考えたこと2

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風刺マンガ
フランスの新聞社をイスラム過激派が襲った事件は、風刺マンガがきっかけ。

特にマホメッドを風刺画に描くというのが、偶像禁止の宗教であるイスラム教を刺激したらしい。
文化の違いといえばそれまでだが、イスラムの人たちには、異教徒がマホメッドをマンガで描くという行為が許せなかったのだろう。
もちろん、だからといって小銃で人を撃ち殺すということは許されることではない。
今回のテロでは、4人の風刺マンガ家も殺されたとのこと。

風刺マンガを見ると、結構きつい。
日本人の目から見ると、ちょっと「シャレにならない」という気もする。
きついマンガも文化の違いなのかもしれない。

欧米人はきつい風刺マンガを許している。
それは何故かというと、歴史的に権力者から「自由」を勝ち取ってきたからだと思う。
権力者を笑い飛ばし、また、権力者も笑い飛ばされるだけの懐の深さがあるのだろう。
批判は批判として受け止める。
そして、批判には批判をもって返す。
そうでなければ、前のブッシュ大統領やクリントン大統領などはマンガやジョークのネタにならなかったろう。
2代目のブッシュを扱ったジョークは強烈なものも多い。
そういう意味では、風刺は民主主義のバロメーターだとも言える。

しかし、イスラムの国々や中国などでは、それは反逆とみなされるのかもしれない。
日本も怪しい。
戦前の日本なら、許せないと思う人も多かっただろう。
戦後の民主主義教育を受けたぼくらは、そんなことで小銃をぶっ放すなどということはしないと思う。

でも、いくら欧米の国々の首相が「自由を守る」と言っても、イスラムの国々にはなかなか通じないのではないか。
欧米人にとって自明のことが、自明ではないからだ。
中東や中国の人たちにとって、「自由」を勝ち取ってきた歴史はないと思う。
だから、自由を守るための風刺という伝統もないのだろう。

風刺マンガを描いていた人たちは、自国の指導者たちの風刺もしていた。
批判すべきものは、どんな相手でも批判するというのが風刺。
風刺される方も、それを笑い飛ばすくらいの余裕がないといけない。

だから、この問題はすれ違うんだろうと思う。
歴史と文化が違う。

でも、テロリズムはいけない。
テロをやめるためには、欧米のメディアも少し歩み寄らないといけないのではないかと思う。

難しいのだが…。


| | 考えたこと | 21:58 | comments(0) | trackbacks(0) |
友達のリセット
幼なじみという言葉があるが、本当に幼稚園時代からの友達というのはどれくらいいるんだろうか。
自分の経験からいうと、1人しかいない。

小学校の友達は、その1人を除くと、1人だけ年賀状を出している。
中学校の友達は、今はいない。
高校の友達は、数人。
大学の友達は、毎年年末に会う2人、時々電話がかかってくる1人。
大学のクラブは数枚年賀状を出しているが、ここ数年会ってない。
やっぱり、就職してからの同期、先輩、後輩の中から、これは友人と決めた人が数人。これは濃い。ただし、向こうがどう思っているかはわからないが…。
近所の関係で、また数人。

思ったより友達は少ない。
属している組織が変わると、リセットされてしまう。
そういうもんだと思う。
いつまでも古い友達を引っ張ってはいかれない。
そんな風にして、人は一人になって、オトナになっていく。

最近の若い人を見ていると、ラインやらフェイスブックやらを使いこなしていて、素晴らしいと思う反面、逆にそれらに使われている人もいるのではないかと思う。
ああいうSNS(ソーシャルネットワーキングシステム)を使っていると、友達のリセットが難しいのではないか。
要は、古い友だちを捨てられない。
それはいいことなんだろうか。

絆とか、仲間とかを大事にする風潮だ。
友達、というものに至上の価値があるという価値観。
大学に入って5月に面談をやるときも、最初に聞くのは「友達はできた?」だ。
友達ができないと、学校に来なくなったりする。

ボッチという言葉は嫌な言葉になる。
ひとりぼっちのボッチだ。
ボッチ飯というのは、一緒に食べる仲間がいなくて、一人で食堂などで食べているということ。
ボッチ飯がイヤだから、トイレで食べる学生もいると聞く。

それほど友達が大事なんだろうか。

ぼくらの世代にはボッチ飯という言葉もなかったし、食堂で一人で食べることに抵抗はなかった。
一人で何かをするということに慣れるのが、大学時代と言ってもいいかもしれない。
もちろん、友達は大事だったが、四六時中一緒にいたいとは思わなかったし、そういうものだという共通認識があった。

小学校、中学校、高校、大学、勤め先と所属する組織が変わるごとに人は成長していき、友達も変わっていく。
それが発達というものだ。

気の合う友達はずっといてもいい。
しかし、自ずと新しい仲間の中で友達は淘汰される。
それが自然な姿だと思う。

もしも、SNSがそのジャマをしていると思うなら、やめたほうがいい。
そうでないと、オトナになれなくなる。


| | 考えたこと | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) |