考えたこと2

2024.9.24から、今までhttp:で始まっていたリンクが、https:に変わります。申し訳ありませんが、リンクが見られないときは、httpsに変えてみてください。
CALENDAR
<< July 2006 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
+SELECTED ENTRIES
+RECENT COMMENTS
+CATEGORIES
+ARCHIVES
+PROFILE
+OTHERS
校歌
中学一年の次男が、明日は音楽の試験だという。
一学期は何をやったのか?と聞いたら、校歌の練習をしたらしい。
そしたら、歌詞のテストがあるのではないか?というと、「そういえば、そんなことを言っていた…」とのこと。
いい加減なところは誰に似たのか…。

校歌、というと一番よく覚えているのは小学校の校歌。
中学や高校は3年間だったが、小学校は6年間だったからか、よくおぼえている。
とはいうものの、二番、三番になると思い出せない。

幸い、小学校は地震で潰れたりしたものの、まだあるので、ホームページを見てみたら、歌詞が載っていた。
歌詞のページに入ると同時に、懐かしいピアノ伴奏で、歌まで流れてきた…。

神戸市立本山第二小学校 校   歌
作詞   竹中  郁
作曲   八木 真平

1. はばたくわれらは 元気なわれら
   胸をはって    光をあびて
   世界のひびきを  聞きとるわれら
   ひらいた窓に   吹きこむ風を
   まなこそそいで  聞きとるわれら

2. 朝にあつまる    足音は
   ひとつになって   すすみゆく
   行く手の山も    行く手の海も
   手と手とつないで  こえていく

3. わきたつわれらは   元気なわれら
   清くすんで      せせらぎたてて
   世界の流れを     行き行くわれら
   うかべた雲は     すがたのままに
   こころそそいで    見つめるわれら

(昭和28年制定)

昭和28年制定か…。僕が生まれる4年前である。
これから、日本が高度成長していく、その兆しがあったんだろうか、すごく前向きな歌詞だ。

「胸をはって、光をあびて、世界のひびきを 聞きとるわれら」である。
この当時にしたら、きっとモダンな歌だったんだろう。
2番は、メロディが違うのだ。文字数が少ないから、歌詞を見てもわかる。

中学校の校歌はまったく思い出せない。
WEBで調べていたら、本山中学の校歌が出てきて、ろくろを回すとか、陶工とか、何でかな…、と思ってよく見たら瀬戸市立本山中学だった。
すぐにオカシイとわからないくらい忘れている。

小学校の頃は、まだまだ素直だったから、大きな声で歌ったことを思い出す。
小運動会、大運動会、音楽会、学芸会…。ことあるごとに歌った(当たり前か)。

6歳から12歳で歌った記憶はまだまだ消えない。
いい歌だったと思う。

こういう、韻を踏んだ歌、いいですね。

小学校の校歌、おぼえていますか?



| | 考えたこと | 23:14 | comments(2) | trackbacks(0) |
釧路
昭和54年の11月、生まれて初めて飛行機に乗った。

会社の販売応援で1ヶ月北海道に行ったのだ。
北海道も初めてで、初めてづくしだった。

新入社員で北海道に行ったのが3人。

飛行機で並んで座って、初めて浮いた時のことは今でも目に浮かぶ。
ジャンボの小さな窓から、滑走路のアスファルトが離れていって、伊丹の市街地が見えた。
飛行機に乗ると、アメやジュースがもらえる…ということにもびっくりした。

千歳に着いて、一日札幌で泊まり、次の日に函館、旭川、釧路に別れて移動した。

釧路の営業所に行って、挨拶したら、営業所のドアの横に発泡スチロールの箱いっぱいの、ゆでたカニがあった。
驚いて、これ、カニですか?と当たり前のことを聞いたら、花咲ガニという種類のカニで、お得意さんがくれたとのこと。
欲しかったら、持って帰っていいと言われ、ビニール袋に入れて下宿に持って帰った。

塩ゆでで、すごくおいしかった。
さすが、釧路やな…と感心したのが初日。

7人所帯の営業所だった。
所長、主任、営業が2人、配達が2人、庶務が1人。

営業の若手のKさんが僕のお守り役になって、行き帰りの送迎をしてくれた。
当時、新婚で、すごくきれいな奥さんを紹介されたことを思い出す。
Kさんにはお世話になった。色々連れていってもらい、楽しかった。

販売応援といっても、新入社員の研修を兼ねたもので、受け入れる営業所にとっては足手まといの部分もあったろう。

売っていたのはタイヤ。初雪が降ると急に交換が増える。そのための応援だった。

初雪に備えて、倉庫に在庫を増やしていく。
その倉庫整理が主な仕事だった。

仕事の合間に、配達の若い人と倉庫の入り口に座り込んで話したり、キャッチボールをした。

いよいよ、雪が近くなり、大量に品物が着いて、みんなで遅くまで倉庫の整理をした。
その時に、主任が「男たちの旅路」を録画しておいて…と家に電話していたのは、前に書いた。

整理が終わって、へとへとになって、差し入れのジュースを飲んでいると、みんなが、「あー、こわいなぁ」「こわい、こわい」という。
キョトンとしていたら、Kさんが、「こわい、はわからないか?」と聞いたので、「何かおそろしいものでもあるんですか?」と聞いたら、笑われた。

配達の若い人が、「こわい、は疲れたという意味だ」という。

「関西では、しんどい、と言います」というと、みんな、使いはしないが、「しんどい」という関西弁は知っていて、「しんどい」、「しんどい」と口々に言った。
アクセントのおかしいところを、なおしたりして、うす暗い倉庫の片隅で笑いあったことを思い出す。

しんどいことを、こわい、と言うんや…と本当にビックリした。

他にも、厳しいことを、「ゆるくない」と言ったり、語尾に「べ」が付いたり、生まれて初めて関西以外のところで長く過ごし、楽しかった。
「この仕事も、ゆるくないべ…」

みんな親切だった。

初雪は日曜日に降って、「行きます」と電話したら、Kさんに「おまえは休んどけ」と言われ、一番忙しい日に応援できなかった。
営業所にしたら、わけのわからないヤツがチョロチョロしたら危ない…ということが、今ならわかる。

営業所から帰る時に記念写真を撮ったはずだが、どこかにいってしまった。

Kさんとはその後ずっと年賀状のやり取りをしていて、一度だけ神戸で会った。
もう15年以上前だろう。
根室で所長になった…たしか、そんなことだったと思う。

それから数年して、喪中欠礼のハガキが届いた。
奥さんからだった。

時間軸の上を人生という曲線がミミズのようにウロウロしている。
僕の曲線とKさんの曲線は昭和54年の11月にぶつかって、重なり、そして離れていった。
片方の曲線は途切れて、もう片方はまだ動いている。

その片方の線も、いつかは切れる。

人生は、不思議なものだと思う。



| | 考えたこと | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) |