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アクティブ・ラーニングその2
ケンブリッジで学んだ物理学者が、もう一度オックスフォードで教育社会学を学び、30歳で自らの経験を活かして、教育系のNPOを設立し、東洋経済に記事を書いている。
その人が、「子供たちの未来のために、自分らしく生き、自ら考え行動できるような教育を提供します」というような言葉に対して、警鐘を鳴らしている。

「聞こえはいいが具体的に何をするのかわからないこういった言葉を、マジックワードと呼ぶことにしよう。マジックワードは基本的に心地よい。合意形成のときには大きな威力を発揮するので、使い方によっては文字どおり「魔法」のような力を持つ。ちなみに、現在、行われている政策議論の中でもマジックワードはしばしば使われているのだが、具体性がないため、これが幅を利かせるほど議論自体は空転しがちになる。」

まさにその通りだと思う。
数年前に現れ、今大学で流行っている「アクティブ・ラーニング」という言葉も、マジックワードと化した。
文科省におけるアクティブ・ラーニングの定義は、「教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。」とある。
これだけ見ると、素晴らしい教授法だ。

しかし、これをやるためには学生側にそれなりの知識が必要であり、教員にもそれなりの知識とスキルが必要になる。
記事にも書いているが、マイケル・サンデルのハーバード白熱教室のような授業をやろうと思うと、学生も知識を詰め込むことが必要だ。

「あの放送では、授業の最も重要な部分を放送していない。それは、猛烈な議論に必要な、授業前のピースの詰め込みである。オックスフォードでは週に5コマほどしかなかったが、授業の前の膨大な読書のため、遊ぶ暇はなかった(ちなみに日本の大学は授業量が多すぎて内容が薄くなる)。ケンブリッジ時代も、バレーボール部の試合にさえ、チームメートたちが本を複数冊持参し合間に読み込んでいたのを鮮明に覚えている。「こういう授業いいな〜。こういう授業受けたい」と言うなら、本当の意味での授業の全貌を知ってほしい。たぶん、嫌になる。」

多くの大学では、この前段が不十分だったり、またはそもそもやらずに、いきなりアクティブ・ラーニングをやろうとしている。
ハーバードやオックスブリッジの授業が取り沙汰されるのは、そのレベルでないと授業が成立しないからだろう。
教員の熱意やスキルも必要だが、学生の方にも知識や問題意識が必要だ。
そこを飛ばして、アクティブ・ラーニングをやろうとしても、空回りになる。
それこそ、小学校の総合学習みたいになってしまうのだ。

この変形版がPBLと呼ばれるもの。
プロジェクト・ベースト・ラーニングというやつだ。
学生に課題をプロジェクトして与え、その解決の過程で学ぶというようなもの。
これも事前の知識の詰め込みがなければ成り立たない。
そんなことは教員はわかっているはずだが、これをいきなりやる授業が多い。
特に偏差値の下位の大学がこれをやりたがる。
補助金狙いということもあるが、それ以外にも理由がある。

下位の大学は学習習慣がない学生が大量に入る。
その学生たちに、少なくとも授業に興味を持ってもらうために、アクティブ・ラーニングやPBLというやり方は表面的にはいいのだろう。
学習習慣がついていないから、90分の授業は苦痛だ。
だから、外に行ったり、講義形式ではなくグループで何かをする。
それによって、見かけ上は(実際に受講生にアンケートを取っても)授業の質が上がったようになる。
ここに、アクティブ・ラーニングやPBLが流行る理由がある。

本当は、事前に知識の詰め込みが必要なのだ。
いや、実際にはそれ以前に、論理的に考える力や議論のスキルなども必要だ。
それを全部すっ飛ばして、アクティブ・ラーニングなどやっても仕方がない。

授業中にクリッカーという器具を学生に持たせて、教員が出した質問に対して二択の質問を出して、学生に授業に参加させる、という器具も出ている。
携帯を用いてやるようなアプリもある。
挙手させればいいのだが、手を挙げるという行為ができない学生が多いからだという。
それでアクティブ、つまり能動的な授業ということだから、本末転倒だ。
学生が能動的に取り組んでいれば、進んで手を挙げるに決まっている。
そんなバカバカしいことが、真剣にやられているのが実情。

こんなことをやっていると、下位の大学はどんどんダメになる。

今の教育学者や文科省の役人は、自分が受けてきた教育を忘れたんだろうか。
もちろん、悪いところもたくさんあったが、いいところもあったはず。

最後に記事のまとめの言葉を紹介する。

「一見、すばらしい理念は、マジックワードの魔法によって、現実的な問題点を見えなくしてしまう。マジックワードにはくれぐれも注意しなければならない。戦後、助走を始め、見事に欧米へのキャッチアップを達成した日本の教育は、1980年代に個性や想像力、主体性、生きる力という新たな学力観を求めて離陸した。しかし、いつの間にかそれは飛躍ではなくなっていた。今の教育改革論議から受けるのは、ただ、地に足がついていないという印象である。社会は過去の積み重ねを基に進化していくが、子どもたちはその積み重ねなど知らずに生まれてくる。子どもたちが受け取るのは、その時代の教育だけだということを忘れてはならない。」

本当に地に足がついていないと思う。

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