最近、いろんな所で「ノートが取れない」という記事が出ている。
小学生、中高生、大学生、新入社員など、対象は様々だ。
ぼくは大学生を見ているが、びっくりするのは「自分で話せる内容が書けない」ということ。
一度
「文章がかけますか」で書いたが、話すことと書くことが全く別のことになっている。
話すことと聞くことはつながっているから、聞いたことが書けなくてノートが取れないのだろう。
黒板に書いたものを写すことはできるが、それを要約してノートに書くことはできない。
今の学校の授業は、科目が増えて教えることが多いために、先生も板書が追いつかず、プリントを渡してしまうということもあるのかもしれない。
実際ぼくもキャリアの授業ではプリントを渡していた。
板書が面倒なこともあるが、板書をしてもノートを取らない学生ばかりだったことが大きい理由。
課外のガイダンスでは、プリントを穴埋め式にして、書かせることもよくやった。
そうしないと、何も書かないからだ。
「ここにこれを書いてください」というと、始めて手が動く。
ラインマーカーを持っていても、「ここにマーカーでチェック」と言わないと、なかなか手は動かない。
大事なところにマーカーを引こうというと、文章全部にマーカーを引く学生もいる。
全部引いたら、全く引いていないのと同じだ。
大事なポイントに引いてこそのマーカーなのに、もったいない。
「AIvs教科書が読めない子どもたち」の著者の新井紀子が、インタビューで答えてこんなことを言っている。
「実は、今の子どもの多くが、中学生になってもノートが取れません。ノートの取り方自体がわからない。成績下位の生徒だけでなく、中の上の生徒でもそうなんです。板書を写させると、写すことに「認知負荷」がかかりすぎるので、先生の話が聞けなくなります。板書に認知負荷が全て持っていかれてしまい、先生の話が聞けない状態なのです。本来ならば小学校3、4年生くらいまでに、先生の話を聞きながらノートが取れるようになってほしいのですが、それが難しい状況になっています。」
その状況が大学生になっても、続いているということだ。
ぼくも、自分がガイダンスをやるときは、プリントを渡す。
プリントを作るのは面倒なのだが、ノートが取れないから、せめて何か残さないと、復習もできない。
話している時に「ここは大事」と言っても手を動かす様子がない。
そう言うより、「ここにマーカーを引いて」という方がいいのだ。
しかし、そう言われて引いたマーカーを、後で大事だと思って見るかどうかはわからない。
机の上にノートも出ていない学生もいる。
そんなふうにして、授業を受けているのかと思う。
高校まで、いったい何をしてきたのだろう。
新井紀子は「読解力」について危機感を持ってこんなことを言っている。
「私たち世代(40代以上)は主に家庭の会話とテレビとラジオから語彙を獲得してきました。例えば「水戸黄門」を見ていたから、印籠とかお代官をある程度共通認識として知っていた。「まんが日本昔話」の視聴率は30%程度でしたから、就学援助を受けている家庭も含めてほとんどの子どもが見ていました。ラジオとテレビには、階層に依らずに語彙量を揃える上では、メリットがあるんですね。
ラジオとテレビ離れがここ10年で一気に進み、みんなが同じ語彙を持っているという前提は、瓦解したと言っていいと思います。
かつてはラジオやテレビの天気予報が「今日は雨が降りそうだから傘を持って行きましょう」とか、「今日は10度下がりそうだから、1枚多く着ましょう」と言うのを聞いて、共通の行動につながっていたと思うんです。
今おそらく多くのお母さんは天気予報をスマホで見て判断をする。それを子どもは共有できない。常識による推論、という共通認識を持つことがとても難しい時代になっています。」
就職についても、テレビ離れの影響は大きい。
ぼくらはCMを見て世の中にどんな会社があって、何をしているかを学んできた。
今はそれがなくなって、トヨタが何をしている会社かがわからない学生もいる。
そういう常識が通用しなくなっている。
インターネットは知らず知らずの間に、世の中を変えているのだ。
「ノートが取れない」問題の根は深い。
新井紀子、頑張れ。