考えたこと2

2024.9.24から、今までhttp:で始まっていたリンクが、https:に変わります。申し訳ありませんが、リンクが見られないときは、httpsに変えてみてください。
CALENDAR
<< November 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
+SELECTED ENTRIES
+RECENT COMMENTS
+CATEGORIES
+ARCHIVES
+PROFILE
+OTHERS
尊厳死
脚本家の橋田寿賀子はもう92歳。
彼女が8月に「安楽死で死なせてください」という本を出して、話題になったらしい。
夏にそんなことがあったとは、知らなかった。

イギリスあたりでは、国会でも議論されているという尊厳死だが、日本でもようやく議論できるような感じになったのかと思う。
日本は高齢化社会がどんどん進んでいくんだから、そういう議論は必要だ。

アマゾンの本の紹介ページでは、こう書かれている。

「著者が「終活」を始めたのは89歳の時でした。きっかけは著者のことをママと呼んで親しくしている女優の泉ピン子さんから「ママはもう90なんだから、じゅうぶん歳を取ってるんだよ」と言われたことでした。夫に先立たれ、子供もなく、親しい友人もいない天涯孤独。仕事もやり尽くし、世界中の行きたい所へも行きました。やり残したことも、会いたい人もいない、もう十分に生きたと思いました。遺言は80歳の時に作っておいたので、まずは物の整理から始め、今までのドラマの原稿、ビデオテープ、手紙類などを大量に処分しました。あとは人に知られずにひっそりといなくなり、死んだことも公表せず、葬式や偲ぶ会もしないと決めたのです。
ただ、唯一気がかりなことは、病気になったり、認知症になったりして、人さまに迷惑をかけることです。それは著者の尊厳の問題でした。死ぬ時に痛いのや苦しいのも勘弁してほしい。いつどうやって死ぬのかはやはり自分で決めたいと思った時に考えたのが「安楽死」です。しかし、現在の日本の医療現場で安楽死は許されていません。ヨーロッパの国やアメリカの州のいくつかで合法化されていますが、日本人が安楽死を希望する場合はスイスのNPOを頼ることになります。そのため著者は、日本でも法を整備し、自らの死に方を選択する自由を与えてほしいと主張します。もちろん、あくまで本人が希望し、周りの人の理解が得られた場合です。
著者が2016年12月号の「文藝春秋」に寄稿した「私は安楽死で逝きたい」は大きな反響を呼び、第78回文藝春秋読者賞を受賞しました。読者の方からは「私も賛成です」「法制化の旗振り役になってください」など多くの賛同の声が寄せられました。本書には、病気で苦しむ妻に悩む男性や、進行性の難病を抱える男性と著者との手紙の対話も収録しています。」

これを巡って、尊厳死や安楽死を法制化すべきか、というところが話題になっている。
死ぬ権利を法制化までするかということだ。
そう言う人たちも、個人として納得した死を迎えることは認めている。
でも、それを法制化することには問題があると考えている。

たしかに、死という個人的なものに関して、政治や行政が介入していいのか、という思いはある。
法律でどう規定するかにもよるが、場合によってはより個人の選択を狭めかねない。
でも、意識もなく生かされるというのも個人的には嫌だと思う。

今の日本では毎日3000人以上が死んでいる。
3000人には3000通りの死に方があるんだろう。
死に対する思いはそれぞれだ。

自分が努力して手に入れたわけではない命は、自分の所有物ではないから、「死ぬ権利」というものはない、という生物学者もいる。
まあそれも一理あるが、何となく割り切れない。

2014年の厚労省の調査では、死ぬ時の医療に関して、法制化をしないほうがいいという回答が、国民は53.2%だったが、医師は71.3%だったという。
普段から死に立ち会っている職業だから、そういう意見になるのだろうか。

家族の意志が尊重されるケースもあると聞く。
テレビに出ていた医師は、家族から「とにかく生かしておいてくれ」と懇願されると言っていた。

一方で、2025年には団塊の世代が後期高齢者になり、わずか3.3人の現役で支えないといけなくなる。
ぼくらの若い頃は10人以上で一人を支えていたのに、そのままの制度を保っているから、若い人の社会保障の負担は消費税などよりよほど大きい。
その上、医療費や社会保障費の負担も増大する。

だから、孤独死が増えていく、という議論もある。
介護をしたり、看取ったりする若い人も減るからだ。
そういう時代があと10年もしないうちに来る。

今の社会でこういうことが議論しにくいのは、「命は尊い」という意見がすべてに優先するからだと思う。
みんな命は尊いと思っているのだが、死について話をすると、そう思っていないかのように思う人がいる。
「君は命が大切だと思っていないのか」と言われてしまうと、反論するのに疲れるのだ。

どうにかしてそういう風潮を乗り越えて、議論を進めないといけない。
長生き至上主義から脱することだ。

亡くなった哲学者の池田晶子は著書の中でこう書いている。

 「ただ生きることではなく、善く生きることだ。」ソクラテスが喝破したのは、二千五百年前のことである。民主政治の堕落した当時のアテナイにおいて、快楽や金銭を人生の価値と思いなし、それらのために生きている大衆に対し、説くには、もしもそれらが価値であるなら、君が生きていることに価値はないはずではないか。なぜなら、それらがなければ君には生きている価値はないのだから。そして、もしも君が、生きていることはそれ自体価値であると思うなら、それらのことは価値ではないのでなければおかしいではないか。なぜなら、君が生きていることそれ自体が善いことなのだから。
 留意してほしい。彼は、すべての人はただ生きているだけで善いことだと言っているのでは断じてない。善く生きている人にとってだけ、生きていることは善いことだと言っているのである。言うのもおかしなくらい、これは当たり前なことではないか。どうして、善く生きていない人にとって生きていることが善いことである道理があるだろうか!



| | 考えたこと | 23:39 | comments(0) | trackbacks(0) |