考えたこと2

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Iさんのこと
学生が高槻の会社を受けるというので、高槻つながりで、小学校の同級生のことを思い出した。
Iさんという女子で、中学に上がると同時に高槻に引っ越して、転校した。
ぼくは特に仲が良かったというわけではないが、Iさんは思えば親分肌のところがあり、ぼくは子分として見られていたのかもしれない。
なぜか、女子だったが今でも覚えているくらい仲が良かったのかもしれない。

なぜ覚えているかというと、Iさんは高槻に引っ越した年に交通事故で亡くなったからだ。
自転車で中学に通学しており、カーブの坂で自転車を押して歩いている時に、トラックが追い越しざまに幅寄せしてしまって、トラックとガードレールの間に挟まれて亡くなったということだった。
悲惨な亡くなり方だ。
これは本当によく覚えている。
当時は交通事故の死者も多く、交通戦争などという言葉もあった。

ぼくはその連絡を母から聞いて、葬儀に行くことになった。
一緒に行ったのは同じクラスだった3人ほどだったと思う。
一人はこれももう亡くなった男子の友人。
もう一人は思い出せない。

国鉄の東海道線に乗って、高槻で降りて、どうやって行ったのか、誰かが地図を持っていたのかもわからない。
そもそも、なぜぼくに連絡が来たのかも不思議といえば不思議だった。
小学校の同窓会の委員をやっていたからかもしれない。

たしか夏だったと思う。
休みの日なのに、中学の制服を着て行った。
よくわからないが、そういう正式な場であるということは、小学校1年の時の祖父の葬式でなんとなく知っていたような気がする。

正直に言うと、葬儀のことは全く覚えていない。
焼香をしたとも思うのだが、それも定かではない。
中学生のぼくにとっては、卒業後に転校して何ヶ月かたった小学校の同級生というのは遠い存在だった。
とにかく、覚えているのは彼女の死因と電車に乗っていったこと。
その車中で、なんとなくみんな黙っていたことが、印象に残っている。

小学校の1年よりも、中学生の方が「死」の意味は重い。
祖父が亡くなった時よりも、神妙だったと思う。
そのことを今でも覚えているということは、きっと初めて死を重く受け止めたということだろう。

その次に知人が亡くなったのは大学生になってからだ。

中学生という、なんだかわけのわからない時期に、転校した後亡くなった友人。
その死の意味などわからなかった。
もうすでに会えなくなっていたし、連絡もとっていなかった。
そのままいったら、消息も全くわからないまま過ぎただろう。

実際、すでに亡くなった同級生もたくさんいるだろうと思う。
いちいちそれに関わっていたら大変だ。
でも、何かの縁があって、関わることになった「死」には考えさせられる。

その人とはもう話すこともできないし、会うこともできない。
中学生だったぼくにとって、Iさんの死はどんな意味があるかすら、わからなかった。

でも、亡くなることによって、Iさんはぼくが生きている限り覚えている存在になった。
死の意味を知るのは、自分がなくなる時なのかもしれないが、Iさんはその時までの宿題を与えてくれたのかもしれない。


| hdsnght1957kgkt | 考えたこと | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) |