考えたこと2

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叔父の葬儀
叔父がなくなって、通夜と葬式に行ってきた。
おばさんは母の妹で、母が出席できないので代わりに行った。
おばさんの伯父さんはもう100歳を超えて、来ることができないので、従兄弟が代わりに出席。

こないだ書いた「長すぎる寿命」の状況だ。
今日はかろうじて親戚以外に叔母の知り合い夫婦2名が来ていた。

実家を引き払うときに、古い写真が出てきたが、その中の1枚にぼくが小学校1年のときに亡くなった祖父のお墓を建てたときの写真がある。
白黒の写真だが、そこには祖母の兄弟姉妹、そのつれあい、娘3人の夫婦と子供(その中の1人がぼくだ)など約20人ほどが写っていた。
祖父は60歳になるかならずの時に胃ガンで亡くなった。

今で言うと早い死だ。
早いからこそ、たくさんの人が集まった。
祖父は兄弟も多く、面倒見が良かったということもあるが、それでも親族が20人ほど集まったのはすごい。
昭和38年のことだ。

きっとあの頃はそれが普通だったのだろう。
叔母さんもその写真を見ていたらしく、今日その話になって、今とは全然違うなあと言い合った。

確かに、叔父さんもあと20年ほど早く亡くなっていたら、もっとたくさんの人が集まっただろう。
母も元気だったし、もう一人の叔母さんもその子どもたちも元気だった。
長すぎる寿命が寂しい葬儀を生んだ。

葬儀社も小さな部屋で家族葬がメインになっている。

斎場でも、家族葬と思しき少人数の集まりばかり。
1件だけ、バスでたくさんの人が来ていた。
偶然、遺影を見ると、やはり若い。
まだ学生だったろう。

早すぎる死には、やはりたくさんの人たちが集まる。
遅すぎる死は、もう儀式としての死なのだろう。

生きながら、ゆっくり死んでいくのだ。


| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:55 | comments(0) | trackbacks(0) |