考えたこと2

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ぐうたら人間学
ぐうたら人間学 遠藤周作 講談社文庫

ずっと前に買っていて、今回本棚から出してきて読んだ。
もう遠藤周作が亡くなってだいぶ経つが、この本は1976年の出版だから40年前の本。
でも、そんなに古さを感じないのは、ぼくも同じ時代を生きているからだろう。

遠藤周作は1996年に73歳で亡くなっているから、この本は20年前に50歳前半で出されたということだ。
一番油が乗っているときだったと思う。
彼は72年にネスカフェの「違いの分かる男」の宣伝にも出て、マスコミでも有名だった。
そんな時期、彼が書いていたエッセイを集めて出版したのがこの本。

彼はフランス文学を修めたのだが、その先生の話や言った言葉が「狂った秀吉」というエッセイに出てくる。

「遠藤君、人間の一生で一番生きるのがムツかしいのは老年です。若い時や壮年時代は失敗しても社会が許してくれます。まだ役に立つからです。しかし、役にたたなくなり、顔も体も醜くなった老年には世間は許してくれません。その時、どう美しく生きるか、今から考えておきなさい」

持つべきものは師だ。

「年をとりました」という項では、今まだ健在の佐藤愛子の話が出てくる。
当時は彼女も50代になるかどうかというところだろう。
電話での会話だ。

周:「なに今してんネン」
愛:「なにも、してへん。テレビで「ガメラ対ギャオス」いう子供映画、見てるネン」
周:「あれ、おもしろいわ。亀のおばけの出てくる映画やろ。働かんのか」
愛:「原稿用紙、見るのイヤになってん」
周:「年やなあ。ぼくかて、もう駄目や。この頃、溲瓶(しびん)枕元においてんのや。年で便所が近うなったさかいなア。あんた、まだ溲瓶使うてへんのか」
愛:「まだや。でもあの溲瓶をつかう音、ええもんやわ。人生のわびしさがあるわ」
周:「君も…年とったなあ」
愛:「何、言うか。あたし、まだ若いつもりやッ」
周:「若うないで。若うないで。若い頃の君やったら、司葉子さんや犬飼智子さんを狙うた泥棒がイの一番に入った筈や。あの泥棒は美人好みやさかい、彼が避けて通るようになったら、もう年とったことやがな」
愛:「何、言うか。一週間のうち、必ず泥棒に入らしてみせるから」

当時の様子が伺えて面白い。
司葉子が出てくるところが昭和だ。

「死について」という項では共感できる話が出てくる。

「あなたは自分が死んだ翌日も空が晴れ、街には自動車が列をなして走り、テレビではC.Mのお姉ちゃんが相変わらず作り笑いを浮かべて唄を歌っているのを考えると、妙に辛く悲しくないだろうか。あなたの死にもかかわらず、世界が相変わらず同じ営みをつづけているのだと思うと悲しくないだろうか。
 当たり前の話だって。もしそういう心境をお持ちの方なら、悟りをひらいた方だ。たしかに我々が死んだって、社会や世界は昨日と同じ営みをつづけていくにちがいないのだが、それを思うと、やはり何だか辛く悲しいのは人情なのである。」

そういう思いは誰しもあるだろう。
会社の先輩が、若くして父親をなくしたのだが、父が亡くなった日も空は晴れて普通の日だということが何故か不思議だった、と言っていた。
そういうものだ。

こういうちょっと昭和の香りがするエッセイがたくさん載っている。

元々はキリスト教の純文学の人なんだが、こういうざっくばらんな「ぐうたら」シリーズの方が有名になった。

生きている間は読まかったなあ。

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