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2014.06.02 Monday
自分で考えさせる
こないだの小学校の授業の話の続き。
いきなり教材を見せられて、そこで「考えて発表する」ということをやらせるのは、いいことだろうか。 教育というのは今の時代、全ての人が経験している。 教育を受けたことがある、ということだ。 義務教育、高等学校は今の若い世代はほぼ経験しているだろう。 だから、自分の経験をもとに、今のことに意見を出すことができる。 でも、逆に言うとその経験を離れて意見を出すことが難しい、ということに気がつきにくい。 自分の学校経験に比べて今は…、というふうになってしまいがちだ。 でも、それは仕方がない。 人は自分の経験から離れて生きることはできないし、考えることもできないからだ。 でも、それは意識しておくことが必要だろう。 「教育」というのは、そういう類の問題なのだと思う。 そして、人は自分の経験に色をつけがちだ。 良い方にも、悪い方にも。無色の経験などない。そんなものは忘れてしまう。 これも仕方ない。 当たり前だが、人は主観的にしか経験できない。 そして、経験したものは、自分という色眼鏡を通さないと、語れない。 そう言うと、だいたい何でも自分の経験を通して話をするだろうから、切り離すのはムリだろうとも思うが、こと教育に関してはその色が強いと思う。 そういうことを考えたのは、こないだニュースでやっていた小学校の「子どもに考えさせる」という場面をみて、違和感を感じたからだ。 自分の小学校教育を顧みて、先生から「考えてみよう」ということをあまり言われた覚えがない。 言われたのかもしれないが、覚えてないということは、それが無色の経験だったということだ。 ぼくが経験した小学校の先生方は、年配の人が多かった。 見るからに20代という人は覚えがない。 いくら若くても、30代だったと思う。 1年〜4年は女性の先生、5、6年は男性だった。 要は戦前生まれで戦争を体験していた人だったということだ。 教える側も、自分の経験とは切り離せない。 戦前の教育を受けた先生は、自分の経験を良きにつけ、悪しきにつけ、位置づけながら戦後の教育をしていたのだと思う。 戦前の価値観でいえば、先生は偉い人だ。 高い志を持って、教育という大事な仕事をやっている人だと世間では思っていたと思う。 ウチの父は、デモシカ教師という言葉をよく言っていた。 教師にでもなろうかとか、教師しかなれないとか、そういう先生もいる、ということだろう。 きっと、これは父が教師という職業に思い入れがあったからだろうと思う。 父の祖父は田舎で先生だったらしいから、そういう思い入れがあってもおかしくはない。 デモシカ教師というのは、先生に対する悪口だが、それだけ先生に対する期待も大きかったのだろう。 晩年、退職したら塾をやりたい、と言っていたこともあったからなあ。 話がそれたが、覚えている限り、ぼくの知っている小学校の先生方は、そんなに「自分で考える」ということを言わなかった。 きっと教えることが大事だと思っておられたのだと思う。 ぼくは自分の受けた教育に満足している。 小学校の恩師に感謝。 |
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