考えたこと2

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科学者は憧れ
iPS細胞でノーベル賞を取った山中教授が語っていた。

「日本が生きていく大きな道の1つは科学技術立国だと考えています。研究者や技術者はみな、科学技術立国たる日本を背負っているのだと自負しています。若くて柔軟な人が次々と研究に従事するようになれば、もっと伸びていくでしょう。」

これはぼくらの時代に教育を受けた人たちは、みんな聞かされたことがある。
日本には資源がない。
だから、知識が要るのだ、ということ。
もっともなことだ。

ぼくの小学生時代は、まだ科学者という人たちが尊敬を集めていた。アトムの天馬博士、お茶の水博士、サイボーグ009のギルモア博士、エイトマンの谷博士など、子どものマンガやアニメに科学者が活躍していた。
科学者はエライ人だったし、科学はぼくらを救うものだった。
だから、科学者は憧れだった、と言っていいと思う。

「米国は日本の逆です。医師よりも研究者の方が社会的地位が高い。ハードワークなのは日米同じですが、ちゃんとした家に住んで、ホームパーティーを開いて、楽しく暮らしている人が多い。給料そのものも高く、ベンチャー企業とのつながりも強い。
 ですから、米国では研究者が憧れの職業なのです。「私も一生懸命研究して、あんな先生になりたい」と子供が思い描いている。子供は憧れから将来の夢を見ます。」

現代のアメリカの話。
日本では職業欄に医師と書く方が、研究者と書くよりも通りがいいらしい。もちろん、収入も高いとのこと。
ところが、アメリカでは違うという。
これは、アメリカの研究者、あるいはアメリカの大学が日本のそれとは考え方が違うからだろう。

日本の研究者というと、タコツボの中で仕事をしている、というイメージがある。
外部とのつながりも薄く、いつの間にか「変人」というイメージさえある。
それを大学という組織が認めているという図式。
日本の企業社会では、「博士は使い物にならない」といわれている。
それはこの大学組織にも原因があるのだと思う。もっと社会的にならないといけないのだろう。

「大阪市立大学大学院に在籍中、助教授に言われた言葉が印象に残っています。それは、「阿倍野の犬実験をやるな」です。
 日本の研究の多くは、「米国の犬がワンと鳴いたという論文があるが、日本の犬もワンと鳴いた」というもの。さらに、日本の犬がワンと鳴いたという論文を見て、「阿倍野の犬もワンと鳴いた」と書く(編集部注:大阪市立大学医学部は大阪市阿倍野区にある)。
 研究者は油断すると、他人の方法論を真似て、阿倍野の犬のような論文を書いてしまう。こういう研究からは、イノベーションは生まれない。私は、本当に誰もやっていないことだったら、どんな研究でも価値があると思っています。だからこそ、若い研究者には、誰かのマネではないか、繰り返しではないか意識してもらいたい。本当のイノベーションは未知の領域でしか見つからないのですから。」

もちろん、これは正しいが、ちょっと異論がある。

誰もやっていない研究には、誰もやらない理由があるものもあると思う。
過去に誰もやっていない、ということだけで論文を書き、博士号を取る人がいるという。
もちろん、その論文を認める関係者たちが悪いのだが、「なぜ、今まで誰もやっていないのか」という事をよく考えないといけない。
そもそも、それを書く意味があるのか、ということだ。
そういう心性がタコツボという言葉を生み、実際にそれで博士号を取った人は使いものにならない、という事実が、現実の世界との乖離度を大きくしていく。
今や2万人弱の博士が職がなく漂っているという。

山中先生の言うことは正しい。
しかし、実際の現場で多くの先生方がやっていることはオカシイ。

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