考えたこと2

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ノンバーバルコミュニケーション
ノンバーバルコミュニケーションというのは、言葉意外のコミュニケーションのこと。
これが結構大事だ、という。

一度書いたが、メラビアンという学者が調べた結果、人が話をしている時の情報は、顔の表情55%、声の質や大きさ、テンポが38%、そして言葉の内容がたった7%ということらしい。
確かに、「これはペンです」という言葉も、にやにや笑って話すと、どうも嘘くさい、ひょっとしたらペンのような何かかと思うし、深刻な顔で言ったら、誰かの遺品かもしれない、と思う。
表情や声によって、伝達される情報は多い。

特に携帯メール世代の人たちは、あの短い言葉の断片みたいなメールでたくさんの事を伝えようとする。
そうなると、絵文字や顔文字が必要になる。
もっと字数を多くすれば書けるのだが、その代わりに絵文字で済ます。

携帯電話が生まれた頃は顔文字が主流だった。
海外のように顔が90度回転しているものもあっただろう。
そのうち、日本の顔文字がでてきた。
たくさんあって、どれがどんな顔だかわからないものもあるが、バリエーションが増えてきた。

さらに、それでは飽き足りなくなって、オリジナルの絵文字ができた。
電話会社、電話機によって、いろいろと違うが、最新のものは絵が動くタイプが増えた。
背伸びしたりかがんだりしているものや、くるくる回っているものなど、いろいろある。

そのうち、絵文字だけで会話ができるようになるかもしれない。

しかし、実際に絵文字が増えたという事実は、それだけ言葉でのコミュニケーションの能力が落ちたということだろう。

これは何離れというのだろうか。

言葉離れとでもいうのか。

もっと言葉を信頼して、意味をすべて伝えるような言葉の使い方をしてほしい。

このごろ、ぼやいてばっかりだが…。



| | 考えたこと | 22:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
買ったらしまいの時代
消費者の目線の話が続き。

最近は学校に持って行く雑巾までスーパーで売っている時代。

ぼくらが小学校の頃は、母が縫ってくれていた。
みんなの持ってくる雑巾は大きさもまちまちで、縫い方もいろいろあって、面白かった。
昭和40年代は、雑巾は作る時代だった。

でも、いつの間にかあっというものが売り場に並ぶようになった。
息子が幼稚園の時、お絵かき用の汚れてもいい上っ張りを母が作ってくれた。
しかし、そんなものも、もうスーパーに並んでいた。

ビデオが壊れた時、修理に持って行った。
8ミリビデオなど、何度も壊れて、何度も持って行き、しまいにもう修理できません、と言われた。
生産終了後、何年かたち、部品保存期間が過ぎたのだ。

VHSに至っては、修理するより買った方が安い、と言われる始末。
確かに、本体が安くなって、新品が買えてしまう修理代だったが、それでも一度は修理した。
古い方がしっかりしているとわかっていたからだ。
新品のビデオはシンガポール製で、軽い軽い製品だった。

セーターの毛糸もほどくのを手伝った。
小さくなったら、ほどいて編み直しをするためだ。
でも、いつしかそういう景色もなくなった。

そういう時代が1990年代に訪れた。
買ったらしまい、の時代だ。
大量生産、大量消費が礼賛され、自分で作るより買った方が安いという時代。

だから、カップルの間で、手編みのマフラーが珍重されたのだろう。

今はもう休み時間に編んでいる女子もいない。
買った方が早くて安いからだ。

教育ですら、商品になった。
だから、受験に損な世界史は履修しない。
消費者の立場で考えている。
学校の先生まで、そう思ったから、世界史の先生は文句も言わない。
一億総消費者の時代。

便利になったのは間違いない。
何でも早く、安く手に入る。
24時間売っていて、なんでコンビニみたいな狭いところに、自分のほしいものが置いてあるのか、という疑問すら持たない。
それが当たり前だから。

ぼちぼち便利さと引き換えに失ったもののことも考えた方がいい。


| | 考えたこと | 00:52 | comments(0) | trackbacks(0) |