考えたこと2

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日本語の難しさ
日本語の文型は、述語で3つに分ける考え方が通説になっている。
述語が名詞である文を「名詞文」、形容詞の文を「形容詞文」、動詞の文を「動詞文」と呼んで分ける方式だ。

「私はサラリーマンだ」というのは名詞文。
「私はきれいだ」というのは形容詞文。
「私は働く」というのは動詞文ということになる。

しかし、こんな文型を出されても、外国人が日本語の構造を理解するうえで、あまり意味がないと思う。
丸山有彦という人のページに、こんな記載がある。

「主述関係がない文は、どうしても論理的な基礎が弱くなります。日本語の場合、論理的な文構造を持っているにもかかわらず、その点の説明が十分にできていなかった、と私は考えています。具体的な例文で見てみましょう。引用は、山崎正和の文です。

1994年の夏、日本の広島市で「アジア・スポーツ大会」が開かれたが、そこには旧ソ連からキルギスタン人やタジキスタン人が参加したのに、ハワイやシベリアはもとより、オーストラリアからもニュージーランドからも選手は招かれなかった。

『文明の構図』の「東アジア文明の誕生」からです。この論文は、日本語、英語、ドイツ語にされ、そののち筆者が「補筆した決定稿」とのことです。翻訳に堪える内容を持った文です。」

この「1994年の…」の文には、主語がない。
あくまで、一般的に「…は」や「…が」で表される主語だ。

この文章をGoogle翻訳で英語にすると、

「In the summer of 1994, the ''Asian Sports Games'' was held in Hiroshima, Japan, and although Kyrgyzstan and Tajikistan from the former Soviet Union participated, there were participants from Hawaii and Siberia, as well as Australia and New Zealand. No players were invited.」

とAIが訳してくれる。
そしてこの文をもう一度Google翻訳で、日本語に訳すと、こうなった。

「1994年夏、日本の広島で「アジアスポーツゲームズ」が開催され、旧ソ連のキルギスとタジキスタンが参加したほか、ハワイやシベリア、オーストラリアやニュージーランドからも参加者があった。選手は招待されていなかった。」

完全に、元の文章の「ハワイやシベリアはもとより、オーストラリアからもニュージーランドからも選手は招かれなかった。」という部分が誤訳されている。
やはり元の文章の構造がわからず、だいぶ賢くなったAIでも翻訳できなかったということだ。

こういう部分が、日本語が論理的でないということが言われる原因なのだと思う。

丸山氏はこの文章には主語はないが、主体の概念が重要だという。
そういう考え方で、この文章を読んでいけば、正しく意味がとれるようになるのかもしれない。
しかし、日本語初心者がそんな難しいことができるとは思えない。

普通の日本人であれば、この文章が一番言いたいことである、「アジア・スポーツ大会なのに、オーストラリア、ニュージーランドからの選手は招かれなかった」ということは、ニュアンスで分かるのではないかと思う。
何となく、それが言いたのだろう、と思えるのだ。
もちろん、前後の文脈によるのだが…。

こういう部分が日本語の難しさの本質なのかもしれない。



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