考えたこと2

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知らない代表校
今年も夏の高校野球のシーズンが来た。
いい加減な高校野球連盟が新聞社・放送局と惰性でやっている感じがあるが、それは長くやっていると仕方ない。
最近は特に聞いたことのない名前が増えた。

少子化に伴って、学校法人は設置校を増やす方向でやるしかない。
小学校だけやっていた学校法人は幼稚園や中学、高校に広げていくという戦略だ。
予備校も同じ。
あの、難関校向けの数学だけやっていたZ会が今や幼稚園もやっている時代。

今年の夏の兵庫県の代表は、神戸国際大付属高校になったらしい。
東洋大姫路まではついていったが、神戸国際大付属になるともうわからない。
神戸国際大学というのはどこにあって、どんな大学なのか調べてみた。

付属高校は垂水にある。
法人は八代学院。キリスト教系だ。
八代学院高校は聞いたことがあると思う。1963年に開学した。
それが大学を作った。
高校ができてから5年後。高校が順調に伸びたから、大学も作ったということだろう。

現在の大学の場所は六甲アイランド。
経済とリハビリテーションの学部がある。リハビリテーションは理学療法士の育成をやっている。
経済学部は経済経営学科と都市環境・観光学科の2学科で、定員割れしている。
学部の定員が1200人だが、1111人しかいない。

沿革によると、1968年に八代学院大学として開学。
都市環境・観光学科は元になる都市文化経済学科が95年にできたのだが、おそらく人が集まらず、それで2008年に名称変更している。
2002年に六甲アイランドに移って、キャンパスも一新したのに、定員割れか…。
苦しいなあ。

理学療法士も、元は専門学校でやっていたが、大学がやりだしてそれが増えた。
高齢化に伴って、理学療法士も増えていくから、2002年に神戸国際大も学部を作った。
こちらは集まっているところを見ると、なかなか先見の明があったのだろう。
でも、定員は320名だから、規模は小さい。
厚労省の基準などがあって、設備や実習先を考えると、大きなものは作れなかったんだろう。

昔の八代学院高校というと、まだ馴染みがある。
今でも男子校だ。でも、男子校で頑張っているのはエライと思う。
苦しくなると女子校も男子校も共学になる。

2001年に甲子園初出場だから、その数年前から募集が苦しくなり、広報のために野球に力を入れはじめたのだろう。
高校野球に出場する、という目標ができると、金と人脈さえあれば野球は強くすることができる。
高校にアスリートコースというのがあって、入学定員40名確保されている。
そこにスポーツが得意な生徒を集めているのだろう。
リトルリーグに精通したコーチや監督を集め、練習場を確保し、ちょっといい選手を集めて、練習三昧すればよい。
あとは運だろう。
高野連が一度は地元の選手を、と言ったが、結局は元よりもひどくなっている。
どこかの県では、地元出身者がいなかったりする。
関西弁を話す選手ばかりになっているところもあると聞く。

どうして、みんな野球やサッカーで広報しようとするのだろうか。
勉強を強くするのが、難しいからだ。
でも、勉強も目標を決めて、教員が頑張れば何とかなると思うのだが…。

だいたい、高校野球でこんな名前聞いたことない、という高校はこんな経緯でやっているところが多いと思う。
野球に力を入れること自体が悪いことではないが、学校自体が力を入れだすと、「高校野球」そのものが、なんか本末転倒みたいなことになってくる。

その道のプロになるのは、受験以上に難しい。
プロスポーツにつながるだけに、ややこしい利権も絡む。
だから、Jリーグのようにクラブチームで育成するほうがいいのだろう。

ぼちぼち高校野球も曲がり角に来ているのかもしれない。

| | 考えたこと | 22:47 | comments(0) | trackbacks(0) |
偏差値の何がいけないか
偏差値教育の見直しという話が日経に出ていた。

実際、大学に関わった仕事をしていて、偏差値の何が悪いかを考えさせられた。
これは簡単だ。
偏差値では集団の中での位置付けはわかるが、その集団の実力はわからない、ということだ。

偏差値というのは、平均を常に50にする。
そしてその平均から、どれだけ離れているかということを、数学的に表す。
対象となる集団を母集団と呼び、通常はこれがその試験を受けた受験生全体だ。
だから、母集団のなかで高いところにいれば、偏差値は60や70になるし、低いところにいれば、40や30になる。
でも、その母集団の実力はわからない。

例えば、英語の実力が毎年少しずつ上がっていたり、落ちていたりしても、それは偏差値には現れない。
平均値はすべて50だからだ。
だから、偏差値で世の中が測るかぎり、教育の問題は教育界しかわからない。
学んでいる生徒自身すら、自分たちの実力を知ることができないのだ。

例えば、内田樹のページによると、「大学サイドから見ると、新入生の英語力は年々劣化を続けていることは手に取るようにわかる。」と書かれている。
でも、教育界の外にいる者たちにとっては、まったくわからない。

算数も同じだ。
前に書いたが中部経団連の調査によると、80年代に9割ほどできた問題の正答率が、なんと4割になっている。

生徒も、同学年の中での位置付けしかわからない。
教えている先生方すら、だんだんと下がっている、という危機感が持ちにくい。
すべて入試は偏差値の世界だからだ。
平均値が毎年1点ずつ下がれば、10年で10点、20年で20点下がる。
それでも偏差値は変わらない。

それが偏差値の一番イケナイ点だと思う。

これを一番喜んでいるのは、文科省ではないか。
生徒たちの義務教育のレベルが下がっているという証拠がなくなるからだ。

いい加減に偏差値至上主義は卒業し、実際にできることを増やしていかないと、人材は育たない。
それを阻害しているのが「偏差値」というシステムなのだと思う。

| | 考えたこと | 00:44 | comments(0) | trackbacks(0) |