考えたこと2

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専門家?
最近、テレビで「専門家」という言葉をよく聞くようになった。

こないだ、テレビで「情報社会心理学の専門家」という大学教授が出てきて、常識で考えたら当たり前だろう、というようなことを言っていた。
あまりに当たり前すぎて、内容さえ忘れてしまった。

おそらくテレビ局は何かについて、こういうことを言ってほしいという場合に、研究者データーベースでその筋の専門家を探して、電話をかけるのだろう。
日本の大学が80年代から増えて、倍以上になって、文系の大学教授も倍増した。
量が増えると質が落ちるのは世の常で、当然のことながら大学教授にもあてはまる。
下位校では、まともな学会誌に論文を出したことすらない人が教授になれる時代。
そういう人を選んで、ストーリ通りのことを言ってもらうのだろう。

その中でも心理学は特に分野が多い。
「心理学」の中の「社会心理学」というのはまだわかる。
そこに「情報」をつけて、「情報社会心理学」という分野は、一体何を研究するのだろう。

学問の世界がどんどんタコツボ化していっているのは事実。
以前勤めていた大学の教授に話を聞いたときに、文系の世界では今までやったことを研究するよりも、誰もやっていない分野を研究する方が博士論文を書きやすく、その結果どうしても細分化してしまうことを聞いた。
その研究の価値そのものよりも、新規性を問う方が簡単だからだ。
今はデーターベースが充実しているから、過去にやったかどうかはすぐにわかる。
結果的に、それを研究して一体どんな価値があるのかということはおざなりになる。
単に「いままでやっていないから」ということに価値を求めることになる。

もう一人、基礎研究の話をしている人もいた。
研究の価値について、基礎研究はわかりにくく、お金が付きにくいというようなことだ。
基礎研究をやっていく上では、それが将来どんなところで役に立つかを想像しにくいという。
ノーベル賞を受賞した教授もそういうことを言っていたはず。
今はそういう研究にお金を出す余裕がなくなっている、という指摘だった。

それは、以前に比べて日本は貧乏になったからだ。
高度成長の時代は終わり、低成長が20年以上続いている。
もうあんな高度成長の時代は来ない。
低成長が普通だと思わないといけない。
当たればラッキーというような研究にお金を出す余裕などない。

少なくとも、研究をしている本人がその研究の未来を想像出来ないのなら、それはやるべきではないだろう。
それは自己満足か、わかったからどうなん?という研究だと思う。

以前、鍛冶屋の研究をしている、という若い人の話を聞いた。
ほとんどいなくなった鍛冶屋を尋ねて、状況を聞いて回っている。
ぼくはそれを調べることにどんな価値があるのか、と聞いた。
鍛冶屋の歴史がわかる、ということだった。

鍛冶屋がどの年代まで一般的に存在し、それがどんな経緯を辿って衰退したかということを詳細に調べることはそれなりの価値があるだろう。
しかし、それをやるのなら、そこにこういう価値があって、これからの社会に役立つのだ、という説明が少なくとも自分だけはできないといけない。
研究している本人が「どう役立つかわからない」のなら、自費でやるべきだ。

今の日本の社会にはそんな研究があふれていると思う。
それは研究者が増えすぎたことが原因だろう。

大学教授には2種類あると思う。
研究に力を入れるべき人と、教育に力を入れるべき人だ。
もちろん求められているのは両方なのだが、上位の大学ほど前者になるのは事実。
研究者の背中を見て育つ学生なら、前者でもOKだろう。
下位の大学には、圧倒的に教育の能力が求められている。

ところが、大学教授になるには研究の能力しか求められない。
ここで大きなミスマッチが起こる。
教員と学生が求めるものが違うのだ。

ここに大きな大学教育の問題があるが、教育界のどこからも声が出ない。

どういうことなんだろう。



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