことの一つかもしれない。
世界一の長寿を誇り、国民皆保険制度を堅持し、CTスキャナの設置台数は世界全体の数の半分だそうだ。
それでいて、日本は医療に対する国民の満足度が低いという。
インドネシアの工業団地で、工場災害で身体に損傷を受けた人が、長いこと救急車が来ず、現地の人に聞いたら「あれはもう仕方ない」と言われた。
ぼくは、あの姿が忘れられない。
ぼくらは日本の豊かさに感謝しないといけないと思う。
若い人が結婚しなかったり、子供を作らなかったりするのは、未来に希望が持てないということもあると思う。
その原因の大きなものが、低成長の時代であり、世代間格差の問題だ。
もっと尊厳死について、考えるべきだと思う。
胃ろうのことについて書いてある
ページを見つけた。
参考までに。
そして、池田晶子の言葉を「ロゴスに訊け」から書いておく。
「ただ生きることではなく、善く生きることだ。」ソクラテスが喝破したのは、二千五百年前のことである。民主政治の堕落した当時のアテナイにおいて、快楽や金銭を人生の価値と思いなし、それらのために生きている大衆に対し、説くには、もしもそれらが価値であるなら、君が生きていることに価値はないはずではないか。なぜなら、それらがなければ君には生きている価値はないのだから。そして、もしも君が、生きていることはそれ自体価値であると思うなら、それらのことは価値ではないのでなければおかしいではないか。なぜなら、君が生きていることそれ自体が善いことなのだから。
留意してほしい。彼は、すべての人はただ生きているだけで善いことだと言っているのでは断じてない。善く生きている人にとってだけ、生きていることは善いことだと言っているのである。言うのもおかしなくらい、これは当たり前なことではないか。どうして、善く生きていない人にとって生きていることが善いことである道理があるだろうか!」
ぼくは、一人ひとりが、自分のこととして向き合わないといけない問題だと思う。