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2008.05.23 Friday
勝ち負け
勝ち負け
勝ち負けはわかりやすい。 だから、スポーツが好まれるのだと思う。 得点で競ったり、タイムで競ったり…。 大のオトナがスタンドで見ていて、勝ち負けでケンカまでするくらい、熱中する。 柔道はわかりにくくなった。 有効とか、指導とか…。 審美的なものもわかりにくい。 フィギアスケートなどは、その一つ。 だから、ジャンプの回転数が競われるのか。 仕事でいうと、売り上げとか、新規顧客の獲得数とか、クレームの数とか、数字になるものは、勝ち負けがハッキリする。 (これも、対外的にはごまかしもあるのだが…) 結局のところ、社会に出たら、勝ち負けで判断されることがほとんどだ。 たとえ数字にならなくても、誰がどれだけの仕事をしたかは、ある程度経験的な確かさをもって判定される。 平等ではない。それは当たり前だ。 一方で、今は小学校で勝ち負けをハッキリさせるのがよくないということで、タイムを計って、似たようなタイムの子どもにかけっこをさせる時代。 どのセンセイがどれだけよく教えたか…というようなことも判断されない。 学校の中は、驚くほど平等だ。 でも、そんなセンセイが内申書を書く。 今は相対評価から絶対評価になったりしているが、それでも内申書は平等ではあり得ない。 統一テストなどをやると、序列化が起こる…というのが決まり文句。 序列化というのは、まさに勝ち負けのことだ。 それはイケナイという。 人生は選択の連続だ。 とり得る道はいくつかあっても、一つしか選べない。 やり直しもきかない。 時間の流れの中で、あることを選択し、あることは選択しないというのが、生きるということだろう。 そして、何かを選択することというのは、多くの場合序列化していることだ。 一番を選ぶのか、二番を選ぶのかは別だし、何を基準に序列化するかは別しても…。 生きることの根幹の部分を否定してはイケナイと思う。 その中に浸っている人たちはよいが、そこから出ていかないといけない人たちはかわいそうだと思う。 |
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