考えたこと2

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公教育の重要性
小学校や中学校のレベルが下がると、どんなことが起こるか。
塾に行ける人が成績が良くなる。
つまり、塾の月謝を払える人が成績がよくなって、その後の人生で有利になるということだ。
しかし、もはやそれだけではない、と今朝の日経に出ていた。

「学校の現場では、小学校低学年レベルの算数ができない、アルファベットも全部言えないといった中学3年生が数多くいる。小学6年生の時点で、子どもの学力は親の所得ときれいに比例している。また、低所得層が1日3時間以上学校外で勉強しても、高所得層の学校外で全く勉強しない子の学力に及ばないことが報告されている。換言すれば、努力では挽回できないほどの社会経済階層による格差が生じてしまっている。」

残念ながら、書いている人の専門は「社会政策、貧困研究」らしく、「社会経済階層による格差」で全てを説明してしまっている。
でも、一番の問題は、小学校で教育ができていないということだ。

ぼくはそういう格差があっても、ちゃんと教育できるところが公教育の意味だと思う。
だから、親に通わす義務があるのだ。
いくら社会経済階層があっても、平等に教えてくれる場所が公教育であり、少なくともそこに通っていればそこで明らかな格差がついてはいけない。
それが公教育の責任というものだ。
そこを担保していないと、公教育とは言えないと思う。
大学などに補助金を出すのをやめて、もっと初等教育にお金を出すべきだ。

今NPOなどが,学校外でそれを補完する仕組みなどを作っているが、それらは必要悪だと思う。

塾が出来た当時、学校の先生は塾を馬鹿にしていた。
長いこと、塾は教育ではないと言われ、影の存在だったと思う。
それがいつからか、表舞台に出てきた。
それは公教育の質の低下と相関しているんだと思う。
そこを誰か分析してくれないか。

ぼくらが小学校のころ、先生は恐かった。
貫禄があったと思う。
問いかける授業はやっておらず、教壇の上で板書して教えてくれた。
先生はエライものだと思っていた。

ぼくは現場を知らないが、そういう授業をやっていないのではないか。
いつからか、教壇は先生が上だということを示すからダメだといわれ、なくなった。
いったい、誰が言ったんだろうか。
今の親の世代はきっと教壇は必要なものだと思っているだろう。

そのうえ、問いかけや話し合いが重視され、教えることが軽んじられている。
ちゃんと教えて、何度もドリルをする。
そういう汗を流しているんだろうか。

事務が忙しければ、事務を入れるべきだ。
コンピューターが使えなければ、そういう事ができる人を配置したらいい。
なんでも先生でやろうとするのが間違いだと思う。

そうしないと、本当に格差を再生産することになる。
教育は国の力だ。
江戸時代に文字の看板を立てて、庶民に藩令を伝えることができたり、明治時代に海外から来た人が、日本では社会階層が低い人でも新聞を読んでいることに驚いたという話を聞いたことがある。
それが明治維新を成功させた要因の一つだろう。

ただでさえ少子化で生産年齢人口が減っていくのだから、早く何とかしないといけない。

もう時間はないぞ。



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